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三百三十七話
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今見たものが信じられず呆然と立ち尽くす。
電池が切れた蛍光灯の下、コンクリ剥き出しの殺風景な通路に立ち尽くし、排他的に閉ざされた鉄扉を見つめる。
あれは、シズルの房。
最前僕が見たものは現実だろうか、目を開けたまま夢でも見てたんじゃないかという疑惑が脳の奥で膨らんで足元がぐらつく。
鉄扉の前で待ち伏せしていた看守に無防備に歩み寄るシズル。緩慢に縮まる距離、二人を結びつける親密な空気。シズルは親愛の笑顔を見せ看守に歩み寄り頬に触れた。シズルは看守の頬を両手で挟み優しく自分の方へと誘った。
看守の腕の中でシズルの体が妖しくくねり、蠢き、のたうつ。
口紅なんて塗ってないのに赤い唇とは対照的に、奔放に仰け反る首の白さ。華奢な腕を看守の背中に回しきつく抱きしめ、股間に柳腰を摺り寄せ、享楽の笑みをちらつかせる。
正常な人間が浮かべちゃいけない類の笑み。
前戯とはいえない荒荒しさと激しさでシズルの体を貪りながら、看守は意味不明なうわ言を呟く。
衣擦れにかき消えそうにかすかな声で、「す、すべすべだあ。女みてえだ」と呻き、鉄扉に押し付けたシズルにのしかかるように前傾姿勢をとる。長い舌がシズルの首筋に唾液の筋を付けて鎖骨の起伏をなぞる。
シズルは例のくすくす笑いを漏らしながら貪欲な愛撫を受けていた。
切れ長の双眸に悪戯っぽい光を宿し、唇を綻ばせ、淫蕩な妖婦さながらに自分に溺れゆく男を憐れんでいた。
無垢な少女めいて清純な美少年が自ら進んで男に身を委ねて快楽に溺れている。筋骨隆々とした逞しい腕に抱擁され全身を愛撫されシズルは笑みを絶やさず虚空を見ていた。
虚無に通じる空洞の瞳。
物憂げな影を作る睫毛の下、艶々と濡れ輝く漆黒の瞳。
後ろ手にノブを捻り、看守を伴い矩形の暗闇に呑まれたシズルの残影が目に焼き付いて離れない。大気中にはまだシズルの笑いの余韻と赤裸々な前戯が醸した放熱の残滓が漂って、僕はふらふらと鉄扉に吸い寄せられた。
シズルのことはよく知らない。東京プリズンに来たばかりの新入りで、サムライのイトコだってくらいしか情報は掴んでないが、あんな綺麗な顔して看守を体でたらしこんでるなんて……
それに、シズルと一緒にいた看守。
あれ、僕のお客さんじゃないか。ちょっと前まで僕をよく買いにきてた腐れ看守の柿沼さんだ。ふうん、シズルに乗り換えたってわけ?気に入らないね。涼しい顔して人の客横取りなんていい根性してるんじゃんとシズルに対する怒りと反感がむくむくもたげてきて、知らず知らずのうちに歩幅が大股になり、鉄扉が急接近。
そんなにシズルがいいわけ?僕だってテクには自信がある。六歳で男知ってから必死に経験積んで今じゃ一端の娼夫になったってのに、昨日今日きたばっかの素人に負けるかと対抗心に火がつき、それならこの目で確かめてやろうじゃんと決意。そうっと爪先立ち、息を殺して格子窓を覗きこむ。
等間隔に並んだ鉄格子の奥には不気味な闇が淀んでいた。
耳の奥に鼓動を感じながら暗闇に目を凝らし、シズルを捜す。いた。房の壁際のパイプベッドにシズルがいる。仰向けに寝転がったシズルの上に覆い被さり、性急な動作でシャツをはだけているのは……例の看守。柿沼。
「柿沼さんには感謝しているんだ。本当に」
柿沼の手に熱を煽られ、頬をうっすら上気させたシズルが謙虚に礼を述べる。柿沼の後頭部に手を回し、脂で固まった髪の感触を愛でるように指を絡める。
「僕が貢くんと同じ部署になれたのは柿沼さんが裏で手を回してくれたおかげ。本当に感謝してるよ。入所時の身体検査の担当が柿沼さんでよかった。東京プリズンに来ていちばん初めに出会った看守が柿沼さんじゃなければ、今頃どうなっていたことか……」
心細げに目を伏せ、絶妙の呼吸で言葉を切り、間をもたせる。
男心をくすぐる秀逸な演技。男をその気にさせることにかけちゃ天才的だと感心すると同時に、邪悪で狡猾な本性を目の当たりにした戦慄を禁じえない。気付けば指先が震えていた。
脳裏で警鐘が鳴り響く。シズルは危険だと本能が疼く。
嗅ぎ取ったのは同類の匂い。でも、シズルのが断然タチ悪い。
完璧に計算し尽くされた媚と演技で男を誑かして思い通りに動かす、天性の魔性の才能。
「お前の頼みならなんだってしてやるさ。あの時、お前と目が合った時に電流が走ったんだよ。お前の目に射ぬかれて微笑みに魅入られて色香に狂わされたんだ、俺は。なあシズル、お前は俺の物だ。お前の為なら所長だって殺してやる、安田だって殺してやる。だから」
「わかってる」
シズルが寛容に両手を広げ柿沼を迎え入れる。柿沼がシズルの上着を脱がそうと悪戦苦闘する。胸板までたくし上げられた上着が首につかえ、頭が抜けるのに少し時間がかかった。
「僕は逃げない。僕は柿沼さんの物」
唄うようにシズルが言う。囚人服の上着とシャツとズボンが無造作に床に投げ捨てられ、その上に重なるように紺のズボンが落ちる。トランクス一丁になった柿沼が一糸纏わぬ上半身をさらけだしたシズルに襲いかかる。
上着を奪われてあられもない姿にされたシズルは、羞恥と喜悦とが半ばする恍惚の表情で快楽に溺れていた。放埓な肢体が闇に踊る。赤裸な衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
『三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい』
清澄な歌声が暗闇に流れる。シズルの、声。その声に促されるように柿沼の動きが速まり、律動が激しくなる。華奢な膝を掴んで広げ、シズルのズボンを脱がして自分の分身を押し入れる。ぐちゃり、ぐちゃりと淫猥な水音が響く。
「っ、はあ……ふっ………あ、ああっあ」
仰向けにひっくり返った姿勢で手荒く揺すられながら、切なく喘ぐ。しっとり汗ばんだ前髪がざんばらに乱れて額にかかり、精を注がれる快感に濁り始めた目を隠す。柿沼の背中に爪を立て、容赦なく理性を追い立てる快楽の洪水に浮きつ沈みつしながら、シズルが目を閉じる。
「お前には特別に配慮してやった。他の囚人と暮らすのは嫌だと言えば、ひとりで使える房を与えてやった。俺と逢引するにはそっちのが都合がいいからって説得されて、上に無理言って融通してやったんだ」
恩着せがましく言いながらさらに奥深く突き入れ一方的に責め立てる。ぐちゃり、ぐちゃり。挿入に伴い響く水音が行為の卑猥さを引き立てる。
「あっ、あっ、あああああっあああっふああっ……あっ、すごい、柿沼さん……こんなの初めて…っ!」
シズルの顔に紛れもない歓喜の表情が浮かぶ。柿沼の分身を進んで迎え入れようと腰を振るたび、しっとり汗ばんだ額に濡れた前髪が散らばる。喘ぎ声が次第に甲高くなる。柿沼に抱き付いたシズルが口の端から一筋涎を垂らし前髪を散らし、理性をなげうち快楽に溺れきった恍惚の表情で、へし折れんばかりに背骨撓らせ絶叫。
シズルが、達した。同時に柿沼も射精した。肛門から溢れた白濁の残滓が下肢を伝い落ちるさまが僕の位置から辛うじて見てとれた。浅く肩を上下させ呼吸を整えつつ、柿沼の肩に凭れかかる。
薄ぼんやりと虚空をさまよう放心した目、怠惰に弛緩しきった表情、閉ざすのを忘れた唇……
「………っ、」
体に異変が起きる。勃起。シズルと柿沼の絡みを見て分身が勝手に興奮しちゃったらしい。だって、こんな……こんなの見せられたら、だれだってこうなっちゃう。
シズルの姿態に欲情したのが悔しくて、下唇を噛んで俯いた僕をよそに、衣擦れの音が再開。
「!」
息を呑み、格子窓の向こうに再び目を凝らす。暗闇に沈んだ房の片隅のベッドで柿沼が何かごそごそやってる。何?マットレスの下から柿沼が引っ張り出したのは……女性用の、着物。真紅の襦袢と、それに付随する白絹の帯。
「なに、あれ。なんでシズルのベッドにあんな、綺麗な着物が……」
胸騒ぎがする。ここから先は見ちゃいけない、第三者が踏み入っちゃいけない領域だと良識が退去勧告を発する。でも、足が竦んで動かない。動けない。怖い物見たさの好奇心には抗えない。鉄扉の前に立ち竦んだ僕の視線の先、暗闇に沈んだベッド上で柿沼が思いがけぬ行動をとる。
シズルに顎をしゃくり全裸で正座させ、剥き出しの肩にそっと着物をかける。炎で染め抜いたような真紅の襦袢で剥き出しの肩を覆い隠してから、緩く衿をかけ合わせる。薄地の着物が奏でるしゃらしゃらと雅やかな衣擦れの音。
全裸のシズルに襦袢を羽織らせ帯をとり、結わえる。
出来あがったのは、見目麗しい和装の少女。
遊女の科を作り、真紅の襦袢をしどけなく着崩して白い帯を結わえた少女。
慣れた様子で襦袢を羽織りたおやかな少女へと変身したシズルが、柿沼の膝に手をかけ、囁く。
「いつものようにして」
シズルの目が嗜虐的に細まる。柿沼がごくりと生唾を飲み再び動き出す。床に手を伸ばし、看守服を拾い上げ、胸ポケットから何かを取り出す。
黒い光沢の柄の筆と、口紅。柄が細い特殊な筆は、女性の唇をなぞり、口紅をはみ出ず塗るための化粧道具。
「目を閉じろ」
柿沼が低く命令する。気のせいか声が震えていた。
柿沼に促されるがまま、顎はやや上向き加減に、余裕の笑みさえ浮かべて瞼を閉じる。
口紅に筆をひたし、そろそろとシズルに近付く。上唇の先端に筆先が触れる。上唇のほぼ真ん中に置かれた筆が慎重に動きだす。
唇の膨らみに沿って筆が動き、丁寧に紅を刷く。
暗闇に沈んで色彩が区別できないにも関わらず、僕にはそれが、似合う人を選ぶ深紅だとわかった。
「よく似合うぞ、シズル。綺麗だ」
唇の膨らみをなぞりながら、熱に浮かされたように囁く。
「姉さんに似てるかな」
瞼を下ろしたシズルの顔に寂しげな影が過ぎる。が、それはすぐ微笑に呑まれて消え去り、気丈な様子で続ける。
「柿沼さんには本当に感謝しているんだ。東京プリズンに柿沼さんがいてくれてよかった。もし身体検査の段階で柿沼さんに当たらなきゃ、姉さんの形見の扇子は容赦なく取り上げられてた。僕は身を守る術を何ひとつ持たず地獄に乗り込まなきゃいけなかった」
沈痛に目を伏せる。長い睫毛が震える。
「姉さんの残り香がする扇子を取り上げられるなんて、僕には耐え切れないよ」
シズルにお姉さんいたんだ。でも、形見って?死んじゃったワケ?
当惑した僕をよそに、シズルが虚空に腕をさしのべ柿沼を招き寄せる。たっぷりとした袖が揺れ、炎が燃え広がるごとく柿沼の背中を包み込む。
紅のひと塗りで遊女に変貌した女装の少年が、しゃらしゃらと衣擦れの音も淫靡に、愛情に見せかけて男を抱擁する。
頭がくらくらした。僕が今見てる光景はとても現実の物と思えない。あまりに時代錯誤で浮世離れした光景……
もう辛抱できないと着物の衿をはだけて柿沼の手がすべりこみ、処女雪の白さの胸板が暴かれる。
仄赤い痣、指で圧された手形。密やかに積み重ねた行為の痕跡が大胆に暴かれて―……
その瞬間。
シズルと、目が合った。
柿沼の肩越しに僕の視線を絡めとり微笑を深める。いつから気付いてたんだろう、僕がここにいることに。
やばい。逃げなきゃ。このままここにいたらやばい。
全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。シズルが柿沼の耳元に顔を寄せ何かを囁く。多分、僕の存在を教えているのだ。妖艶な流し目でこっちを一瞥、柿沼の耳朶に吐息を吹きかけて促すシズル。唐突に柿沼が振り向き、鉄格子の向こうに立ち竦む僕を発見するなり憤怒の形相に豹変。
「この野郎っ!!!!!!」
「あ、あう、あっ」
激怒した柿沼に背を向け、脱兎の如く逃げ出す。
背後で鉄扉が開け放たれ怒涛の足音が急接近、野太い怒号が鼓膜を叩いて憤激の波動が押し寄せる。やばい、捕まっちゃう、助けてビバリー!囚人と看守のエッチ覗いてるのがバレたんだ、ただで済むはずない。それでなくても柿沼は短気で有名な女装マニアの変態で、ポストタジマを名乗れるくらい悪評付いて回る注意人物なのに。
「!ひっ、」
遅かった。僕がのろくさしてるうちに柿沼の手が伸びて後ろ首を掴む。僕の後ろ首摘んで房に引きずり込んだ柿沼が乱暴に鉄扉を閉め、残響で大気が震える。恐怖で歯の根ががちがち震えだす。殴られる?蹴られる?殺される?最悪の想像ばかりが連鎖的に浮かんで絶望が深まる。せめてもうちょっと僕の足が速ければ逃げ切ることができたのにと後悔してもはじまらない。
ビュッ。風切る唸りが耳朶を掠め、ベッドに放り出される。
背中からベッドに墜落した衝撃で肺から空気が押し出され激しく咳き込む。
「この野郎、リョウ、てめえどっから見てたんだ!?俺とシズルが房に入るとこずっとタダ見してたのか、ずっと聞いてたのか!舐めし腐った真似しやがって……上等だ男娼、今見たことよそに漏らさねえように裸にして死ぬほどぶん殴って歯あ全部ひっこ抜いてやらあ!」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさ」
最後まで言わせてもらえず頬を張り飛ばされた。思い切り。衝撃で口の中が切れて鉄錆びた味が満ちる。腕の一振りで薙ぎ飛ばされた体をベッドパイプが受け止める。また衝撃。ベッドパイプに激突して眩暈に襲われた僕の胸ぐらを掴み、柿沼が警棒を振り上げる。
「言われた通り口を開けろ、今見たこと口外できねえようお前の歯あ全部砕いてやる!」
「いや、だ。許してよ柿沼さん、ほんの出来心なんだよ、たまたまそこ通りかかったら声が聞こえてきてそれでつい……ほんとほんとだよ、嘘じゃないよ!ねえお願いだから信じてよ、僕たち長い付き合いじゃん、柿沼さん僕のフェラ上手だっていいこいいこしてくれたじゃん!?僕柿沼さんなら生でいいかなって特別に許可してあげたっしょ、清楚好みの柿沼さんたっての要望で白いワンピース着てあげたっしょ……」
哀願の嘘泣きじゃなく、本物の涙が込み上げてくる。
僕よりシズルのほうがいいっての、ただ仰向けに寝転がってイイ、イイって喘ぎ声あげてるだけのド素人のがいいっての?シズルに客を取られた悔しさで涙が止まらない。平手で張り飛ばされた頬は熱を持ち腫れ上がり内側の粘膜は炎症を起こしてる。娼夫のプライドをズタズタにされた悔し涙で頬を濡らす僕へと柿沼が警棒を振り下ろす―
ああ、殺される。
「待って」
救世主は身近にいた。髪を舞い上げる風圧に反射的に目を閉じたが、いつまでたっても予期した衝撃は訪れない。おそるおそる薄目を開ければ、意外な光景が飛び込んでくる。
シズルが柿沼の手を制してじろじろと僕の顔を眺めている。
敗者に対する愉悦と弱者に対する憐憫とを複雑に織り込んだ目の色が、ますますもって惨めさをかきたてる。
慈悲深いと形容してもいい菩薩の顔―
不意に、シズルを滅茶苦茶にしたい衝動が湧き上がる。
「見世物じゃねえよ、カマ野郎」
狂おしく身を捩りシズルの顔に唾を吐く。ぴちゃりと音がしてシズルの頬に唾が跳ね、怒りのあまり咆哮した柿沼が警棒で僕の肩口を殴る。激痛に背中が仰け反る。パイプベッドに寄りかかり、肩を庇って呼吸する僕の上にのしかかる……シズル。帯が半ばほどけて、真紅の襦袢の衿がはだけたあられもない格好で僕に迫りながらシズルが横に手をさしだす。
「手錠貸して」
手錠?そんなものどうする気さ。肩を押さえてへたり込んだ僕の眼前、柿沼の手からシズルの手へと手錠が渡される。カチリと金属音が鳴り輪が外れる。僕の手を後ろに回し金属の輪をひっかけ施錠、シズルが満足げに微笑。
「まずいところを見られちゃったね」
「い、言わない!絶対ひとに言わないからビバリーのとこに帰してよ!」
「どうかな。君は口が軽いらしいから……ねえ、情報屋のリョウくん」
「な、んで知ってるんだよ、新入りのくせに……」
「柿沼さんに教えてもらったんだ。彼は貴重な情報源だから」
共犯者の結束を確かめるように柿沼と密やかに笑み交わし、僕へと向き直る。格子窓から射した僅かな光が、深紅が映える口元を仄かに照らしだす。
「君のことはよく知ってる。尻軽でおしゃべりで大勢の看守に特別扱いされる男娼のリョウ。僕らのことも話すつもり?噂話で広めるつもり?それはちょっと困るな。まだ目的を達してないんだから」
「目的って……」
「東京プリズンに来た目的」
紅の唇が綻び、磨き抜かれた真珠のように小粒の歯が零れる。シズルが僕の頬に手を伸ばす。首振りで逃れようとしたが、見かけに反して強引なシズルは僕の頬をひたりと包みこむ。
癖のない黒髪の隙間から、闇より深い漆黒の目が覗く。
「可哀想だけど、口封じしなきゃ駄目みたいだ」
不吉な宣告に総毛立ち、手首を擦り合わせて手錠を外そうと必死の抵抗を試みる。金属の輪が擦れて軋んで耳障りな音をたてる。けど、外れない。手首の薄皮が剥けて傷付くだけで手錠自体はびくともしない。くそっ、外れろ、外れろよ!!鎖が許す限界まで引っ張り腕を開こうとするが、ガチガチと鎖が軋るだけで胸に巣食う絶望感が膨らむ。
発狂寸前の恐慌に駆られた僕の正面、紅の襦袢を羽織った少年が淡々と命じる。
「知り合いの看守、何人か連れてきて。できるだけ口が固い人を」
え?
