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感染経路
しおりを挟む僕は雪を見た記憶がない。
半世紀前から続く温暖化現象により都心の気候は激変し、四季はほぼ存在しなくなった。東京は冬でも暖かく雪が降る事は滅多にない。東京プリズンが建つ砂漠だけは例外で、昼は埃っぽく乾燥し夜は氷点下まで冷え込む過酷な環境にあり、昼夜の極端な寒暖差は人の健康を害す。
そう、東京プリズンには冬がある。
骨身まで凍てつく酷寒の季節。
配管の継ぎ目から汚水垂れ流しの不衛生な環境下、コンクリ剥き出しの一般房に暖房設備など勿論なく、防寒対策は各自自己責任となる。
「それで追い出されたわけか」
「ああ。医務室はインフルエンザ患者で満員御礼、軽傷の囚人を診る暇はないそうだ」
現在、東京プリズンでは悪性感冒ー俗にいうインフルエンザウィルスが猛威をふるっている。
粗末なパイプベッドにぎっしり犇めく囚人たち、ベッドをあてがわれているのは風邪をこじらせ肺炎を併発した重症患者、床に雑魚寝しているのは鼻水咳扁桃腺の腫れなど初期症状を呈する患者。右を向いても左を向いても誰かが苦しげに咳き込んでいる。喉を傷めたのか、ベッドに突っ伏して喀血している囚人もいた。そして僕は自己保全本能が命じるがまま、ずらり居並ぶ病床の囚人らにあっさりと背を向け、阿鼻叫喚の野戦病院と化した医務室を早々と後にした。
臆病風吹かせ保身に走ったと後ろ指をさしたいならさしたまえ、犯罪者に利己主義者と非難されたところで痛くも痒くもない。そもそも良心や倫理観といった人を人足らしめる最低条件が正常に機能していたら僕は今頃こんな場所にいない、国家の未来を牽引する優れた人材として有益な研究に携わっているはずだ。
ただでさえ連日の肉体労働で疲弊しきったところに追い討ちをかけられ死に体の患者たち。免疫力の低下に付け込まれればただの風邪が命とりとなる。
同情はしない。明日は我が身だ。
「生憎と僕はデリケートなんだ。菌を伝染されてはたまらないから早々に退散してきた」
「ふむ」
「医師の手をわずらわせるほどの怪我でもないしな」
「擦りむいたのか」
「見ればわかるだろう」
眼鏡のブリッジを押さえつつ不機嫌に答える。
イエローワークの強制労働中転んで膝を擦りむいた。たいした怪我ではないが楽観できない、小さな傷口から雑菌が入って破傷風になるおそれもある。念のため医務室で治療を受けようと思ったのだが、いざ足を運んでみればそれどころではなかった。医務室を切り盛りする老医師は顔半分を覆う巨大なマスクの向こうから至極迷惑そうな視線を向けてきた。意訳、自分で歩けるなら歩いて帰れ。
「擦り傷なら唾をつけておけば治るだろう」
「正気か君は。唾などつけたら汚いじゃないか」
僕の同房のこの男……ざんばらの長髪を後ろで一つに束ね、切れ長の一重瞼の向こうから胡乱な眼差しを向けてくる彼の名はサムライ。もちろん戸籍登録された本名ではなく通称だ。東京プリズンでは本名など何の意味持たない。実質的な力の証明となるのは周囲から与えられる通称の方だ。
サムライは手拭いで木刀を磨きつつまじまじと僕の顔と膝とを見比べる。
「潔癖症だな」
「君が不潔なだけだ」
「……シャワーがない日もちゃんと体を浄めている」
どうやら気分を害したようで、憮然と黙り込む。一見身だしなみに無頓着そうなこの男が、シャワーがない日も手拭いですみずみまで身を浄めていることは知っている。同房の住人なのだ、いやでも目に入る。しかし彼の場合綺麗好きというより寒風摩擦を精神修養とすり替えている気がしなくもない。
ぎくしゃくとベッドに腰掛け、奇妙な性癖を持つ男を睨みつける。
「そこまで気遣うくせになぜひげは剃らない?凡人には理解できない武士の美学か」
「剃刀が手に入らんのだ」
「リョウに頼めば剃刀くらいすぐ手に入るだろう」
「あいつに借りを作るのは気が進まん」
渋々といった口調で言いつつ一際強く木刀をしごく。
