少年プリズン

まさみ

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三百四十四話

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 誰かがうなじをくすぐってる。
 「ん……」
 くすぐったい、むず痒い、けどそれだけじゃない説明するのが難しい微妙な感覚。
 他人の手に触れられても不快じゃないのは俺のうなじを撫でてるヤツに心当たりがあるから。朝っぱらからこんなことするヤツは一人っきゃいない。レイジだ。
 お袋は敬虔なキリスト教徒のくせに父方の血が濃いのか愛情表現過激、スキンシップ過剰な相棒には毎度うんざりさせられる。
 額にキスされたり腋の下くすぐられる位ならまだしも時々服の中に手え突っ込んでくるから油断も隙もない。
 ここだけの話人には言えない場所をまさぐられて飛び起きるのも日常茶飯事、特に体を許してからはスキンシップがより過激に過剰になった、気がする。
 図体でかいくせして俺の寝床に潜りこんで来るのはやめろ押し出されるだろうがと一喝しても本人はてんで聞く耳持たず、「だって俺フィリピン生まれの冷え性だしロンの人肌ぬくいしちょうどいい抱き枕なんだよ」とか意味不明な反論される。
 断っとくがレイジの人間抱き枕になった覚えはない。全然これっぽっちもない。何が哀しくてむさ苦しい男と一つベッドで寝なきゃいけないんだと自分の境遇が呪わしくもなる。 
 誰かがしつこくうなじをくすぐってる。
 「!ふっ、あ……やめろ、くすぐってえよレイジ。しまいにゃ怒るぞ」
 寝ぼけ声で抗議、レイジの手から逃れようと寝返りを打つ。
 不覚にも感じちまったじゃんか、畜生。レイジに抱かれてからというもの体のあちこちが神経過敏になってる。特に人体の先端が刺激は弱く、おちおちうなじを晒して寝ることもできない。
 自慢じゃないが俺は寝相が悪く、夜のうちに毛布蹴飛ばして上着はだけちまうのが常だがそうすると貞操が危うい。無意識に腹も掻けやしねえ。
 レイジの隣でべろりと上着捲ってヘソさらけだそうものなら、朝起きたら下着脱がされてたなんて最悪の目覚めを迎える事になりかねない。
 だが、指はしつこく追ってくる。俺の急所を狙って後ろ襟の内側に潜り込んだ指が蠢き、くすぐったい快感を伝えてくる。
 俺が猫だったら喉をゴロゴロ鳴らしてたに違いない。猫じゃなくて良かった。刷毛みたいで擦るみたいにうなじを擦られ、悪寒と紙一重の快感がぞくりと背筋を駆け抜ける。
 「ふっ、く………あっ、あ」
 口から変な声が漏れる。体が勝手に反応する。レイジの愛撫で感じてたまるかと反発しても生理現象には逆らえない。レイジに抱かれた夜以来、自分でも持て余すくらいに体が敏感になってると認めざる得ない。
 ちょっと首の後ろを擦られただけでコレだ。
 しっかりしろ、俺。情けねえ。これ以上レイジを調子づかせるのは癪だ。
 うなじをねちっこく攻めていた指が、首沿いに滑り落ちる。
 指の火照りが肌に伝わり、おぼろげな快感が淫蕩な熱へと変わる。
 首筋を下りた指が鎖骨の上で踊る。
 鎖骨の窪みを辿るように弧を描く指………レイジの奴、調子乗りすぎだ。俺が寝ぼけてると思っていい気になりやがって。俺の素肌を撫でてた手が、下腹部をめざして淫猥に這い下りていく。
 貧相に薄い胸板、痩せた腹、そして……
 「う、あっく……っ」
 体が熱い。息が上がる。
 股間をめざして這い下りた手が、ズボンの内側に侵入する寸前で停止。
 『不要這様……熱……色鬼……』
 涙に潤んだ目で俺に覆い被る男を見上げる。
 意識は覚醒してるが、体がだるくて言うことを聞かない。変だ。喉の奥が焼けてるみたいだ。火の粉を吸い込んだみたいな違和感が喉の奥で膨れ上がり、涙目で咳をする。
 体がぞくぞくするのは風邪をひいたせいか?そこまで考え、熟睡してる間に自分の身に起きた異状を察する。薄い胸板を手で探ってみて、上半身に何も身につけてないことを再確認。
 急速に意識が覚醒、毛布を蹴飛ばして跳ね起きる。
 「おはようございます、ロンくん」
 上半身裸で跳ね起きた俺を迎えたのは、ホセ。
 きっちり七三に分けた髪の下には秀でた額、凛々しい眉、ラテンの血が濃い彫り深い目鼻だち。
 爽やかに挨拶したホセと自分のカッコとを見比べ、全身から血の気が引く。
 俺にのしかかったホセは非常識にも黒いビキニパンツ一枚っきゃ穿いてなくて、ぴっちり股間を覆った布地の下ではレイジのそれよかご立派なブツが存在を主張してる。
 これ突っ込まれたら痛いだろうな、と下世話な方向に傾きかけた思考を軌道修正、一糸纏わぬ上半身を探って凍り付く。
 「おま、えっ、何、なんだよこれホセお前俺が寝てる間になにしたんだ、上着、俺の上着はどこやったんだよ裸に剥きやがって!?ひとが正体なく眠りこけてる間に上着脱がして何する気だったんだこの変態、お前も残虐兄弟のお仲間じゃねえか!?」
 強姦された女みたいに二の腕を抱いてあとじさりがてら、下半身を見下ろして心底安堵。
 良かった、穿いてる。
 ズボンと下着まで奪われてたら卒倒するとこだった。て、待てよ。ここにホセがいるってことはここはホセの房でさっきまで俺のうなじ弄くってた犯人は……
 ホセ?!
 「見損なったぜラテン七三メガネ!愛妻家ってのは世を忍ぶ仮の姿で本性はラテンのリズムで女を口説く色事師かよ、永遠の愛誓ったワイフ裏切って心痛まねえのか、そもそも娑婆で帰りを待つワイフってのも嘘っぱちで実は独身なんてオチじゃねえだろうな!?ああもう絶望した、絶望した!お前にゃがっかりだホセ、まがりなりにも俺に特訓つけてくれたコーチだって信頼してたのにっ……」
 「落ち着いてくださいロンくん」
 「言い訳すんな!」
 「上着は最初から着てませんでしたよ」
 え?
 ホセの指摘に記憶が蘇る。
 そうだ、俺は最初から上着を着てなかった。上半身裸で房を飛び出てきたんだ。そして上半身裸でほっつき歩いてるところを残虐兄弟に襲われて……
 押し倒された床の冷たさ、顔にかかる吐息、瓜二つの残虐兄弟。
 あの時もしホセが通りかからなきゃ俺は犯られてた。
 ホセは命の恩人だと認識を改めたそばから感謝の念を打ち消すように意識が途切れる寸前の出来事がよみがえり、下腹部に違和感を感じる。こぶしで殴られた衝撃で腹がひりひりする。ホセの拳は人体の急所を的確に捉えた。俺は一発で気を失って、そして……
 それからどうした?
