少年プリズン

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三百四十一話

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 目を瞑るも間に合わない。風圧が前髪を舞い上げる。
 だが、いつまでたっても予期した衝撃が訪れずおそるおそる薄目を開ける。
 サムライが手を振り上げた姿勢のまま硬直していた。
 「僕を殴るのか」
 放心して、問う。
 サムライは答えない。憤怒と悲哀と苦渋とが綯い交ぜとなった表情で、虚空に片手を振り翳した姿勢のまま固まっている。
 「僕に暴力をふるうのか」
 売春班の客と同じように。僕を犯した男たちと同じように。
 四肢から力が抜ける。後ろによろめいた拍子に書架に衝突、背中に鈍い衝撃。そのまま書架に背中を預け半ばずり落ち、卑屈に笑う。
 「どうした?殴ればいいじゃないか。僕の言うことが気に入らないなら力づくで黙らせればいいじゃないか」
 眼鏡が鼻梁にずり落ちる。視界が歪む。虚脱した四肢を無造作に投げ出し、一面本が散乱する床に座り込む。サムライが僕を殴ろうと手を振り上げた瞬間その姿が売春班の客と重なり、恐怖で体の芯が凍り付いた。サムライが僕に暴力をふるおうとした。
 かつて僕を抱きしめたその手で、僕を殴ろううとした。
 書架に背中を凭せて崩れ落ち、口元に虚無の笑みを吐く。
 心が分裂し、粉々に砕け、塵になる。
 書架に背中を凭せることで何とか体を起こす僕と対峙。怒りに震える五指を握り込み、サムライが顔を背ける。
 「……あんな振る舞い、お前らしくもない。売春班にいたお前なら静流の辛さがわかるはずだ」
 そして、続ける。かすかに顔を傾げ、悲哀を宿した目に僕を映し。
 「お前はもっと優しい奴だと思っていたのに、残念だ」
 そうか。君は僕ではなく静流を選ぶのか。静流を信じるのか。 
 もう胸の痛みは感じない。心が麻痺して何も感じない。足元に深淵が裂けて呑み込まれていく感覚。背中にあたる書架の硬さだけが拠り所。緩慢な動作で顔を起こし、サムライを見上げる。
 漂白された表情の僕がサムライの目の中にいる。
 「は、ははっ」
 急に何もかもがどうでもよくなり、自虐を突き詰めた笑いの発作に襲われる。
 不快な笑い声は次第に大きくなり振幅が激しくなり、気付けば僕はへし折れそうなほど背中を仰け反らせ狂気の哄笑をあげていた。
 肩が不規則に痙攣し喉が膨らむ、胸郭が大きく上下し自分の意志に反して背中が仰け反る。
 「直」 
 「笑える、笑えるじゃないか。知ってるかサムライ、人間とは相反する矛盾を抱え込んだ生き物だ。かつて僕を抱いた手で僕を殴ろうとした男が今更何を言う?
 どうやら僕は思い上がっていたようだ。僕は君の友人だが、君の中における優先順位では格段に静流に劣る。当たり前だ、僕にしても恵がいちばん大事だ。僕より君より誰よりいちばん恵が大事だ、恵以外の人間など絶滅しようがどうなろうが知ったことか!君が静流を選ぶのは当たり前だ、血の繋がりを重視するのは人の本能だ、だから君が静流を選んだのは上なく正しいことだ、君は君自身の選択に誇りをもち胸を張ればいい!」
 苦しい。笑いすぎて息が続かない。
 笑い過ぎて過呼吸に陥りかけ、書架に寄りかかるように立ち上がり、おもむろにサムライを突き飛ばし走り出す。
 背後から追いかけてくるサムライの声を無視、書架と書架の間の通路を全速力で走り抜けて開放的な空間に転げ出る。
 書架の狭間から飛び出した僕に猥談を中断、机に陣取った囚人たちが何の騒ぎだと注意を向ける。

 早く、早くここを出たい。
 ここから離れたい。

 四囲から注がれる強迫的な視線に耐えかね、再び走り出した僕の肩を誰かが掴み、振り向かせる。
 「人の話を最後まで聞け!」
 サムライがいた。
 僕の肩を容赦なく揺さぶり檄を飛ばすサムライに視線が集中、周囲のざわめきが大きくなる。
 「お前の言い分が嘘だと決め付けたわけではない!だが俺は静流を信じたい、幼い頃から一途に慕ってくれた静流を信じたいのだ!俺は帯刀の面汚し、一族郎党を破滅させた元凶だ。その罪はどれだけ悔いても拭いきれん、一生涯背負わなければならん」
 伏せた顔に苦渋が滲み、手に力がこもる。
 「静流がここに来たのは俺のせいだ。俺が父上はじめ門下生を殺したせいで静流や叔母上、それに薫流にまで累が及んだ。身内から人斬りをだした家が存続を許されるわけがない。静流がここに来た理由は知らぬが、俺が殺人さえ犯さねば静流が自暴自棄な振る舞いにおよぶこともなかったのだ!」
 「だから責任を感じて静流を庇うのか、それが君の償いか!?」
 「償いではない、贖いだ!」
 二階の手すりに人だかりができる。激しく口論する僕らの周囲に野次馬が集まりだす。サムライの手から逃れようと必死に身をよじるも五指は肩に食い込んだまま、苛烈な気迫を込めた双眸で追いすがるサムライに感情が爆発。

