少年プリズン

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三百三十九話

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 食堂は混雑していた。
 食堂の定員に比して人口過剰な為に、東棟では毎朝激しい競争が繰り広げられる。席の確保に勝利した囚人が朝食をがっつく横で後ろ襟を引かれ椅子を蹴倒された囚人がトレイをぶちまけひっくり返る。頭から味噌汁を被りワカメの切れ端を顔に貼り付けた囚人が席を奪還しようと再戦を挑み、周囲のテーブルの囚人も巻き込んで乱闘に発展する。
 混雑を避け、トレイを抱えて通路を歩く。
 東京プリズンに来て十ヶ月、僕をひっかけようと突き出される足を跨ぐのも慣れた。トレイを持ったまま眼前に突き出された足を造作なく跨ぎ越せば「親殺しの癖に生意気だ」と舌打ちが聞こえる。
 低脳の嫌がらせにいちいちかまっていたらきりがない。
 朝食に遅れを取るのは致命的だ。食堂では席の争奪戦が行われる。出遅れたら椅子に座るのは不可能、騒々しい喧騒の中に突っ立ったまま食事をとる羽目になる。僕はトレイを抱えたまま食堂に視線を巡らして空席を捜す。
 既に席は八割方埋まっている。
 食堂中央、凱が大股開きに上座に陣取ったテーブルから少し離れた場所に明るい藁色の頭髪が覗いてる。
 「なあロン、犬鍋食ったことある?」
 レイジとロンがいた。凱一党が陣取ったテーブルから無難な距離の席に腰を落ち着けて食事を取っている。姦しい話し声の中で聴覚が捉えたのは物騒な問いかけ。だらしない姿勢で頬杖つき、右手のフォークで温野菜のサラダをつつくレイジの隣でロンがぎょっとする。
 「……ねえよ。なんだよいきなり」
 「だって中国人犬食うんだろ。有名だぜ」
 「どっから出た噂だよ」
 返答次第では手にしたフォークで襲いかかる構えを見せてロンが凄む。レイジが気のない素振りで顎をしゃくった方角では、東棟最大勢力のボスとして尊大にふんぞり返った凱が大口開けて笑っていた。
 仲間が気の利いた冗談でも言ったのか、下品に唾を飛ばして爆笑する凱からレイジに視線を転じたロンが憮然とする。
 「凱を基準に考えるな。そりゃ俺だって中華は好きだし東京プリズンの献立に中華が加わって嬉しいけど普通犬なんか食わねえよ。煮込めば美味いらしいけど外でも食ったことねえし、大体中国人みたいに台湾人は意地汚くねえ。一緒くたにされちゃたまんねーよ」
 「どっちも同じだろ?お前ハーフだし」
 「お前が言うなよ」
 ロンがますます不機嫌になる。彼らの方に歩み寄りながらロンの言動が先日と矛盾してると呆れる。ロンは記憶力が悪いから自分の発言すら覚えてないかもしれないが、先日犬に襲われた時は「犬鍋にして食っちまうぞ!」と吼えたではないか。
 さすが中国人、犬を食材と見るとは斬新な発想だと感心したのが今更悔やまれる。
 ロンはその場のノリで啖呵を切っただけで実際に犬を食べたことはないらしい、さも心外そうに茹でたブロッコリーにフォークを突き刺してレイジに食って掛かる。
 「そりゃ俺の半分は平気で犬食う中国人だけど毎日食卓に犬料理でてくるわけじゃねえ、俺がいたスラムにゃ野良犬や野良猫がうじゃうじゃいたけど昨日見かけた犬が突然消えて肉屋に売られたとか煮込まれて屋台で売られたとか噂立つほど台湾人は飢えてねえっつの!まあ食って食えないことはねーんだろうけど好んで食おうって気にゃなんねーな。だって犬だし、万一肉食って狂犬病にでもなっちまったら大変だ」
 「狂犬病ってお前……『可哀想』とかじゃなくて?」
 「んなこと言ったら鶏も豚も牛も食えねえ。食材に情けかけるなんざアホだ。スラムにいた犬はがりがりに痩せこけた野良ばっかですすんで食おうって気にゃならなかった。腹壊しそうだし。ああ、でもマジで飢えてたら食ったかも」
 論点がずれている。レイジは「なるほど」と頷きロンの主張を聞き流し、フォークの先端に刺したブロッコリーをくるくる回している。
 なんなんだ一体?中国人が犬を食うか否かがそんなに重要な議題なのか、朝一番の食卓で話し合うほどの?
 フォークの回転を止め、レイジが気軽に言った。
 「犬鍋ご馳走してやろうか。ロン」
 「!」
 足が硬直する。レイジとロンがいるテーブルまで5メートルの距離を残して慄然と立ち竦んだ僕の視線の先、王様は陽気に笑っている。ロンはぽかんとしている。当然だ。いきなり犬鍋をご馳走すると言われて驚かないのはよほど神経が図太いか食い意地が張った人間だ。その条件には合致してるが、犬鍋をおごると言われて当惑する程度の一般常識もとい良識を持ち合わせたロンがうろんげな目つきになる。
 「犬鍋ってまさか……お前レイジ、十字架のこと根に持って所長の飼い犬捌こうとしてんのか。あの犬でけーからナイフで捌くの大変だぞ。それに凶暴だし」
 「大丈夫、俺ナイフの扱いに自信あるし骨と肉分断すんの得意だし一時間もかかんないって。ま、筋張っててあんま美味くなさそうだけど何事も経験のうちってな。一回食ってみたかったんだよなーワンコ。凱の受け売りだけど結構脂のってて美味いらしいし、東京プリズンのシケた食事にも飽きてきた頃合いだから豪華なディナーになるぜ」
 「これがホントのドッグフード、ってちょっと待てお前!!」
 乱暴にフォークを置いてロンが立ち上がりレイジの胸ぐらを掴む。
 何の騒ぎだと周囲の囚人が注目する。
 「冷静になれレイジ、お前の気持ちはよっくわかる。あのバカ犬が十字架ぼろぼろにしたこと考えりゃ犬鍋にしてぐつぐつ煮込みたくもなる。俺も鍋物なんて久しぶりだし、てか外でも滅多に食えなかったしこの際食材が犬でもいいかって想像して涎がでたけどさすがにそれはやべえ、所長の飼い犬に手えだしたらお前今度こそ本気でやばいぞ。ただでさえこないだの一件で目ぇつけられてんのに!」」
 「大丈夫、お前も共犯だ。どうせならキーストアとサムライも誘うか、みんなで楽しくドッキリドッグーパーティーを」
 「断る。君の共犯になるのは願い下げだ」
 ロンが弾かれたように振り向く。怒り心頭で僕の接近に気付いてなかったらしい。
 「なんだよつれねーなあ、みんなで楽しく鍋囲もうぜ。大丈夫、バレないって」
 「東京プリズンで鍋なんかやったらバレるだろがおもいっきりよ!湯気はどこに逃がすんだよ、通気口から逃がすのか?んなことしたら近所の房にまで匂い出回って意地汚ぇ連中が分け前目当てに殺到するよ!」
 「なら展望台で食わね?鍋っつったらやっぱアウトドアだよな、砂漠の太陽にじりじり焼かれながらはふはふ肉食うのがサバイバルの醍醐味」
 レイジはロンに再三叱責されても懲りずに笑っている。犬鍋を譲る気はないようだ。食い意地の張った王様だと呆れつつ椅子を引き着席、トレイを置く。
 サムライの姿はない。
 今頃はカウンターで朝食を受け取ってるはず。長蛇の行列を成したカウンター前で立ち往生するサムライを待たずに着席、伏し目がちにフォークを取った僕は、ふとレイジの本音に思い至る。
 ロンは昨日、犬に太股を噛まれた。
 イエローワークの砂漠に視察に来た但馬が犬をけしかけ囚人狩りを決行し一名重傷者を出した。
 片方の睾丸を噛み千切られて瀕死の重傷を負った囚人の悲劇に隠れてあまり話題になってないが、僕とロンも犬に襲われて怪我をした。僕の怪我は大したことないがロンは深々と太股を噛まれ、帰りのバスに乗るときは痛そうに顔を顰めびっこを引いていた。
 東棟の王様、いや、今や東京プリズンの王様となったレイジの耳にそれが届かないはずはない。
 「復讐か」
 コンソメスープを啜りながら呟けば、ロンが怪訝な顔をする。鈍感め。レイジは「バレちまったか」と笑っている。察するにレイジは十字架をぼろぼろにされたことよりもロンが噛まれたことに激怒し犬鍋を決行しようとしたらしい。極端というか大胆というか、どちらにしろ非常識な発想だ。  
 「腹もふくれて一石二鳥の復讐だろ?イケてると思ったんだけど、自称天才にダメ出し食らっちまった」
 「自称じゃない、僕の頭脳が優秀なことはこの刑務所の囚人のみならず世間に広く認知された事実だ。第一犬鍋など復讐にしても野蛮すぎる。原始人か貴様は?氷河漬けのマンモスを見たら太古の神秘に感動するより先に食欲を感じて涎をたらす即物的人間か」
 「失礼な。俺が涎たらすのは最高にイイ女の腰つきと最高に可愛いロンの寝顔見たときだけ」
 「さりげなくのろけるな、耳がくさる」
 噛み合わない会話に苛立ちが募る。レイジは人をイラつかせる天才だ。ただでさえ今朝の一件で不快感を覚えているのに……背後に足音。底の磨り減ったスニーカーを履いたサムライが歩いてくるが、無視して食事を続ける。サムライは当然の如く僕の隣に腰掛ける……
 いや、違う。ちょうど僕のまた隣が空いたのを機に、無言無表情でそちらに席を移す。
 ………なんだ?僕に対するあてつけか?なんて大人げない男だ、見損なった。どうやら僕はサムライの人間性を過大評価していたようだ。
 「お前らまだ喧嘩続けてんの?よく飽きねえな」
 フォークを咥えたロンがあきれ顔で僕とサムライを見比べる。君にだけは言われたくないと抗議しようとして、背後に接近する靴音に気付く。
 「!静流」
 サムライが即座に反応する。つられて振り向けば静流がいた。トレイを抱えて愛想よく微笑んでいる。僕の目は静流の唇に吸い寄せられた。女性のようにふっくらと丸みを帯びた唇……放心した僕の隣で椅子を蹴立てサムライが立ち上がる。
 「座れ」
 そして顎をしゃくったのは、僕の隣の席。
 待て、僕に拒否権はないのか?静流はサムライににこり微笑みかけ、「じゃあお言葉に甘えて」と僕の隣に着席する。
 サムライもまた席に着く。
 胸の内にもやもやと不快感が広がる。サムライが静流を呼んだのは空席をさがして食堂を彷徨するいとこを放っておけなかっただけだと自己暗示をかけ平静を装い、ぎこちなく食事を再開。
 僕の隣に腰掛けた静流が、サムライの手元を見てくすくす笑う。
 「へえ、貢くんもフォーク使うんだ。なんか意外」
 「おかしいか?」
 「うん変。箸使ってるイメージしかないもの。貢くんがフォークにブロッコリー突き刺してるなんて面白い絵面を笑い上戸の姉さんが見たらどんなにか喜んだことか……なんだか、独り占めして申し訳ない気分」
 静流がちらりと僕に流し目をくれる。後半の台詞は僕に向けた挑発にも思えたが、自意識過剰な思い込みか?