 「そんな目で見ないでください。レイジくんと勘違いされてたようで、反応が面白くて、つい……すいません」
 ベッドパイプに背中を凭せ掛け、毛布を膝まで引き上げあたりを見回す。内観は何の変哲もない房だ。閉塞感を与える低い天井、灰色のコンクリ壁、壁際のパイプベッド。俺の房とどこも変わらない……いや、違う。壁の至る所にべたべた貼ってある写真が違和感の源だ。手近の壁に貼ってある写真に目を凝らした俺は被写体が若い女だと確認、情熱的な美貌に目を見張る。お袋といい勝負の美人。
 「紹介します。我輩ホセの最愛のワイフ、カルメンです」
 ホセが頬を染める。
 「……実在したのか」
 「どういう意味ですかそれは」
 壁のあちこちに同じ人物の写真を貼ったさまは壮観だった。四面の壁を埋め尽くす写真を眺め、呆然と口を開けた俺の反応をどう解釈したか、大仰な身振り手振りを交えてホセが主張する。
 「ふふ、ウブなロンくんはワイフの美貌に卒倒せんばかりですね。しかし寂しい夜のおともにワイフの写真を所望されても応じかねますので悪しからず。たとえ写真といえど最愛のワイフを売り渡すなど悪魔に魂を売るにひとしく許されざる行い、ワイフの微笑みは永遠に我輩の物、他の男には指一本触れさせるものですか!!あ、半径1メートル以上近付かないください。指紋つけたら殴り殺します」
 慌てて手を引っ込める。
 四面の壁を埋め尽くす写真から目を逸らし、ベッドの端っこで膝を抱え込む。
 「つまりここは南棟のお前の房ってわけか」
 昨日ホセに殴られた腹を無意識に庇い、顔を顰める。
 「で、俺の腹殴る理由がどこにあんだよ」
 「我輩が殴った?」
 「とぼけんな」
 「とぼけてなどおりません。我輩は廊下で倒れたロンくんをここまで運んできただけ、断じて殴ってなどおりませんが」
 心底困り果てた顔で俺を見つめるホセに狼狽する。まさか。俺は昨日ホセに殴られた。腹に一発食らって気を失った。ホセに殴られた腹はまだひりひりするのに、当の本人があっぱれな態度ですっとぼけやがる。
 「嘘つけよ!俺の腹サンドバックみてえに殴ったくせにすっとぼけてんじゃねえ、ボクサーの拳は凶器だって知らねえのか!?」
 「どうやら記憶が混乱してるようですね。無理もない、昨夜倒れたときは熱で意識が朦朧としてましたから……強姦未遂を働いた二人組がしたことと我輩がしたことがごっちゃになっているのでしょう」
 ホセがしれっとうそぶく。こいつ、あくまでとぼける気か?シラを切り通すホセに激怒、真正面から殴りかかるも拳がすかっと空を切る。視界が霞み、対象と手元の距離感が狂う。体が言うことを聞かない。ホセの顔面を殴ろうとした拳がへろへろと頼りない軌道を描いてシーツに不時着、腕を振りかぶった反動でバランスを崩した俺はそのままベッドに突っ伏す。
 「くそ、力が入らねえ……」
 「朝一で医務室に行くのをお勧めします。我輩の見立てによると熱は三十七度以上、今日一日は安静にしてないと肺炎を併発します」
 「風邪で強制労働サボれりゃ苦労しねえよ。ここをどこだと思ってるんだ、悪名高い東京プリズンだぜ」
 「我輩を誰だとお思いで?レイジくんに南のトップを追われたとはいえ隠者の権勢はいまだ衰えず、イエローワークの看守に掛け合って一日休みを貰ってあげます」
 ベッドに倒れ込んだ姿勢から上目遣いにホセの表情を窺う。善良そうな顔。昨日ホセが俺を殴ったのは何かの間違いじゃないか、という疑惑が脳裏をかすめる。ホセの言う通り、残虐兄弟がやったこととごっちゃになってる可能性が否定できない。
 そうだ。きっとそうだ。
 行くあてない俺を一泊めてくれた上に看守に掛け合って休みを貰ってくれると宣言したホセが、どてっ腹に一発くれる理由が見当たらない。俺はきっと熱で意識朦朧としてたせいで勘違いしたのだ。ブラックワーク参戦した時は血も涙もねえ鬼コーチと呪ったこともあったけど、医務室じゃ親身に俺の相談に乗ってくれたホセが、レイジとすれ違って意気消沈してた俺を叱咤してくれたホセがボディーブローなんてかますはずない。
 そう言い聞かせて疑念を打ち消そうと努めるも、昨夜見た邪悪な笑みを忘れられず、慎重に問う。
 「……ホセ、本当だよな。嘘じゃねえよな」
 「勿論ですとも」
 生唾を飲み込み、ホセを見つめる。黒縁メガネの奥の目は知性を感じさせる。
 『手駒は多いに越したことない』
 意味深長な独白が耳の奥にこだまする。昨日の『あれ』は高熱が見せた幻覚だったのか?意識を失う寸前の記憶は朦朧として嘘かまことか判別つかない。軽くウェーブした前髪を額に垂らしたホセが情熱的なラテン男に変貌、俺を「手駒」と呼んだのも……
 「ワイフに誓えるか?」
 ホセが一瞬押し黙り、すぐまた笑顔になる。
 「誓えますとも」
 壁の写真を一瞥、厳粛に頷いたホセに安堵する。ワイフに誓って真実だというならもう信じるっきゃない。愛妻家に乾杯。とはいえ若干腑に落ちないものは残る。ホセの笑顔を額面どおり受け取れず、善意と悪意の境目が微妙な言動に付き合うのに疲れた俺は、東棟に帰ることにする。
 「……俺、東棟に帰る。今から帰りゃ朝飯に間に合う」
 「今日一日は安静にしてなきゃ駄目ですよ?」
 「気安くさわんな」
 額におかれた手を邪険に払いのけ、スニーカーをつっかけて房を突っ切る。背中に視線を感じる。房の中央に佇み、俺を見送るホセの視線。ノブに手をかけ押そうとして、もう一つの疑問に行き当たる。
 「ホセ。お前昨日、服貸してくれたよな」
 「はい、お貸ししましたが」
 「それじゃ何で俺、今朝起きたとき上着着てなかったんだ?」
 おかしい。やっぱりおかしい。矛盾だらけの言動に不審感を煽られノブを握り締めて振り向けば、ホセがおどけたように首を竦めてみせる。
 「我輩実は冷え性なのですよ。昨夜は少々カッコつけてロンくんに上着をお貸ししましたがじきに耐え切れなくなり、君が眠ってる間に返してもらいました。ああ、心配はいりません。ロン君のことは一晩中我輩がつきっきりであたためてあげましたから」
 一晩中、つきっきりで?
 不穏な単語に顔が強張る。得意げに胸を張るホセにそれ以上は突っ込めず、逃げるように房を出る。
 乱暴に鉄扉を閉じて凭れかかれば、夜明けの冷気が足元から忍び寄ってきて身震いする。
 ホセの前じゃ懸命に堪えていたがとうとう我慢しきれず、豪快にくしゃみをする。
 貧乏くさく鼻水を啜り上げて歩き出し、心の中で恨み言を吐く。
 風邪をひいたらホセのせいだ。

 結局医務室には寄らなかった。
 ホセの言葉を鵜呑みにしていいかどうか迷ったが、あいつが俺を騙す理由もないだろうと当面は信用する、ことにする。
 東棟の廊下にはちらほら早起きの囚人が沸いてて、上半身裸の俺に向けられる視線が痛かった。
 まさかこのカッコで食堂に行くわけにもいかず、覚悟を決めて房の鉄扉を開けたがレイジはいなかった。
 先に食堂に行ったのか?
 玩具入れたままで?
 レイジと会わずにすんで安堵したのと落胆したのと半々の気持ちだ。昨夜脱ぎ捨てた状態のまま床に落ちた上着を手に取り、袖を通す。
 これで良し。ボロボロに汚れた囚人服でも素肌を覆えるだけ有難い。
 囚人服の上下を身につけ、早速食堂に向かう。
 ちょうど起床時刻が来て廊下には囚人が溢れ返っていた。雑踏に揉まれて食堂に辿り着いた俺は、熱をもちはじめた喉に手をやり、軽く咳をする。喉がいがらっぽい。扁桃腺が腫れてるのかもしれない。
 喉に来る風邪は厄介だなと顔を顰め、食堂を見渡す。
 風邪のせいで食欲がないのに食堂にやってきたのはレイジの無事を確認したいから。鍵屋崎とサムライの様子を確認しておきたかったから。食堂に来れば会えるはずだと漠然と予感して足を運んできたものの、俺たちがいつも座ってるテーブルには先客いなくてこれ幸いと違う奴らが陣取ってる。
 レイジは?鍵屋崎は?サムライは?
 三人とも姿が見えず当惑する。誰かレイジを見なかったかと通りすがりの囚人に聞きたかったが、半々と忌み嫌われる俺が追いすがったところで邪険にされるのがオチ。
 食堂の真ん中に途方で暮れて佇む俺のもとへ、軽快な足音が近付いてくる。
 「おはよう」
 爽やかな挨拶に振り向けばトレイを抱えた静流がいた。
 「酷い顔色。具合が悪そうだけど、房で寝てなくていいのかい?」
 「お前、レイジ見なかったか?」
 「レイジ……ああ、いつも君と一緒にいる茶髪の彼か。さっき食堂で見かけたよ」
 「本当か!?」
 思わず声が跳ね上がる。
 発作的に肩を掴んで詰め寄れば、手からトレイに振動が伝わって味噌汁が零れ、静流が「ああ、もったいない」と嘆く。優美に眉をひそめて咎め立てる静流には構わず、乱暴に肩を揺さぶる。
 「あいつどうしてた?食堂にいたってことは房からここまでちゃんと歩けたんだな、一人でやって来れたんだな?レイジ見かけたってそりゃ何分前の話だ、五分前なら行き違ってたかも……」
 「テーブルに突っ伏してぐったりしてたよ。居眠りでもしてたんじゃないかな?朝餉にもろくに箸をつけてなかったし、遠目には具合が悪そうだったけど……ひょっとして彼から風邪を伝染されたの?夜長の退屈しのぎに肌を重ねるのはいいけど、口移し体移しで風邪を貰ったんじゃいい迷惑だね」