 「僕と静流どちらが大事なんだ!?」
 「お前も静流も大事だ!!」

 反射的に手首が撓る。
 甲高く乾いた音が響く。

 「…………汚い手でさわるな。不潔だ」
 やりきれない想いを吐き出し、五指を握りこむ。サムライの頬が赤く腫れる。僕に殴られ顔を背けた姿勢のまま立ち竦むサムライのもとへ静流が小走りに駆けて来る。「大丈夫、貢くん?」サムライを気遣う声に背を向け、未練を断ち切り走り出す。 
 「待て、直!」
 サムライの声が追ってくる。だが、足音は追ってこない。
 サムライを殴った手がじんと痺れる。
 喉の奥で自己嫌悪が膨れ上がる。
 野次馬の嘲笑を浴びながら図書室を駆け抜けて鉄扉に手をかけ大きく深呼吸、痛みを堪えて笑みを拵える。
 鉄扉に手をかけ、振り向く。
 カウンター前にて静流と寄り添うサムライをひややかに睨み付け、口角を吊り上げる。
 「僕の誘惑を拒んだのは静流と関係を持っていたからか。そんなに静流の体がいいか?感度なら僕が上だ。売春班で来る日も来る日も犯され不感症を嬌正させられたからな。僕も今や立派な男娼、静流と抱き比べてどちらが相性いいか試せばよかったんだ」
 もっと彼を追い詰めたい、痛め付けたい、傷ついた顔が見たい。
 苦渋に満ちた顔つきで押し黙るサムライを眺め、嬉々とする胸中とは裏腹に感情を抑圧した口調で続ける。
 「肛門の締りのよさを比較したくはないか?勃起の角度を比較したくないか?分泌される精液の量を比較したくはないか?どちらが感度がいいか交互に抱いて試したくはないか」
 「やめろ」
 鉄扉にもたれて腕を組む。挑発のポーズ。
 二階と一階の野次馬の視線を意識しつつ、上着の裾をつまみ、わざとらしく下腹部を見せる。上着の裾を直すふりで摘みあげ、中心の窪みを覗かせる。
 二階の野次馬が手すりから転落しそうなほど身を乗り出す。
 滑稽だ。いっそ愉快だ。
 生唾を呑んでこちらを見つめる野次馬の表情と固く強張ったサムライの表情とを見比べつつ、上着の中に手を探り入れる。
 衣擦れの音で劣情をそそり、上着の内側で腕を交差させ、緩慢な動作で肩を抱く。
 体の火照りを持て余すように肩を抱き、しどけなく捲れた上着の裾から肉付きに乏しい腹を覗かせ、確信犯の笑顔を作る。
 顔の皮膚の下で沸々滾る憎悪が発露した邪悪な笑み。
 「覚えていろ、帯刀貢。あの夜僕を抱かなかったことを後悔させてやる」
 宣戦布告した僕を盗み見て、静流は愉快げにほくそ笑む。
 僕には絶対に帯刀貢を渡さないというふうに。
[newpage]
 「待てよ鍵屋崎!」
 二階の手すりから身を乗り出し、叫ぶ。
 「よく言った親殺し!」
 「本妻と愛人の争い勃発か?」
 「そんなに男に飢えてんなら今晩は俺が相手してやるよ」
 「サムライ不甲斐ねえ」
 うるせえ。
 やんやと喝采に沸く野次馬どもの渦中でサムライは立ち尽くす。鍵屋崎を呼び止めようにも野次馬に邪魔され、ぴたり寄り添う静流を邪険に振りきってまで鍵屋崎を追いかける踏ん切りがつかず遠ざかる背中を見送るのみ。
 苦悩するサムライの肩に蜘蛛が這うように五指をかけ、「大丈夫?」と静流が訊く。見ちゃいられねえ。
 颯爽と階段を駆け下り、一息入れる暇もなく野次馬でごった返す一階を突っ切る。
 いつもお高く澄ました鍵屋崎が、衆人環視の図書室で見せた過激なパフォーマンス。自ら上着をはだけて裸身を露出し、男を誘うような流し目をくれ、宣言。
 『あの夜僕を抱かなかったことを後悔させてやる、帯刀貢』
 憎悪にひび割れた声、怒りに滾った凶悪な笑顔。
 あんなの全然らしくねえ。どうしちまったんだ鍵屋崎、俺が二階行ってる間に何があったんだ?
 図書室の鉄扉に凭れ、上着の中に手を探り入れ緩慢な動作で肩を抱く。上着の内側で腕を交差、ギャラリーの視線を過剰に意識し、体の火照りを持て余すように自らを抱擁するポーズをとる。
 赤裸な衣擦れの音とともに上着の裾が捲れて痩せた腹筋が覗き、直射日光など浴びたことない生白い素肌が曝け出される。
 たまらなく刺激的で扇情的な光景。
 取り得ときたらオツムの良さとプライドの高さしかねえ鍵屋崎が、飢えたけだものどもが生唾ごっくん見てる前で自分を貶める行為に走るなんて絶対おかしい。俺が離れてた三十分足らずの間に何かとんでもないことが起きたんだ。
 鍵屋崎を止めきゃ。
 静流とひっついてるサムライはこの際放っとこう。鍵屋崎のパフォーマンスに沸く図書室をとびだし、廊下をひた走る。だが、鍵屋崎はいない。あいつどこ行ったんだ?俺が駆け下りるまでの間にそう遠くまで行けるはずないのに図書室近辺に姿が見当たらない。
 「鍵屋崎、どこに行ったんだよ!?」
 あいつと離れるんじゃなかった。
 いまさら悔やんでも遅い。隣からレイジが消えて、この上鍵屋崎まで消えたら洒落にならねえ。レイジは一晩たってもまだ帰ってこない。どこでなにしてるのか不明だ。看守に連れ去れたきり音沙汰ない。鍵屋崎は「ヨンイルの花火打ち上げに協力した件で呼び出されたんだ」としたり顔で説明したがそれにしたって腑に落ちないことだらけで時間の経過とともに不安が膨れ上がる。
 ヨンイルの共犯と目されて呼び出し食ったのが事実でも一晩中帰ってこないのは変だ、レイジの身に何かあったんだと不吉に胸が騒ぐ。
 レイジの身に何か、とてつもなく悪いことが起きたんだ。
 ついさっき。
 いつもヨンイルが根城にしてる図書室二階、漫画がぎっしり収納された書架の前でばったりワンフーと出くわした。
 ヨンイルの所在を聞いた俺に、ワンフーはしょんぼり答えた。
 『ヨンイルさん、看守に無断で花火打ち上げたことがバレて所長室に呼び出されたきり帰ってこないんだ』
 『ヨンイルも!?』
 元西のトップ、現図書室のヌシの不在を憂えた西の連中が書架の前にたむろっていた。
 図書室のヌシの帰りを今か今かと待ちわびながら上の空で漫画を読みふける連中を見回し、どこかの王様とは天と地ほど人望に差があるなと感心した。まあそんなことはどうでもいい。
 とにかく、レイジとヨンイルが一緒だと知って安堵した。レイジ単独で呼び出されたんだとしたら俺にはもう最悪の想像しかできない。 
 でも、事態が良い方向に転がったわけじゃない。
 王様と道化は依然帰ってこない。いつ帰ってくるかもわからない。この上鍵屋崎までふらふらどっか行っちまったらと、ひとり取り残される不安が胸を締め付ける。
 「鍵屋崎どこだよっ、返事しろよ!ひとんこと無視すんじゃねえ、自称天才が!」
 コンクリ剥き出しの通路に殷々と声がこだまする。鍵屋崎の返事はない。あいつ、本当にどこへ行った?
 ふらり図書室を出て行方知れずになった鍵屋崎を捜し求めるのに疲れ、壁に背中を預けてずり落ちる。馬鹿らしい、なんで俺こんな必死に駆けずり回ってるんだ?本来サムライの役目だろ。
 「……こんなことになんなら素直に本読むフリしときゃよかった」
 あくまでフリだが。
 壁に手を付き体を支え、ゆっくりと上体を起こす。今の鍵屋崎をひとりにするのは危険だと本能が叫ぶ。今の鍵屋崎は何しでかすかわからない不安定な状態で、だれかがそばについててやらなきゃダメな危なっかしさが漂ってる。鍵屋崎には前にさんざん世話になった。今だって世話になってる。サムライが頼りにならねえなら仕方ない、俺がそばにいてやらなきゃ。

 違う。そうじゃない。
 俺もひとりになるのが怖い。だれかにそばにいてほしい。

 鍵屋崎が構ってくれた間は多少なりともレイジ不在の不安が紛れた、寂しさが癒えた。鍵屋崎はああ見えて優しいから、レイジ連れ去られてがっくり落ち込んでる俺を放っとけず親身に世話を焼いてくれた。人に優しくされるのは慣れてねえからこそばゆいけど、やっぱ嬉しい。人に心配されんのは心地よく心強い。
 俺は鍵屋崎に甘えてた。鍵屋崎の負担になってた。
 本当にガキだ、俺。
 いつだって鍵屋崎に頼りきりで、情けねえ。
 「……寄りかかってばっかじゃ、胸張ってダチなんて言えねえよな」
 この前レイジと交わした会話を思い出し、こっそり自嘲する。 
 「なーに黄昏とんのや、ロンロン」
 「!」
 能天気な声に顔を上げる。
 ヨンイルがいた。壁に手を付き荒い息を吐く俺を見つけ、飄々と片手を挙げてご挨拶。今の今まで所長に呼び出し食らってたのが信じられないあっけらかんとした様子に目を疑う。
 廊下の奥から大股に歩いてきたらしいヨンイルはきょろきょろとあたりを見回し、「廊下で駆けっこ禁止てガッコで習わんかったんか?あ、そか、お前もとから行ってへんかーごめんなー。ちゅーか俺もまともに行ってへんけど。しっかし廊下で駆けっこはやっぱロマンやな。びゅーって廊下駆け抜けた風圧でマチコ先生のスカートめくれて『いやーん まいっちんぐ!』は男子のドリーム、ボーイズ・ビー・アンビシャスや」としきりに頷いてる。
 「だれだよマチコって。俺にわかる言葉で話せよ」
 「気にすんな、俺が惚れとる二次元の住人や」
 相変わらず会話が噛み合わねえ。これだから西の道化は苦手だと心の中で舌打ち、ハッと顔を上げる。
 「お前がここにいるってことはレイジはどうしたんだよ、一緒に呼ばれたんだろ!?ならなんで一緒に帰ってこねえんだ、お前ひとりだけ大手振って帰ってくんじゃねえ!」
 「レイジ?あいつどうかしたんか」
 唾飛ばして叱り飛ばせばヨンイルが目をしばたたく。
 俺はたじろぐ。
 「だってお前ら、昨日一晩中一緒にいたんだろ?こないだの花火の件で所長に絞られてたんだろ。違うのか」
 「確かに所長室にお呼ばれしとったけどレイジとは会わへんかったで。第一俺が所長室におったんは二時間程度、一晩中所長の爬虫類顔見てたら吐き気頭痛眩暈その他症状に悩まされてぶっ倒れてまうわ」
 どういうことだ?レイジとヨンイルは一緒にいたんじゃないのか?
 「……じゃあ、レイジはどこだよ。なんで昨日一晩帰ってこなかったんだよ」
 絶望で視界が暗くなる。ヨンイルの胸ぐらを掴んだ手が遠くなる。
 眩暈を覚えてあとじされば、肩が壁にぶつかる鈍い衝撃。ヨンイルが不審げに俺を眺める。壁に手を付き、足元を見下ろし、必死に頭を働かせる。瞼の裏を過ぎる昨夜の光景。房に殴りこんだ看守に取り押さえられ連行されてくレイジの姿。
 「必ず帰ってくる」って俺の唇をー…… 
 「ヨンイル、教えてくれ」
 壁に凭れることで何とかバランスをとり、今にも挫けそうな膝を支え、持ちこたえる。ぎゅっと目を瞑り、瞼裏の暗闇にレイジを呼び起こそうとする。たった一晩離れただけでレイジの笑顔がうまく思い描けなくなり愕然とする。
 心臓の動悸が速まる。腋の下に嫌な汗が滲む。
 ヨンイルの肩に手をかけ、指の力を強める。
 「レイジは無事なのか、ちゃんと帰ってくるのか?怪我なんかしてねえよな、あいつめちゃくちゃ強いから大丈夫だと思うけ所長には向かって酷い目遭わされたりしてねえよな。看守に乱暴されて手足一本や二本折られたりは」
 「落ち着けロンロン」
 「落ち着いてられるかよっ!!」
 感情が爆発する。
 今まで堪えに堪えてたもの、抑えに抑えてた何かが一気に噴き出す。
 レイジの安否を知りたい一心で恥も外聞もかなぐり捨てヨンイルに食ってかかる、ヨンイルの肩を掴み乱暴に揺さぶる。
 俺に迫られたヨンイルがあとじさり壁に衝突、壁に伝わった衝撃が天井に抜けて蛍光灯が激しく揺れる。頭上に埃が舞い落ちる。
 蛍光灯が点滅する中、短い間隔で明暗が切り替わる廊下の隅にヨンイルを追い詰め、胸の内で沸々と煮えたぎる激情を吐露する。
 「ちきしょうあのクソ所長兄弟揃って陰険だ、レイジの奴どこに連れてったんだよ!?花火の件でとっちめられてるなら何で張本人のお前よか帰り遅いんだよ、説明しろよ!レイジはただお前の打ち上げ手伝っただけじゃんか、何も悪ィことしてねえじゃんか!
 そりゃ夜中にどでかい音させて近所迷惑だったけど五十嵐の門出の祝いなんだからそんくらい大目に見たってバチあたらねえだろが、『上』の連中は何考えてんだ、そんなにレイジいたぶるのが楽しいってのかよ!レイジはああ見えて寂しがり屋なんだ、寂しがり屋の王様なんだ、レイジには俺がついてなきゃ駄目なんだよ、引き離されたらだめなんだよ!」

