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三百三十話
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「くはぁあ~」
目をしょぼつかせた囚人が並ぶ中、手の甲で瞼をこすりこすりあくびを連発。
「リョウさん、気の抜けるあくびしないでくださいよ。脱力っス」
「だあって眠いんだもん、こんなとんでもない時刻に中庭集められてさー。で、これから何が起きるのかな。東西南北の囚人全員が中庭に呼び出されるなんて東京プリズン始まって以来の異常事態じゃん。天変地異の前触れかな。ちょっとわくわく」
「不謹慎っスよリョウさん、あくびは慎んでください。とばっちりで看守に目え付けられるのこりごりっス」
眠気覚ましに食べかけの板チョコを取り出す。昨日看守に貰ったハーシーの板チョコがまだ三分の一残ってる。フェラチオよくできたご褒美に貰ったチョコは一枚こっきりじゃない、房に帰ればまだまだ沢山ある。ロンにやったところで惜しくはないのだ。
手に力を込め銀紙に包まったチョコを分割すれば小気味良い音と手ごたえが伝わる。
「ビバリーチョコ食べる?」
「リョウさん何やってんすか、集会中にチョコ食ってるのバレたらやばいっすよ!?」
「かたいこと言いっこなし。集会見張ってる看守の中に僕がいつもフェラしてるヤツ何人か混ざってるもん、小悪魔の魅力で特別に見逃してくれるさ」
真面目くさってお説教するビバリーに悪戯っぽく微笑みかけてチョコの片割れを握らせる。これで共犯。心の中で舌を出した僕をおっかない顔でビバリーが睨み、降参のため息を吐く。「自分で小悪魔とか言わないほうがいいっスよ、年齢的にきついっス」とか余計なお世話をぼやきながら一口大に砕いたチョコをつまむビバリーの横ではむはむチョコを齧る。甘く濃厚なカカオの味が舌の上で溶け広がり、血糖値の上昇とともに体が温まる。
今日は朝から変だった。
東西南北の全囚人が早朝中庭に集められるなんて前代未聞の出来事、前例のない事態だ。さてこれから何が始まるんだろうと好奇心を膨らませて人ごみの向こうを透かし見れば異様などよめきが押し寄せる。
「リョウさんあれっ!」
血相変えたビバリーの視線を追い、驚愕。
犬だ。犬がいた。一目で血統書つきだとわかる高級な毛艶のドーベルマンが荒い息を零しながら四肢をそびやかしていた。なんで東京プリズンに犬が?砂漠のど真ん中に隔離された刑務所には犬どころか猫の子一匹いやしないはずなのに……
「おっかないわんちゃんだねえ。絶対お手とかしなさそう」
「注目すべきはその隣の人間っス!!」
ビバリーが興奮の面持ちで急きたてる。
ドーベルマンの隣には一人の男がいた。仕立ての良い三つ揃いを完璧に着こなした、特権階級の傲慢さを匂わせる中年男。整髪料で固めたオールバックは年齢には不自然なほど黒々と輝いて秀でた額を強調していた。縁なし眼鏡の奥の双眸は鋭敏な知性とエリート故の傲慢さを宿していたが、爬虫類めいた嗜虐性が透ける残忍な眼光は誰かを彷彿とさせた。
東京プリズン最低最悪の看守の呼び声高いあの男を……
「タジマ!?」
思わずビバリーの肩を掴む。いや、タジマじゃない。だけどよく似てる。痩せぎすの体を高級スーツに包んだ中年男は体重こそ30キロ以上違うが、血縁関係を匂わせるほどにタジマの面影を宿していた。
タジマに瓜二つの男は威張りくさって自己紹介する。
「囚人諸君、初めまして。この私こそが無能な元所長に成り代わり新たに東京少年刑務所の所長に就任した政府直々に派遣された優秀かつ完璧なるエリート、やがてはこの日本を掌握するエリートの中のエリート、君たち愚鈍なる家畜を徹底的に管理教育して従順な牧畜へと調教せよと任命された……」
一呼吸おいて、言う。
「但馬 冬樹だ」
但馬。タジマ。
「タジマのおにいさん……?」
どうりで似てるはずだと納得する。但馬新所長は大上段の演説に陶酔して尊大にふんぞり返ってる。僕も噂に聞いたことある、タジマの実兄は警察庁高官のエリートで将来を嘱望されてるって。あれは事実だったのか。でもなんでこんな突然?警察庁高官のエリートがこんな砂漠くんだりにまでやってきたわけ、存在感の薄い所長の辞任だって僕ら囚人には何も一言も知らされてなかったのに。
中庭を埋めた囚人誰もが驚天動地の衝撃に打ちのめされてる。
そりゃそうだ、せっかく東京プリズンの寄生虫タジマが消えて喜んでたのにたった二週間でまた舞い戻ってきたのだ。今度やってきたのは兄だけど第一印象から最悪だ。動揺する囚人を貫禄たっぷりに見まわしてタジマ兄こと但馬新所長は饒舌に告げる。
「諸君らも知ってのとおりここ東京少年刑務所は凶悪犯罪を起こした少年の為の更正施設である……というのは建前で、実際には政府に見放された無法地帯だ。口にするのも汚らわしいが、この刑務所では囚人間の暴力や陵辱が蔓延して退廃を極めている。まったくひどい場所だ。諸君らは聖書にでてくるソドムとゴモラの逸話をご存知かな。なに知らない?聞きしに勝る愚鈍さだな。まあいい、ならば教えよう。私は寛容な精神の持ち主だ、無知蒙昧な家畜どもに新たな知識を授けるのも新所長の努めだ。姿形は人間に似せていても心はけだもの家畜以下人未満、そんな諸君らにこそ知っておいてもらいたい教訓だからな」
縁なし眼鏡のブリッジに繊細な中指を添え、神経質に押し上げる。
レンズ越しの眼光がますますもって鋭さを増し、切れ長の双眸が侮蔑の針を含む。
「ソドムとゴモラは旧約聖書の創世記に登場する、天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされる都市のことだ。何故滅ぼされたかには諸説あるが甚だしい性の乱れを原因とする見解が一般的だ。ソドムとゴモラの民は実を結ばぬ背徳の快楽に耽った、つまりは同性愛が流行したのだ。中世欧州で猛威をふるった黒死病のごとく、な。ここはまさに現代のソドム、背徳の都だ!
しかし私が来たからにはそうはさせない、私は救世主のごとく砂漠の最果てに降臨し必ずや改革を断行する!東京少年刑務所の規則がゆるいからこそ諸君ら囚人が欲望の赴くまま快楽を貪り風紀を乱すのだ、私が所長に就任したからには今までのように諸君らの好きにはさせない、今ここに綱紀粛正を宣言する!!」
自分の演説に興奮した新所長が眼鏡の奥の目を血走らせ、力一杯こぶしを振り下ろす。カリスマ扇動家か自己陶酔の為政者を思わせて大仰に芝居がかった動作。エリート然として冷静な仮面の下から覗いた激しい気性と迸る熱意に誰もが圧倒される。
主人の昂ぶりに感化されたか足元に行儀良く傅いたドーベルマンがさかんに吠えだす。鼓膜が破れんばかりにうるさい鳴き声に前列の囚人が顔を顰めて耳を塞ぐが新所長は動じない、どころか「愛い奴だ」と微笑を上らせて犬の頭を撫でる。
主人に撫でられた犬が甘えるように鳴いて濡れた鼻面をズボンに擦り付ける。
犬の頭を妙にいやらしい手つきで撫でながら新所長は目を伏せる。
「私の弟もかつてここにいた。東京少年刑務所で主任看守を勤めていた」
タジマのことだ。
場に緊張が走り、空気が硬化する。
にわかにざわめき始めた囚人たちをよそに新所長は苦い顔で吐き捨てる。
「『あれ』は出来損ないだった。私の経歴に傷をつける不肖の弟だ。まったく、どこまで私に迷惑をかければ気が済むんだ?話によれば、『あれ』が下半身付随の障害を負ったのはここでの事故が原因だそうだな。しかし妙な話だ、ただの事故で処理するにはあまりに不自然な点が多すぎる。頭上に照明が落下した?照明とはそんなに簡単に落ちるものなのか、余程の衝撃が加わらねば落下などしないはず。誰かが照明に工作して故意に落としたのではないか?」
実の弟が下半身付随の障害を負ったことを哀しむふうでもなく、ただ淡々と事実だけを述べる不感症な口調は鍵屋崎に似ていたが、新所長の口ぶりにはどこか猛烈に生理的嫌悪を掻き立てるところがあった。
要するに陰湿陰険なのだ、どこをとっても。
「―まあ、いい。犯人が判明するのも時間の問題だ。『あれ』を負傷させた犯人はやがて自ら名乗りでるだろう」
新所長が薄く笑う。
「私の使命は諸君ら愚鈍なる家畜を従順な牧畜へ教育することだ。くれぐれも恩情など期待せぬよう忠告だ。反抗する者には容赦なく鞭が振るわれる。鞭が欲しくなければ従順な家畜に徹することだ、私の命令には決して逆らわぬことだ」
剃刀めいた切れ味の笑みを口元に刷いた新所長が、背筋が寒くなる威圧的な声音で言い含める。脅迫。東京プリズンにまたぞろとんでもない男がやってきた。戦々恐々首を竦めた僕は演台の下、新所長の傍らに控えた眼鏡の男に気付く。
安田だった。ここ二週間ばかり姿を見ていなかった安田がいた。銃を紛失した不祥事を上に責められて副所長退任かと囁かれた安田が苦渋の面持ちで新所長に付き従っていた。新所長に最も近い位置にいるのはドーベルマンで安田はその横、演台の下に立たされていた。
犬より下位に甘んじる屈辱に安田の顔もさすがに歪んでいる。
見たところ新所長を補佐する秘書役を仰せつかったらしいが、安田はその抜擢が不本意らしく銀縁眼鏡の奥の目には自己嫌悪の色が浮かんでいた。
「副所長も大変だ。中間管理職はつらいよってところかな」
「呑気なこと言ってる場合じゃないっスよリョウさん、あの新所長見るからにやばそうじゃないっスか!マルコムX並の強硬論者っスよ、扇動家っスよ!冒頭挨拶で本人意識してか無意識かわかりませんが三回も『エリート』くりかえすなんてマトモな神経じゃないっス!」
安田に同情した僕の横でビバリーがあわあわ取り乱す。わかってるよそんなこと、一目瞭然じゃないか。タジマに激似のタジマ兄は弟に負けず劣らず嫌な性格で、囚人に対する偏見と憎悪に凝り固まった陰険エリートで、僕らを見下す目つきや嘲る口調には露骨な悪意が含まれていた。
「どうしようどうしようどうしましょう、タジマが去ったと思えばすぐタジマ兄が……東京プリズンはタジマ兄弟から逃れられない宿命なんすか、タジマは永遠に不滅っスか、僕ら囚人に明日はないんスか!?」
ビバリーは完全にパニックに陥っていた。他の囚人も似たり寄ったり、隣り合った奴とつつきあってひそひそ話を交わしてる。誰も彼もが怯えた小動物のように身を縮めて但馬所長の顔色を窺いその一挙手一投足に過敏に反応する。
中庭に充満する暗澹たる空気。
安田は沈痛な面差しで黙り込んでる。他の看守は緊張の面持ちで直立不動の姿勢をとってる。囚人間の内乱が収まらないうちに恐怖政治が幕を明けた。これから始まる激動の日々を予感して二の腕を粟立てた僕の耳を野太い怒声が貫く。
「そこ、うるさいぞ!!新所長就任の挨拶中だ、私語は慎め!!」
早朝の大気をびりびり震わす看守の怒鳴り声。囚人のしゃべり声よりよっぽどうるさいよとぼやきながらそっちに目をやれば看守数人が僕らから少し離れた場所の囚人二人にとびかかりあっというまに取り押さえる。
看守の下敷きになった囚人に目を凝らした僕は「あっ」と叫んでしまった、看守数人がかりで地に這わされたのが東棟噂の二人ロンとレイジだったからだ。
まわりの連中は皆びっくりして看守と激しく揉み合うロンとレイジを見比べてる。間抜けな話、タジマ兄の強烈な個性に度肝を抜かれて演説に聞き入る余りロンとレイジが乳繰り合ってたのに全然気付いてなかったのだ。
くそ、ロンとレイジの乳繰り合いの現場見逃すなんて惜しいことした!僕にあるまじき失態だ。鍵屋崎とサムライもぎょっと目を見張ってる、まさか至近距離でふたりがいちゃついてるなんて想像だにしなかったんだろう。
人前での乳繰り合いが発覚したレイジは「ちっ、いいとこだったのに」と舌打ち、ロンは仏頂面をしてる。ともに看守に組み伏せられた二人に演台上の但馬所長が着目、不快げに口元を歪める。
帯電したように場の空気が緊迫する。
