少年プリズン

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三百四十六話

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 「いつまで僕の房に居座る気だヨンイル。即刻退去しろ」
 僕は不機嫌だ。
 理由は単純明快、眼前にある。堂々房の床に胡坐をかいて漫画を読み耽る図々しい道化こそが頭痛の種。
 「またまたあ直ちゃん、ひとりは寂しいくせに意地張って。ホンマはオレにいてほしい思うとるやろ」
 「思ってない」
 「相棒と別れたばっかでひとりは心細いくせにつれへんこと言いな、俺と仲良く手塚話でもして憂さ晴らそうや」
 「僕の生活空間を侵害するな。貴様が視界に入ると不快指数が上昇する。大体西棟の人間が東棟に居座るな、不法入棟者め。強制送還されても文句は言えないぞ」
 「強制送還できるものならしてみろっちゅーねん。手塚仲間のピンチに駆け付けへんかったら図書室のヌシの名が廃る」
 堂々巡りの問答に徒労感が募る。
 不毛な議論に嫌気がさしてため息を吐き、本から顔を上げる。強制労働終了後、夕食開始までの自由時間を図書室から借りた本を読んで過ごす僕の足元でヨンイルが読み耽っているのは低俗な漫画。二十世紀に流行った漫画をこよなく愛するヨンイルの現在のお気に入りはドラゴンボールらしく、床一面に足の踏み場もなく単行本が散乱している。
 貴重な読書時間をヨンイルに邪魔された僕は、努めて彼の存在を意識せぬよう本に目を落とすが内容がちっとも頭に入ってこない。
 本に集中できないなんて前代未聞の異常事態だ。
 対岸のベッドがやけに遠く感じられる。
 壁際までの距離は変わってないのに、几帳面に整えられたベッドがやけに遠く感じられる。僕の留守中にサムライが帰った痕跡はない。
 サムライが出て行ったときのまま整えられたベッドが視界に入るたび情緒不安定になる。
 サムライと別れてから三日が経過。
 あれからサムライとは会ってない。食堂で姿を見かけることはあったが、常に静流がそばにいた。僕の接近を阻む閉塞的な雰囲気の二人を見かけても、話しかけることはできなかった。
 僕はサムライに気付かぬふりをした。サムライもまた僕に気付かぬふりをした。三日前サムライに突然別れを切り出されて以来、僕は強制労働を終えてサムライ不在の房に寝に帰る単調な日々を過ごしている。
 サムライがいないことを除けば以前と何ら変わりない生活。僕の身近に漂っていたサムライの残滓、大気中にほのかに漂う墨の匂いも三日経ちだいぶ薄れてしまった。
 日々サムライの残滓が消えていくのを実感する。
 サムライと距離が開くのを痛感する。三日前、サムライは突然僕に別れを切り出して静流と行ってしまった。現在は静流の房に身を寄せてるらしいが詳細はわからない、知りたくもない。一体何故こんなことになってしまったのか……僕が静流の嘘を真に受けたのが原因か、サムライに蟠りを残していたのが原因か?

 『貢くんが苗さんを犯したと聞いても彼の友人でいられるのかい』
 サムライが苗を犯したと静流は言った。
 真実か否かわからない、判断材料がない。
 否定も肯定もできない言葉。僕は結局、サムライを信じ切れなかった。苗の自殺の原因はサムライだと静流に吹き込まれて不信感が芽生えてしまった。
 内面の変化が態度に表れてサムライを追い詰めたのかもしれない、サムライは僕の本心を見抜いていたのかもしれない。
 だから僕たちは。
 『俺があの房にいる限りお前は帰ってこない。ならば俺が出る。房は好きに使って構わない』
 僕たちは。
 『俺がそばにいるとお前は辛くなる。俺たちはもう共にいるべきではない、互いを傷付けるだけの関係は不毛すぎる』
 最悪の選択は、最悪の結果に繋がる。 
 『レイジ、ロン、ヨンイル。お前には良き友がいる。これからは奴らを頼れ。必ずやお前の力になってくれるはずだ』
 何故僕はサムライを呼び止められなかった、早々と諦めてしまった?