 「―――!!っ、」
 肩に爪が食い込む。レイジのことを何も知らねえくせに勝手なこと言うな、一晩中どんなにか苦しんだか知らねえくせに!静流は冷笑とも憫笑ともつかぬ笑みを浮かべて俺を眺めている。
 上品な仕草で肩にかかった手を払い、美しく背筋が伸びた姿勢で歩き出した静流に声を荒げて食い下がる。
 「待てよ、レイジは今どこにいるんだよ!?」
 「今さっき看守に連れてかれたよ。どこに行ったかまでは知らない。そのうち戻ってくるんじゃないかな」
 「鍵屋崎とサムライは……、」
 静流が立ち止まる。
 食堂の喧騒からそこだけ切り離されたような静寂に包み込まれて静流の背中と対峙した俺は、不吉な胸騒ぎに襲われる。
 「直くんは知らない。今朝方帰って来たと思ったらすぐまた走り去ってそれきり行方知れず。貢くんは……」
 くすり、と奥ゆかしい笑いを漏らす。
 「昨日は一晩中僕の下で喘いでいたから、千々に乱れた寝床で情事の余韻に浸っているんじゃないかな」
 振り返り際静流と目が合い、戦慄する。
 静流は驕慢に笑っていた。細めた双眸に覗くのは侮蔑の色、自分の本性をとうとう見抜けなかったサムライを憐れむ色。
 しなやかに身を翻した静流が遠ざかっていくのを間抜けに突っ立って見送り、弾かれたように食堂を見回す。レイジがいない、鍵屋崎がいない、サムライがいない。だだっぴろい食堂に俺以外誰もいない。
 俺の中で何かが切れた。
 名伏しがたい衝動に駆り立てられ、トレイを運ぶ囚人に肩をぶつけて走り出す。無尽に張り巡らされた通路から通路へと駆けてレイジと鍵屋崎とサムライを捜す、残飯が散らかった通路を忙しなく行ったり来たり何往復もして仲間を呼び求める。
 「どこにいんだよ、レイジ、鍵屋崎、サムライっ!!」
 返事はない。俺の叫びは喧騒に紛れて消えていく。
 それでも諦めれきれずレイジと鍵屋崎とサムライの名をくりかえし呼ぶ、喉擦り切れるまで呼び続ける。声が掠れ、喉が腫れる。喉を酷使したせいで風邪が悪化、咳の間隔が短くなる。テーブルに片手を付いて激しく咳き込む俺を一瞥、そばの囚人が露骨に舌打ちする。
 「こっち来んな半々、風邪が伝染るだろうが」
 「しっしっ」
 「唾とばすなよきったねえな」
 「首にネギでも巻いて寝てろよ」
 ひりつく喉を庇い、足をひきずり歩き出す。レイジがいないことはわかった、看守に連れてかれたのは事実だろう。
 でもじゃあ鍵屋崎とサムライがいないのは何故だ?おかしいじゃんか、こんなのって。テーブルに縋って立ち上がり、俺たちがいつも座ってるテーブルに接近。俺たちがいつも座ってるテーブルに陣取ってたのは凱のグループの末端、中国系の囚人。
 バカ話に興じながら飯を食ってるそいつらの正面に立ち塞がり、ガンを飛ばす。
 「お前ら、そこは『俺たち』の席だぞ。誰に断り入れて座ってんだ」
 唐突に笑い声が止む。俺たちの席に座ってた囚人が不快感もあらわにこっちを見る。
 「お前らがそこにでけえケツ据えてたら、鍵屋崎が座れないだろ。サムライが床で飯食う羽目になるだろ」
 「文句あんのか半々。あんなら力づくでどかしてみろよ」
 レイジの席に大股開いて座った体格の良い囚人が黄ばんだ歯を剥いてせせら笑い、仲間が追従して笑う。
 俺たちがいつも座ってるテーブルを占領したそいつらは、わざと見せ付けるように足を開いて椅子を挟み、調子に乗って続ける。
 「いいじゃんか別に、レイジがいねえんだから」
 「いや、ついさっきまで居たか。ぐったりテーブルに突っ伏してたところを看守に拉致られて所長室に強制連行だと。何やらかしたんだろうな、王様は」
 「お前知らねえのか?」
 「知らねえって何を」
 「新しく来た所長が王様にご執心だって噂。一昨日無理矢理連れてかれたのも所長直々に調べたいからだそうだ。今頃は体の裏も表も調べられて剥製にされて所長室に飾られてる頃だろうさ」 
 「ケツの穴の中まで調べられてるんだとよ」
 「マジかよ!?」
 「お前レイジの喘ぎ声聞かなかったのか?近所の奴は一晩中眠れなかったとよ。房に帰されてからずっと悲鳴だか喘ぎ声だか上げ続けて、看守から聞いた話じゃ……」
 「やめろ」
 低い声で制止する。やめろ、その先は言うな。
 祈るように呟いた俺を無視、味噌汁を一気飲みした囚人が手の甲で顎を拭う。
 「所長室の外で見張ってた看守の話じゃ随分ごさかんだったみたいだぜ。レイジを裸にして鞭打った挙句にケツにローター突っ込んで帰したってもっぱらの噂だ。ああ畜生っ、レイジの隣の房の奴が羨ましいぜ!一晩中艶っぽい喘ぎ声聞けて射精しまくりなんて羨ましい、いやいっそ同房なら良かったのか、ええっ、どうだ半々一晩中レイジがイくとこ見てヌいた感想は?一体どんなエロいカッコしてたんだレイジは、上の口からも下の口からも涎垂らしてひィひィよがり狂ってたんじゃねえのかよ?あひゃひゃひゃひゃ、想像だけで勃ちまったぜ!
よう半々、お前実はケツにローター突っ込まれてよがり狂うレイジ見て興奮したクチだろう?びんびんに勃起しちまったクチだろう?」
 机を平手で叩いて哄笑する囚人に刺激され、周囲のテーブルの囚人までもが笑い転げる。
 「レイジを犯った感想はどうだ半々」
 「ローターでこなれたケツはさぞ使い勝手良かったろうな、羨ましい」
 「今度レイジがローター入れて帰って来たときは右隣の俺も呼んでくれよ。一緒に楽しもうじゃんか」
 うるさいうるさいうるさいうるさいうるせえ。
 笑いすぎた囚人が腹を抱えて床に転落、けたたましい音をたて椅子が倒れる。
 「お前のチンポじゃ王様だって物足りねえだろ。なあ、持つべきものはご近所さんだ。今度レイジが帰ってきたら仲良く3Pしようじゃんか。一晩中喘ぎ声聞かされちゃこっちの身がもたねえよ。すっげえ声だったぜ、アレ。よっぽどタマってたんだろうなあ、勃ちっぱなしイきっぱなしで『あっ、あっ、ああああぁあっ』って切ねえ声が壁の向こうから」
 
 殺してやる。

 手近な椅子を掴んで振り上げ、囚人の後頭部をぶん殴る。
 腕を突き上げる衝撃……脳天がかち割れる衝撃。
 一晩中レイジの喘ぎ声を聞いてたと鼻の穴を膨らませ自慢する囚人の後頭部を椅子で打ちのめした俺の瞼と頬に生ぬるい液体が付着する。
 血だ。
 瞼に飛んだ血が目に流れ込み、視界が赤く霞む。
 両手が椅子で塞がってるために返り血を拭うこともできず、瞬きで目から絞り出した血の涙が頬を滴る。
 「レイジの喘ぎ声聞いた奴は俺の前に出て来い、一人残らず殺してやる、てめえら一人残らずぶち殺して無かったことにしてやる、椅子で脳天かちわって食堂の床一面に脳漿ぶちまけて味噌汁みたいに啜らせてやっからそこに這いつくばれよ!!」
 椅子で頭を殴られた囚人が床にうつ伏せに倒れ、白濁した唾液の泡を噴き、瀕死の痙攣をする。白目を剥いて失神した囚人の後頭部がへこみ、傷口が開き、血が流れる。同じテーブルの囚人が悲鳴をあげ椅子から転げ落ち、腰砕けにへたりこむ。
 狂乱。
 「てめえ半々、なにとち狂ったことしてやがる!?」
 「椅子、椅子を取り上げろ!椅子さえ取り上げちまえばこっちのもんだ、煮るなり焼くなり好きに料理してやらあ!!」
 俺たちの席を占めていた囚人が椅子を蹴倒し、獰悪な形相でとびかかってくる。テーブルの上に立った野次馬が喧々囂々罵声を浴びせる中、俺は滅茶苦茶に椅子を振り回し、右から左から正面からとびかかってくる奴を片っ端から薙ぎ倒す。
 顔面を椅子で一撃、鼻っ柱をへし折る感触が腕に伝わる。
 盛大に鼻血を噴いて倒れた囚人を飛び越えて踊りかかってきた奴が椅子を奪い取る前に鳩尾に蹴りを入れ、腹を庇ってよろめいた隙に椅子で顎を吹っ飛ばす。
 返り血が飛ぶ。視界が赤く煙る。生ぬるい液体が顔を濡らす。
 顔に何か白く固い物が当たる。足元に転がった固形物を見下ろせば歯だった。俺がぶん殴った囚人の口から抜けた歯が顔にぶつかったのだ。
 俺にとびかかってくる連中を手当たり次第に椅子でぶちのめし鼻っ柱をへし下り顎を砕き悶絶させ、憤怒に駆られて喚き散らす。
 「レイジは俺の物だ畜生、俺のレイジを笑った奴は全員頭かっ飛ばして脳漿ぶちまけてやる、お前らの脳漿味噌汁の具にしてやるよ!!てめえら何も知らねえくせに好き勝手なこと言いやがって、レイジがどんなにか苦しんだかも知らねえでふざけたことぬかしやがって、俺はレイジを守れなかったのに助けられなかったのに、レイジは死ぬほど苦しんで俺は死ぬほど悔しくてどうしようもなかったのにお前らはっっっ!!!!!!」
 張り裂けそうな喉の痛み。
 張り裂けそうな胸の痛み。
 力任せに椅子を振り回して俺に襲いかかってきた連中を薙ぎ倒してるうちに、ずるりと足が滑る。床にこぼれた味噌汁で足を滑らした俺の手から勢い余って椅子が飛んでいく。俺が腕振りに任せてぶん投げた椅子はテーブルのど真ん中に落下、トレイが盛大にひっくり返り味噌汁を垂れ流し食いかけの飯をぶちまける。
 「この野郎、俺の朝飯だいなしにしやがって!!」
 「ワカメを鼻から噴いたろうが!!」
