少年プリズン

まさみ

文字の大きさ
上 下
357 / 376

三百四十話

しおりを挟む
 どうも様子がおかしい。
 奥の壁に背をつけびくつく俺をよそに、看守たちが取り囲んだのは……レイジ?
 なんだってあいつが?
 頭が混乱、胸騒ぎが沸騰。
 警棒振り上げて威圧する看守四人に寄ってたかって壁際に追い詰められたレイジも何が何だかわからないといった困惑の様子。
 「ストップ!ひとの房訪ねるときはノックしろってママに教わらなかったか?俺が人気者なのは知ってるけどサイン攻めは後にしてくれ、さっきの続きしようってトランクスの中も準備万端だったのにとんだ邪魔が入って興ざめ」
 自分のズボンを掴んで非難するレイジに触発され、包囲網が狭まる。 格子窓の向こうには人だかりができはじめている。
 「なんだ?」
 「王様が接待されてるとよ」
 「レイジまた何かしたのか?」
 押し合いへし合い、もっとよく見ようと格子窓に顔をくっつける奴らを意識の外に閉め出してレイジと看守を見比べる。
 壁を背に突っ立ったレイジは看守四人と対峙しても余裕の表情と不敵な物腰を崩さず、闘うまでもなくどちらが『上』かを空気で知らせている。
 一歩、レイジの方へ踏み出した看守がいる。
 牽制の意を込めて警棒を構えた看守は、顎の付け根の筋肉が盛り上がるほど奥歯を食いしばり、凶暴に唸る。
 「レイジ、所長がお呼びだ。所長室までじきじきにお越しくださいとさ」
 所長から直接呼び出し?格子窓の外がどよめく。東京プリズン全囚人のトップが所長じきじきに呼び出しを受けた。ただことじゃない。
 「なんで?」
 レイジは至極冷静に、微笑を絶やさず聞き返す。
 首筋の鎖をいじりながら問うたレイジと距離を詰め、レイジを警戒して武器を握る手に力を込め、吐き捨てる。
 「さあな。俺らはただ連れてこいと命令されただけだ、理由なんか知らねえよ。所長に直接聞けよ」
 「おとなしくついてきたほうが身の為だぜレイジ、いくらお前でも看守四人相手に暴れまわるのはしんどいだろ。ギャラリーの前で足折られてプライドずたずたにされんのは嫌だろ」
 「100人抜きの偉業成し遂げた王様に敬意を表したVIP待遇だ。感謝しろ」
 「俺らはさしずめSPだ。くそったれ刑務所の王様を送り迎えする役目をおおせつかったんだ」
 「レイジ!」
 喉が異常に渇く。心臓の鼓動が高鳴る。
 俺の目の前でレイジが看守四人に囲まれている。壁を背に追い詰められたレイジは色素の薄い隻眼に困惑の色を浮かべている。
 嫌な予感がする。俺が今まで恐れていたことが現実になったような、今まさに現実になりつつある予感が。
 格子窓の外の野次馬が膨れ上がる。今や廊下の先の先まで房から湧き出した囚人で埋まっていることだろう。
 レイジが連れて行かれる。連れて行かれたまま戻ってこなくなる。
 行かせてたまるか。
 衝動に突き動かされるがまま、頭から看守に突っ込んでいく。
 がむしゃらに看守の腰にしがみつき必死に食い下がる俺の頭に肩に背中に容赦なく警棒が振り下ろされ激痛が襲う。しかし手は放さず、他の看守が俺の奥襟掴んで引き離そうとするのに踏ん張り利かせて抗い、めちゃくちゃに叫ぶ。
 「お前らレイジをどこに連れてく気だよ、所長が呼んでるってなんだよそれ、相棒の俺が納得いくようちゃんと説明しろよ!あのクソ所長こないだレイジの十字架ふみにじっただけじゃ飽き足らずまだいちゃもんつける気か、なら俺も連れてけよ、俺も一緒に!」
 「邪魔すんじゃねえ、レイジ庇うならお望みどおり道連れにしてやる!!」 
 逆上した看守が憤怒の形相で警棒を振り上げる。風圧で前髪が浮く。殺される。
 裸電球の光に黒く塗り潰された警棒が残像の弧を描き、脳天に振り下ろされるー
 
 裸電流が粉々に砕けた。
 微塵に砕けた電球の欠片が虚空に舞い、床一面に散らばる。
 
 「ぎゃああああああああああああああっあああああああああっあ!?」
 だみ声の絶叫がびりびり鼓膜を震わす。
 壁から背中を起こした姿勢を低めて疾走、レイジが看守の股下を前転でくぐり抜けて現われ出でて、俺の頭蓋骨を粉砕しようとした看守の手に蹴りを入れたのだ。その衝撃で手から跳ね飛んだ警棒が裸電球を直撃、看守四人の頭上に粉々に割れ砕けた破片が降り注ぐ。
 裸電球が消える直前に目撃したのは虚空に泳いだ十字架の輝き、看守の手首に蹴りくれたレイジの隻眼の輝き。
 腕を交差させ裸電球の欠片から頭を庇った俺の耳元で、誰かが優しく囁く。
 「心配すんな。すぐ戻る」
 待て、行くな!暗闇に手を伸ばし引き止めようとした俺の唇にほんの一瞬、熱い感触が触れる。刹那のキス。
 「レイジこの野郎、優しくエスコートしてやりゃ付け上がりやがって!」
 「くそっ、こんなことになるんなりゃ檻でも持ってくるんだった!」
 「面倒くせえ、とっとと手錠かけちまえ!ちんたらやってたら減棒されちまう!」
 暗闇で怒号が交錯、足音が殺到。何かを殴り付ける鈍い音、手錠を嵌める金属音、格子窓から射し込む僅かな光が闇を掃き清めるー

 レイジが振り返る。
 後ろ手に手錠かけられた不自由な体勢から肩越しに振り向き、俺の不安も心配も吹っ飛ばすように微笑む。

 「グッバイロン、しばしのお別れだ。いい子で待ってたらさっきの続きしてやるよ」
 格子窓から射した光に明るい藁色の髪が透ける。
 長い睫毛も光に透けて揺らめく影を落とす。
 不敵な笑みを刻んだレイジが看守に背中を突き飛ばされ、「とっとっと」と飛び跳ねる。廊下に連れ出されたレイジを追おうとした矢先に無情にも鉄扉が閉まる。
 まずい。
 慌ててノブを掴み押したり引いたりをくりかえすも遅い、廊下に溢れ出した野次馬が鉄扉を塞いでノブはびくともしない。
 「畜生!レイジ、行くな、行くなって!お前余裕かましてんじゃねえよ、十字架ぼろぼろにされた時だってあんなにへこんでたのに今度はあれよりもっとひでえことされっかもしれねえんだぞ、俺庇ってカッコつけたつもりかよ、おまけに裸電球まで割りやがってどうすんだよ、お前のいない間ずっと真っ暗闇で過ごせってのかよ!?」
 さかんに鉄格子を揺さぶり声を限りにレイジに呼びかける。鉄格子に縋りつま先立ち、人ごみの遥か向こうを看守に強制連行されるレイジは俺の声が届いてるはずなのにもう振り返らない。
 いつかと同じく後ろ手に手錠かけられ看守に前後左右を固められ、今まさに人ごみに閉ざされ視界から消え去ろうとするレイジを振り向かせたい一心で鉄格子を殴り付ける。 
 「このっ………マザコン!!」
 じん、と手が痺れた。
 「~~~~~~~~~~~~~~っ!!!!」
 痛い。半端じゃなく痛い。声にならない悲鳴をあげてしゃがみこんだ俺の頭上、威圧的な靴音が遠ざかる。指がへし折れたかと思う程の激痛で目に生理的な涙がみなぎり視界がぼやける。
 唇を噛み締め鉄格子を覗けば、レイジの後ろ姿はすでに視界から消え、廊下には興奮冷め遣らぬ野次馬がうろつくのみ。
 一気に膝の力が抜け、鉄扉に額を預けてずり落ちる。
 鉄扉に額を預けて膝を折った俺は、真っ赤に腫れた指を唇に持っていき、激痛が薄れるのをじっと待つ。
 レイジと引き離される寸前。
 暗闇の中でほんの一瞬、唇が触れた。「心配すんな、すぐ戻る」とレイジがお気楽に言った。
 「………本当かよ。リョウが突然壊れて、お前も突然いなくなって、もう二度とこっち側に帰ってこないんじゃねえか」 
 廊下のどよめきが次第に薄れはじめる。
 三々五々房に引っ込み始めた野次馬をよそに、裸電球の欠片が散らばった暗闇にひとり膝をつき、胸を苛む不安をしずめる為に何度も何度もレイジの笑顔を反芻する。何度も何度もレイジの言葉を噛み締める。
 けど、不安はますます大きくなるばかり動悸は高鳴るばかりで全然効果がない。
 暗闇に押し潰される錯覚に襲われて鉄扉に寄りかかった俺は、レイジが所長に呼び出された原因を考えに考え、一つの答えに辿り着く。
 「原因は犬鍋か……?」 
 犬鍋が原因で相棒と引き裂かれるなんて、洒落にならねえ。
[newpage]
 赴任後最初にしたことは部屋の模様替えだった。
 毛足の長い絨毯が敷きつめられた広い部屋。右手の壁には蔵書の詰まった書架、左手には華美な装飾を凝らした棚が設えられている。
 高価な調度品で飾られた執務室の奥、重厚な存在感のデスクにふんぞり返っているのは恰幅の良い中年男……ではない。
 洗練された三つ揃いを完璧に着こなした痩身の中年男は、前任者とは似ても似つかぬ神経質な風貌をしている。
 無能で怠慢、東京プリズン内部で何が起ころうが無関心に放置した前任者に代わり所長の椅子に座った男は、配下の看守に指示して部屋の模様替えを行った。
 毛足の長い絨毯が敷かれた執務室には来客用のソファーが運び込まれ中央にどっしり鎮座した。
 洋酒は撤去した。新所長は酒が飲めないのだ。代わりに棚の上段から下段へと並べられたのは洒落た意匠の写真立て。その写真立て全てに構図や背景こそ違えど同じ人物が映っている。
 左から右へ行くに従い被写体の変遷を物語るように人物の顔が変化していく。写真に写っているのは「人」だけではない。犬がいた。棚にずらり並んだ写真には左から順に子犬から成犬へと次第に体格がたくましくなっていく過程が克明に切り取られている。
 しかし、棚だけではない。
 重厚な執務机を囲むように配置された写真立てに飾られているのは、犬を舐める男の写真。犬を抱擁する男の写真。犬に舐められ舐め返し蕩けるように笑み崩れた写真からはどれも異常な溺愛ぶりが伝わってくる。
 愛犬の成育過程を記録した写真を周辺に並べ、所長は悦に入る。
 鼻から吐息を漏らして背凭れに身を沈める。
 机上で五指を組み、尖塔を作り、神経質に尖った顎を載せる。
 机を包囲する写真を眺める間は眼鏡の奥の酷薄な眼光も心なし和んでいる。
 「ハルと私の愛の巣完成だ」
 前任者の痕跡は消した。漸く落ち着ける空間になった。
 ハルと私の思い出、ハルと私の歴史が記録された写真をどの位置どの角度からでも必ず目に入るよう細心の注意を払い棚と机に配置した。
 これから執務室に足を踏み入れた者はまず机上に並んだ写真立てに目が行き、ハルと抱擁する私を確認する。そこから視線を巡らせば棚にぶつかるが、その棚にも上段から下段にかけてびっしり隙間なく写真立てが並びハルと私の愛の営みを高らかに唄い上げる。
 所長は上機嫌な様子で執務室を見渡す。
 応接用に持ち込ませた豪華なソファーが中央で存在を主張する。
 飴色の光沢の床には塵ひとつ落ちてない。
 檻は最初から持ち込まなかった。窮屈な檻にハルを閉じ込めるなどとんでもない。ハルには自由を謳歌させるつもりだ。鎖に繋がず室内を歩き回らせ、刑務所の敷地内をいつでも好きなときに好きなだけ徘徊させるつもりだ。私はつまらない独占欲を発揮して愛犬の行動を制限する狭量な人間ではない、ハルには本能の赴くまま好きなときに好きなところへ行く自由を認めた寛容な精神の持ち主なのだ。