 引き離されたら生きてけないんだよ。
 俺も、あいつも。

 不審顔のヨンイルを無視、叫び疲れてその肩に顔を埋める。
 蛍光灯が完全に沈黙、廊下が暗闇に包まれる。
 呼吸に合わせて肩を上下させ、ヨンイルに凭れかかる。
 「……レイジに会いてえよ」
 レイジの笑顔がどんどん薄れていく。消えていく。消滅。
 瞼の裏側に漂う笑顔の残滓が完全に消えた時、俺はどうなっちまうんだろう。レイジが隣にいないのが辛い。ひとりぼっちが辛い。昨日一晩ろくに眠れなかったせいで目が腫れてる。
 レイジ不在の房、からっぽのベッド。相方がいない房でひとりベッドに横たわり寝返り打って、俺はずっと、ずっとレイジの帰りを待っていた。毛布の中でぎゅっと手足を縮めて待ち侘びていた。
 けど。
 とうとうレイジは帰ってこなくて、俺は結局一睡もできなくて。
 房に帰るのが、怖い。
 レイジがいない房に帰るのが怖い。鉄扉を開けて真っ先にベッドを見てレイジの不在を確認するのが怖い、からっぽのベッドを見下ろして絶望を味わうのが怖い。帰りたくない。いつだってレイジが笑って迎えてくれるからこそ鉄扉を開けることができたのに、裸電球の破片が床一面に散らばる暗闇に単身飛び込んでく度胸は今の俺にはない。
 こぶしで力なくヨンイルの肩を殴り、誰にともなく訴える。
 「レイジに会わせてくれよっ……」
 レイジが心配だ。本音を言えば、今すぐ所長室に乗り込みたい。レイジを取り返しに行きたい。でも、所長室に殴りこんだところで看守に叩き返されるのがオチだとわかりきってる。どうすればいいかわからない。房の暗闇で膝抱え込んでレイジの帰りを待つしかできないのか?
 相棒失格だ、俺は。
 なんで看守を止められなかった、レイジを引き止められなかった?
 自責の念が胸を引き裂く。 
 「大丈夫や、ロンロン。安心しぃ」
 背中に温かい手がふれる。ヨンイルの手。
 人肌のぬくもりに包まれて顔を上げれば、ヨンイルが微笑む。
 「あいつのこっちゃ、そのうちけろりと帰ってくる。東の王様はお前にベタ惚れや、お前遺していなくなったりせえへん。絶対に」
 「……でたらめ言うな」
 「でたらめちゃう。ダチが言うんやから間違いない」
 ヨンイルがきっぱり断言、癇癪もちのガキをあやすみたいに俺の背中をさする。急速に頭が冷えて正気を取り戻した俺は、ヨンイルの前で取り乱したことが恥ずかしくなり奴をひっぺがす。
 顔を赤くしてそっぽを向いた俺を微笑ましげに見やり、ヨンイルがしっしっと手を振る。
 「お前、俺とレイジが何年ダチやっとる思うてんのや?レイジは必ず戻ってくる。王様のダチが言うんやから間違いない。アイツはタフやから一晩中説教食らったくらいでへこたりせん。今頃もう房に戻っとるんちゃうか?はよ帰ってとびっきりの笑顔で迎えたれ。俺もこれから西の連中に顔見せにいかなアカンのや、心配性のファンが図書室で待ちわびとるさかい」
 心の澱を吐き出したせいか、足取りも軽くなった。
 ヨンイルの言う通り房に帰ればレイジがいるかもしれないと前向きな気分になり、渡り廊下へと足を向け、鍵屋崎のことを思い出す。
 「ヨンイル、お前鍵屋崎見なかったか?こっちに駆けて来たはずなんだけど途中で見失っちまって」
 「直ちゃん?さあ、見いひんかったで。迷子になる年ちゃうし今頃房に戻っとるんちゃうか」
 「お前も心配性の仲間やな」と笑い飛ばされ、ばつが悪くなる。
 ヨンイルの言い分も最もだ。鍵屋崎は俺より年上だ。迷子になる年齢でもなし就寝時間も迫ってるし図書室でた足で房に寝に帰ったと考えるのが普通なのに最悪の想像に繋がって追いかけてきたのが馬鹿みたいだ。結論、お人よしは病気。
 「レイジ帰ってたらたまには図書室来い言うとき。この頃お前にべったりで顔見いひんから寂しい想いしとったんや」
 「うるせえ。好きでひっつかれてんじゃねえ」
 「『レイジと離れたら駄目なんやー』って俺の胸の中で泣いてたくせに」
 振り返りざま中指突き立てる。背後で笑い声があがる。ヨンイルの発破のおかげで少しだけ元気がでた。渡り廊下を全力疾走で東棟に戻り、房をめざして一路ひた走る。次第に腕振りのスピードが上がる。
 房が近付くにつれ期待が高揚、再会の予感が強まる。
 俺がいなきゃレイジは駄目だ。
 レイジがいなきゃ俺は駄目だ。
 床を蹴り加速し一直線に廊下を走る。すれちがいざま通行人がぎょっとする。構うもんか。コンクリ剥き出しの壁に穿たれた無個性な鉄扉の列が残像をひいて後方に飛び去る。走りっぱなしで息が切れる。体が茹だって毛穴が汗を噴いて酸欠の頭がくらくらする。
 房が見えてきた。
 レイジは帰っているだろうか?鉄扉を開けたら笑顔で迎えてくれるだろうか。「どうしたんだよ、汗だくじゃんか。体拭いてやっから服脱げよ」とかずかずか歩いてくるだろうか。上等だ、そしたら殴り飛ばしてやる。さんざ心配かけやがって馬鹿野郎と張り倒してやっから覚悟しろ。手のひらに爪が食い込むほど指を握りこみ、前傾姿勢でラストスパートをかける。
 いた。
 「!」
 房の前に人が二人いる。片方は見慣れない若い看守、その肩に担がれてるのは……レイジ。ぐったり看守の肩に凭れかかったレイジを見た瞬間に理性が吹っ飛び、大声をあげる。
 「レイジ、どうしたんだよ!?」
 驚いたように看守がこっちを向く。気弱そうな顔をした看守におぶわれたレイジは俺の呼びかけにも無反応、顔を上げようともしない。
 「てめえっ、レイジになにしたんだ!?事と次第によっちゃただじゃおかねえぞ!!」
 「ご、誤解だよ!僕はただ彼をこの房に送るようにって命令されただけで……」
 おどおど弁解する看守の胸ぐらを掴んで罵れば、深々と顔を伏せたレイジが低く呻き声を漏らす。看守の胸ぐらを突き放し、素早く前に回りこみ、レイジの顔を覗き込む。
 がっくり首を項垂れたレイジの肩に手をやる。
 「大丈夫かレイジ、どこも痛くねえか?医務室行くか?まだこの時間なら開いてるよな、間に合うよな。パッと行ってパッと戻ってくりゃ看守に見つからねえし……」
 不意に、俺の手がぎゅっと握られる。無意識だろうか、レイジが俺の手を握り返したのだ。
 最初は弱く、次第に強く。
 俺の手を握り締めたレイジが虚勢の笑みを拵える。
 「……心配かけてワリィ。帰り遅くなっちまった。そんな大袈裟に騒ぐなよ、ロン。この通りぴんぴんしてるから」
 「どこがだよ!」
 不吉な予感が当たった。たった一晩でこんな憔悴するなんてレイジの身に何があったんだ?動転する俺とレイジを見比べて看守が後ろめたげに顔を伏せる。俺の手を掴み、無理矢理肩からもぎ放したレイジが覚束ない足取りで鉄扉に接近、乾いた笑い声をあげてノブを捻ろうとする。飄々とした態度に怒りが沸騰、俺に背中を向けたレイジの肩を掴んで強引に振り向かせようとする。
 「レイジてめえさんざん人に心配かけたくせにその態度はなんだ、昨日一晩どこで何してたかわかるように話っ……」