 今更後悔しても遅い。僕はサムライを追うべきだった、僕が苗の代用品でないのと同じく君の代用品もないのだと告げるべきだったのだ。
 レイジがいてもロンがいてもヨンイルがいても、他の誰がいても肝心の君がいなければ意味がないと伝えるべきだったのだ。
 別れ際の寂しげな目が脳裏によみがえる。帯刀貢がサムライに戻った瞬間。僕はもっと足掻くべきだった、足掻き続けるべきだった。大事なものを完全に喪失する前に必死に抵抗すべきだったのだ。
 僕らの関係には終止符が打たれた。サムライへの恋愛感情ともいえぬ淡い想いを自覚するまもなく、僕とサムライの絆は断たれてしまった。もう手遅れだ。僕らの関係は終わってしまった。サムライは房を出た、僕に別れを告げて静流を選んだ。
 それが彼の選択なら真摯に受け容れるべきだ。
 サムライは静流を選んだ。
 その事実を重く受け止め、上の空でページをめくる。
 「……同情は不愉快だ。ヨンイル、僕は孤独に耐性がある。サムライが房から消えたことにも何らショックは受けていない、房の使用面積が増して喜んでるくらいだ。生活空間が拡張できてよかった。サムライがいないベッドは本の置き場所にする」
 「そんな幽霊みたいなカオしてなに言うてんのん」 
 ヨンイルが脱力する。幽霊みたいな顔?心外だ。
 ベッドに座った位置から振り返り、鏡に顔を映してみる。確かに顔色が悪いが、これは慢性的な疲労と不眠が原因でとくに体調が悪化したわけでもない。
 東京プリズンに来てからこっち僕の顔色が良くなった試しなどない。
 「心配せずとも僕の顔色は慢性的に悪い。気が済んだら西に帰れ、このままずっと居候し続ける気か?三日前は君が指揮した捜索隊に保護されたおかげで風邪をひかずにすんだが、理性を取り戻した今はあんな馬鹿な真似はしない。夢遊病者めいた足取りで廊下にさまよいだして行き倒れる可能性などない、絶対に。僕が半覚醒の状態で徘徊せぬよう、ベッドから起き上がったら枕元の本が落ちて正気にもどる仕掛けなのだ」
 「いや、そんな自信満々に目覚ましの仕掛け解説されても……やっぱズレとるで、直ちゃん。相当ショックやったんやな、彼氏にフラれたんが」
 ヨンイルがしたり顔で頷く。……不愉快だ。
 荒々しく本を閉じて立ち上がり、大股に歩き、鉄扉を開け放つ。
 「出て行け。これ以上僕を怒らせるなら手段を選ばず排斥する」
 ヨンイルは立ち上がる素振りさえ見せない。憤然と鉄扉を開け放った僕を無視、図々しく胡坐をかいている。
 もはや強硬手段に訴えるしかない。覚悟を決め、ヨンイルの周囲に散乱した漫画本を拾い集める。
 読みかけの漫画を奪い取られたヨンイルが「あ!?」と抗議の声を上げるのを無視、廊下に開放した鉄扉から外へと漫画を投げ捨てる。
 「なにすんねん直ちゃん、漫画への冒涜や!?」
 血相替えたヨンイルが這うように廊下に転げ出た瞬間、鉄扉を閉ざして錠をおろす。
 これでよし。邪魔者は追い払った、読書に集中できる。
 そのままベッドに帰り、膝の上で本を開く。
 鉄扉の向こう側でヨンイルが抗議するが、相手にしない。
 「ひどいあんまりや直ちゃん俺の友情足蹴にしよって、直ちゃんがポイ捨てした鳥山明に謝らんかい!!本を粗末にするなんてオタクの風上にもおけんやっちゃ、見損なったで!」
 「漫画は本のうちに入らない。付け加えるが僕はオタクじゃない、読書家だ」
 それでもまだ諦めきれず、鉄扉の前から立ち去りがたく唸っていたヨンイルだが、根負けして踵を返す。「直ちゃんのアホ、俺が集めたドラゴンボール見せたらんからなっ」などと現実と妄想の区別がつかぬ捨て台詞を吐いたヨンイルに嘆息、読書を再開する。
 ……駄目だ。今度は静かすぎて落ち着かない。
 焦燥感に駆り立てられ、殺風景な房を見渡す。サムライ不在の房にただ一人残されて居心地の悪さを感じる。三日前まではサムライがいた房。べッドに腰掛けて本を読む僕のそばで写経にいそしんでいた。
 般若心経の経典を紐解いて、硯を用意して、黙々と墨を擦って…… 
 写経に励む仏頂面を思い出す。
 声をかけにくい横顔、気難しげに寄った眉間の皺。
 いつのまにか馴染んでいた日常、僕が当たり前に溶け込んだ光景。
 「………」
 一抹の喪失感が胸を吹き抜ける。
 見慣れたものがそこにない、見慣れた人間がそこにいない。たったそれだけのことで何故こんなにも心をかき乱されるのか、不安になるのか……唇を噛み締め、俯く。僕はサムライに未練があるのか、さっきから空っぽのベッドにばかり視線がいってしまうのはそれでか。サムライと僕は終わったはず、終わったはずなのに。
 「サムライなど知らない。勝手にすればいい。好きなように生きて死ねばいい」
 帯刀貢の生き方に関与しない、生き様に関与しない。
 帯刀貢は静流の隣にいるべき人間、静流を庇護すべき人間なのだ。
 僕には関係ない男だ。
 関係ない他人だ。
 「……………」
 人さし指で唇に触れる。サムライの唇が触れた部位をなぞり、感触とぬくもりを反芻する。
 「寂しくなどない。哀しくなどない。僕は最初から一人だった。天才は凡人の理解を拒否する、共感を拒絶する。信頼など要らない。信じて頼る人間など要らない。僕には僕だけでいい、IQ180の頭脳さえあれば他人の助力などなくても生きていける。僕の味方は僕だけだ。他人を信頼しても失望させられるだけだと辛辣な教訓が得られてよかったじゃないか。おめでとう鍵屋崎直、知識量と半比例して人生経験の乏しい僕が僕が他人を信用するなと教訓を得れたのは東京プリズンに来たからだ、ここで人間関係の経験値を積んだからだ。まったくツイてるじゃないか、なんて幸運な人間だ僕は、僕にIQ180の知能という最大の味方をくれた運命に感謝する!!」
 コンクリ壁に絶叫が跳ね返る。
 気付けば僕は哄笑していた、狂ったように笑っていた。
 まったく、なんて間抜けなんだ僕は。
 他人を信頼した挙句に裏切られ、自己憐憫に溺れ、そんな自分を嘲笑うことでさらに傷口をほじくりかえす悪循環。
 自虐の醜態をさらす僕の耳に、一定の間隔でノックが響く。
 「!誰だ」
 反射的に立ち上がり、鋭く誰何する。鉄扉の向こう側に誰かがいる。誰だ?ヨンイルが帰ってきたのかと一瞬疑ったが、礼儀知らずの道化ならそもそもノックなどするはずない。
 「……僕。リョウ。入っていい?」
 リョウ?意外な人物名に戸惑う。何故リョウが僕の房を訪ねる?またよからぬことでも企んでいるのかと疑惑が過ぎるが、好奇心に従い
扉を開ける。錆びた軋り音を上げて開いた扉の向こう側、廊下にリョウが突っ立っていた。
 気まずげに顔を伏せ、上目遣いに僕の表情を探り、おどおどと口を開く。
 「……そんなおっかないカオしないでよ。いじめにきたわけじゃないんだから」
 「信用できない」
 鼻先で扉を閉ざそうかと思ったが、久しぶりに顔を見たリョウが意気消沈してたために逡巡する。しばらく見ない間に少し痩せたらしく、不健康に憔悴した面持ちに痛々しい笑みを貼り付かせている。
 「話したいことがあるんだ。いい?入って」
 本音を言えば即刻追い返したかったが、弱り果てたリョウを突き放すのに罪悪感を覚えしぶしぶ迎え入れる。僕にもロンのお人よしがうつったらしい。肝心の本人は食堂の乱闘騒ぎがもとで独居房に送られたまま、三日経っても出される気配がないが。
 バタンと鉄扉が閉じる。危なっかしい足取りで房に入ったリョウが僕の許可も仰がずベッドに腰掛ける。図々しい。不快感も露にメガネのブリッジを押し上げた僕を、濡れた上目遣いで見つめるリョウ。
 「何だ、話したいこととは」
 「こないだの乱闘の件。メガネくんも知ってるっしょ?ロンのとばっちり食らってビバリーまで独居房に入ってるの」
 「それが何か」
 「メガネくんロンの友達っしょ。なら責任とってビバリーを独居房から出す方法考えてよ、元はといえばロンを助けるために無関係のビバリーが独居房入ったんだから」
 「自己責任という言葉を知ってるか?知らなければ辞書を引いてみたまえ。ロンを庇ったのはビバリーがそうしたかったからだ。彼自身の判断が招いた結果に僕は一切関与しない、不名誉な言いがかりはやめてくれ」
