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恵みあらんことを
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鍵屋崎直が死んで数年経った。
芝生を敷き詰めた精神病院の中庭では、入院患者が穏やかなひとときを過ごしている。
看護婦に付き添われ遊歩道を散策するパジャマの中年男性、車椅子に乗ってまどろむ老人、木陰で読書する若い女性。
平和を絵に描いたような光景をベンチに掛けて眺めているのは、白いワンピースの少女だ。
年の頃は十代半ば。華奢で色白、どことなく薄幸そうな雰囲気を纏っている。
黒目がちの瞳は無垢な仔鹿さながら庇護欲をくすぐり、背中までたらした黒髪ストレートの髪が楚々と風に揺れる。
揃えた膝には一冊のスクラップブックが広げられていた。
『東京少年刑務所で集団脱獄発生、死者302名に及ぶ大惨事!』『地下の棄民コロニーが脱獄に関与?政府は否定』『未だ行方が掴めず、国外に脱出した囚人も?』
……扇情的な見出しが躍る、新聞や雑誌の切り抜きだ。
東京少年刑務所―通称東京プリズンで集団脱獄が発生し、囚人・看守ともに多数の死者がでたのは数年前。
少女の兄の名前もまた、犠牲者リストに含まれている。
東京プリズンの集団脱獄がメディアで報じられた後、少女は医師や看護士に頼みこみ、雑誌や新聞を差し入れてもらい、一枚一枚ハサミで切り抜いた。
この行為が何の意味も持たないとわかっていても、憑かれたように集めずにはいられなかった。
少女の兄はIQ180の知能を誇る天才。彼は唯一妹のみを溺愛し、他を全て嫌悪していた。
鍵屋崎夫妻を殺した犯人は長男の鍵屋崎直……世間的にはそういうことになっている。
両親を刺殺後に逮捕された鍵屋崎直は、犯行の事実を全面的に認め、国選弁護人との打ち合わせに際しても「僕がやった」の一点張り。
現行の法制度において尊属殺人は極刑を免れない。
鍵屋崎直は東京プリズンへの送致が決定し、最愛の妹と引き離された。
兄が収監された東京プリズンがどんな場所か、その実情を知らされたのはごく最近だ。
当時まだほんの子供だった彼女に大人は本当のことを教えてくれず、「お兄さんは悪いことをしたから捕まったんだよ」とぼかして伝えていた。
潔癖症で虚弱体質、エリート中のエリートとして育てられたプライドのかたまりのような兄が、劣悪な監獄でどれほど虐げられたのか……想像しただけでどす黒い罪悪感が胸を塞ぐ。
静かに目を瞑り、膝の上に広げたスクラップブックをなでる。
あれから随分たち、少女は両親を手にかけた兄と同じ年になった。
この病院にも随分長くいる。
収容された当時は酷いものだった。鬱症状、摂食障害、パニック発作……点滴を倒し、枕やクレヨンを投げ付け暴れる少女を、医師や看護士は必死になって取り押さえた。
症状が改善に向かったのは医師や看護士の助力、なにより担当医の斎藤の献身あってこそだ。
少女の担当医の斉藤は、兄の手紙の開封を拒む少女に理解を示し、返事の代筆まで引き受けてくれた。
『お兄ちゃんなんか大嫌い。死んじゃえばいいんだ』
ベッドの上で膝を抱え、頑なに俯く少女に寄り添い、斉藤はこう言った。