 努めて平静を装い静流とサムライの会話を無視、沈黙の殻に閉じこもり食事に集中するふりをする。しかし、手元に視線を落としていても声は聞こえてくる。
 「ここの生活には慣れたか?その、外とは大分勝手が違って戸惑っているとは思うが」
 サムライが気遣わしげに訊く。なんだ今のは。僕が来たときはそんな優しい台詞かけてくれなかったじゃないかと反発が込み上げる。コンソメスープの深皿に口をつけつつさりげなくサムライの表情を窺えば、柔和な目で静流を眺めている。
 二人の間に親密な空気が流れる。
 僕が入り込めない雰囲気。
 「まだいろいろと戸惑うことが多いよ。体を二日に一度しか洗えないのは辛いね」
 「困ったことはないか?」
 「たまに帰り道を忘れて迷子になるくらい」
 「そういう時は目印を覚えておくんだ。壁の落書きや傷、端から三番目の蛍光灯が電池切れかけで点滅している。目印を覚えておけば道に迷ってもいずれ必ず房に辿り着ける。焦ることはない、徐徐に慣れていけばいい。俺も助太刀する」
 「何時代の人間だ貴様は。徳川幕府はとうに倒れたぞ。付け加えるが、廃刀令が施行されたのは西暦1870年だ」
 反射的に嫌味がでたが、静流の笑顔は片時も崩れない。
 余裕さえ漂わせてサムライの仏頂面と僕の不機嫌な横顔とを比較するその目は、微笑ましい光景でも見るかのように和んでいる。
 気に入らない。馬鹿にしているのか?
 気色ばんだ僕からサムライへと向き直り、静流が安堵の息をつく。
 「貢くんと会えて良かった。心強い。地獄に仏って諺は本当だ」
 「……身内として当然のことをしたまでだ。感謝されるいわれはない」
 サムライが謙虚に咳払いする。
 「貢くんはいつもそうだ。外にいた頃から変わってない。自分がどんな立派な行いをしても気付かないっていうか、感謝されるに値しないって謙虚な態度を貫いて、だからみんな君を褒める。君こそ帯刀本家の跡継ぎにふさわしい人物だって」
 「……俺はもう帯刀家の人間ではない」
 「違う。君の中には僕と同じ帯刀の血が脈々と流れてる。僕たちは帯刀家の人間だ。一生帯刀家から離れられない」
 静流が伏し目がちに言い、サムライが困惑する。
 「貢くんは今でも僕が憧れる帯刀本家の人間さ。こうしてここで会えたのも運命、帯刀の血の巡り合わせだよ。正直最初は不安だった。知り合いがひとりもいない刑務所でやってけるかなって……でも、こうして貢くんと会えた。貢くんがそばにいてくれるなら少しも怖くない。子供の頃、姉さんに虐められるたびに庇ってくれた貢くんがそばにいるなら」
 「静流」
 恥ずかしげに俯いた静流の方へ身を乗り出したサムライが、静流の肩に手をかけ断言する。
 「安心しろ。お前は俺が守る。必ず生かしてここから帰す。そうせねば他界した叔母上に顔がたたん」
 ……なんだこの時代錯誤な会話は。時代劇か?
 いい加減にしろと怒鳴りたくなるのを堪え、早々と食事を済ませて席を立つ。向かいではレイジとロンが言い争っている。「食わず嫌いしてっと大きくなれねーぞロン、犬鍋はタンパク質満点の豪華ディナーだ。一回チャレンジしてみて損はねえ」「ゲテモノ食いは黙ってろ。犬は犬でもあんな犬食いたくねえ。あの犬ぜってー狂犬病だよ、ヒトのオス相手にさかって腰振って!」……くだらない。
 乱暴に椅子を引き立ち上がった拍子に静流の腕に肘がぶつかる。断っておくがわざとではない。事故だ。偶然だ。僕がそんな低次元の嫌がらせをするはずないじゃないか、見損なわないでくれたまえ。
 「あ」
 静流が小さく声をあげる。肘が触れた拍子に箸を落としたらしい。静流につられ反射的に身を屈め、箸を拾おうと床に手を伸ばす。わざとではないが、僕の不注意が原因で箸を落としたのだから責任は僕にある。不承不承屈みこみ箸を拾い上げー
 「!」
 見た。
 見てしまった。
 手中に拾い上げた箸の先端にごく薄く口紅が付着している。口紅。サムライの唇に付いてたのと同じ。
 弾かれたように静流を仰ぎ、唇に目を凝らす。椅子から腰を浮かしテーブル下を覗き込んだ静流の唇にも一点、真紅が残っている。瞬間、確信した。サムライが昨夜キスした相手は静流だ。サムライは昨夜静流にキスをして口紅を移され、そしてー
 そして?