縁なし眼鏡の奥の目を爬虫類めいて陰湿に光らせた所長が独白。
「やはり。前任者が無能だったせいか、ここの囚人は躾がなってない」
陰湿な光に濡れた双眸に嗜虐の悦びを疼かせて、所長が命じる。
「その囚人二名を私のもとへ連れて来い。就任演説の妨害の代償にふさわしい刑罰を与えよう」
『見せしめ』。反射的にその言葉が閃いた。演台に立った所長が顎をしゃくり、後ろ手に絞め上げられ抵抗を封じられたロンとレイジが中庭前方へと強制連行される。看守に引きずられていくロンとレイジの背後で駆け出す構えを見せた鍵屋崎をサムライが止める。
看守数人がかりで二人が強制連行される姿は捕虜の引き回しに似ていた。衆人監視の中、好奇の注視を浴びて前方へと引き立てられたレイジとロンを一瞥、所長が階段を下りる。
軍人めいて律動的な歩調で足を繰りだし、黒い光沢の革靴でコンクリを叩き、硬質な靴音を響かせる。静寂の箱庭に響く規則正しい靴音が、なおさら不吉な予感を煽りたてる。新所長の隣には漆黒の毛艶の犬がぴたりと寄り添って大胆な歩調に合わせて脚を繰り出していた。
中庭を埋めた東西南北全囚人が固唾を呑んで見守る中、靴音が止む。
演台を下りた所長がロンとレイジと向かい合う。
「私の就任演説を妨害したのは君たちか」
口元に笑みさえ浮かべた穏和な口調で所長は問うたが、目は少しも笑っていなかった。
「見てのとおりだよ。でも妨害は大袈裟だろ?俺たちはあんたのつまんない話聞くより楽しいことしてただけなんだからさ」
「!ばかっ、」
揶揄する口ぶりで言ってのけたレイジにロンが声を荒げる。両手が自由ならきっとレイジの口を塞ぎにかかってたことだろう。レイジの正面に佇立した所長はいっそ愉快げに問いを重ねる。
「ほう。私の話が退屈だと言うのか。貴重な意見だから今後参考にしたいね。一体どこらへんがお気に召さなかったと?」
「馬鹿にすんなよ。ソドムとゴモラの話なんか常識だ、聖書をかじったヤツなら誰でも知ってる有名な話さ。いまさらあんたに教えてもらうまでもなく教訓得てるよ」
「教訓得てるやつのヤることかよあれが……」
恨みがましい目つきのロンをよそに大胆不敵に挑発、僕たちから見りゃいっそ痛快なほどに反抗的な態度のレイジを前に所長が微笑む。最もそれは、笑顔に分類するにはあまりに邪悪な表情……底暗い嗜虐の悦びに目覚めた背徳の笑顔だった。主人の感情の波に反応して足元の犬が唸る。今にもとびかかりそうな気迫を漲らせ、獰猛に犬歯を剥いてレイジとロンを威嚇する。最前列の囚人何人かが逃げ腰の悲鳴をあげる。
「………っ、」
ロンの横顔に焦燥の汗が滲む。そりゃ怖いだろう、正面じゃ敵愾心剥き出しのドーベルマンがしとどに涎を垂れ流して犬歯を光らせてるのだ。その気になりゃすぐ睾丸噛みちぎれる距離で狂犬が唸ってたら僕だって平常心を保ってられない。ビバリーも股間を押さえて縮こまってる。
「……なるほど、この刑務所にも信心深い囚人がいたようだ。嬉しいね」
レイジの博識を称賛した所長の視線が、ロンの尻ポケットに移る。正確にはロンの尻ポケットに無造作に突っ込まれた矩形の菓子……皺くちゃの銀紙で包まれた板チョコに。
「これはなんだ」
「!」
ロンが「やばっ」という顔をした。ロンの尻ポケットに手を伸ばし、抜き取った板チョコをしげしげ眺め、顔に近づけて匂いを嗅ぐ。
「チョコか。これは奇妙な、囚人の時間外飲食および嗜好品の持ち込みは規則で禁じられてるはずだがどこから手に入れたんだね。よくよく観察すれば卑しく齧った形跡があるじゃないか」
「……知らねえよ。落ちてたんだよ」
「君はそこらへんに落ちてるものを拾って食うのか。賞味期限が切れてるかもしれない、毒が仕込まれてるかもしれない、食中毒を起こす危険性があるやもしれない物を?見下げ果てた野良め」
「………」
ロンの顔が屈辱に歪む。僕は内心ひやひやしていた。ロンにチョコを渡したのは僕だ、ロンに名指しされたらどうしようとびくびくしていた。
「素直に言いたまえ。このチョコはどこから入手した、誰に貰ったのだ。犯人を教えてくれれば今回だけは特別に見逃そう」
所長は薄く笑いながらロンに取り引きを持ちかけた。僕を裏切って自分が助かるか、黙秘を貫いて罪を被るか究極の二択。ロンは反抗的な目つきで所長を睨みつけ、精一杯ドスを利かせた声音で反駁する。
「……拾ったんだよ、本当に。廊下に落ちてたんだ。誰かが食べかけで捨てたんだよ。俺は昨日夕飯ぬきで腹減ってたから食べ残しでもいいやってとびついたんだ、賞味期限切れで腹くだしたって構わねえやってそれで」
所長が銀紙を破いておもむろに板チョコに齧りつく。下顎に力を込め、板チョコを半分に断ち割る。あ然として言葉を失ったロンと囚人一同の前で所長は猛烈な勢いで板チョコを食べ始めた。バリバリと音が聞こえてきそうに豪快な食べ方。
「甘い。糖分過多だ。糖尿病になってしまいそうだ」
あたりまえだ、チョコなんだから。異様な光景だった。所長は口のまわりが汚れるのも構わずひたすらチョコを貪り食った、無表情に黙々と口だけを動かしてチョコを咀嚼して飲み下した。
過食症の人間が美味くもないチョコを頬張ってるみたいだった。
機械的な動作でチョコを口に運びつつ、所長は言う。
「私が糖尿病になったら責任をとってくれたまえよ、君」
そしてとうとう、ぺろりとたいらげてしまった。手近の看守に顎をしゃくり、小さく握り潰した銀紙を渡した所長の膝元に息を荒げた犬が纏わりつく。尻尾を振り振り、ズボンの膝に前脚をついて舌を垂れた犬の視線に屈み込んだ所長が砕顔する。日常の溺愛ぶりが知れる蕩けるような笑顔だった。
「よーしよし、可愛いハルめ。お前も食べたいのか、分け前が欲しいのか。いいだろうくれてやろう、さあ遠慮なく舐めろ。はは、そんなに慌てるな。まったく可愛いやつだな!」
犬が嬉しげに吠えて所長の腕の中にとびこむ。高級スーツが泥で汚れるのも構わず愛犬を抱擁した所長の顔を長い舌が撫で、口のまわりに付着したチョコを舐め取る。
所長の顔が涎でべとべとになる。犬が吐く息で眼鏡が仄白く曇って表情が見えなくなる。
「……うへ……」
所長の奇行に直面した囚人は完全に引いていた。
嫌悪の表情を隠しきれないのは看守も同じだ。
犬に自分の顔を舐めさせながら所長は恍惚と笑っていた。
「ハルよ、お前は私の自慢の犬だ!この世でいちばん賢い犬、犬の中の犬、人が造り給いし最高の血統だ。嗚呼、食べてしまいたいほど愛しい!お前の賢さを愚鈍な囚人どもにも分けてやりたい、お前の肉球の爪の垢ほどの忠誠心さえあれば折檻されずに済むというのに、こいつは全く度し難い愚か者だ。犬ほどの知性もない愚か者だ!」
涎まみれの顔で哄笑をあげ、紳士的な動作で犬をどけ、立ちあがる。
「君にチョコを渡したのは誰だ。白状したまえ」
「………あ、」
ロンが喘ぐように口を開く。待って、その先は言わないで!僕の願いが通じたのか、一旦開いた口をまた閉じ、黙りこくる。
強情な顔つきで沈黙したロンを一瞥、所長が顎をしゃくる。
「!!痛あっ、ぐ!?」
「ロン!!」
背後の看守が容赦なくロンの腕を捻り上げる。激痛にロンの体が跳ねて、鍵屋崎が悲痛に叫ぶ。サムライの制止を振り切りロンを助けに駈け出そうとする鍵屋崎、新所長の異常さに絶句する囚人と看守、「お願いだから名前ださないで」とビバリーにひしと縋りついて祈る僕―
「俺だよ」
呟いたのはレイジだった。
「聞こえた?こいつにチョコやったのは俺。疑うんなら銘柄言ってやろうか?ハーシーだよ。俺がこっそり隠し持ってたヤツの賞味期限切れたからコイツにやったんだ。むざむざ鼠のエサにすんのはもったいねーしな。いいだろうもう、コイツはただ俺から貰ったチョコ食っただけ。犯人は俺、コイツはとばっちり食っただけ」
看守、囚人。中庭を埋めた全員の注視を浴びてレイジはヤケ気味にぶちまけ、ロンが何か言いかけたのを遮るように語気鋭く命令。
「いいから向こう行ってろ。俺はハーシーの回し者なんだ、ハーシーの良さを宣伝する為にアメリカ本社から極秘裏に派遣されたスパイなんだよ。お前が美味そうにチョコがっついてるの見て目的は達した、悔いはねえよ。ハーシーへの義理も立つってもんさ」
「意味不明だよ!?」
満足げな表情で嘘八百を並べ立てるレイジにロンが脊髄反射でツッコミを入れる。所長が興味が失せたようにロンを一瞥、「連れていけ」と看守に顎をしゃくり退場させる。看守に引きずられて人ごみへと連れ戻されるさなかロンは虚空を毟り取るように手を伸ばしてレイジを呼んでいた、何とかレイジを振り向かせようと一生懸命に声振り絞り暴れていた。
「レイジお前格好つけやがって、デタラメ吐くなよ、フィリピ―ナの癖にハーシーに魂売りやがってマリアが哀しむぞ!!畜生、ヤンキーゴーホーム!俺庇ってつまんねえ嘘つきやがって、放せよ、俺はあいつに用あんだよ!」
レイジはわざとらしく耳をほじりほじりロンの抗議をどこ吹く風と聞き流す。いっそあっぱれなすっとぼけぶりだった。
人ごみに連れ戻されたロンからレイジに視線を戻した所長が無感動に再確認。
「君が犯人か」
「そう言ったろ」
退屈そうに欠伸を噛み殺したレイジの頬へと手が伸びる。
その場に集った誰もがレイジが絞め殺される光景を予期して身構えた。看守に腕を掴まれたロンが顔から血の気が引いて、鍵屋崎とサムライは走り出そうとした。ところが、大方の予想を裏切って所長の手がレイジの首を絞めることはなかった。
チョコでべとべとに汚れた手が、茶色に染まった指が、そっとレイジの頬に触れる。蜘蛛が這うように緩慢な動きで手がのたうち、執拗に指を擦り付ける。
レイジの頬を包んだ手の平が傾いで五本の指が蠢動、頬の輪郭をなぞるように緩慢に滑り落ちてはまた這いあがる。口の中に生唾が湧き出す扇情的な光景。チョコでべとついた指が上下するたび褐色の頬に濃茶の筋がひかれる。口端にふれる親指、唇の膨らみをなぞる人さし指、端正な鼻梁に添える中指、切れ長の目尻におかれた薬指、下顎にかかる小指……
指で顔を犯される不快感にレイジは隻眼を細めて耐えきった。
レイジの頬で指の汚れを拭き取った所長が、茶色の虹彩を覗きこむ。
「肌が褐色だと汚れが目立たないな」
レイジはぺろりと舌を出して口端の染みを舐め取った。
「あま」
そして、懲りない笑顔を見せる。
「ちゃんと歯あ磨いたほうがいいぜ。虫歯になる」
東京プリズンに新たに赴任した所長と東棟の王様が一歩も譲らず対峙する。吐息のかかる距離で互いの顔を見据えて瞬きもしない二人の周囲で緊張が高まる。僕は知らず知らずのちにビバリーにしがみついていた。ロンは今にもとびだしかねん形相で所長に敵意を燃やしていたが、後ろ手を掴まれて身動きできない状態だった。鍵屋崎とサムライは肩を並べて慄然と立ち尽くし、その他大勢の囚人は不安と好奇心が綯い交ぜとなった複雑な面持ちで成り行きを見守っていた。
犬の唸り声だけが地を這うように低く流れる中、レイジの顔を舐めていた所長の視線が首筋を這い下りて十字架に達した。レイジの胸で輝く黄金の十字架。
『!Stop,』
所長が虚空に手を伸ばし、無造作に十字架を毟り取る。僕はこの日初めてレイジの顔に焦りが浮かぶのを見た、レイジの平常心が揺り動く決定的瞬間を見た。レイジが十字架を死守せんと行動をとるより早く、所長の意を汲んだ看守がレイジを後ろ手に絞め上げて身動きを封じた。
それはそれはあっけなく。
華奢な鎖が千切れ、無数に連なる黄金の玉が弾けて、虚空にばらまかれる。
コンクリの足元一面に十字架を繋いでた玉が散らばる。
看守の足元にも囚人の足元にもその玉は転がってきた、僕の足元にも転がってきた。レイジの胸から力任せに毟り取った十字架を掌中に握り込み、頭上に翳してしげしげと見つめる。
「陳腐な十字架だな。安物か」
「本物の黄金だよ、マリアがくれた十字架だよ、返せよブラザーファッカー!!」