 最も、私には職務がある。
 「上」の期待に応えて改革を断行する使命がある。

 ハルと別れるのは断腸の思いだが、愛犬の散歩は部下に任せて職務を全うせねばならない。
 ああ、離れ離れのハルはどうしているだろうか。寂しがって鳴いてはいないだろうか。ハルは甘えん坊だから私の姿が見えずに不安がっているかもしれない。
 ああ、可哀想なハルよ。
 愛犬の心境を考え俯いた所長は、机上のファイルに目をとめる。
 極秘事項に指定された分厚いファイルを手に取り、興味深げに眺める。
 『囚人№10192についての報告書』 
 表紙をめくる。
 報告書には十三・四歳の少年の写真が添付されていた。報告書の内容に目を通す。東京少年刑務所における最重要機密として保管されていた報告書を提出させた所長は、添付された数点の写真と内容とをそっけなく、次第に熱を入れて見比べる。暇つぶしで読み始めたが、ページをめくるにつれ驚きが広がり興奮が湧く。
 報告書に添付された写真はここではないかどこか、日本を遠く離れた東南アジアの風景が映っている。
 ぎらぎら照り付ける太陽、黄土色の砂埃、未舗装の地面に轍をきざむ軍用ジープの車輪……上空から俯瞰で基地を写した写真がある。野戦服の米兵を写した写真がある。逮捕された市民や捕虜となったゲリラの写真がある。
 「なるほど。これはすごい」
 囚人番号10192は実に面白い経歴の持ち主だ。
 どうりでフィリピン政府が「彼」にこだわるはずだと納得する。
 嬉々として報告書をめくっていた所長を現実に引き戻したのは、控えめなノック。
 「入りたまえ」
 「失礼します」
 ドアが開き、犬を連れた男が入室。
 瞬間、報告書の内容は頭から吹き飛んだ。
 「おお、愛しのハルよ!」
 席を立ち、一目散に愛犬のもとへ駆け付け首を抱く。ハルが歓喜の声を上げ自分の顔を舐めまわす。
 愛い奴め。
 「寂しかったかハル?私はとてもとても寂しかったぞ、お前と引き裂かれるのは半身を失うにも等しい地獄の苦しみだった!そうかお前も寂しかったか、やはり私たちは一心同体以心伝心離れられない運命なのだ!よーしよし」
 「散歩、終了しました」
 「見てわかることを言わなくてよろしい」
 ハルを抱き上げ頬ずりしながら副所長を一瞥、辛辣に吐き捨てる。
 端正な顔だちに銀縁メガネがよく似合う副所長が、肩で息をしながらそこに立っていた。
 ハルにあちこち引っ張りまわされて疲労困憊の様子だ。
 それ以上副所長を労うことなく机に戻り、椅子に座る。
 「ハルの様子はどうかね」
 「……どうか、と言いますと」
 「元気だったかね?」
 「普通ですが」
 「面白くない男だな君は」
 当惑する副所長を針の眼光で一瞥、そっけなく続ける。
 「ハルは三歳の成犬だ。今が盛りのオス犬だ。私は犬にも繁殖の権利を認めている、性交を楽しむ権利を認めている。犬の意見も聞かず強制的に去勢手術を行うなどハルへの冒涜、犬も人間と同じく本能に従い繁殖に励み子孫を残してなにが悪い?だから私は敢えてハルの去勢手術をしなかった、人間の良き友であり生涯の伴侶でもある犬にそんな野蛮な真似できるはずがない。ハルには好きなときに好きなだけさかる権利がある。違うか?」
 「……ですが、人のオスを襲うのは問題ありかと」
 「ハルの好みの問題だ。私は口出ししない。人間にも異性愛者がいれば同性愛者がいる、特定の条件に合致する異性ないし同性にしか欲情しない異常性愛者がいる。それはおのおの個性の問題だ、ハルが人のオスに欲情するのもまた特異な個性なのだ。個性を否定したら多様性は生まれない、多様性のない社会は健全とはいえない。異論はあるか?」
 「………犬に襲われる囚人の立場は、」
 「自分の身くらい自分で守りたまえよ。ここでは弱肉強食の掟がまかり通っているのだろう?犬は自分より劣る者しか襲わない。ハルに狙われた者即ちハルに舐められたということだ。ハルにさえ舐めてかかられた弱者がこの先過酷な環境で生き残れるとは思えない」
 どのみち死ぬのだから、娯楽でハルに狩られてもかまわないと言わんばかりの口調だった。
 「なんだその目は。何か文句があるのか」
 忍耐強く黙り込んだ副所長を視線で舐め回し、背凭れから背中を起こす。
 「君こそ、自分の立場がよくわかってないみたいだ。何故君が今こうしてここにいられると思っている、銃紛失という前代未聞の不祥事を犯しておきながら以前と同じく副所長でいられる思っていられる?すべて私の配慮あってこそだ」
 「感謝しています」
 副所長が頭を下げる。感情を押し殺し、努めて無表情に頭を下げた副所長の足元にハルが纏わりつく。
 おもむろに席を立ち副所長に近付く。所長の接近を嗅ぎつけたハルがちぎれんばかりにしっぽを振って跳ね回る。
 犬の吼え声がうるさく響き渡る中、毛足の長い絨毯を踏みしめて副所長に歩み寄る。
 爬虫類めいて冷血な双眸を細め、癇の強そうな薄い口元を不機嫌に引き結び、高圧的にねめつける。
 「不祥事の責任を問われて『上』に証人喚問されたとき、庇ってやったのはだれだ」
 「……あなたです、但馬所長」
 「『上』に退任を要求された君が今もこうして東京少年刑務所にいるのは、私が君の能力を高く買い、秘書に指名したからだ。本来君は不祥事の責任をとり辞任しているはずだった。東京少年刑務所の杜撰な管理が表沙汰になれば政府が非難される、マスコミどもが騒ぎだす。
 『上』の人間は穏便に事件を処理したかった。君をマスコミの人身御供にさしだし事態の沈静化をはかる解決法もあったが、前任者を引退させ君の残留を『上』に申告したのは、昔の私を彷彿とさせる若きエリートの将来に期待しているからだ」
 恩着せがましく言って肩に手をおく。
 副所長の肩がかすかに跳ねる。無意識の拒絶反応。
 それを見抜いた所長は口元に嗜虐の笑みすら浮かべ、わざとねっとりと肩を揉む。
 生理的嫌悪を煽り立てる手の動きにひたすら顔を伏せて耐える副所長だが、体の脇で結んだこぶしは力の入れすぎで震えている。     
 犬にじゃれつかれたオールバックは乱れ、聡明に秀でた額に一房二房と前髪が垂れている。洗練されたスーツもあちこち汚れてひどいありさまだ。
 屈辱に頬強張らせ、表情を覗かれるのを避けて項垂れた副所長をたっぷり眺め、大股に机に戻る。
 「わかればよろしい。さあ、仕事を続けたまえ」
 「仕事、ですか」
 「見てわからんのか?愚鈍な部下だ」
 革張りの背凭れに背中を沈め、優雅に足を組む。傲慢なまでに自信に満ち溢れた支配者のポーズ。机を隔てて上司と対峙した若き副所長は眼鏡の奥の目に困惑の表情を浮かべている。
 飲み込みが悪い。
 交差した膝の上で五指を組み、尖った顎先をしゃくり、高飛車に命じる。 
 「ハルは散歩を終えて喉が渇いている、すぐに水を呑ませたまえ」
 「しかし私には他の仕事が、」
 「他の仕事だと?まだ自分の立場がわからないのかね。君はハルの世話係に降格したんだ。ハルの世話は君の義務だ。義務を怠ればいくら君とて処罰は免れないが、覚悟はできているのかね」
 辛辣に畳み掛ければ、副所長が不毛な議論に終止符を打つように一礼して踵を返す。
 律動的な歩調で絨毯を渡りノブに手をかけた副所長の背中に、「待て」と声をかける。ノブに手を置き、怪訝そうに振り向いた副所長の視線を捉えたまま、机上のファイルを掲げてゆっくりページを繰る。
 「囚人№10192を知っているか?」