 朝飯を台無しにされた囚人がテーブル飛び越えて乱闘に加わる。
 得物をなくした俺は通路の果て、壁を背にした行き止まりに追い詰められる。俺の敵はいつのまにか倍の倍、五十人近い数に膨れ上がっていた。はでに暴れて被害を拡散したのが仇になったらしい。
 突然目の前に落下した椅子にトレイを覆され飯をぶちまけた囚人が、鼻っ柱へし折られて顔面朱に染めた囚人が、殺気だった集団の先頭で足並み揃えて猛進してくる。

 返り血に染まった腕を見下ろした俺は、ショック症状で手足を伸び縮みさせる囚人に一瞥くれ、自分がしでかした事の重大さに衝撃を受ける。
 そして、悟る。
 
 ああ、殺される。 
[newpage]
 出口のない暗闇に一人立ち尽くす。
 封鎖された通路に人けはなく荒廃した闇が蟠っている。コンクリ壁に等間隔に穿たれた鉄扉、治安の悪さを示すように破砕された蛍光灯。床一面に散らばっているのは鋭利な切っ先を見せる蛍光灯の破片だ。
 寒々しいコンクリ壁と低い天井が息苦しい閉塞感を与える空間には僕以外の人間が存在せず時間が停滞している。
 禁域、廃墟。
 そういう呼び名こそふさわしい人の訪れを拒否する場所は、一人静かに自分と向き合うには雑音に阻害されず余計な邪魔が入らぬ最適の場所だ。
 立ち入り禁止のテープを踏み越え、酔狂な囚人がペンチなどの道具を用いて強引に突破したらしき痕跡を鉄条網に発見、その穴をくぐる。
 部外者の立ち入りが禁止されて久しい区域だが、それでも囚人が出入りした痕跡がそこかしこに見受けられる。看守の管理と監視が杜撰なためだろう。僕も容易に不法侵入することができた。
 暗闇に目が慣れるのに多少時間を要したが、幸いにも朝まだ早い時間帯ということもあり僕以外の人間はいないらしいと確認。
 埃と静寂が沈殿した通路に靴跡を刷りながら目指す地点に到着、鉄扉に背中を預け座り込む。
 僕は臆病者だ。
 その事実を自らに確認、衝撃に乱れた思考を纏めようとする。
 僕は臆病者だ。現実に目を瞑り、サムライ本人に真相を問いただすこともせず即座に逃げてきた。服越しの背中に骨まで染みとおる鉄扉の冷たさを痛感、動悸を抑えようと深々息を吸い込むも喉にひっかかってしまう。頭が、脳が、現実の受け入れを拒否している。今さっき目撃した光景が現実のものだと認めたくないと絶叫している。
 今さっき目撃した光景……思い出すのも忌まわしくおぞましい衝撃的な光景を回想し、心の表面が不穏にさざなみだつ。
 サムライの上に跨る下半身裸の静流。
 僕らを振り返り、勝ち誇ったように微笑んで。
 勝利の愉悦に酔い痴れた口元には驕慢な風情。
 情事の現場を目撃されても一切動揺も弁解もせず堂々たる態度でサムライに乗り続けた、見せ付けようとでもするかのように。『見せ付ける』?誰に?決まっている、静流が情事を見せつけようと目論んだ相手は僕しかいない。ヨンイルがあの場に居合わせたのは計算外だったにしても、サムライと同房の僕は遅かれ早かれいずれはあそこに戻らざる得なかった。静流はそれを見抜いていた、僕が朝方房に帰ることを予測してズボンと下着を脱ぎサムライにのしかかったのだ。
 僕は、逃げ出した。あの場に居るのに耐えられなかった。
 慄然と立ち竦んでいた時間は三秒もなかった。静流に背を向けヨンイルに背を向け逃げ出した。背後から追いかけてきたヨンイルの呼び声も無視した。どこをどう走ったのか記憶はあいまいだ。
 ただ逃避の衝動に駆られるがまま直線の通路を走り角を曲がり、気付けばこの場所に立っていた。
 理解できない。
 「……理解できない。何故僕はこんなにショックを受けているんだ?」 
 口に出して疑問点を指摘する。
 昨日の時点でサムライが静流を選んだのは明白、図書室での一件がサムライの心変わりを証明してる。
 そうだ、サムライが、違う、帯刀貢が静流を選んだのは既にわかりきったこと、既知の事実だった。なのに何故僕は静流とサムライの情事を目撃したこんなにも動揺している、こんなにも混乱している?
 自分で自分がわからない。意味不明支離滅裂だ。
 「帯刀貢が静流に欲情したことにショックを受ける理由がない。帯刀貢は静流とごく親しい関係にあった。血縁者という点を除いても静流が盲目的に貢を慕い貢が献身的に静流を庇っていたのは事実、もとより結びつきの強い二人の間に恋愛だか性愛だかの感情が芽生えても不思議はない。帯刀貢と静流の関係はそれ自体閉塞的に完結している、他者の媒介を必要としない閉じた円環の中にある一種の相互依存といえる。帯刀貢と静流が肉体関係を持つのは十分予測の範囲内だった、いまさら何を驚くことがある?ないだろう何も」
 早口に論理をつむぎ、自分を納得させようとする。
 昨日の時点でサムライが静流を選んだのは明白だった。僕は完全にサムライに見捨てられた、拒絶されたというのに……これほどまでにショックを受けるということは、僕自身でさえ気付かぬ彼に対する希望を捨て切れなかったのか?温情を期待していたのか?
 口の端を歪め、無様な自分を嗤う。
 無意識にサムライに縋ってしまう自分を嘲笑する。
 僕が心を許したサムライはもうこの世に存在しないというのに。
 これからどうすればいいのだろう。どこへ行けばいいのだろう、という根源的な疑問が脳裏に浮上する。房には帰れない。サムライと顔を合わすのだけは絶対に避けたい。
 正直、他人と会いたくない。外界との交流を絶ち、こうしていつまでも己の殻に閉じこもっていたい。ヨンイルは今も懸命に僕を捜しているはず。遠く、僕を呼ぶ声がする。ヨンイルの声。発作的に逃げ出した僕を捜して駆けずり回っているのだろうと麻痺した心で同情する。
 懐に抱え込んだ膝に額を預け、目を閉じる。
 瞼の裏の暗闇が視界に覆い被さる。
 「……恵に会いたい」
 瞼の裏に最愛の妹の面影が浮かぶ。
 おさげに結った髪を肩に垂らしたあどけない顔。恵は今どうしているだろう?恵に会いたい、ただそれだけが僕の望みだ。サムライを失った僕にはもう恵しかいない。やはり他人など信じるべきではなかった、恵以外の人間に心を許すべきではなかったのだ。
 これは罰だ。
 恵以外の人間に心を許した罰。たとえ一瞬でも恵よりサムライを重んじた罰。
 「恵に会いたい。会って許しを乞いたい、謝罪したい。こんな僕ですまなかったと、こんな兄ですまなかったと謝りたい」
 暗闇に声が吸い込まれる。当然答える者はない。
 「駄目な兄だと僕を罵ってもらいたい。いっそ人間失格の烙印を押してもらいたい。天才の矜持も人間の尊厳も蹂躙してほしい」
 恵が僕を殺したいというなら殺せばいい。それで恵が救われるというなら構わない。僕が死んだところで哀しむ人間など誰もいないが、僕が死んで安堵する人間は多い。僕も僕自身の命に価値が見出せない。
 所詮人工の命、量産可能な命にもとより価値などあるのだろうか?
 僕はIQ180の頭脳に誇りを持っているが、頭脳以外の価値がない人間はもはや人間ではないという醒めた認識も同時に持ち合わせている。頭脳以外に誇る箇所がないのは人間ではなく精密な生体機械だ。

 僕がいなくなったほうが恵は幸せになれる。
 サムライも幸せになれる。静流と一緒に。

 「最大の誤算はサムライと出会ってしまったことか」
 口の端を吊り上げ、皮肉に嗤う。サムライと出会いさえしなければ僕が他人に心を許すこともなく、また他人に依存することもなく、永遠に恵だけを思い続けていられた。
 サムライと出会ってしまったのがそもそもの間違いなのだ。僕と出会いさえしなければサムライと静流が結ばれるのに何の障害もなかったのだ、僕には無縁の血の絆で結ばれたサムライと静流は苗の死を乗り越え幸福になれたのだ。
 そのまま鉄扉に凭れ、世界を呪う。
 僕を生み出した世界を呪い、皮肉なめぐりあわせを呪う。
 僕を現実に引き戻したのは、靴裏が蛍光灯の破片を踏み砕く音。静寂をかき乱す侵入者の気配。
 「!誰だ」
 声音鋭く暗闇に誰何の声を投げかける。応答はない。鉄扉を背に上体を起こし、いつでも逃げ出せるよう身構え、侵入者の出現を待つ。
 暗闇の向こうから現われた人間と対峙、驚愕に目を剥く。
 そこにいたのは安田だった。
 「所長の犬が何の用だ」
 「『上』でヨンイルと会った。行方知れずの君を捜しているらしい。朝早くから西の囚人を捜索隊に駆り出して大騒ぎだ」 
 安田が指で指し示した方角を一瞥、渋面を作る。階上の喧騒は先ほどより大きくなっている。「こっちにはいませんでしたヨンイルさん!」「くそっ、なおちゃんどこ行きよった?通りぬけフープでも使うたか」と舌打ちまじりにやりとりする声がする。
 「君こそ何故ここにいる。売春班は数ヶ月前に廃止された。この区域も閉鎖されたはずだが」
 安田に事務的に問われ、口を噤む。僕が今いる場所は中央棟地下一階、かつての売春通り。僕が強制的に売春させられていた場所。僕が凭れかかっている鉄扉の向こうは、僕がかつて何人もの客に犯されたシャワー付きの房だ。
 「ここなら誰にも邪魔されず思索に耽れると思ったからだ」 
 半分嘘で半分真実だ。
 僕がここに来たのは半ば無意識だった。