「真実か否か試してみよう」
手負いの豹のように暴れるレイジを看守が数人がかりで必死に押さえ込むさまを横目に、腰を屈めた所長が犬を招いて掌に乗せた十字架を突き出す。犬がくんくんと鼻を鳴らし興味深げに顔を近付ける。
手も足も出ないレイジの前で、鼻を蠢かして匂いを嗅ぐ。
「……やめろ」
犬が獰猛に唸り、所長の手の平に乗った十字架に向かってさかんに吠えたてる。耳に痛い吠え声。所長の口元に勝利の笑みが滲む。漆黒の毛艶の犬が口腔から滝のように涎を垂れ流して十字架にむしゃぶりつく、異様に長い舌を出して十字架を舐め転がして涎まみれにする。黄金の十字架が涎にまみれていく、さっきまでレイジの胸で輝いていた十字架が獣臭い息を吐かれて涎を浴びせられて貶められていく。
「やめ、ろ」
余裕を捨て去った顔と声でレイジが反駁。
「どうだ、美味いか。黄金の味がするか。もっとよく舐めてみろ、表裏余すところなく舐めてみろ」
犬は主人の命令に従う。何から何まで言われた通りにする。主の手の平に乗った十字架を舐め転がして口腔に含んで味を反芻、ぺっと吐き出してからまた咥える。興奮して牙を立てる。噛みつく。しゃぶりつく。
十字架が、犬に陵辱される。
『食吃鬼狗!!』
看守に羽交い絞めにされたロンが激しく身悶え、意味はわからないが切羽詰った台湾語で咆哮をあげる。
「レイジの十字架から離れろバカ犬、蹴っとばすぞ!!餌と勘違いして尻尾振ってんじゃねえ、そりゃレイジがお袋から貰った大事な十字架なんだ、犬畜生ごときがさわっていいもんじゃねえんだよ!食べんな咥えんなしゃぶんな、とっとと吐き出せ、思い出汚すんじゃねえこのバカ犬!」
頬を鮮やかに紅潮させ犬歯を剥いてロンがしゃにむに叫ぶ。憤怒にこぶしをわななかせるロンの視線の先では犬が相変わらず十字架を玩んでいた。
肉球で転がして口腔奥深く咥え込んで牙を突き立てる。
十字架を貪欲にしゃぶり尽くす犬を見下ろして所長は満足げに微笑んだ。
そして、おもむろに十字架を捨てた。
「!」
所長の手から投げ捨てられた十字架は虚空を舞い、落下。砂利に塗れて黄金の輝きがくすんで、レイジの胸にあった時の名残りが跡形もなく消え失せる。犬は待ってましたといわんばかりに十字架にかぶりついた、ちぎれんばかりに尻尾を振って前脚で十字架を押さえ付けて顎で噛んだ。
犬の傍らに片膝つき、頭を撫でながら囁く。
「お前の玩具だ。好きにしていいぞ」
レイジは呆然としていた。目の前で十字架が蹂躙されても手も足もでず立ち尽くしていた。屈強な看守数人がかりで拘束されてはさすがにレイジといえど跳ね返せず、十字架が汚されてくさまを虚しく見守るしかなかった。
どれ位時間が経った頃だろう。疲労に息を荒げた犬が独り遊びに飽きて、踵を返す。そして、後ろ脚を高々上げる。まさか。ビバリーが両手で目を覆う、ロンの顔が悲痛に歪む、鍵屋崎が虚空に手を伸ばす、サムライが無念そうに瞠目する。
しゃああああ。
音が、した。黄色い液体が弧を描いて迸った。犬が放尿した。砂利に塗れて輝きの失せた十字架に勢いよく尿を浴びせた。十字架を覆った砂利が尿で洗い流されて皮肉にも燦然と輝きが甦った。
気持ち良さそうに放尿した犬が甘えるように鼻を鳴らして主人のもとへ戻る。その頭を撫でてやりつつ十字架に歩み寄り、無慈悲な一瞥をくれ、革靴で執拗に踏み躙り砂利をかけたのち蹴り飛ばす。
視界から汚物を排除したい衝動に突き動かされて十字架を蹴り飛ばしたのは明らかだった。
「規則では私物の持ち込みは禁止だ。今後私の目に装身具が触れたら例外なく取り上げてハルの玩具にする。ハルは貴金属に目がない犬だから彼の二の舞になりたくなければ諸君らも心しておけ」
縁なし眼鏡のブリッジを押し上げ厳粛な静寂が支配する中庭を睥睨、溜飲を下げた所長が看守を率いて踵を返す。看守に後ろ手を締め上げられたレイジは虚ろな目で十字架を見つめていた。
前髪に表情を隠し、壊れた人形めいて首を項垂れたレイジの傍らを通りすぎざま、所長が何かを囁いた。
「匂いがつくから早く洗ったほうがいいぞ。私は破棄を勧めるがな」
僕にはそう言ったように聞こえた。
所長が通りすぎると同時に腕の戒めが解かれ、レイジがよろけるように前に出て、十字架の前に膝をつく。ズボンの膝が犬の小便で汚れるのにも頓着せず、十字架に手を伸ばし、掴む。犬の小便に濡れた十字架からは強烈な異臭が漂っていたが、レイジは迷うことなく十字架を掴んで上着の裾で拭いた。何回も何回も繰り返し上着の裾に包んで擦り付けて丹念に汚れを拭き取った。
なにかに憑かれたように必死に、掌中の十字架に縋るように必死にその動作をくりかえした。
遠くで犬の鳴き声がする。しらじらと夜が明ける。すべての事物の輪郭を克明に暴き出す太陽のもと、全貌を曝け出した中庭にただひとり膝を付き、懐に十字架を抱いたレイジは項垂れていた。
やがて。緩慢な動作で十字架に顔を近付け、匂いを嗅ぎ。
折りよく一条の朝日が射して、前髪に隠された表情が暴かれる。
「……はは。くせえ」
困ったように、笑った。
あんまり滑稽で情けなくて、胸が痛くなる笑顔だった。
[newpage]
タジマが東京プリズンに凱旋した。
僕が見たものは幻覚ではなく現実だった、生身の肉体を持って現実に存在する人間だった。ただしそれはタジマとよく似た別人、タジマの実兄だった。
タジマの兄を名乗る新所長は囚人への顔見せとなる今朝の集会で、東西南北全囚人が固唾を呑んで凝視する中、生贄を召喚して見せしめの儀を執り行った。
生贄の胸に輝く十字架を取り上げ犬の餌食にして徹底的に貶めた。
レイジが拠り所にしていた十字架は汚された。
犬の涎にまみれた挙句に放尿された十字架は彼の手の中で悪臭を放つ汚物に成り果てた。レイジの胸で輝いていた頃の名残りは留めず、犬に噛まれたあとがへこみ、地面に叩き付けられた際に擦れた表面には細かい傷が付いていた。
強制労働開始の時刻が迫っていた。
中庭に居残る囚人に業を煮やした看守が警棒を振り上げ、野次馬を散らしにかかる。警棒に追い立てられて中庭を後にする囚人に混ざり、僕もまた踵を返した。いかなる理由があろうと強制労働は休めない。遅刻者には厳罰が下る。立ち去り際に振り向けば、レイジはのろのろと腕を伸ばして方々に散らばった玉を集めていた。
自我を持たない人形めいて空虚で緩慢な動作。
前髪の隙間から覗いた隻眼には光がなく、ただ虚ろだった。
レイジは一つ一つ丁寧に周囲に散らばった玉をつまみ上げ、掌に載せていった。但馬の手に引っ張られ、千切れ、ばらまかれた無数の玉は、林立する足の間をすりぬけて肉眼では捉えきれぬ広範囲に散逸してしまった。全部を拾い集めるには丸一日を費やすことになるだろう。いや、一日で足りるかどうか……想像しただけで気が遠くなる。全部拾い集めるには膨大な手間と時間がかかる。はっきり言って、全部を拾い集めるなど不可能だ。しかしレイジは中庭を動かず、諦めに似た倦怠を漂わせ、手近な玉から一つ一つ拾い上げていく。
僕は、声をかけられなかった。サムライも同様だ。ロンは後ろ手の拘束を振りほどこうと必死に暴れたが、結局力づくで連れ去られてしまった。今のタイミングでロンを解放すれば大変なことになると危惧したためらしい。実際ロンは理性をかなぐり捨てて暴れていた、看守の手に噛みついて脛を蹴り上げて口汚い罵声を浴びせていた。
『あのバカ犬殺してやる、舌引っこ抜いて金玉毟りとって食わしてやる!!よくもレイジの十字架を、お袋から貰った大事な宝物を……タジマの兄貴のくそったれ、ぜってえ許さねえ、ぶち殺してやる!!』
狂乱をきたしたロンの声も届かぬのか、レイジは顔すら上げず、無言で玉を拾い集めていた。
いつも大胆不敵で自信と余裕に溢れた王様らしからぬ意気消沈ぶりだった。
イエローワークの強制労働が始まってからも僕は今朝のことを考えていた。考え続けていた。タジマの実兄の到来、異常な言動が際立つ就任演説、生贄に選ばれた二人……ロンとレイジ。
但馬所長は自分の存在を強く印象付ける為に見せしめの生贄を欲した。自分の地位をより確固たるものにするために、彼言うところの「愚鈍な家畜」である囚人たちを服従させるために。
そして、多くの囚人の中からロンとレイジが選ばれた。
なんて陰湿な男だ、陰湿なやりくちだ。思い出すだに背筋が冷える戦慄を覚える。
結果、何から何まで所長の目論見通りなった。東京プリズン最強の男、いつ何が起きても余裕を失わない大胆不敵な王様が所長の前では手も足も出なかった。所長は看守数人に命じてレイジを後ろ手に戒めたあとで十字架を取り上げ、レイジは言うに及ばず、全囚人と看守が息を詰めて見ているのを意識しつつ満足いくまで十字架を嬲った。かくして新所長は前任者のように看守に軽んじられ囚人に舐められる前に、自分の存在を強く印象付け、畏怖の念を植え付ける演出に成功した。
恐ろしい男だ。そして頭がいい。中庭を埋めた数多くの囚人の中からレイジを指名したのは直感か、あるいは彼こそが最も影響力を持つ男だと見ぬいたからか。但馬は洞察力と観察力に優れた強敵だと今朝の一件で痛感した。
レイジは今頃どうしてるだろう?中庭にひとり座り込んで玉をかき集めているのだろうか。
最後に見たレイジの姿を思い出し、気が滅入る。
前髪の隙間から覗く虚無に呑まれた隻眼。
僕は、但馬所長を許せない。二週間前に東京プリズンを去ったタジマは僕の天敵で、僕を何度も犯して苦しめた最低の男だ。殺意を覚えたことも一度や二度じゃない。だが、タジマはもういない。代わりにタジマの兄が所長として赴任した。悪夢の再来。シャベルを持つ手が震える。
こんなのはまだ序の口だ、とどこかで囁く声がする―……
「ちんたらやってんじゃねえよ、親殺し!」
「!?っ、」
突然、砂を蹴りかけられた。目に砂が入って涙が滲んだ。
シャベルに取り縋って蹲った僕は、足元に射した影で数人の少年に取り囲まれたと悟る。僕を取り囲んだひとりは、昨日、僕を襲った同僚だと声でわかった。全く、度し難い低能どもだ。彼らの考えることなどお見通しだ、昨日静流に倒された復讐にやってきたのだろう。付け加えるならば、彼らを倒したのは静流であって僕ではない。僕は無関係だと主張しようとしたが、反論する暇もなくシャベルが振り下ろされる。
「昨日の借りだ、死ねっ!」
一方的な死刑宣告に条件反射で体が反応、迅速にシャベルを構える。鈍い金属音、腕に伝わるに衝撃。咄嗟に翳したシャベルで脳天を防御、両腕に力を込めて均衡を維持。涙で砂を洗い流して正面に目を凝らせばやがて輪郭が定まり、憤怒の形相の少年が出現。やはり昨日の少年、売春班初日に僕を犯した同僚だ。
「労働放棄は感心しないな。君がサボった分まで仕事が増える」
「ひとの心配する暇あんなら自分の心配しろ!昨日は舐めた真似してくれたじゃねえか、あんな強え相棒いるなんて反則だ、親殺しのくせにいっちょまえにダチ作りやがって!」
「意味不明なことを言うな。僕は新入りに請われて刑務所内を案内してただけだ、友人などではない。第一君たちが性懲りなく僕に襲撃をかけてきたから静流に倒される羽目になったんだろう、自業自得じゃないか。君たちの記憶は三秒しか保たないのか、そういう病気なのか?学習能力のなさは視床下部の萎縮が原因か?一度精密な脳検査を勧める、少なくとも六割脳細胞が壊死してる可能性が」
「うるせえ!!」
少年が激昂、腕に渾身の力を込めてシャベルを押し込む。ありのままの事実を指摘しただけだというのに……責任転嫁も甚だしいと内心嘆息する。低脳には付き合いきれない。
シャベルに圧力がかかる。自慢ではないが、僕は腕力がない。貧弱な細腕を叱咤してみたところで、シャベルを受け止めるだけで精一杯で跳ね返すことなど不可能。わざわざ持ち場を離れて因縁をつけにくるなと罵倒、乏しい腕力を振り絞る。力と力が拮抗、危うい均衡を維持するも次第にシャベルが重みを増して―……