 「ありがとう」
 硬直した僕へと手をさしのべ、嫣然と微笑する静流。生唾を呑み、その手に慎重に箸を乗せる。
 「静流、君は」
 静流の手に手を重ね、掠れた声で訊く。
 「君は、サムライと関係を持っているのか?」
 耳の奥で鼓動が高鳴る。腋の下が不快に汗ばむ。緊張に強張った顔で静流を仰ぎ、全身で答えを待つ。静流は笑いながら僕に顔を寄せ、そしてー 
 激痛。
 「!?っあっぐう、」
 口から押し殺した悲鳴が漏れる。手の甲を踏みにじられる激痛に視界が歪む。何が起きたのか一瞬わからなかった。額に脂汗を浮かべて眼下に目を凝らした僕は、真新しいスニーカーの靴底で手を踏み躙られてることに気付く。静流が嬉々として僕の手を踏み躙っている。
 靴裏をねじり皮膚を巻き込み僕を痛め付ける快感に酔い、静流は邪悪に目を細める。
 「ひ、ぎ………」
 「そうだよ。貢くんは僕の物。君の出る幕はない……そう言えば満足?」
 はなせ、と声を荒げる前にふっと足がどく。
 床にへたりこんで息を荒げる僕を面白そうに見下ろし、追い討ちをかける。
 「貢くんは昨夜僕と一緒にいた。僕と唇を重ね力強く抱きしめて『守る』と誓った」
 「嘘、だ」
 嘘だ。力なく反駁した僕にちらり憫笑を投げ与え、衣擦れの音も涼やかに静流が腰を上げる。
 「なら本人に確かめてごらん。貢くんは真実を話してくれる。武士に二言はないものね」 
 立ち上がりしな優雅な動作で手を伸ばし、ほんの一瞬僕の頬に触れる。
 「彼はもう君のサムライじゃない」
 ぞくりと肌があわ立った。
 僕の頬を妖しく撫でた静流が眼光鋭く牽制、薄く紅を引いた唇を吊り上げる。
 「僕と姉さんの帯刀貢だ」
 思ったとおり。
 静流には、真紅の口紅がよく似合っていた。
[newpage]
 痴話喧嘩は犬も食わないが、鍵屋崎は犬に食われそうになった。
 だからさっさと仲直りしちまえと思う、とっとと謝っちまえと思う。鍵屋崎もサムライも頑固で、どっちかが腹括って折れない限り永遠に平行線で仲直りの兆しが見えない。
 数日前から鍵屋崎の様子がおかしいのは気付いていた。普段冷静沈着ぶってる鍵屋崎はすぐ動揺が顔にでる単純な奴なのだ。
 デリケートと言えば聞こえはいいが、逆境に打たれ弱い繊細な神経の持ち主は東京プリズンの環境に耐え切れず首を吊るか胃を壊しちまうのがオチ。鍵屋崎は後者。異常にプライドが高く自殺を逃避の一手段と嫌悪する鍵屋崎が首括る可能性は低いが、何でもかんでも独りで抱え込んで深刻に思い詰める気性が災いしてそのうち神経性胃炎になっちまいそう。
 今朝食堂で会った時も様子がおかしかった。鍵屋崎が配膳待ちのサムライを放っぽって席取りに来るなんて、見かけに寄らず律儀なあいつらしからぬ振る舞い。鍵屋崎だけじゃない、サムライも挙動不審だった。わざわざ鍵屋崎から席一つ空けて座って、食事中もろくに目を離さず会話もせず黙々と飯をがっついてた。
 倦怠期の夫婦かよお前らと余程つっこんでやろうかと思った。
 沈黙の食卓。
 なお雰囲気を悪化させたのは鍵屋崎とサムライの間に挟まる静流の存在。なよなよした見かけに反してよっぽど神経図太いのか空気を読まないタチなのか、あからさまに不機嫌な鍵屋崎を無視して人懐こくサムライに話しかけてた。サムライもまんざらではなく受け答えして、二人の間にはほのぼの親密な空気が漂っていた。鍵屋崎はその間ずっと疎外されて、一人ぼっちでしんみり飯食ってた。
 ちょっと可哀想。
 まあ、夫婦喧嘩は犬も食わないのが真理だし余計なお節介はさしでがましい。だから俺もずっと遠慮して、首突っ込みたくなる好奇心を抑えて、ここ数日間じっと様子を静観してた。けど、事態はよくなるどころかますます悪化する一方。
 レイジに相談しても為になるアドバイスが返ってくるとは思えない。
 「放っとけよ。泥沼三角関係なんておもしれーじゃん、愛人と正妻の仁義なき戦いは高みの見物決め込もうぜ」とか何とか面白半分に適当言われるだけだ。あてにならない王様め。

 そして、強制労働開始。

 シャベルを掴み、穴掘りに精を出す。
 手は動かしながら、鍵屋崎とサムライのことをうだうだ考えてた。レイジは放っとけとぬかすが、やっぱ心配だ。シャベルを振るって砂を掻き出しながら、上目遣いに視線を巡らして鍵屋崎をさがす。いた。未完成の用水路へと側壁補強用の土嚢を担いで運んでる途中だ。
 俺に背中を向け、肩に土嚢を担ぎ、ふらふらよろよろ危なっかしく蛇行する鍵屋崎にはらはらする。いつ貧血起こしてぶっ倒れてもおかしくねーぞあいつ。サムライとの喧嘩が鍵屋崎の体調に悪影響及ぼしてるのかも。あいつよく眠れてないみたいだし、目の下にはべっとり不健康な隈貼り付いてるし、眼鏡の奥の目も淀んでる。
 「~~~あーもう、しゃきっとしろよしゃきっと!」
 活を入れてやりたい。死んだ魚みてーな目えしやがって、情けねえ。サムライと何があったか知らないがぐだぐだ悩んで胃を壊すくらいならとっとと謝っちまえ、我の強い天才め。まあ、鍵屋崎が俺の説教聞くとは思えない。俺みたく凡人の意見に耳傾ける謙虚さがあるなら自分のことを「天才」なんて吹聴しないはずだ。やれやれ。やっぱ時が解決するに任せるっきゃないか?いつになるかわかんねーけど。
 砂に突き刺したシャベルに凭れかかり、憂慮のため息に暮れる。
 「サムライのいとこかあ……いくらサムライでも、身内は切り捨てられねーもんなあ」
 今朝サムライの隣に座ったのは、いとこの静流。
 東京プリズンで再会した肉親にサムライが複雑な感情抱いてるのは傍からでもわかる。サムライだって女の股から産まれた人の子、一途に慕ってくる身内に冷たくできるはずがない。サムライはああ見えて優しいから余計に憧憬を裏切れない。
 最も、自分が腹痛めて産んだガキに一片の愛情も恵まない薄情な女もいる。たとえば、俺の母親。もうずいぶん会ってないお袋。今頃どこでどうしてるんだから音沙汰ないからわからないが、ろくでもねえ男にひっかかってろくでもねえ生活してるんだろうと漠然と察しは付く。
 俺がいまだにお袋を切り捨てられないように、サムライだって静流を切り捨てられない。
 過去があるから今の自分がいる。
 過去を切り捨てたら、今の自分は成立しない。
 それが直感的にわかるから、サムライは静流を庇おうとする。献身的なまでに静流の力になろうとする。サムライは間違ってない。気持ちはよくわかる。名前を捨てたところで過去と決別するのは難しい。
 親から貰った名前を捨てたところで、厄介な過去は一生付いて回る。
 けど、鍵屋崎が悩んでるのも事実。
 なんとかしてやりたいのが本音なわけで。
 「だいたいサムライがはっきりすりゃいいんだよな、武士らしく。静流と鍵屋崎のあいだふらふら行ったりきたりしないでどちらか一人に決めりゃいいんだ、二股なんて最低だよ、切腹モンだよ。武士の恥だよ。だんまり決め込んでカッコつけてないんで、鍵屋崎にちゃんと言いたこと言やいいんだ。ケンジョーの美徳なんてしゃらくせえ」
 「おい!」
 「あん?」
 顔を上げる。顔見知りの囚人が足早にこっちにやってくる。何だ一体?俺に用か。うろんげな面で出迎えた俺の前で立ち止まり、同じ班のそいつが連絡を伝える。
 「ビニールハウスの看守から伝言だ。お前に用があるから至急来いとさ」
 「ビニールハウス?」
 目を丸くする。俺たち囚人が汗水垂らして働くイエローワークの作業現場から二つほど砂丘越えたとこにあるビニールハウスは、飴玉しゃぶりと引き換えに贔屓されてる特定の囚人専用のラクな仕事場。もちろん、遠目に見かけたことがあるだけで足を踏み入れたことはない。
 日に焼けた顔の同僚は砂丘の向こう側に顎をしゃくり続ける。
 「ほら、あいつ……えーと、名前なんだっけ?忘れちまった。赤毛の男娼にぞっこんベタ惚れの地味なツラの看守がいたろ?あいつがお前に用があるんだとさ、個人的に」
 ……嫌な予感。「個人的に」って部分をわざと強調してにやつく囚人を睨み付ける。
 「赤毛の男娼……ウチの棟のリョウか。あいつが当たり構わず媚売ってパトロン拵えてんのは有名だ。大方そいつもリョウの手のひらで転がされてるおつむの軽い看守の一人だろうが、なんで俺が呼び出し食ったんだ?わけわかんねー」
 「文句は後回しで速攻行ったほうがいいぜ。大分テンパってたからな、あいつ。遅刻一分につき警棒一発プレゼントだ」
 しっしっと追い払われ、仕方なく歩き出す。
 シャベルをそこらへんに放り出し、気乗りしない足取りで砂丘を越える。砂丘の頂から眼下を望めば、穴ぼこのだらけの地面に働き蟻みたいに囚人が散らばっていた。
 無理矢理前に向き直り、砂を蹴散らし走り出す。
 靴裏で斜面を滑って目的地に到着。
 砂漠のまっただなかに忽然と出現したビニールハウスが、透明な外壁で直射日光を跳ね返し燦然と輝いてる。小綺麗なビニールハウスに歩み寄り、扉を開ける。
 「おおっ」
 思わず歓声がこぼれる。
 ビニールハウスに入るのは初めてだ。イチゴが生ってる光景を見るのも。ごく一部の囚人が配属されるビニールハウスではイチゴや西瓜やミニトマトが栽培されてると噂で聞いたが、実際見るまで半信半疑だった。
 「すげー。一個ぐらいつまみ食いしてもバレねえかも」
 誘惑に心が揺れる。ビニールハウスの中には整然と苗が植えられて葉影に赤く熟したイチゴが生っていた。口内に生唾が湧く。美味そう。前に一回、リョウが見舞いで持ってきてくれたことがあったなとふいに思い出す。
 ところが、そのリョウが見当たらない。ビニールハウスの中にゃ鼻歌まじりにホースで水撒いてる囚人やちまちまイチゴを摘んでる囚人がいたが、特徴的な赤毛はどこにも見当たらない。欠勤?そういや、行きのバスでも姿を見かけなかった。風邪でもひいたんだろうかと少し気になる……まあ、それはそれこれはこれで。
 「………だれも見てねーな?」
 自分で自分に確認、挙動不審な態度を見せないよう努めてさりげない風を装いしゃがみこむ。苗の葉っぱに害虫見つけたから駆除してやる、とでもいわんばかり堂々と。わざわざビニールハウスまでお呼ばれしたんだ。喉渇いてるし、一個ぐらい摘み食いしてもバチあたらねえよな?甘酸っぱいイチゴの味を反芻、口の中に唾液が溢れる。そして俺はイチゴに手を伸ばし……
 「えーと、リョウくんのお友達っていう子はどこに?」
 「!!」
 心臓が縮んだ。のんびりした声に振り向けば、背後には細い目の看守。バレた?見られたか??やべえ。