 サムライと静流の情事を目撃した直後、足が勝手にここに向いていた。本来近寄るのも嫌で忌避していた場所だというのに、いざとなればここしか行く場所が思い当たらなかったのだ。
 安田は何も言わず、痛ましげな顔で僕を見つめていた。不躾な凝視に気分を害す。そんなに酷い顔色をしているのだろうか、僕は?鏡に映して確認したくてもここでは無理だ。
 と、安田が不意に動き、僕の隣の壁に背中を凭せかける。
 「ここは禁煙だ」
 背広の内側に潜らせた手を止め、安田が疑惑の眼差しを向けてくる
 「そんな規則は存在しないが」
 「僕が今決めた」
 不安定な沈黙が落ちる。背広から手を抜いた安田が諦めたように嘆息、虚空に顔を向ける。 
 眼鏡の奥の目が細まり、冷徹な眼光を宿す。
 「鍵屋崎、君に聞きたいことがある。君がいまだに黙秘を続けている両親殺害の動機だ」
 突然だった。一瞬心臓が止まった。
 安田の横顔を仰ぎ、慎重に本心を探る。
 安田は正面を向いたまま、表情の洗われた横顔を晒している。
 「僕が両親を殺害した動機を知りたいか?高潔な人格者を気取りたがる副所長も俗世への関心を断ち切るのは不可能、下世話な好奇心を封じこめるのは無理か。僕が鍵屋崎優と由香利を刺殺した動機が知りたいなら調書を読めばいい。東京少年刑務所への身柄送致に伴い届いた書類に精神鑑定の判定結果が載っているはずだからそれを参考に適当に予想してくれ。愛情の薄い両親に顧みられなかった反動で突発的反行に及んだとでも事件背景を捏造しろ」
 「君の口から直接聞きたい」
 「無関心な両親に愛情を求めて得られなかった反動で殺した。これで満足か?」
 片足を無造作に投げ出し、なげやりに吐き捨てる。
 どんな意図があり今更こんな質問をするのか、安田の真意が読めず不信感が強まる。安田は何かを隠している、重大な何かを。
 眼鏡のブリッジを中指で押さえて安田を見上げれば、副所長が暗澹と呟く。
 「……鍵屋崎、馬鹿にするのはよせ。虚偽と真実を見分けられないほど私は落ちぶれてない」
 「僕はありのままの真実を語っている。法廷に立ったときと同じく」
 「君の裁判記録を閲覧した。法廷で反抗的な態度をとった為に陪審員の心証は最悪、過半数が極刑を決めたそうだな」
 「反抗的な態度?心外だな、裁判官・検事・弁護士の質問には誠実な態度で答えたのに」
 「検事が過去に起きた子供による両親殺害の事例を挙げた際、検事以上に正確にその事例を述べたのはやりすぎではないか」
 「あの検事は勉強不足だ。予習を怠ったせいか本人の不注意かは知らないが、平成32年12月8日に千葉で起きた12歳男子による両親および妹殺害事件を『平成31年発生』と言い間違えた。年号の誤りを指摘するついでに事件の詳細を語ったまでだ、何が悪い?」
 僕は間違ってないと強固な信念のもと安田を睨み付ける。法廷に立った僕は挑戦的な態度で裁判に臨んで陪審員の反感を買ったが、それがどうしたというんだ?低脳どもの理解など得られなくても構わない、情状酌量の余地など無くても構わないと最初から覚悟の上だったのだから。
 安田が背広の内側に手を潜らせ、煙草を抜き取る。
 僕が注意するより早くライターで添加、橙色の光点を点した煙草を口に銜える。煙草の先端から漂い出た紫煙が仄白く暗闇に流れる。
 手馴れた様子で紫煙を燻らしながら、安田は唐突に口を開く。
 「鍵屋崎、君は何を隠している」
 「!」
 心臓が跳ね上がる。
 淡々とした口調で核心を突いた安田は、敢えて僕の方は見ず続ける。
 「鍵屋崎夫妻殺害の動機について君は徹底的に黙秘を通した。警察の取調べにも沈黙を貫き精神科医すらも欺いた。無関心な両親に愛想が尽きたから殺した?私がそんな短絡的な動機を鵜呑みにすると思うか。IQ180の頭脳に恵まれた君ともあろう人間がそんな不合理な理由で殺人を犯すのか」
 「買いかぶりすぎだ。いかに知能指数が高いとはいえ当時僕は15歳、情緒不安定な思春期の少年だった。些細なことが引き金で殺人に走っても不思議ではない」
 「君は嘘をついている」
 安田が煙草を吸う。
 「鍵屋崎夫妻とは仲が悪かったのか?」
 安田は鍵屋崎優と由佳利をまとめて「鍵屋崎夫妻」と呼ぶ、「両親」ではなく「夫妻」と。ただそれだけの違いが重大なことのように感じられ、腋の下に緊張の汗をかく。顔の前に流れてきた紫煙を手で払い、努めて無表情に言う。
 「良くも悪くもない、お互いに興味がなかっただけだ。両親にとって僕は将来的に研究を継がせる後継者、現段階では頭脳明晰な研究助手でしかなかった。彼らとそれ以上の関わりはない。僕もまた彼らに肉親の情は感じていなかった」
 「君は最初から諦めていた」
 「何を?」
 「愛されることを」
 「はっ」
 安田らしくない感傷的な物言いに失笑する。
 「愛されることを諦めていた」?今更だ。僕は両親に愛情など期待してなかった。最初から求めもしなかったものが得られなかったからとて逆上するのは不条理だ。
 卑屈に喉を鳴らした僕を一瞥、安田が紫煙を吐く。
 「鍵屋崎、どうか私にだけは真実を話してくれないか」
 「僕の殺害動機を上に報告して出世の材料にする気か」
 「個人的な関心もある。何故君が両親殺害に至ったのか明確な理由が知りたい。話を聞いた限りでは君は鍵屋崎夫妻に対し常に距離をおいていた。夫妻と君の間には常に距離があった。夫妻に対し何も期待してなかった君が理性と分別を備えた十五歳時点で凶行に及んだのは『きっかけ』があったからだ」
 「邪推だ」
 「愛情の反対は何か知っているか?」
 「憎しみ」
 そっけなく即答すれば、安田が正面を向いたまま答える。
 「違う。『無関心』だ。だが、人を殺すには『憎悪』と『衝動』が必要だ」
 安田の言わんとしていることを口の中で咀嚼する。
 安田の解釈も確かに一理ある。人を憎めるということは感情が死んでない証拠、対象に興味をもっている証拠だ。鍵屋崎夫妻に対し積極的な関心を持ち得なかった僕が二人を殺すのは矛盾する。
 僕が鍵屋崎優と由佳利を殺した動機。
 脳裏に恵の顔が過ぎる。自分の手を汚してでも守りたかった最愛の妹の顔。
 「鍵屋崎、君はだれかを庇っているんじゃないか」
 「何を根拠に、」
 「君は一度心を許した人間に献身的に尽くす傾向がある、自分の身を犠牲にしても好意を抱く人間を守ろうとする。鍵屋崎夫妻を殺害した動機が単純に自分を愛さなかったから、それだけであるはずがない。鍵屋崎夫妻は君の大事な人間に何か、ひどいことをしたんじゃないか?」
 何故わかる。何故見抜く。僕が必死に隠し通してきたことを。
 「知らなかった、副所長に妄想癖があるなんて。精神分裂病の兆候だから職を辞して入院したらどうだ?」
 辛辣な嫌味も取り合わず、僕に向き直った安田が断固たる口調で続ける。 
 「確かに証拠はない、私の勝手な想像だ。どう受け取るも君の自由だ。だからこれから先話すことも自由に解釈してくれ。今から話すのは私の秘密だ」
 「え?」
 間抜けな声をあげ、安田を見上げる。
 苦りきった顔で押し黙った安田が、眼鏡の奥の目に葛藤を映す。
 「私の若い頃の話だ。若い頃、大学生だった私が参加したある実験の話だ。その実験では優秀な男女の精子と卵子を必要としていた、私はある縁故からその実験に精子を提供することになった……」
 「待て、何の話だそれは?」
 喉の奥で空気が抜ける。安田の語尾を遮るように立ち上がると同時に階上に靴音が殺到、悲鳴と罵声が交錯する。『上』で何か異常事態が起きたらしい。それに気付いた安田が話を中断、不審げな顔になる。
 「副所長!こんなところにいたんですか、さがしましたよ!」
 突如地下一階に通じる階段から通路に駆け込んできたのは、体格の良い看守。呑気に煙草を吸っている副所長に駆け寄り、大仰な身振り手振りで報告する。
 「何の騒ぎだ?」
 「東棟の食堂で五十人規模の乱闘が勃発、被害は今も膨れ上がる一方です!重傷者五人軽傷十五人、へたしたら東棟全体規模の暴動に発展しかねませんよ!なお乱闘の主犯格は台湾と中国の混血児、ほら、レイジと同房の……」
 「ロンか!?」
 声を荒げたのは僕だ。声を発したことにより今初めて僕の存在に気付いたとばかり驚愕した看守を、表情を引き締めた安田が詰問する。
 「他に乱闘に加わってるのは?」
 「主犯格で加わってるのは凱とリョウ、ビバリーです!とくにリョウは薬で頭がパーになってるらしくえらいはしゃぎっぷりで手のつけようがありません!とにかく手が空いてる看守全員で鎮圧に向かってますが死人がでる前に間に合うかどうか……、」
 安田の命令は至極簡潔だった。
 「主犯格の囚人を拘束、独居房に隔離しろ」
 煙草を投げ捨て、靴裏で吸殻を踏み潰す。
 ネクタイの結び目に指をひっかけ襟元を緩め、看守を従え歩き出す。背広の裾を颯爽と翻し階段に足をかけた安田、その背中を呆然と見つめているうちに「拘束」「独居房」「隔離」の単語とロンの顔が結びつく。
 「待て安田、ロンを独居房に入れるのか!?乱闘の原因を追及するのが先じゃないか!!」
 「主犯格を隔離しないことには乱闘はおさまらない。話は後で聞く」