思わず暴れるのを止め、恐怖に凝り固まった表情で暗闇に溶けたシズルを仰ぐ。柿沼に命じて仲間の看守を呼びに行かせたシズルが鉄扉が閉まるのを音で確認、申し訳なさそうに付け足す。
「ごめん。でも、仲間に入りたかったんでしょう」
一転、嗜虐の喜びを目に宿したシズルの手が頬からすべりおち、ズボンの股間に置かれる。下肢が鳥肌が立った。衣擦れの音も淫靡に僕に摺り寄り、股間を揉む。
「ふっ、あ……ひっ!?」
頭が破裂しそうだ。必死に身を捩り嫌々と首を振りシズルから逃れようとしても背後はベッドパイプで右側は壁で、左側は何もない虚空だけど得体の知れない暗闇が蟠り足元も見えない。
怖い。助けてビバリー、助けてママ!!
懇願むなしくシズルがのしかかる。後ろ手に手錠をかけられた僕はされるがままシズルに押し倒される、ベッドで背中が弾んで天井が遠ざかりシズルの顔が急速に近付き―
「仲間に入れてあげる」
熱い吐息が顔にかかる。
シズルの手が上着の裾からもぐりこみ、器用に乳首を捏ねる。
「いっ……たすけ、ママ、ビバリーっ……!」
「叫んでも無駄だよ。ここは地獄だから」
抓られ、捏ねられ、弄くられ。
乳首をしつこく愛撫されてたまらず声をあげれば、喉の奥で沸沸と笑いを泡立て、シズルが独白。
「そうさ。他の全てを捨てて帯刀貢を追いかけて、地獄の涯てまでやってきたんだ。今さら逃げ帰れるわけがない。逃げ帰る処もない。縋れないよう頼れないよう、一切合財を斬り捨ててきたんだから」
乱暴に扉が開け放たれ圧倒的な光が射し込む。
だが、それも一瞬のこと。再び扉が閉まり、狭苦しい房を暗闇が支配する。暗闇の中を足音が殺到。格子窓から射した光に入れ違いに照らされる顔……
柿沼を含めた看守が五人、舌なめずりせんばかりに僕とシズルを見比べる。
悲鳴をあげようとした。手で口を塞がれた。シズルじゃない、シズルと交替に僕にのしかかった看守の手で……それから。宙を蹴り上げた僕のズボンを下着と一緒に脱がして下半身を裸にして、それから。
それから。
「口封じだよ」
地獄を見た。
[newpage]
「いいもん見せてやるよ」
「はあ?」
食堂からの帰り道、レイジが突然言った。俺はまじまじとレイジを見つめた。俺より頭二つぶん高い場所にあるレイジの顔はにやにやと笑ってる。愉快な企みを内に秘めた性悪な笑顔。気色悪ィ。今度はなに企んでるんだコイツと警戒しつつ逃げ腰で距離をとれば、レイジが胸に手をあて大仰に嘆息する。
「露骨に疑い深い目つきすんなよ、傷つくじゃねえか」
「お前が思わせぶりなこと言い出すとろくなことねーってこれまでの経験でわかってんだよ」
「いいから行こうぜ、すぐそこだから。ここんとこ災難続きで参ってるお前を元気づけてやる」
「災難続きはどっちだよ」
あきれ顔で呟き、レイジの胸で存在を主張する十字架を一瞥。レイジの胸で眩しく輝く黄金の十字架には無数の傷が穿たれている。神の栄光と悲惨とが烙印された十字架は惨たらしい傷を残したままにそれ自体燦然と光を放っている。あの傷は、犬に付けられたものだ。服ならいくらでも替えがあるか、レイジの十字架はこの世に一個っきりしかないマリアとの絆の象徴だ。
俺が負った傷より自分が負った傷のがずっとずっと深いくせに、レイジは気負わず笑ってる。
犬に襲われたことはレイジに話してない。そのうち王様の耳にも届くだろうが、なら尚更俺の口から話すことじゃない。そんなことバラせばレイジは激怒して所長んとこ殴り込んでまた話がややこしくなる。服がズタズタになった原因については「乱闘に巻き込まれた」と最もらしい嘘でっちあげた。野次馬が乱闘に巻き込まれて当事者より重傷負うのは東京プリズンじゃよくあることだ。レイジは釈然としない顔つきで傷だらけの俺を観察していたが、納得したのか否か、「ふうん」と頷くにとどめた。何か言いたそうな顔つきだったが、敢えて無視。これ以上面倒はごめんだと知らぬ存ぜぬを通した。
「キーストアも誘うか。あいつまたサムライと痴話喧嘩してしょげてるみてーだし」
物思いにふける俺をよそにレイジは勝手に話を進める。強引というか何というか、人の話を聞かない王様だ。レイジが「おーいキーストア!」とばかでかい声を張り上げて人ごみに埋もれた鍵屋崎を呼ぶ。食堂からの帰り道、サムライと別れて一人しょぼくれて房へと向かっていた鍵屋崎が振り向く。
虚ろな表情の鍵屋崎に小走りに駆け寄り、レイジが肩を竦める。
「どうしたんだよ、一人でふらふらふらついて。用心棒のサムライはどこ行ったんだ?」
「契約は解約した。彼はもう僕の用心棒ではない」
とりつくしまもない返答にレイジと顔を見合わせる。鍵屋崎は頑固だ。絶対自分の非を認めない。この分じゃサムライとの喧嘩もまだまだ長引きそうだとため息をつく。
「彼の行き先には感知しない。どこへなりとも行けばいい。彼の行動範囲になど興味もない、僕の生活を煩わさないでいてくれるならいい。用はそれだけか?これから図書室に本を返しを行くんだ、進路妨害するならこちらにも考えがある」
見るからに難解そうな本を小脇に抱えた鍵屋崎が、苛立ちを抑圧した無表情で冷ややかにレイジを睨む。ぴりぴり殺気立った鍵屋崎に気圧された俺とは対照的に、レイジは生来の無神経が成せる技かなれなれしく鍵屋崎の肩を抱く。
「お勉強熱心で感心だねキーストアは。でもたまには息抜きが必要だぜ。コンクリートの塀の中に一日じゅう閉じ込められてたら精神的に参っちまう、気分転換に外の空気吸いに行こうぜ」
「どこへ連れていく気だ?」
レイジに肩を抱かれた鍵屋崎が迷惑そうに顔を顰める。
レイジは意味ありげな笑みを浮かべて目的地を明かす。
「天国にいちばん近い場所」
「展望台かよ」
拍子抜けだ。
たしかに東京プリズンじゃいちばん見晴らし良い場所だが、天国にいちばん近い場所って大袈裟すぎだろ。
もったいぶって言うから何処かと勘繰ったのに、レイジが鼻歌まじりに俺たち先導したのはひょいと窓枠乗り越えたところにある殺風景な展望台だった。 周囲には闇の帳が落ちて肌寒い夜気がたゆたっている。
こんなところに何の用だよとレイジを睨むが、本人は口笛でも吹きかねないご機嫌な様子で展望台を見まわしている。レイジに無理矢理連れてこられた鍵屋崎は対照的に不機嫌の絶頂で、「何てことだ、こんな暗闇では本も読めないじゃないか」と愚痴ってる。本のページを広げて目を凝らす鍵屋崎をよそにポケットに手を突っ込んだレイジがぶらぶら歩き出す。俺も慌てて後を追う。
「おいレイジいったい何のつもりだよ。いいもの見せてやるって、こんなとこに何あんだよ」
「まあ見てろって」
レイジは思わせぶりなセリフで煙に巻くだけで説明もしてくれない。レイジの態度に不満を感じて押し黙った俺は、仕方なくきょろきょろと展望台を見まわす。不気味な静けさと濃厚な闇とが立ち込めたコンクリートの堤防、俗に「展望台」と言われるここは砂漠に沈みゆく夕日が見られる有名なスポットで、黄昏時ともなれば燃えおちる夕日を眺めて感傷に浸りたい向きのロマンチックな囚人どもが大勢押しかける。だが、今は夜。黄昏時には物好きな囚人で賑わった展望台も閑散として俺たち以外に人影はない……
いや。
「ん?」
展望台の中央に誰かが蹲ってる。暗闇に目を凝らす。そいつは俺たちに背を向けて忙しく両手を動かし作業に没頭していた。その後ろ姿からは手と頭と心が三位一体となり活動する精力有り余った熱気が放たれていた。不用意に近付いたら火傷しそうだ。ごくりと生唾呑んで立ち竦んだ俺をその場に残し、レイジがそいつに声をかける。
「はかどってるか、道化」
ゴーグルをかけた顔が振り向く。
「ああ。あと十分で完璧に準備が整うとこや」
ゴーグルを額に引き上げてやんちゃに笑ったのは西の道化、ヨンイル。風邪をこじらせて二週間入院してたが、今じゃすっかり体が回復し、特徴的な八重歯が覗く笑顔でレイジを迎える。
「準備って……まさかまた、爆弾の?」
ヨンイルに小走りに駆け寄り、おっかなびっくり問う。ヨンイルは爆弾作りのプロだ。ペア戦でも時限爆弾を仕掛けて地下停留場を混乱に陥れた前科がある。まさかペア戦のリベンジでまた爆弾を破裂させる気なのかと疑惑の眼差しを注げば、西の道化が「ちゃうちゃう」と手を振る。
「言うなれば、そやな……『送り花火』や」
ヨンイルの謎めいた台詞に困惑、答えを求めるようにレイジを仰ぐが、レイジは口元に薄く微笑を湛えるだけで一切説明してくれない。不親切な相棒。何でもお見通しの癖にわざとタネを明かさず、困惑する俺を眺めて楽しんでる性悪レイジに嫌気がさし、和気藹々と談笑する道化と王様から離れて展望台の突端に座る。展望台の突端から足をたらして果てなく続く夜空の向こう、地平線の彼方に沈んだ廃墟のビル群を見つめる。
「まったく、迷惑な男だ。僕は静かに本を読みたいのに屋外に強制連行して……風邪をひいて肺炎を併発したらどうしてくれる」
ぶつくさ不満を漏らしつつ鍵屋崎が隣に腰掛ける。
「なら帰れよ」
「………」
「サムライがいる房にゃ帰りたくないってか」
意地っ張りめと失笑する。鍵屋崎はこの上ない不機嫌な顔で膝に広げた本のページをめくるが、どんなに目を凝らしても暗闇では字が読めず、諦めて顔を上げる。ちらりと振りかえればヨンイルはまだ作業していた。展望台の中央に小型の大砲みたいな奇妙な物体を設置して、真剣に角度を調整している。ヨンイルの奇行を傍らで眺めながらレイジは「これ、どっから調達したんだよ」と質問、大砲から手を放せないヨンイルが「西棟のガキどもに造らせたんや。レッドワークから鉄屑拾うてきてイチから組み立てて、試行錯誤の末に何とか形にすることできた」と得意げにうそぶく。
「君の服は、サイズが合ってないな」
おもむろに指摘され、俺の顔はますます渋くなる。鍵屋崎に言われなくてもわかってる。昼間犬に引き裂かれてボロボロになって服は捨てるしかなくて、俺が今着てる服はレイジの借り物で、生地が余り過ぎだ。 「しょうがねえだろ、これしかなかったんだから。お前だってサイズ違うじゃねえか」
びろんと膝まで覆う上着の裾を居心地悪く引っ張りながら反論すれば、鍵屋崎がムッとする。鍵屋崎が今着てる服もレイジからの借り物で、俺ほどじゃないにしろサイズはあきらかにでかい。鍵屋崎の服も犬に引き裂かれて薄汚いボロ屑と化して、最終的に廃棄するしかなかったのだ。
帰りのバスじゃ俺たち二人して注目の的でいたたまれない思いを味わった。
「ったく、今日は酷い目にあったぜ。タジマの兄貴だけあって完璧イカレてるなあの所長、獣姦ショウなんて普通思いつかねーだろ、思いついても実行しねーだろ。間一髪犬にカマ掘られなくて済んだけどお前が助けに入るの遅れてたら……」
「僕とて同様だ。安田が助けに入らなければ確実に犬に犯されていた」
「副所長に感謝しなきゃな」
小さく呟き、探るように鍵屋崎の横顔を見る。冷ややかに取り澄ました無表情。銀縁メガネがよく似合う理知的な面立ちは安田と共通してる。あの時、鍵屋崎の一大事に我を忘れて駆け付けた安田の必死な形相を思い出す。エリートの威厳も矜持もかなぐり捨て、鍵屋崎を庇って狂犬と取っ組み合い背広をズタズタに引き裂かれた安田の泥まみれの顔……
「鍵屋崎。お前と安田って、ホントにただの囚人と副所長なのか」
「どういう意味だ?」
鍵屋崎がうろんげに目を細める。ぶらぶらと虚空を蹴り時間を稼ぎ考えを纏める。身の危険もかえりみずに鍵屋崎を助けに駆け付けた安田、怒り狂った犬と上下逆転して取っ組み合いながら「すぐる!」と叫んだ必死な顔。すぐる?だれだそれ。鍵屋崎の下の名前は「なお」だ。すぐるなんて知らない。だが安田は確かにそう呼んだ、犬に襲われた衝撃冷め遣らずへたりこんだ鍵屋崎に向かい「すぐる!」と叫んだのだ。
鍵屋崎は、何かを隠している。
鍵屋崎と安田の関係についても鍵屋崎が東京プリズンに来た事情についてもわからないことだらけだ。
「昼間犬に襲われた時、お前助けに血相替えてとんできた安田見て思ったんだよ。絶対おかしいって、普通の囚人と副所長の関係じゃねえって」
「僕と安田に肉体関係があると疑ってるのか?次元が低い発想だ」
鍵屋崎が憎たらしく嘲笑する。カッとして、思わず身を乗り出す。
「たしかに安田はデキた人間だよ、優秀なエリートだよ!でもな、そんなエリート様がたかが囚人のために身の危険もかえりみず狂犬と格闘するなんて俺にはどうしても思えねえ。お前だってわかってんだろ鍵屋崎、東京プリズンの看守にとっちゃ囚人なんてストレス発散の道具に過ぎないって。けど、安田は違う。安田はお前のこと本気で心配してる、心底大事に思ってる。なんでだ?なんで囚人一匹の為にそこまでするんだよ、おかしいじゃねえか。お前と安田って一体」
「僕が知りたい」
ため息まじりの返答に毒気をぬかれる。とぼけてんのかと一瞬疑ったが、鍵屋崎の横顔は苦悩に閉ざされて、眼鏡越しの双眸には自己と葛藤する複雑な感情が渦巻いていた。鍵屋崎がおもむろに眼鏡を外し、レンズを下方に翳して闇を透かす。
「この眼鏡は安田が修理した」
眼鏡を手にしたまま振り返り、レイジと話してるヨンイルを鋭く一瞥。鍵屋崎の視線に気付いたヨンイルが片手に挙げるのを無視、再び眼鏡に向き直り述懐を続ける。
「ペア戦でヨンイルに蹴られて亀裂が入った眼鏡を直させてくれないかと安田が申し出たんだ。三日後、眼鏡は無事返ってきた。その頃安田は上の人間に呼び出されて視察にくる暇もなかったが、修理が済んだ眼鏡を看守に預けて僕へと返して……」
「……めちゃくちゃ親切だな」
間の抜けた相槌をうつ。鍵屋崎が黙り込む。安田の特別扱いに対して一抹の疑問と落ち着かなさを感じてるらしく、その顔は浮かない。
レンズが取り替えられた眼鏡を透かし見て結論する。
「君の言う通りだ。安田が僕に接する態度はおかしいと認めざる得ない。以前から安田とは接触の機会が多かったが考えてみればこれもおかしい、いくら副所長が職務に忠実で責任感が強いからといって視察で赴いたイエローワークでああも頻繁に僕と会うはずがない。あれは故意だ。安田は僕に会いにイエローワークの砂漠に来てるんだ。僕の様子が心配で、わざわざ顔を見に来てるとしか思えない」
「まさか。考えすぎじゃねーか」
天才ならではの想像の飛躍に笑うしかない。そりゃ確かに安田は鍵屋崎のピンチに「たまたま」居合せる機会が多くて、鍵屋崎は何度も安田に危機を助けられてるがだからって……そう否定しようとしたが、否定するだけの根拠がないことに気付いて愕然とする。
「わからない。理解不能だ。何故安田はあんなにも僕に関わってくる?明らかに職務越権だ」
鍵屋崎の横顔に苦渋の色が浮かぶ。俺はなにも言えない。鍵屋崎と安田の関係について何も知らない俺には何も言う権利がない。苦悩の色を濃くした鍵屋崎が力なくかぶりを振り、眼鏡を再びかけ直す。
虚空の闇に目を馳せた鍵屋崎が、自己の内面に潜りつつ、言う。
「ひょっとしたら安田は、僕の知らない僕を知っているんじゃないか」
謎かけのように不可思議な台詞がいつまでも耳に残る。俺は鍵屋崎が心配になった。鍵屋崎にはなんでもかんでも一人で抱えこんではそれを全部解決できず自己嫌悪に縛られる悪い癖がある。なまじ頭がいいぶんわからないことをわからないまま放置できずとことんまで思い詰めてたった一つの真実を追い求めて、真理の光が射さない思索の袋小路に迷い込んじまうのだ。
こんな時サムライがいれば。
鍵屋崎の隣、物寂しく夜風が吹きぬける空間を一瞥して舌打ちしたくなる。もし今サムライが隣にいえば、鍵屋崎の苦悩を癒すことはできなくても、鍵屋崎を疑問を解決に導くことはできなくても、鍵屋崎の気持ちを軽くしてやることぐらいできたろうに。自覚はないだろうが、サムライと口喧嘩してるときの鍵屋崎がいちばん生き生きして楽しそうなのだ。いや、口喧嘩という表現は正しくない。鍵屋崎がいつも一方的に小難しい理屈を並べ立てて論破に挑んで、サムライは「うむ」とか「ふむ」とか爺むさい合いの手入れながらそれを聞き流してるだけだ。
なんでここにいないんだよ、サムライ。
俺じゃ鍵屋崎の相談役務まらねえよ。
「今度はなんでサムライと喧嘩したんだよ」
聞いていいものかどうかさんざん迷ったが、妙な遠慮は俺に似合わないと開き直り、ずばり核心を突いた。鍵屋崎が一瞬うろたえて、すぐに平静を装いブリッジに指をやる。動揺をごまかすしぐさでブリッジに触れた鍵屋崎はそのまましばらく視線をさまよわせて逡巡していたが、ヤケになったように吐き捨てる。
「原因は強姦未遂だ」
「!ごーかっ、」
顎が外れそうになった。どうフォローしていいものやら頭が混乱して、酸欠の金魚みたくパクパク口を開閉するしかなかった。強姦?サムライが鍵屋崎を!?あの堅物がケダモノ化して鍵屋崎の寝込みを襲ったってのか、鍵屋崎に強姦を働こうとしたのか?