 机の前に引き返した副所長がファイルに添付された写真を観察、表情の薄い顔に驚きの波紋を広げる。
 ファイルに添付された写真は右、左、正面と向きを変えて一人の少年を撮影したものだ。
 正面の写真。
 明るい藁色の髪を後ろ襟で無造作に束ねた少年が微笑んでいる。
 黒いТシャツの上からでも綺麗に筋肉が付いてることがわかるしなやかな体躯、健康的な褐色肌。長めの前髪の隙間から挑発の眼差しを放つ双眸には淡い硝子色の瞳が輝いている。野性味と甘さとが絶妙に溶け合った顔だちに僅かにあどけなさを残した少年を見つめ、副所長が慎重に訊く。
 「……レイジですか」
 「Rage、か。英語の怒り憎しみ。呪われた名だな。さしずめ母は憎悪、父が憤怒か」
 何がそんなにおかしいのか、喉の奥で卑屈な笑いを泡立て写真を掬い上げる。 
 スッと、細い指を写真に滑らす。少年の顔を撫でる。
 不敵な微笑を浮かべた少年をなまぬるい目つきで甚振り、顔の輪郭に沿って指を滑らせる。
 「憎悪を母に、憤怒を父に生まれた子供は一体なんだろうね?人か悪魔か、それとも……」
 「囚人です」
 「ふん」
 どうやらこの返答はお気に召さなかったとみえ、途端に興味を失ったように机上に写真を放る。
 無造作に写真を投げ捨て、再び椅子にふんぞり返って足を組み、傍らに招き寄せたハルを撫でる。
 「この顔には見覚えがある。先日、私の就任演説を妨害した囚人だな。なるほど彼がフィリピン政府ご執心の『Rage』か。フィリピン政府が再三強制送還を要求してる犯罪者か。経歴を読ませてもらったが、フィリピン政府が彼に目を付けたのも道理だな。検査の結果、知力・体力ともにすばぬけている。彼を思うさま飼いならすことができればどれほど便利か……」
 犬の息遣いの他は衣擦れの音とてなく、不穏な静寂が立ち込めた執務室で、二人の人間が対峙する。
 不安げな副所長をよそに犬と戯れていた所長が、眼光鋭く写真を一瞥、断言。
 「―私が『上』に戻る鍵は、彼だ」  
 名残惜しげに犬の首から手を放し机に向き直り、写真を手に取る。
 「手ぬるい尋問に終始してはいつまでたっても真相が暴けない。私がここに来た目的は『彼』だ。愚鈍な家畜の群れを率いる毛色の珍しい豹を調教する為だ。彼を屈従させることができれば私の株も上がる、出世の道が拓ける。君、私はまた『上』に戻りたいのだよ。こんな所で終わりたくはないのだよ。砂漠に骨を埋めるなど冗談ではない。不肖の弟はここでの職務に生き甲斐を見出していたようだがね」
 口元に薄く笑みを浮かべる。憫笑とも嘲笑とも判別つかぬ醒め切った笑み。肉親のことを語っているにもかかわらず、口調は恐ろしく冷たい。
 実弟と同じ名を付けた愛犬の頭をさする。
 血統書付きのドーベルマンが裂けた口腔から長い舌を覗かせ夢中で手を舐める。異様に長い舌から涎を垂れ流し、手の指一本一本にむしゃぶりつくドーベルマンを見下し、飼い主に絶対服従の従順さに目を細める。
 犬は賢い。賢い生き物は好きだ。
 犬に指を舐めさせながら、暗い野心を秘めて片手の写真を眺める。
 「弟の復讐だと?そんなものは二の次だ。『あれ』が犯した不祥事がもとでこんな砂漠くんだりに飛ばされてきたのだ、出来損ないの弟の為に何故私が復讐など効率に見合わぬ真似をせねばならない?私の目的は『彼』だ。呪われた瞳と髪をもつ憎悪と憤怒の合いの子、混血の豹だ。いいか、よく聞け。私は必ずや前任者が果たせなかったことを成し遂げてみせる、前任者が早々に投げ出した彼の余罪追及を成し遂げて『上』に戻る!」
 ヒステリックな剣幕に怯え、後ろ脚の間にしっぽを丸めてあとじさる犬。
 所長は憑かれたようにページをめくる。
 高速でめくれるページに付された写真を血走った目で飛ばし見る。
 苛烈に照り付ける灼熱の太陽、軍用ジープの重厚な車体に凭れた野戦服の米兵、マニラ基地に搬入される大量の物資、逮捕された市民と捕虜にされたゲリラ、そして……
 写真に切り取られたのは日本を遠く離れた東南アジアの風景、米軍占領下のフィリピンの日常。
 その中に混じる数点の写真。右、左、正面と向きを変えて撮影された少年の顔写真。フィリピンの日常風景を映した写真の中に忽然と紛れ込んだ人物写真には、どれも同じ少年が映っている。明るい藁色の髪を後ろ襟で無造作に束ねた、野生の豹を彷彿とさせる眼光の少年……
 「その為に、彼には犠牲になってもらう」
 音吐朗々と宣言し、邪悪に舌なめずり。
 片手に預けた写真の中では茶髪の少年が不敵に笑っている。
 生意気な顔だ。
 自分は何者にも犯されない、犯せるものなら犯してみろと大胆不敵に挑発するかのようだ。
 手の中で不敵なオーラを発する写真を覗きこむうちに嗜虐心が疼き、支配欲を煽られる。
 こいつを屈服させたい、屈従させたい、プライドをへし折りたい。
 ゆっくりと首を項垂れ、写真に顔を埋める。
 薄い唇が割れ、蛇めいて赤い舌が覗く。
 舌の先端が写真に触れて透明な筋をひく。慄然と立ち竦む副所長の眼前で、少年の顔を重点的に舐める。
 発情した軟体動物のように卑猥に蠢く舌が写真を這い回り少年の顔にたっぷり唾液を塗る。舌が這ったあとに唾液の筋が透明に濡れ光る。舌が、少年を犯す。唾液の雫が点々と垂れる。頬も首筋もいまや舌に陵辱され唾液にまみれ、てらてら淫猥に濡れ光る。
 「ハルよ、お前も舐めてみるか」
 犬の鼻面にさしだせば、喜んで写真を舐めまわす。
 唾液でふやけて少年の顔が歪むまで隅々まで舌で舐め尽くす犬を見下ろし、満足げに微笑む。
 「どんな味だ?そうか、美味いか。安心しろ、お前にも分け前をくれてやる。私とお前は一心同体、美味な肉は二人で分け合わねばな」
 興奮しきった犬が写真にとびかかり所長の手から奪い取る。
 もはや舐めるだけでは物足りず、前脚で写真を押さえ付け、口腔で噛み裂く。尖った犬歯を剥き出し、写真を噛み裂きにかかる犬をひと撫でして顔を上げた所長は、もう一冊机上に重ね置かれたファイルを取り上げる。
 「そうだ、忘れていた。もう一人問題児がいたのだ」
 ファイルには「囚人№12321についての報告書」と素っ気なくタイプされていた。表紙に印字された囚人番号を見た瞬間、安田の顔色が変わる。それには気付かずページをめくり、一枚の写真をさらす。
 写真に写っていたのは、銀縁眼鏡がよく似合う聡明な少年。
 レンズの奥の切れ長の目は怜悧な知性と冷徹な理性を帯びて、賢さを強調する。
 「囚人№12321、堕ちた天才だ」
 無感情に言い、文章に目を通す。机の前に立ち竦んだ副所長は、努めて感情を出さず無表情を装っているが、完全に動揺を隠し切れない証拠にレンズ奥の目が葛藤に揺れている。
 レンズ奥の目に苦悩を封じ込めた安田には構わず、皮肉げな口調で報告書を読み上げる。

 「鍵屋崎直15歳。遺伝子工学の世界的権威と名高い鍵屋崎優・由香利夫妻の長男として生を受け、夫妻の後継者となるべく幼少時から徹底した英才教育を施された。三歳時の知能検査でIQ180という驚異的な数値を記録。優秀な頭脳を誇り、両親の研究助手として広範に活動し遺伝子工学の発展に貢献した。
 しかし15歳の6月に突如両親を殺害。目撃者は当時10歳の妹のみで、その妹も事件のショックから心神喪失状態となり事情聴取不可能な為に事件発生時の詳しい状況などは今もって不明。
 本人も動機については完全黙秘を通した為に懲役八十年の判決を受け東京少年刑務所送致が決定する」