 語尾が宙に浮いた。
 振り返り際、前髪の隙間から覗いたのは憎悪が滾った隻眼。
 余裕のない表情で振り返ったレイジが獰猛な眼光で俺を射竦め、手を振り上げる。

 「―!っ、」
 手首に衝撃。
 レイジにぶたれた手首を庇い片膝付いた俺を「君、大丈夫かい!?」と看守が助け起こす。俺の手を邪険に叩き落としたレイジは、ただ二本足で立っているのも辛い体調らしくだらしなく鉄扉に凭れかかる。
 そして、吐き捨てる。
 
 『Dont touch me』 
 俺にさわるな。

 「…………は?」
 驚きのあまり半笑いで硬直した俺の眼前、片腕を抱くような姿勢で鉄扉に寄りかかったレイジは苦痛に顔を歪めている。汗ばんだ額に前髪がかかり隻眼の眼光を遮る。囚人服から露出した部位、顔や手の甲に外傷を負ってる様子はないが苦しみようが尋常じゃない。
 前髪に半ば表情を隠したレイジが俺から逃げるように房の中に消える。靴裏で踏まれ、裸電球の破片が割れる音が暗闇に響く。
 そのままベッドに力尽き倒れこんだレイジに反射的に駆け寄るー……
 「寄るんじゃねえ!!」
 鼓膜がびりびり震える。
 レイジが容赦なく俺を叱り付ける。傷ついた豹が接近を拒むように。
 暗闇に怒号が跳ね返り、近隣の房の囚人が何の騒ぎだと格子窓に貼り付く。ベッドに臥せったレイジは肩を浅く上下させ荒い息を吐くばかり。前髪はびっしょり濡れて目に被さってる。
 枕に顔を埋め腰を浮かし、四つん這いの姿勢を維持するレイジの手前で慄然と立ち竦んだ俺の耳朶に、地を這うように低い唸り声がふれる。
 瀕死の獣じみた咆哮。
 喉の奥で牽制の唸り声を発するレイジに狼狽する。
 くりかえし生唾を嚥下し物欲しげに喉を鳴らし、俺と別れた時の笑顔など見る影なく憔悴した顔を極限の苦痛に歪め、シーツで爪を研ぐ。
 首から垂れた金鎖がシーツでうねり、廊下から射した光を反射。傷だらけの十字架が燦然と輝く。
 両手でシーツを掴み、しなやかな肢体を仰け反らせ、ベッドの上で狂おしく身悶えて。
 「……寄るな、ロン。一歩でも近寄ったら食い殺すぞ」
 おくれ毛を横顔に纏わり付かせ、レイジは邪悪に笑った。
[newpage]
 暗闇の中、瀕死の獣じみた咆哮が低く響く。
 地を這うような唸り声が陰々滅々と流れる中、頭から毛布を被り、暗闇に潜んだ猛獣から身を守るように気配を殺して縮こまる。
 暗闇の中に飢えた獣がいる。
 気配を悟られたらおしまいだ、鋭利な牙で噛み裂かれ食い殺される。
 「うっ、あ………あ、あああああっ」
 声がする。苦痛に引き裂かれた唸り声。
 隣のベッドでレイジが激しく身悶えている。
 シーツで爪を研ぎ、毛布を蹴飛ばし、悩ましく身を捩るレイジの姿は目を瞑っていてもまざまざと想像できる。
 だが、俺は見ないふりをする。聞こえないふりをする。
 毛布の中で身を縮こめて両手で耳を塞いで、相棒の苦しみに知らんぷりする。さっき房の前でレイジと遭遇した。一日ぶりの再会。昨日連れてかれたきり音沙汰なくてさんざん俺に心配かけたレイジは、とくに目立った外傷もなくぴんぴんして帰ってきた……ように見えた。
 けど、何かが違う。何かが確実におかしい。
 囚人服から突き出た部位は綺麗なもので怪我の痕跡こそないが、痛がりよう苦しみようが尋常じゃない。
 看守に肩を抱かれて足を引きずるように歩くレイジ。
 たった一晩で見違えるように憔悴した面差しに虚勢の笑みを拵え、
 そして。
 「………」
 レイジの唸り声に背を向けて潜り込んだ毛布の中、体の前にもってきた右五指をぎゅっと閉じる。
 『おい、どうしたんだよ!?』
 耳の奥に蘇る必死な声。レイジの変化に不吉な予感を煽られ肩に手をかけた俺は、体の芯から恐怖に凍りつく。
 振り返り際、俺に手を上げるレイジ。
 前髪の隙間から放たれる苛烈な眼光、野性に返った獰猛な眼差し。
 自分に触れるものは誰だろうが許さないと宣言するかのように容赦なく俺の手を叩き落とし、レイジはあっさりと俺に背を向けた。
 何が起きたかわからなかった。
 レイジが俺に手を上げるなんて信じられなかった、嘘だと思いたかった。思い出すのはペア戦中盤、後ろ髪引っ張られてキレたレイジが俺の腹に蹴りを見舞ったとき。あれ以来レイジはふざけてじゃれあう以外俺に手も足もあげてない。そのレイジが、肩を掴まれた位で目の色変えて反撃にでた。振り返り際、真っ直ぐ俺の目の奥を貫いた苛烈な眼光を思い出し、体がかすかに震えだす。
 自分に触れるものすべてを敵と決め付け即座に反撃に出る、闘争心に凝り固まった野生の獣。
 レイジは恐ろしくぴりぴりしていた。人を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。レイジと対峙して恐怖を覚えた。野生の獣と対峙したような根源的な恐怖。あれは、俺の知るレイジじゃない。いつもへらへら調子よく笑ってる呑気で陽気な王様じゃない。
 わけわからねえ。たった一晩で、どうしてあんなに変わっちまった?
 たった一晩でレイジの身に何があった。
 「………っ」
 詳細を聞くのが怖い。レイジ豹変の理由を知りたいのは勿論だが、真実を知って但馬への憎しみを抑え付けられなくなるのが怖い。
 頭が混乱する。動悸が激しくなる。毛布の中に潜り込んで両手で耳に蓋をし、じわじわと込み上げる不安を押し殺す。
 裸電球のない房は真っ暗。もうとっくに就寝時刻を過ぎて近隣の房の住人は寝静まり、時折聞こえてくる寝言と鼾と壁を蹴り付ける音も静寂に呑み込まれる。