 安田は僕の抗議を受け付けず、規則的な靴音を響かせ階段をのぼっていってしまった。地下に残された僕は、片手で頭を支えて状況を整理しようとする。
 ロンが食堂で暴れている?何故?原因は?……決まっている、ロンが暴発したとしたらレイジ絡みとしか考えられない。またレイジの身に何かがあったのだ、とんでもなく不吉な出来事が。
 僕も、僕も食堂に行かなければ。
 興奮状態のロンが僕の説得に応じるかわからないが、このまま放っておけば独居房送り確実だ。
 「くそっ、僕には感傷に浸る暇もないのか!」
 安田を追って階段を駆け上がろうとした僕は、こちらに降りてくる人影に気付き、全身に電気が走ったように硬直する。
 衣擦れの音もなく階段を下りてくるのは、虚ろな目をした長身痩躯の男。
 幽鬼めいた足取りで階段を下りた男は、慄然と立ち竦む僕の正面で止まり、表情の読めない眼差しを向けてくる。
 「……一晩中静流と楽しんでいたくせに腰が抜けてないとは、日頃の鍛錬の成果だな」
 喉が異常に乾き、声はみっともなく掠れた。荒廃した闇が淀んだ薄暗い通路にて僕と対峙したサムライは、伸びた前髪の奥、切れ長の双眸に苦悩の色を宿す。
 「直、」
 「騎乗位の感想を聞きたい」
 「俺は」
 「言い訳はいい。昨日僕がいない間君は、貴様は静流と一緒にいた。静流と肉体関係を結んでいた。はっ、普段あれだけ強硬に同性愛者ではないと主張していたくせにいとこと関係をもつとはな!見下げはてた男だ、汚らわしい。唾棄するぞ帯刀貢。貴様が志す侍とは穢れた欲望に突き動かされ同性とも関係をもつ者なのか、それが貴様の目指していた侍か!?」
 喉から絶叫が迸る。心が悲鳴をあげる。
 思い出すのも忌まわしい光景が脳裏にフラッシュバックする、下半身剥き出しの静流がサムライに馬乗りになった光景……否定できるものならしたかった。錯覚だと思い込みたかった。
 だが違う、あれは現実だった、現実だった。
 「貴様にサムライを名乗る資格はない、貴様に武士を志す資格はない。かつて僕の友人だったサムライはもういない、もはや完全に跡形もなく消えてしまった、今ここにいるのは静流の守り手の帯刀貢だ。僕とは一切関係のない男だ。僕は帯刀貢を憎悪する、嫌悪する、僕の全存在に賭けて貴様の存在を否定する!何故今頃になって帰って来た帯刀貢、僕がサムライを友人と認め心を許した今頃になって帰って来た、貴様が帰って来たせいで僕のサムライは消えてしまった、どんなに足掻いても永遠に僕の手の届かぬ場所に去ってしまった!!」
 「直」
 サムライが、否、帯刀貢が虚空に伸ばした手を握り締め、顔を伏せる。
 周囲のコンクリ壁にむなしく絶叫がこだまする。 
 「サムライを返してくれ。僕のサムライを返してくれ」
 「俺はここにいる」
 「違う、ここにいるのは帯刀貢だ。僕の友人ではない」
 「どちらも同じ俺だ」
 「外面が同じ別人だ!!」
 僕のサムライはもういない、いないのだ。憤怒に駆られて帯刀貢を睨み付ければ、帯刀貢が大股にこちらにやってくる。
 咄嗟に逃げようとした。
 だが、帯刀貢が僕の腕を掴むほうが早かった。
 僕の腕を掴んで引き寄せた帯刀貢が、血を吐くように言う。
 「俺は本当にお前と静流を大事に思っていたのだ、お前も静流も守りたかったのだ!たとえ卑怯者と謗られようとも俺にはそうする義務があった、帯刀家を滅ぼした俺には静流を庇護する義務があった!だがお前のことは家も義務も関係もなく、ただ純粋にお前だから守りたいと思ったのだ!お前のことが愛しくて他の男に触れさせたくないと思ったのは真実だ、愛しいお前だから守りたいと思ったのだ!!」
 「『愛しい』?よく言う、僕と寝るのを拒否したくせに!僕のことが好きならあの時抱けば良かったんだ、静流がいる前で抱けばよかったんだ!もう手遅れだ帯刀貢静流と寝た貴様の言うことなど信用しない、僕は君が!!」
 「大嫌いだ」、と続けようとした。だが出来なかった。
 振り返り際帯刀貢に口を塞がれた。熱い唇が覆い被さり、続く言葉を封じた。 
 「―!?んっ、」
 やめろ、離せ。帯刀貢の腕の中で死に物狂いに身をよじり抵抗する、帯刀貢を突き飛ばそうと半狂乱で暴れるが僕の力ではとても無理だ。帯刀貢は僕をしっかりと抱きすくめ唇を吸い続ける。
 背中が壁に衝突、蛍光灯が揺れる。それでも唇は離れない。悔しくて腹立たしくて、僕は何度となくこぶしを振り上げ帯刀貢の肩を殴打する。静流と合わせた唇で僕に触れるなと力を込めて殴り続ける。
 体の奥底から激情が噴き上げる。
 静流と寝ておきながら僕の唇を奪う帯刀貢がわからない、理解できない。気持ちが悪い。咄嗟に唇を噛み千切る。苦痛に顔を顰めた帯刀貢が漸く僕から離れる。
 唇から血が滴るままに立ち尽くしたサムライを憎悪に燃えて睨み付け、叫ぶ。
 「何故こんなことをする!?」
 「好きだからだ!!」
 抑えに抑え続けた感情が爆発したようにサムライが叫び、壁を殴り付ける。
 「……手遅れだとわかっている。今の俺がどんなにか惨めで無様でみっともないか十分に承知している。言い訳はしない。だが、俺は今でもお前を愛しく思っている。友として、いや、それ以上の存在だと自覚している。直、俺はお前に救われた。お前と出会え生涯の友を得た、お前がいてくれたおかげで俺は……」
 サムライが諦念めいた表情を宿して目を閉じる。
 「不本意とはいえ静流と体を繋げたことは事実、軽蔑してくれて構わない。俺は今日限りで房を出る」
 「………な、」
 「俺があの房にいる限りお前は帰ってこない。ならば俺が出る。房は好きに使って構わない」
 どこへ行く気だ?
 疑問を発しようとしたが、喉が渇いて声が出てこなかった。僕の視線の先、話は済んだと身を翻した帯刀貢が付け加える。
 「俺がそばにいるとお前は辛くなる。俺たちはもう共にいるべきではない、互いを傷付けるだけの関係は不毛すぎる」
 階段を上りながら続ける。
 「レイジ、ロン、ヨンイル。お前には良き友がいる。これからは奴らを頼れ。必ずやお前の力になってくれるはずだ」 
 薄暗い通路に取り残された僕は、ただ呆然と帯刀貢の背中を仰ぐより他なかった。追うことも逃げることもできなかった。階段を上りきったサムライが振り返り、静かな諦念を宿した目で僕を見下ろす。その目を見た瞬間、自制心が吹き飛んだ。
 サムライを追いかけようと階段に足をかけた僕は、帯刀貢に寄り添う影を目撃する。
 それまで階上で待機していたらしき少年が帯刀貢のそばに来て、勝ち誇った微笑を湛える。
 静流だった。
 「さらばだ、直」
 待て、行くな、行かないでくれ!
 限界まで虚空に手を伸ばした僕の眼前、静流を伴ったサムライが背中を向ける。次第に遠ざかる靴音。漸く階上に辿り着いた時にはすでに二人の姿はなく、かすかに靴音が響くだけ。
 最前まで二人がいた場所に手を付いた僕は、少しでも帯刀貢のぬくもりを感じようと床に身を横たえる。
 そして、目を閉じる。
 帯刀貢は僕に別れを告げ、静流と行ってしまった。僕のサムライはもう永遠に戻ってこない。房に帰ってもサムライはいない。 
 冷たい床に寝転がり、片腕で腹を庇い、胎児の姿勢で身を竦める。
 『さらばだ、直』
 それがサムライの答えなら、こう返すしかないではないか。
 「さようなら、サムライ」
 口の中で呟いた僕はその時になり初めて、サムライに友情以上の感情を抱いていたと自覚した。 
 気付いた時にはすべてが手遅れだった。
[newpage]
 俺は死ななかった。
 「殺してやるぜ、半々」
 「俺様の鼻っ柱へし折った代償は高くつくぜ」
 「匙で目ん玉ほじくりだして美味しくしゃぶってやらあ」
 「目ん玉ほじくりだした眼窩に俺のモン突っ込んで脳みそに小便ひっかけてやる」
 俺の手は血に染まっていた。顔には返り血が跳ねていた。薄汚れたシャツの下で胸郭が浅く上下していた。手がまだ感触を覚えている、力任せに椅子を振り下ろして脳天かち割ったのを覚えている。ちょっと見回せば頭から血を垂れ流した囚人が床に昏倒してる、鼻が変な方向に曲がった囚人が悲鳴を上げてる。
 これは、俺がやった。俺がやったんだ。
 レイジを揶揄された怒りに任せて椅子を手に取り振り上げて、目の色変えてとびかかってくる囚人を片っ端から殴り倒した。
 そして俺は今、食堂の隅っこに追い詰められてる。
 怒り狂った囚人どもが、愚かな生贄を血祭りに上げようと目を殺意にぎらつかせ間合いを詰めてくる。
 「―っ、……」
 背後は壁、逃げ場はどこにもない。鼻血で顔面朱に染めた囚人が、ワカメの切れ端を顔に貼り付けた囚人が、狂気に憑かれた憤怒の形相でこっちにやってくる。
 殺気が膨張する。空気が帯電したかのような緊迫感。
 ああ、殺される。
 間違いなく殺される、よってたかって嬲り殺される。集団リンチの餌食になる。恐怖で足が竦む。こめかみがどくどく脈打つ。畜生どうすりゃいい、どうすりゃこのピンチを切り抜けられる?嫌だ、こんなところで終わりたくない、こんなところで死んだらレイジに会えねえじゃんか。レイジに会うまで死ねない、あいつの元気な顔見るまで絶対死ねない。
 けど、どうすりゃいい?