「そこ、何をしている!!」
「やべっ、副所長だ!」
鋭い叱責が飛ぶ。腕に掛かる圧力が取り除かれ安堵したのも束の間、耳朶を震わすエンジンの重低音に胸騒ぎが再発。音がした方を振り返った僕は、重厚なジープを下りてこちらにやってきた人物に息を呑む。
安田と但馬……所長。
いや、表記する順番は逆だ。実際には但馬所長が安田を従わせて歩いてきたのだから。安田が視察に来たのはわかる。だが、何故所長も一緒に?勿論所長が視察にきたとて何の不思議もない、いや、それが本来あるべき姿なのだ。暑い盛りの時間帯、副所長がジープに乗って各地の視察に赴いてるのに所長が涼んでいるのは不公平だ。
勤勉と怠慢。
かつて副所長と所長を対比するキーワードがそれだった。有能と無能に置き換えてもいい。僕が前所長に面会したのは一度きり、東京プリズンに来た初日のみだが、彼に抱いた印象は「俗物」の一言に尽きた。実務は副所長の安田に任せきりにして、自分は決して表に出ず事なかれ主義の保身に腐心していた。所長を名乗るにはあまりに無責任かつ無関心な職務姿勢に反感を募らせていた看守も多いと聞く。
ならば、副所長と共に視察に赴く所長の姿は健全といえるのではないか。安田を同伴して歩いてきた但馬所長は、用水路を覗きこみ、「ほう」と嘆声を発した。感心したような、面白がってるような声。
「随分原始的な用水路だ。水を流せば崩れてしまうんじゃないか」
所長が嘲笑する。安田は短く答える。
「そうならないように土嚢を積ませて補強しています」
「しかし、作業ははかどってないと見える」
縁なし眼鏡の奥の双眸を細めて所長が言い、安田の顔が渋くなる。確かに、作業は沈滞してる。土嚢を積む囚人は疲労で動きが鈍くなっている。脱水症状を呈してシャベルに寄りかかっている者も少なくない。
所長の目には、シャベルに凭れて休む囚人の姿が怠慢と映ったようだ。
「嘆かわしい。なんと怠惰な家畜どもだ。畑を耕さない牛馬に生きる資格はないというのに……君たちは肥溜めで溺死したほうが社会に貢献するな」
辛辣な毒舌を吐き、侮蔑の笑みを浮かべる。
用水路を建設していた囚人がその言葉に反応、いつ手の中のシャベルが凶器に変わるともしれない殺気が充満する。僕に襲いかかった同僚たちも所長に怒りの矛先を転じたらしく一気に険悪な形相になる。
「所長、いたずらに囚人を刺激する真似は控えてください。彼らはストレスをためています、不用意な一言が引き金となって暴発する危険性が」
「私に意見する気かね?」
たまらず口を挟んだ安田を牽制する。安田が歯痒げに押し黙る。所長は暫く用水路を覗きこんでいたが、やがて、名案を閃いたとばかりに嬉々とする。
「そうだ。競争させよう」
競争だと?
囚人が不安げに顔を見合わせる。
探り合うように視線を交わす囚人たちを眺めて悦に入った所長が背広の懐に手を忍ばせ、宣言。
「注目したまえ、諸君!」
注意を促された囚人が次々に鍬やシャベルを振るう手を止める。これから何が始まるのかと闖入者を注視するイエローワークの囚人たち。帯電したような緊迫感。
縁なし眼鏡の奥の双眸を陰湿に光らせ、砂漠に散った囚人たちを睥睨する所長。
「諸君らに良い知らせだ。今週いちばんよく働いた者に一日休みを与える」
「!……な、」
頭を殴られたような衝撃。
所長自ら強制労働の視察に赴いて休みを言い渡すなど前代未聞だ。何があっても強制労働だけは休めないのが鉄の掟なのに所長自らその取り決めを破るのか?極端な話風邪をこじらせて肺炎を併発しても、強制労働は休めないのが東京プリズンの掟なのに……半信半疑でざわめく囚人たちを冷ややかに見渡し、所長は大袈裟に首を振る。
「私の話が信用できないか。所長自ら宣言しても疑いを捨てきれないか。私の言葉に嘘はない、功労者には休みを与える。さあ、競え。効率向上には競争が一番だ。隣人に負けるな、汗水流して必死にシャベルを振るって用水路を築け、死に物狂いでノルマを果たせ!休みを獲得できるのはただ一人だ。褒美が欲しくば牛馬のように働いてライバルを蹴落とし抜きん出ろ」
「所長!」
安田が声を荒げて非難する。
「勝手なことをしないでください。強制労働は囚人に課された義務だ、義務の放棄は許されない怠慢だ。休みで釣って競争させるなど卑劣な!」
「黙りたまえ副所長、誰に口を利いている。ここのトップは誰だ?私に意見できる立場か」
安田の意見に耳を貸さず開き直った所長が再び命じる。
「休みが欲しいなら働け。過酷な強制労働を続ければやがては体を壊して使い物にならなくなる。諸君らは休みを渇望している、一日中ベッドに寝転んでいられるならそれに越したことはないと思っている。ならば要望を受け入れよう。ただしその代わりに三日後までに用水路を完成させるんだ。もし一日でも完成が遅れた場合は今ここにいる者全員を連帯責任で処分する」
「連帯責任だって?冗談じゃねえ」
「お前らとまとめて独居房に入れられちゃたまんねえよ!」
悲鳴じみた声が連鎖し、僕を除く囚人が狂ったようにシャベルや鍬を振るい出す。脇目もふらずに砂掘りを再開した囚人たちの顔には焦慮に揉まれて切迫した表情が浮かんでいた。
飴と鞭は家畜をしつける常套手段だ。
弛緩した倦怠感が漂っていた現場が一転、異様な熱気に包まれた。盛大に砂を跳ね散らかして鍬やらシャベルやらを振るう囚人たちを見まわして所長は満足げに頷いた。
おかしい。
絶対に間違っている。
「副所長、話があります」
極力抑えた声で安田に呼びかけ、シャベルを投げ捨てる。
土嚢が段段に積まれた斜面を上り、砂まみれになりつつ安田の足元に手をかける。これは、こんなの絶対おかしい。但馬所長のやりかたは根本的に間違っている。
休みで釣って競争させ、労働意欲を煽る。
それに関してはまあいい、効率的なやり方だと感心しなくもない。だが、三日で用水路を完成させるなど無茶だ。無謀だ。事実用水路はまだ三分の一も出来あがってない状態で、僕らがどんなに頑張ったところで完成には最低一週間はかかる。にも拘わらず、期限は三日。三日後までに用水路を完成させることができなければ連体責任で処分するという。
所長は、僕らに死ねというのか?
あまりに理不尽な命令に反発が込み上げ、安田の行く手を阻むように立ち塞がる。
「三日以内に用水路を完成させるなど無茶だ、明らかに超過労働だ。今のペースで働き続ければ遠からず死者がでる、少なく見積もっても十人が過労死する。ここは屠殺場か?僕らに死ねというのか!?一体どうしてしまったんだ、貴方はそんな非人道的な命令を承認する人間ではなかったはずだ。僕の尊敬する副所長ならこんな馬鹿げた命令断固拒否するはずだ!」
「誰だ君は?」
但馬所長がうろんげに僕を見る。安田は唇を噛んで俯いている。
無性に悔しさが込み上げてやり場のない怒りを感じた。
何故黙っているんだ安田、僕を納得させる反論をしてみろ、副所長の威厳をそなえた毅然たる態度で説得してみろ。どうした出来ないのか、一体どうしてしまったんだ。脳裏で疑問符が増殖する。安田に裏切られた思いで愕然と立ち竦む。正直、安田には幻滅した。所長の暴走を止められるのは副所長だけなのに、肝心の安田は全く頼りにならないどころか、苦渋に満ちた顔つきで下を向き現状を黙認しているのだ。
所長の存在を無視して副所長と対峙した僕は、現状に傍観を決め込む情けない安田を否定しにかかる。
「何故なにも言わずに現状を放置している黙認している!?貴方は副所長だ、所長に次ぐ権力の持ち主だ!僕が知る安田ならこんな無茶な命令即刻却下するはずだ、僕らの生命を軽く扱ったりしないはずだ!」
安田に対する信頼が音をたてて崩れていく。
僕は所長よりむしろ安田に怒りを覚えていた。何故安田は反論しない、所長に逆らわない?何か弱みを握られているのか。自分よりに地位が上の人間には逆らえない中間管理職の宿命か。
僕は安田を評価していた。安田は高潔な人格者だと思っていた。僕らの生命が危うくなれば命がけで守ってくれるはずと絶対の信頼を置いていたのに……
僕は。
僕らは安田に見捨てられたのか。見殺しにされたのか。
今まで信じてきたものが根幹から揺らいで眩暈を覚えた。
安田は僕に責められ詰られても唇を噛んで耐えている。自分には反論する資格がないとでもいうふうに沈痛な面差しを伏せている。糾弾に耐えて自己憐憫に酔うつもりか卑怯者め。体の脇でこぶしを結んだ僕は砂を蹴散らして憤然と安田に接近、怒号を発する。
「貴様には幻滅した。僕は貴様を過大評価していたようだ、人間不信の僕ともあろう者が貴様に一定の信頼を置いて最近では好感めいたものまで抱き始めていた。危うく騙されるところだった!貴様は所詮その程度の人間だ、保身に固執する俗物だ!少しでも貴様に心を許したことを恥じる、人生最大の汚点、一生の不覚、天才にあるまじき失態だ!!」
視界の端で所長が不快げに顔を歪めるのが映った。安田を押しのけて身を乗り出した所長が、僕に何かを言いかける。それを遮るように顔を上げた安田が、銀縁眼鏡の奥の目に悲痛な色を湛える。
弱り果てた凝視に耐えられず、思い詰めた眼差しに耐えきれず、僕は叫んだ。
「人格者を装った俗物より俗物らしい俗物のほうが余程マシだ、偽善に満ちた人格者より欺瞞に満ちた父親のほうがマシだ。貴様に比べれば鍵屋崎優のほうが上等だ!!」
頬に衝撃が爆ぜる。
空高く乾いた音が吸い込まれて周囲の囚人が一斉にこちらを向く。
衝撃はすぐに熱をもった痛みに変じた。安田が大仰に手を振り上げて僕の頬をぶったのだ。殴られた衝撃で眼鏡がずれて視界がブレた。
反射的に頬を庇い、放心状態で安田を仰ぐ。
「……口を慎め鍵屋崎。所長の前だ」
低い声で安田が言う。腫れた頬に手をやり、のろのろと顔を上げた僕は、皮肉げに口角を吊り上げる。
「所長の犬に成り下がったか。見下げ果てた男だ」
「鍵屋崎……そうか、君が例の!」
それまで興味本位に成り行きを見守っていた所長が、じろじろと僕の顔を眺める。
「遺伝子工学の世界的権威たる鍵屋崎夫妻の一人息子で、両親を殺害した凶悪犯か。そういえばそんな事件があったな、十ヶ月も前に。君の噂はかねがねうかがっていたが、どうしてなかなか……」
思わせぶりに言葉を切り、安田に微笑みかける。
「しつけ甲斐のありそうな、反抗的な家畜じゃないか」
「……ええ」
安田が神経質にブリッジを押し上げる。
「持ち場に戻れ、鍵屋崎。労働放棄を認めた覚えはない。これ以上ここに留まれば処罰する」
「飴と鞭か。新所長の方針に従って宗旨がえか。意外と影響されやすい性格なんだな」
安田に皮肉を言う。だが、本人は顔を上げもしない。
安田と対峙するのが耐えきれなくなり、逃げるように踵を返す。安田はもう以前の安田ではない。僕が知る安田はいなくなった。あそこにいるのは但馬の犬に成り下がった男だ。
シャベルを拾い上げて振り返れば、安田を従えた所長がジープへ戻っていくところだった。
二人の会話が切れ切れに耳に届いた。
「君は少し甘すぎるんじゃないか。たかが家畜にあんな生意気な口をきかせて放逐か?どちらが立場が上かはっきり思い知らせる必要があるんじゃないか」
「ご心配には及びません。私には私の考えがあります」
「ふん、頑固だ。しかし有能な人間は嫌いじゃない。私は君の能力を高く評価してる」
「はい」
「くれぐれも私の期待を裏切らないでくれたまえよ」
さくさくと砂を踏みジープに接近、すかさず前方に回り込んだ安田が後部座席の扉を開く。慇懃に頭を垂れて、主人の為に扉を支える安田は忠実な執事のようだった。車に乗り込む一瞬、舐めるようにいやらしい目つきで安田の顔を眺めた所長が、おもむろに手を伸ばし、安田のネクタイを掴んで引き寄せる。
顔を密着させ、囁く。
「これからたっぷりと飼い殺してやる」
ネクタイを締め上げる苦痛と屈辱に安田の顔が青ざめる。小馬鹿にするように鼻を鳴らしてネクタイを突き放した所長がジープに乗り込むのを確認、扉を閉めた安田が唐突に振り向く。