 唸り声はやまない。
 俺が背中を向けたベッドでレイジが激しく身悶えている。

 「はっ………あっ、ふくっ………うぅ……」
 絶え間ない激痛に苛まれているかの如く、喉の奥から低くくぐもった呻き声を漏らす。レイジが体を撓らす度に粗末なベッドが軋み、スプリングが悲鳴を上げる。
 ギシ、ギシ。
 重たく耳障りな金属音が耳朶にこびりつく。錆びたスプリングが上げる絶叫が鼓膜をひっかく。振り返り、レイジの姿を確認する決心がつかない。俺が覚えているのは力尽きベッドに倒れ込んだ瞬間のレイジだけ。
 胸の下に片方のこぶしをあてがい、顔をベッドに埋めて腰を上げた四つん這いの姿勢で凄絶な笑みを剥き出す。
 『一歩でも近寄ったら食い殺すぞ。ロン』
 牽制の笑み。
 俺は、レイジに近付くのが怖い。一晩たって漸く帰ってきたレイジにどう接したらいいかわからない。あんなにレイジのことが心配だったのに、いざ帰ってきたらかける言葉が見つからない。レイジが俺に手を上げた。「近付くな」と脅した。
 今夜のレイジは普通じゃない。
 無防備に近寄ればマジで食い殺されちまう。
 こうして毛布にくるまっていても、手負いの獣がそばにいるみたいにぴりぴり殺気立った気配が伝わってくる。今夜のレイジは怖い。全身で接触を拒み、全身で接近を拒み、房の片隅のベッドに身を横たえて威嚇の唸り声を発し続けている。
 いっそレイジのことなんか放って寝ちまえと思っても、暗闇に流れる唸り声が耳に付いて一向に睡魔が訪れない。うるさいわけじゃない、むしろその反対だ。時折耐えかねて語尾が跳ね上がるにしても、自制心を総動員して奥歯で磨り潰した苦鳴はひどく聞き取りにくくくぐもっている。
 ひっきりなしに喉を駆け上がる咆哮を噛み殺して苦鳴に変えて、必死に弱みを隠して、隣で眠る俺に悟られないよう孤独に痛みに耐え続けるレイジ。
 そんなに俺にバレるのが嫌なのか、弱みをさらけ出すのが嫌なのか? 胸の内に反発が湧く。
 暗闇に連綿と流れる唸り声がレイジに対する反感を煽り、やり場のない怒りが込み上げる。
 所長にどんなえぐいことされたか知らねえけど、体が辛いんならひとりで我慢せず俺を頼ればいいじゃんか。くだらねえプライドなんか捨てちまえ、王様。腹立ち紛れに毛布を蹴り飛ばすも怒りはおさまらない。ぎしぎしベッドが鳴る音が耳障りだ。
 「―くそっ!」
 上等だ。食い殺せるもんなら食い殺してみろ。
 毛布をひっぺがし、ベッドから飛びおりる。踵の潰れたスニーカーをつっかけて房を突っ切れば、靴裏で裸電球の破片が割れ砕ける。
 床一面に散乱した裸電球の破片を蹴散らして隣のベッドに駆け付け、上体を突っ伏したレイジに説教する。
 「なにが『近寄るな』だ、こんな時まで格好つけんじゃねえよ!辛いんなら辛いってはっきり言えよ、どっか痛いんならちゃんと言えよ!さっきからはあはあ唸り声上げて耳障りなんだよ、畜生明日も強制労働あるってのに寝不足でぶっ倒れたらお前のせいだかんなレイジ、責任とれよっ」
 「……近付くな、って言ったろ……飼い主の言うこと聞けねえ悪いコは嫌いになる、ぜ……」
 レイジが途切れ途切れに言い返すが、声に覇気がない。その声に不安をかきたてられ至近距離に顔を近づけ、ぎょっとする。
 レイジは大量の汗をかいていた。試しにベッドに手を置き、ぐっしょり湿った感触に狼狽する。囚人服の上下もしとどに汗を吸って四肢に重たく纏わり付いてる。
 「すごい汗。熱あんのか?」
 「ねえよ……」
 一呼吸おいて力なく首を振るレイジを無視、額に垂れた前髪をかき上げる。手前の床に膝つき、コツンと軽い音をたて額をくっつける。……すごい熱だ。舌打ち、こんなことならレイジの脅しにびびらずもっと早く駆け付けるべきだったとぐずぐずしてた自分を呪う。
 どうする、医務室に連れてくか?
 就寝時刻を過ぎて出歩いてるところを看守に見つかれば厄介なことになる。それ以前に俺とレイジの体格差じゃコイツを医務室までおぶってくのはきつい、途中で共倒れなんてオチになったら笑えねえ。
 「……ったく、年上のくせに世話かけんなよ」
 とりあえず、一晩様子を見よう。明日になったら熱もさがってるかもしれねえしと前向きに考え、腰を上げる。
 手近にタオルはないかと房を見回してみたが生憎そんな物はどこにも見当たらない。
 「缶切りやらライターやらどうでもいいもんは持ってるくせに肝心な時に使えねえ王様だな!」
 苛立ちを込めて吐き捨て、こうなりゃ仕方ねえと決心して上着に手をかける。ベッドに身を横たえたレイジが「何する気だ」とぎょっと目を見開く。不器用に上着をたくし上げて首から引っこ抜き、脱ぎ捨てる。裾が捲れた隙間からひやりと外気が忍び込み、鳥肌立つ。
 無造作に上着を脱ぎ捨て上半身裸になり、速攻洗面台に駆け寄り蛇口を捻る。
 全開にした蛇口から勢い良く水が迸る。
 洗面台に手を突っ込み、じゃぶとじゃぶと上着を濡らす。
 冷たい水滴が顔に跳ねる。
 他に冷やすものがねえんだから仕方ねえ。背に腹は変えられねえ。
 上着にたっぷり水を含ませ、きつく絞る。雑巾絞りした上着から大量の水が垂れ落ちる。絞りが足りないと顔がびしょ濡れになるからとくに念入りに。
 手の皮が擦りむける勢いで上着を絞りつつ、お袋が風邪ひいたときのことを思い出す。お袋が風邪で臥せったときもこうやって付きっきりで看病してやった。慣れない手つきでタオルを絞って粥を炊いてやった。 全然感謝されなかったけど。
 俺の身のまわりにいる人間は手のかかる奴ばっかだ。
 上着を絞り終え、ベッドに戻る。
 レイジは相変わらずベッドに臥せって苦しんでる。
 「お前、とりあえず服脱げ。服が汗でびしょ濡れじゃますます熱あがっちまうよ。特別に拭いてやっから感謝しろ」
 「絶対いやだ……」
 「わがまま言うな」
 ため息を吐き、傍らにしゃがみこむ。うんざりしつつ上着を脱がせようとしたら、即座に手を振り払われる。
 硬直した俺に向き直り、おくれ毛を横顔に纏わり付かせたレイジが息も絶え絶えに言う。
 「さっき言ったろ、さわったら殺すって。目障りだ、消え失せろ」  
 「……な、んだよそれ」
 こめかみの血管が膨張する。聞き分けのない相棒に激怒した俺は、土足でベッドに飛び乗りレイジの胸ぐらを掴む。
 「俺に服脱がされるの嫌だって駄々こねてなんだそりゃ、お前は処女か!?それとも自分は脱がすの専門だって言いてえのかよ!?
 言ってる場合か馬鹿、お前今の自分の状況わかってんのかよ、汗でびしょ濡れの服のまんまじゃますます熱上がっちまうだろうがよ!?俺だってお前の裸なんかこれっぽっちも見たくねえよ、お前が自力で体拭けるんならとっとと寝に帰るよ、けどお前その体調じゃ絶対無理だよ、だから嫌々仕方なく脱がして拭いてやろうとしてんのに人の親切足蹴にしやがって!!」
 「お前に脱がされんのなんかごめんだ、脱がされるより脱がすほうが好きなんだよ俺は、そういうポリシーなんだよ……ポリシー変えたら俺が俺じゃなくなる、っあ……」
 「言ってろ。お前が嫌でも無理矢理脱がすからな」
 レイジの胸ぐらを乱暴に突き放し、手っ取り早く服を剥ぎにかかる。レイジが往生際悪く抵抗するも、熱で意識が朦朧としてるせいかいつもと同じ力がでない。高熱のせいで四肢に力が入らず、俺をどかそうと精一杯腕を突っ張るレイジを鼻で笑い、上着の裾をたくし上げるー