 食堂の隅っこに追い詰められた俺に何が出来るってんだ。鍵屋崎みたいにおつむがよけりゃ起死回生の秘策を閃いたかもしれない、サムライみたいに箸一本で敵に立ち向かうことができりゃこんな風にびびらずにすんだかもしれない。だが鍵屋崎もサムライもいない、助けを期待できない状況下で生き残るにはどうすりゃ…
 「アイキャンフラーイ!!」
 「はあ!?」
 脳天から間抜けな声を発して頭上を仰げば、破壊力抜群の光景が眼底を撃ち抜く。
 二階の手すりを蹴って宙に身を躍らせたのは……ビバリー!?
 「飛び降り自殺か!?」
 「危ねえ、潰されるぞ!」
 手足をばたつかせ落ちてくるビバリーの下敷きになっちゃたまらないと、全員一斉にてんでばらばらな方向に逃げ出す囚人ども。
 あちこちで衝突が起こり囚人がドミノ倒しになり、濛々と舞い上がった埃が視界を閉ざす。足元の床を伝わる振動。埃が晴れた視界に映ったのは、累々と折り重なった囚人どもの上に尻餅ついたビバリー。
 「今のうちに逃げてください、ロンさん!」
 ほぼ無傷の状態で囚人どもの上に不時着したビバリーがこっち向いて叫ぶ。そうか、俺を助ける為に決死のダイブに挑んだのかと合点が行く。ビバリーに礼を言う暇もなく踵を返した俺の行く手に散開した囚人どもが立ち塞がる。
 「逃がしゃしねえぞ!」
 「殺っちまえ!」
 「殺られてたまるか!」
 舌打ち、手のひらに唾を吐いて強行突破の構えを見せた俺の背後から風切る唸りを上げて何かが飛んでくる。反射的に身を屈めてやり過ごした俺の正面、今しも殴りかかってこようと腕を振り上げた囚人の顔面を椅子が直撃、折れそうに首が仰け反る。
 誰だ?
 椅子をぶん投げた奴を確かめようと振り向いた俺は、愕然とする。
 「とっとと行っちまえ、半々!ぱぱっとレイジ連れ戻してこい!」
 凱がいた。頭上に高々と椅子を掲げ鼻息荒く仁王立ち、筋骨隆々たる体躯に怒気を漲らせている。なんで凱が?そもそも凱が俺を助ける理由が見当たらない、そもそもレイジをけなしまくった連中は凱の仲間だったはず。同じ疑問を抱いたらしい凱の子分どもがボスの正気を疑って「凱さん!?」と叫ぶ。
 「凱さん何とち狂ってるんすか、相手は憎き半々、台湾人の血を引く薄汚れた野良っすよ!」
 「ちょうどいい機会だ、レイジに猫可愛がりされてる目障りな半々をここで潰しちおうって俺ら」
 「勝手な真似するんじゃねえ!!」
 大喝一声、凄まじい剣幕で咆哮した凱が渾身の力で椅子を投擲。風切る唸りを上げて宙を飛んだ椅子が床に激突、俺めがけて殴りかかろうとした凱傘下の囚人どもがとばっちりを恐れて机の下に逃げ込む。
 残飯を蹴散らし椅子を蹴飛ばし、気炎を吐いて歩み寄った凱が机の下に無造作に手を突っ込み、頭を抱え込んだ子分を引きずり出す。
 「お前、さっきなんつった?」
 「え、えっ?」
 人間離れした怪力、恐るべき膂力を発揮、片腕一本で囚人を宙に吊り上げる。胸ぐら掴んで宙に吊り上げられた囚人に頭突きを食らわせ、額から血をしぶかせた凱が、爛々と目を光らせる。

 「とぼけんじゃねえ、俺が知らないとでも思ったか。最初から最後までばっちり聞いたぞ。レイジがいないのいいことにアイツのことさんざん馬鹿にしやがって……お前何様のつもりだ?俺の子分の分際で出過ぎた真似しやがって、認めるのは悔しいがレイジは俺を負かして東棟のトップになった男、ペア戦100人抜き成し遂げた最強の王様だ。いいかよく聞け阿呆が、東棟でレイジを悪く言っていいのは俺だけなんだよ、俺以外の誰もレイジを嗤っちゃいけねえんだよ。仮にも俺様を負かした男、俺様が認めた男だ。そいつを馬鹿にするってたこたあ俺を馬鹿にするも同罪なんだぜ、物分りの悪いおちびちゃんよう」

 返り血に濡れた凄惨な形相で啖呵を切る凱に、周囲の連中が息を呑む。
 おちびちゃん呼ばわりされた囚人の顔が恐怖に引き攣るのを冷たい目で確認、大きく腕を振りかぶれば冗談みたいに囚人が吹っ飛び机の上を転がる。頭のてっぺんからつま先まで残飯まみれになって机を転がった囚人が床に転落、完全に沈黙。
 水を打ったように静まり返った食堂を見渡した凱が、ドスを利かせた低い声で命じる。
 「レイジに言いたいことある奴あ俺ん前に出ろ。相手になってやる」
 「凱、お前……」
 まさか凱に助けられるとは思わなかった。俺を一瞥した凱がそっけなく鼻を鳴らし、周囲を威圧するように拳を鳴らした瞬間ー……
 「副所長命令だ、乱闘首謀者を拘束のち独居房に移送!!」
 十数人の看守が食堂に殴りこんできた。食堂に乱入した看守が手近な囚人にとびかかり警棒で打ちのめして取り押さえる、逃げ惑う囚人どもを片っ端から警棒で叩きのめして歯向かう奴と格闘し、あっという間に食堂を制圧した看守が俺のもとへと走り寄る。
 正面に迫った看守が警棒を振り上げ、俺の肩口を殴る。
 「!痛っで、なにすんだ!?」
 「乱闘首謀者はお前だなロン、後で詳しい事情を聞くから独居房で頭を冷やしとけ!」
 首謀者?独居房?肩を庇ってうずくまった俺に看守が覆い被さり床に這わす、背中に回された両手に手錠がかかる。
 視界の端で凱も同じように床に這わされ手錠を嵌められていたが、こっちは看守三人がかりでも手に負えない暴れっぷりだった。凱だけじゃない、俺を助けようとして巻き添え食ったビバリーまでも看守に取り押さえられる。
 「待てよ、ビバリーは関係ねえよ!二階から降ってきただけだ!」
 「安心しろ、お前ら三人とも独居房のお隣さんだ。だれがいちばん最初に発狂するか賭けでもしとけ」
 カッとするが、後ろ手に拘束されたんじゃ殴りかかることもできやしねえ。
 床一面に残飯と食器が散らかりトレイが裏返った食堂では、看守と囚人、囚人と囚人が壮絶な取っ組み合いを演じてる。殴る蹴る噛む頭突くして看守に抵抗する囚人に嵐のように警棒が降り注ぐ、頭といわず肩といわず腹といわず腰といわず警棒に殴打された囚人が豚の鳴き声をあげるー……
 
 俺は、死ななかった。
 そして、独居房に放り込まれた。

 長い長い廊下を引きずられて奥まった区画に連れてこられて、灰色の壁に並ぶ鉄扉の一つに看守が鍵をさしこみ(やめろ)鉄扉が開け放たれて矩形の暗闇が口を開けて(やめてくれ)どん、と背中を突き飛ばされた俺は暗闇の中に(いやだ)……乱暴に閉じた鉄扉、遠ざかる靴音と話し声(行かないでくれ)出してくれ出してくれ……
 「ちゃんと反省したら出してやるよ」
 「一週間後にな」
 最後に聞いたのは看守の笑い声。
 俺は、死ななかった。
 独居房に放り込まれてもまだ生きていた、発狂寸前で踏みとどまっていた。生まれて初めて放り込まれた独居房は想像以上に酷い場所だった。反吐と糞尿が入り混じり発酵した汚物の匂いが立ち込めた暗闇、低い天井と左右に迫り出した壁が閉塞感を与える矩形の空間。寝返りを打つのも困難な窮屈な場所。
 発狂したい。
 今すぐ発狂したい発狂したい何も感じたくなりたい飢えも寒さも孤独も何も感じたくなりたい麻痺したい。
 噂に聞いてた独居房は、噂以上に酷い場所だった。
 こんな所で一週間も耐えられるわけない。身じろぎするたび金属の手錠と手首の皮膚が擦れて痛い。
 「開け、ろ」
 芋虫みたいに体を伸縮させ、床を這いずる。ズボンの膝が茶褐色に汚れる。真っ暗だ。何も見えない。瞼を開けても閉じても同じ絶望的な暗闇、レイジも体験した暗闇。
 レイジはほんのガキの頃、同じ体験をした。一条の光も射さない暗闇に閉じ込められて差し入れの缶詰だけで飢えを凌ぎ生きながらえた。だが、俺は無理だ。まだたった半日かそこらだってのにここから逃げ出したくて必死で出たくて必死でそれ以外のことなんか何も何も考えられなくて発狂一歩手前のとこまで来てる。
 「開け、ろ。反省した、から……」
 軽く咳をする。喉が痛い。風邪が悪化したらしい。嗄れた声で訴えかけるも応答はない。膝這いで扉に近付き、手が使えないから額で小突いてノックする。返事はない。廊下に人の気配はない……誰も居ない。その事実を受け入れるのに時間がかかる。
 一体いつになりゃ出してもらえる、あと何時間経てば出してくれるんだ?このままここにいたら鼻が死ぬ、尿意で膀胱が破裂する。
 凍えた暗闇の底、糞尿と反吐に塗れてひたすら孤独に耐えるうちに時間の感覚が狂いだす。今が朝なのか昼なのか夜なのかもわからない。
 嫌だ、こんなの本当におかしくなる、狂っちまう。
 ガキの頃お袋にクローゼットに閉じ込められた時と同じ、いや、それ以上の恐怖。再び扉が開く確証はない、助けが来る保証はない。最悪このまま放っとかれて死んじまうかもしれない。
 レイジ。
 「どこにいるんだよ」
 会いたい。
 畜生、なんでこんなにことになったんだよ。レイジと引き離されて独居房に放り込まれてアイツを助けに行くこともできなくて、このまま凍え死にしちまうのか?