 「……ちょっと冷たいんじゃないの、それ。メガネくんだって心配じゃないのロンのこと、友達なんでしょ。もう三日も独居房にいれられっぱなしなんだよ、まともな人間ならそろそろ頭イカレてる頃だよ。ロンが今どうしてるか心配じゃないの、助けに行きたくないの。助けに行きたいよね、なら考えてよ、ビバリーとついでにロンを独居房から逃がす方法をさ!いつもIQ180のオツムを自慢してるくせにできないなんて言わせないよ、メガネくんならできるはずだよ、看守に目ぇつけられずに二人を逃がすことだって不可能じゃないって!!」
 興奮したリョウが僕の胸ぐらに掴みかかる。
 リョウは必死だった、一杯に見開いた目には涙がたまっていた。
 怒りに頬を赤らめたリョウが震える手で僕に縋り付く。ビバリーのピンチに何も出来ない無力感に苛まれ嗚咽を堪えるリョウを見つめるうちに唇が歪み、皮肉な笑みが顔に浮かぶのを自覚する。
 「―なら、こうすればいい」    
 痩せ細った手首を掴み、シャツから引き剥がす。有益な助言が得られると錯覚し、リョウの顔が希望に輝く。
 折れそうに細い手首を掴み、リョウを強引に引き寄せる。
 リョウが顰めた顔に眼鏡の奥から冷たい眼差しを注ぎ、耳朶で囁く。
 「リョウ、今度は君が事件の主犯になれ。そうだな、こんなのはどうだ。君のポケットに入ってる注射器で通りすがりの囚人に毒物を注入するんだ。毒物を注入された囚人は死屍累々と廊下に倒れて東棟は惨状を極める、騒ぎを聞きつけた看守が君を逮捕、のち独居房に移送する。独居房の個数には限りがある、君が放り込まれるのと入れ違いに出される囚人がいる。ビバリーが心配なら君が救え、ビバリーの身代わりに独居房に入るんだ。これで問題解決だ」
 「!そん、な」
 リョウの顔が絶望に凍り付くのを嗜虐の愉悦に酔いながら眺め、口の端を吊り上げる。
 「どうした、できないのか。大事な友達のためならそれ位できるはずだろう。ビバリーは高尚な人格者だ、無関係のロンを捨て身で庇って独居房に送られた。それならばビバリーの友人が身代わりになるのも不可能じゃないはず。何を怯えているリョウ、僕に助けを乞うたのは君だろう?君はまさか自己犠牲の覚悟もなく友人を助け出そうとしたんじゃあるまいな、そんな都合よい解決策があると本気で期待してたのか、視野狭窄の愚か者め」
 残酷な衝動に歯止めがきかない。
 もうやめろと理性が叫ぶ、もっとやれと本能がけしかける。
 自分でもわかっている、これはただの八つ当たり、サムライの不在から来る怒りや哀しみをたまたま現われたリョウにぶつけて憂さを晴らしているだけだ。
 最低だ、僕は。ビバリーを助けたい一心で僕を頼ってきたリョウを抉りこむように攻撃する、辛辣な毒舌を吐いて徹底的に貶める僕こそ真に唾棄すべき卑劣な人間だ。
 わかっているが止まらない、攻撃衝動を抑制できない。
 リョウの傷付く顔で救われたい、サムライとの別れがもたらした喪失感を埋めたい。
 「そんな、のできない。他の手はないの?僕もビバリーも独居房に入らずにすむ方法考えてよ、きみ天才なんでしょ、なら皆が幸せになる方法考えてよ、誰も不幸にならずにすむ方法教えてよ!!」
 「友人の自己犠牲なくしてビバリーは救われない。ビバリーを救いたいなら君が事件を起こせばいい、ロンの乱闘騒ぎなど比較にならない騒ぎを起こして被害を広げれば囚人が独居房に移送され元いた古い囚人が放免される。単純な計算だ」
 痣になるほど手首を掴み、力任せにベッドに押し倒す。
 されるがままに仰向けに倒れたリョウの上に覆いかぶさり、至近距離で顔を覗きこむ。
 放心状態、空白の表情をさらすリョウに額を被せ、非情な宣告を突きつける。
 「友人を見捨てて生き残るか友人を助けて独居房に入るか。二者択一で選べ、リョウ」
 リョウの顔が悲痛に歪む。シャツの下、肋骨の浮いた薄い胸板が呼吸に合わせて上下する。
 リョウと体を重ね鼓動を感じ、自己嫌悪に襲われる。
 軽い体を突き放し、興味が失せたようにリョウに背中を向け、リョウの吐息で曇った眼鏡のレンズを上着の裾で拭う。
 「……最も、君のように利己的な人間が後者を選ぶとは思えないがな」
 痣になった手首を見下ろしリョウが黙り込む。重苦しい沈黙。
 唐突に跳ね起きたリョウが無言で僕の隣を駆け抜ける。
 鉄扉を開け放ち廊下を走り去る靴音をよそに、たった今リョウの手首が抜けた五指を見下ろす。
 虚空を掴むように五指を閉ざし、苦く吐き捨てる。
 「………最低だな、僕は」
 多分、その時に発見したのだ。
 サムライがいないだけで僕はとんでもなく残酷な人間になれると。
 自分でも驚くほどに。
[newpage]
 『参りなさい』
 咳のしすぎで掠れた声はともすると衣擦れに紛れて消えそうに細く、だが、内に凛たる強さを秘めていた。
 女の声は絶対だった。
 命令するのに慣れた口調はひどく落ち着いていた。
 己の死期を悟った目は、諦念ではなく覚悟を映していた。
 落ち窪んだ眼窩には燐光が青白く燃え、意志の強さを表すように引き結んだ口元には潔癖な性根が透けている。
 目の下には不吉な隈が浮いている。
 虚勢ではもはや塗り隠せない死相が射した顔に美貌の名残りを留めた母は、癌が全身に転移し、末期の苦しみにのたうちまわる闘病の日々に精根使い果たしてもなお気丈な女当主の威厳を失わず、美しく背筋を伸ばして寝床から半身を起こしている。
 覚悟の上の死に装束にも見える白い小袖の襟元に手をやり指を添え、鎖骨を隠す仕草に貞淑な気品が匂い立つ。
 痩せた首筋におくれ毛を纏わり付かせた母が、鬼火のように揺らめく目を虚空に据える。
 『できません』
 静流は漸くそれだけ言った。
 喘ぐように口を開閉し、迷いに迷った末に言葉を搾り出した。
 手のひらはじっとり汗をかいている。緊張で顔筋が収縮、表情が硬直する。
 母の視線を避けて俯き加減に畳の目を数えながら、揃えた膝の上で手のひらを握りしめる。手のひらの柔肉に爪が食い込む痛みで自分を取り戻そうとでもいうように、正気を維持しようとでもいうように。
 胸裏では嵐が吹き荒んでいた。苦悩に責め苛まれた眉間には皺が寄り、母とよく似た面差しにはひりつくような焦燥が滲んでいた。
 静流の眼前、畳の縁に平行に置かれたのは一振りの刃。
 鞘に仕舞われた真剣。
 ちょうど母の寝床と静流が正座した中間に据え置かれた刀は、黒光りする鞘に隠れながらも異様な存在感を放っている。
 悠に二十畳はあろうかという座敷は、全部の障子を締め切ってあるために昼でも薄暗い。
 紫陽花が一輪生けられた床の間を背に、敷かれた布団から半身を起こした母は、弱気を起こした息子に畳み掛ける。
 『いいえ、なりません。あなたはしなければなりません』
 主治医には余命二年と宣告された。
 早くに伴侶を亡くしてから女手一つで自分たち姉弟を育ててきた母は、最期の最後まで分家の女当主として恥じない振る舞いを貫き通す気だ。
 死を目前にした母は、不思議と穏やかな顔をしていた。
 己の運命を許容し、宿命に殉じる覚悟を決めた顔。
 俗世への執着から脱却した安息の表情。
 母はいつも息子に厳しく接した、分家の次期当主として恥ずかしくない男になれと言われ続けた。
 母はまた、女だてらに剣術の師範でもあった。人間国宝の祖父にも匹敵する剣の使い手と噂される本家の嫡男と常に比較され、「貴方の剣には覇気が足りない」と酷評されたこともある。
 だが、それでも血の繋がった母には違いない。
 どうして母を斬れるというのか。
 親殺しは修羅道に堕ちるとわかっていながら、刀を取れるというのか。
 『母さん、やはり僕にはできません。そのように血迷った真似は……』
 『この期に及んでまだそのようなことを言うのですか』
 母が幻滅する。静流は無言で首を項垂れる。
 打ち萎れて叱責に耐える静流を見つめ、頑是無い子供を相手にするように母は首を振る。その枕元には姉がいる。母とはまた違う感傷に囚われ、潤んだ目に悲哀の色を宿した姉が。
 母が小さく咳をする。咳は止まらない。
 徐徐に間隔が狭まり、激しさが増す。肩を上下させ咳き込む母の背を慣れた手つきで姉がさする。母子の情愛が通う一連の光景を距離をおいて眺め、静流は奥歯を噛み締める。