「そりゃあ怒って当然だよ、サムライのヤツ色事にはてんで興味ねえってスカしたツラしやがってとんだむっつりスケベじゃねえか!レイジが俺の寝込み襲うのは悪い冗談みてーだけどサムライは洒落になんねーだろ!ああでもサムライが自慰してるとこなんて想像できねえし売春班利用したって噂も聞かねえしそうなるとやっぱ限界ギリギリまで溜めこんでたのか、無駄に性欲持て余してたってことになるのか!?それでムラムラきて手近なお前を襲っちまったと」
「勘違いするな、被害者はサムライだ。強姦未遂を働いたのはこの僕だ」
「!!おまっ、」
二重の衝撃に目が眩む。鍵屋崎が、サムライを襲った?んなまさかと耳を疑ったが冗談言ってる様子はないし前言撤回する気配はないしマジ、マジなのか?鍵屋崎の衝撃的告白に腰を抜かした俺は、ことの真偽を確かめようと意気込んで身を乗り出して……
「!危ないっ」
ぐらりと体が揺れて夜空が遠ざかった。
均衡を崩して体が前傾、展望台の向こう側へと転落しかけた俺の腕を掴んで鍵屋崎が引き戻す。あ、あぶねえ。小便ちびりそうだった。一歩間違えた地面にまっさかさまで転落死してた。間一髪命拾いした俺は、鍵屋崎に礼を言うのも忘れて胸ぐらに掴みかかる。
「強姦未遂って、お前、そんなに欲求不満だったのかよ!?」
「誤解しないでくれたまえ、僕はサムライの寝姿に欲情したわけじゃない。性欲が昂じたあまりに睡眠中で抵抗できないサムライに襲いかかったわけじゃない。そもそも人間が性欲を感じる原理は脳と深く関係していて、人の生存に関わる食欲と性欲は約1400Gの脳の中心にある5Gの視床下部から生じるもので…」
「ごたくはいい、俺が聞きてえのはお前がサムライの寝込み襲った理由だ!」
どうかしちまったのか鍵屋崎は。売春班の傷もまだ癒えてねえってのにサムライ誘惑するような真似して、んなことすりゃお互い傷深めるに決まってるじゃないか。お互い傷抉るに決まってるじゃんか。俺は自暴自棄ともいえる鍵屋崎の振るまいに純粋に怒っていた。鍵屋崎とサムライが喧嘩しようが突き詰めれば二人の問題で知ったこっちゃないと前述したがそれはそれこれはこれ、鍵屋崎が自分を粗末にして投げ出すようにサムライに身を任せたんだとすれば絶対許せねえ。
売春班であれだけ辛い目に遭ったのにまだ自分を傷付けるのか、気が済まないのかと自虐に対する怒りに震えながら胸ぐら掴む手に力をこめれば、鍵屋崎が目を伏せる。
「サムライの、いや、帯刀貢の本性が知りたかったんだ」
「わけわかんねーこと言ってごまかすな!」
「サムライが僕を抱いても関係性が変わらなければ、彼とずっと友人でいられると思ったんだ!!」
は、あ?
思わぬ返しが気勢を削ぐ。手の指が緩み、すっぽり上着が抜ける。皺くちゃの胸ぐらを手の平で撫で付け俺とは目を合わせず鍵屋崎が付け足す。
「本末転倒かつ支離滅裂なことを言ってる自覚はある。ただあの時は本気でそう思い込んでいた。あの夜の僕は直前に見た悪夢のせいで冷静さを欠いていた、錯乱状態にあった。僕は帯刀貢の本性が知りたかったんだ、静流の言ったことが真実か否か確かめたかったんだ。サムライが僕を抱いて、それでも僕らの関係性が変化しなければ僕らはずっとこのまま友人でいられると思い詰めていたんだ」
「つまりお前は、ずーっとサムライとダチでいたくて、サムライに抱かれようとしたってのか?」
「……笑いたければ笑え。サムライに抱かれたところで体は減らない。僕はすでに汚れた身だ、男に抱かれることにも抵抗はない。サムライと性交渉を持って、それでも彼との関係性が変わらなければ、僕は帯刀貢の過去にも敢えて目を瞑り知らないふりをしようと決めたんだ」
議論を打ちきり鍵屋崎がそっぽを向く。眼鏡の奥の目に悲痛な光が宿る。痛々しく傷付いた子供みたいに無防備な横顔に胸がざわつく。まったく、不器用な天才だ。極端から極端に走りがちな鍵屋崎にあきれる一方で苦労が報われないサムライに同情する。
「お前さあ、もうちょっとサムライ信用してやれよ。可哀想だぜ」
「………」
「サムライがお前抱くはずないじゃん。あんなに大事にしてるのに」
「随分余裕じゃないか。レイジに抱かれて勝ったつもりか」
「勝ち負けの問題じゃねーだろ。どうしたんだよ、ガキみたいなやっかみお前らしくもねえ」
レンズ奥の目に激情が炸裂、鍵屋崎が何かを言いかけたのを遮り足音が近付いてくる。不意に肩に体重がかかる。背後にやってきたレイジが俺と鍵屋崎の肩をなれなれしく抱いて人懐こい豹みたいに頬擦りよせてきたのだ。
「喧嘩すんなら俺も混ぜろよ、イケズ」
「イケズって死語だろ死語。お前はあっち行ってヨンイルと遊んでろ」
「つれなくすんなよ、お互いからだの隅々まで知り尽くした仲じゃんか」
俺と鍵屋崎の間にちゃっかり割って入って突端から足を投げ出す。鍵屋崎は渋面を作り、肩にかかった手をどかそうと体を揺するが払っても払ってもきりがないのでやがて諦めたようだ。
「落ち込んでんなら相談に乗ってやるよ」
「最前君の相棒に相談に乗ってもらったが、壁と議論するほうがまだしも暇潰しになった」
だがレイジは聞いちゃいない。鍵屋崎につれなくされてもへこたれずに口説き上手な色男の本領発揮、鍵屋崎に摺り寄るように体を移動させ耳朶に吐息を吹きかける。
「慰めてやろうか?」
野郎、すーぐこれだ。鍵屋崎の肩に摺り寄り、陰のある笑みをちらつかせて誘惑するレイジに反発。無造作に手を伸ばしてニヤけた頬っぺを思いきりつねりあげれば、レイジが比喩でも何でもなく跳び上がる。
「いででででっででででっ、冗談、冗談だってロン!マジで怒るなよ痛い痛っ、顔はやめて商売道具だから、やるならボディーにして!?」
「わかった。ボディーな」
心優しい俺はパッと手を放して今度は脇腹の肉をつまみ、前よりさらに力を込めてぎゅっとつねりあげる。レイジが声にならない声あげて悶絶、ひっくり返って後頭部を強打せんばかりに大きく仰け反る。
「か、可愛いなあロンは!目の前で浮気されて怒ったんだろ、キーストアにちょっかいかけたからヤキモチ焼いたんだろ!?なら素直にそう言えよ、素直になって俺の胸に飛び込んでこいよ全身八十箇所にキスマーク付けて記録更新してやるからっ」
「キスマークなんかギネス申請すんじゃねえ、お前があちこち食い散らかしてくれたおかげでこちとら大恥かいたじゃねえか!犬に服破かれただけでさんざんなのにキスマークまでバレて顔から火がでるほど恥ずかしかったんだぜ、しかもあれから帰りのバスでボロボロの服のまま乗って、まわりの囚人にゃあ大声でキスマーク数えられて……ああああっ、思い出したら死ぬほどむかついてきた!」
帰りのバスの中じゃ大恥かいた。スケベな囚人どもが俺のまわりに寄ってたかって体の裏表至るところのキスマークを数え上げて、吊り革掴まって下向いてる間も顔真っ赤だった。これも全部レイジのせいだと怒りが沸騰、一発殴ったくれえじゃ足りねえとこぶしを振り上げ―
「できた」
ヨンイルの歓声が夜空に響く。
「!」
揃って振り向いた俺たちは、空へと向いた大砲を満足げに見下ろすヨンイルの手に、黒い玉が握られてるのを発見。レイジをぶん殴ろうとした姿勢のまま固まった俺は、まじまじとその謎の物体を見つめる。大砲の、玉?あれを大砲に詰めて夜空に向かってぶっ放すつもりだ?そんなことして何に……
「喜べヨンイル。タイミングよくゲストのご到着だ」
レイジがやんわりと胸ぐら掴んだ俺の手を外し、暗闇に包まれた中庭を見下ろす。レイジの視線を追って中庭を見下ろしたが、何もない、誰もいない。コンクリート敷きの中庭には無骨な塔が聳えて、夜間絶やされることないサーチライトの光が機械的に首振りつつ、煌煌と夜空を照らす―……
いた。
静寂と闇が支配する中庭を人影が歩いてくる。最初に聞こえてきたのは、コンクリートを叩く規則的な靴音。静寂の水面をかすかにかき乱してやってきた人物の顔は、暗闇に閉ざされて目鼻立ちも定かではない。 監視塔のサーチライトが緩慢に動き、白い帯がたなびき、闇を切り裂くように鮮烈に一条の光が射し込む。サーチライトから放たれた冷光の延長線上に立っていたのは、くたびれた中年男。
闇を駆逐する光の眩さにわずかに顔を顰め、手庇を作って展望台を仰ぎ見ている。
俺は、息を飲む。サーチライトに暴かれた中年男の顔に見覚えがあったから。鍵屋崎も驚く。その男が、本来東京プリズンにいるはずのない人物だから。とっくに東京プリズンを去ったはずと思い込んでいた人物だから。レイジだけがいつも通り余裕の表情で、中庭に立ち竦む男に歓迎の意を表して手を振る。
「ようこそ。俺らの愛すべき看守の五十嵐さん」
「レイジ、こいつあ何の真似だ?同僚からの言伝で来てみりゃあ……」
不審顔の五十嵐に感じ良く微笑みかけ、唄うように言う。
「知ってるんだぜ。あんた、明日には東京プリズン発つんだろ。ジープに乗って出てくんだろ、有刺鉄線の向こう側へ。羨ましいぜ、正直。俺はたぶん、ずっと一生死ぬまでここ出れねえから」
「レイジ……」
痛みを堪えるような顔で五十嵐に名を呼ばれ、一抹の寂しさを漂わせてレイジが苦笑する。
「違う、そうじゃないんだ。別にあんたを責めてるんじゃないんだ。他の連中のようにあんたに裏切られたとも思わねーよ。あんたの親切が嘘だったとも思わない。覚えてるか五十嵐?あんた、前にロンに麻雀牌くれたことあったよな。あの時ホント喜んでたんだぜ、ロン。俺も嬉しかった。ロンが俺以外の誰かに優しくされることってあんまりないから、お前がホントの親父みたいにロンに接してくれてちょっと嬉しかったんだよ」
「ま、ヤキモチ焼いたのも事実だけどさ」と冗談めかして付け加えてレイジが笑い声をあげる。泣き笑いに似て表情が崩れた五十嵐の悲哀に胸が締め付けられる。五十嵐は明日、東京プリズンを発つ。東京プリズンから永遠にいなくなっちまう。俺はまだ五十嵐に牌を手渡された時のぬくもりを覚えているのに、五十嵐に頭なでられた時の照れ臭い気持ちを覚えているのに、明日になりゃ本当にいなくなっちまうんだ。
そっと尻ポケットに手をやり、すべすべした牌の感触を確かめる。
五十嵐の顔がまともに見られず俯いた俺の肩を励ますように抱き、レイジが顔を上げる。
「ロンの……いや、囚人どもの親父代わりがいなくなるのは残念だけど、あんたが納得した上での決断なら俺が口出すことじゃない。あんたを今日ここに呼び出したのは責める為じゃない、東京プリズンを去る前にどうしても見せたいものがあるからだ」
サーチライトから延びた光が闇を切り裂きレイジの横顔を暴く。胸の十字架がサーチライトの光を反射、微塵に砕いた黄金の粒子を纏ったように神聖に輝く。展望台の上と下とで対峙する王様と平看守の間に緊張の糸が張り詰める。俺と鍵屋崎は言葉もなく高低差を隔てて対峙する二人を見比べていた。
おもむろにレイジが立ち上がる。
展望台の突端に立ったレイジが後ろを振り向き、ヨンイルを見る。不恰好な大砲の隣に片膝ついたヨンイルが緊張の面持ちで頷き、懐から矩形の箱をとりだす。古めかしいマッチ箱。箱から一本取り出してあざやかな手つきでマッチを擦れば、闇を一点食い破り、橙色の炎がともる。
マッチの炎に赤々と照らされるヨンイルの顔には、俺がこれまで見たこともない真剣な表情が浮かんでいる。額にかけたゴーグルにマッチの炎が映りこみ、真紅に染まる。
赤々と炎に照り映えるゴーグルの下、同じく炎を宿した目に切実な懇願を浮かべ、大砲の尻からとぐろを巻いて延びた導火線に揺らめく炎を近づける……
「花火師としての初仕事。神様手塚様じっちゃん、あんたらんとこまで届くどでかい花火を打ち上げたるさかい、剋目せい」
導火線に火が移る。赤い光点は瞬く間に導火線を焦がして大砲の尻へと収束し、そして……
夜空に向かい高々と片腕を突き上げ、絶好調でレイジが飛び跳ねる。
『Let's begin a party, Guys appear!!』
地鳴りめいた轟音が展望台を揺るがしたのは、その瞬間だった。
[newpage]
サムライは黙々と廊下を歩く。
彼を追い立てるのは焦燥と自己嫌悪。普段から景気の悪い仏頂面をさらに渋くして大股に歩く姿には近寄りがたく剣呑な殺気が漂っている。
行くあてはない。
房にまっすぐ帰るのも気が進まない。
房に帰れば直と顔を合わせてしまう。
薄暗い房で顔突き合わせ直と二人きりで何を話せばいいかわからない沈黙を思えば気分は塞ぎ、房から足が遠のく一方。
こうして特にあてもなく通路を彷徨しているのは直と顔を合わすのを避ける為だと自分でもわかっている。わかっているが、どうしようもない。
サムライは苦悩していた。
脳裏にちらつくのは一昨日の夜の直。
深刻に思い詰めた表情は自虐の翳りに閉ざされて、囚人服が痛々しいほどに華奢な体はかすかに震えていた。
抱きしめるのを躊躇うほどに華奢な体。
指で触れれば砕けそうなほどに脆く張り詰めた横顔。
『サムライ、僕と性行為に及べ』
感情が欠落した命令調に耳を疑った。一瞬で眠気は払拭された。
あれは悪い夢だったのではないかとくりかえし自問する度に、否、あれは現実だと心の奥底から声がする。
昨夜の直は様子がおかしかった。明らかに異常だった。
再三におよぶ説得にも耳を貸さず積極的に迫ってきた、スプリングを軋ませ隣に腰掛け淫靡な手つきで彼の太股を撫でた。直の手の平が触れた場所がぞくりと鳥肌立った。悪寒、寒気、それ以外のもの……ふわりと熱を孕み毛穴が開くような、未知なる官能の感覚。体毛が帯電したかのような戦慄。
あれは一体何だったのだ。ただ、触れられただけだ。それなのに。
「…………」
眉間に皺を寄せ物思いに耽る。
憂いに閉ざされた横顔にはひんやりと人を拒む冷気が漂っている。
一昨日の記憶を振り払うように歩調を速めるが、そんな彼を責めるように切羽詰った声が追いかけてくる。
『寝ぼけてなどいない。意識は覚醒している』
断言。
『どうした。僕と性行為に及ぶ度胸もないのか』
挑発。
『こんな貧相な体は抱きたくないか。痩せた腹も薄い胸も細い首も不健康に生白い肌も』
自嘲。
あんな直は知らない。あんな偽悪的で露悪的な直は知らない。毛布に手を潜らせ彼の太股をなでさすりしたたかに微笑んだ、彼が見慣れた潔癖な少年の顔ではなく淫らな娼婦の顔で耳朶に熱い吐息を吹きかけた。誘惑。
サムライは混乱した。
何故こんなことをするんだと直を憎んだ。
売春班では来る日も来る日も男に犯され体も心も酷く傷付けられて死の一歩手前まで行ったではないか。なのに何故今また自分を粗末にする、自虐の衝動に任せて男に身を委ねようとする?