僕と目が合った。
安田がばつ悪げな表情を浮かべた。いちばん見られたくない人物にいちばん見られたくない場面を見られた失望の表情。多分、僕も同じ顔をしてるはずだ。
安田はもはや完全に、但馬の犬に成り下がったのだ。
[newpage]
『これからたっぷりと飼い殺してやる』
安田のネクタイを掴んで所長は脅迫した。
顔を密着させ、威圧的に声を低めて、お前は私の所有物だと言外に暗喩を込めて安田のネクタイを掌握した。安田は従順に返事をした。所長の命令に唯々諾々と従って、後部座席に乗り込む際は慇懃に頭を垂れて扉まで支えた。
安田は自分に厳しく他人に厳しい潔癖なエリートから主人の命令に絶対服従の卑屈な犬へと成り下がった。
飴と鞭を巧みに使い分けて隷属を強いる調教の成果。
僕の知る安田はもういない、僕がかつて憧れを抱いて信頼を寄せた高潔な人格者たる副所長はもういない。
但馬と安田の間に何があったのか正確にはわからない。
だが、仮説を組みたてることはできる。
今を遡ること二週間前ペア戦最終日の事件で安田が銃を紛失した事実が発覚、地下停留場に居合わせた囚人看守に広く知れ渡った。今だかつてない不祥事を「上」は重く見て一時は副所長の退任が要求されたらしい。
無理もない、刑務所内で銃の盗難事件が発生したなど世間に漏洩したら一大事の醜聞だ。それだけではない。安田がなくした銃はタジマの暴走を引き起こす要因となり、ヨンイルに対する五十嵐の殺意を顕在化させる要因になった。
安田の責任は重大だ。
副所長の退任もしくは辞任は避けられないだろう、と僕とて覚悟を決めていた。銃をなくした責任を追及された安田が副所長の地位を返上して東京プリズンを去るのはもはや避けられない事態に思われた。しかしそうはならなかった。不祥事の責任をとらされ現実に東京プリズンを去ったのは無能な前所長で、副所長の安田はその有能さを惜しまれ残された。
多分、これが真相だろう。
結論。たかだか一回の不祥事ごときで辞めさせるには安田はあまりに惜しい人材だった。それが「上」の下した判定だ。
しかし、いかに有能な人材であっても僕は安田を軽蔑する。
所長の犬に成り下がって権力にプライドを売り渡した男を軽蔑する。
『……口を慎め鍵屋崎。所長の前だ』
瞼裏に苦りきった安田の顔が浮かぶ。
激しい葛藤に引き裂かれて苦悩するエリートの表情、プライドと保身の狭間で揺れ動く自意識。
安田が僕に手を上げたのはあれが初めてだった。
東京プリズンでは看守の暴力が日常化して凄惨なリンチが横行してるが、いついかなる時も冷静沈着な物腰の安田が囚人に暴力を振るう場面を見たことは一度もない。
その安田が手を上げた。僕の頬をぶった。
義父にもぶたれたことがないのに。
所長と副所長を乗せたジープが嵐のように去ったのちも、砂漠に取り残された囚人たちは鍬やシャベルを手に労働に励んだ。
期限は三日。三日後までに用水路を完成させねば連帯責任で処罰されるのだ、必死にもなろうというものだ。
鍬やシャベルを振るって用水路を掘り進めながら、囚人たちが共通して頭に思い描いてる光景は、レイジの十字架を犬の餌食にしてほくそ笑む但馬の姿だった。レイジの十字架を残忍に踏み躙り、傷だらけにし、無造作に蹴り飛ばした但馬の姿は脳髄に強い印象を刻み込んだ。
但馬は容赦がない。ある意味弟よりもずっと邪悪な性格をしている。但馬の命令に逆らえばどうなるか今朝の出来事で皆十分に理解した。
但馬に逆らえば、心を殺される。
廃人にされる。レイジのように。
ペア戦を制した王様でさえ手も足もでない男に囚人がかなうはずもない。但馬のパフォーマンス効果は絶大だった。東京プリズン最強の呼び声高いレイジを徹底して痛めつけることでその他大勢の反抗心を根こそぎ奪い去ってしまった。
「群れを支配したくばボスを倒せ、か。愛犬家らしい考えだ」
あれで済めばいいが、と祈るように心の中で反駁する。
十字架を犬に食わせて涎まみれにして踏みにじりながら但馬は狂喜していた。
看守に後ろ手を戒められたレイジが虚心で凝視する中、靴裏に体重をかけて十字架を擦りながら、嗜虐の悦びに爛々と目を光らせて……鳥肌立つのを禁じえない異様な光景だった。舌なめずりせんばかりにレイジを眺めて十字架を踏みにじる但馬の姿は、手負いの豹を嬲る快感に目覚めた調教師を彷彿させた。
残虐な快感に酔い痴れて十字架を踏みつける但馬の残像を首振りで散らし、中庭に足を向ける。
強制労働を終えて中庭に来てみれば既にレイジはいなかった。あれから半日以上経ったのだから当たり前といえば当たり前だ。中庭を見渡してレイジの不在を確認、安堵と不安とを等分に抱く。レイジは今どこにいるのだろう?房に帰っているのだろうか。今朝の様子から考えて、鼻歌まじりに出歩く元気はさすがになさそうだ。
いないなら、かえって好都合だ。
「………このへんだな」
呟き、足を進める。今朝レイジと所長が対峙したあたりで立ち止まり、片膝付いて周囲の状況を検分。二人が争った痕跡は既に消えていた。地面を濡らした犬の小便も蒸発して、僅かに変色した染みを残すのみだ。犬の小便が乾いたあとを一瞥、ため息を吐いて腰を上げる。この辺はあらかたレイジが拾ってしまったようだが見落としがないとも限らない。地面に膝を付いた体勢から周囲に顔を巡らし……
「奇遇だね」
爽やかな声がした。
「!」
咄嗟に顔を上げれば、深紅の夕日を背に見覚えある少年が佇んでいた。さらさらと清涼に流れる癖のない黒髪、色白の肌、囚人服の中で泳ぐほっそりした肢体。黒目がちに潤んだ瞳には人懐こい笑みを浮かべている。可憐な少女と見紛う清楚な容姿の美少年……静流。
「こんなところで何してるんだい。ゴミ拾い?」
親しげに声をかけてくる静流に不快感を覚え、鋭い目つきで睨む。
「君こそ何故こんなところにいる。強制労働は終了したんだろう?なら房に帰って仮眠をとるなり読書に励むなり夕食まで効率的に過ごすのを推奨する」
「散歩にきたんだよ。中庭はまだ見て回ってなかったら好奇心が疼いてね。それにほら、夕日が綺麗だし風も凪いでるし散歩にはもってこいだろう」
そう言って僕の傍らに屈み込む。
「蟻の観察?」
「……愚弄するなよ低脳の分際で、蟻の生態観察など小学生の自由研究じゃないか。第一いまさら蟻の観察などせずとも僕は蟻の生態に関して博識を誇っている。知りたいか?いいだろう教えてやる、心して聞けよ。蟻は昆虫綱・ハチ目・スズメバチ上科・アリ科に属する体長1mm-3cmほどの小型昆虫をさす名称だ。熱帯から冷帯まで砂漠・草原・森林など陸上のあらゆる地域に分布、繁殖行動を行う雄アリと雌アリには翅がある。なお毒をもつ種類もいてヤマアリ亜科の毒を蟻酸と称す……」
「蟻に興味ないからいいよ」
……不愉快だ、非常に。貴重な時間を割いて蟻の生態に関する博識を披露してやったとうのに「興味がない」だと?たかが凡人の分際で天才の好意を無にする気かと反発がもたげる。
「そういえばさ、やっぱり砂漠には蟻がいるの?蟻地獄っていうくらいだし」
「僕の説明を全然聞いてないな。つい二秒前に蟻は砂漠・草原・森林など陸上のあらゆる地域に分布すると言ったはずだが?東京プリズンの砂漠とて例外ではない、事実スニーカーの内側によく潜り込んできて辟易する。蟻は嫌いだ、蟻に限らず虫全般が嫌いだ。理屈で説明できない生理的嫌悪を覚える。特に我慢できないのは頭部に触覚を生やして翅をもち、暗くてじめじめした場所を好む茶褐色の……」
「ゴ」
「その先を言うな!噂をすれば何とやらだ、ヤツらは神出鬼没だからな」
慌てて静流の言葉を遮り、腰を上げる。面倒くさい奴につかまってしまった。なるべく人に知られずに済ませたかったのに、と内心舌打ちして足早に移動。静流から遠ざかりたい一心で憤然と歩くが、嫌われてる自覚がない無神経な静流はのらりくらりついてくる。
西空が残照に照り輝く。
コンクリートで固められた中庭に長く影が伸びる。バスケットボールを追って走りまわる囚人たちから離れた場所を歩きながら、慎重に足元に目を凝らす。おそらくこの辺に落ちているはずだ。鎖が千切れた時、確かにこちらの方へ転がってきたから……
「あ」
あった。
最初の一粒を発見し、思わず歓声を上げて屈みこむ。僕の足元に転がっていたのは一粒の玉。但馬の手に引っ張られ、千切れ、ばらまかれた無数の玉のひとつ。レイジ一人で全部は拾い切れなかったはずだから、この辺に落ちているだろうなと推測を立てていたのだ。
指先で慎重に玉をつまみあげ、目の位置に持ってくる。
なにげなく頭上に翳せば、残照を浴びて美しく輝く。
「そうか。そういうことか」
背後で感心したふうな声がする。玉をてのひらに握りこんで振り向けば、静流が微笑を湛えていた。
「直くんは友達思いで優しい子だね」
「意味不明な発言は慎め。僕は空き時間に散歩にきただけだ」
「千切れた鎖を拾いにきてあげたんでしょう」
何もかもお見通しとばかり達観した口調で静流が言ってのけ、ぎくりとする。てのひらの玉を素早くポケットに入れ、静流に背中を向ける。足元に視線を落として緩慢に歩き出せば静流も自然についてくる。
夕日に染まる空は、血を流したように赤い。
唐突に足を止め、地面に手を伸ばす。二個目、三個目と続けて発見。
なにかの道しるべのように点々と落ちた玉を拾いながら、恵が好きだった童話の一場面を思い出す。森の奥深くに迷い込んだ幼い兄妹が道しるべに千切り捨てたパン屑は小鳥の餌となり、二人は帰路を見失ってしまった。今の状況はあの童話によく似ている。夢見がちに目を潤ませ、僕が読み聞かせる童話に熱心に耳を傾ける恵を思い出し、胸が絞め付けられる。
恵は今どうしてるだろう。
病院の窓から同じ夕日を見ているだろうか。
……らしくもない感傷に浸ってしまった。静流の存在も忘れ、無防備な横顔を見せて物思いに耽っていたことを恥じて玉の採取に没頭する。玉は1メートルほど間隔をおいてあちこちに散らばっていて、視界に入った玉を手元に集めるだけでかなりの時間がかかった。
明朝、筋肉痛で悲鳴を上げることになるのはわかっていたがどうしても腰をあげられなかった。僕の目には孤独に玉を拾い集めるレイジの背中が焼き付いていた。犬に放尿された十字架を胸に抱きしめて項垂れたレイジを忘れられなかった。看守に口汚く罵声を浴びせるロンや無念そうに目を閉じたサムライの顔も。
僕にできることは、これくらいしかない。
ならば、僕にできることを全力でやるまでだ。
決意を新たに顔を引き締め、手前の玉へと指を伸ばした僕の耳朶に、衣擦れの音がふれる。
「手伝うよ」
スッと指が伸びて、今しも僕が拾おうとした玉を掠めとる。隣を向けば静流がいた。笑っていた。柔和に微笑みながら僕の隣に屈みこみ、洗練された動作で腕を伸ばしてすいすい玉を回収する。
「余計なことをするな、物好きめ」
どういう気まぐれだと警戒しつつ皮肉を言い、競争心を煽られて手の動きを速める。静流に負けてなるものかとつまらない意地を張り目についた玉を片っ端から拾い集める。お互い会話もなく熱中。
「あいつら何やってんの」「さあ」「地面掘って金塊でもさがしてんじゃねえか」「バカ、コンクリート掘ったら爪割れて悲惨だぜ」「言えてら」……言いたい奴には言わせておけ。バスケを中断した囚人が遠巻きに僕らを眺めて嘲笑する。構うものか。
爪に砂利が入り、手が汚れる。
真っ黒に汚れた手を見下ろし、房に帰り次第洗わなければと考える。
その流れで静流の手に目をやり、驚く。
静流の手に、サムライと同じ火傷があった。
「静流、その手は?」
考えるより先に舌が動いて問いを発していた。僕の言葉に促されて手を一瞥、「ああ、これ?」と恥ずかしげに歯を見せる静流の笑顔に秘密めいたものを感じて胸がざわつく。なんだ、この感情は。サムライと火傷を共有する静流に、この僕が、鍵屋崎直が嫉妬している―?