 「…………………………な、」
 言葉を失った。

 胸まで大胆に捲り上げた上着の下から露出したのは、よく引き締まった腹筋。綺麗に筋肉が付いた肢体。その体に、無残な傷跡がある。熱をもち縦横に走るみみず腫れ。胸板にも腹にも下肢にも夥しく刻まれた凄惨な傷跡……滅茶苦茶に鞭打たれたあと。
 しなやかに引き締まった肢体を縛り上げるかのように無数に交差したそれは、つけられてからあまり時間が経過してないと見えて薄く血を滲ませている。
 「……な、んだよこれ」
 上着をはだけて裸身を露出したレイジは苦悶にのたうっている。
 形良く尖った顎先を汗が滴る。
 顎先から落ちた汗がシーツに染みを作る。意識朦朧と高熱に浮かされ、溺れるものが藁をも掴むように必死にシーツを引っ掻くレイジの裸身を凝視、呆然と呟く。俺自身の手で暴いたレイジの裸身には過酷な調教の過程を物語るように鞭打たれた傷跡が刻まれて、腫れた皮膚に痛々しく血を滲ませている。 
 痛い、はずだ。
 長袖の上着に隠れて見えなかった手首にも二の腕にも肩にも鞭の傷跡は及んでいる。真新しい傷跡はいまだに熱をもち膨らんで、皮膚とシャツが擦れる度に疼痛をもたらしたはず。
 肩に手をおいた瞬間の過激な反応が、やっと腑に落ちる。
 レイジが俺の手を振り払ったのは、単純に痛かったからだ。おもいきり肩を掴まれて筆舌尽くしがたい激痛に苛まれたからだ。
 だからレイジは俺の手を握り締めもぎ放した。それでも鈍感な俺は何も気付かず、背中を向けられカッときて再び肩を掴んだ。今度は前よりもさらに強く。
 頭で考えるより先に手を上げたのも、無理ない。
 憎悪の眼差しを向けるのも、当たり前だ。
 「だれにやられたんだよ、これ」
 声が怒りに震える。手のひらに爪が食い込み鮮明な痛みをもたらす。レイジは答えない。答える余裕もない。寝汗を吸ってびっしょり濡れたベッドに突っ伏したまま、浅く肩を上下させ荒い息を吐いている。
 高熱の原因はこれだ、この傷跡だ。
 酷く鞭打たれた後にろくな手当てもされず放置されて、体が限界を訴えたのだ。ぐっしょり濡れそぼった前髪に表情を隠し、苦しげに呼吸するレイジの肩にそっと手をかける。
 傷にさわらないよう注意して、慎重に。
 「但馬か。犬とカマ掘りあってる筋金入りの変態所長か」
 脳裏に但馬の顔が浮かぶ。
 イエローワークの仕事場に犬連れで視察に赴いて囚人狩りを決行した陰湿極まる爬虫類顔。縁なし眼鏡の奥で冷酷に輝く目。自分の命令に背いたものには溺愛する飼い犬だろうと容赦なく鞭を振り上げてー……
 所長に鞭打たれて哀れっぽい鳴き声をあげるハルの姿が瞼の裏によみがえる。ぴしり、ぴしり。甲高く乾いた音が連続で鼓膜を叩く。家畜を躾けるには鞭を惜しまないと豪語する但馬の顔ー……

 あいつ、レイジにも鞭をくれたのか。
 嬉々として鞭をくれたのか?

 「―――――っ!!!!!」
 殺してやる。
 脳裏で殺意が爆ぜる。憎悪で視界が赤熱する。前歯が唇を噛み裂き、口中に鉄錆びた血の味が広がる。
 あの変態野郎絶対殺してやる今すぐ殺してやる八つ裂きにしてやる手榴弾で細切れの肉片にしてやる!!遠く高笑いが聞こえる。暗闇に渦巻く狂気の哄笑……レイジを鞭打ち嬲りながら、嗜虐の快感に酔い痴れ唾飛ばして哄笑をあげる但馬の姿が瞼の裏で像を結ぶ。

 一体レイジがなにしたってんだ?
 レイジの十字架をぼろぼろにしただけじゃ飽き足らずに本人を呼び出してこんな酷い目に遭わせて、野郎、ぜってえ許さねえ!

 「畜生……あいつら兄弟揃って狂ってる、完璧狂ってやがる!こないだ囚人全員の目の前でお前いたぶっただけじゃ飽き足らずわざわざ呼び出してこんな真似してイカレてやがる!だいたい花火の件で呼び出されたんなら張本人のヨンイルが真っ先に放免されんのおかしいって、花火の件はただの口実、お前呼び出して思う存分いたぶるためのでっちあげだったんだよ!!」
 絶叫が喉を焼く。
 やり場のない怒りに駆られてこぶしでベッドを殴り付ける。何度も、何度も。マットレスにこぶしが沈み込み、ベッドが揺れる。
 レイジは半ば瞼を下ろし、焦点のぼやけた目で俺の狂乱を眺めている。だるそうに横たわるレイジを目の当たりにし、自制心を総動員してこぶしを引っ込める。こんなことしてる場合じゃねえ。怒りをぶちまけるのは後回し、激情を吐露するのは後回しだ。
 とにかく今は一刻も早くレイジの体を拭かなきゃ……
 「レイジ、ちょっと痛えかもしれねーけど我慢しろよ。今拭いてやっから……」
 「来るな……」
 荒い息の狭間から弱々しく訴え、レイジがあとじさる。
 なんで俺を避ける?
 鞭打たれた体見せて心配かけたくなかったんならもういいじゃんか。ベッドパイプに縋って何とか上体を起こしたレイジが、引き攣った顔で俺を睨み付ける。ベッドパイプに体を凭せ掛けてやっと起き上がってるくせに強情はるんじゃねえ、と一喝したくなるのをぐっと堪えて膝でにじり寄る。
 膝に体重をかけてレイジに接近すれば、耳障りにベッドが軋む。
 ベッドパイプに背中を預けて上体を起こしたレイジは、下腹部を庇うような格好で体に腕を回し、不自然な前屈みのポーズをとってる。
 前髪の隙間から覗いた隻眼が憔悴しきった眼光を宿す。
 猫背の姿勢で腹に腕を回したレイジが、何かを堪えるように悲痛に顔を歪める。

 『Do not touch me. Do not talk to me. Do not see my eyes. Do not come near me.』
 『別歎心』