『向こうはそうは思ってない』
『先生はなんでお兄ちゃんの味方をするの』
『僕はどちらの味方でもない。常に客観視を忘れず中立でありたいと願っている』
『嘘吐き』
『いいかい恵ちゃん』
斉藤が手に手を重ねる。
『君のお兄さんがした事が正義だとは言わない。殺人は殺人、犯罪は犯罪だ。けれども彼をその行為に駆り立てた動機は、誰かへの強い思いなんじゃないか』
誰かを守ろうとして誰かを害す。
誰かを庇おうとして誰かを殺す。
『今はわからなくていい。許せとも言わない。けれど君がもう少し大人になったら……お兄さんと同じ年頃になったら、別の世界が見えてくるかもしれない』
『どんな世界?』
『自分を犠牲にしても守りたい誰かがいる世界さ』
兄の事は許せない。兄がいたから自分は愛されなかった、両親に振り向いてもらえなかった。
でも、本当にそうだろうか。
兄がいようがいなかろうが、結果は同じだったのではないか。
少女の両親は親として大事な何かがどうしようもなく欠落していた。
緊張で手が震えて皿を落とした時、握力をこめすぎてクレヨンをへし折った時、付き添いの看護士や斉藤が一度でも「できそこない」「役立たず」と蔑んだろうか。
斉藤は常に優しく少女を見守り、大小の失敗を許してくれた。注意する時も一方的に見下す事は決してなく、根気強く諭してくれた。
斉藤や看護士との交流の中で、自分が生まれ育った環境がいかに異常か痛感し、兄がさらされていたプレッシャーにも想像が及び始めた。
私は悪くない。
お兄ちゃんが悪い。
お兄ちゃんが殺した。
お兄ちゃんが私からナイフをとって、それで……。
じゃあなんで、私の手は真っ赤だったの?
頭の中で繰り返した自己暗示が綻び始めた頃、兄の死を告げられた。
少女の世界は再び壊れた。
鍵屋崎恵は人殺しだ。
鍵屋崎直は妹を庇い、自ら罪を被り、東京プリズンに送られた。
「やっとひとりじめできると思ったのに……また横取りしちゃうんだもん。ずるい」
力なく微笑み、細い指でスクラップブックの記事をなでる。東京プリズンの集団脱獄にあらず、鍵屋崎夫妻の殺害を報じた記事だ。
本当に自分勝手なお兄ちゃん。
私の気持ちなんてちっとも考えず、私を守ることに酔っていた。
私はちゃんと裁かれたかった。私がお父さんとお母さんを殺したんだって、みんなに知ってもらいたかった。
お父さんやお母さんや学校のみんなに馬鹿にされてたこの私が、お父さんとお母さんをナイフで刺し殺したんだよって、世界中の人たちをあっと言わせたかったのに。
恵はやればできる子なんだよって、みんなに知ってもらいたかっただけなのに。
鍵屋崎直は、自分勝手な思い込みで最愛の妹の復讐を台無しにしたのだ。
「…………」
トン、タタタン。
スクラップブックの上で無意識に指が動く。ピアノを弾く真似事だ。
精神病院には音に敏感な患者も多く、ピアノの演奏は許可されてない。
恵も数年間演奏をしてないが、画用紙に描いた鍵盤で毎日練習しているので、勘は鈍ってないと信じたい。
『恵ちゃん、よく聞いて。お兄さんが死んだんだ』
『嘘』
『東京プリズンの暴動に巻き込まれて……』
『嘘だ』
点滴を倒す。シーツを引き剝がす。甲高い奇声を上げて暴れる。