「溶鉱炉にゴミを入れるときに火の粉が飛んできたんだ。レッドワークにまだ慣れてなくて」
「レッドワークなのか」
サムライとおなじレッドワーク。ならば当然サムライと顔を合わす機会があって口を利く機会があって、僕がサムライと一緒にいられるのは強制労働が終了してから朝までで、静流がサムライと共有する時間に比べれば……
馬鹿な、何を考えてるんだ僕は。サムライと過ごす時間を比較して何の意味があるというんだ。いいじゃないか別に、静流とサムライはいとこなんだ、数年ぶりに再会を果たした親戚同士積もる話もあるだろう。彼らが僕の知らないところで仲睦まじく話し込んで二人が親密さを増そうが全然……
「その、強制労働中サムライと話す機会はあるのか。彼の仕事態度はどうだ。サムライは決して手を抜かないだろう?人より無理をして体を壊すんじゃないかとあきれてるんだ。レッドワークの巨大溶鉱炉はかなりの高温で火傷する者が後を絶たないと聞くが」
「班が違うからあまり話すことはないね。ときどきすれ違うけど、頑張ってるみたいだよ。レッドワークは都会から運ばれてきた危険物を溶鉱炉でどろどろに溶かすのが仕事だから、ちょっとよそ見しただけでも大惨事になりかねない。その点貢くんなら心配ない、真剣な顔で溶鉱炉見張ってるから。
僕も何回か手伝ってもらったよ。小さい頃から剣を持たされてきたから腕力は並以上あるけど、リヤカー一杯に運ばれてきた鉄屑を溶鉱炉に放り込むのはなかなか力がいってね……僕が困ってると、さりげなく貢くんが手伝ってくれるんだ。ひょいってリヤカーを持ち上げてね。かなわないよ」
「そう、か。サムライはああ見えて親切だからな、誰であろうが困ってる人間は放っておけない物好きなんだ。別に君に限ったことではない、レッドワークの同僚がおなじように困っていればおなじように手を貸してこそ武士の美徳だ。渡る世間は鬼ばかり情けは人のためならずだ」
動揺のあまり指が滑り、せっかく拾い上げた玉を落としてしまう。
動揺?おかしいじゃないか、何故この僕が動揺しなければならないんだと憤慨する。静流はそんな僕を見てくすくす笑っている。男のくせにやけに艶っぽい笑い声だ。
そして。
不意に静流が接近、肩と肩がふれあう。
僕の手に手を重ね、耳元で囁く。
「君、貢くんのことをよく知ってるね。貢くんも君には心を許してるみたいだし……」
静流の吐息が耳朶をくすぐる。
「妬けるよ」
「半径1メートル以内に接近するな」
静流の囁きに肌が粟立ち、本能的な危機感から肩を押しのける。否、押しのけようとして逆に手を取られて引き寄せられる。痛い。華奢な五指で締め上げられた手首に、万力を嵌められた如く激痛が走る。この細腕のどこにこんな力がと驚いた僕の目をまっすぐ見据え、静流が言う。
嘘偽りを許さない真摯な声音が胸の奥深く響く。
「君、貢くんとどういう関係なの」
「何?」
静かな迫力を込めた問いが虚を衝く。西空から降り注ぐ残照が静流を燃え立たせる。手首を掴む握力が増し、骨が軋む。激痛に顔を顰めた僕の正面で、静流はゆっくりと瞬きした。
睫毛に沈んだ双眸に、激情の波紋が過ぎる。
「サムライは、僕の友人だ」
「それだけ?」
「大事な友人だ」
手首の激痛に耐えて毅然と言い返す。静流は腑に落ちない表情で思考を巡らしていたが、やがて僕を見据えて、皮肉げに口元を歪める。
秀麗な顔に不似合いに邪悪な表情を浮かべ、滝のように残照に洗われた静流が吐き捨てる。
「くだらない。君は帯刀貢の本性を知らないからそんなことが言えるんだ」
「サムライの本性だと?」
語尾が跳ねあがるのを抑えきれない。
静流は一体何を言いたいんだ、いくらサムライの知り合いでも彼を侮辱するのは許さないと乱暴に手を振りほどく。
静流が憐れみとも嘲りともつかぬ表情で僕を見る。
同情めいた眼差しを注がれ感情が沸騰、憎悪に滾った視界が真紅に燃え上がる。眼球の毛細血管の色。
一体この少年は何の権利があってサムライを侮辱するんだ、僕の大事な友人を侮辱するんだ?静流への怒りが爆発、衝動的に胸ぐらを掴んで引き寄せる。
目と鼻の先に接した顔を睨みつけ、激情に駆られて怒鳴る。
「回りくどいことを言うな、小出しにするな!帯刀静流、君の言動はまったくもって矛盾だらけで理解しがたい。昨夜は帯刀貢を取り返しにきたといい今日は帯刀貢の本性を知っているのは自分だけだと匂わせて挑発する、君は支離滅裂な言動で僕を翻弄して楽しむ性格破綻者か!?確かに君は幼年期からサムライと行き来があって親しい仲で苗のことも知っていた、悔しいがそれは認めようじゃないか、認めてやろうじゃないか!だからなんだ?自分のほうがサムライと付き合いが長いからと自慢してるのか、帯刀貢の人生に十ヶ月しか関与してないくせに思いあがるなと僕を牽制してるのか!?貴様になにが、」
「帯刀貢が苗を犯したと聞いても、彼の友人でいられるのかい?」
指から力が抜ける。喉から呼気が漏れる。
衝撃に立ち竦む僕をきっかりと見据え、静流は嘲りの笑みを浮かべた。
最初、耳から入った言葉を脳が拒絶した。しかし、徐徐に浸透してきた。
帯刀貢が、苗を犯した。
静流はそう言ったのか。僕の知るサムライが、あの寡黙なサムライが、優しい男が……力づくで苗を犯したと?間髪入れず否定しようとしたが、舌が縺れて反論できなかった。サムライを擁護しようと焦れば焦るほどに舌が縺れて、一言も発することなく口を開閉する醜態をさらした。
サムライ。
僕が読み聞かせる手紙の内容に黙って耳傾けてくれた。下水道で土下座をした。売春班に助けにきた。僕の為に涙を流してくれた。僕のせいで足を捻挫して試合に支障がでても一言だって責めなかった。タジマに襲われた夜は僕の震えが止むまで一晩中抱いて寝てくれた。サーシャのナイフから僕を庇い大動脈を掠る大怪我をした。最終決戦のリング上で僕を抱きしめた。
『お前は俺の友だ』
『俺の直だ』
何度も何度も助けられた。何度も何度も抱きしめられた。
しかしそれは、サムライだ。
僕はサムライになる前の帯刀貢を知らない。帯刀貢がどんな男だったか知らない。サムライは過去について多くを語らないから苗の自殺の原因や帯刀貢が実父含む十三人を殺した動機は依然謎に包まれたままで、
『俺が苗を殺したんだ』
『苗を追い詰めて首を吊らせたんだ』
いつか聞いた台詞が甦る。激しい自責の念に苛まれて吐き捨てるように言ったサムライ。
あれが真実だとしたら?
そのままの意味だとしたら?
頭は真っ白で、思考が働かなくて、萎えた腕が静流の胸ぐらから滑り落ちて弧を描いた。地面が沈み込むような虚脱感に襲われた僕の肩にすれいちがいざま静流が手をおく。
赤い唇が綻び、蜘蛛の糸のように耳朶に吐息が絡む。
「本当のことを教えてあげるよ。帯刀貢は苗を犯したことが発覚して後継ぎにふさわしくないと絶縁状を叩き付けられた。勘当を言い渡されて逆上した貢は神棚の刀を手にとり、実の父親を含む門下生十三人を斬り殺したんだ。莞爾さんはともかく、残り十二人はとばっちりもいいところさ」
魔性の笑みを湛えた静流が、揺蕩うように淫靡な手つきで肩を撫でる。
「せいぜい気をつけなよ。『あれ』はけだものだから」
体の脇に腕が垂れ、こぶしが緩み、五指がほどける。掌で温められた玉が滝のように流れ落ちて地面を滑っていく。潮騒の音色を奏でて地面に散らばった玉を一瞥、静流が「あーあ」と嘆く。
手近の玉を幾つか拾い上げ、放心状態から脱しきれない僕の手をとる。
僕の手に手を被せた静流が、されるがままの五指を折り曲げ、こぶしを作らせる。
優しく僕の手を包み込み、一つ一つに祈りを込めた玉を握らせて静流は言った。
「苗さんの二の舞にならないよう祈ってるよ」
残照を吸い込んで真紅に冴えた水鏡の目には、絶望に暮れた僕の顔が映っていた。
目をしょぼつかせた囚人が並ぶ中、手の甲で瞼をこすりこすりあくびを連発。
「リョウさん、気の抜けるあくびしないでくださいよ。脱力っス」
「だあって眠いんだもん、こんなとんでもない時刻に中庭集められてさー。で、これから何が起きるのかな。東西南北の囚人全員が中庭に呼び出されるなんて東京プリズン始まって以来の異常事態じゃん。天変地異の前触れかな。ちょっとわくわく」
「不謹慎っスよリョウさん、あくびは慎んでください。とばっちりで看守に目え付けられるのこりごりっス」
眠気覚ましに食べかけの板チョコを取り出す。昨日看守に貰ったハーシーの板チョコがまだ三分の一残ってる。フェラチオよくできたご褒美に貰ったチョコは一枚こっきりじゃない、房に帰ればまだまだ沢山ある。ロンにやったところで惜しくはないのだ。
手に力を込め銀紙に包まったチョコを分割すれば小気味良い音と手ごたえが伝わる。
「ビバリーチョコ食べる?」
「リョウさん何やってんすか、集会中にチョコ食ってるのバレたらやばいっすよ!?」
「かたいこと言いっこなし。集会見張ってる看守の中に僕がいつもフェラしてるヤツ何人か混ざってるもん、小悪魔の魅力で特別に見逃してくれるさ」
真面目くさってお説教するビバリーに悪戯っぽく微笑みかけてチョコの片割れを握らせる。これで共犯。心の中で舌を出した僕をおっかない顔でビバリーが睨み、降参のため息を吐く。「自分で小悪魔とか言わないほうがいいっスよ、年齢的にきついっス」とか余計なお世話をぼやきながら一口大に砕いたチョコをつまむビバリーの横ではむはむチョコを齧る。甘く濃厚なカカオの味が舌の上で溶け広がり、血糖値の上昇とともに体が温まる。
今日は朝から変だった。
東西南北の全囚人が早朝中庭に集められるなんて前代未聞の出来事、前例のない事態だ。さてこれから何が始まるんだろうと好奇心を膨らませて人ごみの向こうを透かし見れば異様などよめきが押し寄せる。
「リョウさんあれっ!」
血相変えたビバリーの視線を追い、驚愕。
犬だ。犬がいた。一目で血統書つきだとわかる高級な毛艶のドーベルマンが荒い息を零しながら四肢をそびやかしていた。なんで東京プリズンに犬が?砂漠のど真ん中に隔離された刑務所には犬どころか猫の子一匹いやしないはずなのに……
「おっかないわんちゃんだねえ。絶対お手とかしなさそう」
「注目すべきはその隣の人間っス!!」
ビバリーが興奮の面持ちで急きたてる。
ドーベルマンの隣には一人の男がいた。仕立ての良い三つ揃いを完璧に着こなした、特権階級の傲慢さを匂わせる中年男。整髪料で固めたオールバックは年齢には不自然なほど黒々と輝いて秀でた額を強調していた。縁なし眼鏡の奥の双眸は鋭敏な知性とエリート故の傲慢さを宿していたが、爬虫類めいた嗜虐性が透ける残忍な眼光は誰かを彷彿とさせた。
東京プリズン最低最悪の看守の呼び声高いあの男を……
「タジマ!?」
思わずビバリーの肩を掴む。いや、タジマじゃない。だけどよく似てる。痩せぎすの体を高級スーツに包んだ中年男は体重こそ30キロ以上違うが、血縁関係を匂わせるほどにタジマの面影を宿していた。
タジマに瓜二つの男は威張りくさって自己紹介する。
「囚人諸君、初めまして。この私こそが無能な元所長に成り代わり新たに東京少年刑務所の所長に就任した政府直々に派遣された優秀かつ完璧なるエリート、やがてはこの日本を掌握するエリートの中のエリート、君たち愚鈍なる家畜を徹底的に管理教育して従順な牧畜へと調教せよと任命された……」
一呼吸おいて、言う。
「但馬 冬樹だ」
但馬。タジマ。
「タジマのおにいさん……?」
どうりで似てるはずだと納得する。但馬新所長は大上段の演説に陶酔して尊大にふんぞり返ってる。僕も噂に聞いたことある、タジマの実兄は警察庁高官のエリートで将来を嘱望されてるって。あれは事実だったのか。でもなんでこんな突然?警察庁高官のエリートがこんな砂漠くんだりにまでやってきたわけ、存在感の薄い所長の辞任だって僕ら囚人には何も一言も知らされてなかったのに。
中庭を埋めた囚人誰もが驚天動地の衝撃に打ちのめされてる。
そりゃそうだ、せっかく東京プリズンの寄生虫タジマが消えて喜んでたのにたった二週間でまた舞い戻ってきたのだ。今度やってきたのは兄だけど第一印象から最悪だ。動揺する囚人を貫禄たっぷりに見まわしてタジマ兄こと但馬新所長は饒舌に告げる。
「諸君らも知ってのとおりここ東京少年刑務所は凶悪犯罪を起こした少年の為の更正施設である……というのは建前で、実際には政府に見放された無法地帯だ。口にするのも汚らわしいが、この刑務所では囚人間の暴力や陵辱が蔓延して退廃を極めている。まったくひどい場所だ。諸君らは聖書にでてくるソドムとゴモラの逸話をご存知かな。なに知らない?聞きしに勝る愚鈍さだな。まあいい、ならば教えよう。私は寛容な精神の持ち主だ、無知蒙昧な家畜どもに新たな知識を授けるのも新所長の努めだ。姿形は人間に似せていても心はけだもの家畜以下人未満、そんな諸君らにこそ知っておいてもらいたい教訓だからな」
縁なし眼鏡のブリッジに繊細な中指を添え、神経質に押し上げる。
レンズ越しの眼光がますますもって鋭さを増し、切れ長の双眸が侮蔑の針を含む。
「ソドムとゴモラは旧約聖書の創世記に登場する、天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされる都市のことだ。何故滅ぼされたかには諸説あるが甚だしい性の乱れを原因とする見解が一般的だ。ソドムとゴモラの民は実を結ばぬ背徳の快楽に耽った、つまりは同性愛が流行したのだ。中世欧州で猛威をふるった黒死病のごとく、な。ここはまさに現代のソドム、背徳の都だ!