 母は狂っている。
 僕と姉さんもまた、狂気に侵されはじめている。

 血なまぐさい惨劇の余波は、帯刀の系譜に連なる者すべての上に狂気を開花させた。
 本家の長男が剣術の師範たる実父を含む門下生十三人を斬殺した醜聞により、帯刀家は凋落した。
 とくに影響を受けたのは本家当主の実妹であり、余命幾許もない病身でありながら分家の当主を務めた母だ。
 長きに渡る確執により本家当主の実兄と疎遠になっていた母までもが帯刀の人間が起こした惨劇により世間に白眼視されるようになった。
 帯刀の血を受け継ぐ者すべてが世間の荒波にさらされ非難の矢面に立たされた。一族から親殺しを出したことで元禄年間から続いた由緒正しき帯刀家の権威は失墜、「血に飢えた人斬りの家系」と中傷されるまでになった。
 母は、それが許せなかった。
 これまでの人生で自分が守ってきたもの、信じてきたものを全否定されたのだ。その無念はいかばかりか想像に難くない。
 母は帯刀の生まれに誇りを持っていた。
 分家の当主として最期まで立派に務め上げ、責務を全うし、自分亡き後は跡目を息子に譲り帯刀の名を後世に伝えるのが使命と肝に銘じていた。
 武家の末裔として誇り高く生きて死ぬのが母の夢だった。
 そのすべてが無に帰した。
 身内から親殺しを出した帯刀家は、もはや存続を許されない。母が生涯かけて守ろうとしたものはすべて失われてしまった。
 帯刀の家土地も、誇りも、名誉も。
 今、母が持っているのは残り僅かな寿命だけ。主治医には余命二年と宣告されたが、頬骨の尖った顔に死相が射して、もって半年かそこらの非情な現実を代弁している。事件の後始末を一手に引き受けた心労が祟り、死期が早まったのだろう。
 居住まいを正して静流に向き直り、母が言う。
 『帯刀分家当主として命じます。早く刀を抜きなさい。私をお斬りなさい。かつて私が教えた通りにやればいいのです、静流さん』
 『できません』
 『目を瞑っていてもできるでしょうに。静流さん、貴方は私から何を学んだのです?』 
 『母さんの命令といえど刀を抜くことはできません。そんな恐ろしいことできるわけがない。母さんは正気じゃない、あの事件がきっかけでおかしくなってしまった。どうして死に急ぐのです?どうして僕に刀を取らせようとするのです?母さんは、自殺する気だ。これが自殺じゃなくてなんだって言うんだ、帯刀家が滅んだらもう生きる意味がない、だから母さんは自暴自棄になって!!』
 感情の堰が決壊する。
 静流はいつのまにか立ち上がり叫んでいた。不条理な命令に反感が突き上げた。ただ哀しくて悔しかった、やりきれなかった。胸を内側から掻き毟られる思いだった。
 腹を痛めた我が子に糾弾されてもなお悟りきった居住まいを崩さず、母は虚空を見据えていた。双眸には静かな諦念がたゆたっていた。
 母の目は既に現実を見ておらず、己の内面を眺めていた。
 語気激しく母に正論をぶつけた静流は、賛同を乞おうと姉を仰ぎ、戦慄する。
 姉がこちらを見据えていた。悲痛な顔で。
 『………帯刀家はもうおしまいです』
 血を吐くように母が言い、重苦しい沈黙がのしかかる。
 『時代錯誤を承知で私が守ってきたもの、先祖代々守り抜いてきたものが失われてしまった。親殺しは武家の法度にふれる最大の禁忌。剣の天才と称される本家の跡継ぎが武士道を外れる禁忌を犯したことで、帯刀家の歴史は汚れてしまった。帯刀の血を継ぐ者たちはこの先ずっと人斬りの汚名を被り、生き恥をさらして寿命をまっとうせねばならない。一族の一人が罪を犯したところで世間の大多数はそう見ない、私たちにも同じ人斬りの血が流れている、帯刀家は極悪非道な人斬りの一族と後世まで蔑まれる』
 落ち窪んだ眼窩に鬼火が燃え上がる。
 『私は許せない。我が兄、帯刀莞爾の仇をとる為には手段を選ばない。たとえ武士道を外れる行いとわかっていても、帯刀の家名を貶めて一族に災厄を招いた甥に復讐せずにはいられない。私の寿命は残り僅か、もってあと半年。どうせ残り少ないこの命、甥への復讐の足がかりとなるなら地獄に落ちても悔いはない』
 母の決意は固かった。
 今更何を言っても決心は覆らないだろう。
 絶望を噛み締めて俯きながらも、最後の抗弁を試みる。
 『……母さんは伯父さんを憎んでいたじゃないか。本家と分家はずっと犬猿の仲で、最近は行き来も途絶えていたじゃないか』
 『不幸な行き違いがあっても血の繋がった兄妹には変わりありません。無念の死を遂げた兄の仇をとるのが妹のつとめ。我が兄莞爾は実の息子に斬り殺された。如何なる理由があろうと親殺しは許されざる非道な所業、帯刀家を破滅させた張本人が牢送りになったとてなまぬるい。本家当主の兄を斬殺し帯刀家を滅ぼした張本人、我が甥・貢はまだのうのうと生きているのです。恥知らずにも』
 吐き捨てるように口元を歪めた母の痩身に陽炎が揺らめく。
 母は怒っていた。残り少ない命の火を今この瞬間に燃やし尽くそうとでもいうように全身全霊で怒っていた。復讐の業火を双眸に宿した母の枕元、姉が顔を伏せる。姉は貢に想いを寄せている。
 長い間床で臥せっていた母は、姉の秘めたる恋情を知ってか知らずか続ける。
 『さあ、お斬りなさい。遠慮はいりません。親子の情など捨て去りなさい。最期に母の願いを叶えてください。腹を痛めた息子に憎き兄の仇と同じ道を歩ませてでも復讐を成し遂げようとする、愚かな母の屍をこえていきなさい』
 促されるがままに刀に手を伸ばし、鞘を掴んで引き寄せる。
 膝に乗せた刀を見下ろし、躊躇する。柄を握り締めた手が力の入れすぎで白く強張り、かちゃかちゃと鞘が鳴る。刀を掴んで何度も深呼吸し、意を決して前を向いた静流の顔が泣き笑いに似て滑稽に崩れる。
 『…………僕に狂えと言うんですか?親殺しの修羅になれと言うんですか、母さんは。それが親の言うことですか。僕は、僕はこんなことをするために剣を学んだんじゃない。僕はただ母さんや姉さんに褒めてもらいたくて、貢くんに負けたくなくて、貢くんと比較されるのが嫌で、母さんと姉さんに一人前と認められたくて必死に修行を積んできたんだ!!帯刀の名なんかどうでもいい、そんな物ちっとも欲しくはない、分家当主の座なんかちっとも惜しくはない!!僕はただ姉さんと一緒にいられればそれで、それだけで幸せだった!!』
 絶叫が喉を食い破る。
 母は無表情に静流を眺めていた。姉は下を向いていた。
 母と同様、美しく背筋を伸ばして正座した姉の手が膝の上でこぶしを結んでいた。激情を堪えるように膝の上でこぶしを結び、前髪の奥に表情を隠して項垂れていた。
 『狂いなさい』
 穏やかな微笑を湛え、母が言った。
 静流の葛藤を汲んでもなお意見を翻すことがない、復讐の狂気に呑まれた笑顔。
 『狂いなさい、血迷いなさい。静流さん、いえ、静流。貴方は帯刀家の末裔として身内の復讐を果たす義務がある。放っておいても私の命はじき尽きる。女の身の薫流では復讐を果たせない。もはや帯刀家には貴方しかいないのです、我が兄・莞爾の仇を討つべき人間が。法は無視なさい。法が私たちに何をしてくれました?何もしてはくれない。私たちが従うべきは法ではない、廃れて久しい武士道でもない』
 母の目に激情が爆ぜ、禍々しい笑みを湛えた顔に狂気の深淵が開く。
 『私は心の底から帯刀貢を憎みます。人が人を憎むのは本来自由、法で縛れず武士道に添わぬこの憎しみこそが復讐の動機。帯刀家は人斬り一族ではない、人斬りは帯刀貢だと病床の私が血を吐くほどに声張り上げても世間は誰一人とて耳を貸さなかった。私は憎い、帯刀家を貶めたあの男が憎い。あの男に復讐するにはもうこれしかないのです、貴方が修羅道に堕ちるしかないのです』
 『静流』
 姉が声をかける。
 緩やかに顔を上げた静流は、続く言葉に耳を疑う。
 『母さんの願いを叶えてあげて』
 いつのまにかこちらに向き直った姉が、寂しげに微笑む。
 『私も帯刀貢が憎い。できるならこの手で殺したいけど、私では無理。でも、貴方なら……』 
 『貴方にしかできないのです』 
 寝床から這い出た母が静流の膝に縋り付く。
 枯れ木のように痩せさらばえた腕。振り払うのは簡単だ。
 だができなかった、どうしても。
 母と姉の視線に呪縛され生唾を嚥下、再び刀を手に取る。
 黒光りする鞘から刀を抜く。
 鞘から覗いた刀身が白銀に輝く。清冽な殺気を纏わせた刀身に顔を映した静流は、母と姉の願いを叶えてやりたい半面、この手で肉親の命を奪う行為に極大の抵抗と嫌悪を示し、葛藤に揺れ動く自分をそこに見出す。
 母にはできない。姉にもできない。
 しかし、自分ならできる。
 帯刀貢を殺すことができる。
 甘美な誘惑が耳朶に纏わり付く。
 血を求める衝動を抑制できない。古来より数多の血を吸った刀には妖気が宿るという。静流が鞘から刀を抜いたのを確認、病床の母が瞼を下ろす。口元に仄かな微笑すら湛えたその顔は清濁併せ呑む慈母めいた雰囲気すら漂わせていた。
 己の死を覚悟して安息を得た母と対峙、片膝立って刀を構え、真剣の重量と手の震えを意識する。
 『……いざ、参ります』  
 母の願いを叶えてやりたい。
 幼い頃から厳しい母だった。だが、優しい母だった。剣の師範として息子をたゆまず鍛えてきた。「静流さんは気持ちが優しいから太刀筋が鈍ってしまうのね」とため息まじりに言われたことがある。しかし、嘆く言葉とは裏腹に顔は微笑んでいた。息子の気持ちの優しさを喜ぶ母性的な微笑みが瞼の裏によみがえり、涙腺が熱くなる。