だってお兄ちゃんが、私が殺すまで死ぬわけない。鎮静剤を打たれて気を失うまで、少女は半狂乱で暴れ続けた。
大好きで大嫌いな兄をこの手で殺す。
それだけが少女の心の拠り所、生きる目的だった。
兄と連弾した記憶を思い出す。
恵はピアノが上手だな、と眩げに微笑む顔を思い出す。
両親にさえもらえなかった褒め言葉を惜しみなく与えてくれた兄の笑顔は、永遠に失われてしまった。
胸の内に巣食った喪失感、孤独感を埋め合わせる為に少女が選んだのは、ここを出てやり直すことだった。
手はじめにまず名前を変えることにした。
「こんなところにいたのね恵ちゃん。明日の準備はできた?」
「物はまとめておきました」
中庭を横切った看護士に促され、少女は笑顔で頷く。
「恵ちゃんがいなくなると寂しいわね。安田さんとは上手くやっていけそうかしら」
「はい。安田恵って呼ばれるのはまだ慣れないけど」
正直に白状すれば、看護士が声をたてて笑い、「かっこいいお義父さんができて羨ましい」と少女の背中を叩く。
明日、少女は病院をでる。
東京少年刑務所の元副所長・安田順に、正式な養女として迎えられるのだ。
「暴動の責任をとらされて辞任したって話だけど、かえって一緒にいられる時間が増えてよかったわね。なんて、不謹慎かしら」
「安田さんも言ってます、副所長の地位に未練はないって。過労死する前にやめられてホッとしてるとか」
「斉藤先生も一緒なら安心ね」
「はい」
安田は現在、斉藤と一緒に暮らしている。退院後は恵と三人で暮らす。
養女の話を承諾したのは、信頼する斉藤の存在によるところも大きい。
この先ずっと病院の世話にはなれない。幸い数年に及ぶ投薬治療によって症状は安定しており、社会復帰も問題ないと診断された。
養子の話に迷わなかったといえば嘘になる。斉藤はともかくとして安田に至っては赤の他人だ。
少女の気持ちに変化をもたらしたのは、安田のある発言だ。
『私は君の兄……鍵屋崎直の精子提供者だ。簡単に言えば、生物学上の父親にあたる』
『お兄ちゃん、の?』
既に兄と血が繋がりがないことは知っていた。言われてみれば、斉藤に引き合わされた男は兄とよく似ていた。
『鍵屋崎の妹なら広義において私の縁者と言えなくもない。養子に迎えるのはおかしくないはずだ』
『こじ付けだね』
『悪いか』
斉藤に茶化されて気分を害す。
『本当はなんで私を引き取ろうと?』
月に一度の面会を数回経て、養子の話を持ちかけられた恵が面食らって尋ねれば、安田は斉藤と顔を見合わせ、兄そっくりの仕草で眼鏡のブリッジを押し上げた。
『それが彼の望みだからだ』
「彼」が誰を意味するか、直感した。
『彼は私に君を託した。責任を果たしたい』
おせっかいなお兄ちゃん。
お人好しなお兄ちゃん。
最後まで余計なことしかしないお兄ちゃん。
看護士を笑顔で見送った後、小さく独りごちる。
「……なんで殺す前に死んじゃうかな……」
恵が殺してあげたかったのに。
それが生きる目的だったのに。
ホント、最後まで自分勝手。お兄ちゃんは誰も殺してないのに、恵の尻拭いをしただけなのに、そのせいで東京プリズンに入れられて、いっぱいいっぱいひどい目にあって、挙句殺されちゃうなんて。
本当にこれでよかったの?
これがお兄ちゃんの望みだったの?