 「虫、虫がいたんだ。このビニールハウス外側は立派だけどぜんぜん手入れなってねえな、葉っぱが虫食いだらけじゃんか!ほら見ろよこの葉っぱの裏っ革、虫がいたんだぜ。マジで。嘘じゃねえよ見てみろよ、俺が気付くの遅れてたら大事なイチゴが大変なことにっ」
 「君か、リョウくんのお友達は」
 ……話聞いてねえ。とりあえず、イチゴの摘み食い未遂はバレなかったようで安堵する。こっそり胸なでおろし正面の看守を見つめる。これといって特徴のないのっぺりした顔だち。こいつがリョウのパトロンか。何て言うか、リョウの男の趣味もわからない。いや、別にわかりたくねーけど全然。複雑な胸中の俺をじろじろ眺めてそいつは言う。
 「へえ、思ったより可愛い顔してるじゃないか。リョウくん友達選んでるんだ」 
 「ああん?寝ぼけてんのか。その糸目かっぴろげてよーく見やがれ、俺のどこがあのど腐れ男娼の同類だってんだ」
 嫌な目つきだ。値踏みする視線に辟易、露骨に顔を顰めて啖呵を切るも相手は笑顔を絶やさず自己紹介する。
 「僕は曽根崎。イエローワークB地区第二ビニールハウス担当の看守だ」
 「俺を呼び出した用件ってのは?たわわに実ったイチゴでもご馳走してくれんなら嬉しいね」
 ぶっきらぼうに聞く。正直、こいつの名前なんてどうでもいい。俺ははやく砂漠に帰りたかった。作業を途中放棄したのがバレたらまた看守にどやされる。警棒食らうのはこりごりだ。
 と、曽根崎がこっちに歩み寄り俺の真ん前で立ち止まる。
 先刻の笑顔を引っ込め、やけに深刻な顔つきで口を開く。
 「君、リョウくんの友達なら無断欠勤の理由知らないかい?ビニールハウスに来てないんで風邪でもひいたんじゃないか、いや、怪我でもしたんじゃないかってすごく心配してるんだけど」
 「来てないの?リョウ」
 俺も驚く。あいつがサボるなんて意外。ビニールハウスでイチゴ摘みなんてラクで美味しい仕事放棄するなんて勿体ねえ。きょとんとした俺を見下ろし、曽根崎はさも心配げな口ぶりで勝手に続ける。
 「無断欠勤は今日が初めてなんだ。リョウくんはまじめでとっても良い子だから今まで仕事サボったことなんてないのに、今日には朝から姿見えなくて、どうしたんだろうってずっと気を揉んでたんだ。けど、このビニールハウスにはリョウくん以外に東棟の子がいないし何があったかわからない。そこで砂漠の子を呼んだんだ。君、リョウくんとなかよしなんだろ?前にバス停でおしゃべりしてるの見たよ」
 「なかよし?気色わりぃ誤解すんな。確かに帰りのバス待ってるとき暇つぶしで話したことあったけど、話した内容っていや『お前警棒で何回殴られた?俺三回。やりィ、勝ち!』とかだぜ」
 「仲よしじゃないか」
 「どこがだよ」
 さっきから会話が空回ってる。俺は曽根崎とのやりとりに居心地悪さを感じていた。ねっとりべたついた口調、俺を見る目つき……リョウのこと本気で心配してるんなら俺の顔眺めてにたにたすんな、変態め。舌なめずりすんな。体の脇でこぶしを結んで不快感に耐える。
 曽根崎は俺の顔を重点的に眺めてる。腹ん中じゃおそらく、リョウと俺どっちがフェラ上手いか比べてみたいと思ってるんだ。
 「そこでお願いなんだけど、君、リョウくんの様子見てきてくれないか?」
 「俺が!?」
 脳天から抗議の声をあげる。冗談じゃねえ、なんで俺がそんなこと。サボりたい奴にゃ勝手にサボりゃせりゃいい、それでリョウがクビになったところで知るか、自業自得だ。憤懣やるかたない顔つきで曽根崎を睨めば、奴は肩を竦める。
 「僕も困ってるんだよ。ほら、僕って一応ビニールハウスの監視役じゃないか?無断欠勤とか勝手な真似されると他の囚人に示しがつかないっていうか、看守の威厳に関わるっていうか。ほんとは直接リョウくんの様子見に行きたいんだけど今日は他に用事があって、仕方なくリョウくんの友達に偵察頼んだとこういう次第で。
 それだけじゃない、看守の僕が直接聞くより同じ棟の人間で気心知れてる君が事情聞いたほうがリョウくんも素直になるだろ。僕とリョウくんはとっても仲良しだけど、看守と囚人の壁乗り越えるのは難しいもんねえ」
 「愛は障害あったほうが燃えんだろ」
 「引き受けてくれるかい?」
 「面倒くせえなあ」
 だいたいなんだってリョウの為にそこまでしなきゃならない?俺の腕にぶすっと注射針さした奴のためによ。リョウに覚せい剤強制注射された記憶も薄れてないのに房訪ねるのは気乗りしない。どうしたもんかなと思案顔で下を向けば、艶々と輝くイチゴが目に入る。
 『ロン、イチゴ食べる?』 
 入院中の俺んとこに訪ねてきたリョウ。ポケット一杯にイチゴ蓄えて、恥ずかしげに俯いて。
 「…………しかたねえなあ。わかったよ、引き受けるよ!同じ棟のよしみだ。男娼の同類にされるのはたまったもんじゃねーけど、イチゴの恩返しだって言い聞かせて特別出血大サービスだ。感謝しやがれ」
 ヤケ気味に地面を蹴りつける俺を見て、曽根崎が相好を崩す。「引き受けてくれると思ったよ」といけしゃあしゃあ言いながらそこらに屈み込み手早くイチゴをもぎ取り、半ば強引に俺の手に握らせる。
 何の真似だと当惑した俺を覗き込み、曽根崎が不気味に微笑む。
 「心ばかりのお礼だよ。僕好きだなあ、素直に言うこと聞いてくれる君みたいな良い子。うん、実に好きだ」  
 背筋にぞくりと悪寒が走る。
 俺にイチゴを握らせた曽根崎が卑猥に指を蠢かせ俺の手を揉む。
 「君メロン好きかい?特大のがあるんだけど、リョウくんみたいに素直に言うこと聞いてくれたらそっちもプレゼントしたげる」
 徐徐に開き始めた糸目の奥で精力的に瞳が輝く。
 曽根崎の息遣いが次第に浅く荒くなり、俺の手を揉みこむ動きが性急になる。汗ばんだ手が気持ち悪い。
 曽根崎から逃げようとあとじさったが、奴もついてくる。
 やばい。初対面の時から嫌な予感はしてたんだ。
 ビニールハウスを見回して誰かこっちに気付いてる奴はいないかと希望を持つが、イチゴ摘みに精出してる連中は目があったそばから知らんぷり。
 絶体絶命。曽根崎が一方的に体を密着させ積極的に股間を擦り付けてくる。
 「離れろ変態、メロンに頭突きして死ね」
 胃袋が縮んで酸っぱい胃液がこみあげる。俺の指に指を絡めいやらしくさすりながら、曽根崎が耳朶で囁く。
 「君にとっても悪くない話じゃないか?どうせそのちっちゃいお口にタジマさんの咥えてご機嫌とってきたんだろ?タジマさんがいなくなったあとは僕に乗り換えたらいいんだ、決して悪いようにはしないから……」
 タジマの名前をだされ、頭の血管がぶちぎれた。
 「ぎゃあああああああっ!?」
 曽根崎を大袈裟な悲鳴をあげてひっくり返る。
 俺がぶん投げたイチゴが目ん玉を直撃、足を滑らしたのだ。イチゴの目潰しで形成逆転、曽根崎を軽々飛び越えて中指突き立てる。
 「メロンで買収されるほど安くねえんだよ俺はっ、言うこと聞かせてねえならドラゴンフルーツ持ってきな!!」
 おっと、忘れるところだったと急ブレーキ。
 大慌ててで取って返し目を押さえて転げまわる曽根崎の傍らに屈みこみイチゴを回収、再び走り出す。だって勿体ねえし、食い物粗末にしたらバチあたる。
 断っとくが、イチゴに買収されたわけじゃないからな。
 ビニールハウスの囚人どもがぽかんと見守る中をまっしぐらに駆け抜け、ビニールハウスを飛び出す。
 砂に足を取られながら砂丘を越えて持ち場に帰り着き、憎憎しげに吐き捨てる。
 「リョウの奴、相変わらずだな。看守のモンしゃぶる見返りにメロンやらイチゴやら貰ってんのかよ。ずるしやがって、ちきしょー」
 まあ、一度引き受けちまったもんはしょうがねえ。イチゴも貰っちまったし。
 東棟に帰ったらリョウの様子見に行こうと心に決め、シャベルを手に取り作業に戻りがてら、イチゴを一粒口に含む。
 奥歯で噛み潰せば甘酸っぱく新鮮な味が口腔に広がり、じゅわりと喉を潤す。 
 「おい半々、ビニールハウスにご招待されたんだと?」
 「第二ビニールハウスの曽根崎はちいちゃいナリのガキが大好きな変態って有名だ。ケツの穴にキュウリ突っ込まれたりしなかったか」
 同じ班の連中が嘲笑まじりに野次をとばす。シャベルに凭れた俺は不敵な笑みを浮かべ、ビニールハウスの方角に顎をしゃくる。
 「その逆。目ん玉に突っ込んできてやった」

 強制労働終了後。
 東棟に帰り着いた俺は、やなことはとっとと済ませようと一路リョウの房をめざす。足をくり出すたびズボンの尻ポケットでイチゴが弾む。ひとりで食うのは勿体ねえし、あとでレイジにも分けてやろう。
 ぼんやりそんなこと考えながら廊下歩いてる途中、数人の囚人グループとすれ違う。
 「聞いたか?安田のこと」
 「おお、聞いた聞いた。天下の副所長殿が犬の散歩係に降格なんて可哀想に。あんまり不憫で涙ちょちょぎれちまう」
 「嘘つけ、笑ってるじゃんか」
 「こないだ所長に逆らったのが裏目にでたんだろ?囚人狩りに反対して怒り買って、朝夕二回犬の散歩係に任命されて」
 「そんだけで済んで恩の字だ、クビにされねーだけ儲けもんだ」
 「今頃犬に犯られてるかもしれねえぜ。所長のドーベルマンはヒトのオス相手にさかる変態犬だ」
 「犬に犯られてあんあん啼く安田かあ。笑えるな、それ」
 囚人グループが爆笑する。廊下の真ん中に立ち止まり、そいつらを見送る。所長主導の囚人狩りを邪魔した安田は、罰としてハルの散歩係を言いつかったらしい。どうりで今日は視察に来なかったはずだ。ハルのお相手で忙しかったんだろうと副所長に同情、所長の陰湿なやり口に怒りを覚える。さすがタジマの兄貴、血は争えない。
 そっと無意識に、ズボンの上から太股を撫でる。
 なんだかここ最近気が滅入ることばっかりだ。
 タジマの兄貴が新所長として赴任して、鍵屋崎とサムライは痴話喧嘩延長戦。
 レイジも明るく振る舞ってるが、どんなに頑張っても十字架の傷跡は消せない。
 嬉々としてレイジの十字架踏み躙る但馬の姿を思い出してぞっとする。但馬は狂ってる。レイジをいたぶって楽しんでいる。もしタジマがまたレイジに手を出せば―……
 その時だ。目先の房から奇声が漏れてきたのは。

 「ぎゃあああああああああっああああああっあ!!」 

 甲高い金切り声が鉄扉の向こう側が漏れてくる。何の騒ぎだ?好奇心に負けて駆け付けた俺は、音源がリョウの房だと確認してさらに驚く。中で何が起きてるんだ?ビバリーは、リョウは?