サムライは直に殴りかかりたい衝動を必死に堪えて誘惑に抗った、肩に凭れかかる直の体温に理性が蒸発するのを感じながら努めて平静に言った、今晩のお前は正気じゃないと、正気じゃないお前を抱くわけにはいかないと頑固に拒んだ。
そして直は、禁忌を犯した。
『苗の体と僕の体と、どちらがより君を酔わせるか実験してみたらどうだ』
直は笑いながらそう言った。苗と自分とどちらの体がよりいいか比較してみろと過去の傷を抉り煽ったのだ。
瞬間、サムライは我を忘れた。相手が直だというのに手加減を忘れて突き飛ばし押し倒していた。仰向けに倒れた直が悲鳴をもらしてもその目に恐怖の色が浮かんでも、一度飛散した理性をかき集めるには至らなかった。
表面温度と半比例し体の芯に憎悪が凝り冷えていくのがわかった。
床に仰向けに寝た直にのしかかり、その胸ぐらを掴み、鋭い眼光で射竦める。
これまで敵以外に向けたことのない猛禽の眼光。
『そんなに俺に抱かれたいか。飢えているのはどちらだ』
『さかるのは勝手だが、相手は選べ』
サムライは冷淡に直を拒絶して背を向けた。あれ以来直とは言葉を交わしていない。彼らの一日は沈黙で始まり沈黙で終わる。直もまたあれ以来サムライを避けて房で二人きりになるのを極力避けている。
食堂で隣り合った席に座っても食事に集中するふりでお互い目も見ず会話もせず倦怠を共有するのみだ。
いつまでこんな日々が続くのかと考えると気が滅入る。
失言は認める。多少言いすぎたと思わないではない。
しかし、直にも非がある。
「……あんなはしたない真似をして、けしからん」
粛々たる大股で歩きながら激しく唾棄するサムライは、いつのまにか自分が房を遠く離れた別の区画に来ていることにも気付かなかった。武士にあるまじき失態、一生の不覚。電池切れかけの蛍光灯が短い間隔で点滅する荒廃した区画に迷い込んだサムライは、いい加減引き返そうと踵を返し……
「散歩?貢くん」
「!」
振り返る。
電池の切れた蛍光灯が瞬きをくりかえす通路、一際濃く闇が蟠った一角に少年がいた。壁に背中を凭せて、謎めく笑みを浮かべてこちらを見つめている。流れる黒髪の下には物憂げに煙る双眸、スッと通った鼻筋と薄く整った口元に含羞の風情が漂う少年だ。容姿は全く違えど、どこかサムライと似通った印象を与えるのは両者に流れる血の宿業だろうか。
「静流」
驚き名を呼べば、少年が微笑む。
人の心を虜にする魅惑の微笑。
壁から背中を起こした静流がゆっくりとこちらに歩いてくる。サムライは微動だにせず静流の接近を待った。
逃げも隠れもせず堂々と通路の真ん中に立ち塞がるサムライの手前で静止、対峙。
「こんなところにいたのか。得物もなく出歩くのは物騒だ。いつ不埒な輩に襲われるともわからん、即刻房に帰れ」
「相変わらず心配性だな貢くんは。その性格変わってないね、昔から」
喉の奥で愉快そうに笑い声をたて静流が目を細める。
サムライもつられて目を細める。
眼前の笑顔が子供時代の面影に重なり、当時の記憶が鮮やかに甦る。 とうに葬り去ったはずの過去の情景が瞼の裏で像を結ぶ。
四季折々の花が爛漫と咲き誇る風情ある庭で、無邪気に戯れる子供達。
地を刷く振袖をたくし上げて桜の枝に手を伸ばすのは、幼き日の静流。
かつてあった平和な日々に思いを馳せ、束の間感傷に耽ったサムライを現実に呼び戻したのは静流の声。
「僕のことなら心配しないでも大丈夫。こう見えても帯刀分家の嫡男、自分を身を守る術くらい仕込まれてるよ。貢くんも覚えているでしょう、分家に生まれた者の宿命を。万一本家の跡取りが急逝した場合の保険として、僕は物心つく前から徹底して剣を習わされた。万一君に何かあった時は本家の跡取りが務まるようにって、帯刀の姓を名乗るに恥ずかしくない教育を施された」
「……ああ。そうだった」
「でも、結局は凡人どまり。僕も精一杯努力してみたけど、君にはかなわなかった。打ち合いの稽古でも一度として勝てなかった。容赦ないんだもの、貢くん」
「手加減は相手への無礼にあたる。そんな卑劣な真似できるものか」
「ふふ。堅苦しいところも相変わらずか。嬉しいよ、君が変わってなくて」
幸福そうに静流が笑う。
何故そんなふうに笑えるのか理解できない。
静流とは疎遠になって久しい。父と叔母が仲違いして分家との行き来が絶えてから既に何年も経つというのに、数年ぶりに再会した美しいいとこは、サムライに屈託なく声をかける。
サムライは戸惑うばかりだ。
「本当によかった。安心したよ、僕が思い描いた通りの君でいてくれて」
二度くりかえし、静流が意味ありげにサムライを見る。
漆黒に濡れた目でまっすぐ見据えられ落ち着かなくなる。
こうしてここで会えたのも縁だと割り切り、咳払いをする。
「静流。お前に聞きたいことがある」
「なに?」
静流が首を傾げる。サムライの双眸が鋭くなる。
凄味を帯びた双眸で静流を睨み、慎重に口を開く。
「直に苗のことを話したのは、お前だな」
静寂に支配された廊下にその声は予想以上に大きく響く。
低く威圧的な声音がコンクリ壁に反響し、殷殷と鼓膜に沁みる。
声の残響が大気に呑まれて消滅するまで、静流は一言も発さずただそこに佇んでいた。
緊迫。サムライの双眸がさらに鋭くなる。苛烈な白刃に似た切れ味の眼光……
「あたり。もうバレちゃったか。そのぶんだと彼、相当思い詰めてたみたいだね」
翻した手で口を覆い、しとやかに笑う静流を油断なく見据えたままサムライが一歩を詰める。
「苗のことを知っているのはお前しかいない。ならば直に吹き込んだのはお前しかおらん。静流、お前はやはり」
そこで言葉を切り、苦しげに顔を歪める。
「やはり、俺を憎んでいるのか?」
次第に二人の距離が縮まる。サムライの足が速まる。激情に駆られるがまま静流に歩み寄ったサムライはしかし、体の脇でこぶしを握り固め、抑制した声音で吐き捨てる。
「俺のせいで帯刀家は没落した。累はお前や薫、伯母上にまで及んだ。帯刀家はおしまいだ。お前が俺を憎むのは当然だ。お前は幼い頃から必死に剣の修行を積んだ、やがては伯母上の期待に応えて立派な後継ぎになる為に励んできた。しかし俺が撒いた醜聞により帯刀家は一族郎党を巻き添えに終焉を迎えた。分家の跡取りたるお前の無念はいかばかりか察するにあまりある。お前が俺を憎むのは当然だ、俺はそれだけのことをしたのだから……帯刀の恥さらしなのだから」
感情を抑制した無表情で、淡々と言う。
自責の念に苦しみ葛藤するサムライを静流はただ醒めた目で眺めていた。深々と項垂れたサムライはそれに気付かない。
体の脇でこぶしを結んだままおのれの罪と向き合いその重さを抱え込み、深呼吸してやっと顔を上げる。
「俺を許せないならそれでいい。しかし、直を傷付けるのはよせ。直は関係ない、あいつは!」
「真実を知られるのが怖いの?」
静流が、動く。衣擦れの音も涼やかにサムライに摺り寄り、その頬へと手を伸ばす。咄嗟のことで払いのける暇もなかった。
「本当に彼のことが大事なんだね。初めて見た時にわかったよ、ああ、彼が苗さんの代わりなんだって」
「違う」
サムライが反駁する。
直は苗の代わりなどではないと心が叫ぶが、口には出せない。そんなサムライに憫笑を捧げて静流が続ける。
「展望台で君に寄りそう彼を見てびっくりした。彼、苗さんにそっくりじゃないか。似てるのは顔じゃない、雰囲気さ。君にすべて任せて頼りきって、庇護に甘んじて依存に安らいで、全面的に信頼して。ほら、苗さんにそっくりじゃないか。苗さんも君のことを盲目的に信頼してたものね。ああ、これは悪い冗談だ。僕としたことが無神経だったね、謝るよ。気を悪くしないでね。苗さんは盲目的もなにも実際目が見えなかったんだから」
「やめろ」
「光のない世界に生きる苗さんにとって君だけが唯一心を許せる存在だった。苗さんは君のことを心底慕って幸福に結ばれる将来を夢見ていた。一途な女性だったね、苗さんは。苗さんは君のよき理解者であり君は苗さんのよき庇護者だった。そういうのなんて言うか知ってる?共依存って言うんだよ。お互いに縋って溺れて傷を舐め合う優しい関係のこと。ここだけの話、僕、貢くんに嫉妬してたんだよ。苗さんと仲睦まじく寄りそう姿を見て、なんて似合いの二人なんだろうって……」
「静流、やめろ」
静流はやめない。
サムライの傷を抉る行為に残酷な快楽を見出し、嬉々と続ける。
「君は今も昔も変わってない。よい意味でも悪い意味でも。真実から目を背ける君の卑劣さが苗さんを追い詰め首を吊らせたんだ。君がもっと早く真実に気付いていれば誰をも不幸にする結果にはならなかった。莞爾さんは君のことを心配していた。だから苗さんとの仲を引き裂こうとした、手遅れになる前に。でも、駄目だった。君は何も知らなかった。苗さんの苦悩も、莞爾さんの焦燥も、そして……」
「やめろ!!」
恐慌に駆りたてられたサムライが肩に掴みかかるのにも動じず、儚く微笑する。
薫の面影を宿した笑顔。
「僕と姉さんの恋情も」
壁が振動し、蛍光灯が揺れる。
蛍光灯に降り積もった埃がぱらぱら舞いちる。
白い綿埃が舞う中、静流に引かれるように通路の暗がりへと誘い込まれたサムライの唇が塞がれる。
柔らかく熱い何か……静流の唇。
「!ぐっ、」
壁に背中を押し付けたサムライにのしかかり強引に唇を奪う。
唇にねっとりと舌を這わせ、愛撫し、唇の隙間から舌を潜らせて歯を舐める。口腔に侵入した異物の不快感に顔を顰めたサムライは、反射的に直の唇の感触を思い出す。
図書室の鉄扉に押し付け直の唇を奪った夜の記憶が、熱く柔らかい感触に重なりまざまざと甦る。
あの夜、直の唇を奪ったのには理由がある。夢を、見たからだ。おそろしく不吉な夢。おそろしく生々しい夢。いつも見る悪夢にでてくるのは苗だった。しかし、あの夜は違った。夢に出てきたのは直だった。
そして。
『サムライ!』
直が、呼ぶ。
声を限りに助けを求める。しかし間に合わない。必死に走り手を伸ばしてもぎりぎりで間に合わず、直の体はゆっくりと、滑るように奈落へ落ちていく。彼のほうに手を伸ばしたまま、眼鏡越しの目に静かな諦念を宿して、絶望に凍り付いた顔で……
真紅の劫火が燃え盛る地獄へと堕ちていくのだ。
夢だと思いたかった。夢であってほしかった。目覚めた時は心の底から安堵した。房を出て人に会いに行くと言い出した直についていったのは、不吉な夢を見た直後だったからだ。直の唇を奪ったのは、直が今確かにここにいると己に言い聞かせて安心したかったからだ。
夢の中ではいつも苗だった。
疾駆が間に合わず劫火に呑まれるのは苗だった。
再び大事な人を失う予感に怯えて、気付けば眼前の直の唇を奪っていた。
ただそれだけのことなのだ。
「んっ、は……しず、る!いい加減にしろ!!」
華奢な細身に反して静流の力は強い。
引き剥がすだけで腕が疲れた。
漸く静流を引き剥がしたサムライは、手の甲で唇を拭い、肩を浅く上下させつつ言い放つ。
「俺に男色の趣味はない、接吻など言語道断……」
そこまで言いかけ、絶句。
静流がおもむろに服を脱ぎ出したからだ。
上着の裾に手をかけ艶めかしく身をくねらせ脱いでいく静流に驚愕する。
「静流、何の真似だ!?」
静流の手を掴み制止する。服を脱ぐ手を止めた静流が虚ろな目でこちらを仰ぐ。
説教を続けようとして、サムライは見た。
しどけなく裾が捲れた下腹部に乱れ咲く無数の痣。
指でおされた手形、口唇で吸われた痣……よくよく見ればかつて直の体にあったのと同じ淫らな烙印が全身至るところに散り咲いている。
「これ、は」
「強姦されたんだ。だれに、とは聞かないで。答えられないから」
人肌恋しくサムライの肩に顔を伏せ、静流が気弱に呟く。
「東京プリズンに来たばかりで囚人の名前と顔が一致しないんだ。相手は複数いた、抵抗できなかった。泣いて叫んで許しを乞うても無駄だった。助けを呼べば殴られた。耐えるしかなかった」
静流がサムライに抱きつく。
「君の大事な友達に嘘を教えた前の日だよ。嘘を教えて、彼には悪いことをしたと思ってる。あの日の僕はどうかしていた。自分がされたことを誰かに返したくて、とんでもなく残酷な気持ちで、犠牲者をさがしてあてもなく歩いてるさなかに偶然彼を見つけたんだ」
「もういい、静流。無理に話さずともいい」
サムライが苦しげに言い、ぎこちなく静流を抱擁する。
いい匂いがした。むかし薫がつけていた香水と同じ匂い……静流を抱きしめるのは初めてではない。幼い頃の静流は臆病で、蜘蛛の巣にひっかかったと言っては泣きじゃくり、姉にいじめられたと言っては彼に頼った。
なかなか泣き止まない静流をこうして抱きしめてやった日のことを思い出し、優しく背中を撫でてやる。
脳裏に直の顔が過ぎる。
直を抱いて寝た夜のことを思い出す。
首筋から匂い立つ清潔な石鹸の香り、直のぬくもり―……
あれは、直の匂いだ。静流の匂いとは違う。
直からはこんな甘い匂いはしない……
「……お前がここに来たわけは、今は聞かん。落ち着いてからでいい。最前俺にあんな振るまいをしたのも、辛い目に遭い錯乱していたからだ」
静流には聞きたいことが山ほどだった。何故東京プリズンにきたのか、どんな罪を犯したのか、叔母と薫は今どうしているのか……それら全てを一度に聞きたい欲求を押さえ込み、今は静流をなだめることだけに専念する。静流の肩を抱く手に力を込める。
幼い日、姉にいじめられたと泣くいとこにそうしたように。
性欲はない。あろうはずがない。疚しい気持ちなどもとよりありはしない。
ただただ傷付きうちひしがれた者を癒したい一心で、その体を抱きしめる。
「辛かったな、静流。だがもう大丈夫だ。俺がついている」
腕の中でかすかに震える静流の体温を感じ、目を閉じ、断言。
「下郎どもに手だしはさせん」
サムライの腕の中で顔を伏せ、肩を震わせ静流は泣いていた。
否。
笑っていた。
邪悪に、邪悪に。とんだ茶番もあったものだと、肩を震わせ声を殺し笑っていた。
肩の震えを嗚咽と勘違いしたサムライはますます強く静流を抱きしめる。
そうして静流を抱きながら、あの夜抱いた直は静流よりさらにかぼそく震えていたなと思い出した。
電池が切れた蛍光灯の下、コンクリ剥き出しの殺風景な通路に立ち尽くし、排他的に閉ざされた鉄扉を見つめる。
あれは、シズルの房。
最前僕が見たものは現実だろうか、目を開けたまま夢でも見てたんじゃないかという疑惑が脳の奥で膨らんで足元がぐらつく。
鉄扉の前で待ち伏せしていた看守に無防備に歩み寄るシズル。緩慢に縮まる距離、二人を結びつける親密な空気。シズルは親愛の笑顔を見せ看守に歩み寄り頬に触れた。シズルは看守の頬を両手で挟み優しく自分の方へと誘った。
看守の腕の中でシズルの体が妖しくくねり、蠢き、のたうつ。
口紅なんて塗ってないのに赤い唇とは対照的に、奔放に仰け反る首の白さ。華奢な腕を看守の背中に回しきつく抱きしめ、股間に柳腰を摺り寄せ、享楽の笑みをちらつかせる。
正常な人間が浮かべちゃいけない類の笑み。
前戯とはいえない荒荒しさと激しさでシズルの体を貪りながら、看守は意味不明なうわ言を呟く。
衣擦れにかき消えそうにかすかな声で、「す、すべすべだあ。女みてえだ」と呻き、鉄扉に押し付けたシズルにのしかかるように前傾姿勢をとる。長い舌がシズルの首筋に唾液の筋を付けて鎖骨の起伏をなぞる。
シズルは例のくすくす笑いを漏らしながら貪欲な愛撫を受けていた。
切れ長の双眸に悪戯っぽい光を宿し、唇を綻ばせ、淫蕩な妖婦さながらに自分に溺れゆく男を憐れんでいた。