 「鍵屋崎がどうかしましたか。彼はとくに素行に問題ないはずですが」 
 堪えきれず副所長が意見する。
 椅子にふんぞり返った所長はしばし無言で写真を見つめ、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
 「何を考えているのかまったくもって理解不能だ。IQ180という世界最高峰の頭脳に恵まれながら両親殺害の禁忌を犯して将来を棒に振るなど気が狂ったとしか思えない。動機は思春期にありがちなアイデンティティーの葛藤か?自分が何者か思い悩み世の無常を悟ったつもりになり、突発的に両親殺害に及んだか」
 「……彼には重大な問題だったんです。自分が何者であるかが」
 副所長の顔が苦渋に歪む。
 自分の部下が囚人に理解を示したのが気に食わないのか、椅子の背凭れに凭れた所長が尊大に続ける。
 「彼はまだ黙秘を続けているのか」
 「はい」
 「もう十ヶ月にもなるというのに」
 「……はい」
 「何をしているんだ君は?十ヶ月もあれば両親の殺害動機を聞き出すなどたやすいだろうに」
 わざとらしく嘆息、ファイルを投げ捨てて机上に頬杖をつく。副所長の視線は机上のファイルに吸い寄せられる。
 銀縁眼鏡をかけた少年が無表情にこちらを見返す。
 写真の中から送られる視線を避けて俯いた副所長の反応をどう取ったか、所長は溜飲をさげる。
 「……が、かえって都合がいい。彼はまだ両親の殺害動機について一言も口を割ってないのだね?それならば私が個人的に面談し、彼が十ヶ月間隠し通した真の動機を解明しようではないか。
 『上』も彼の動向を気にかけている。なにせIQ180の危険分子、彼が両親殺害に至った経緯を解き明かすことができれば心理的にコントロールして政府の管理下におくのも不可能ではない。両親殺害という事件を起こした手前表には出せないだろうが、密かに生かして国の利益となる極秘の研究にたずさわせることも……」
 「ご心配には及びません。それは私の役目です」
 滔滔たる語尾を遮り、毅然と前を向いた副所長の顔は緊張に強張っていた。
 所長の方へと一歩踏み出し、性急に畳み掛ける。 
 「私にお任せください、所長。鍵屋崎と私は親しい関係にあります。私は彼から一定の信頼を勝ち得ている自負がある。鍵屋崎から両親殺害の動機を聞き出すのは私の役目、私の義務だ。他の誰にも譲れない。だから所長、鍵屋崎を個人的に呼び出すのはやめてください。鍵屋崎に関する事はすべて私に任せてください。お願いします」
 頭を下げ続ける副所長とファイルの写真とを見比べ、思案げに顎を引く。
 「君は随分とこの囚人にこだわっているが、一体どういう関係なんだ?副所長が特定の囚人を贔屓するのは問題だが、まさか性交渉を持っているわけではあるまいな」
 「!そのようなことは、」
 怒りか屈辱かその両方か、頬に血を上らせた副所長が身を乗り出すのを醒めた目で見つめ、口の端を嫌味に吊り上げる。
 「ならば血縁者か?」
 背中に体重をかければ耳障りに椅子が軋む。ファイルに挟まれた写真の囚人と眼前の男には共通の雰囲気がある。容姿も似ている。
 他人の空似だろうが、それにしては面白い偶然だと意地悪くほくそ笑んだ所長を前に、机に手を付いた姿勢で副所長が固まる。
 空気が緊迫する。
 静寂の密度が高まる。
 張り詰めた横顔を見せて押し黙る副所長の足元に犬がじゃれつく。スーツのズボンを前脚でしごき、背広の裾に噛み付く。
 犬の吼え声だけが聞こえる静寂の中、机に手を付き上体を支えた副所長が、苦渋に満ちた声音を搾り出す。
 「彼は私の、」
 オールバックに固めた前髪が垂れ、額に被さる。
 副所長の手の下には一枚の写真がある。銀縁眼鏡をかけた、自分とよく似た少年の写真。他人の空似にしては少々出来すぎなほど自分と似通った少年の写真。右手に敷いた写真を酷く思い詰めた目で見つめ、呼吸を整えるように大きく肩を上下させ顎を引く。
 苦悩と葛藤を理性の力でねじ伏せ抑え込み、今この瞬間だけは大人の矜持を引き立てる達観の表情で所長と対峙。
 絶対に譲れないものを内に秘めた気高い眼差しで宣言する。
 「―彼は、私が作っていたかもしれない家族のかたちなんです。彼が背負っているものは、私が背負っているものなんです」
 静謐な迫力に満ち満ちた眼差しと重みのある言葉にも所長は狼狽せず、爬虫類めいて酷薄な笑みを覗かせるのみ。
 「ならば、彼の件は君に一任しよう。私も囚人№10192の尋問に専念する。囚人二人を相手に一人で尋問を行うのはさすがに骨が折れる。それぞれから有益な情報を聞き出すには君と分担したほうが効率が良いだろう」
 「ありがとうございます」
 「だが、囚人№12321の口から両親殺害の動機を聞き出せない場合はどうなるか……わかっているだろうね」
 縁なし眼鏡の奥の双眸が鋭くなる。陰険な光を目に湛えた所長が椅子を軋ませおもむろに立ち上がり、副所長の頬を片手で包む。
 突然の接触に狼狽した副所長だが、足元では犬が唸り声を上げているため後退することもできず、所長に頬をなでられるがまま口元を引き結んで耐え忍ぶ。
 「『上』は囚人№10192と12321に非常な興味を持ち早急な報告を望んでいる。君が無能な故に両親殺害の動機を聞き出せなければ処分を検討せねばならない。君もハルの世話係で一生を終わりたくないだろう?くれぐれも囚人に同情などせぬことだ。家畜に鞭を惜しめば付け上がるのが自然の法則だ。主人の期待を裏切ればどうなるか……わかっているか?」
 繊細な顎に手をかけ、強引に上を向かせる。
 無理矢理顔を上げさせられた副所長が苦しげに呻き、プライドを蹂躙される痛みに顔を引き攣らせ、何か言いたげに口を開閉する。
 哀願か謝罪か、そのどちらか聞き分けようと机に身を乗り出し副所長の口元に耳を寄せた所長が大きく目を見開く。
 よわよわしく瞼を伏せた表情に許容と諦念を去来させ、副所長が言う。
 「その時は、私を調教してください。無能な私を罰してください」
 「良い心がけだ。聞き分けの良い犬は好きだ」
 副所長の顎をそっけなく突き放し、椅子に腰を落ち着けた所長の腕へと机を飛び越え犬がとびこむ。腕にとびこんできた犬を抱きとめ、椅子を回転させながら狂える哄笑をあげる。
 椅子が回転するスピードで犬を振り回せば、その余波で机上の写真が飛び散り、ひらひらと虚空に舞う。
 副所長の足元に眼鏡の少年の写真が落ちる。
 報告書のページが風圧にめくれて他の写真も飛び散る。
 「私は決して終わらない、必ずや『上』に返り咲いてみせる、精神異常と決め付け左遷した連中を見返してみせる!見てろよ愚鈍な家畜ども、この私が東京少年刑務所のトップになったからには今までのように囚人の好きにはさせない。手はじめにまず野生の豹を飼いならしてやろうじゃないか、容赦なく鞭をくれて檻に閉じ込めていたぶりぬいてやろうじゃないか!!ハルよお前も楽しみだろう、豹を檻に入れた暁には番犬を任せるから存分に遊んでやれ、足腰立たなくなるまでな!!」
 執務室に狂気の哄笑が響き渡る。呼応して犬が吼える。
 椅子を回転させた余波で机上から飛んだ書類と写真が床に散乱する。
 中腰の姿勢で写真を拾い上げ、眼鏡の奥の目に悲哀を宿し、謝罪する。
 「………すまない、直」
 自分の無力を呪い、副所長は唇を噛んだ。
[newpage]
 その晩レイジは帰ってこなかった。
 レイジ拉致事件は東棟で話題となった。レイジが連れ去られた廊下には物見高い野次馬が群れて僕をはじめとする無関係な通行人の進路を妨害した。図書室帰りに廊下を歩いていた僕はわけもわからぬまま、レイジを見送る野次馬の群れに揉まれてひどい目に遭った。
 囚人間にはさまざまな憶測が乱れ飛んだ。
 就任演説を妨害した一件がもとで目をつけられて呼び出されたのだと主張する者もいれば、ヨンイルの花火打ち上げに関わった容疑で事情聴取されているのだと推理する者もいた。
 が、真相は不明。
 どんな誠しやかな噂も憶測の域をでず真偽は判然としない。
 レイジ不在の房で不安な一夜を過ごしたロンの憔悴は激しく、強制労働中は集中力を欠いて些細なミスを連発した。
 心ここにあらずで強制労働を終えたロンは夕食中も塞ぎこみ、僕の問いかけにも生返事を返すばかり。僕が「ロン、味噌汁をこぼしてるぞ」と口うるさく指摘しても「ああ、こぼれてるな」鈍い反応を返すのみで、片手に預けた椀を持ち直そうともしない。
 今の彼にふさわしい言葉はこれに尽きる。
 腑抜け。
 僕も決して多弁ではないが、いつもうるさいレイジが消えてツッコミを入れる相手をなくしたロンの意気消沈ぶりたるや凄まじいもので、惰性で夕飯を咀嚼する間は陰鬱に黙り込み卓上には食器が触れ合う音のみが響いた。
 ロンの隣には空席がある。レイジの指定席。
 ロンの隣にちゃっかり座を占めたレイジはいつもだらしなく頬杖つき、気まぐれにフォークを振り回して夕飯をつついていたが、今日は姿が見えない。
 周囲の喧騒から取り残された空席を一瞥、ロンがため息をつく。
 さっきからずっとこの調子で食事も進まない。サムライはといえば、ロンの異変には気付いているが不用意な発言で彼を刺激してはいけないと自重している。
 使えない男だ。
 「……馳走さん」
 ロンが上の空で手を合わせる。カウンターに食器を返却しようと歩き出したロンを追い、立ち上がる。
 「待て、ロン!」
 味噌汁の残りを啜り、小走りに駆け寄る。
 食堂の雑踏に埋もれたロンに途中で追いつく。トレイを抱えて振り向いたロンは、僕を認めても特に反応を示さず、「……ああ。お前か」とぼんやり呟くのみ。
 発作的にロンを呼び止めたはいいものの、言葉が続かず狼狽する。
 このままロンを房に帰してはいけないと理性が叫び、本能が追わせたのだが、たった一晩で激しく憔悴したロンをいざ目の前にすると動揺を隠せない。
 「……レイジはまだ帰ってこないのか?」
 「音沙汰ねえよ。昨日連れてかれたきりだ」
 ロンがぶっきらぼうに吐き捨てる。
 こうして向き合えば瞼が腫れているのがわかる。レイジの無事を祈り続けて転々と寝返り打ち眠れぬ夜を過ごしたせいだ。寒々しい房で一晩中、いつ帰ってくるかわからないレイジを待ち続けて独り毛布に包まっていたのだろう。
 カウンターに接近、トレイを返却。
 ロンに向き直り、尊大に腕を組む。
 「僕が口に出す件でもないが、心配には及ばない。レイジは以前から素行不良の問題として『上』に目を付けられていた。連戦連勝無敵無敗のブラックワーク覇者、恐れる者ない東棟の王様として自由気ままに振る舞っていたじゃないか。新任の所長がレイジを呼び出したのは東京プリズン最大の危険人物と目される彼の人となりを把握しておきたかったからだ。僕の推理は正しいと自信をもって断言する」
 半信半疑の様子で押し黙ったロンと対峙、一息にまくしたてる。
 「天才の推理が信用できないのか、この優秀なる頭脳が導き出した論理的帰結が間違っているとでも?低脳の分際で天才を否定するとは不愉快な人間だな君は、何様のつもりだ。王様の飼い猫様か。
 まあいい、じきに真実がわかる時がする。レイジの帰還はもうすぐだ。レイジが呼び出されたのは失笑を禁じえないくだらない理由だ。レイジは初日の就任演説を妨害した一件でブラックリストに載せられたんだ、性格異常の人格破綻者たる但馬の兄に目を付けられたんだ……いや待てよ。そうか、そちらが正しいか」
 「そっちってどっちの方向だ。あさってか」
 漸く顔を上げたロンがうろんげに問う。いい兆候だ。
 微妙にずれているが今日初めてまともな反応が返ってきたことに内心安堵、眼鏡の位置を直して畳み掛ける。
 「先日レイジはヨンイルの花火打ち上げに協力した。彼が所長室に喚問されたのは花火打ち上げを決行した容疑者だからだ。あれほど騒ぎになったんだ、所長のもとに連絡が行かないほうがどうかしている。くそ、もっと早く気付くべきだった。たんぱく質不足で頭の回転が鈍ってきている」
 早い話、レイジはヨンイルの共犯と目されて所長室に呼ばれたのだ。今頃はヨンイルも所長に呼び出されてるに違いないと確信、断言する僕をロンが疑わしげに見つめる。
 なんだその目は?これ以上明解な推理はないだろうに。
 「……なら、看守四人で殴りこんでくる必要ないだろ。こんこんて扉ノックして『花火の件で聞きたいことある』とか一言言えばいいだけじゃんか、そしたら俺だって余計な心配しなくてすんだんだ。第一おかしいよ、花火打ち上げの件で説教食らってるにしても長すぎだ、レイジは昨日一晩帰ってこなかったんだぜ!?」
 ロンが唾を飛ばして食って掛かる。
 僕もその点に関しては説明できず、顔の前に手を立てロンの唾を避けるにとどめた。
 確かにロンの言い分にも一理ある。
 花火打ち上げに関わった件でヨンイルと共に呼び出されたにしても、今日になってもまだ帰ってこないのはおかしい。レイジの身に何か不吉なことが起きたのは確実、僕やロンの知らないところで異常事態が進行しつつあるのが現実。
 しかし、だからと言ってどうすることもできない。
 「ロン、忘れてないか?僕らはただの囚人だ」
 僕の胸ぐらに掴みかからんばかりに身を乗り出したロンを醒めた目で一瞥、唾の飛んだ眼鏡を上着の裾で拭う。
 食堂の喧騒に取り巻かれ、人込みの渦中に取り残された僕とロンの間に静寂が張り詰める。
 悔しげに歯噛みしたロンの表情に目を細め、眼鏡をかける。
 「レイジの身が心配なら直接所長室に殴りこむか?そして彼を救出するか?無駄だ。不可能だ。看守に妨害されて負傷するのが関の山だ。君にできることはただレイジの帰りを待つことだけだ。焦燥に焼かれ不安に苛まれ眠れぬ夜に耐えることだけだ。いいか、もう一度言う。僕らはただの囚人だ。看守に逆らうのも命賭け、いつ看守の気まぐれで嬲り殺されても仕方のない東京プリズンにおける弱者だ」
 「わかってるよ、そんなの。胸糞わりぃ」
 「ならば大人しくレイジの帰りを待て。主不在のベッドを君の体温で暖めておけ」
 そっけなく言い捨てれば、ロンの顔が悲痛に歪む。
 ロンも精一杯自制しているのだ、今すぐにでも所長室に殴りこみたい衝動を抑制しているのだ。
 「……あの馬鹿、ひとを心配させやがって。帰ってきたらはったおしてやる」
 憤然たる大股で雑踏を突っ切り、食堂を出ようとしたロンの背中を見送り、彼をこのまま独りにしていいものかと思案する。
 レイジがいない房に塞ぎこんでいてはますます思い詰めてしまう。ロンは思い込んだら一直線の非常に厄介な性格をしている、現在の情緒不安定な彼を放っておくのは危険だ。
 ひとり帰路を辿ろうとしていたロンの背後に立ち止まり、息を整え声をかける。