 「いるのかリョウ、ビバリー!火事か?地震か?雷か?タジマ……はいねえよな、もう。蛇口壊れて水浸しにでもなったのかっ」
 激しい不安に苛まれてめちゃくちゃに鉄扉を殴り付け蹴り付ける。鉄扉の内側からはひっきりなしに騒音が聞こえてくる。格子窓の隙間に目をくっつけて中を覗き込んだ俺の額に、次の瞬間激痛が炸裂。
 「!?痛っでえええええええええっええっ」
 「取り込み中っス、用件ならあとにしてください!」
 額をおさえて悶絶する俺の耳をビバリーの悲鳴じみた声がつんざく。いよいよもってただことじゃない。ビバリーが前ぶれなく扉を開け放ったせいで額を強打、じんわり疼く額を片手で押さえ、片手で鉄扉をこじ開けにかかる。
 「リョウに用あってわざわざ来てやったんだ、追い返すにしてもツラくらい見せんのが最低限の礼儀だろうが!!」
 「だから今それどころじゃないんス、ぶっちゃけロンさんのお相手してる暇ないんス、リョウさんが大変なことにっ……」
 鉄扉の隙間に見え隠れするビバリーの顔からは完全に血の気がひいてる。胸騒ぎが活発になる。いつも能天気に笑ってるビバリーがこんな情けないツラするなんて、一体中で何が起きてるんだ?リョウはどうしちまったんだ?緊張に汗ばむ手で鉄扉を引き隙間に足を挟み固定、そこから腕に力を込め一気に―
 「うわあっ!?」
 ビバリーがすっ転ぶ。手前のビバリーを押し倒して房の中に転がり込んだ俺の尻の下、イチゴが無残に潰れる感触。ズボンにじわじわ赤がシミが広がる。ちくしょう、今日の夜食にって大事にとっといたのに!腹立ち紛れにビバリーを突き飛ばし跳ね起きー……
 「よるなくるなこっちこないで、ママ、助けてママあああああああっ!!」
 見た。見ちまった。壁際のベッド、頭から毛布にくるまってがたがた震えるリョウ。虐待された小動物のように怯えきって隅っこに縮まったリョウの足元じゃ、はらわた暴かれたテディベアがぽつんと転がってる。
 「なんだ、よ、これ」
 常軌を逸した光景に直面、思考が停止。
 無残に解剖されたテディベア。四肢はちぎれて真綿の内臓がはみ出し、容赦ない陵辱の過程をありあり物語っている。おまけに目ん玉は一個取れちまってる。リョウは胎児の姿勢で毛布にくるまって震えてる。時折甲高い奇声を発して手足振り乱して暴れ狂うさまは癇癪持ちのガキそのまんま、一気に幼児退行しちまったみたいだ。
 「ママ、どうして?どうして僕いい子で待ってたのに来てくれなかったの、酷いよママ、ママなんか嫌いだ死んじゃえ梅毒にかかって死んじゃえ売女!」
 「どうちしまったんだリョウ、ヤクの禁断症状かよ!ビバリーこいつ一体、」
 隣のビバリーに向き直り、硬直。
 痛そうに顔を顰めたビバリー、肘まで捲り上げた袖の下には歯型。リョウに噛まれたあとだと直感。それだけじゃない。よくよく見ればあちこち生傷だらけ。おもいきり引っ張られた髪はぐちゃぐちゃに乱れ、顔には目立つ青痣ができていた。
 「わかんないっス、僕が近寄ろうとするとヒトが変わったみたいに暴れるんス!何があったか知りたいのは僕の方っス、今朝からずっとこの調子で暴れまわって房めちゃくちゃにして手に負えませんっス!」
 ビバリーも混乱していた。開け放たれた鉄扉の向こう側には人だかりができはじめている。「ついにリョウがキレたって?」「いつかこうなると思ったんだよな」「クスリやめるか人間やめるかどっちかだ」……無責任な詮索と中傷が飛び交う中、意を決してリョウに歩み寄る。土足でベッドに飛び乗り急接近、毛布を引っ剥がしにかかればリョウが死に物狂いで抵抗する。
 「あっちいけクソやろう、なにさ僕がさんざん呼んでもこなかったくせに今更トモダチ面したって遅いよ、お前の本性なんか全部お見通しなんだよ!!さっさと僕の房から出てけ、ロザンナ抱っこしてさあ!!」
 「俺だよ、ロンだよ!」
 激しい格闘の末に力づくで毛布を引っぺがしリョウの鼻先に顔を突き出す。リョウが極限まで目を剥く。
 恐怖に凝り固まった顔、戦慄の表情。
 「しっかりしろよ。なんだよ、このありさまは。俺、曽根崎に言われて来たんだよ。知ってるよな、曽根崎。ビニールハウス担当の看守。無断欠勤したお前心配して、様子見て来てくれって頼まれて、そんで……」
 震える手でリョウの肩を掴み、正気に戻そうと揺さぶる。俺に揺さぶられるがまま焦点の合わない目で虚空を凝視するリョウに不吉な予感がいや増す。弛緩した唇には唾液の泡が付着して、ぼんやり見開かれた目は現実を映してなくて、放心状態で座り込んだリョウは俺に揺さぶられるがまま、壊れた人形めいて機械的な動作で首を前後に傾げて……
 唐突に、言う。
 「ロン。注射うって」
 「は?」
 ひどく落ち着いた声だった。感情がすっぽり欠落した声音。俺の顔に焦点を結んだリョウの目が凶暴にぎらつきだした次の瞬間、衝撃。
 腹に頭突き食らってリョウに押し倒された俺の鼻先に、銀の針が突きつけられる。
 「ぼくにクスリうって気持ちよくさせて。なにもかも忘れさせて。ねえお願い、僕忘れたいの。嫌なこと全部忘れてなかったことにしちゃいたいの。それにはクスリに頼るのがイチバンだってヤク中の経験で知ってるの」
 開腹されたテディベアに手を突っ込み、中から無造作に注射器を取り出したリョウが無邪気に微笑む。
 完全にイッちまった笑顔。
 固唾を呑み、鼻先の注射針を見つめる。リョウは本気だ。本気で俺に覚せい剤うたせる気だ。いつかと立場が逆になった。咄嗟にリョウを突き飛ばそうとしたが、ちびでやせっぽちの癖して強情なリョウはてこでも俺の上からどかずぺたんと尻餅ついたまま、甘えるように体をすりよせてくる。
 「気持ちよくさせてくれたら、お礼に抱かれてあげる。僕の中で出していいよ。ロンも抱かれてばっかじゃ飽きるでしょ、たまには抱く側に回りたいっしょ?ねえ、いいよ。僕のこと女の子だと思ってヤッちゃっていいよ。ロンが相手ならサービスしたげるから……」
 「リョウ、正気に戻れ!俺には突っ込む趣味も突っ込まれる趣味もねえって何回言わせる気だ、お前にクスリ打つのもお断りだ、そんなに打ちたきゃ自分で打てよ!」  
 「駄目だよ。ほら」
 リョウが冷たい指で俺の頬に触れる。
 かすかに震えが伝わってくる。
 「手が震えちゃって、ちゃんと打てそうにないんだ。お願いロン、可哀想な僕を助けると思って……」
 俺の上で尻を移動させ上体を倒し、至近距離に顔を寄せる。チョコレートの匂いがする甘ったるい吐息が顔にかかる。俺は昔、お袋の客にヤク中がいたことを思い出した。そいつに同じ事を頼まれた。ヤクの禁断症状で手が震えて駄目だから代わりに打ってくれと大の大人に泣きつかれて、言われた通りおそるおそる静脈に注射した。そいつの顔を今でもはっきり覚えてる。注射器のポンプを押し込むにつれ、現実から乖離して自分の世界に埋没してく。眼球が裏返り、半透明の膜が目に被さったように自分の内側に閉じていくー
 「甘えるんじゃねえ、男娼!!」
 リョウの腹に蹴りを入れた。おもいきり。かちゃんと軽い音をたて、リョウが取りこぼした注射器が床で跳ねる。リョウを蹴り飛ばして跳ね起きた俺は、肩で息をしながらベッドを飛び降り即座に注射器を取り上げる。腹を抱えて咳き込むリョウが「クスリ、僕のおくすりぃ」と未練たらしくすすり泣くのに背を向け注射器を壁に投げ付ける。