無垢な少女めいて清純な美少年が自ら進んで男に身を委ねて快楽に溺れている。筋骨隆々とした逞しい腕に抱擁され全身を愛撫されシズルは笑みを絶やさず虚空を見ていた。
虚無に通じる空洞の瞳。
物憂げな影を作る睫毛の下、艶々と濡れ輝く漆黒の瞳。
後ろ手にノブを捻り、看守を伴い矩形の暗闇に呑まれたシズルの残影が目に焼き付いて離れない。大気中にはまだシズルの笑いの余韻と赤裸々な前戯が醸した放熱の残滓が漂って、僕はふらふらと鉄扉に吸い寄せられた。
シズルのことはよく知らない。東京プリズンに来たばかりの新入りで、サムライのイトコだってくらいしか情報は掴んでないが、あんな綺麗な顔して看守を体でたらしこんでるなんて……
それに、シズルと一緒にいた看守。
あれ、僕のお客さんじゃないか。ちょっと前まで僕をよく買いにきてた腐れ看守の柿沼さんだ。ふうん、シズルに乗り換えたってわけ?気に入らないね。涼しい顔して人の客横取りなんていい根性してるんじゃんとシズルに対する怒りと反感がむくむくもたげてきて、知らず知らずのうちに歩幅が大股になり、鉄扉が急接近。
そんなにシズルがいいわけ?僕だってテクには自信がある。六歳で男知ってから必死に経験積んで今じゃ一端の娼夫になったってのに、昨日今日きたばっかの素人に負けるかと対抗心に火がつき、それならこの目で確かめてやろうじゃんと決意。そうっと爪先立ち、息を殺して格子窓を覗きこむ。
等間隔に並んだ鉄格子の奥には不気味な闇が淀んでいた。
耳の奥に鼓動を感じながら暗闇に目を凝らし、シズルを捜す。いた。房の壁際のパイプベッドにシズルがいる。仰向けに寝転がったシズルの上に覆い被さり、性急な動作でシャツをはだけているのは……例の看守。柿沼。
「柿沼さんには感謝しているんだ。本当に」
柿沼の手に熱を煽られ、頬をうっすら上気させたシズルが謙虚に礼を述べる。柿沼の後頭部に手を回し、脂で固まった髪の感触を愛でるように指を絡める。
「僕が貢くんと同じ部署になれたのは柿沼さんが裏で手を回してくれたおかげ。本当に感謝してるよ。入所時の身体検査の担当が柿沼さんでよかった。東京プリズンに来ていちばん初めに出会った看守が柿沼さんじゃなければ、今頃どうなっていたことか……」
心細げに目を伏せ、絶妙の呼吸で言葉を切り、間をもたせる。
男心をくすぐる秀逸な演技。男をその気にさせることにかけちゃ天才的だと感心すると同時に、邪悪で狡猾な本性を目の当たりにした戦慄を禁じえない。気付けば指先が震えていた。
脳裏で警鐘が鳴り響く。シズルは危険だと本能が疼く。
嗅ぎ取ったのは同類の匂い。でも、シズルのが断然タチ悪い。
完璧に計算し尽くされた媚と演技で男を誑かして思い通りに動かす、天性の魔性の才能。
「お前の頼みならなんだってしてやるさ。あの時、お前と目が合った時に電流が走ったんだよ。お前の目に射ぬかれて微笑みに魅入られて色香に狂わされたんだ、俺は。なあシズル、お前は俺の物だ。お前の為なら所長だって殺してやる、安田だって殺してやる。だから」
「わかってる」
シズルが寛容に両手を広げ柿沼を迎え入れる。柿沼がシズルの上着を脱がそうと悪戦苦闘する。胸板までたくし上げられた上着が首につかえ、頭が抜けるのに少し時間がかかった。
「僕は逃げない。僕は柿沼さんの物」
唄うようにシズルが言う。囚人服の上着とシャツとズボンが無造作に床に投げ捨てられ、その上に重なるように紺のズボンが落ちる。トランクス一丁になった柿沼が一糸纏わぬ上半身をさらけだしたシズルに襲いかかる。
上着を奪われてあられもない姿にされたシズルは、羞恥と喜悦とが半ばする恍惚の表情で快楽に溺れていた。放埓な肢体が闇に踊る。赤裸な衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
『三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい』
清澄な歌声が暗闇に流れる。シズルの、声。その声に促されるように柿沼の動きが速まり、律動が激しくなる。華奢な膝を掴んで広げ、シズルのズボンを脱がして自分の分身を押し入れる。ぐちゃり、ぐちゃりと淫猥な水音が響く。
「っ、はあ……ふっ………あ、ああっあ」
仰向けにひっくり返った姿勢で手荒く揺すられながら、切なく喘ぐ。しっとり汗ばんだ前髪がざんばらに乱れて額にかかり、精を注がれる快感に濁り始めた目を隠す。柿沼の背中に爪を立て、容赦なく理性を追い立てる快楽の洪水に浮きつ沈みつしながら、シズルが目を閉じる。
「お前には特別に配慮してやった。他の囚人と暮らすのは嫌だと言えば、ひとりで使える房を与えてやった。俺と逢引するにはそっちのが都合がいいからって説得されて、上に無理言って融通してやったんだ」
恩着せがましく言いながらさらに奥深く突き入れ一方的に責め立てる。ぐちゃり、ぐちゃり。挿入に伴い響く水音が行為の卑猥さを引き立てる。
「あっ、あっ、あああああっあああっふああっ……あっ、すごい、柿沼さん……こんなの初めて…っ!」
シズルの顔に紛れもない歓喜の表情が浮かぶ。柿沼の分身を進んで迎え入れようと腰を振るたび、しっとり汗ばんだ額に濡れた前髪が散らばる。喘ぎ声が次第に甲高くなる。柿沼に抱き付いたシズルが口の端から一筋涎を垂らし前髪を散らし、理性をなげうち快楽に溺れきった恍惚の表情で、へし折れんばかりに背骨撓らせ絶叫。
シズルが、達した。同時に柿沼も射精した。肛門から溢れた白濁の残滓が下肢を伝い落ちるさまが僕の位置から辛うじて見てとれた。浅く肩を上下させ呼吸を整えつつ、柿沼の肩に凭れかかる。
薄ぼんやりと虚空をさまよう放心した目、怠惰に弛緩しきった表情、閉ざすのを忘れた唇……
「………っ、」
体に異変が起きる。勃起。シズルと柿沼の絡みを見て分身が勝手に興奮しちゃったらしい。だって、こんな……こんなの見せられたら、だれだってこうなっちゃう。
シズルの姿態に欲情したのが悔しくて、下唇を噛んで俯いた僕をよそに、衣擦れの音が再開。
「!」
息を呑み、格子窓の向こうに再び目を凝らす。暗闇に沈んだ房の片隅のベッドで柿沼が何かごそごそやってる。何?マットレスの下から柿沼が引っ張り出したのは……女性用の、着物。真紅の襦袢と、それに付随する白絹の帯。
「なに、あれ。なんでシズルのベッドにあんな、綺麗な着物が……」
胸騒ぎがする。ここから先は見ちゃいけない、第三者が踏み入っちゃいけない領域だと良識が退去勧告を発する。でも、足が竦んで動かない。動けない。怖い物見たさの好奇心には抗えない。鉄扉の前に立ち竦んだ僕の視線の先、暗闇に沈んだベッド上で柿沼が思いがけぬ行動をとる。
シズルに顎をしゃくり全裸で正座させ、剥き出しの肩にそっと着物をかける。炎で染め抜いたような真紅の襦袢で剥き出しの肩を覆い隠してから、緩く衿をかけ合わせる。薄地の着物が奏でるしゃらしゃらと雅やかな衣擦れの音。
全裸のシズルに襦袢を羽織らせ帯をとり、結わえる。
出来あがったのは、見目麗しい和装の少女。
遊女の科を作り、真紅の襦袢をしどけなく着崩して白い帯を結わえた少女。
慣れた様子で襦袢を羽織りたおやかな少女へと変身したシズルが、柿沼の膝に手をかけ、囁く。
「いつものようにして」
シズルの目が嗜虐的に細まる。柿沼がごくりと生唾を飲み再び動き出す。床に手を伸ばし、看守服を拾い上げ、胸ポケットから何かを取り出す。
黒い光沢の柄の筆と、口紅。柄が細い特殊な筆は、女性の唇をなぞり、口紅をはみ出ず塗るための化粧道具。
「目を閉じろ」
柿沼が低く命令する。気のせいか声が震えていた。
柿沼に促されるがまま、顎はやや上向き加減に、余裕の笑みさえ浮かべて瞼を閉じる。
口紅に筆をひたし、そろそろとシズルに近付く。上唇の先端に筆先が触れる。上唇のほぼ真ん中に置かれた筆が慎重に動きだす。
唇の膨らみに沿って筆が動き、丁寧に紅を刷く。
暗闇に沈んで色彩が区別できないにも関わらず、僕にはそれが、似合う人を選ぶ深紅だとわかった。
「よく似合うぞ、シズル。綺麗だ」
唇の膨らみをなぞりながら、熱に浮かされたように囁く。
「姉さんに似てるかな」
瞼を下ろしたシズルの顔に寂しげな影が過ぎる。が、それはすぐ微笑に呑まれて消え去り、気丈な様子で続ける。
「柿沼さんには本当に感謝しているんだ。東京プリズンに柿沼さんがいてくれてよかった。もし身体検査の段階で柿沼さんに当たらなきゃ、姉さんの形見の扇子は容赦なく取り上げられてた。僕は身を守る術を何ひとつ持たず地獄に乗り込まなきゃいけなかった」
沈痛に目を伏せる。長い睫毛が震える。
「姉さんの残り香がする扇子を取り上げられるなんて、僕には耐え切れないよ」
シズルにお姉さんいたんだ。でも、形見って?死んじゃったワケ?
当惑した僕をよそに、シズルが虚空に腕をさしのべ柿沼を招き寄せる。たっぷりとした袖が揺れ、炎が燃え広がるごとく柿沼の背中を包み込む。
紅のひと塗りで遊女に変貌した女装の少年が、しゃらしゃらと衣擦れの音も淫靡に、愛情に見せかけて男を抱擁する。
頭がくらくらした。僕が今見てる光景はとても現実の物と思えない。あまりに時代錯誤で浮世離れした光景……
もう辛抱できないと着物の衿をはだけて柿沼の手がすべりこみ、処女雪の白さの胸板が暴かれる。
仄赤い痣、指で圧された手形。密やかに積み重ねた行為の痕跡が大胆に暴かれて―……
その瞬間。
シズルと、目が合った。
柿沼の肩越しに僕の視線を絡めとり微笑を深める。いつから気付いてたんだろう、僕がここにいることに。
やばい。逃げなきゃ。このままここにいたらやばい。
全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。シズルが柿沼の耳元に顔を寄せ何かを囁く。多分、僕の存在を教えているのだ。妖艶な流し目でこっちを一瞥、柿沼の耳朶に吐息を吹きかけて促すシズル。唐突に柿沼が振り向き、鉄格子の向こうに立ち竦む僕を発見するなり憤怒の形相に豹変。
「この野郎っ!!!!!!」
「あ、あう、あっ」
激怒した柿沼に背を向け、脱兎の如く逃げ出す。
背後で鉄扉が開け放たれ怒涛の足音が急接近、野太い怒号が鼓膜を叩いて憤激の波動が押し寄せる。やばい、捕まっちゃう、助けてビバリー!囚人と看守のエッチ覗いてるのがバレたんだ、ただで済むはずない。それでなくても柿沼は短気で有名な女装マニアの変態で、ポストタジマを名乗れるくらい悪評付いて回る注意人物なのに。
「!ひっ、」
遅かった。僕がのろくさしてるうちに柿沼の手が伸びて後ろ首を掴む。僕の後ろ首摘んで房に引きずり込んだ柿沼が乱暴に鉄扉を閉め、残響で大気が震える。恐怖で歯の根ががちがち震えだす。殴られる?蹴られる?殺される?最悪の想像ばかりが連鎖的に浮かんで絶望が深まる。せめてもうちょっと僕の足が速ければ逃げ切ることができたのにと後悔してもはじまらない。
ビュッ。風切る唸りが耳朶を掠め、ベッドに放り出される。
背中からベッドに墜落した衝撃で肺から空気が押し出され激しく咳き込む。
「この野郎、リョウ、てめえどっから見てたんだ!?俺とシズルが房に入るとこずっとタダ見してたのか、ずっと聞いてたのか!舐めし腐った真似しやがって……上等だ男娼、今見たことよそに漏らさねえように裸にして死ぬほどぶん殴って歯あ全部ひっこ抜いてやらあ!」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさ」
最後まで言わせてもらえず頬を張り飛ばされた。思い切り。衝撃で口の中が切れて鉄錆びた味が満ちる。腕の一振りで薙ぎ飛ばされた体をベッドパイプが受け止める。また衝撃。ベッドパイプに激突して眩暈に襲われた僕の胸ぐらを掴み、柿沼が警棒を振り上げる。
「言われた通り口を開けろ、今見たこと口外できねえようお前の歯あ全部砕いてやる!」
「いや、だ。許してよ柿沼さん、ほんの出来心なんだよ、たまたまそこ通りかかったら声が聞こえてきてそれでつい……ほんとほんとだよ、嘘じゃないよ!ねえお願いだから信じてよ、僕たち長い付き合いじゃん、柿沼さん僕のフェラ上手だっていいこいいこしてくれたじゃん!?僕柿沼さんなら生でいいかなって特別に許可してあげたっしょ、清楚好みの柿沼さんたっての要望で白いワンピース着てあげたっしょ……」
哀願の嘘泣きじゃなく、本物の涙が込み上げてくる。
僕よりシズルのほうがいいっての、ただ仰向けに寝転がってイイ、イイって喘ぎ声あげてるだけのド素人のがいいっての?シズルに客を取られた悔しさで涙が止まらない。平手で張り飛ばされた頬は熱を持ち腫れ上がり内側の粘膜は炎症を起こしてる。娼夫のプライドをズタズタにされた悔し涙で頬を濡らす僕へと柿沼が警棒を振り下ろす―
ああ、殺される。
「待って」
救世主は身近にいた。髪を舞い上げる風圧に反射的に目を閉じたが、いつまでたっても予期した衝撃は訪れない。おそるおそる薄目を開ければ、意外な光景が飛び込んでくる。
シズルが柿沼の手を制してじろじろと僕の顔を眺めている。
敗者に対する愉悦と弱者に対する憐憫とを複雑に織り込んだ目の色が、ますますもって惨めさをかきたてる。
慈悲深いと形容してもいい菩薩の顔―
不意に、シズルを滅茶苦茶にしたい衝動が湧き上がる。
「見世物じゃねえよ、カマ野郎」
狂おしく身を捩りシズルの顔に唾を吐く。ぴちゃりと音がしてシズルの頬に唾が跳ね、怒りのあまり咆哮した柿沼が警棒で僕の肩口を殴る。激痛に背中が仰け反る。パイプベッドに寄りかかり、肩を庇って呼吸する僕の上にのしかかる……シズル。帯が半ばほどけて、真紅の襦袢の衿がはだけたあられもない格好で僕に迫りながらシズルが横に手をさしだす。
「手錠貸して」
手錠?そんなものどうする気さ。肩を押さえてへたり込んだ僕の眼前、柿沼の手からシズルの手へと手錠が渡される。カチリと金属音が鳴り輪が外れる。僕の手を後ろに回し金属の輪をひっかけ施錠、シズルが満足げに微笑。
「まずいところを見られちゃったね」
「い、言わない!絶対ひとに言わないからビバリーのとこに帰してよ!」
「どうかな。君は口が軽いらしいから……ねえ、情報屋のリョウくん」
「な、んで知ってるんだよ、新入りのくせに……」
「柿沼さんに教えてもらったんだ。彼は貴重な情報源だから」
共犯者の結束を確かめるように柿沼と密やかに笑み交わし、僕へと向き直る。格子窓から射した僅かな光が、深紅が映える口元を仄かに照らしだす。
「君のことはよく知ってる。尻軽でおしゃべりで大勢の看守に特別扱いされる男娼のリョウ。僕らのことも話すつもり?噂話で広めるつもり?それはちょっと困るな。まだ目的を達してないんだから」
「目的って……」
「東京プリズンに来た目的」
紅の唇が綻び、磨き抜かれた真珠のように小粒の歯が零れる。シズルが僕の頬に手を伸ばす。首振りで逃れようとしたが、見かけに反して強引なシズルは僕の頬をひたりと包みこむ。
癖のない黒髪の隙間から、闇より深い漆黒の目が覗く。
「可哀想だけど、口封じしなきゃ駄目みたいだ」
不吉な宣告に総毛立ち、手首を擦り合わせて手錠を外そうと必死の抵抗を試みる。金属の輪が擦れて軋んで耳障りな音をたてる。けど、外れない。手首の薄皮が剥けて傷付くだけで手錠自体はびくともしない。くそっ、外れろ、外れろよ!!鎖が許す限界まで引っ張り腕を開こうとするが、ガチガチと鎖が軋るだけで胸に巣食う絶望感が膨らむ。
発狂寸前の恐慌に駆られた僕の正面、紅の襦袢を羽織った少年が淡々と命じる。
「知り合いの看守、何人か連れてきて。できるだけ口が固い人を」
え?