 「そうだ、図書室に行こう」
 「はあ?」

 脳天から奇声を発してロンが振り向く。
 「なんだこいつ」と露骨に顔を顰めたロンと向き合い、眼鏡のブリッジに触れる。
 「君もたまには活字にふれて知識を吸収するべきだ。幸い東京プリズンは豊富な蔵書量を誇る知識の宝庫、純文学から哲学書に至るまで先人の遺した貴重な文献が山と積まれた象牙の塔。思い込んだら一直線で周囲が見えない傍迷惑な性格を改善するには様々なジャンルの本にふれて視野を広げるべきだ」
 「いやだよ。本読むと頭痛すんだよ」
 「病気だな。前頭葉が萎縮して思考回路が硬直してるんだ。特効薬は活字だ。君は本を読みなれてないから苦手意識が強いだけだ、免疫ができれば長時間の読書も苦じゃなくなる。さあそうと決まれば話は早い、早速図書室に行こう。ちなみに僕の推薦図書はドエトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』だ」
 「変な名前の兄弟。何人だ」
 「ロシア人だ」
 渋るロンを半ば強引に押し切り、食堂の外へと足を向ける。
 気乗りしない足取りで歩き出したロンの隣で振り向き、雑踏に埋もれた食堂に視線を巡らせて、ついさっきまで僕がいたテーブルをさがす。
 いた。
 サムライがこちらに背を向けて食事をとっている。
 「………」
 声をかけようか、迷う。
 ここ最近彼とはまともに会話をしてない。だが、いつまでも互いを無視する平行線を辿り続けるのも大人げない。
 サムライは確かに鈍感で無神経な男でその点に関しては異存がないが、今もって僕の大事な友人に変わりはない。
 たとえ彼が僕の知らないところで静流とキスをしていたのだとしてもそれこそ個人の自由で僕が口を出す問題ではない、同性しかいない東京プリズンでも本来恋愛は自由なのだ。
 サムライが静流と恋愛関係にあるならそれでいいじゃないか、僕と彼とはただの友人でそれ以上でも以下でもないのだから。
 静流に嫉妬などするわけない。僕はそんな狭量な人間じゃない。
 ここはひとつ、天才ならではの寛容さを示してサムライを許すべきじゃないか。
 僕とロンが消えたテーブルにひとり着席、黙々と箸を動かし食事をとるサムライを遠目に眺める。
 「どうした?」
 不審げに見上げてくるロンを無視。深呼吸し口を開き、決心が鈍りまた閉じる。それを二度ばかり繰り返し、勇気を振り絞り前方を見据える。
 サムライはひとりほそぼそと食事をとっている。
 眉間に縦皺を刻み、黙々と顎を動かし、仏頂面で咀嚼する。
 周囲に流されず孤高の背中を見せたサムライの方へ一歩踏み出す。
 「サムラ、」
 「貢くん」
 澄んだ声が語尾を遮る。箸を止め、サムライが顔を上げる。 
 静流がいた。
 静流が何かを囁く。
 喧騒に紛れて聞き取れない親密な会話。
 静流が笑う。心なしサムライの顔も和む。
 静流が笑顔で促せばサムライが即座に席を立つ。トレイを片手に持ったサムライが静流と何かを話す。静流が嬉しげに首肯する。サムライが口元を綻ばせる。
 あのサムライが、笑った。僕以外の人間に微笑みかけた。
 急激に空気の密度が膨張して鼓膜を圧迫する。
 心臓の鼓動がうるさいくらいに高鳴り、喉が干上がる。
 僕は何故こんなに衝撃を受けている、ショックを受けているんだ?自分でもわからない。ついさっきサムライの恋愛には口出ししないと言ったばかりなのに、実際にサムライと静流が親密に寄り添う現場を目撃し、戦慄に打たれる。
 静流に促されて席を立ったサムライが、執拗に背に注がれる僕の視線に気付き、振り向く。
 僕を認めた目が見開かれ、ほんの一瞬後ろめたげな表情が過ぎる。だがそれはすぐに鉄面皮の下に隠され、無愛想に口元を引き結び、そっぽを向く。
 静流もまた僕に気付き、わざとらしくサムライの肩に手をやる。
 蜘蛛が這うように肩に五指がかかる。
 サムライの肩に触れた静流が妖艶な流し目をくれる。
 帯刀貢は自分の物だと暗に匂わすように、サムライを独占するように。
 「鍵屋崎、大丈夫かよ。真っ青だぜ」
 「!」
 はっとする。悪夢から醒めた心地で隣を見れば、ロンが心配げに僕の脇腹をつついていた。
 「―なんでもない。行くぞ」
 サムライなどどうなろうが知ったことか。せいぜい静流と仲良くすればいい、僕は所詮邪魔者に過ぎないのだから。
 互いを支え合うように寄り添うサムライと静流の姿には、容易に他者が入り込めぬ強い絆が感じられた。
 二人の周囲には他者を弾く結界が張られていた。これ以上サムライと静流を見続けるに耐えかねた僕は、ロンをその場に残し、逃げるように立ち去る。
 「待てよ、鍵屋崎!」
 ロンが小走りに追いかけてくる。食堂の喧騒が遠ざかる。
 じっと背中に注がれている視線はサムライのものか静流のものか判然としない。