「…………」
少女は明日ここを出る。
安田順の娘、安田恵として生きていく。
人を殺した報いを受けず、何ら罰を受けず、明日もあさってもしあさっても平気なフリをして生きていくのだ。
養子の話を受けたのは、整理できない感情を無理矢理断ち切る為でもある。
少女も大人になった。
自分の両親が到底親の資格がない人間であること、子供の育て方を間違えていたと認められる程度には分別も付いた。
本当はもっと早く歪みを正さねばいけなかったのに、自分があまりに小さく幼かったせいで、誰かに庇ってもらわねば生きられないほどか弱かったせいで、何もかも歪みきったまま手遅れになってしまった。その皺寄せが全部兄に行ったのだ。
ベンチに掛けて物思いに耽る少女の膝元に、白樺の木立を吹き抜けるそよ風の軌道に乗って、下手くそな紙飛行機が軟着陸。
翼にはみ出た文字に目を丸くし、手早く開く。
それは一枚の便箋。右上がりの神経質な筆跡は忘れもしない、いやというほど見覚えがある。
封も開けずに捨てていた大量の手紙、宛名と差出人の名前は……
「あ……」
間延びした口から驚愕が漏れる。
少女の前に影がさし、長身痩躯の青年が立ちはだかる。
こざっぱりしたシャツとスラックスを身に付け、髪を短く切った男だ。頬骨の高く張った精悍な風貌で、おそろしく姿勢がいい。地面に帯びた影すらも端正だ。
「あなたは誰ですか」
「お前の兄の友人だ」
「お兄ちゃんの」
嘘。
こんなのありえない。
理性が否定する少女の前で、男は相変わらず背筋を正したまま、噛み締めるように呟く。
「一言祝いにきた。達者でな、と」
「初対面なのに」
「さんざん話を聞かされたせいか他人と思えん」
兄の友人を自称する男は遠い目で虚空を凝視、少女の手の中の紙飛行機に視線を移す。
「アイツから預かった」
「お兄ちゃんが折ったんですか」
少女が記憶している兄は紙飛行機など折れない。少女と離れ離れの間に多くの出会いと別れを経験し、新しいことを学んだのだ。
手が小刻みに震える。心臓が高鳴る。
少女はひたむきに縋るような目で、思わず腰を浮かして聞く。
「お兄ちゃんは、生きてるんですか」
男はわずかに口元を緩め、告げた。
「お前は直の拠り所だ。今も」
こみ上げる感情が咽喉に閊え、紙飛行機を抱いて立ち竦む少女の頭をひとなでし、男は去って行こうとする。
「待って!」
知らず少女は叫んでいた。男が立ち止まる。
深呼吸で心を凪がせ、抑圧されるほど凝縮された、愛情と憎悪に駆り立てられて叫ぶ。
「お兄ちゃんに伝えてください。絶対殺しにいくって」
「心得た」
律義に頷く男に一歩踏み出し、尋ねる。
「あなたの名前は……」
襟足を刈り上げた男が振り返りざま達観の笑みを浮かべ、本質と結び付く名を告げる。
「通りすがりの侍だ」
それを聞いた瞬間、兄が守りたい誰かとは自分と彼ではないかと本能で悟った。
少女は明日、退院する。
芝生を敷き詰めた精神病院の中庭では、入院患者が穏やかなひとときを過ごしている。
看護婦に付き添われ遊歩道を散策するパジャマの中年男性、車椅子に乗ってまどろむ老人、木陰で読書する若い女性。
平和を絵に描いたような光景をベンチに掛けて眺めているのは、白いワンピースの少女だ。
年の頃は十代半ば。華奢で色白、どことなく薄幸そうな雰囲気を纏っている。
黒目がちの瞳は無垢な仔鹿さながら庇護欲をくすぐり、背中までたらした黒髪ストレートの髪が楚々と風に揺れる。
揃えた膝には一冊のスクラップブックが広げられていた。
『東京少年刑務所で集団脱獄発生、死者302名に及ぶ大惨事!』『地下の棄民コロニーが脱獄に関与?政府は否定』『未だ行方が掴めず、国外に脱出した囚人も?』