思わず暴れるのを止め、恐怖に凝り固まった表情で暗闇に溶けたシズルを仰ぐ。柿沼に命じて仲間の看守を呼びに行かせたシズルが鉄扉が閉まるのを音で確認、申し訳なさそうに付け足す。
「ごめん。でも、仲間に入りたかったんでしょう」
一転、嗜虐の喜びを目に宿したシズルの手が頬からすべりおち、ズボンの股間に置かれる。下肢が鳥肌が立った。衣擦れの音も淫靡に僕に摺り寄り、股間を揉む。
「ふっ、あ……ひっ!?」
頭が破裂しそうだ。必死に身を捩り嫌々と首を振りシズルから逃れようとしても背後はベッドパイプで右側は壁で、左側は何もない虚空だけど得体の知れない暗闇が蟠り足元も見えない。
怖い。助けてビバリー、助けてママ!!
懇願むなしくシズルがのしかかる。後ろ手に手錠をかけられた僕はされるがままシズルに押し倒される、ベッドで背中が弾んで天井が遠ざかりシズルの顔が急速に近付き―
「仲間に入れてあげる」
熱い吐息が顔にかかる。
シズルの手が上着の裾からもぐりこみ、器用に乳首を捏ねる。
「いっ……たすけ、ママ、ビバリーっ……!」
「叫んでも無駄だよ。ここは地獄だから」
抓られ、捏ねられ、弄くられ。
乳首をしつこく愛撫されてたまらず声をあげれば、喉の奥で沸沸と笑いを泡立て、シズルが独白。
「そうさ。他の全てを捨てて帯刀貢を追いかけて、地獄の涯てまでやってきたんだ。今さら逃げ帰れるわけがない。逃げ帰る処もない。縋れないよう頼れないよう、一切合財を斬り捨ててきたんだから」
乱暴に扉が開け放たれ圧倒的な光が射し込む。
だが、それも一瞬のこと。再び扉が閉まり、狭苦しい房を暗闇が支配する。暗闇の中を足音が殺到。格子窓から射した光に入れ違いに照らされる顔……
柿沼を含めた看守が五人、舌なめずりせんばかりに僕とシズルを見比べる。
悲鳴をあげようとした。手で口を塞がれた。シズルじゃない、シズルと交替に僕にのしかかった看守の手で……それから。宙を蹴り上げた僕のズボンを下着と一緒に脱がして下半身を裸にして、それから。
それから。
「口封じだよ」
地獄を見た。
[newpage]
「いいもん見せてやるよ」
「はあ?」
食堂からの帰り道、レイジが突然言った。俺はまじまじとレイジを見つめた。俺より頭二つぶん高い場所にあるレイジの顔はにやにやと笑ってる。愉快な企みを内に秘めた性悪な笑顔。気色悪ィ。今度はなに企んでるんだコイツと警戒しつつ逃げ腰で距離をとれば、レイジが胸に手をあて大仰に嘆息する。
「露骨に疑い深い目つきすんなよ、傷つくじゃねえか」
「お前が思わせぶりなこと言い出すとろくなことねーってこれまでの経験でわかってんだよ」
「いいから行こうぜ、すぐそこだから。ここんとこ災難続きで参ってるお前を元気づけてやる」
「災難続きはどっちだよ」
あきれ顔で呟き、レイジの胸で存在を主張する十字架を一瞥。レイジの胸で眩しく輝く黄金の十字架には無数の傷が穿たれている。神の栄光と悲惨とが烙印された十字架は惨たらしい傷を残したままにそれ自体燦然と光を放っている。あの傷は、犬に付けられたものだ。服ならいくらでも替えがあるか、レイジの十字架はこの世に一個っきりしかないマリアとの絆の象徴だ。
俺が負った傷より自分が負った傷のがずっとずっと深いくせに、レイジは気負わず笑ってる。
犬に襲われたことはレイジに話してない。そのうち王様の耳にも届くだろうが、なら尚更俺の口から話すことじゃない。そんなことバラせばレイジは激怒して所長んとこ殴り込んでまた話がややこしくなる。服がズタズタになった原因については「乱闘に巻き込まれた」と最もらしい嘘でっちあげた。野次馬が乱闘に巻き込まれて当事者より重傷負うのは東京プリズンじゃよくあることだ。レイジは釈然としない顔つきで傷だらけの俺を観察していたが、納得したのか否か、「ふうん」と頷くにとどめた。何か言いたそうな顔つきだったが、敢えて無視。これ以上面倒はごめんだと知らぬ存ぜぬを通した。
「キーストアも誘うか。あいつまたサムライと痴話喧嘩してしょげてるみてーだし」
物思いにふける俺をよそにレイジは勝手に話を進める。強引というか何というか、人の話を聞かない王様だ。レイジが「おーいキーストア!」とばかでかい声を張り上げて人ごみに埋もれた鍵屋崎を呼ぶ。食堂からの帰り道、サムライと別れて一人しょぼくれて房へと向かっていた鍵屋崎が振り向く。
虚ろな表情の鍵屋崎に小走りに駆け寄り、レイジが肩を竦める。
「どうしたんだよ、一人でふらふらふらついて。用心棒のサムライはどこ行ったんだ?」
「契約は解約した。彼はもう僕の用心棒ではない」
とりつくしまもない返答にレイジと顔を見合わせる。鍵屋崎は頑固だ。絶対自分の非を認めない。この分じゃサムライとの喧嘩もまだまだ長引きそうだとため息をつく。
「彼の行き先には感知しない。どこへなりとも行けばいい。彼の行動範囲になど興味もない、僕の生活を煩わさないでいてくれるならいい。用はそれだけか?これから図書室に本を返しを行くんだ、進路妨害するならこちらにも考えがある」
見るからに難解そうな本を小脇に抱えた鍵屋崎が、苛立ちを抑圧した無表情で冷ややかにレイジを睨む。ぴりぴり殺気立った鍵屋崎に気圧された俺とは対照的に、レイジは生来の無神経が成せる技かなれなれしく鍵屋崎の肩を抱く。
「お勉強熱心で感心だねキーストアは。でもたまには息抜きが必要だぜ。コンクリートの塀の中に一日じゅう閉じ込められてたら精神的に参っちまう、気分転換に外の空気吸いに行こうぜ」
「どこへ連れていく気だ?」
レイジに肩を抱かれた鍵屋崎が迷惑そうに顔を顰める。
レイジは意味ありげな笑みを浮かべて目的地を明かす。
「天国にいちばん近い場所」
「展望台かよ」
拍子抜けだ。
たしかに東京プリズンじゃいちばん見晴らし良い場所だが、天国にいちばん近い場所って大袈裟すぎだろ。
もったいぶって言うから何処かと勘繰ったのに、レイジが鼻歌まじりに俺たち先導したのはひょいと窓枠乗り越えたところにある殺風景な展望台だった。 周囲には闇の帳が落ちて肌寒い夜気がたゆたっている。
こんなところに何の用だよとレイジを睨むが、本人は口笛でも吹きかねないご機嫌な様子で展望台を見まわしている。レイジに無理矢理連れてこられた鍵屋崎は対照的に不機嫌の絶頂で、「何てことだ、こんな暗闇では本も読めないじゃないか」と愚痴ってる。本のページを広げて目を凝らす鍵屋崎をよそにポケットに手を突っ込んだレイジがぶらぶら歩き出す。俺も慌てて後を追う。
「おいレイジいったい何のつもりだよ。いいもの見せてやるって、こんなとこに何あんだよ」
「まあ見てろって」
レイジは思わせぶりなセリフで煙に巻くだけで説明もしてくれない。レイジの態度に不満を感じて押し黙った俺は、仕方なくきょろきょろと展望台を見まわす。不気味な静けさと濃厚な闇とが立ち込めたコンクリートの堤防、俗に「展望台」と言われるここは砂漠に沈みゆく夕日が見られる有名なスポットで、黄昏時ともなれば燃えおちる夕日を眺めて感傷に浸りたい向きのロマンチックな囚人どもが大勢押しかける。だが、今は夜。黄昏時には物好きな囚人で賑わった展望台も閑散として俺たち以外に人影はない……
いや。
「ん?」
展望台の中央に誰かが蹲ってる。暗闇に目を凝らす。そいつは俺たちに背を向けて忙しく両手を動かし作業に没頭していた。その後ろ姿からは手と頭と心が三位一体となり活動する精力有り余った熱気が放たれていた。不用意に近付いたら火傷しそうだ。ごくりと生唾呑んで立ち竦んだ俺をその場に残し、レイジがそいつに声をかける。
「はかどってるか、道化」
ゴーグルをかけた顔が振り向く。
「ああ。あと十分で完璧に準備が整うとこや」
ゴーグルを額に引き上げてやんちゃに笑ったのは西の道化、ヨンイル。風邪をこじらせて二週間入院してたが、今じゃすっかり体が回復し、特徴的な八重歯が覗く笑顔でレイジを迎える。
「準備って……まさかまた、爆弾の?」
ヨンイルに小走りに駆け寄り、おっかなびっくり問う。ヨンイルは爆弾作りのプロだ。ペア戦でも時限爆弾を仕掛けて地下停留場を混乱に陥れた前科がある。まさかペア戦のリベンジでまた爆弾を破裂させる気なのかと疑惑の眼差しを注げば、西の道化が「ちゃうちゃう」と手を振る。
「言うなれば、そやな……『送り花火』や」
ヨンイルの謎めいた台詞に困惑、答えを求めるようにレイジを仰ぐが、レイジは口元に薄く微笑を湛えるだけで一切説明してくれない。不親切な相棒。何でもお見通しの癖にわざとタネを明かさず、困惑する俺を眺めて楽しんでる性悪レイジに嫌気がさし、和気藹々と談笑する道化と王様から離れて展望台の突端に座る。展望台の突端から足をたらして果てなく続く夜空の向こう、地平線の彼方に沈んだ廃墟のビル群を見つめる。
「まったく、迷惑な男だ。僕は静かに本を読みたいのに屋外に強制連行して……風邪をひいて肺炎を併発したらどうしてくれる」
ぶつくさ不満を漏らしつつ鍵屋崎が隣に腰掛ける。
「なら帰れよ」
「………」
「サムライがいる房にゃ帰りたくないってか」
意地っ張りめと失笑する。鍵屋崎はこの上ない不機嫌な顔で膝に広げた本のページをめくるが、どんなに目を凝らしても暗闇では字が読めず、諦めて顔を上げる。ちらりと振りかえればヨンイルはまだ作業していた。展望台の中央に小型の大砲みたいな奇妙な物体を設置して、真剣に角度を調整している。ヨンイルの奇行を傍らで眺めながらレイジは「これ、どっから調達したんだよ」と質問、大砲から手を放せないヨンイルが「西棟のガキどもに造らせたんや。レッドワークから鉄屑拾うてきてイチから組み立てて、試行錯誤の末に何とか形にすることできた」と得意げにうそぶく。
「君の服は、サイズが合ってないな」
おもむろに指摘され、俺の顔はますます渋くなる。鍵屋崎に言われなくてもわかってる。昼間犬に引き裂かれてボロボロになって服は捨てるしかなくて、俺が今着てる服はレイジの借り物で、生地が余り過ぎだ。 「しょうがねえだろ、これしかなかったんだから。お前だってサイズ違うじゃねえか」
びろんと膝まで覆う上着の裾を居心地悪く引っ張りながら反論すれば、鍵屋崎がムッとする。鍵屋崎が今着てる服もレイジからの借り物で、俺ほどじゃないにしろサイズはあきらかにでかい。鍵屋崎の服も犬に引き裂かれて薄汚いボロ屑と化して、最終的に廃棄するしかなかったのだ。
帰りのバスじゃ俺たち二人して注目の的でいたたまれない思いを味わった。
「ったく、今日は酷い目にあったぜ。タジマの兄貴だけあって完璧イカレてるなあの所長、獣姦ショウなんて普通思いつかねーだろ、思いついても実行しねーだろ。間一髪犬にカマ掘られなくて済んだけどお前が助けに入るの遅れてたら……」
「僕とて同様だ。安田が助けに入らなければ確実に犬に犯されていた」
「副所長に感謝しなきゃな」
小さく呟き、探るように鍵屋崎の横顔を見る。冷ややかに取り澄ました無表情。銀縁メガネがよく似合う理知的な面立ちは安田と共通してる。あの時、鍵屋崎の一大事に我を忘れて駆け付けた安田の必死な形相を思い出す。エリートの威厳も矜持もかなぐり捨て、鍵屋崎を庇って狂犬と取っ組み合い背広をズタズタに引き裂かれた安田の泥まみれの顔……
「鍵屋崎。お前と安田って、ホントにただの囚人と副所長なのか」
「どういう意味だ?」
鍵屋崎がうろんげに目を細める。ぶらぶらと虚空を蹴り時間を稼ぎ考えを纏める。身の危険もかえりみずに鍵屋崎を助けに駆け付けた安田、怒り狂った犬と上下逆転して取っ組み合いながら「すぐる!」と叫んだ必死な顔。すぐる?だれだそれ。鍵屋崎の下の名前は「なお」だ。すぐるなんて知らない。だが安田は確かにそう呼んだ、犬に襲われた衝撃冷め遣らずへたりこんだ鍵屋崎に向かい「すぐる!」と叫んだのだ。
鍵屋崎は、何かを隠している。
鍵屋崎と安田の関係についても鍵屋崎が東京プリズンに来た事情についてもわからないことだらけだ。
「昼間犬に襲われた時、お前助けに血相替えてとんできた安田見て思ったんだよ。絶対おかしいって、普通の囚人と副所長の関係じゃねえって」
「僕と安田に肉体関係があると疑ってるのか?次元が低い発想だ」
鍵屋崎が憎たらしく嘲笑する。カッとして、思わず身を乗り出す。
「たしかに安田はデキた人間だよ、優秀なエリートだよ!でもな、そんなエリート様がたかが囚人のために身の危険もかえりみず狂犬と格闘するなんて俺にはどうしても思えねえ。お前だってわかってんだろ鍵屋崎、東京プリズンの看守にとっちゃ囚人なんてストレス発散の道具に過ぎないって。けど、安田は違う。安田はお前のこと本気で心配してる、心底大事に思ってる。なんでだ?なんで囚人一匹の為にそこまでするんだよ、おかしいじゃねえか。お前と安田って一体」
「僕が知りたい」
ため息まじりの返答に毒気をぬかれる。とぼけてんのかと一瞬疑ったが、鍵屋崎の横顔は苦悩に閉ざされて、眼鏡越しの双眸には自己と葛藤する複雑な感情が渦巻いていた。鍵屋崎がおもむろに眼鏡を外し、レンズを下方に翳して闇を透かす。
「この眼鏡は安田が修理した」
眼鏡を手にしたまま振り返り、レイジと話してるヨンイルを鋭く一瞥。鍵屋崎の視線に気付いたヨンイルが片手に挙げるのを無視、再び眼鏡に向き直り述懐を続ける。
「ペア戦でヨンイルに蹴られて亀裂が入った眼鏡を直させてくれないかと安田が申し出たんだ。三日後、眼鏡は無事返ってきた。その頃安田は上の人間に呼び出されて視察にくる暇もなかったが、修理が済んだ眼鏡を看守に預けて僕へと返して……」
「……めちゃくちゃ親切だな」
間の抜けた相槌をうつ。鍵屋崎が黙り込む。安田の特別扱いに対して一抹の疑問と落ち着かなさを感じてるらしく、その顔は浮かない。
レンズが取り替えられた眼鏡を透かし見て結論する。
「君の言う通りだ。安田が僕に接する態度はおかしいと認めざる得ない。以前から安田とは接触の機会が多かったが考えてみればこれもおかしい、いくら副所長が職務に忠実で責任感が強いからといって視察で赴いたイエローワークでああも頻繁に僕と会うはずがない。あれは故意だ。安田は僕に会いにイエローワークの砂漠に来てるんだ。僕の様子が心配で、わざわざ顔を見に来てるとしか思えない」
「まさか。考えすぎじゃねーか」
天才ならではの想像の飛躍に笑うしかない。そりゃ確かに安田は鍵屋崎のピンチに「たまたま」居合せる機会が多くて、鍵屋崎は何度も安田に危機を助けられてるがだからって……そう否定しようとしたが、否定するだけの根拠がないことに気付いて愕然とする。
「わからない。理解不能だ。何故安田はあんなにも僕に関わってくる?明らかに職務越権だ」
鍵屋崎の横顔に苦渋の色が浮かぶ。俺はなにも言えない。鍵屋崎と安田の関係について何も知らない俺には何も言う権利がない。苦悩の色を濃くした鍵屋崎が力なくかぶりを振り、眼鏡を再びかけ直す。
虚空の闇に目を馳せた鍵屋崎が、自己の内面に潜りつつ、言う。
「ひょっとしたら安田は、僕の知らない僕を知っているんじゃないか」
謎かけのように不可思議な台詞がいつまでも耳に残る。俺は鍵屋崎が心配になった。鍵屋崎にはなんでもかんでも一人で抱えこんではそれを全部解決できず自己嫌悪に縛られる悪い癖がある。なまじ頭がいいぶんわからないことをわからないまま放置できずとことんまで思い詰めてたった一つの真実を追い求めて、真理の光が射さない思索の袋小路に迷い込んじまうのだ。
こんな時サムライがいれば。
鍵屋崎の隣、物寂しく夜風が吹きぬける空間を一瞥して舌打ちしたくなる。もし今サムライが隣にいえば、鍵屋崎の苦悩を癒すことはできなくても、鍵屋崎を疑問を解決に導くことはできなくても、鍵屋崎の気持ちを軽くしてやることぐらいできたろうに。自覚はないだろうが、サムライと口喧嘩してるときの鍵屋崎がいちばん生き生きして楽しそうなのだ。いや、口喧嘩という表現は正しくない。鍵屋崎がいつも一方的に小難しい理屈を並べ立てて論破に挑んで、サムライは「うむ」とか「ふむ」とか爺むさい合いの手入れながらそれを聞き流してるだけだ。
なんでここにいないんだよ、サムライ。
俺じゃ鍵屋崎の相談役務まらねえよ。
「今度はなんでサムライと喧嘩したんだよ」
聞いていいものかどうかさんざん迷ったが、妙な遠慮は俺に似合わないと開き直り、ずばり核心を突いた。鍵屋崎が一瞬うろたえて、すぐに平静を装いブリッジに指をやる。動揺をごまかすしぐさでブリッジに触れた鍵屋崎はそのまましばらく視線をさまよわせて逡巡していたが、ヤケになったように吐き捨てる。
「原因は強姦未遂だ」
「!ごーかっ、」
顎が外れそうになった。どうフォローしていいものやら頭が混乱して、酸欠の金魚みたくパクパク口を開閉するしかなかった。強姦?サムライが鍵屋崎を!?あの堅物がケダモノ化して鍵屋崎の寝込みを襲ったってのか、鍵屋崎に強姦を働こうとしたのか?