最もだ。一度借りを作れば命まで取り立てかねない、それが僕が知るリョウという囚人だ。
「……俺と刃物の取り合わせは危ないとも言われた」
「誰に」
「レイジに」
「なんとかに刃物か」
サムライと刃物の取り合わせが危険視されるのは無理からぬことだ。
何回か木刀での戦闘を目にしたが、一対多数の立ち回りで完全に他を制圧していた。
もし彼が真剣を握ったら……想像しただけで鳥肌が立つ。
「……寒いな」
囚人服の二の腕を抱いて、配管剥き出しの殺風景な天井を無意識に仰ぐ。
こんな寒い夜は雑談に時間を費やさず早く毛布に潜りこむべきだ。
わかっているのに、なぜかこの無口で退屈な男の相手をしてしまう。
隣の房から咳が響く。一種の連鎖反応だろうか、遠く近く咳が唱和する。
東京プリズンに風邪が蔓延しているという事実をしみじみ実感する。
気が済んだのか、今日の務めを終えたサムライがゆっくりと丁寧に木刀を寝かせる。
漸く就寝の支度を始めるかと思いきや、表情の読めない目にわずかに気遣わしげな色を浮かべる。
「足は大丈夫か」
「一応歩けるが」
「痛むか」
質問を微妙に変える。そこで漸く彼なりに気にかけているのだと思い至る。
「……唾液で痛みが和らぐなど迷信だ。唾液の成分に鎮痛作用は含まれてない」
関係ない事を口走り、伏し目がちに視線を避ける。
サムライが静かに歩み寄り、ごく自然な動作で正面に跪く。武家育ちなせいか、この男の立ち居振る舞いはいちいちがため息出るほど端正だ。立って座る、ただそれだけの動作が目を惹きつけてやまない。
「見せろ」
低い声を乗せた吐息が膝に触れ、びくりとする。
冷たい手が膝頭に触れ、軽く傾けてためつすがめつする。
膝を引っ込めることもできた。だがそうしなかった。そうできなかったというのが正しい。
冷たい指が敏感な膝裏を這う。毛細血管の集中した膝裏は性感帯ともなっていて、指が掠るたびに皮膚が妖しくざわめく。
思わず声を洩らしそうになり、慌てて唇を噛み締める。いつも軽々と木刀を扱う節くれだった指が、皮膚を張った柔肉を慎重に揉みほぐす。筋肉で守られてない膝裏にまでもぐりこみ、片手で支え、関節の曲がり具合を確かめる。
彼との接触に抵抗を感じなくなったのはいつからだろう。拒む事もできた、だがそうしなかった。挙句このお遊びの延長めいた一方的触診行為に信頼に似た心地よさまで感じてしまっている。
サムライの手は冷たい。
冷たくて気持ちがいい。
彼の温度が皮膚に沁みて、僕を内側から溶かし侵していく。
手が冷たい人間ほど心が優しいと誰かが言った。
ならば僕はこの手に救われているのだろうか。
実際何度も救われてきた、自分では何もできないくせに口ばかり達者な僕が窮地に立たされるたび彼は何度もこの手で木刀をふるい並み居る敵を倒してきた。
だからだろうか、この冷たい手に身を許す気になったのは。
思い返せば短いようで長い十五年の人生、相手から触れる事を許したのは妹の恵だけだ。
恵。今頃どうしているだろう。ひとりぼっちで寂しがってはいないだろうか。
「!ーっ、」
傷口に疼痛が走る。サムライが顔を顰め、僕の足を掴んで固定する。
「骨に異常はないな」
「なに、を」
「少しの間我慢しろ」
力強い手。もがいても抜けない。
僕が凝然と身を竦ませているすきに無造作にズボンの裾を巻き上げ膝を露出、時間が経過してなお薄く血を滲ます擦り傷へ舌先を近付ける。
ぴちゃり。唾液と血が混じって薄赤く滲む。
「念のためだ。破傷風にならぬよう吸いだす」
「馬鹿、か君は。感染したらどうする?」
目の前の男はひどく生真面目な顔をしている。
冗談で言ってるのではないのはわかった。
わかったが、どうかしているとしか思えない。
咄嗟にあとじさり逃げ出そうとした僕を押さえつけ激しくばたつく膝をこじ開け、しっかりと引いて床と垂直に据え直す。
「う」
熱く柔らかな粘膜がぴちゃぴちゃと肌の上を這いまわる。
薄く引き伸ばされた唾液が脚を伝い、失禁に似て濡れた感触が広がるにつれ羞恥心が燃えたつ。