 嫌だ、レイジに会わずに死ねるか、アイツの無事確認せずに死ねるか。体の奥底から突き上げる衝動のままに鉄扉に体当たりする、固く閉ざされた鉄扉をぶち破ろうと虚しい努力を積み重ねる。
 こんなとこで時間食ってる暇はない。俺はレイジの相棒だ、アイツを助けにいかなきゃならないんだ。
 ガン、ガン。鉄扉が鳴る。
 「開けろよ。だれか、だれかいるんだろ?だれもいないのかよ。なあ看守、だれでもいいからここ開けてくれよ、レイジのとこ行かせてくれよ。あいつ俺がいなきゃ駄目だから、俺がついててやらなきゃ駄目だから、俺が……」
 肩口から鉄扉にぶつかる。ガン、ガン。廊下に人の気配はなく、喉から搾り出した声がむなしく吹き抜ける。
 今頃どうしてるんだ、レイジ。
 力尽き鉄扉に凭れ、瞼の裏側にレイジの面影を呼び起こす。
 能天気に笑うレイジ、胸に輝く十字架……
 全身を悪寒が駆け抜ける。
 体がぞくぞくする。背中に氷柱を突っ込まれたみたいだ。
 レイジに会いたい。あたためてほしい。
 「…………っ………!」
 鉄扉に額を預けてずり落ちる。レイジをひとりにするんじゃなかった、房を出るんじゃなかったと今更後悔が押し寄せる。
 俺はまた、何もできなかった。
 俺がいない間にレイジはまた所長に呼びだされて連れてかれちまった。なんでついててやらなかったんだよ、相棒の癖に。
 血が滲むほど唇を噛み締め、自分の無力を呪う。レイジ頼むから無事でいてくれ、俺が行くまで無事にいてくれと目を閉じ一心に祈る。
 二重の暗闇に包まれた視界に浮かび上がるレイジの笑顔。
 絶対ここを出なけりゃ、ここを出て助けに行かなきゃ。
 糞尿垂れ流しの暗闇で嘆いててもはじまらない、めそめそ泣き言言っててもしょうがない。弱気な自分を叱咤して顔を上げた俺は、廊下を歩いてくる靴音に気付く。誰かがこっちにやってくる。
 誰だ?看守か?期待と不安に動悸が速まる、耳の奥に鼓動を感じる。
 苦しい体勢から首を伸ばして鉄扉を仰ぐ俺の正面で靴音が止み、下部に設けられた鉄蓋があがる。 
 「喜んで。『君の餌』を持ってきたよ」
 どこかで聞いたことのある声だ。鉄蓋を持ち上げて突っ込まれた食器にはリンゴの皮が盛られていた。これが餌、か。冗談きついぜ。
 「元気だして。いい子にしてればそのうち出してもらえる、それまでは僕が世話してあげるから……」
 「お前、曽根崎か」
 ねちっこい口調にピンときた。ビニールハウスで会った看守の顔を脳裏に思い浮かべて声をかければ、扉越しの相手が感激する。
 「僕のこと覚えててくれたのかい?嬉しいな、そうだよそのとおり、僕はビニールハウス担当の曽根崎だ。僕も君の事はよく覚えてるよロンくん、リョウくんのお友達。実は君が独居房に入れられてるって聞いて自分から動物園の餌係買って出たんだ。ほら、どんな凶暴な動物だって自分に餌くれる人間には懐くって言うでしょう?それで……」
 調子に乗って話し続ける曽根崎を無視、短く言う。
 「ここを開けろ」
 「駄目」
 あっさり断られた。憮然と黙り込んだ俺の機嫌をとろうとでもいうのか、気色悪い猫撫で声で曽根崎が畳みかける。
 「出してあげたいのはやまやまだけどそんなことしたら減棒されちゃう。可哀想だけどあとちょっとの辛抱だ、大人しくしてたらすぐに出してもらえる」
 カチャンと金属音がして再び鉄蓋が開き、一条の光が射しこむ。
 曽根崎が食器を出し入れする口から片手を突っ込み、俺の髪をかきまぜる。
 気色悪い手つきで髪に指を絡められ、ぞっとする。
 激しくかぶりを振って曽根崎の手を払い、必死に食い下がる。
 「レイジが、俺の相棒が連れてかれたんだ。今頃酷い目に遭わされてるんだ。俺がここ出る頃にはアイツ壊されてるかもしれない、手遅れになってるかもしれねえ。だから頼む曽根崎、ここから出してくれ!レイジに一目会わせてくれ!売春班の時もペア戦の時も俺はいっつもあいつに助けられてばっかで何ひとつ返せなくて、あいつが看守に連れてかれた時も何もできなくて……畜生、こんな相棒いらねえよ、ただの足手まといじゃんかよ!!わかってるよ俺が役に立たないことくらいレイジの足引っ張ってることくらい、でもそれでもここ出たいんだ、アイツを助けに行きたいんだ!アイツのことが心配でいてもたってもいられないんだ、アイツに会いたくて会いたくて気が狂っちまいそうなんだよ!!」
 俺は役立たずの足手まといだ。レイジに迷惑ばっかかけてる。
 でもそれでもどうしようもなく、俺はレイジが心配だ。
 扉の向こうから戸惑いの気配が伝わってくる。もう一息だ。深呼吸し、切り札をだす。
 「……ここから出してくれるなら何でも言うこと聞く。しゃぶれって言うならしゃぶる。だから、」
 曽根崎が息を呑む。口の中に苦いものが広がる。
 俺は、最低だ。独居房から出るには手段を選んでられないと自分に言い聞かせて男のプライドを売り渡した。お前のモンしゃぶってやるから慈悲を垂れてくれと懇願した自分に吐き気がする。
 鉄扉の向こう側で曽根崎が逡巡する。
 扉を開けようか開けまいか迷ってるらしい。
 俺の口は、勝手に言葉をつむぐ。
 「鍵穴に鍵さしこんでちょいとノブ捻るだけでいいんだ、そしたら天国にイけるんだ、悪い話じゃないだろ。リョウと俺、どっちがフェラ上手いか比べてみろよ。知ってるか曽根崎さん、俺のお袋池袋有名な娼婦なんだぜ。俺は生まれついての淫売の息子ってワケ。男悦ばす手管ならリョウに負けねえ、喜びいさんであんたのペニスしゃぶってやるよ。口ん中でイチゴ転がすみたいに、な」
 曽根崎に見えないのを承知で口から舌を出し、挑発する。曽根崎が決意し、腰の鍵束を探る。鍵束から一本を選別、鍵穴にさしこむ…
 「餌やりは終わったか、曽根崎」
 「「!!」」
 じゃらり、と音がした。曽根崎の手が滑り、鍵束が触れ合う音。扉の向こう、後からやってきた看守が不審げに曽根崎の手元を覗きこむ映像が脳裏に浮かぶ。
 「おおおおおおおお終わったとも。それが何か?」
 「乱闘の事情聴取したいから独居房から出せとのお達しだ。けっ、運がいいぜ。本当なら一週間は入れときたかったんだがな」
 耳を疑った。曽根崎のモンをしゃぶらなくても出られることに歓喜、期待に胸高鳴らせて扉が開くのを待つ。
 扉が開き、暗闇に慣れた目を廊下の光が射る。眩しい。廊下に突っ立った二人の看守のうち遅れて来た右側の看守が悪臭に顔を顰める。
 胸郭を膨らませ、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。悪臭に麻痺した嗅覚が正常に戻る。独居房に踏み入った看守が乱暴に俺の腕を掴み、引きずり出す。
 背後で鉄扉が閉まる。
 俺の腕を掴んで立ち上がらせ、看守が耳朶で囁く。 
 「所長直々にお呼びだ。たっぷり絞ってもらえよ」
 「所長が?」
 「本当は副所長がやるはずだったんだが、直接お前に面会したいと言い出してな。急遽所長室で事情聴取が行われる羽目になった。食堂で乱闘起こした危険分子のツラをとくと拝みたいんじゃねえか?『上』の考えるこたあよくわからねえがな」
 看守が自嘲的に笑う。曽根崎はそわそわする。俺に口八丁で乗せられて鍵を開けようとしたことがバレないか心配してるらしい。……小心者め。
 いやな、予感がする。なんで俺が直接呼ばれたのか腑に落ちず暗澹とする。その一方所長室にはレイジもいるはずと僅かな希望が芽生え、再会の期待が高まる。
 今度こそレイジに会える、この目で安否を確かめられる。
 相棒に会える喜びを噛み締める俺の腕を引っ張り、看守が大股に歩き出す。
 「その前にシャワー室だ。そんななりで所長室に行かせるわけにゃいかねえからな」
 頭のてっぺんからつま先まで糞尿と反吐にまみれた俺から顔を背け、看守は苦々しく吐き捨てた。
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