 注射器が割れ砕ける。
 「あああああああああああああああああああああっあああああああああ!!!?」
 「人間やめっかクスリやめっかどっちか選べ、いつまでもクスリ頼って現実逃避すんじゃねえ!こんなもん長く続けてたら骨がすかすかになって死んじまうぞ、お前そんなに早くおっ死にたいのかよ、外に会いたい人間いるんじゃねえのかよ!?生きてここ出て会いたい人間いるんだろ、やりてえこといっぱいあるんだろ!だったら」
 「クスリやめるくらいだったら人間やめたほうがマシだ!」
 天井に毛布が舞う。
 バネ仕掛けの人形みたいにベッドに跳ね起きたリョウが身軽に飛び降り、ビバリーのベッドの下からでかいパソコンを引きずり出す。何する気だ?両足踏ん張り腰だめにパソコン抱えたリョウが「こんなもの、」と激しく唾棄。
 怒りに血走った凄まじい形相でパソコンを睨み付けたかと思いきや、顎の筋肉が盛り上がるほど奥歯を食いしばり、渾身の力を込めー
 「お前のせいだ!!」
 『Stop,Please do not kill her!!』
 リョウの怒号とビバリー悲鳴が交錯、房のコンクリ壁に跳ね返る。
 恋人の救出に向かうナイトさながら我が身をかえりみず駆け付けたビバリーの鼻先にパソコンが落下、床に激突した衝撃で液晶画面に亀裂が生じて内蔵回線が焼ききれ煙が噴き上がる。
 そして、完全に沈黙。
 ご臨終。破損した液晶画面に虚脱の表情を映し、腰砕けにへたりこんだビバリーを前に勝ち誇る哄笑をあげるリョウ。
 ざまあみろと言わんばかりに痛快な様子で爆笑するリョウを、廊下に集まった野次馬が遠巻きに見つめる。
 リョウの足元で細く煙を噴き上げるパソコンの残骸。元ロザンナだったもの。
 「ああ、あ……こんな、こんな……僕のロザンナがこんな無残な姿に……」
 わななく手でロザンナの部品をかき集め、ビバリーが俯く。嗚咽を堪えた肩が震える。それでもリョウの哄笑はやまない。「ざまあみろっ、やってやった、ロザンナを殺してやった!」と狂喜してパソコンの残骸を蹴り付ける。「やめてください、ロザンナをいじめないでっ」とパソコンにとびついたビバリーの背中にも容赦ない蹴りが降り注ぐ。
 狭苦しい房に狂気の哄笑が渦巻く。
 頭のネジが二・三本弾けとんだリョウの壊れっぷりにすっかり圧倒された俺は、逃げるようにその場を後にする。
 野次馬の喧騒に背を向けて廊下によろめき出て、そばの壁に手をつき、そのまましゃがみこむ。
 「リョウが壊れちまった……」
 全身に嫌な汗をかいていた。昨日までは元気だったのに、今日になって突然豹変したリョウ。あれがクスリのせいだとしたら一生クスリをやらないと誓う。曽根崎にはなんて報告しよう?クスリのヤリ過ぎでイッちまったとありのままを話せばいいだろうか……
 「!」
 足元に影がさす。弾かれたように顔を上げた俺は、驚き、顔が強張るのを感じる。
 「すごい騒ぎ。何があったんだい」
 目の前に静流がいた。リョウの房に顎をしゃくり、興味深げな様子で訊ねる静流を前に、萎えた膝を支えて腰を上げる。
 「お前こそ、どうしたんだよ。男娼の房に用事か?リョウを買いに来たんなら後にしろ、今取り込み中だ」 
 「お見舞いだよ」
 「見舞い?」
 どういうことだ?それじゃまるで静流は、リョウがおかしくなったのを知ってたみたいじゃないか。
 「お前、リョウとどういう関係だ。リョウがおかしくなった原因知ってるのか」
 「覚せい剤の禁断症状だって聞いたけどね。そんなおっかない顔しないでよ。彼……リョウくんとはこの前偶然知り合ったんだ。僕が道に迷ってた時に親切に声をかけてくれたんだ。突然発狂したって聞いて様子を見に来たんだけど、残念ながらお呼びじゃなさそう」
 開け放たれた鉄扉の向こうに流し目くれて静流が微笑む。鉄扉の内側からはリョウの笑い声とビバリーの嗚咽、ついでに壁を殴り付ける音、パソコンの部品を踏み潰す騒々しい破壊音が漏れてくる。
 次第に人だかりが増えはじめた廊下で、一歩も譲らず静流と対峙する。
 静流がこっちに歩いてくる。
 笑みは絶やさぬまま、優雅な動作で足を繰り出し俺の手前で立ち止まった静流が懐から取り出したのは、一羽の折鶴。
 「お見舞い。本当は千羽鶴がよかったんだけど、時間がなくて」
 静流に促されて反射的に手のひらを突き出す。静流が虚空で指を放し、ふわりと折鶴が舞い落ちる。
 重さの無い鶴を手のひらで受けた俺とすれちがいざま、耳朶で囁く。
 「君にあげる」
 淫靡に赤い唇がほんの一瞬耳朶にふれる。妖艶な笑みに魅了される。
 俺の手に折鶴を落とし、リョウの房を通してそのまま歩き去る静流の背中には、得体の知れない妖気が漂っていた。
 廊下の向こうから朗々と声が響く。
 甲高い奇声と不協和音を奏でる清涼な歌声…… 
 『すみの江の岸による浪よるさへや 夢のかよひぢ人目よくらむ』
 ……いや、意味不明だから。
[newpage]
 「トランクス一丁でなにやってんの?ロン」
 「うるさい。黙れ。死ね」
 背中で不機嫌に返事する。
 叱責され、ベッドに腰掛けたレイジが首を竦める気配。
 洗面台に向き合い蛇口を捻る。蛇口から勢い良く迸り出た水に手を突っ込み、ちびた石鹸を泡立て、じゃぶじゃぶズボンを洗う。
 夕飯前、リョウの房を訊ねた時の事を思い出す。
 房の扉ぶち破ったはずみにすっ転んで後生大事に隠し持ってたイチゴがは潰れ、ズボンの尻に赤い果汁が染み出た。ツイてねえ畜生。食後のデザートにとっといたのに台無し。貰ったその場で全部食っちまえば良かった。
 よくよく考えればレイジはチョコレートでもキャラメルでも缶詰のキャビアでも何でもござれ、欲しい物なら即貰える贅沢し放題の王様で、俺がいちご分けてやる必要なんて全然これっぽっちもなかったんだ。馬鹿らしい。
 イチゴの染みはなかなか落ちない。
 水を含んで重くなったズボンをむきになって擦る。尻一面の果汁の染みからほのかに甘酸っぱい匂いが漂ってくる。口内に唾が湧く。一粒なんてせこい真似せず喉詰まらすの上等で全部飲み込んじまうんだった。つくづく自分の貧乏人根性が嫌になる。
 このまま放っといたら染みが乾いて落ちなくなる。ズボンの尻に赤い染みくっつけて歩いてたら通りすがりの囚人どもに「どうした半々、生理か」「タンポン突っ込んでやろうか」「オムツあてとけよ」とからかわれる。それくらいならまだしも「処女喪失は何度目だ?」とか下ネタ飛ばされたら頭の血管ブチ切れる。
 ごしごしズボンを洗い続けて十分以上経つ。
 そろそろ腕が疲れてきた。
 ズボンの染みも完全には落ちてないが大分目立たなくなった。ここらで一息入れようと蛇口を締めて水滴したたるズボンを洗面台の端にかける。イチゴに未練があるが済んじまったもんはしかたないと気を取り直してベッドに引き返す。
 「……でもやっぱもったいねえ、結局一粒しか食えなかったし!くそ、リョウの房なんか寄らずにまっすぐ帰ってくるんだった。そうすりゃ尻餅ついてイチゴ潰すことなく全部ありつけたのに、とんだとばっちりだ」
 「食い意地汚ねえ。さすが野良」
 「野良じゃねえ」
 向かいに腰掛けたレイジめがけて枕を投げれば、ひょいと首を倒されかわされた。むかつく。行動全部お見通しってか?