「そりゃあ怒って当然だよ、サムライのヤツ色事にはてんで興味ねえってスカしたツラしやがってとんだむっつりスケベじゃねえか!レイジが俺の寝込み襲うのは悪い冗談みてーだけどサムライは洒落になんねーだろ!ああでもサムライが自慰してるとこなんて想像できねえし売春班利用したって噂も聞かねえしそうなるとやっぱ限界ギリギリまで溜めこんでたのか、無駄に性欲持て余してたってことになるのか!?それでムラムラきて手近なお前を襲っちまったと」
「勘違いするな、被害者はサムライだ。強姦未遂を働いたのはこの僕だ」
「!!おまっ、」
二重の衝撃に目が眩む。鍵屋崎が、サムライを襲った?んなまさかと耳を疑ったが冗談言ってる様子はないし前言撤回する気配はないしマジ、マジなのか?鍵屋崎の衝撃的告白に腰を抜かした俺は、ことの真偽を確かめようと意気込んで身を乗り出して……
「!危ないっ」
ぐらりと体が揺れて夜空が遠ざかった。
均衡を崩して体が前傾、展望台の向こう側へと転落しかけた俺の腕を掴んで鍵屋崎が引き戻す。あ、あぶねえ。小便ちびりそうだった。一歩間違えた地面にまっさかさまで転落死してた。間一髪命拾いした俺は、鍵屋崎に礼を言うのも忘れて胸ぐらに掴みかかる。
「強姦未遂って、お前、そんなに欲求不満だったのかよ!?」
「誤解しないでくれたまえ、僕はサムライの寝姿に欲情したわけじゃない。性欲が昂じたあまりに睡眠中で抵抗できないサムライに襲いかかったわけじゃない。そもそも人間が性欲を感じる原理は脳と深く関係していて、人の生存に関わる食欲と性欲は約1400Gの脳の中心にある5Gの視床下部から生じるもので…」
「ごたくはいい、俺が聞きてえのはお前がサムライの寝込み襲った理由だ!」
どうかしちまったのか鍵屋崎は。売春班の傷もまだ癒えてねえってのにサムライ誘惑するような真似して、んなことすりゃお互い傷深めるに決まってるじゃないか。お互い傷抉るに決まってるじゃんか。俺は自暴自棄ともいえる鍵屋崎の振るまいに純粋に怒っていた。鍵屋崎とサムライが喧嘩しようが突き詰めれば二人の問題で知ったこっちゃないと前述したがそれはそれこれはこれ、鍵屋崎が自分を粗末にして投げ出すようにサムライに身を任せたんだとすれば絶対許せねえ。
売春班であれだけ辛い目に遭ったのにまだ自分を傷付けるのか、気が済まないのかと自虐に対する怒りに震えながら胸ぐら掴む手に力をこめれば、鍵屋崎が目を伏せる。
「サムライの、いや、帯刀貢の本性が知りたかったんだ」
「わけわかんねーこと言ってごまかすな!」
「サムライが僕を抱いても関係性が変わらなければ、彼とずっと友人でいられると思ったんだ!!」
は、あ?
思わぬ返しが気勢を削ぐ。手の指が緩み、すっぽり上着が抜ける。皺くちゃの胸ぐらを手の平で撫で付け俺とは目を合わせず鍵屋崎が付け足す。
「本末転倒かつ支離滅裂なことを言ってる自覚はある。ただあの時は本気でそう思い込んでいた。あの夜の僕は直前に見た悪夢のせいで冷静さを欠いていた、錯乱状態にあった。僕は帯刀貢の本性が知りたかったんだ、静流の言ったことが真実か否か確かめたかったんだ。サムライが僕を抱いて、それでも僕らの関係性が変化しなければ僕らはずっとこのまま友人でいられると思い詰めていたんだ」
「つまりお前は、ずーっとサムライとダチでいたくて、サムライに抱かれようとしたってのか?」
「……笑いたければ笑え。サムライに抱かれたところで体は減らない。僕はすでに汚れた身だ、男に抱かれることにも抵抗はない。サムライと性交渉を持って、それでも彼との関係性が変わらなければ、僕は帯刀貢の過去にも敢えて目を瞑り知らないふりをしようと決めたんだ」
議論を打ちきり鍵屋崎がそっぽを向く。眼鏡の奥の目に悲痛な光が宿る。痛々しく傷付いた子供みたいに無防備な横顔に胸がざわつく。まったく、不器用な天才だ。極端から極端に走りがちな鍵屋崎にあきれる一方で苦労が報われないサムライに同情する。
「お前さあ、もうちょっとサムライ信用してやれよ。可哀想だぜ」
「………」
「サムライがお前抱くはずないじゃん。あんなに大事にしてるのに」
「随分余裕じゃないか。レイジに抱かれて勝ったつもりか」
「勝ち負けの問題じゃねーだろ。どうしたんだよ、ガキみたいなやっかみお前らしくもねえ」
レンズ奥の目に激情が炸裂、鍵屋崎が何かを言いかけたのを遮り足音が近付いてくる。不意に肩に体重がかかる。背後にやってきたレイジが俺と鍵屋崎の肩をなれなれしく抱いて人懐こい豹みたいに頬擦りよせてきたのだ。
「喧嘩すんなら俺も混ぜろよ、イケズ」
「イケズって死語だろ死語。お前はあっち行ってヨンイルと遊んでろ」
「つれなくすんなよ、お互いからだの隅々まで知り尽くした仲じゃんか」
俺と鍵屋崎の間にちゃっかり割って入って突端から足を投げ出す。鍵屋崎は渋面を作り、肩にかかった手をどかそうと体を揺するが払っても払ってもきりがないのでやがて諦めたようだ。
「落ち込んでんなら相談に乗ってやるよ」
「最前君の相棒に相談に乗ってもらったが、壁と議論するほうがまだしも暇潰しになった」
だがレイジは聞いちゃいない。鍵屋崎につれなくされてもへこたれずに口説き上手な色男の本領発揮、鍵屋崎に摺り寄るように体を移動させ耳朶に吐息を吹きかける。
「慰めてやろうか?」
野郎、すーぐこれだ。鍵屋崎の肩に摺り寄り、陰のある笑みをちらつかせて誘惑するレイジに反発。無造作に手を伸ばしてニヤけた頬っぺを思いきりつねりあげれば、レイジが比喩でも何でもなく跳び上がる。
「いででででっででででっ、冗談、冗談だってロン!マジで怒るなよ痛い痛っ、顔はやめて商売道具だから、やるならボディーにして!?」
「わかった。ボディーな」
心優しい俺はパッと手を放して今度は脇腹の肉をつまみ、前よりさらに力を込めてぎゅっとつねりあげる。レイジが声にならない声あげて悶絶、ひっくり返って後頭部を強打せんばかりに大きく仰け反る。
「か、可愛いなあロンは!目の前で浮気されて怒ったんだろ、キーストアにちょっかいかけたからヤキモチ焼いたんだろ!?なら素直にそう言えよ、素直になって俺の胸に飛び込んでこいよ全身八十箇所にキスマーク付けて記録更新してやるからっ」
「キスマークなんかギネス申請すんじゃねえ、お前があちこち食い散らかしてくれたおかげでこちとら大恥かいたじゃねえか!犬に服破かれただけでさんざんなのにキスマークまでバレて顔から火がでるほど恥ずかしかったんだぜ、しかもあれから帰りのバスでボロボロの服のまま乗って、まわりの囚人にゃあ大声でキスマーク数えられて……ああああっ、思い出したら死ぬほどむかついてきた!」
帰りのバスの中じゃ大恥かいた。スケベな囚人どもが俺のまわりに寄ってたかって体の裏表至るところのキスマークを数え上げて、吊り革掴まって下向いてる間も顔真っ赤だった。これも全部レイジのせいだと怒りが沸騰、一発殴ったくれえじゃ足りねえとこぶしを振り上げ―
「できた」
ヨンイルの歓声が夜空に響く。
「!」
揃って振り向いた俺たちは、空へと向いた大砲を満足げに見下ろすヨンイルの手に、黒い玉が握られてるのを発見。レイジをぶん殴ろうとした姿勢のまま固まった俺は、まじまじとその謎の物体を見つめる。大砲の、玉?あれを大砲に詰めて夜空に向かってぶっ放すつもりだ?そんなことして何に……
「喜べヨンイル。タイミングよくゲストのご到着だ」
レイジがやんわりと胸ぐら掴んだ俺の手を外し、暗闇に包まれた中庭を見下ろす。レイジの視線を追って中庭を見下ろしたが、何もない、誰もいない。コンクリート敷きの中庭には無骨な塔が聳えて、夜間絶やされることないサーチライトの光が機械的に首振りつつ、煌煌と夜空を照らす―……
いた。
静寂と闇が支配する中庭を人影が歩いてくる。最初に聞こえてきたのは、コンクリートを叩く規則的な靴音。静寂の水面をかすかにかき乱してやってきた人物の顔は、暗闇に閉ざされて目鼻立ちも定かではない。 監視塔のサーチライトが緩慢に動き、白い帯がたなびき、闇を切り裂くように鮮烈に一条の光が射し込む。サーチライトから放たれた冷光の延長線上に立っていたのは、くたびれた中年男。
闇を駆逐する光の眩さにわずかに顔を顰め、手庇を作って展望台を仰ぎ見ている。
俺は、息を飲む。サーチライトに暴かれた中年男の顔に見覚えがあったから。鍵屋崎も驚く。その男が、本来東京プリズンにいるはずのない人物だから。とっくに東京プリズンを去ったはずと思い込んでいた人物だから。レイジだけがいつも通り余裕の表情で、中庭に立ち竦む男に歓迎の意を表して手を振る。
「ようこそ。俺らの愛すべき看守の五十嵐さん」
「レイジ、こいつあ何の真似だ?同僚からの言伝で来てみりゃあ……」
不審顔の五十嵐に感じ良く微笑みかけ、唄うように言う。
「知ってるんだぜ。あんた、明日には東京プリズン発つんだろ。ジープに乗って出てくんだろ、有刺鉄線の向こう側へ。羨ましいぜ、正直。俺はたぶん、ずっと一生死ぬまでここ出れねえから」
「レイジ……」
痛みを堪えるような顔で五十嵐に名を呼ばれ、一抹の寂しさを漂わせてレイジが苦笑する。
「違う、そうじゃないんだ。別にあんたを責めてるんじゃないんだ。他の連中のようにあんたに裏切られたとも思わねーよ。あんたの親切が嘘だったとも思わない。覚えてるか五十嵐?あんた、前にロンに麻雀牌くれたことあったよな。あの時ホント喜んでたんだぜ、ロン。俺も嬉しかった。ロンが俺以外の誰かに優しくされることってあんまりないから、お前がホントの親父みたいにロンに接してくれてちょっと嬉しかったんだよ」
「ま、ヤキモチ焼いたのも事実だけどさ」と冗談めかして付け加えてレイジが笑い声をあげる。泣き笑いに似て表情が崩れた五十嵐の悲哀に胸が締め付けられる。五十嵐は明日、東京プリズンを発つ。東京プリズンから永遠にいなくなっちまう。俺はまだ五十嵐に牌を手渡された時のぬくもりを覚えているのに、五十嵐に頭なでられた時の照れ臭い気持ちを覚えているのに、明日になりゃ本当にいなくなっちまうんだ。
そっと尻ポケットに手をやり、すべすべした牌の感触を確かめる。
五十嵐の顔がまともに見られず俯いた俺の肩を励ますように抱き、レイジが顔を上げる。
「ロンの……いや、囚人どもの親父代わりがいなくなるのは残念だけど、あんたが納得した上での決断なら俺が口出すことじゃない。あんたを今日ここに呼び出したのは責める為じゃない、東京プリズンを去る前にどうしても見せたいものがあるからだ」
サーチライトから延びた光が闇を切り裂きレイジの横顔を暴く。胸の十字架がサーチライトの光を反射、微塵に砕いた黄金の粒子を纏ったように神聖に輝く。展望台の上と下とで対峙する王様と平看守の間に緊張の糸が張り詰める。俺と鍵屋崎は言葉もなく高低差を隔てて対峙する二人を見比べていた。
おもむろにレイジが立ち上がる。
展望台の突端に立ったレイジが後ろを振り向き、ヨンイルを見る。不恰好な大砲の隣に片膝ついたヨンイルが緊張の面持ちで頷き、懐から矩形の箱をとりだす。古めかしいマッチ箱。箱から一本取り出してあざやかな手つきでマッチを擦れば、闇を一点食い破り、橙色の炎がともる。
マッチの炎に赤々と照らされるヨンイルの顔には、俺がこれまで見たこともない真剣な表情が浮かんでいる。額にかけたゴーグルにマッチの炎が映りこみ、真紅に染まる。
赤々と炎に照り映えるゴーグルの下、同じく炎を宿した目に切実な懇願を浮かべ、大砲の尻からとぐろを巻いて延びた導火線に揺らめく炎を近づける……
「花火師としての初仕事。神様手塚様じっちゃん、あんたらんとこまで届くどでかい花火を打ち上げたるさかい、剋目せい」
導火線に火が移る。赤い光点は瞬く間に導火線を焦がして大砲の尻へと収束し、そして……
夜空に向かい高々と片腕を突き上げ、絶好調でレイジが飛び跳ねる。
『Let's begin a party, Guys appear!!』
地鳴りめいた轟音が展望台を揺るがしたのは、その瞬間だった。
[newpage]
サムライは黙々と廊下を歩く。
彼を追い立てるのは焦燥と自己嫌悪。普段から景気の悪い仏頂面をさらに渋くして大股に歩く姿には近寄りがたく剣呑な殺気が漂っている。
行くあてはない。
房にまっすぐ帰るのも気が進まない。
房に帰れば直と顔を合わせてしまう。
薄暗い房で顔突き合わせ直と二人きりで何を話せばいいかわからない沈黙を思えば気分は塞ぎ、房から足が遠のく一方。
こうして特にあてもなく通路を彷徨しているのは直と顔を合わすのを避ける為だと自分でもわかっている。わかっているが、どうしようもない。
サムライは苦悩していた。
脳裏にちらつくのは一昨日の夜の直。
深刻に思い詰めた表情は自虐の翳りに閉ざされて、囚人服が痛々しいほどに華奢な体はかすかに震えていた。
抱きしめるのを躊躇うほどに華奢な体。
指で触れれば砕けそうなほどに脆く張り詰めた横顔。
『サムライ、僕と性行為に及べ』
感情が欠落した命令調に耳を疑った。一瞬で眠気は払拭された。
あれは悪い夢だったのではないかとくりかえし自問する度に、否、あれは現実だと心の奥底から声がする。
昨夜の直は様子がおかしかった。明らかに異常だった。
再三におよぶ説得にも耳を貸さず積極的に迫ってきた、スプリングを軋ませ隣に腰掛け淫靡な手つきで彼の太股を撫でた。直の手の平が触れた場所がぞくりと鳥肌立った。悪寒、寒気、それ以外のもの……ふわりと熱を孕み毛穴が開くような、未知なる官能の感覚。体毛が帯電したかのような戦慄。
あれは一体何だったのだ。ただ、触れられただけだ。それなのに。
「…………」
眉間に皺を寄せ物思いに耽る。
憂いに閉ざされた横顔にはひんやりと人を拒む冷気が漂っている。
一昨日の記憶を振り払うように歩調を速めるが、そんな彼を責めるように切羽詰った声が追いかけてくる。
『寝ぼけてなどいない。意識は覚醒している』
断言。
『どうした。僕と性行為に及ぶ度胸もないのか』
挑発。
『こんな貧相な体は抱きたくないか。痩せた腹も薄い胸も細い首も不健康に生白い肌も』
自嘲。
あんな直は知らない。あんな偽悪的で露悪的な直は知らない。毛布に手を潜らせ彼の太股をなでさすりしたたかに微笑んだ、彼が見慣れた潔癖な少年の顔ではなく淫らな娼婦の顔で耳朶に熱い吐息を吹きかけた。誘惑。
サムライは混乱した。
何故こんなことをするんだと直を憎んだ。
売春班では来る日も来る日も男に犯され体も心も酷く傷付けられて死の一歩手前まで行ったではないか。なのに何故今また自分を粗末にする、自虐の衝動に任せて男に身を委ねようとする?