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東京少年刑務所―通称東京プリズンで集団脱獄が発生し、囚人・看守ともに多数の死者がでたのは数年前。
少女の兄の名前もまた、犠牲者リストに含まれている。
東京プリズンの集団脱獄がメディアで報じられた後、少女は医師や看護士に頼みこみ、雑誌や新聞を差し入れてもらい、一枚一枚ハサミで切り抜いた。
この行為が何の意味も持たないとわかっていても、憑かれたように集めずにはいられなかった。
少女の兄はIQ180の知能を誇る天才。彼は唯一妹のみを溺愛し、他を全て嫌悪していた。
鍵屋崎夫妻を殺した犯人は長男の鍵屋崎直……世間的にはそういうことになっている。
両親を刺殺後に逮捕された鍵屋崎直は、犯行の事実を全面的に認め、国選弁護人との打ち合わせに際しても「僕がやった」の一点張り。
現行の法制度において尊属殺人は極刑を免れない。
鍵屋崎直は東京プリズンへの送致が決定し、最愛の妹と引き離された。
兄が収監された東京プリズンがどんな場所か、その実情を知らされたのはごく最近だ。
当時まだほんの子供だった彼女に大人は本当のことを教えてくれず、「お兄さんは悪いことをしたから捕まったんだよ」とぼかして伝えていた。
潔癖症で虚弱体質、エリート中のエリートとして育てられたプライドのかたまりのような兄が、劣悪な監獄でどれほど虐げられたのか……想像しただけでどす黒い罪悪感が胸を塞ぐ。
静かに目を瞑り、膝の上に広げたスクラップブックをなでる。
あれから随分たち、少女は両親を手にかけた兄と同じ年になった。
この病院にも随分長くいる。
収容された当時は酷いものだった。鬱症状、摂食障害、パニック発作……点滴を倒し、枕やクレヨンを投げ付け暴れる少女を、医師や看護士は必死になって取り押さえた。
症状が改善に向かったのは医師や看護士の助力、なにより担当医の斎藤の献身あってこそだ。
少女の担当医の斉藤は、兄の手紙の開封を拒む少女に理解を示し、返事の代筆まで引き受けてくれた。
『お兄ちゃんなんか大嫌い。死んじゃえばいいんだ』
ベッドの上で膝を抱え、頑なに俯く少女に寄り添い、斉藤はこう言った。
『向こうはそうは思ってない』
『先生はなんでお兄ちゃんの味方をするの』
『僕はどちらの味方でもない。常に客観視を忘れず中立でありたいと願っている』
『嘘吐き』
『いいかい恵ちゃん』
斉藤が手に手を重ねる。
『君のお兄さんがした事が正義だとは言わない。殺人は殺人、犯罪は犯罪だ。けれども彼をその行為に駆り立てた動機は、誰かへの強い思いなんじゃないか』
誰かを守ろうとして誰かを害す。
誰かを庇おうとして誰かを殺す。
『今はわからなくていい。許せとも言わない。けれど君がもう少し大人になったら……お兄さんと同じ年頃になったら、別の世界が見えてくるかもしれない』
『どんな世界?』
『自分を犠牲にしても守りたい誰かがいる世界さ』
兄の事は許せない。兄がいたから自分は愛されなかった、両親に振り向いてもらえなかった。
でも、本当にそうだろうか。
兄がいようがいなかろうが、結果は同じだったのではないか。
少女の両親は親として大事な何かがどうしようもなく欠落していた。
緊張で手が震えて皿を落とした時、握力をこめすぎてクレヨンをへし折った時、付き添いの看護士や斉藤が一度でも「できそこない」「役立たず」と蔑んだろうか。
斉藤は常に優しく少女を見守り、大小の失敗を許してくれた。注意する時も一方的に見下す事は決してなく、根気強く諭してくれた。
斉藤や看護士との交流の中で、自分が生まれ育った環境がいかに異常か痛感し、兄がさらされていたプレッシャーにも想像が及び始めた。
私は悪くない。
お兄ちゃんが悪い。
お兄ちゃんが殺した。
お兄ちゃんが私からナイフをとって、それで……。
じゃあなんで、私の手は真っ赤だったの?