 余裕の表情で枕をかわしたレイジが目の位置に摘み上げたのは一羽の折鶴。リョウの房の前で偶然会った静流から手渡された折り紙の鶴。
 リョウへの手土産の折鶴を俺なんかにくれていいのかよと戸惑ったが捨てるのも忍びなく房に持って帰った。ズボンを洗う段になってポケットに入れっ放しにしてたのに気付いてレイジにくれてやった。
 「土産だ。ありがたく受け取れ」と恩着せがましく手渡したら、折鶴見るのは初めてなのか興味津々「すっげ、紙で作った鶴?器用だなー」と驚いていた。
 折鶴をためつすがめつ、感嘆しきりのレイジを向かいで頬杖をつく。
 「……リョウさ、治んのかな」
 返答を期待しない独り言。夕飯前、曽根崎の言伝で房に寄った俺が見たのは毛布にくるまって怯えるリョウ。四肢をもがれ真綿の内臓がはみ出た、変わり果てたテディベア。
 躁鬱のはざまを揺れ動き、浮かれウサギみたいに房じゅう跳ね回るリョウを思い出し、二の腕が鳥肌立つ。
 お袋の客にヤク中がいたから覚せい剤の怖さは十分知ってる。
 クスリが切れた途端に殴る蹴るされるのも恐ろしかったが、それよりびびったのは「皮膚の下を虫が這い回って痒くて痒くてたまらない」と叫び、全身掻き毟り身悶える姿。
 ヤク中には自分の血管の中でうじゃうじゃ虫が蠢く幻が見えるんだそうだ。蚯蚓がのたうちまわったような引っかき傷を作り、かゆいかゆいと顔くしゃくしゃにして泣き叫ぶさまに怖気をふるい、クスリだけは絶対やらねえと子供心に誓った。
 けど。
 リョウの場合、あんまり突然すぎる。
 「ヤクがキレたにしてもあんまり突然すぎだ。普通ヤク中ってのは一日一日かけておかしくなってくもんだろ?お袋の客もそうだった、最初と最後じゃ別人みたいなありさまだった。最初の頃は自分で覚せい剤うてたのに最後らへんはガキの俺に泣き付いてた。でもリョウは昨日までぴんぴんしてた、普通に食堂で飯食ってビバリーとくっちゃべってた。それがなんで突然、」
 「心配?」
 「まさか。変だって言ってるだけだ」
 たった一日でこんな急激に症状が進行するはずない。何かきっかけがあるはずだ、リョウが壊れたきっかけが。リョウは年季入ったヤク中だ。症状が悪化しないよう一回のクスリの量を抑制してたのに、ここに来て急激に症状が進んだのは妙だ。
 何がリョウの背中を押した?
 別にリョウを心配してるわけじゃない。リョウにはさんざん酷い目にあわされた、監視塔に拉致られおとりにされて覚せい剤をうたれた。あいつがどうなろうが知ったこっちゃねえ、自業自得だ、ざまあみろ。胸中でそう吐き捨てるが、気分は晴れない。
 「なんかショックなことでもあったのかな」
 「ママに新しい男ができた」
 「そりゃショック。マザコンにゃ一大事だ」
 「ひとのふり見て我がふりなおせ」
 「……喧嘩売ってんなら相手になるぜ。立てよ」
 だれがマザコンだ?
 リョウと一緒にされちゃたまらねえと目を据わらせれば、レイジがおどけて肩を竦める。
 「自覚がないってのは幸せだよな。ともかく、そんなにリョウが心配なら様子見に行ってやったらどうだ?お前ダチいねえから相手弱ってるときに優しくしときゃ友情芽生えるかも」
 「悪かったなダチいなくてよ。別に欲しかねえよ」
 声が不機嫌になる。
 リョウのオトモダチなんざこっちから願い下げだ。男娼の仲間入りなんかしたくねえ。結論、レイジに相談しても為になるアドバイスは得られない。そもそもレイジに意見を仰ぐこと自体間違ってた。
 ベッドに後ろ手つき、ため息まじりに足を投げ出す。
 トランクス一丁で寛ぐ俺の視線の先では、レイジが折鶴で遊んでる。
 鼻の上に折鶴乗っけてバランスとってる姿がガキっぽくて笑える。
 「これ、あの美人に貰ったんだって?どうりでいい匂いするわけだ」
 「男を美人って言うな気色わりぃ。リョウの房の前でばったり会ったんだよ。見舞いに来たらしいんだけど、野次馬いっぱいいたから直接房には寄らずに折鶴ポイって放って行っちまった。なにしにきたんだか」
 「へえ」
 吐息で折鶴を吹き上げながらレイジがほくそえむ。
 「東京プリズンに来て一週間もたってねえのに友達できたのか。サムライと違って社交的」
 「俺はあんま好きじゃない」 
 レイジの吐息で膨らんだ折鶴を眺める。俺の手に折鶴を渡して背中を向けた静流、リョウの悲鳴にも無関心に悠然と歩き去る後姿……
 静流は一体何者だ?なにをしでかして東京プリズンに来たんだ?
 脳裏で疑問が増殖する。静流の正体が掴めず不安になる。
 レイジの唇で羽を休める純白の折鶴を視線で射止め、独りごちる。
 「あいつ、白いカラスみたいだ」
 「その心は?」
 「外ヅラ白くても本性は黒い」
 白鷺に擬態したカラス。それが静流の印象だ。みな綺麗な見た目に騙されて本性に気付かない。廊下で静流と対峙した時の得体の知れぬ緊張がまざまざ蘇る。

 掴み所ない水鏡の目、妖しい微笑み。

 口ではリョウが心配だとうそぶきつつも、リョウの房の前を一抹の未練なく通過した。静流は一体なにしに来たんだ?本当にリョウを見舞いに来たのかと疑問が募る。
 頬杖ついて思案に暮れる俺を現実に引き戻したのは、能天気な声。
 「ははーん。嫉妬だな」
 「ああん?」
 頬杖を崩して顔を上げる。
 向かいのベッドに腰掛けたレイジがひとり頷く。
 折鶴を交互の手に投げ渡し遊びながら、不敵に微笑む。
 「俺があいつの肩もつからヤキモチ焼いてんだろ?素直に白状しちまえ、我慢は体に悪い。俺を独り占めしたいならそう言えよ」
 「……耳の穴から脳みそ溶け出してるぞ。鼻から啜り上げて戻さなくていいのか」
 どこをどうすりゃそんな結論になるんだ?鍵屋崎に解説を頼みたい。いや、かえってこんがらがりそうだからやめとく。怒りを通り越してあきれかえった俺をよそにレイジはご機嫌に笑ってる。
 「だーいじょうぶ、浮気なんかしねえから安心しろ。そりゃ確かにあいつ美人だし色っぽいし一発ヤれたら儲けもんだけど、生憎今の俺はロン一筋で他の男は目に入らねえラブジェネレーション一直線。お前のカラダに飽きるまでとーぶん浮気しねえよ。なにせまだ二回っきゃヤってね、どわっ!?」
 ベッドを立ち突っ走りレイジに回し蹴りを食らわすまで二秒とかからなかった。俺の回し蹴りは見事レイジに炸裂、奴をベッドから叩き落して埃を舞わせた。
 折鶴で遊ぶのに夢中で、もとい、俺のカラダに飽きるまでとりあえず浮気しない宣言かまして余裕ぶっこいてたレイジはろくに受身もとれずもんどりうって床に転がる。
 埃を吸い込んで咳き込むレイジの胸ぐら掴み、目から火花とびちる勢いで額をぶつける。
 「~~いろいろ突っ込みどころ満載でどこから突っ込んでいいか俺としても迷うが、今の発言でお前の本性ってもんがよーっくわかったよ。美人とみりゃ男でも女でもホイホイついてく尻軽が、俺のカラダに飽きるまでとーぶん浮気しねえってなんだそりゃ、とーぶんって何ヶ月何週間何日だよおい!?しかもお前これからまだまだ俺を抱く気なのか?
 調子にのんのも大概にしろ、こちとら性懲りなく羞恥プレイまがいの真似されて連日大恥かいてんだ!