 通路に虚しく靴音がこだまする。

 足早に歩きつつ、最前目撃した光景を意識の外に閉め出そうと自己暗示をかける。
 食堂で目撃した光景、サムライに親しげに声をかけ寄り添う静流、サムライの笑顔……かつて僕が独占していた笑顔。
 僕はもうサムライに必要な人間ではなくなったのか?
 サムライを誘惑したあの夜、友人の資格を失ってしまったのか?
 胸の奥で膨張した自己嫌悪が喉を塞いで呼吸が苦しくなる。
 無意識に上着の胸を掴み、俯き、足元を見つめる。
 性急に足を前後させ廊下を歩きながらも、脳裏に焼き付いた映像は振り払えず、食堂から距離が離れる程にますます鮮明さを増して僕を追い詰める。
 『彼はもう君のサムライじゃない』
 『僕と姉さんの帯刀貢だ』
 「どういう意味だ、静流」
 声が震える。胸ぐらを掴む指に力がこもる。
 彼はすでに僕のサムライじゃないというのか、心も体も静流の物になってしまったのか?嫌だ。認めたくない。サムライがサムライでなくなったなど断じて認めたくはない。僕はまだ彼の唇の感触をなまなましく覚えている、胸のぬくもりと腕の力強さを覚えている。
 それなのに。
 「サムライがサムライでなくなったなど、嘘だ。帯刀貢に戻ってしまったなんて嘘だ」
 声に出して自分に言い聞かせるも不安は大きくなるばかりで一向に効果がない。
 瞼の裏によみがえる静流の微笑み、真紅の唇……
 「どこ行くんだよ鍵屋崎、図書室過ぎちまったよ!」
 ロンに腕を引かれ、物思いから急浮上。
 慌てて立ち止まれば、すでに図書室を行き過ぎていた。
 僕ともあろう者が迂闊だった、まったく気付かなかった。
 「目え開けながら寝てたのか?器用だな」
 ロンの揶揄を聞き捨て鉄扉を押しながら、あの夜、この扉に押し付けられた瞬間の衝撃をぼんやり思い起こす。
 背中に感じた鉄扉の冷たさ、唇に触れた熱。
 そのどちらもを鮮やかに思い出せるというのに、あの夜から僕らの心は離れてしまった。
 だからきっと、あのキスは無意味だったのだ。サムライの唇の感触をいまだに未練たらしく反芻する僕と同じ位に。
 「無様だな。彼には一夜の気の迷いで、僕には一生の不覚だ」
 鉄扉に手をかけ、僕は嗤った。 
  
 結論から言えば、ロンを図書室に連れてきたのは失敗だった。
 「十三回目だ」
 「あん?」
 本を閉じて指摘すれば、ロンが首を傾げる。
 元の場所に本を返し、苛立ちを隠してブリッジに触れる。
 「君のため息の回数だ。自覚がないとは重症だな」
 ズボンのポケットに手を突っ込み暇そうに書架に凭れたロンが、珍妙な生物でも見るようにまじまじと僕を眺める。
 「お前、ひとのため息数えるくらいっきゃ楽しいことねえの?本読めよ」
 「ため息に集中力を散らされて読めない。いっそ口を縫ったらどうだ」
 「お前が連れてきたんだろ」
 「ならば本を読め。折角図書室に連れてきたのにその態度はなんだ、不愉快だ。図書室で本を読む以外のことをして本に失礼だとは思わないのか?今すぐ本に謝れ。ニーチェに謝れデカルトに謝れフロイトに謝れマルクスに謝れドエトエフスキーに土下座しろ。読書は気分転換に最適だというのに、君ときたら退屈そうに書架に凭れているだけでさっきから一冊も本を読んでないどころか表紙を開こうともしないじゃないか」
 「図書室に来て三十分もたってねえのに本が読みきれるか、大体ここ哲学書コーナーじゃんか!!こんなとこに人引っ張り込んで何読めってんだ、俺はヨンイル仕込みの漫画しか読まねえ主義で哲学書なんかちんぷんかんぷんなのによ!」
 「読んでみなければわからないだろう」
 書架から適当な本を抜き取り、問答無用で突き出す。
 渋々本を手に取ったロンが上目遣いに僕の表情を窺い、ぱらぱらとページをめくる。次第にその顔が顰められ、大袈裟な表情を作る。

 三秒後、ロンは驚くべき行動をとった。

 「やめた。ちんぷんかんぷん」
 ポイと本を投げ捨てる。ゴミのように。
 あまりの暴挙に目を疑う。虚空に放り出された本を慌てて受け止めた僕は、書架に背中を凭せて欠伸をするロンに猛烈に抗議する。
 「貴様、無抵抗の書物に対してなんて卑劣な真似を!?この図書室にある本はすべて人類の叡智が結集した知的財産だというのに、事もあろうに本を投げるとは……ニーチェに謝れデカルトに謝れフロイトに謝れマルクスに謝れドエトエフスキーに土下座しろ、しかるのちに可及的速やかに図書室から出て行け!」
 「お前が連れ込んだんじゃないかよ!」
 堂々巡りの議論に疲労が募る。
 徒労のため息を吐いて手元を見下ろせば、僕がロンに渡した本はソクラテスの「対話編」だった。
 ……確かに理解不能だろう。ロンの読解力に応じた本を選ぶべきだったと少し反省する。あくまでほんの少しだが。

 「対話編」を書架に戻し、あたりを見回す。

 分厚い哲学書ばかりが整然と並ぶ図書室も奥まった一角には僕たち以外に人気もなく、埃臭い静寂が沈殿してる。
 十重二十重に連なる書架の向こうからかすかに届く笑い声の他は、僕がページをめくる音とロンのため息、二人の衣擦れの音しか聞こえない。
 気分転換にとロンを図書室に連れてきた僕の試みは、どうやら失敗に終わったらしい。
 「……まったく救いようない低能だな。念のため聞くが、僕の好意を無駄にして良心は痛まないのか?世の無常と人生の意味について苦悩する少年に敬虔な示唆を与えようと哲学書コーナーに案内したのに、君ときたらため息を十三回欠伸を十回、さっきからちっとも本に手を伸ばそうとしないじゃないか」
 「人生の意味なんてどうでもいいっつの。俺に気分転換させたきゃ漫画コーナーに案内しろよ」
 「漫画ばかり読むと馬鹿になるぞ」
 「じゃあお前に聞くけど、ソクラテスとブラックジャックとどっちが面白い?」
 何をわかりきったことを聞くんだ、この低脳は。
 「後者に決まっているじゃないか」
 「ほらな」
 ロンが勝ち誇る。憎たらしい。第一ソクラテスと手塚治虫ではジャンルが違うから本来比較にならないし、そもそも今の問いはソクラテスの『対話編』を完読してからすべきであって、後者しか読んでない癖にさも知ったかぶったふりをするとは手塚治虫にもソクラテスにも失礼じゃないか?
 「上行って来る。漫画読んでくる、暇だから」
 怒涛の勢いで抗議しようとした僕の眼前でロンがあっさり身を翻す。ひらひら手を振って踵を返したロンに「待て、せめて哲学書初心者でもわかりやすいパスカル『パンセ』を借りていけ」と追いすがるも、ロンは聞く耳持たずに通路を抜けて階段を上がっていってしまう。
 これではまるで道化じゃないか。
 息を切らして書架と書架の間に佇んだ僕は、階段を駆け上がるロンの背中を睨み付け、憤然と踵を返す。
 ロンなど知るか、勝手にしろ。僕は僕で新たな本を借りる予定がある、ロンにばかり構っていられない。
 十重二十重に連なる書架の間をくぐりぬけ、本を物色。
 なかなか気に入る本に出会えず書架と書架の間を彷徨するうちに、さっきまでいた哲学書コーナーにさしかかる。
 巨大な書架が天井を圧して左右に並び立つせいで視界が暗く、最初、人がいるのに気付かなかった。
 「!」
 反射的に書架の影に隠れる。
 別に隠れる必要もないのだが、条件反射だ。人は二人いた。さっきまで僕たちがいた図書室も奥まった一角、分厚い哲学書が隙間なく書架を埋めた場所に看守と囚人がいる。
 こんな所で何をやっているのだと不審に思う。
 自慢ではないが、哲学書コーナーに頻繁に出入りする知識欲旺盛な囚人は東京プリズンには僕しかいないはず。僕自身哲学書コーナーに出入りする囚人を他に見かけたことがない。
 滅多に人が立ち入らない哲学書コーナーに今日に限って来客がある。
 この事実が意味するのは……
 「逢引か」
 途端に興味を失う。
 図書室の奥、滅多に人が来ない薄暗がりは看守と囚人がいかがわしい行為に及ぶのに最適の場所だ。
 予想通り、僕に背中を向けた看守の首には白い腕が絡み付いている。
 書架に背中を凭せた囚人の上に看守がのしかかっているのだ。
 僕は即座に回れ右しようとした。看守と囚人の密会現場に遭遇したら、関わり合いを避けて即刻立ち去るのが賢い。
 だが、何かが僕を引きとめる。
 脳の奥で膨らむ違和感。最前目撃した光景が瞼の裏によみがえる。書架に背中を凭せた囚人の上にのしかかる看守、静寂をかき乱す赤裸な衣擦れの音と荒い息遣い、看守の首に絡み付く白い腕。看守の下に見え隠れする、裾がはだけて外気に晒された下腹部。
 男にしておくのが惜しいほど白くきめ細かい肌、快楽に溺れて看守を抱き寄せる華奢な腕。

 腕。
 サムライの肩におかれた手………

 「!!―っ、」
 戦慄。
 驚愕に目を見開き、書架に手をかけ、立ち竦む。
 見間違いかと思った。彼がここにいるはずない。今もサムライと一緒にいるはずだと思い込んでいたのに、何故?衝撃を受けた僕の視線の先、看守に体をまさぐられて無邪気な笑い声をたてているのは……