 母の教え通り剣を持ち、構える。

 布団に起き上がった母は毅然と胸を張っている。
 命乞いもしない、泣き叫びもしない達観した居住まい。
 目を閉じて心を無にする。五感を閉ざして内向して初めて第六感が開眼する。
 明鏡止水の境地を体現するが如く。  
 呼吸を整え目を開いた時、手の震えは完全に止まっていた。
 
 鋭く呼気を吐き、刀を振り下ろす。
 血飛沫が顔に跳ねる。母が着ていた白い小袖が右肩から左脇腹にかけて裂けて、鮮血が飛び散った。

 肉を裂き骨を断つ手ごたえが確かにあった。
 白銀に輝く刃に血化粧が施された。血と脂に濡れ光る刀身と布団に倒れ伏せたまま微動だにしない母を見比べて静流は荒い息を吐く。
 即死だった。母はあっけなく死んだ。殆ど苦しまずに逝った。
 おくれ毛がしどけなく纏わり付いた死に顔は安らかだった。母の死に際しても静流は泣かなかった。泣けなかった。心が衝撃に麻痺して何も感じず、喜怒哀楽いかなる感情も湧き上がってはこなかった。
 『上出来よ、静流』
 姉が言った。
 姉の着物に真紅の花が咲いていた。至近距離で母の返り血を浴びても姉は一切取り乱さず、よくやったと弟を称賛した。
 畳に突き立てた刀に縋るように姿勢を起こした静流をまっすぐ見つめ、紅唇を開く。
 『次は私よ。なるべく苦しめず送って頂戴』 
 
 ああ。
 とうとう薫流姉さんまで狂ってしまった。

 姉は、薫流は笑っていた。
 何もかも受け容れ微笑んでいた。
 親子心中に付き合わされるのを予期した上でこの場に臨んだとその目が言っていた。しかし母と違い、真っ直ぐに静流を見据える目には正気の光が宿っていた。
 母の返り血を拭うのも忘れ、驚愕に目を見開き姉を凝視する。
 嘘だと否定したかった。
 いっそ嘘にしてしまいたかった、聞かぬふり知らぬふりで流したかった。母に続き姉までもが自分を殺せと言う、自分を殺して復讐の足がかりにしろと言う。
 できるわけが、ない。
 走馬灯の回想が脳裏を駆け巡る。
 幼い頃から勝気で意地悪な姉だった。お転婆で男勝りで口喧嘩では勝てた試しがなかった。静流は姉にやりこめられるたび強く頼もしい従兄の背に隠れていた、優しく面倒見がいい従姉の背に庇われていた。「まったく情けない子ね、しずるは。それでも分家の跡取りなの?」とませた口調でからかわれる度に静流は目に涙をためていた。
 『できないよ、姉さん』 
 最初は弱々しく、次第に激しく首を振り拒絶する。
 泣き笑いに似た情けない表情で翻意を求めるも姉は応じない。
 絶命した母の枕元に正座し、弟への愛情と未練を織り交ぜた顔つきで黙りこくっている。
 長い睫毛に沈んだ切れ長の双眸に憂いを秘め、口元を引き結び、首を項垂れている。姉の視線を追いかけて顔を上げた静流は、床の間の紫陽花を目にする。あの紫陽花は確か、先日姉が摘んできたものだ。病床の母の慰みになればと小雨が降る庭からわざわざ手折ってきたのだ。
 優しい姉だった。お転婆で男勝り、意地悪で口達者な姉に隠された優しい一面を常に彼女だけを見つめ続けた静流だけが知っていた。
 床の間の紫陽花が鮮やかに目に染みて、一年前、二人で本家を訪ねた日の記憶を喚起する。
 あの日、傘に隠れて道場を見つめ続けた姉の視線の先には似合いの少年と少女がいた。
 静流は直感した。
 姉が秘めたる恋情を、報われぬ想いを。
 何故なら帯刀貢の隣には、帯刀苗がいたから。
 『静流』
 『できない、いくら姉さんの頼みでもそれだけはできない。姉さんを斬り殺すなんてできるわけない、姉さんは知らないんだ、僕がどんなに貴女を大切に想ってるか、貴女に生きてて欲しいと想ってるか!たった二人の姉弟じゃないか、子供の頃からずっと一緒にいたじゃないか。僕は子供の頃からずっと、貢くんや苗さんと一緒に遊んでた頃からずっと姉さんのことを見てたんだ。からかわれてもいじめられても姉さんのあとを付いて回ったのは姉さんが好きだったから、鬱陶しい弟だ、あっちいけって邪険にされても付いて回るのをやめなかったのは姉さんを独占したかったからだ!!』
 言葉が堰を切り溢れ出す、激情の洪水に理性が押し流される。
 噴き上げる衝動のままに思いの丈を吐き出す静流を、薫流は慈愛の笑みで包んでいた。
 純白の足袋は畳に流れ出した血でしとどに染まっていた。
 薫流は美しく背筋を伸ばして正座したまま微動だにせず、揃えた膝に手をおいて、母の亡骸の傍らで慟哭する弟を優しく包み込むように見つめていた。
 姉には言葉が届かない。
 手を伸ばせば届く距離なのに、彼岸と此岸の断絶がある。
 畳に流れ出した鮮血が静流の膝も手も真紅に染め変える。
 血に滑る手で刀の柄を掴み、畳から引き抜き、正眼に構える。
 薫流の鼻先に刃を突きつけ翻意を迫ろうとでもいうように、命乞いを待とうとでもいうように。
 『母さんは斬れても姉さんは斬れない』
 思い詰めた色を目に宿し、静流が唸る。
 早く命乞いしてくれ、ここから逃げてくれと気も狂わんばかりに一心に念じながら。
 鼻先に刃を突きつけられた薫流はしかし脅しにも屈さず、表情ひとつ変えずにいる。
 すべてを諦めた姉を見るに耐えかね、刃の切っ先をかすかに震わせる。
 『姉さん、二人で逃げようよ。誰も知らないところでいちからやり直そう。帯刀の名を捨てて二人で生きていこう』
 口から零れたのは、哀願。姉が首肯してくれることだけを一心に念じ、一縷の希望をたぐりよせる。
 姉は答えない。切れ長の目を潤ませて漆黒の瞳に弟の顔を映している。
 水面に波紋が起きたように薫流の目の中の顔が歪み、崩れる。
 刃を引っ込めるきっかけを逸し、正眼の構えで姉と対峙し、陰惨な笑みを覗かせる。
 『もういいじゃないか。母さんみたいに帯刀の名に殉じて一生を棒に振ることなんてない。まさか帯刀貢への報われぬ恋に殉じるつもり?知ってるんだよ、姉さん。姉さんが貢くんに想いを寄せてたことくらい当然気付いてた。でも貢くんには苗さんがいた、貢くんは姉さんなんか見向きもしなかった。忍ぶ恋は苦しい。だから僕は、』
 だから僕は、汚い手口で帯刀貢を追い詰めた。
 帯刀苗を自殺に追い込んだ張本人はこの僕、帯刀静流だ。
 それも全部姉さんのため、姉さんに幸せになってほしかったから。姉さんさえ幸せになってくれるなら他の誰を傷つけても構わなかった、帯刀貢と苗の二人が不幸になっても構わなかった。あの二人自身すら知らない秘密を暴いて突きつけても良心は痛まなかった、薫流姉さんさえ幸せになってくれるならばそれで……
 姉さんが笑ってくれるならそれで、
 『僕は姉さんが!!!!!!!!!!』
  