頭の中で繰り返した自己暗示が綻び始めた頃、兄の死を告げられた。
少女の世界は再び壊れた。
鍵屋崎恵は人殺しだ。
鍵屋崎直は妹を庇い、自ら罪を被り、東京プリズンに送られた。
「やっとひとりじめできると思ったのに……また横取りしちゃうんだもん。ずるい」
力なく微笑み、細い指でスクラップブックの記事をなでる。東京プリズンの集団脱獄にあらず、鍵屋崎夫妻の殺害を報じた記事だ。
本当に自分勝手なお兄ちゃん。
私の気持ちなんてちっとも考えず、私を守ることに酔っていた。
私はちゃんと裁かれたかった。私がお父さんとお母さんを殺したんだって、みんなに知ってもらいたかった。
お父さんやお母さんや学校のみんなに馬鹿にされてたこの私が、お父さんとお母さんをナイフで刺し殺したんだよって、世界中の人たちをあっと言わせたかったのに。
恵はやればできる子なんだよって、みんなに知ってもらいたかっただけなのに。
鍵屋崎直は、自分勝手な思い込みで最愛の妹の復讐を台無しにしたのだ。
「…………」
トン、タタタン。
スクラップブックの上で無意識に指が動く。ピアノを弾く真似事だ。
精神病院には音に敏感な患者も多く、ピアノの演奏は許可されてない。
恵も数年間演奏をしてないが、画用紙に描いた鍵盤で毎日練習しているので、勘は鈍ってないと信じたい。
『恵ちゃん、よく聞いて。お兄さんが死んだんだ』
『嘘』
『東京プリズンの暴動に巻き込まれて……』
『嘘だ』
点滴を倒す。シーツを引き剝がす。甲高い奇声を上げて暴れる。
だってお兄ちゃんが、私が殺すまで死ぬわけない。鎮静剤を打たれて気を失うまで、少女は半狂乱で暴れ続けた。
大好きで大嫌いな兄をこの手で殺す。
それだけが少女の心の拠り所、生きる目的だった。
兄と連弾した記憶を思い出す。
恵はピアノが上手だな、と眩げに微笑む顔を思い出す。
両親にさえもらえなかった褒め言葉を惜しみなく与えてくれた兄の笑顔は、永遠に失われてしまった。
胸の内に巣食った喪失感、孤独感を埋め合わせる為に少女が選んだのは、ここを出てやり直すことだった。
手はじめにまず名前を変えることにした。
「こんなところにいたのね恵ちゃん。明日の準備はできた?」
「物はまとめておきました」
中庭を横切った看護士に促され、少女は笑顔で頷く。
「恵ちゃんがいなくなると寂しいわね。安田さんとは上手くやっていけそうかしら」
「はい。安田恵って呼ばれるのはまだ慣れないけど」
正直に白状すれば、看護士が声をたてて笑い、「かっこいいお義父さんができて羨ましい」と少女の背中を叩く。
明日、少女は病院をでる。
東京少年刑務所の元副所長・安田順に、正式な養女として迎えられるのだ。
「暴動の責任をとらされて辞任したって話だけど、かえって一緒にいられる時間が増えてよかったわね。なんて、不謹慎かしら」
「安田さんも言ってます、副所長の地位に未練はないって。過労死する前にやめられてホッとしてるとか」
「斉藤先生も一緒なら安心ね」
「はい」
安田は現在、斉藤と一緒に暮らしている。退院後は恵と三人で暮らす。
養女の話を承諾したのは、信頼する斉藤の存在によるところも大きい。
この先ずっと病院の世話にはなれない。幸い数年に及ぶ投薬治療によって症状は安定しており、社会復帰も問題ないと診断された。
養子の話に迷わなかったといえば嘘になる。斉藤はともかくとして安田に至っては赤の他人だ。
少女の気持ちに変化をもたらしたのは、安田のある発言だ。
『私は君の兄……鍵屋崎直の精子提供者だ。簡単に言えば、生物学上の父親にあたる』
『お兄ちゃん、の?』
既に兄と血が繋がりがないことは知っていた。言われてみれば、斉藤に引き合わされた男は兄とよく似ていた。
『鍵屋崎の妹なら広義において私の縁者と言えなくもない。養子に迎えるのはおかしくないはずだ』
『こじ付けだね』
『悪いか』
斉藤に茶化されて気分を害す。
『本当はなんで私を引き取ろうと?』
月に一度の面会を数回経て、養子の話を持ちかけられた恵が面食らって尋ねれば、安田は斉藤と顔を見合わせ、兄そっくりの仕草で眼鏡のブリッジを押し上げた。
『それが彼の望みだからだ』
「彼」が誰を意味するか、直感した。
『彼は私に君を託した。責任を果たしたい』
おせっかいなお兄ちゃん。
お人好しなお兄ちゃん。
最後まで余計なことしかしないお兄ちゃん。
看護士を笑顔で見送った後、小さく独りごちる。
「……なんで殺す前に死んじゃうかな……」
恵が殺してあげたかったのに。
それが生きる目的だったのに。
ホント、最後まで自分勝手。お兄ちゃんは誰も殺してないのに、恵の尻拭いをしただけなのに、そのせいで東京プリズンに入れられて、いっぱいいっぱいひどい目にあって、挙句殺されちゃうなんて。
本当にこれでよかったの?