 無理を強いて笑みを作り、台湾語で声をかける。
 心配すんな。俺に任せとけ。だが、レイジを安心させるつもりでできるだけ優しく声をかけた俺の気持ちはまんまと裏切られる。前髪に隠れた隻眼に憎悪が炸裂、喉の奥で咆哮が煮立つ。全身に敵愾心を漲らせ、獰猛に犬歯を剥いて俺を威嚇するレイジに動揺が大きくなる。
 猫背に身を丸めて殺気を放ち、レイジが口汚く吐き捨てる。
 「俺のことなんか放っとけよ、うざいんだよ!」
 「放っとけるか、相棒なのに!!」
 我を忘れてレイジにとびかかる。最後まで抗うつもりなら行動あるのみと、ベッドパイプを背にしたレイジに捨て身で突撃して汗でぐしょ濡れのズボンを剥ぎ取りにかかる。
 レイジが必死に抵抗する、片腕を腹に回したままもう片方の腕で俺の頭を掴んで押し返そうとするのに首振りで逆らい、ズボンに手をかけるー
 「大人しく全部脱げ、ガキじゃあるめーし世話焼かせんな!濡れた服のまんまでいたら肺炎になっちまうだろ!」
 「頼むからさわんなロン、今の俺にっ……」
 熱っぽく潤んだ目でレイジが俺を見る。
 上着が胸まではだけ、素肌を夥しく這い回るみみず腫れが曝け出される。倒錯的な色香が匂い立つ姿態。汗で濡れそぼった前髪が額に貼り付き、苦痛に細めた隻眼にうっすらと涙の膜が張る。ひりつくような焦燥の気配。抗議の声に構わずズボンを引き摺り下ろそうとして、手が滑り、股間をさわってしまう。
 「ー、っあ!!」
 「あっ、……」
 咄嗟に手をどけようとして、様子がおかしいのに気付く。ベッドパイプに背中がめり込むほど仰け反ったレイジが、布裂くほど深々とシーツに爪を立て、声なき絶叫をあげて空気を震わす。
 びくりびくりと下肢が痙攣、内側に丸めたつま先がシーツを蹴り付ける。全身が硬直、のち弛緩。ベッドパイプに背中を預けてぐったり四肢を投げ出したレイジは、喉奥の空洞が覗けるほど口を開け、貪欲に酸素を欲して喘ぐ。
 「おまえ、どうし……」
 ベッドに座り込んだレイジの顔を覗き込んだ瞬間、手に違和感。
 ズボンの股間においた手に湿った感触。反射的に目を落とし、絶句。ズボンの股間にじわじわと広がる染み。一瞬小便かと疑ったが、違う。ズボンの股間をまさぐる手に粘りつくような感触と濃厚な匂いは……
 ひどく苦労して生唾を嚥下、おそるおそる手を引っ込める。
 放心状態で手のひらを見下ろし、濡れた股間と見比べて匂いを嗅ぐ。
 パイプに背中を預けて浅く呼吸するレイジ、ズボンの股間に広がりつつある恥ずかしいシミ。
 「………お前、俺にさわられただけでイッちまったのか?」
 緩慢な動作で顔を上げ、レイジが俺を見る。
 漸くわかった、レイジが下腹部を庇ってたわけが。腹に腕を回した前屈みの姿勢をとってたわけが。レイジは勃起していた。ズボンの内側でペニスが勃ち上がって、ちょっとした刺激で達しちまいそうにぎりぎりの状態に追い上げられてたのだ。
 ひょっとして、さっきからずっとベッドで身悶えていたのは少しでも射精を引き延ばそうと抗ってたのか?
 ベッドに座り込んだ俺の近くに蝿が飛んでる。 
 耳朶に纏わり付く蝿の羽音が、違うものだと理解したのは数秒後だ。
 「なんだ。この音」
 さっきからずっと音がする。かすかな、本当にかすかな音。蝿の羽音に似て奇妙な、それでいて機械的な音。
 暗闇に流れる音の正体を確かめようと聴覚を研ぎ澄ました俺は、やがてその音が、レイジの体内から漏れてると確信する。
 さっきからずっとレイジは俺の目を見ない。
 「お前、『中』になに入れてるんだ?」
 違う。「入れられた」んだ。
 暗闇に低く低く流れる電動音の正体はレイジの中に仕込まれた機械……ローターとかバイブとかその類の玩具だ。
 「いつ、からだ」
 喉の奥で嘔吐感が膨れ上がる。胃袋を締め付ける嫌悪感。
 「廊下で俺と会ったときからずっと具合悪そうで、看守に肩借りなきゃ立てない状態で、あれからずっと……」
 出さなきゃ。出してやらなきゃ。
 今すぐ今すぐに出してやらねえとレイジが死んじまう、ただでさえ熱があるのにこんな最悪の体調でずっと、ずっと悪趣味な玩具なんか咥え込まされてたら普通に死んじまう!!
 くそ、だれだ、だれがやったんだ?決まってるひとりしかいねえ、但馬だ、あいつがやったんだ、くそったれタジマの兄貴の変態所長がやったんだ!!レイジを一晩かけて鞭打っただけじゃ物足りずに悪趣味な玩具ケツに突っ込んだまま帰しやがって、自然に電池切れるまで待ってたらレイジが死んじまう頭がおかしくなっちまう!
 「うあ……」
 気色わりぃ。俺だって娼婦の子供だ、セックスん時に使う玩具があるってことくらい知ってる。お袋の客が使ってるのを何回か見たことある。グロテスクな突起が付いた、男のペニスを模した……スイッチを入れるとぐねぐね卑猥に蠢く悪趣味な道具。客に玩具使われた時はお袋の喘ぎ声が派手になるからすぐわかった。
 レイジの中に入ってるのがどんな形状のどんな玩具か実際見なきゃわからねえけど、こんな物入れっ放しにしたままずっと耐えてたんじゃ辛いはずだ。
 「大丈夫、今すぐ抜いてやっから!指入れて掻き出してやっから、そしたらラクになるから、寝れるから……だからもうちょっとの辛抱だレイジ、我慢しろっ!」
 瞼が火照る。眼球が熱くなる。
 相棒のくせになんでもっと早く気付いてやれなかった?自責の念が胸を引き裂く。看守の肩借りて帰ってきたコイツを最初に見た時気付くべきだった。
 だらしなくパイプに寄りかかったレイジの肩を揺り起こし、薄れかけた意識を繋ぎとめようと懸命に叱咤するー
 「無駄、だよ」
 レイジが卑屈に笑う。今まで見たことない絶望的な表情。
 無様な姿を俺の前に曝け出したことでプライドがへし折れて、自暴自棄に吐き捨てる。
 「ずっと奥まで入ってる、から、お前の指、じゃ、掻き出せねっ……あぅぐ……俺も、自分じゃ、出すの、無理……」
 快感か悪寒かその両方か。苦痛と快感の境界線が溶け出してあやふやになったらしく、瘧にかかったようにレイジが震える。
 ついさっきまで瀕死の苦しみにのたうつ手負いの豹に重なったその姿が、倒錯的な色香を発して体の火照りを飼い殺す発情期の雌豹に変貌を遂げる。シーツには人型の染みができている。
 体内で振動を続ける機械が前立腺を絶えず刺激するせいで休まる暇がなく、さっき達したばかりの股間がまた力を取り戻す。
 肘で這い進むレイジの首から、涼やかな音たてて金鎖が流れ落ちる。
 体内の振動が強くなるたび血が滲むほど唇を噛み締め、下着と性器が擦れる感触さえ快感に昇華する敏感な体を憎み、シーツに爪を突き立てる。
 前髪がしどけなく乱れ、恍惚と濁った隻眼が覗く。
 彫刻めいて高い鼻梁から完璧に尖った顎にかけて汗が伝い落ちる。体が弓なりに撓り、喉が仰け反る。体がびくびくと痙攣する。
 腹に片腕回して俺の目からズボンの膨らみを隠すレイジに耐え切れなくなり、喉も裂けよと怒鳴り散らす。
 「そんな物ケツに入れたまんまじゃクソもできねえだろ!?できるかできねえかやってみなきゃわかんねーじゃんか、往生際悪く足掻くのやめて大人しくズボンと下着脱がせろ、俺が奥まで指突っ込んで掻き出してやっから安心……」
 「お前に見られたくないんだよ!!」
 腹の底から振り絞るように絶叫、レイジが俺を突き飛ばす。
 背中に鈍い衝撃。
 ベッドパイプに衝突した俺の視線の先、四つん這いの姿勢をとったレイジが乾いた笑い声をあげる。
 「………は、はははははっ。さんざん訓練受けて苦痛には慣れてるつもりでも快感には弱いんだよな、俺。どうしようもねえ淫乱だからさ。でも、一晩くれえどうにかなる。根性で持ちこたえてやる。明日になりゃ外してくれるって言ってたしさ」
 肘が砕け、上体ががくりと沈む。
 深々と頭を垂れたレイジが、近寄りがたく獰猛な殺気を放つ。ぐっしょり濡れた上着が肢体に貼り付き、鞭打ちの洗礼を受けた素肌が透けて見える。今にも屑折れそうな体を気力を振り絞り持ち上げて、呼吸に合わせて肩を上下させる。
 「……正直、さっきから何回何十回イッたんだか頭がぼんやりして覚えてねえけど大丈夫。お前に心配されるほど落ちぶれちゃいねえ……ぅあっ……くっ」
 電動音が大きくなる。
 どうやらランダムに強弱が入れ替わる仕組みらしい。
 「……っは……、今ズボン脱いだらひでえことになってるから、見せたくな、いんだよっ……」
 腰がいやらしく上擦る。男を誘うように腰を浮かしたレイジが、欲情に掠れた声で切々と訴える。縋る物を求めて虚空に手を伸ばし、パイプの一本を掴む。パイプにしがみついたレイジが「んっ、あくっ……」と切ない声を漏らす。甘く濡れた喘ぎ声。
 脊髄から脳天へぞくりと快感が駆け抜ける。
 暗闇の中、次第に高くなる喘ぎ声に比例して俺の股間が熱くなる。
 最低だ、俺。
 レイジの声に興奮して、勃っちまった。
 反射的に股間を手で覆い、絶望に固まった顔で四つん這いのレイジを仰ぐ。
 「あっ、ああああああああっあ!!」
 パイプを掴んだ手に力が篭もり、指が強張る。体内の振動が最高潮に達し、中から直接前立腺を刺激されたレイジの体が意志とは無関係に痙攣する。俺には見えない位置でレイジが精を放ち、下着の中に白濁をぶちまける。無意識な動作で手を股間にもっていき、尿道がひりつくように痛み出したペニスを庇い、よわよわしく笑う。 
 「……ランダムに切り替わるから、油断も隙もねえ……ローターは電池切れるまで萎えねえから、勃ちっぱなしで、つれえ…………」
 連続で射精したせいで、酷使した尿道が錐を刺しこまれるように疼いてるはず。
 「笑うなよ」
 笑うなよ、こんなときに。どこもおかしかねえよ。
 笑い出した膝を叱咤し、レイジのそばに這い寄る。額に手をあてる。熱は全然下がってない。当たり前だ、体内で絶え間なく機械が暴れてるのだ。体内を玩具に犯されて体を休めることもできず、このまま一睡もできなければいずれ消耗しきって死んじまう。
 俺は、どうしたらいい?
 少しでもラクになるようにと額の汗を拭ってやりながら自問自答し、決断を下す。
 「俺がヌいてやるよ」
 放心した顔つきで俺を仰ぐレイジを見返し、胸が痛む。だってこのままじゃレイジが死んじまう、頭がおかしくなっちまう。
 少しでもコイツがラクになるならなんだってする、痛み苦しみが薄れるなら何だってする。
 ぎこちない手つきでレイジの太股にふれ、ズボンの股間をめざして手を滑らす。
 「勃ちっぱなしが辛いなら速攻ヌイてやるよ。お前だってこないだ俺のモンしゃぶったろ?やり方はわかってるから」
 そうだ、レイジがやった通りにすればいい。ただ咥えりゃいいだけだ。
 最初にレイジに抱かれた夜のことを思い出し、羞恥で頬が染まる。
 男のモンを咥えるなんて冗談じゃないと今でも思うが、背に腹は変えられない。目の前でレイジが苦しんでるのに放っとけねえ。所長への殺意を胸の内に畳み、今はレイジを射精に導くことだけに集中する。
 おっかなびっくり、不器用な手つきでズボンの股間を撫であげる。
 「………!っ……やめ、ろ」
 レイジが極限まで目を見開く。驚愕に強張った顔。
 シーツを蹴ってあとじさったレイジが、突如前屈みになる。ベッドに上体を突っ伏したレイジを断続的に痙攣が襲う。
 体内の振動がまた強くなったらしい。
 「無理すんなよ。ほんとはイきたいんだろ。イかしてやるよ。こないだお前がやってくれたの思い出してやってみるよ」
 「お前がフェラしてくれるのは嬉しいけど、こんな状況でんなことされても素直に喜べねえよ!」
 ベッドに突っ伏したレイジに掴みかかり、力づくでズボンを引き摺り下ろす。下着の中からペニスが跳ね上がる。
 一体何回射精したのか、下着の中には大量の白濁がこびりつき濃厚な匂いに蒸れている。出すもの出しきってもう透明な雫しか出なくなって、それでも勃ち上がるペニスに口を近づける。
 「イきてえならイかせてやるって言ってんだよ、いまさら恥ずかしがんな、くだんねえプライドなんか捨てちまえよ!お前だって俺を抱きながらさんざん恥ずかしいことしたじゃねえか、俺のペニスいじくって突っ込んで腰振らせて淫売顔負けの喘ぎ声あげさせてたじゃねえか!今度は俺の番だ、俺が気持ちよくさせる番だ、所長なんか目じゃねえって体に思い知らせてやっ……」
 