 痛切な独白を遮ったのは、蓮の茎のように虚空に伸びた白い腕。
 薫が静流の手に重ねて柄を掴み、自らの胸へと深々切っ先を埋める。
 
 振り払う暇もなかった。
 白銀に輝く刃が薫流の胸に半ばまで沈んだ。薫流が血を吐いた。綺麗な赤い血だった。
 口から大量の血を吐いた薫流が刀を胸に埋めたまま上体を突っ伏す。畳に屑折れた薫流を断続的な痙攣が襲う。静流は極限まで目を見開いて、最愛の姉が死に至る過程を余さず網膜に焼き付けた。
 着物の胸にじわじわ血が滲み出す。胸の傷口から流れ出た血が緩やかに刃を伝い、静流の手まで禍々しく染めかえる。
 強張った指を意志の力でこじ開けて柄を離した時、うつ伏せに倒れた薫流はすでに瀕死の状態だった。
 『ねえ、さ』
 嘘。嘘だ嘘だ嘘だこんなの僕が姉さんを殺したなんて嘘悪い冗談だ。
 恐慌を来たした静流に抱き起こされ、膝に頭を寝かされた薫流の目には半透明の膜が下りていた。
 朦朧と濁った目がやがて弟の顔で焦点を結び、鮮血に濡れた唇から喘鳴が漏れる。薫流が何か言おうとしてる、死に際に余力を振り絞り何かを伝えようとしてる。
 以心伝心、素早く意を汲み口元に耳を近づけ、姉の最期の言葉に表情を失くす。
 そして、姉は事切れた。
 弛緩した四肢を無造作に投げ出した姉は、瞼を半ば下ろし、弟の膝に頭を預けている。 
 母と姉の亡骸が横たわる座敷にて、ただ一人生き残ってしまった静流の腕から力が抜け、薫流の頭がごとりと畳に落ちる。
 『かおる、ねえさん。卑怯だ』
 最期にそんなこと言うなんて、卑怯だ。
 姉さんは子供の頃から変わらず意地が悪い。最期にそんな、重大な秘密を明かしていくなんて。僕を共犯にするなんて。
 しばらく放心状態で座り込んでいたが、やがて操り人形めいた動作で立ち上がり、二人分の血が滴る刀を拾い上げる。手のひらにずっしりこたえる刀の重みは、母と姉の命と釣り合いなお余りある。
 母の遺志を継ぎ、姉の無念を汲み。
 僕にはしなければいけないことがある。果たさねばいけないことがある。
 二人分の返り血が跳ねた障子を開け放ち、刀をひっさげて板張りの廊下にさまよいでた静流の背後、床の間に飾られた紫陽花からひとひら花弁が落ち、血の海にひたる。
 耳の奥に呪いの言霊がこだまする。

 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀貢を殺すまで
 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀莞爾の仇を討つまで。

 『帯刀世司子と薫流の無念を晴らすためならこの身を修羅道に堕としても構わない。存分に血迷い狂い斬り捨ててやろうじゃないか。それが母さんと姉さんの望みなら、今この時より帯刀静流は人の生き血を啜る魍魎となる。帯刀貢を斬るために、帯刀一族を滅ぼした元凶を断つために、手段を選ばず罪を積み重ねる約束をしてやろうじゃないか』
 喉の奥で汚泥が煮立つような笑いをたて、血塗れた刃を携えて、不吉に軋む板張りの廊下を歩き出す。 
 現世への執着は吹っ切れた。未練は断った。この手で薫流にとどめをさした瞬間に一切合財を捨て去った。
 開け放たれた障子の向こう、母と姉の亡骸が横たわる座敷から鉄錆びた血臭が漂ってくる。
 床の間の紫陽花にいつか見た光景を重ね、全身返り血に塗れた静流は心の中で反芻する。 


 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀貢を殺すまで
 僕と姉さんの人生を滅茶苦茶にした帯刀貢を地獄に送るまで――――――― 


 ―「あっ、あぁああああああああっああぁあああああああっぁあ!!!?」―
 そこで目が覚めた。
 生々しい悪夢から覚醒した直後、全身にびっしょり汗をかいてることに気付く。
 「はあっ、はあっ、はっ……」
 ベッドに跳ね起き、薄い胸板を喘がせる。心臓の動悸が跳ね回る。大量の寝汗を吸ったシーツにはどす黒い染みができていた。濡れそぼった前髪をかきあげ鉄扉を一瞥、侵入の形跡がないのを確認してのち隣に視線を移す。
 隣では、貢が上半身裸で寝ていた。
 上着を脱いで熟睡する貢の寝顔を観察、疲れ切った顔に自嘲の笑みを浮かべ、毛布から抜け出る静流。サムライが房に来て三日が経つ。三日間ずっと同じベッドで寝ている従兄の上にのしかかった静流の耳に邪悪な囁きが忍び込む。
 『血迷え。狂え。斬り捨てろ』
 『血前よ。狂え。斬り捨てろ』
 「帯刀貢を殺すまで……わかってるよ、姉さん母さん」
 帯刀貢の首に手をかけ、蜘蛛の脚が這うように指を絡め、徐徐に握力を強めていく。気道を圧迫される寝苦しさに眉間に皺が寄るもまだ起きる気配はない。いっそこのまま殺してしまおうかという誘惑が脳裏を掠める。苦痛の皺を眉間に刻んだ寝顔を見下ろすうちに心の奥底でどす黒い殺意が蠢き、指に力がこもる。
 「まだ殺さないよ」
 帯刀貢が苦しむさまを眺め、静流は恍惚と微笑む。極楽浄土にいるような微笑み。
 「もっともっともっと苦しめて殺してやる。畜生道に落ちるべきは僕じゃない、君だ」
 帯刀貢の耳朶に口を近付け、そっと囁く、
 「『玉の緒よ 絶えねば絶えね 永らえば 忍ぶることのよわりもぞする』……姉さんの遺言、確かに伝えたよ。あの時姉さんは僕に膝枕されてこう言ったんだ。僕たちは同じ穴の狢だ、僕と姉さん、君と苗さんは――……」
 「………静流?」
 唐突に帯刀貢が目を開けた。
 反射的に首から手を放す。 
 「おはよう、貢くん」
 最前まで首を絞めていたことなど感じさせないにこやかさで挨拶、その時にはもう帯刀貢の腰から下りて隣に座っていた。瞬き二回、完全に覚醒した帯刀貢が首の違和感をいぶかしむように喉をさするのに目を細め、静流は声をかける。
 「貢くん疲れてる?」
 「いいや」
 「ならちょうどいいや、久しぶりに稽古に付き合ってよ」
 ベッドから腰を上げ、スニーカーを履く。ベッドの下に手を突っ込んで取り出したのはレッドワークの廃棄物、荒削りな鉄パイプが二本。片方の鉄パイプを困惑する貢に握らせ、静流は笑みを深める。
 「修行熱心な貢くんのことだ、今日もどうせ剣の稽古するんでしょ?般若心経の読経と写経と同じ日課だものね。せっかくだから僕に付き合ってよ。場所は……そうだな、展望台がいい。たまには外で体を動かすのも悪くない。貢くんだっていつも同じ型をなぞるだけじゃ飽きるでしょ?久しぶりに討ち合いしようよ」 
 「いや、俺は……」
 「いいでしょ?貢くんの太刀筋を見たいんだ。それとも刑務所に来て以来、修行怠けてたせいで腕が鈍ったとか?」
 揶揄する口調で挑発すれば、静流に気圧されて鉄パイプを受け取った貢の顔がプライドを刺激されたらしく引き締まる。
 狙い通りの展開にほくそ笑み、静流は先に立って歩き出す。 
 鉄扉を開け放って廊下に出た静流は、既視感を刺激されて振り返る。
 「どうした」
 開け放たれた鉄扉の向こう側、殺風景な房にサムライがひとり佇んでいる。
 「……なんでもない。ここに来る前、これとそっくり同じことがあったなって思ってさ。ちょっと懐かしくなったんだ」