これがお兄ちゃんの望みだったの?
「…………」
少女は明日ここを出る。
安田順の娘、安田恵として生きていく。
人を殺した報いを受けず、何ら罰を受けず、明日もあさってもしあさっても平気なフリをして生きていくのだ。
養子の話を受けたのは、整理できない感情を無理矢理断ち切る為でもある。
少女も大人になった。
自分の両親が到底親の資格がない人間であること、子供の育て方を間違えていたと認められる程度には分別も付いた。
本当はもっと早く歪みを正さねばいけなかったのに、自分があまりに小さく幼かったせいで、誰かに庇ってもらわねば生きられないほどか弱かったせいで、何もかも歪みきったまま手遅れになってしまった。その皺寄せが全部兄に行ったのだ。
ベンチに掛けて物思いに耽る少女の膝元に、白樺の木立を吹き抜けるそよ風の軌道に乗って、下手くそな紙飛行機が軟着陸。
翼にはみ出た文字に目を丸くし、手早く開く。
それは一枚の便箋。右上がりの神経質な筆跡は忘れもしない、いやというほど見覚えがある。
封も開けずに捨てていた大量の手紙、宛名と差出人の名前は……
「あ……」
間延びした口から驚愕が漏れる。
少女の前に影がさし、長身痩躯の青年が立ちはだかる。
こざっぱりしたシャツとスラックスを身に付け、髪を短く切った男だ。頬骨の高く張った精悍な風貌で、おそろしく姿勢がいい。地面に帯びた影すらも端正だ。
「あなたは誰ですか」
「お前の兄の友人だ」
「お兄ちゃんの」
嘘。
こんなのありえない。
理性が否定する少女の前で、男は相変わらず背筋を正したまま、噛み締めるように呟く。
「一言祝いにきた。達者でな、と」
「初対面なのに」
「さんざん話を聞かされたせいか他人と思えん」
兄の友人を自称する男は遠い目で虚空を凝視、少女の手の中の紙飛行機に視線を移す。
「アイツから預かった」
「お兄ちゃんが折ったんですか」
少女が記憶している兄は紙飛行機など折れない。少女と離れ離れの間に多くの出会いと別れを経験し、新しいことを学んだのだ。
手が小刻みに震える。心臓が高鳴る。
少女はひたむきに縋るような目で、思わず腰を浮かして聞く。
「お兄ちゃんは、生きてるんですか」
男はわずかに口元を緩め、告げた。
「お前は直の拠り所だ。今も」
こみ上げる感情が咽喉に閊え、紙飛行機を抱いて立ち竦む少女の頭をひとなでし、男は去って行こうとする。
「待って!」
知らず少女は叫んでいた。男が立ち止まる。
深呼吸で心を凪がせ、抑圧されるほど凝縮された、愛情と憎悪に駆り立てられて叫ぶ。
「お兄ちゃんに伝えてください。絶対殺しにいくって」
「心得た」
律義に頷く男に一歩踏み出し、尋ねる。
「あなたの名前は……」
襟足を刈り上げた男が振り返りざま達観の笑みを浮かべ、本質と結び付く名を告げる。
「通りすがりの侍だ」
それを聞いた瞬間、兄が守りたい誰かとは自分と彼ではないかと本能で悟った。
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