 一回目は男と男の約束だしお前頑張ったんだし仕方ねえかなって納得して、二回目はどん底まで落ち込んだお前の為に文字通りひと肌脱いでやって……でも三回目はありえねえから、野郎に抱かれるなんざありえねえから!痛いのも気持ちわりぃのもこりごりだっ」 
 「うわっひどっまたしかたねえとか言った!?俺デリケートだからすげえ傷ついた、ブロークンハートだ。ロン痛いの嫌なら次から大丈夫、三回目ともなりゃ体慣れてくるから、俺のカタチ覚えて具合よくなる頃だから。どうだ、経験者のアドバイスは説得力あんだろ」
 「ねえよ!さっぱりねえよ!」
 怒りに任せて胸ぐら締め上げてもレイジはさっぱり懲りない。
 余裕ありげなツラが癪に障り、レイジを絞め殺したい衝動を抑えるのに苦労しながら奴の胸ぐら掴んで咆哮する。
 「理由もなく男に抱かれてたまっか!」
 「抱くのにいちいち必要なのかよ理由とやらが!?」
 「抱きたいなら納得させろ!」
 「『愛してる』が理由じゃ駄目か?」
 唾飛ばして怒鳴り散らす俺をまっすぐ見つめ、レイジが真顔で言った。たじろぎ、胸ぐらから指を放す。レイジが緩慢に起き上がり、ふてくされた顔で胡坐をかく。憮然と唇を尖らした顔に拗ねた子供みたいな表情を浮かべ、皺の寄った胸ぐらを撫で付ける。
 「俺がお前抱きてえ理由はオンリーワン&ナンバーワン、ただ『愛してるから』だよ。好きだからだよ。好きな奴ヤりたくて悪いかよ、好きな奴抱きたくて悪いかよ。ああもう畜生、大好きなんだよお前が!お前の体に負担かけるって頭でわかってても理性飛んで押し倒しちまいたいくらい滅茶苦茶ヤりたくてヤりたくてたまらないんだよ、ぶっちゃけお前の体に夢中なんだよ!」
 「でけえ声だすな、外に聞こえんだろ!?」
 ヤケ気味にぶちまけるレイジの口を慌てて塞ぎにかかるがさっきのお返しとばかり片手で軽々頭を押さえ込まれる。
 頑張ってもどうにもならねえ身長差と体格差が恨めしい。
 レイジの膝に顔面突っ伏した体勢から片手の圧力に逆らい頭をもたげるも、あっけなく肘が砕けてずり落ちるくりかえし。
 「ロン、俺を惚れさせた責任とれ。俺もおまえ惚れさせた責任とるから」
 「惚れてねえよ、掘られたんだよ!」
 頬が羞恥に染まる。
 悔しいかな、レイジにやすやす押さえ込まれて奴の膝に顔を埋める屈辱を舐めた俺の目に褐色の首筋をうねって流れる金鎖がとびこんでくる。
 シャープに引き締まった首筋に沿い、鎖骨の起伏を緩やかに経てシャツの内側へと吸い込まれる鎖を目で辿り、体の力を抜く。
 王様相手にむきになんのが馬鹿らしい。
 降参のため息を吐いた俺の耳朶を、不意に囁きがくすぐる。
 「ー噛まれたのか?」
 図星をさされて体が強張る。腹に顔を埋めた俺の背中に手を回し、ちゃっかり抱き寄せたレイジが剥き出しの太股を見つめている。
 トランクスから突き出た太股にはくっきり歯型が残ってる。あのバカ犬に噛まれたあと。やべ、バレた。傷跡のこと忘れてうっかりズボン脱いだのが裏目にでた。慌ててズボンを取りに戻ろうと跳ね起きたが、肘を掴まれ引き戻される。

 「!―っ、」

 そっと太股に手がふれる。
 しなやかな手のひらが太股を覆う。
 太股の歯型に指をふれ深さを確かめ、レイジが物騒に目を細める。
 「……決定。明日の夕飯は犬鍋だ」
 目つきがマジだった。正直びびった。たしかにあのバカ犬にゃ腹を立てたが、犬鍋はやりすぎだろ?
 「レイジ、落ち着け。深呼吸だ。犬鍋は喉に通らねえ。せめて具材は伏せとけ、食欲失せる」
 違う、そうじゃねえだろと自分に突っ込む。
 冷や汗かきながら説得を試みるも、レイジは俺の肘を掴んで抱き寄せたまま、間接と長さのバランスが絶妙な指で太股の歯型を撫でている。指が太股の敏感な所に触れるたび、性感帯に微電流が走り、鼻から吐息が抜ける。
 馬鹿な。
 ただ太股撫でられてるだけなのに何でこんな感じてるんだ、ぞくぞくするんだ?レイジの指の感触と温度を太股が吸い上げて、悪寒と紙一重の快感が背筋を駆け抜ける。野郎、わかっててわざとやってる。
 意地悪い微笑を覗かせぴたり体を密着させ、歯型を慰撫していた指を太股沿いにツと滑らす。
 褐色の手が内股に潜りこみ、五指を独立して動かし、ひどく敏感な場所を探り当てる。
 「っあ、そこっ、さわん、な……」
 とうとう変な声が漏れた。緩慢な愛撫に焦らされ、太股の産毛が逆立つ。ただ手だけで何でこんな感じるんだ?おかしい。俺よりひとまわり大きく骨ばった男の手が太股を迂回、レイジの指から伝わる熱がちりちりと産毛を炙る。
 「ロンを食べていいのは俺だけだ。だろ?」
 「お前よくそんな恥ずかしいこと言えるよな……」
 咄嗟に減らず口を返した次の瞬間、レイジが予想外の行動にでる。俺の肘を掴んで支え起こしたかと思いきや、事もあろうに俺の太股に顔を埋めたのだ。
 「!?ひっ、あ」
 太股に深々穿たれた歯型に唾液が沁みる。まずは唇で軽く触れ、それから舌を出し、歯型のへこみを丁寧に舐める。熱い唇が剥き出しの太股に触れる。熱く柔らかい舌が太股に唾液を塗る。
 気持ち良いのか悪いのかわからない微妙な感覚。
 唾液に濡れた太股が淫猥に輝く。太股に垂れた唾液が透明な筋を作り流れ落ちる。くすぐったい感覚が次第に何か別のものへと変容する。
 熱い舌が唾液を刷り込むたび感度が良くなり、なまぬるい快感が太股を逆なでする。
 手のひらに爪が食い込む痛みで自制心を呼び起こしひたすら我慢するも、ちろちろ蠢く舌に刺激されて太股の柔肉が震え、俺の意志とは裏腹にトランクスの股間が勝手に勃ち上がる。
 「男にヤられても気持ちよくねえ?よっく言うぜ、手と舌だけで勃つくせに」
 ひややかに嘲笑され恥辱で頭が熱くなる。反射的にトランクスの股間を手で隠そうとしたが、俺の行動を予期したレイジがすかさず払いのける。やめてくれ、と口の中で呟く。意固地に首を振り拒絶するもやめず、レイジの手が太股をよじりトランクスの端にかかる。
 「レイジ、やめろ!」
 「大丈夫、いれないから。舐めるだけ。消毒消毒、ワンコに舐められた場所を消毒っと」
 「てきとー言うな、犬より飢えてるよお前!」
 冗談じゃねえ。トランクスを引っ張り必死に抵抗、レイジの腹に足蹴を食らわして方向転換。レイジが「げふっ」と苦鳴を上げて床に倒れたのを幸い、股間の昂ぶりを手で庇い洗面台に急ぎ、生渇きのズボンに足を通す。ったく、油断も隙もねえ。
 手の甲で汗を拭い嘆息。どっと疲労を感じて下を向けば、純白の折鶴が転がっている。
 「ん?なんだこりゃ」
 折鶴の羽に目を凝らす。電球の光を透かして淡く浮かび上がる……字?綺麗に折り畳まれた羽の内側に字が書かれている?
 好奇心から折鶴を摘み上げ、不器用な手つきで一枚に広げ、頭上に掲げて裸電球の光に透かす。
 「どうしたロン?」
 「謎のメッセージ」
 大袈裟に咳き込みつつ、好奇心に負けて首突っ込んできたレイジに顎をしゃくる。俺の肩に寄りかかるように手元を覗き込み、レイジが顔を顰める。裸電球の光に照らされた折り紙の裏には、惚れ惚れするほど流麗な筆跡でこう書かれていた。
 「『玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば しのぶることの よわりもぞする』……こりゃ暗号だ」
 「だろ?わけわかんねえ。リョウに渡す折鶴に書かれてたってことは奴に宛てた伝言なんだろうけど、それにしちゃぞんざいに投げてよこしたし」
 「キーストアなら知ってるんじゃね?メガネだし」
 「明日会ったときにでも聞いてみるか。それからリョウに返しても遅くねーだろ」
 元通り鶴を折ろうとして失敗、しかたなく四つ折りにした紙をポケットに忍ばせる。博識な鍵屋崎なら暗号解読の期待がもてる。それはそうとレイジの奴、いつまでひっついてやがるんだ?用が済んだらとっとと離れろとドテっ腹に肘鉄お見舞いしようとした、瞬間。
 威圧的な靴音が廊下に響き渡り、格子窓の向こうに不穏な空気が充満する。
 「なんだ?」
 レイジと顔を見合わせ鉄扉に駆け付け、格子窓から外の様子を窺う。 廊下にごった返した囚人が好奇心もあらわに見つめる方向に一瞥くれ、顔から血の気が引く。看守だ。こないだ俺を取り押さえた看守が四人、ずらずらと群れなして廊下をのし歩いてくる。
 「こりゃまた随分態度のでけえバックパッカーだ」
 口笛吹くレイジの横で俺は気が気じゃない。まさか、こないだの一件で目を付けられたのか?矩形の窓に嵌まった鉄格子を掴み、硬直した俺の方へと奴らはまっすぐ歩いてくる。先頭の看守と目が合う。
 こないだ俺の横っ面を殴り飛ばした看守が流れる動作で警棒を抜き放ち、もう片方の手でノブを捻りー
 「お礼参りか!?」
 心臓が凍える。集団でお礼参りなんて卑怯だ、はなから勝ち目がねえ。看守に喧嘩売るなんざ俺も馬鹿なことしたと後悔しつつ鉄扉からとびのき、あとじさりに距離をとる。壁を背にした俺の眼前、扉が乱暴に開け放たれ荒々しい靴音が殺到。手に手に警棒を構え、大挙して踏み込んだ看守がさかんに叫びかわす。
 「逃がすな!」
 「包囲しろ!」
 「所長じきじきに連れてこいとのご命令だ、抵抗するようなら足一本折ってやれ!」

 所長の命令だって?
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