 あの時。
 開け放たれた障子の向こうにあったのは、畳一面の血の海に横たわる二人の亡骸。
 血に濡れた手に握り締めていたのは鈍器の鉄パイプではなく、正真正銘の刀。

 感慨深げに房を見渡し、無意識に姉の面影を探していた静流は、不審げにこちらを見返すサムライに気付いて照れ笑いをする。
 殺風景な房のどこにもあの日の紫陽花は見当たらない。
 だから僕は、本心を隠してこう言える。
 「行こう貢くん。言っとくけど、手加減しないよ」
 討ち合い中の事故に見せかけて帯刀貢を殺すことはできないかと、頭の中で策を巡らしながら。
[newpage]
 「指一本でもレイジにふれたら殺すぞ」
 俺の喉がこんな低い声出せるなんて知らなかった。
 行動を起こしたのは次の瞬間、俺を両脇から押さえ付けた看守二人がレイジのフェラチオに気を取られてる間に反撃に転じた。
 欲情と嫌悪の狭間で看守二人は興奮していた。
 喉仏がごくり起伏して生唾を嚥下する。
 飼い主に命じられるがまま仰向けに寝転がり、無防備に腹を見せた犬の股間に顔を埋めてペニスを吸うレイジ。
 赤黒く尖った醜悪なペニスに舌を絡めて唾液を捏ねる音が粘着質に響き、レイジの顎が涎に濡れ光る。
 萎えた手を振りほどくのは簡単だった。
 激しい首振りで肩に乗った手を揺り落とし、看守の怒号に背中を向け、体の奥底から突き上げる憤怒の衝動に駆られて跳躍。靴裏で床を蹴り、今しも事をおっぱじめようとしてるレイジと犬の間に体当たりで割り込む。ズボンを脱がされたレイジの背中にのしかかった犬に肩から激突、虚空に吹っ飛んだ犬が哀れっぽい鳴き声を上げる。
 「おおハル、可哀想なハルよ!?貴様私のハルになんてことを、動物虐待で訴えるぞ!!」
 「その台詞そっくり返すぜ狂犬家!」
 ハルを庇い起こした所長に非難を浴びせられても動じない。後ろ手に手錠かけられたまま床に片膝付き、所長に向き直る。
 床に倒れ伏せたレイジは小さく呻いている。
 「大丈夫かレイジ、しっかりしろ」
 「痛って……ロンに貞操守られるなんて落ちぶれたな、俺も」
 「言ってる場合かよ」
 虚勢まじりに苦笑するレイジに泣きたくなる。こんな時でも俺を心配させないよう笑ったふりをする、不器用な優しさに胸が痛む。
 ぐったりうつ伏せたまま、後ろ手を拘束されているために床に手を付き上体を支えることもできず、腰を上擦らせるレイジを所長から庇うように移動する。
 所長は怒り心頭に発していた。世に言う逆ギレだ。
 瀟洒な縁なし眼鏡の奥、憎悪にぎらつく目を極限まで見開き、神経質に顔面を痙攣させる。体重こそ違えどタジマそっくりの小便ちびりそうに恐ろしい形相だった。
 「ハルよ、襲え!!」
 怒りで満面を充血させた所長が命令を飛ばし、ハルが咆哮する。
 まずい、食い殺される。レイジは床に突っ伏したまま、起き上がろうにもバランスがとれず緩慢な動作で頭を揺らしている。
 俺が守ってやれなきゃ他に誰がレイジを守ってやれる?
 神頼みはやめだ。
 レイジの胸で輝く十字架が何をしてくれた?
 傷だらけの十字架を掴んでみじめったらしく天に慈悲を乞うのはやめだ、気まぐれで冷酷な神様が信者の献身に報いずコイツを見捨てるつもりなら俺がレイジを助ける、天に唾吐いてやる。
 覚悟を決め己を奮い立たせ、ハルが助走から跳躍に至るまでの三秒間で反撃に移る。机上にずらり並んだ写真立てが目に飛び込んだ瞬間に奇策が閃き、床を蹴る。机に思い切り体をぶつけた衝撃で写真立てが雪崩落ち、ハルの鼻面を奇襲する。
 写真立てに鼻面をぶつけたハルが怯んだ隙に跳ね起き、怒号する。
 「くたばれ変態野郎!!」
 鋭い呼気を吐き、足元の写真立てを蹴り上げる。
 スニーカーのつま先に蹴り上げられた写真立ては思惑通りに宙を舞い、あっぱれ見事に所長の額に突き刺さった。
 写真立ての角が額に突き刺さった所長が女々しい悲鳴を上げる。
 まさかここまで上手くいくなんて思わなかった、笑い出したいくらい愉快な気持ちになった。
 笑いの発作に襲われた俺の眼前、額から血を垂れ流した所長が「ひあ、ああああああっぁあああっ、あ!血が、血がこんなに……はやく医務室で輸血をしなければ早くああこんなにも血が、死、死んでしまう!!」と悶絶、大袈裟な痛がりようが滑稽味を醸し出す。
 他人をいたぶるのは大好きでも自分が痛いのは苦手ってか?
 徹底して自己本位な態度にタジマとの血の繋がりを痛感、不快感で口の中が苦くなる。
 「いいかレイジは俺の物だ、俺はレイジが犬にヤられるとこ黙って見てるほどびびりでもなけりゃ腰抜けでもねえ、相棒が犬に犯されるとこ指咥えて見てるくらいだったら舌噛み切って死んだほうがマシだ!!いいか、コイツに手をだすな。これはお前らに言ってるんだ、額押さえて大袈裟にのたうちまわってる獣姦マニアの変態野郎とその忠実なる下僕のバカ犬に言ってるんだ」
 息継ぎもせず言い切り、凝縮した怒気を全身から放散。
 頭を垂らしたハルとその上に覆いかぶさった所長を牽制する。
 「お前らがレイジ犯すなら、今度は俺がお前らを犯す。犬のケツにペニスぶちこんで痔になるまでカマ掘ってやる。わんころだけじゃねえ、てめえも同じだ所長。兄弟血は争えねえって本当だな、タジマそっくりのゲス野郎だてめえは。ゲスはゲスらしく這いつくばって俺の吐いた唾舐めるのがお似合いだよ」
 「き、さま、誰に口をきいてる!?」
 激痛より怒りが勝った所長の目に火花が炸裂、血に汚れた顔面をひくつかせる。
 「あんただよタジマ兄。人間の女や男に相手にされねえから仕方なく犬に慰めてもらってる性的不能者」
 俺の口から出る声が、俺の声じゃないみたいに聞こえる。
 所長の口元が屈辱にわななくのを痛快に眺め、懐にとびこむ。
 鎖をかちゃかちゃ鳴らして手錠と格闘してるらしいレイジが背後で何か言うが無視する。
 所長の額にぱっくり傷口が開いてる。
 ちょうどその傷口の上、秀でた額にガツンと頭突きを見舞う。
 額と額が衝突する鈍い音、頭蓋骨に響く衝撃。至近で接触、密着した所長にさらに額をごり押しして傷口を抉る。
 「いいか、今度俺のレイジに手えだしてみろ。お前を裸にして四つん這いにして全身に犬の糞ぬりつけてやる、顔に小便ひっかけて犬の糞食わせてやる。獣姦マニアの変態野郎はスカトロだってイケんだろ?レイジ虐めに飽きたら俺が相手してやるよ。エリートのプライドなんざ捨てちまえ、くだんねえ。あんたがどんだけ悪あがきしたところで東京プリズン出れる見込みなんざねーよ」
 傷口を抉られた所長が悲鳴をあげる。構うもんか。
 容赦なく額をごり押して削りながら顔一杯に笑みを広げる。
 「わ、たしに出世の見込みがないと?鞭に怯える家畜の分際で飼い主を侮辱する気か!?」
 所長がヒステリックに叫ぶ。囚人に侮辱されて自尊心がひどく傷付いたらしい。知るか。何度も何度も眉間に額をぶつける、眉間の突き刺さった傷口が開いて血の飛沫がしぶく。
 傷口から飛び散った血が顔にかかり、頬に赤い斑点が跳ねる。
 恐怖と屈辱と憤怒と苦痛をごった煮した世にも醜悪な顔にタジマの面影が重なる。
 俺と鍵屋崎をさんざん虐めて天誅くだって東京プリズンを去ったタジマの顔。
 いや、違う。天誅を下したのは神様じゃない、レイジだ。
 レイジはいつだって俺を助けてくれた、どん底から救い上げてくれた。 
 今度は俺が助ける番だ。
 借りを返す番だ。
 「殺してやる」
 低く、宣告する。所長の顔が強張る。さあ今だ今殺せもう二度とレイジに近付けないように手を出せないように。
 「どうせ俺は人殺しだ、今更前科が一つ増えるくらい大したことねえ。あんた殺して殺されるなら本望だ」
 「やめ、たまえ君。私を殺したら上の人間が黙ってないぞ」
 ぜいぜい耳障りな喘鳴を漏らしながら反駁する諦め悪い態度を鼻で笑い飛ばす。
 「へえ、そんなに上から大事にされてる人間がこんな砂漠くんだりまで飛ばされてくるなんざ妙な話もあったもんだ。いい加減認めちまえよ所長、あんたは左遷されたんだ。上にとっちゃどうでもいい存在なんだ。クビにすんのも世間体悪いから囚人どもの反感煽りに煽って殺されてくれるように東京プリズンに送られたわけだ。実質上の死刑だな。なら俺が今ここであんた殺すのは上の思惑通りじゃねえか、いいさ上の思惑とやらに乗ってやるよ、あんた殺されたって聞いて上の人間が万歳三唱するとこ目に浮かぶぜ!!」
 そうだ殺せ、殺してしまえ。息の根を止めてしまえ。床に這いつくばった所長めがけ足を振り上げる。手が使えなくても人は殺せる。
 「看守に命じる!ただちにこの家畜を拘束、半永久的に独居房に閉じ込めておけ!」
 所長が居丈高に命令、金縛りが解けた看守が背後から俺にのしかかり押し倒す。看守二人がかりで来られちゃ身も蓋もねえ。
 背中に一人がのしかかりもう一人が俺の肩を押さえ込む、倒れたはずみに下顎が床に激突して垂直に衝撃が突き抜ける。
 喧嘩で顎を殴られるのは致命的、脳みそに直接ダメージが来る。
 頭蓋骨の中で脳みそを揺らされ、視界がぐにゃりと歪む。四肢がだらりと垂れ下がる。
 顎を強打し眩暈に襲われ、そのまま体の均衡を失って床に倒れ伏した俺の頭上で息を呑む気配がする。
 看守に押さえ付けられた姿勢から上目遣いに見れば、レイジが呆然としていた。
 「なんだよ、その顔……」
 「ははははははははははっははははははははっはははっ!!」
 哄笑が爆発する。不自由な体勢から顔をねじり向き直れば、勝ち誇ったように所長が笑っていた。
 洒落た縁なし眼鏡の奥、極限まで見開かれた目には狂気が渦巻いている。喜悦に口元を緩めた所長が不意に立ち上がり接近、上体を突っ伏した俺の後ろ襟をぐいと掴んで引き下ろす。弛んだ襟刳りが肩甲骨が覗くまで引き下げられ、うなじが外気に晒される。
 「これを見ろレイジ。君を助けに来た彼は、この礼儀知らずで身の程知らずな家畜は首の後ろにいやらしい痣を作っているぞ!」
 「!?な、」
 俺の後ろ襟を限界ぎりぎりまで引き下げ、声高に快哉を叫ぶ所長。馬鹿な、看守はこんなトコにキスしなかった。この痣はいつ……
 そこまで考えてハッとする。
 今朝、いや、正確には昨日の夜。
 「あいつ……!」
 犯人はホセしかいない。朝起きた時も奇妙に思ったのだ、俺は風邪っぴきなのに上半身裸で寝かされていた。間違いない、うなじにキスマークつけた犯人はホセだ。顔から血の気を失った俺とレイジを見比べて所長が嘲る。
 「今この瞬間にはっきりした。君は友人が捕まったと聞いて早急に助けに来たらしいが、それならうなじの痣の説明がつかない。昨晩レイジがひとり身悶えていた頃君はどこで何をしていた。レイジの淫らな姿態に欲情をかきたてられ一夜の慰みに気心の知れた囚人を訪ねたのではないかね?つまり君はレイジがひとり苦しんでいた頃他の囚人と情事に耽っていたのだ!!」
 「ちがっ、これは………」
 「弁解は通じない。君がレイジ以外の男と体を通じたのは事実、でなければ何故うなじに痣ができる?レイジを助けに来たのもポーズに違いない。レイジを裏切り他の囚人と寝た罪の意識を相殺せんと食堂で椅子を振り回す極端な行動にでた、違うか」
 「でたらめだ!」
 心臓が爆発しそうに高鳴る。どうしてこんなことになった?ホセへの呪詛と所長への罵倒が脳裏に渦巻く。所長は満足げに笑ってる。醜態さらす俺のうなじに指を添えて痣をさすり、レイジを振り返る。
 「ははっ、無様だなレイジ!ハルのペニスを咥えてまで守ろうとした友人に手酷く裏切られた気持ちはどうだ。うなじに淫らな痣まで作っておきながら他の囚人に抱かれた素振りなどかけらも見せず、献身の演技で自己陶酔に酔った彼をどう思うか是非とも感想を聞きたいね」
 信じるなレイジ。
 看守に押さえ込まれたまま、縋るような眼差しでレイジを仰ぐ。
 俺は他の男に抱かれてなんかいない、お前を裏切ったりなんかしてない、見捨ててなんかない!レイジは虚無に呑まれた瞳でこっちを見つめていた。前髪の奥でぼんやり見開かれた目にはあらゆる感情が窺えない。俺の首筋の痣。身の潔白を訴える俺と糾弾する所長。
 それらを順番に見比べて、漸く口を開く。
 「ロン。お前、俺を裏切ったのか?」
 抑揚のない声だった。怒りも憎しみもそこにはない、ただ事実を確認するだけの感情が欠落した声音。俺は、言葉を失った。レイジの顔にはまだ犬の精液が飛び散って意地汚くミルクを啜ったようなありさま。
 硝子めいた透明度の瞳に俺の顔が映る。
 裏切り者と決め付けられたショックに強張った顔。
 「昨日どこに行ってたんだ。誰の所にいたんだ」
 「俺を疑ってんのか?」
 情けなく声が震えた。
 詰問というにはあまりに優しい口調でレイジは言ったが、目はちっとも笑ってない。唇に微笑を上塗り、出来すぎなほど整った顔に希薄な笑みを浮かべているが、前髪に隠れた瞳だけが無表情に虚空を見据えている。怖かった。圧倒的な恐怖を感じた。レイジの目は俺を見てない、内向して自閉して自分の内側の虚無を映している。
 「違う、これは……これは勝手につけられたんだ、俺の知らない間に、俺が寝てる間に!俺は誰にも抱かれてなんかない、お前以外の男に抱かれたいとも思わない、おい聞いてんのかよ、信じろよレイジっ!!」 
 看守の手を振り落とし片膝立ち、今にも駆け出しそうに前のめりになるも、レイジは沈黙したままだ。衝動的に飛び出しかけた俺の肩に看守が手をかけ引き戻す。「連れて行け」と所長が命令、看守が二人がかりで俺を引きずっていく。レイジと距離が空く。
 嫌だ、離せ、独居房になんか行きたくねえ!
 俺は滅茶苦茶に暴れる、首を振り肩を揺すり足を蹴り上げ抵抗するも看守二人に挟まれちゃたちうちできない。レイジは微動だにせず、看守に挟まれて遠ざかる俺を見送ってる。
 レイジのそばに所長が寄り、白濁した精液に汚れたその顔に指で触れる。
 半開きの唇をなぞり、ねっとりした白濁をすくい、人さし指を口に含む。
 「何とか言えよレイジ、俺は他の男になんか抱かれてねえ、お前以外の男に抱かれたりするもんか!!なんだよその腑抜けた面は、王様の名が泣くぜ!!どうして何も言わないんだよ、そうだよなロンお前は浮気なんかしねえよなって笑い飛ばしてくれねえんだよ、俺の貞操守るために犬のペニスまで咥えた肝心のお前がどうして信じてくれないんだよっ!!?」
 口の中で指を転がしながら所長がほくそ笑み、もう片方の手でレイジの頭をなでる。レイジはされるがまま首を項垂れていた。俺の方を見ようともしない、名前を呼ぼうともしない。なんだこれ。マジかよ。何もかもすっかり説明して誤解を解こうにも俺は後ろ手に拘束されて両脇を看守に挟まれて連行される途中で、今しも扉が開かれ廊下に引きずり出されて―……
 『不可以信任!!』
 所長を信じるな!!
 眼前で扉が閉ざされ、二人が消える。
 所長室から連れ出される寸前に見た光景は、放心状態のレイジの頭を抱き、髪の毛を梳く所長の姿だった。