 静流。

 上着の裾をはだけられ、下腹部を貪られ、胸板をなでられ。
 体の表裏を這い回る手に乱され、貪欲な愛撫に身悶え、おのれを犯す看守に抱き付き嬌声をあげる。
 「ああ、すごくいい。すごくいいよ、柿沼さん」
 書架が聳える薄暗がりに獣じみた息遣いと衣擦れの音が流れる。込み上げる吐き気に耐え、眼を逸らしたい衝動と戦い、看守の手に暴かれた白絹の裸身をしっかり目に焼き付ける。
 静流は恍惚と笑っていた。
 撃ち抜くように喉を仰け反らせ、局部が繋がった看守に揺さぶられるたび甲高い嬌声をあげていた。足首にズボンを絡ませ下半身を露出した静流が、もっと結合を深くし快楽を貪ろうとでもいうふうに相手に腰を摺り寄せる。
 喘ぎ声が高くなる。
 静流は激しくされればされるほど感じるようで、上気した顔に至福の笑みを湛え、もっともっととねだるように看守の下肢に足を絡め縛り付ける。
 「う………、」
 気持ちが悪い。吐きそうだ。嘔吐の衝動を堪え、書架に肩を凭せてずり落ちる。看守と静流が繋がった場所から淫猥な水音が聞こえてくる。体液と体液が交じり合う湿った音。静流は全身で歓喜していた。自らすすんで行為を受け入れ背徳の快楽に溺れていた。
 看守に腰を突き上げられる度はしたない喘ぎ声を上げ、首を前後に打ち振る。
 「あっ、ぁあっ、あああああああああっふあっ、そこ、そこおっ……」
 静流の背中が仰け反り、甲高い絶叫とともに絶頂へと駆け上がる。剥き出しの太股を艶めかしく白濁が伝う。朦朧と弛緩した表情で天を仰ぎ、書架を背にずり落ちた静流の上から看守がどく。
 「じゃあな、静流。明日は房に行くからな、たのしみにしてろよ」
 ズボンを引き上げベルトを嵌めた看守が卑猥な笑みを浮かべ、虚脱状態の静流の頬に触れる。
 疲れた顔に笑みを浮かべ、息も絶え絶えに静流が呟く。
 「たのしみにしてるよ。僕の帯を締めるのはやっぱり柿沼さんじゃなきゃダメだ。他の看守は皆不器用だもの」
 どういう、ことだ?
 静流は、他の看守とも関係を持っているのか?犯されたのではなく、自らすすんで関係をもったのか。
 何故?何の為に?
 確かに東京プリズンで生き残るには看守を味方につけたほうが都合がいい、それもできるだけ多くの看守を……
 しかし、サムライの前で楚々と振る舞う静流と看守に抱かれて淫蕩に乱れる静流とはあまりにかけ離れている。
 二重人格。
 何の為に?何故サムライに自分を偽る必要がある?
 後始末を終えた看守が静流を残して意気揚々とこちらに歩いてくる。まずい、このままでは見つかってしまう。
 書架に手をかけ、足を引きずるように移動する。
 看守から死角となる書架の影に逃げ込み、息を殺して靴音が遠ざかるのを待つ。看守が立ち去ったのを耳で確認、安堵のあまり書架に背中を預けてへたりこむ。
 とにかく、一刻も早くこの場を去らねば。

 「見つけた」

 「!」
 弾かれたように顔を上げれば、いつのまにか書架を迂回し、静流が僕の前にやってきていた。
 反射的に立ち上がろうとするも、書架に手を付き前傾姿勢をとった静流が頭上に覆いかぶさり、腰を半端に浮かせた状態で停止。
 「覗き見は悪趣味だよ、直くん。僕と柿沼さんがしてるとこ見て興奮したの?」 
 「馬鹿、な。誤解だ!」
 「本当に?」
 静流が妖しく微笑み、僕の顔の横に手を付いたまま、もう片方の手を股間に伸ばしてくる。避ける暇もなかった。静流の手がズボンの上から股間に触れ、下着越しに性器を愛撫する。
 やめろ、と叫びたかった。しかし声がでなかった。
 静流をどかそうと必死に腕を突っ張ってみたものの、華奢な細身に反して力が強い彼を押し返すのは到底不可能で、されるがままに性器をもてあそばれる屈辱に唇を噛んで耐える。
 「嘘つき。勃っているじゃないか」
 「これは違、」
 「僕でよければお相手してあげようか」
 手に執拗に撫でられ、抵抗の意志を裏切り体が反応しだす。性器に血液が集中、静流の手を押し返すようにズボンの股間が膨らむ。
 間違っても喘ぎ声など漏らさないよう必死に唇を噛み締める僕をあざ笑い、手の動きを速める。
 蛇のようにのたくりながら下着の中に忍び込んだ手が、勃ちあがりかけた性器をゆるりと撫でる。
 「………はっ………、」
 「彼のものは僕のもの。僕のものは彼のもの。ねえ、そうでしょ姉さん?僕らは何でも分け合わなきゃいけない宿命なんだ、三つ巴で共食いしなけりゃならない宿命なんだ」 
 「即刻下着から手を抜け最低1メートル以上距離をとれ、僕に触れるんじゃない淫乱め!」
 怖い。
 眼前の静流が純粋な恐怖を煽る。
 静流の発言は意味不明だ、静流の行動は理解不能だ。なんとかして静流の手から逃れようと書架に背中をぶつけてあとじされば、その衝撃で頭上に本が降ってくる。 
 「静流!」
 騒々しい音をたて、数冊の本が床になだれおちる。
 僕の視界を遮り降り注いだ本の向こう、書架の角から現われたのは……驚愕の相のサムライ。僕の上にのしかかる静流を見て何と思ったか、不審げに眉をひそめる。
 「……直?」
 僕の下着から手を抜き振り返り、笑顔でサムライを出迎える静流。
 書架を背に佇む静流と僕とを慎重に見比べ、サムライが問う。
 「これは、どういうことだ?」
 サムライの顔を見た瞬間に安堵で腰が砕けた僕は、書架に手を付き体を支えー

 僕がサムライの名を呼ぶより早く、黒髪を靡かせ駆け出す静流。 
 上着の裾を翻し颯爽と通路を駆けた静流が、サムライの胸にとびこむ。
 全幅の信頼を預けた人間に対してそうするようにサムライの腕に身を委ね、嗚咽を堪えて静流は言った。 