しかし私が来たからにはそうはさせない、私は救世主のごとく砂漠の最果てに降臨し必ずや改革を断行する!東京少年刑務所の規則がゆるいからこそ諸君ら囚人が欲望の赴くまま快楽を貪り風紀を乱すのだ、私が所長に就任したからには今までのように諸君らの好きにはさせない、今ここに綱紀粛正を宣言する!!」
自分の演説に興奮した新所長が眼鏡の奥の目を血走らせ、力一杯こぶしを振り下ろす。カリスマ扇動家か自己陶酔の為政者を思わせて大仰に芝居がかった動作。エリート然として冷静な仮面の下から覗いた激しい気性と迸る熱意に誰もが圧倒される。
主人の昂ぶりに感化されたか足元に行儀良く傅いたドーベルマンがさかんに吠えだす。鼓膜が破れんばかりにうるさい鳴き声に前列の囚人が顔を顰めて耳を塞ぐが新所長は動じない、どころか「愛い奴だ」と微笑を上らせて犬の頭を撫でる。
主人に撫でられた犬が甘えるように鳴いて濡れた鼻面をズボンに擦り付ける。
犬の頭を妙にいやらしい手つきで撫でながら新所長は目を伏せる。
「私の弟もかつてここにいた。東京少年刑務所で主任看守を勤めていた」
タジマのことだ。
場に緊張が走り、空気が硬化する。
にわかにざわめき始めた囚人たちをよそに新所長は苦い顔で吐き捨てる。
「『あれ』は出来損ないだった。私の経歴に傷をつける不肖の弟だ。まったく、どこまで私に迷惑をかければ気が済むんだ?話によれば、『あれ』が下半身付随の障害を負ったのはここでの事故が原因だそうだな。しかし妙な話だ、ただの事故で処理するにはあまりに不自然な点が多すぎる。頭上に照明が落下した?照明とはそんなに簡単に落ちるものなのか、余程の衝撃が加わらねば落下などしないはず。誰かが照明に工作して故意に落としたのではないか?」
実の弟が下半身付随の障害を負ったことを哀しむふうでもなく、ただ淡々と事実だけを述べる不感症な口調は鍵屋崎に似ていたが、新所長の口ぶりにはどこか猛烈に生理的嫌悪を掻き立てるところがあった。
要するに陰湿陰険なのだ、どこをとっても。
「―まあ、いい。犯人が判明するのも時間の問題だ。『あれ』を負傷させた犯人はやがて自ら名乗りでるだろう」
新所長が薄く笑う。
「私の使命は諸君ら愚鈍なる家畜を従順な牧畜へ教育することだ。くれぐれも恩情など期待せぬよう忠告だ。反抗する者には容赦なく鞭が振るわれる。鞭が欲しくなければ従順な家畜に徹することだ、私の命令には決して逆らわぬことだ」
剃刀めいた切れ味の笑みを口元に刷いた新所長が、背筋が寒くなる威圧的な声音で言い含める。脅迫。東京プリズンにまたぞろとんでもない男がやってきた。戦々恐々首を竦めた僕は演台の下、新所長の傍らに控えた眼鏡の男に気付く。
安田だった。ここ二週間ばかり姿を見ていなかった安田がいた。銃を紛失した不祥事を上に責められて副所長退任かと囁かれた安田が苦渋の面持ちで新所長に付き従っていた。新所長に最も近い位置にいるのはドーベルマンで安田はその横、演台の下に立たされていた。
犬より下位に甘んじる屈辱に安田の顔もさすがに歪んでいる。
見たところ新所長を補佐する秘書役を仰せつかったらしいが、安田はその抜擢が不本意らしく銀縁眼鏡の奥の目には自己嫌悪の色が浮かんでいた。
「副所長も大変だ。中間管理職はつらいよってところかな」
「呑気なこと言ってる場合じゃないっスよリョウさん、あの新所長見るからにやばそうじゃないっスか!マルコムX並の強硬論者っスよ、扇動家っスよ!冒頭挨拶で本人意識してか無意識かわかりませんが三回も『エリート』くりかえすなんてマトモな神経じゃないっス!」
安田に同情した僕の横でビバリーがあわあわ取り乱す。わかってるよそんなこと、一目瞭然じゃないか。タジマに激似のタジマ兄は弟に負けず劣らず嫌な性格で、囚人に対する偏見と憎悪に凝り固まった陰険エリートで、僕らを見下す目つきや嘲る口調には露骨な悪意が含まれていた。
「どうしようどうしようどうしましょう、タジマが去ったと思えばすぐタジマ兄が……東京プリズンはタジマ兄弟から逃れられない宿命なんすか、タジマは永遠に不滅っスか、僕ら囚人に明日はないんスか!?」
ビバリーは完全にパニックに陥っていた。他の囚人も似たり寄ったり、隣り合った奴とつつきあってひそひそ話を交わしてる。誰も彼もが怯えた小動物のように身を縮めて但馬所長の顔色を窺いその一挙手一投足に過敏に反応する。
中庭に充満する暗澹たる空気。
安田は沈痛な面差しで黙り込んでる。他の看守は緊張の面持ちで直立不動の姿勢をとってる。囚人間の内乱が収まらないうちに恐怖政治が幕を明けた。これから始まる激動の日々を予感して二の腕を粟立てた僕の耳を野太い怒声が貫く。
「そこ、うるさいぞ!!新所長就任の挨拶中だ、私語は慎め!!」
早朝の大気をびりびり震わす看守の怒鳴り声。囚人のしゃべり声よりよっぽどうるさいよとぼやきながらそっちに目をやれば看守数人が僕らから少し離れた場所の囚人二人にとびかかりあっというまに取り押さえる。
看守の下敷きになった囚人に目を凝らした僕は「あっ」と叫んでしまった、看守数人がかりで地に這わされたのが東棟噂の二人ロンとレイジだったからだ。
まわりの連中は皆びっくりして看守と激しく揉み合うロンとレイジを見比べてる。間抜けな話、タジマ兄の強烈な個性に度肝を抜かれて演説に聞き入る余りロンとレイジが乳繰り合ってたのに全然気付いてなかったのだ。
くそ、ロンとレイジの乳繰り合いの現場見逃すなんて惜しいことした!僕にあるまじき失態だ。鍵屋崎とサムライもぎょっと目を見張ってる、まさか至近距離でふたりがいちゃついてるなんて想像だにしなかったんだろう。
人前での乳繰り合いが発覚したレイジは「ちっ、いいとこだったのに」と舌打ち、ロンは仏頂面をしてる。ともに看守に組み伏せられた二人に演台上の但馬所長が着目、不快げに口元を歪める。
帯電したように場の空気が緊迫する。
縁なし眼鏡の奥の目を爬虫類めいて陰湿に光らせた所長が独白。
「やはり。前任者が無能だったせいか、ここの囚人は躾がなってない」
陰湿な光に濡れた双眸に嗜虐の悦びを疼かせて、所長が命じる。
「その囚人二名を私のもとへ連れて来い。就任演説の妨害の代償にふさわしい刑罰を与えよう」
『見せしめ』。反射的にその言葉が閃いた。演台に立った所長が顎をしゃくり、後ろ手に絞め上げられ抵抗を封じられたロンとレイジが中庭前方へと強制連行される。看守に引きずられていくロンとレイジの背後で駆け出す構えを見せた鍵屋崎をサムライが止める。
看守数人がかりで二人が強制連行される姿は捕虜の引き回しに似ていた。衆人監視の中、好奇の注視を浴びて前方へと引き立てられたレイジとロンを一瞥、所長が階段を下りる。
軍人めいて律動的な歩調で足を繰りだし、黒い光沢の革靴でコンクリを叩き、硬質な靴音を響かせる。静寂の箱庭に響く規則正しい靴音が、なおさら不吉な予感を煽りたてる。新所長の隣には漆黒の毛艶の犬がぴたりと寄り添って大胆な歩調に合わせて脚を繰り出していた。
中庭を埋めた東西南北全囚人が固唾を呑んで見守る中、靴音が止む。
演台を下りた所長がロンとレイジと向かい合う。
「私の就任演説を妨害したのは君たちか」
口元に笑みさえ浮かべた穏和な口調で所長は問うたが、目は少しも笑っていなかった。
「見てのとおりだよ。でも妨害は大袈裟だろ?俺たちはあんたのつまんない話聞くより楽しいことしてただけなんだからさ」
「!ばかっ、」
揶揄する口ぶりで言ってのけたレイジにロンが声を荒げる。両手が自由ならきっとレイジの口を塞ぎにかかってたことだろう。レイジの正面に佇立した所長はいっそ愉快げに問いを重ねる。
「ほう。私の話が退屈だと言うのか。貴重な意見だから今後参考にしたいね。一体どこらへんがお気に召さなかったと?」
「馬鹿にすんなよ。ソドムとゴモラの話なんか常識だ、聖書をかじったヤツなら誰でも知ってる有名な話さ。いまさらあんたに教えてもらうまでもなく教訓得てるよ」
「教訓得てるやつのヤることかよあれが……」
恨みがましい目つきのロンをよそに大胆不敵に挑発、僕たちから見りゃいっそ痛快なほどに反抗的な態度のレイジを前に所長が微笑む。最もそれは、笑顔に分類するにはあまりに邪悪な表情……底暗い嗜虐の悦びに目覚めた背徳の笑顔だった。主人の感情の波に反応して足元の犬が唸る。今にもとびかかりそうな気迫を漲らせ、獰猛に犬歯を剥いてレイジとロンを威嚇する。最前列の囚人何人かが逃げ腰の悲鳴をあげる。
「………っ、」
ロンの横顔に焦燥の汗が滲む。そりゃ怖いだろう、正面じゃ敵愾心剥き出しのドーベルマンがしとどに涎を垂れ流して犬歯を光らせてるのだ。その気になりゃすぐ睾丸噛みちぎれる距離で狂犬が唸ってたら僕だって平常心を保ってられない。ビバリーも股間を押さえて縮こまってる。
「……なるほど、この刑務所にも信心深い囚人がいたようだ。嬉しいね」
レイジの博識を称賛した所長の視線が、ロンの尻ポケットに移る。正確にはロンの尻ポケットに無造作に突っ込まれた矩形の菓子……皺くちゃの銀紙で包まれた板チョコに。
「これはなんだ」
「!」
ロンが「やばっ」という顔をした。ロンの尻ポケットに手を伸ばし、抜き取った板チョコをしげしげ眺め、顔に近づけて匂いを嗅ぐ。
「チョコか。これは奇妙な、囚人の時間外飲食および嗜好品の持ち込みは規則で禁じられてるはずだがどこから手に入れたんだね。よくよく観察すれば卑しく齧った形跡があるじゃないか」
「……知らねえよ。落ちてたんだよ」
「君はそこらへんに落ちてるものを拾って食うのか。賞味期限が切れてるかもしれない、毒が仕込まれてるかもしれない、食中毒を起こす危険性があるやもしれない物を?見下げ果てた野良め」
「………」
ロンの顔が屈辱に歪む。僕は内心ひやひやしていた。ロンにチョコを渡したのは僕だ、ロンに名指しされたらどうしようとびくびくしていた。