 あれから三日が経った。
 俺はずっと独居房の暗闇を這いずりまわってる。鼻は死んだ。糞尿と吐寫物、床一面の汚物に塗れて横たわってると時間の感覚が狂ってくる。一日二回、鉄扉下部から出し入れされるメシだけが時間を教えてくれる。食器を出し入れする時しか鉄扉は開かない。俺の餌やりはおしゃべりな曽根崎が担当してる。曽根崎は俺を手懐けようと必死だが、今んとこてんで効果がなくてしょげかえってるようだ。
 「じゃあ、明日また来るよ。何か欲しいものあったら遠慮なく言って、都合するから」
 「鼻栓が欲しい」
 「わかった」
 冗談だよ。わかれよ。
 自信満々請け負い、曽根崎が食器を回収する。ワゴンの車輪がごろごろと床を転がる。独居房に入れられて三日、初めて俺が頼ってくれたんで上機嫌、鼻歌まじりに去っていく曽根崎の足音が廊下の奥に消えるのを待ち、毒づく。
 「俺までお稚児さんにする気かよ、ぺド野郎」  
 激しく咳をする。喉が痛い。まだ風邪が治らない。当たり前だ、こんな最悪の環境じゃ治るもんも治らない。独居房は汚物溜めだ。いつここから出られるかはっきりとは知らされてない。所長の額を写真立ての角で殴打したのだ、最低一週間は入れられっぱなしだろう。ひょっとしたら一生出られないかもしれない、と弱気になる。
 物思いを打ち破ったのは、乱暴に壁を蹴り付ける音。
 「やけに大人しいじゃんか、半々」 
 分厚いコンクリ壁で隔てられた隣の房から声がする。野太い濁声で吠えたのは、俺と同じ日に独居房に放り込まれて以来日の光を浴びてない凱だ。初日に一回房を出されてシャワー浴びてる俺はまだマシだが、あれ以来一回も外に出てない凱は頭のてっぺんからつま先まで糞まみれ、ひどい状態になってるだろうなと想像する。
 「あたりまえだ。三日間も独居房くらいこんでみろ、くそったれた人生について哲学的に考えたくもなるってもんさ」
 境の壁に身を摺り寄せ、喉の奥から声を搾り出す。
 実際凱は元気だ。三日経っても弱った素振りなんざ微塵も見せない。たとえ虚勢でも俺に発破かけられるんだから大したもの。認めたくはないが東棟最大の中国系派閥、血気さかんな三百人を締め上げるボスは肝の据わり方が違うなと感心する。
 「お前はどうだ、凱。そろそろ反省したくなったか?看守の足元に土下座して涙ながらに訴えたら出してくれるかもしれねえぜ。『後生だから後生だから』って手え合わせて哀願したらどうだ、もともと巻き込まれただけなんだし」
 「おい、今なんっつた半々?」
 凱が気色ばむ。
 「誰が『巻き込まれた』ってんだ?ふざけたことぬかしてっと青竜刀で脳天から股間まで真っ二つにするぞ。いいか、ありゃあ俺が好きでやったんだ。お前に巻き込まれたなんてとんでもねえ、ただ俺が気に入らなかっただけだ。調子づいた子分に拳骨くれんのがカシラの役目だ、実力じゃレイジにかなわねえくせに本人いないところで威勢よく吠えやがる連中が大っ嫌いなんだよ俺は!!」
 「レイジがいてもいなくても吠えてるもんな、お前」
 壁の向こうで凱が鼻白む気配。やり、一本取った。
 三日間独居房に閉じ込められても狂わずにいられるのは、隣合った房の凱とビバリーがさかんに話しかけてくるからだ。鼻が麻痺した闇の底、金属の輪に擦れた手首がじくじく膿みだしても辛うじて正気を保っていられるのはビバリーと凱が話し相手になってくれるおかげだ。
 俺ひとりだったらとっくに発狂してた。
 ビバリーはともかく凱に感謝すんのは癪だが、コイツもたまには役に立つ。
 「ロンさん、生きてます?」 
 反対側の壁向こうから死にぞこないの声がとどく。ビバリーだ。
 「何とか。お前は……死んでねーなら生きてるか」
 「僕もう駄目っス。僕のまわりで祝福のラッパ吹き鳴らす天使の幻覚が見えるんス。ああ、翼の生えたスザンナが迎えに……」
 「正気かよ?あとちょっとの辛抱だから頑張れ」
 壁を蹴ってビバリーを励ます。
 俺ら三人の中でいちばん重症なのは事によるとビバリーかもしれない、幻覚が見え出したら人間終わりだ。
 「リョウさん、僕がついてなくて大丈夫でしょうか。ちゃんとご飯食べてるでしょうか。ご飯に覚せい剤ふりかけてないでしょうか」
 「お前、こんなになってもまだアイツのこと心配してんのかよ。お人よしが過ぎるぞ」
 「ロンさんにだけは言われたくないッス」
 凱が爆笑する。うるせえ。
 まあ、ビバリーが独居房に入れられたのも元はと言えば俺のせいだ。俺のとばっちりで独居房入りくらったんだから二・三日もたちゃ出されるだろうと楽観してるが、それまで正気がもつかどうか疑わしい。
 「ビバリー、気をしっかりもて。お前の頭がパーになったら誰がリョウの介護してやるんだ?スザンナの弔いだってちゃんとしてやらなきゃ化けて出るぞ。心霊現象で裸電球が点いたり消えたり砕け散ったりでおちおち寝てられなくなるぞ」
 「ロンさん僕はもう駄目っス、あと頼みます……」
 「遺言は聞かねえぞ。お前が独居房で死んだら巻き込んだ俺のせいだ、意地でも生き残れ」
 壁越しにビバリーを励ます俺のもとへ規則的な靴音が近付いてくる。誰だ?曽根崎か?さっき来たばかりなのにとうんざりする。鉄扉の前で靴音が止む。金属の鍵が触れ合う音に続いてノブが回り、房の暗闇に光が射しこむ。  
 「ロン、出ろ。年季明けだ」
 「はあ!?」
 喜びより驚きが先に立った。
 鉄扉を開けた看守が鼻に皺を寄せ、俺の肘を掴んで無理矢理引きずり出す。突然の展開に頭が追いつかない。左右の房を交互に見比べてみるがビバリーと凱が出された形跡はない。
 なんで俺だけ?乱闘騒ぎの主犯は俺なのに。
 看守に肘を掴まれて立たされた俺は、釈然としない面持ちで食ってかかる。
 「ちょっと待てよ、なんで俺だけ釈放なんだ?ビバリーと凱は、」
 「こいつらについては何も聞いてない。まだ当分は独居房だ」
 「おかしいだろそんなの!!」 
 勿論釈放されたのは嬉しい、嬉しくないわけがない。このままあそこにいたら頭がおかしくなってた。でも、納得できない。乱闘騒ぎの主犯の俺が真っ先に釈放されて、俺のとばっちりくらっただけのビバリーと凱が独居房に居残りなんて理不尽な仕打ち納得できるわけがねえ。
 「俺を出すんなら二人も出せよ、凱はともかくビバリーはとばっちりくらっただけ、本当ならもっと早く出れるはずだったんだ!ビバリーは俺を助けようとして乱闘に加わったんだ、ただ二階の手すりからダイブしただけだ、俺みたいに椅子ぶん回して囚人の頭かち割ったわけでもねえのに……」
 「ロンさん、お元気で」
 「え?」
 悟りきった声に向き直る。
 「僕のことなら気にしないでくださいっス。僕だって凱さんと同じっス。ロンさんに命令されたわけじゃない、誰に言われたわけでもない、僕自身がピンチのロンさん放っておけなくて紐なしバンジーやったんスから……ロンさんが負い目感じる必要なんかこれっぽっちもないっス。さあ、大手振ってレイジさんとこに帰ってください」
 「ビバリーの言う通りだ、半々。てめえに心配されるなんざ胸糞悪い、とっとと行っちまえ。壁一枚隔てて同じ肥溜めに顔突っ込んでた半々とお別れできてせいせいすらあ」
 「凱……、」
 壁に穿たれた鉄扉の向こう、置き去りにされる二人の行く末を考えてやりきれなさが胸を締め付ける。躊躇する俺の肘を掴み、看守が大股に歩き出す。
 看守に引きずられるがままふらつく足取りで歩き、手錠を外されてシャワー室に放り込まれる。
 シャワーを浴びて人心地つき、看守の背に従って廊下を歩く。
 「なあ、なんで俺だけ先に出されたんだ。所長はなに企んでんだ」
 「恩知らずなガキだな。素直に喜べよ」
 引率役の看守がせせら笑うが、不安感は拭えない。一歩足を踏み出すごとに嫌な予感が現実に変わりゆく確信。所長の額に写真立ての角を突き刺して怪我負わせた俺がこんなに早く釈放されるなんて絶対おかしい、裏で何か企んでるに決まってる。
 いや、それだけじゃない。
 俺の足を鈍らせるのは所長への疑惑だけじゃない。俺の足を鈍らせる最大の原因は……
 『俺を裏切ったのか、ロン』
 『昨日どこに行ってたんだ。誰のところにいたんだ』
 「…………っ!」
 強く唇を噛む。体の脇で握りこぶしを作る。
 三日前、レイジは言った。俺のうなじに咲いた薄紅の痣を見て、裏切られたと誤解した。釈明する時間さえ貰えなかった。これはホセにつけられた痣だ、俺自身あの時初めて気付いたんだと弁解する暇もなく所長室から引きずり出された俺の目に焼き付いたのは、レイジの空白の表情。
 レイジと会うのが怖い。
 どんな顔してアイツに会えばいいかわからねえ。
 次第に房が近付いてくる。俺とレイジに割り当てられた房。
 洗いたての上着の胸を掴み、高鳴る心臓をどやしつける。
 レイジは俺が他の男に抱かれたと誤解した。俺の浮気を疑ってる。
 キレたら手がつけられない暴君と化すレイジにどうやって真実を訴えればいい?いや、そもそも俺がホセの房に泊まったのは事実、ぐっすり熟睡してる間に上着を脱がされてあちこちさわられたのは事実なのだ。馬鹿正直に真相をバラしたところでレイジを逆上させる結果になりかねない。
 廊下の先に鉄扉が見えてくる。あの中にレイジがいる。
 不意に音痴な鼻歌が流れてくる。お決まりのストレンジ・フルーツ。
 久しぶりに耳にするレイジの歌声に胸が騒ぐ。靴裏が廊下に貼り付く。看守はどんどん先に行く。棒立ちになった俺がちゃんとついてきてるか確認もせず、前だけ見てずんずん突き進む。仕方なく歩行を再開、看守の背中に追いつく。
 鉄扉の前で看守が立ち止まり、ノブに手をかける。
 「レイジ、いるか。相棒のご帰還だ。せいぜい祝ってやれ」
 唐突に鼻歌が途切れる。
 看守がノブを捻り、耳障りに軋みながら鉄扉が開く。天井の真ん中に吊られた裸電球の光が一条漏れて足元を照らす。
 呆然と看守の背後に立ち竦む。どうしても一歩を踏み出す決心がつかなかった。いつまでも廊下でぐずぐずしてる俺をあやしむように看守が振り返り、腕を掴んで引っ張り込む。
 「たった三日離れてただけでよそよそしい態度とるなよ、王様の飼い猫が。それとも何か、恩知らずな猫はたった三日で飼い主の顔忘れちまったか」
 「黙れよ。用が済んだらとっとと出てけ」
 じっとり湿った手のひらをズボンになすりつけ汗を拭い、深呼吸で顔を上げる。いた。レイジがいた。ベッドの端に腰掛けて聖書を読んでいた。
 申し分なく長い足を優雅に組み、退屈そうな顔でぱらぱらページをめくってる。
 俺が入ってきたことには当然気付いてるはずなのに、こっちを見ようともしない。
 「レイ、」
 「おかえり、ロン」
 語尾を遮るようにレイジが口を開き、ぱたんと聖書を閉じて顔を上げる。ぞっとした。レイジはこの上なく穏やかな笑みを浮かべているが、レイジの笑顔を見慣れた俺は「これは偽物だ」と直感する。不安定かつ不均衡な笑顔。口元は笑っていても目は全然笑ってない、顔の上と下で温度差が凄まじい笑顔。膝から聖書をどけたレイジがこっちに来るようぞんざいに顎をしゃくる。
 三日ぶりに会ったんだ。いつものレイジなら俺にとびついて髪をぐしゃぐしゃにかき回すはずなのに、ベッドから立とうともしない。わざわざベッドから腰を上げる価値もないというように、指一本動かす労力すら惜しむようにベッドの王座に腰掛けている。
 「三日も独居房入り食らったわりにゃ元気そうだな。さっすがスラム育ちの野良猫はしぶとい」
 口の端を皮肉げに吊り上げるレイジに気圧されながらも、のろのろ足を進めて前に出る。
 「俺にさわってもらえなくて三日間寂しかった?」
 「……冗談。お前に寝込み襲われずにすんでホッとしてた」
 レイジの目がスッと細まり、獰猛な眼光を放つ。やっぱり変だ。今日のレイジは様子はおかしい。なんだって俺はレイジに尋問されてるんだ、何もやましいことなんかねえのに……だんだん腹が立ってきた。レイジはまさか俺が他の男に抱かれたと本気で疑ってんのか?所長の言う通りレイジを裏切ったと?
 「この際だからちゃんと言っとくけどレイジ、三日前のあれは」
 続く言葉は、レイジに腕を引かれて遮られた。突然ベッドから腰を浮かしたレイジが俺の腕を掴み自分の方へと引き寄せる。背中に衝撃、スプリングが軋む音。ベッドに投げ出された俺の上にレイジがのしかかり、囁く。
 「三日間会えなくて寂しかったよ」
 前髪がぱらりと落ちかかり、硝子めいて透明な瞳が現れる。
 「だから、お前と俺とお揃いにしようと思うんだ。三日間離れててもお前が俺のこと忘れたりしねえように、他の男に抱かれる時もお前は俺の物だって思い知らせてやろうって」
 喉から間抜けな呼吸が漏れる。俺をベッドに組み敷いたレイジがじゃれるようにキスをする。額に、頬に、首筋に。唇だけを避けて。
 俺の額に手をやり前髪をかきあげたレイジが、もう片方の手でズボンのポケットから何かを取り出す。レイジの指先で光る物に目を凝らす。裸電球の光に濡れて鋭利に輝くそれは……切っ先が尖った安全ピン。
 反射的に思い出す。
 いつだったかボイラー室に引きずりこまれて、タジマに耳朶を破かれそうになった時のことを。
 「俺に黙って浮気したいけない子にお仕置きだ」
 裸電球の光を弾く安全ピンを眉間に翳し、耳朶の柔らかさを指に馴染ませるように揉み解しながらレイジが微笑む。
 その瞬間、俺は理解した。
 今俺の目の前にいるのは気さくな王様じゃない、嫉妬に狂った暴君だと。
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