 「怖かった。でも、必ず来てくれるって信じてた。貢くんはいつもいつだって僕を助けにきてくれるから」
 サムライの胸に顔を埋め、啜り泣く静流に呆然とする。
 サムライは嗚咽を堪える静流の背中を思いやり深い手つきでさすってやった。
 何度も、何度も。僕が見ている前で。
 そして、囁く。
 無骨な顔に包容力溢れる微笑を浮かべ、しゃくりあげる静流の背中に手をおき。
 「大丈夫だ、静流。俺が来たからには恐れることは何もない。俺が捨てた帯刀の矜持が息づいているのなら涙を拭い胸を張れ。
 ……お前に泣き顔は似合わない」
 いたぶりぬかれた弱者を無条件に包み込む優しい笑顔で、帯刀貢は言った。 
[newpage]
 目の前でサムライと静流が抱き合っている。
 「…………っ、」
 胸が引き裂かれる。 
 何か叫びたい。何か言いたい。しかし、声が出ない。舌が硬直して喉を塞ぐ。耳の奥に鼓動を感じる。
 眼前の光景に衝撃を受け、心が麻痺する。
 書架の陰から現われたサムライを見た瞬間、安堵のあまり腰が砕けた。頭の片隅ではこんな都合良い偶然あり得ないとわかっていた。
 サムライを誘惑したあの夜、僕は彼の隣にいる資格を失った。
 だからなおさら書架の陰からとびだしたサムライを見た時は嬉しかった、僕を助けに来たと勘違いして温かい感情が胸を満たした。
 漸く彼に謝罪する機会が巡ってきた、また元の友人に戻れる、サムライを取り戻せる。
 だが、僕がサムライに呼びかける前に静流は走り出した。
 そして、サムライの胸にとびこんだ。
 僕は何も、何もできなかった。無力に床にへたりこんだまま、サムライと静流の抱擁を呆然と眺めていた。サムライは気遣わしげに静流の背中を撫でている。口元に儚い笑みすら浮かべて静流の顔を覗き込んでいる。
 何故だ?
 何故こんなことになった。
 「落ち着いたか?何があったか話してくれるな、静流」
 サムライが慎重に口を開く。静流が漸く顔を起こす。泣き濡れた顔。涙で潤んだ双眸で上目遣いにサムライを仰ぎ、言う。
 「君と別れて図書室をぶらついてたら、看守に捕まって……ここに、人気のない場所に連れ込まれて、無理矢理」
 言葉が途切れ、嗚咽に紛れる。かすかにしゃくりあげる肩を無骨な手が包む。サムライの手。
 「怖かった。無理矢理犯されそうになって、死ぬ気で抵抗したけれど、あんまり騒ぐと外に聞こえるぞって脅されて……言う事聞くしかなかった。だって、貢くんに知られるのは嫌だから。あんな、あんなところを貢くんに見られて軽蔑されたら生きてけない!」
 静流が激しくかぶりを振りサムライに取りすがる。サムライは静流を落ち着かせようと不器用ながら必死にその背中を撫でる、千切れんばかりに首を振る静流に辛抱強く言い聞かせる。
 「大丈夫だ、お前を見捨てたりせん。怖かったな、静流。だがもう大丈夫だ」
 「でも、寸でのところで助かった。折りよく彼が通りかかったおかげで、看守は慌てて逃げていった」
 不意に静流が振り返り、僕を見据える。
 嘘だ、と叫びたかった。それは違うサムライ、静流は自分から誘ったんだと暴露したかった。しかしサムライと目が合い、喉元にまでせりあがった言葉を飲み下す。
 サムライに凭れかかったまま、身を捩るように振り向いた静流が微笑む。
 「ありがとう、直くん。君は恩人だ」
 騙されるな、サムライ。彼は嘘をついている。
 書架に手を付き体を支え、自力で起き上がる。重心がぐらつき、よろめく。動悸が激しくなる。視界が真紅に染まる憤怒。半分書架に寄りかかるように上体を起こし、上着の胸を掴んで呼吸を整える。片膝が砕ける。サムライの腕の中で恥じらうように微笑んだ静流を見た瞬間理性が蒸発、突き上げる衝動に駆られるがまま余力を振り絞り立ち上がる。
 「嘘だ。でたらめだ」
 低く、唸るように言う。
 サムライが胡乱に目を細める。
 こぶしで書架を殴り付ければその衝撃で新たに本が落下、足元の床に激突。静流はサムライの腕の中でこちらを見返している。余裕の表情。僕の言葉に全く心当たりないと目に当惑の色さえ宿している。
 「騙されるなサムライ、静流の言うことは全部でたらめだ。彼は看守に襲われたんじゃない、自分から誘ったんだ。この目で一部始終を見た、間違いない。静流は看守に犯され嬉しそうに嬌声を上げていた、狂ったように腰を振っていた」
 瞼の裏に最前の光景が蘇る。
 看守に貫かれさも嬉しそうにはしゃぐ静流、艶っぽい嬌声。
 静流と看守が繋がった場所から響いてきた赤裸な衣擦れの音、体液と体液が交じり合う淫猥な水音、尻の肉がぶつかる乾いた音。
 僕は書架の影から一部始終を目撃した。
 静流は看守に犯され悦んでいた。口の端から一筋涎を垂らして恍惚と弛緩した表情で虚空を仰いで、もっともっとと快楽をねだるように看守の腰に下肢を摺り寄せていた。
 断じて幻覚などではない、錯覚でもない。
 僕はこの目で見た、音を聞いた。ズボンを脱がせば太股には一筋白濁が伝ったあとが残っているはず、指で掻き出しきれなかった精液が肛門から溢れているはず。
 「静流は自分から看守を誘ったんだ、合意で行為に及んだんだ!一方的に強姦されたわけじゃない、自分から快楽を求めて行為に及んだんだ、看守に貫かれてはしたない嬌声をあげてたのが証拠じゃないか!何故嘘をつく静流、そうやって同情を乞おうとでもしてるのか、そうまでしてサムライを独占したいのか!?」
 言葉の洪水が止まらない。
 自制心を総動員して喉元で塞き止めた言葉があとからあとから堰を切ったようにあふれ出す。
 無様だ、僕は。
 だが、自己嫌悪を感じる余裕もない。僕はただただ必死だった、サムライに静流の本性をわからせたい一心で語気激しく糾弾を続けた。
 全身に怒りを漲らせ激情を吐露する僕を、静流は不審げに眺めていた。全く心当たりないどころか僕の言葉すべてが酷い誤解だとでもいう風に上品に眉をひそめていたが、その表情は非難よりもむしろ哀れみに近い。
 哀れみ?僕を、哀れんでいる?
 敵愾心を剥き出しにプライドをかなぐり捨て、サムライを振り向かせようと必死の形相で、サムライ以外の何者も何物も目に入らない愚直に思い詰めた眼差しで罵詈雑言を吐く僕を哀れんでいる?
 「どうして嘘をつくんだい」
 耳を疑った。
 口汚く罵倒された静流が純粋に問いかける。偽りの無垢。
 絶句した僕をよそに、儚げな風情漂う伏し目がちに続ける。
 「直くんに嫌われてるのは薄々感付いていたけど、そんな酷い嘘をつかれるとさすがに傷つく。僕と貢くんが仲良くしているのが気に入らないならはっきり言えばいいじゃないか」
 「馬鹿、な。僕は嘘などついてない、ありのままの真実を述べているだけだ!」
 「僕から看守を誘ったなんてあるわけないじゃないか。そんな帯刀家の誇りを汚す行い、死んだ母さんが許すわけない」
 漆黒の目に悲哀が宿る。可憐な面差しが憂いに沈む。うちひしがれたように首を項垂れる静流の肩にサムライがそっと手を添える。
 静流を庇うのか?ここまで言ってもまだ静流を信じるのか?
 喉元に吐き気が込み上げる。
 視界が暗く翳るほどの絶望。
 静流はまっすぐに僕を見る。
 「僕が襲われてるところに偶然通りかかってくれて感謝する。君が通りかかってくれなきゃ僕はあのまま犯されていた。でも、妄言を弄して帯刀家を侮辱するのはやめてほしい。僕から看守を誘ったなんて真っ赤な嘘だ。僕は腐っても帯刀の人間、看守に体を売って見返りを要求するなど不埒な振る舞いは矜持が許さない」
 断崖絶壁の如く書架が聳える狭苦しい通路に立ち塞がり、女々しい容姿に似合わぬ堂々たる態度で静流が言い放つ。
 「君はどちらを信じるんだ?」
 静流に寄り添うサムライは無言。僕らの意見に翻弄されてる様子が視線の揺らぎから伝わってくる。
 煮え切らない態度に怒りが沸騰、感情的に声を荒げる。
 「看守だけじゃない、こともあろうに僕まで誘惑したんだ!僕の下着の中に手を入れて性器をまさぐって良ければ相手をしてやると挑発したんだ、いい加減目を覚ませサムライ、静流の本性に気付け!幼少期の静流がどんな心優しい人間だったか知らないが歳月はどうしようもなく人を変える、現在の静流は君の記憶の中の静流とは別人だ!君の目は節穴か、静流が僕の上にのしかかり下着に手を入れたところを見なかったとでも」
 「上に落ちてきた本から庇ってあげたんじゃないか」
 あっけらかんとした指摘に狼狽する。
 そうか、角からとびだしたサムライの位置からは静流の背中が邪魔で僕の下着に手を入れるところが見えなかったのだ。
 サムライは何が起きてるかわからなかった。
 僕が書架に激突した弾みに大量の本が降り注ぎ、静流が屈みこんだところまでしか見えなかったのだ。
 そこまで推理し、恐ろしい可能性に思い至る。サムライの位置からは本の落下から僕を庇ったように見えても不自然ではないどころか、事情を知らない人間はそう考えるのが当然だ。
 僕の下着に手を入れ性器をまさぐってると邪推する人間こそ少数派だろう。

 サムライは、僕を疑っているのか?
 静流を信じるのか?

 「…………………っ!!」
 瞼裏で閃光が爆ぜる。
 血が滲むほど唇を噛み本を蹴散らし走り出す、サムライと寄り添う静流を引き離し彼の上着の裾をたくしあげる。
 僕の手に暴かれた下腹部には仄赤い痣が散っている、看守の指のあとが捺されてる。裸身を揉みしだかれた名残り。よわよわしく抵抗する静流には構わず上着の裾を力任せに引っ張り、上気した痣が散った下腹部をサムライに見せ付ける。
 「よく見ろサムライこれが証拠だ、静流が今さっき淫らな行為に及んだ動かしがたい証拠だ!これでわかったろう静流に騙されてると、静流は書架を背に高く足を掲げて看守を受け入れていた、看守に深く貫かれ喉仰け反らせ悦んでいた!静流の本性はとんでもない淫乱、度し難いニンフォマニア、良識など鼻で笑い飛ばしひたすら貪欲に快楽を追い求める堕落した人間だ!!」
 「やめろ!貢くんには見せたくない、見られたくない!」
 狂乱した静流が金切り声の悲鳴をあげる。耳障りだ。
 上着の裾を引っ張り下腹部を覆い隠そうとする手を邪険に払いのけ、サムライにもよく見えるよう大胆に下腹部を晒してやる。
 仄赤く上気した痣が無数に散らばった下腹部。
 暗い喜びが体の底から湧き上がる。
 今の僕はきっと、ひどく邪悪な顔をしてるだろう。上着を取り返そうと虚しくもがく手を叩き落し、憎悪を剥き出しに静流を睨みつける。
 「いい加減へたな演技はやめろ同情を引く芝居はやめろ、君の本性はすでにわかっているんだ!看守だけでは飽き足らず僕まで誘惑したくせにサムライの前では偽りの演技を続ける気か、一体何を企んでるんだ!」
 「直、落ち着け!」
 喉を焼いて迸る絶叫。
 僕の手を振り払おうと必死に身をよじる静流の姿がさらなる反発を煽り、これでもまだ納得しないならとズボンに手をかけ引きずり下ろそうとする。
 「ズボンを脱げ静流、サムライの前でズボンを脱いで余すところなくありのままの君を見せてやれ!知ってるんだぞ、君の太股にはまだ白濁が伝ったあとが生渇きの状態で残っている、男を受け入れた肛門はだらしなく弛緩してる!!」
 僕は完全に冷静さを欠いていた、悲鳴が嗚咽に変わったのにも気付かない程に。僕の手から逃れようと力なく首を振る静流の頬を一筋涙が伝う。それでも手加減せずズボンを掴み膝まで一気に引き摺り下ろそうとする、太股を外気に晒して証拠を見せようとする僕の腕をサムライがねじり上げる。
 激痛。
 力づくで静流から引き剥がされた僕は、執念深く虚空を掻き毟りつつやり場のない怒りをぶちまける。
 「軽蔑するぞ帯刀静流、帯刀家の恥さらしめ!」

 「いい加減にしろ!!」

 サムライが。
 僕を、殴ろうとした。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

皇帝陛下の精子検査

雲丹はち
BL
弱冠25歳にして帝国全土の統一を果たした若き皇帝マクシミリアン。 しかし彼は政務に追われ、いまだ妃すら迎えられていなかった。 このままでは世継ぎが産まれるかどうかも分からない。 焦れた官僚たちに迫られ、マクシミリアンは世にも屈辱的な『検査』を受けさせられることに――!?

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

身体検査

RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、 選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

カテーテルの使い方

真城詩
BL
短編読みきりです。

捜査員達は木馬の上で過敏な反応を見せる

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

処理中です...