サムライは直に殴りかかりたい衝動を必死に堪えて誘惑に抗った、肩に凭れかかる直の体温に理性が蒸発するのを感じながら努めて平静に言った、今晩のお前は正気じゃないと、正気じゃないお前を抱くわけにはいかないと頑固に拒んだ。
そして直は、禁忌を犯した。
『苗の体と僕の体と、どちらがより君を酔わせるか実験してみたらどうだ』
直は笑いながらそう言った。苗と自分とどちらの体がよりいいか比較してみろと過去の傷を抉り煽ったのだ。
瞬間、サムライは我を忘れた。相手が直だというのに手加減を忘れて突き飛ばし押し倒していた。仰向けに倒れた直が悲鳴をもらしてもその目に恐怖の色が浮かんでも、一度飛散した理性をかき集めるには至らなかった。
表面温度と半比例し体の芯に憎悪が凝り冷えていくのがわかった。
床に仰向けに寝た直にのしかかり、その胸ぐらを掴み、鋭い眼光で射竦める。
これまで敵以外に向けたことのない猛禽の眼光。
『そんなに俺に抱かれたいか。飢えているのはどちらだ』
『さかるのは勝手だが、相手は選べ』
サムライは冷淡に直を拒絶して背を向けた。あれ以来直とは言葉を交わしていない。彼らの一日は沈黙で始まり沈黙で終わる。直もまたあれ以来サムライを避けて房で二人きりになるのを極力避けている。
食堂で隣り合った席に座っても食事に集中するふりでお互い目も見ず会話もせず倦怠を共有するのみだ。
いつまでこんな日々が続くのかと考えると気が滅入る。
失言は認める。多少言いすぎたと思わないではない。
しかし、直にも非がある。
「……あんなはしたない真似をして、けしからん」
粛々たる大股で歩きながら激しく唾棄するサムライは、いつのまにか自分が房を遠く離れた別の区画に来ていることにも気付かなかった。武士にあるまじき失態、一生の不覚。電池切れかけの蛍光灯が短い間隔で点滅する荒廃した区画に迷い込んだサムライは、いい加減引き返そうと踵を返し……
「散歩?貢くん」
「!」
振り返る。
電池の切れた蛍光灯が瞬きをくりかえす通路、一際濃く闇が蟠った一角に少年がいた。壁に背中を凭せて、謎めく笑みを浮かべてこちらを見つめている。流れる黒髪の下には物憂げに煙る双眸、スッと通った鼻筋と薄く整った口元に含羞の風情が漂う少年だ。容姿は全く違えど、どこかサムライと似通った印象を与えるのは両者に流れる血の宿業だろうか。
「静流」
驚き名を呼べば、少年が微笑む。
人の心を虜にする魅惑の微笑。
壁から背中を起こした静流がゆっくりとこちらに歩いてくる。サムライは微動だにせず静流の接近を待った。
逃げも隠れもせず堂々と通路の真ん中に立ち塞がるサムライの手前で静止、対峙。
「こんなところにいたのか。得物もなく出歩くのは物騒だ。いつ不埒な輩に襲われるともわからん、即刻房に帰れ」
「相変わらず心配性だな貢くんは。その性格変わってないね、昔から」
喉の奥で愉快そうに笑い声をたて静流が目を細める。
サムライもつられて目を細める。
眼前の笑顔が子供時代の面影に重なり、当時の記憶が鮮やかに甦る。 とうに葬り去ったはずの過去の情景が瞼の裏で像を結ぶ。
四季折々の花が爛漫と咲き誇る風情ある庭で、無邪気に戯れる子供達。
地を刷く振袖をたくし上げて桜の枝に手を伸ばすのは、幼き日の静流。
かつてあった平和な日々に思いを馳せ、束の間感傷に耽ったサムライを現実に呼び戻したのは静流の声。
「僕のことなら心配しないでも大丈夫。こう見えても帯刀分家の嫡男、自分を身を守る術くらい仕込まれてるよ。貢くんも覚えているでしょう、分家に生まれた者の宿命を。万一本家の跡取りが急逝した場合の保険として、僕は物心つく前から徹底して剣を習わされた。万一君に何かあった時は本家の跡取りが務まるようにって、帯刀の姓を名乗るに恥ずかしくない教育を施された」
「……ああ。そうだった」
「でも、結局は凡人どまり。僕も精一杯努力してみたけど、君にはかなわなかった。打ち合いの稽古でも一度として勝てなかった。容赦ないんだもの、貢くん」
「手加減は相手への無礼にあたる。そんな卑劣な真似できるものか」
「ふふ。堅苦しいところも相変わらずか。嬉しいよ、君が変わってなくて」
幸福そうに静流が笑う。
何故そんなふうに笑えるのか理解できない。
静流とは疎遠になって久しい。父と叔母が仲違いして分家との行き来が絶えてから既に何年も経つというのに、数年ぶりに再会した美しいいとこは、サムライに屈託なく声をかける。
サムライは戸惑うばかりだ。
「本当によかった。安心したよ、僕が思い描いた通りの君でいてくれて」
二度くりかえし、静流が意味ありげにサムライを見る。
漆黒に濡れた目でまっすぐ見据えられ落ち着かなくなる。
こうしてここで会えたのも縁だと割り切り、咳払いをする。
「静流。お前に聞きたいことがある」
「なに?」
静流が首を傾げる。サムライの双眸が鋭くなる。
凄味を帯びた双眸で静流を睨み、慎重に口を開く。
「直に苗のことを話したのは、お前だな」
静寂に支配された廊下にその声は予想以上に大きく響く。
低く威圧的な声音がコンクリ壁に反響し、殷殷と鼓膜に沁みる。
声の残響が大気に呑まれて消滅するまで、静流は一言も発さずただそこに佇んでいた。
緊迫。サムライの双眸がさらに鋭くなる。苛烈な白刃に似た切れ味の眼光……
「あたり。もうバレちゃったか。そのぶんだと彼、相当思い詰めてたみたいだね」
翻した手で口を覆い、しとやかに笑う静流を油断なく見据えたままサムライが一歩を詰める。
「苗のことを知っているのはお前しかいない。ならば直に吹き込んだのはお前しかおらん。静流、お前はやはり」
そこで言葉を切り、苦しげに顔を歪める。
「やはり、俺を憎んでいるのか?」
次第に二人の距離が縮まる。サムライの足が速まる。激情に駆られるがまま静流に歩み寄ったサムライはしかし、体の脇でこぶしを握り固め、抑制した声音で吐き捨てる。
「俺のせいで帯刀家は没落した。累はお前や薫、伯母上にまで及んだ。帯刀家はおしまいだ。お前が俺を憎むのは当然だ。お前は幼い頃から必死に剣の修行を積んだ、やがては伯母上の期待に応えて立派な後継ぎになる為に励んできた。しかし俺が撒いた醜聞により帯刀家は一族郎党を巻き添えに終焉を迎えた。分家の跡取りたるお前の無念はいかばかりか察するにあまりある。お前が俺を憎むのは当然だ、俺はそれだけのことをしたのだから……帯刀の恥さらしなのだから」
感情を抑制した無表情で、淡々と言う。
自責の念に苦しみ葛藤するサムライを静流はただ醒めた目で眺めていた。深々と項垂れたサムライはそれに気付かない。
体の脇でこぶしを結んだままおのれの罪と向き合いその重さを抱え込み、深呼吸してやっと顔を上げる。
「俺を許せないならそれでいい。しかし、直を傷付けるのはよせ。直は関係ない、あいつは!」
「真実を知られるのが怖いの?」
静流が、動く。衣擦れの音も涼やかにサムライに摺り寄り、その頬へと手を伸ばす。咄嗟のことで払いのける暇もなかった。
「本当に彼のことが大事なんだね。初めて見た時にわかったよ、ああ、彼が苗さんの代わりなんだって」
「違う」
サムライが反駁する。
直は苗の代わりなどではないと心が叫ぶが、口には出せない。そんなサムライに憫笑を捧げて静流が続ける。
「展望台で君に寄りそう彼を見てびっくりした。彼、苗さんにそっくりじゃないか。似てるのは顔じゃない、雰囲気さ。君にすべて任せて頼りきって、庇護に甘んじて依存に安らいで、全面的に信頼して。ほら、苗さんにそっくりじゃないか。苗さんも君のことを盲目的に信頼してたものね。ああ、これは悪い冗談だ。僕としたことが無神経だったね、謝るよ。気を悪くしないでね。苗さんは盲目的もなにも実際目が見えなかったんだから」
「やめろ」
「光のない世界に生きる苗さんにとって君だけが唯一心を許せる存在だった。苗さんは君のことを心底慕って幸福に結ばれる将来を夢見ていた。一途な女性だったね、苗さんは。苗さんは君のよき理解者であり君は苗さんのよき庇護者だった。そういうのなんて言うか知ってる?共依存って言うんだよ。お互いに縋って溺れて傷を舐め合う優しい関係のこと。ここだけの話、僕、貢くんに嫉妬してたんだよ。苗さんと仲睦まじく寄りそう姿を見て、なんて似合いの二人なんだろうって……」
「静流、やめろ」
静流はやめない。
サムライの傷を抉る行為に残酷な快楽を見出し、嬉々と続ける。
「君は今も昔も変わってない。よい意味でも悪い意味でも。真実から目を背ける君の卑劣さが苗さんを追い詰め首を吊らせたんだ。君がもっと早く真実に気付いていれば誰をも不幸にする結果にはならなかった。莞爾さんは君のことを心配していた。だから苗さんとの仲を引き裂こうとした、手遅れになる前に。でも、駄目だった。君は何も知らなかった。苗さんの苦悩も、莞爾さんの焦燥も、そして……」
「やめろ!!」
恐慌に駆りたてられたサムライが肩に掴みかかるのにも動じず、儚く微笑する。
薫の面影を宿した笑顔。
「僕と姉さんの恋情も」
壁が振動し、蛍光灯が揺れる。
蛍光灯に降り積もった埃がぱらぱら舞いちる。
白い綿埃が舞う中、静流に引かれるように通路の暗がりへと誘い込まれたサムライの唇が塞がれる。
柔らかく熱い何か……静流の唇。
「!ぐっ、」
壁に背中を押し付けたサムライにのしかかり強引に唇を奪う。
唇にねっとりと舌を這わせ、愛撫し、唇の隙間から舌を潜らせて歯を舐める。口腔に侵入した異物の不快感に顔を顰めたサムライは、反射的に直の唇の感触を思い出す。
図書室の鉄扉に押し付け直の唇を奪った夜の記憶が、熱く柔らかい感触に重なりまざまざと甦る。
あの夜、直の唇を奪ったのには理由がある。夢を、見たからだ。おそろしく不吉な夢。おそろしく生々しい夢。いつも見る悪夢にでてくるのは苗だった。しかし、あの夜は違った。夢に出てきたのは直だった。
そして。
『サムライ!』
直が、呼ぶ。
声を限りに助けを求める。しかし間に合わない。必死に走り手を伸ばしてもぎりぎりで間に合わず、直の体はゆっくりと、滑るように奈落へ落ちていく。彼のほうに手を伸ばしたまま、眼鏡越しの目に静かな諦念を宿して、絶望に凍り付いた顔で……
真紅の劫火が燃え盛る地獄へと堕ちていくのだ。
夢だと思いたかった。夢であってほしかった。目覚めた時は心の底から安堵した。房を出て人に会いに行くと言い出した直についていったのは、不吉な夢を見た直後だったからだ。直の唇を奪ったのは、直が今確かにここにいると己に言い聞かせて安心したかったからだ。
夢の中ではいつも苗だった。
疾駆が間に合わず劫火に呑まれるのは苗だった。
再び大事な人を失う予感に怯えて、気付けば眼前の直の唇を奪っていた。
ただそれだけのことなのだ。
「んっ、は……しず、る!いい加減にしろ!!」
華奢な細身に反して静流の力は強い。
引き剥がすだけで腕が疲れた。
漸く静流を引き剥がしたサムライは、手の甲で唇を拭い、肩を浅く上下させつつ言い放つ。
「俺に男色の趣味はない、接吻など言語道断……」
そこまで言いかけ、絶句。
静流がおもむろに服を脱ぎ出したからだ。
上着の裾に手をかけ艶めかしく身をくねらせ脱いでいく静流に驚愕する。
「静流、何の真似だ!?」
静流の手を掴み制止する。服を脱ぐ手を止めた静流が虚ろな目でこちらを仰ぐ。
説教を続けようとして、サムライは見た。
しどけなく裾が捲れた下腹部に乱れ咲く無数の痣。
指でおされた手形、口唇で吸われた痣……よくよく見ればかつて直の体にあったのと同じ淫らな烙印が全身至るところに散り咲いている。
「これ、は」
「強姦されたんだ。だれに、とは聞かないで。答えられないから」
人肌恋しくサムライの肩に顔を伏せ、静流が気弱に呟く。
「東京プリズンに来たばかりで囚人の名前と顔が一致しないんだ。相手は複数いた、抵抗できなかった。泣いて叫んで許しを乞うても無駄だった。助けを呼べば殴られた。耐えるしかなかった」
静流がサムライに抱きつく。
「君の大事な友達に嘘を教えた前の日だよ。嘘を教えて、彼には悪いことをしたと思ってる。あの日の僕はどうかしていた。自分がされたことを誰かに返したくて、とんでもなく残酷な気持ちで、犠牲者をさがしてあてもなく歩いてるさなかに偶然彼を見つけたんだ」
「もういい、静流。無理に話さずともいい」
サムライが苦しげに言い、ぎこちなく静流を抱擁する。
いい匂いがした。むかし薫がつけていた香水と同じ匂い……静流を抱きしめるのは初めてではない。幼い頃の静流は臆病で、蜘蛛の巣にひっかかったと言っては泣きじゃくり、姉にいじめられたと言っては彼に頼った。
なかなか泣き止まない静流をこうして抱きしめてやった日のことを思い出し、優しく背中を撫でてやる。
脳裏に直の顔が過ぎる。
直を抱いて寝た夜のことを思い出す。
首筋から匂い立つ清潔な石鹸の香り、直のぬくもり―……
あれは、直の匂いだ。静流の匂いとは違う。
直からはこんな甘い匂いはしない……
「……お前がここに来たわけは、今は聞かん。落ち着いてからでいい。最前俺にあんな振るまいをしたのも、辛い目に遭い錯乱していたからだ」
静流には聞きたいことが山ほどだった。何故東京プリズンにきたのか、どんな罪を犯したのか、叔母と薫は今どうしているのか……それら全てを一度に聞きたい欲求を押さえ込み、今は静流をなだめることだけに専念する。静流の肩を抱く手に力を込める。
幼い日、姉にいじめられたと泣くいとこにそうしたように。
性欲はない。あろうはずがない。疚しい気持ちなどもとよりありはしない。
ただただ傷付きうちひしがれた者を癒したい一心で、その体を抱きしめる。
「辛かったな、静流。だがもう大丈夫だ。俺がついている」
腕の中でかすかに震える静流の体温を感じ、目を閉じ、断言。
「下郎どもに手だしはさせん」
サムライの腕の中で顔を伏せ、肩を震わせ静流は泣いていた。
否。
笑っていた。
邪悪に、邪悪に。とんだ茶番もあったものだと、肩を震わせ声を殺し笑っていた。
肩の震えを嗚咽と勘違いしたサムライはますます強く静流を抱きしめる。
そうして静流を抱きながら、あの夜抱いた直は静流よりさらにかぼそく震えていたなと思い出した。
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