まるで疑似的な性行為、前戯の代償行為。
この馬鹿で鈍感な男に下心などないのはわかっている、彼は親切でやっているのだ。
おかしいのは、僕だ。
唾液を用いた消毒行為を性的な暗喩を孕んだ愛撫にすりかえ、特別な意味と感情を求めてしまう僕の方だ。
治療行為と前戯の区別もつかないなんて。
「やめ、ろ、く」
肩を掴んで押し返そうとしたそばから腕が弛緩し、だらしなく力が抜けていく。
前屈みに蠢くサムライに縋り付き、あまりによわよわしく押し切るのが簡単な抵抗を口にする。
唇が伝った部位に悩ましく淫靡な熱が広がる。
サムライに抱きつき、シャツの背を皺が寄るほどに掴み、肩口に突っ伏し必死の想いで吐息を呑む。
「……こん、なことをしても、意味はない……」
「俺はいつもこうしていた」
「怪我はなめて治す主義、か。自然治癒力は偉大、だな」
熱を伴いこみ上げる疼きに翻弄される。
下腹部がじんと痺れ、膝が慄き、少しでも気を抜くとその場に崩れ落ちそうになる。
「……っ、これが君流の消毒、か……」
「動くな。やりにくい」
「誰のせいだ、く」
声が途切れる。すっかり触覚過敏になってしまった。至近距離で見上げるサムライの顔はひどく真剣で、けっして僕をからかっているわけではないのだと理解する。
だからこそよりいっそう辱められてる気がする。
唾液の粘りが糸を引く。
透明なぬめりを帯び、赤く濡れ光る傷口が気恥ずかしく直視できない。
柔くはまれ舌でねぶられ、生煮えの掻痒が冷たい手で挟まれた膝裏をじくじくと蝕んでいく。
自分でも知らなかった性感帯を無理矢理に暴かれて開かれていく感覚に、悦びと紙一重の怯えが走る。
「はっ……」
渦巻く熱に溺れそうな恐怖に抗いシャツの背を掻き毟る。
淫猥に濡れた音が耳朶を犯し、シャツに取り縋る指関節が白く強張る。
汗と垢の混じった雄の体臭に包み込まれ、けっして巧くはない、じれったく誠実な舌遣いにゆるやかに追い上げられ膝の痛みが次第にむず痒さに紛れていく。
「もういい……やめろ……やめてくれ」
じくじくと傷が痛む。それ以上に胸が痛む。
僕の膝から汚れた血を吸いだし、手拭いに吐き捨てる。
「終わったぞ、直」
肩で息をしつつ、どこまでも鈍感なサムライを突き放しベッドに戻る。
膝の痛みが薄らいだ代わりに、違う疼きに支配されつつある体を持て余しぐったりと仰向ける。
「はっ……はぁ……」
しどけなく膝を崩す。シャツの裾が乱れて貧相な腹筋とへそが覗くが、手を動かし整える気力も尽きた。ただ唇が触れただけ、それだけだ。やましい意図をもって成された行為ではないと頭では分かっていても、彼の唇になぞられた場所が発情したように疼きをこもらせるのはどうともしがたく、口を手で覆い吐息の上擦りをひた隠す。
「そんなに痛かったのか」
「そうじゃない……君の唇が熱すぎるんだ」
何を言ってるんだ、僕は。
眼鏡が吐息で曇る。
サムライの肌を、唇を、その吐息を特別熱く感じてしまうのは今が冬だからだ。
雪など降らなくても東京プリズンは十分寒い。
「俺の唇が?」
一回瞬きをし、虚を衝かれたように唇をなぞるしぐさが憎たらしい。怪訝な表情で見詰めるサムライにそっけなく背を向け、毛布を被って沈黙に逃げこむ。
「待て、手拭いを巻かせろ」
「そんな汚い物を巻いて雑菌が入ったらどうする」
「ちゃんと洗ってる、汚くなど」
「君が毎日体を拭いてる手拭いだろう」
「………」
暴言に腹を立てたのか、説得を諦めて大股に帰っていく気配に安堵する。今の見苦しい状態をほかならぬ彼に知られるのだけはプライドが許さない。
彼の唇に癒されたなど断じて認めたくない。
彼の唇は生傷を抉るように優しくて、僕の隠しておきたい欲望をちりちりと燻らせ、微弱に吹きかける吐息でもっていやおうなく煽り立てる。
僕は彼というウィルスに感染している。
きっともう末期で手遅れだ。
だからこんなにも体が熱いのだ。
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