 咥える寸前、先端の孔から白濁が迸り、まともに顔にかかる。 
 顔に飛び散った白濁が目に染みて、視界が曇る。バランスを崩した体がベッドから転落、床で背中を強打。
 腕に突き刺さった裸電球の破片が鋭い痛みをもたらし、正気に戻る。

 「くそっ、目が見えねえ……」
 手の甲でごしごし目を擦る。まともに精液を浴びた顔がべとついて気持ち悪い。手の指にべったり白濁が付着する。
 白濁の糸で繋がった五指をぼんやり見下ろす俺の耳朶を、冷淡な声が打つ。

 『Fuck you』

 ローターの電動音が低く流れる中、震える二の腕を抱いてベッドに蹲ったレイジが、俺の方は見ずに吐き捨てる。
 「……頼むから……はっ、……これ以上、俺に構う、な……お前にさわられると、体が熱くなって……なおさら、辛くなる……」
 前髪の隙間から虚ろな目が覗く。体の中からドロドロに溶かされて、扇情的に肌を上気させたレイジが喉を鳴らす。
 俺は、のろのろと立ち上がる。
 裸電球の破片が突き刺さった腕から一筋血が流れる。血が流れるままに腕を体の脇に垂らし、レイジに背中を向ける。心臓を食い破りそうに動悸が激しくなる。早く、早く房を出なきゃ。レイジから離れなきゃ。俺がこれ以上ここにいてもどうしようもねえ、レイジを苦しめるだけだと痛感して足をひきずるように暗闇を歩く。
 裸電球の破片が靴裏で踏み砕かれ、甲高い音が鳴る。
 レイジの唸り声が追いかけてくるが、振り向かない。俺が振り向くのを、きっとレイジは望んでない。
 「……悪い、ロン。別れ際の続き、今日はできそうもねえ」
 鉄扉の前で足を止める。一瞬何言ってるんだかと訝しんだが、昨日、別れ際にキスして「この続きは帰った時に」と告げたことに思い至る。さんざ痛め付けられても口の減らねえ王様だと苦笑しようとして失敗、みっともなく顔が崩れる。
 「気にすんな。お前の続きなんてハナから期待しちゃいねえから」
 嗚咽を堪えて声を搾り出し、ノブに手をかける。震える手でノブを捻り、暗闇から逃げるように廊下にでる。
 乱暴に鉄扉を閉ざし、表面に背中を凭せてくりかえし深呼吸するも動悸はおさまらない。
 鉄扉の向こう側ではかすかに唸り声がする。
 ひとりベッドに突っ伏したレイジが凶悪な玩具に体の中を犯されて、激しすぎる快感に苛まれ、何度も何度もくりかえし絶頂に追い上げられる。
 「うあっ………」 
 『殺』
 殺してやる。
 「あ、あっあああっあああああ!!」
 『殺』
 殺してやる殺してやる殺してやる!!
 奔騰した殺意が体の中を駆け巡る。
 鉄扉の向こう側の暗闇で玩具に犯され続けるレイジを残し、一散に廊下を駆け出す。めざすは所長室。廊下を全力疾走し一路所長室をめざす俺の脳裏に褐色の裸身が浮かぶ。鞭打ちの傷跡が刻まれたしなやかな肢体を仰け反らせ、苦痛と快感とが綯い交ぜとなった恍惚の表情で官能的な声をあげるレイジの姿が脳裏に纏わり付いて離れない。
 「殺す、絶対に殺す、殺してやる!!!!!」
 これまでタジマにさえ抱いたことない強烈な殺意が俺を鞭打ち駆り立てる。但馬だけは許せない絶対に、俺のレイジをあんな目に遭わせて許せない殺してやる細切れの肉片にして犬に食わせてやる地獄に送ってやるレイジにしたこと後悔させてやる!!
 あんなレイジは見たくなかった見たくなかった、レイジだってあんな姿俺に俺だけには見られたくなかったはずなのに!
 「はあ、はっ………」
 俺は、馬鹿だ。
 「ははっ、ははははははっ」
 廊下の途中で立ち止まり、乾いた笑い声をあげる。
 蛍光灯が白々と輝く廊下に虚しく声がこだまする。
 「殺す殺すって簡単に言うけど、じゃあどうやって殺すんだよ?どうやったら殺せるんだよ、東京プリズンのトップをさ。無理だろ実際。相手は東京プリズン一のお偉いさんだぜ?ただの囚人がどうやってお近づきになりゃいいんだ、それこそレイジやヨンイルみたく直接呼び出されなきゃ顔合わすこともできねえじゃんか。いつも東京プリズンほっつき歩いてた暇人の弟たあ身分が違うんだぜ。なあ、どうやって殺すんだよ?教えてくれよだれか、あいつ殺す方法を!あいつを東京プリズンから消す方法を!!」
 寒々しいコンクリ壁に怒号が跳ね返る。怒りに任せて壁を殴り付ける。何度も、何度も。しまいには手の甲が擦りむける。
 「……なんでだよ」
 壁を殴るのやめ、額を預ける。体の脇にぶらさげたこぶしは傷だらけだ。けどこんなの、レイジが味わった苦痛に比べれば大したことない。冷え冷えと硬質なコンクリ壁に額を付けて呼吸を整え、自嘲的に吐き捨てる。
 「なんで俺、あいつの相棒なんかやってるんだ?あいつのこと全然助けてやれねえのに、偉そうに」
 房には帰れない。隣のベッドでレイジが唸ってる間は絶対に。
 俺がそばにいたらレイジはいっそう辛くなる、プライドがずたずたに傷つく。俺には今夜、帰る場所がない。
 居場所を失った絶望感から壁に片手を付いて何とか体を支え、ふらつく足取りで歩き出す。本音を言えば今すぐ房に駆け込みたい。レイジのそばについててやりたい、助けてやりたい。
 でも、俺が体に触れるのをレイジは嫌がる。牙を剥いて拒絶する。
 「……どうしたらいいかわかんねえよ。もう」

 せめて、体を冷やしてやるんだった。
 汗を拭いてやるんだった。

 そうやって何分、何時間彷徨い歩いたことだろう。
 いつのまにか道を外れて入り組んだ通路の奥へと誘われた俺は、サムライと鍵屋崎の房がある通りに出ていた。
 随分遠くまできちまったなと弛緩した頭でぼんやり考えつつ、見るともなく壁に並んだ鉄扉を見ていたら、不意にそのうちの一つが開け放たれる。中から顔を出したのはサムライだ。そして、廊下に突っ立っているのは……
 静流?
 鉄扉を開け放ったサムライと静流が何か言葉を交わすが、俺の位置からじゃ聞き取れない。親しげに言葉を交わすサムライと静流の様子を遠目に眺め、腋の下が不快に汗ばむ。鍵屋崎は寝てるのか?どうして出てこない?眼前の光景に強い違和感を覚えて立ち竦んだ俺をよそに、おもむろに静流が動き、房の中へと足を踏み入れる。
 そしてサムライは。
 鉄扉を大きく開け放ち、静流を迎え入れた。そうするのがさも当たり前のように。
 「なっ……!?」
 静流が完全に房に吸い込まれ、静かに鉄扉が閉じる。中からは何の物音も聞こえない。
 無意識にズボンの尻ポケットに手をやり、昨日静流に託された折り紙の感触を確かめ、最前の光景を反芻する。

 どういうことだ。
 サムライが静流を房に入れた。
 鉄扉が閉じる直線に目撃したのは、二人仲良く寄り添った静流とサムライの後ろ姿だった。
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