「素直に言いたまえ。このチョコはどこから入手した、誰に貰ったのだ。犯人を教えてくれれば今回だけは特別に見逃そう」
所長は薄く笑いながらロンに取り引きを持ちかけた。僕を裏切って自分が助かるか、黙秘を貫いて罪を被るか究極の二択。ロンは反抗的な目つきで所長を睨みつけ、精一杯ドスを利かせた声音で反駁する。
「……拾ったんだよ、本当に。廊下に落ちてたんだ。誰かが食べかけで捨てたんだよ。俺は昨日夕飯ぬきで腹減ってたから食べ残しでもいいやってとびついたんだ、賞味期限切れで腹くだしたって構わねえやってそれで」
所長が銀紙を破いておもむろに板チョコに齧りつく。下顎に力を込め、板チョコを半分に断ち割る。あ然として言葉を失ったロンと囚人一同の前で所長は猛烈な勢いで板チョコを食べ始めた。バリバリと音が聞こえてきそうに豪快な食べ方。
「甘い。糖分過多だ。糖尿病になってしまいそうだ」
あたりまえだ、チョコなんだから。異様な光景だった。所長は口のまわりが汚れるのも構わずひたすらチョコを貪り食った、無表情に黙々と口だけを動かしてチョコを咀嚼して飲み下した。
過食症の人間が美味くもないチョコを頬張ってるみたいだった。
機械的な動作でチョコを口に運びつつ、所長は言う。
「私が糖尿病になったら責任をとってくれたまえよ、君」
そしてとうとう、ぺろりとたいらげてしまった。手近の看守に顎をしゃくり、小さく握り潰した銀紙を渡した所長の膝元に息を荒げた犬が纏わりつく。尻尾を振り振り、ズボンの膝に前脚をついて舌を垂れた犬の視線に屈み込んだ所長が砕顔する。日常の溺愛ぶりが知れる蕩けるような笑顔だった。
「よーしよし、可愛いハルめ。お前も食べたいのか、分け前が欲しいのか。いいだろうくれてやろう、さあ遠慮なく舐めろ。はは、そんなに慌てるな。まったく可愛いやつだな!」
犬が嬉しげに吠えて所長の腕の中にとびこむ。高級スーツが泥で汚れるのも構わず愛犬を抱擁した所長の顔を長い舌が撫で、口のまわりに付着したチョコを舐め取る。
所長の顔が涎でべとべとになる。犬が吐く息で眼鏡が仄白く曇って表情が見えなくなる。
「……うへ……」
所長の奇行に直面した囚人は完全に引いていた。
嫌悪の表情を隠しきれないのは看守も同じだ。
犬に自分の顔を舐めさせながら所長は恍惚と笑っていた。
「ハルよ、お前は私の自慢の犬だ!この世でいちばん賢い犬、犬の中の犬、人が造り給いし最高の血統だ。嗚呼、食べてしまいたいほど愛しい!お前の賢さを愚鈍な囚人どもにも分けてやりたい、お前の肉球の爪の垢ほどの忠誠心さえあれば折檻されずに済むというのに、こいつは全く度し難い愚か者だ。犬ほどの知性もない愚か者だ!」
涎まみれの顔で哄笑をあげ、紳士的な動作で犬をどけ、立ちあがる。
「君にチョコを渡したのは誰だ。白状したまえ」
「………あ、」
ロンが喘ぐように口を開く。待って、その先は言わないで!僕の願いが通じたのか、一旦開いた口をまた閉じ、黙りこくる。
強情な顔つきで沈黙したロンを一瞥、所長が顎をしゃくる。
「!!痛あっ、ぐ!?」
「ロン!!」
背後の看守が容赦なくロンの腕を捻り上げる。激痛にロンの体が跳ねて、鍵屋崎が悲痛に叫ぶ。サムライの制止を振り切りロンを助けに駈け出そうとする鍵屋崎、新所長の異常さに絶句する囚人と看守、「お願いだから名前ださないで」とビバリーにひしと縋りついて祈る僕―
「俺だよ」
呟いたのはレイジだった。
「聞こえた?こいつにチョコやったのは俺。疑うんなら銘柄言ってやろうか?ハーシーだよ。俺がこっそり隠し持ってたヤツの賞味期限切れたからコイツにやったんだ。むざむざ鼠のエサにすんのはもったいねーしな。いいだろうもう、コイツはただ俺から貰ったチョコ食っただけ。犯人は俺、コイツはとばっちり食っただけ」
看守、囚人。中庭を埋めた全員の注視を浴びてレイジはヤケ気味にぶちまけ、ロンが何か言いかけたのを遮るように語気鋭く命令。
「いいから向こう行ってろ。俺はハーシーの回し者なんだ、ハーシーの良さを宣伝する為にアメリカ本社から極秘裏に派遣されたスパイなんだよ。お前が美味そうにチョコがっついてるの見て目的は達した、悔いはねえよ。ハーシーへの義理も立つってもんさ」
「意味不明だよ!?」
満足げな表情で嘘八百を並べ立てるレイジにロンが脊髄反射でツッコミを入れる。所長が興味が失せたようにロンを一瞥、「連れていけ」と看守に顎をしゃくり退場させる。看守に引きずられて人ごみへと連れ戻されるさなかロンは虚空を毟り取るように手を伸ばしてレイジを呼んでいた、何とかレイジを振り向かせようと一生懸命に声振り絞り暴れていた。
「レイジお前格好つけやがって、デタラメ吐くなよ、フィリピ―ナの癖にハーシーに魂売りやがってマリアが哀しむぞ!!畜生、ヤンキーゴーホーム!俺庇ってつまんねえ嘘つきやがって、放せよ、俺はあいつに用あんだよ!」
レイジはわざとらしく耳をほじりほじりロンの抗議をどこ吹く風と聞き流す。いっそあっぱれなすっとぼけぶりだった。
人ごみに連れ戻されたロンからレイジに視線を戻した所長が無感動に再確認。
「君が犯人か」
「そう言ったろ」
退屈そうに欠伸を噛み殺したレイジの頬へと手が伸びる。
その場に集った誰もがレイジが絞め殺される光景を予期して身構えた。看守に腕を掴まれたロンが顔から血の気が引いて、鍵屋崎とサムライは走り出そうとした。ところが、大方の予想を裏切って所長の手がレイジの首を絞めることはなかった。
チョコでべとべとに汚れた手が、茶色に染まった指が、そっとレイジの頬に触れる。蜘蛛が這うように緩慢な動きで手がのたうち、執拗に指を擦り付ける。
レイジの頬を包んだ手の平が傾いで五本の指が蠢動、頬の輪郭をなぞるように緩慢に滑り落ちてはまた這いあがる。口の中に生唾が湧き出す扇情的な光景。チョコでべとついた指が上下するたび褐色の頬に濃茶の筋がひかれる。口端にふれる親指、唇の膨らみをなぞる人さし指、端正な鼻梁に添える中指、切れ長の目尻におかれた薬指、下顎にかかる小指……
指で顔を犯される不快感にレイジは隻眼を細めて耐えきった。
レイジの頬で指の汚れを拭き取った所長が、茶色の虹彩を覗きこむ。
「肌が褐色だと汚れが目立たないな」
レイジはぺろりと舌を出して口端の染みを舐め取った。
「あま」
そして、懲りない笑顔を見せる。
「ちゃんと歯あ磨いたほうがいいぜ。虫歯になる」
東京プリズンに新たに赴任した所長と東棟の王様が一歩も譲らず対峙する。吐息のかかる距離で互いの顔を見据えて瞬きもしない二人の周囲で緊張が高まる。僕は知らず知らずのちにビバリーにしがみついていた。ロンは今にもとびだしかねん形相で所長に敵意を燃やしていたが、後ろ手を掴まれて身動きできない状態だった。鍵屋崎とサムライは肩を並べて慄然と立ち尽くし、その他大勢の囚人は不安と好奇心が綯い交ぜとなった複雑な面持ちで成り行きを見守っていた。
犬の唸り声だけが地を這うように低く流れる中、レイジの顔を舐めていた所長の視線が首筋を這い下りて十字架に達した。レイジの胸で輝く黄金の十字架。
『!Stop,』
所長が虚空に手を伸ばし、無造作に十字架を毟り取る。僕はこの日初めてレイジの顔に焦りが浮かぶのを見た、レイジの平常心が揺り動く決定的瞬間を見た。レイジが十字架を死守せんと行動をとるより早く、所長の意を汲んだ看守がレイジを後ろ手に絞め上げて身動きを封じた。
それはそれはあっけなく。
華奢な鎖が千切れ、無数に連なる黄金の玉が弾けて、虚空にばらまかれる。
コンクリの足元一面に十字架を繋いでた玉が散らばる。
看守の足元にも囚人の足元にもその玉は転がってきた、僕の足元にも転がってきた。レイジの胸から力任せに毟り取った十字架を掌中に握り込み、頭上に翳してしげしげと見つめる。
「陳腐な十字架だな。安物か」
「本物の黄金だよ、マリアがくれた十字架だよ、返せよブラザーファッカー!!」
「真実か否か試してみよう」
手負いの豹のように暴れるレイジを看守が数人がかりで必死に押さえ込むさまを横目に、腰を屈めた所長が犬を招いて掌に乗せた十字架を突き出す。犬がくんくんと鼻を鳴らし興味深げに顔を近付ける。
手も足も出ないレイジの前で、鼻を蠢かして匂いを嗅ぐ。
「……やめろ」
犬が獰猛に唸り、所長の手の平に乗った十字架に向かってさかんに吠えたてる。耳に痛い吠え声。所長の口元に勝利の笑みが滲む。漆黒の毛艶の犬が口腔から滝のように涎を垂れ流して十字架にむしゃぶりつく、異様に長い舌を出して十字架を舐め転がして涎まみれにする。黄金の十字架が涎にまみれていく、さっきまでレイジの胸で輝いていた十字架が獣臭い息を吐かれて涎を浴びせられて貶められていく。
「やめ、ろ」
余裕を捨て去った顔と声でレイジが反駁。
「どうだ、美味いか。黄金の味がするか。もっとよく舐めてみろ、表裏余すところなく舐めてみろ」
犬は主人の命令に従う。何から何まで言われた通りにする。主の手の平に乗った十字架を舐め転がして口腔に含んで味を反芻、ぺっと吐き出してからまた咥える。興奮して牙を立てる。噛みつく。しゃぶりつく。
十字架が、犬に陵辱される。
『食吃鬼狗!!』
看守に羽交い絞めにされたロンが激しく身悶え、意味はわからないが切羽詰った台湾語で咆哮をあげる。
「レイジの十字架から離れろバカ犬、蹴っとばすぞ!!餌と勘違いして尻尾振ってんじゃねえ、そりゃレイジがお袋から貰った大事な十字架なんだ、犬畜生ごときがさわっていいもんじゃねえんだよ!食べんな咥えんなしゃぶんな、とっとと吐き出せ、思い出汚すんじゃねえこのバカ犬!」
頬を鮮やかに紅潮させ犬歯を剥いてロンがしゃにむに叫ぶ。憤怒にこぶしをわななかせるロンの視線の先では犬が相変わらず十字架を玩んでいた。
肉球で転がして口腔奥深く咥え込んで牙を突き立てる。
十字架を貪欲にしゃぶり尽くす犬を見下ろして所長は満足げに微笑んだ。
そして、おもむろに十字架を捨てた。
「!」
所長の手から投げ捨てられた十字架は虚空を舞い、落下。砂利に塗れて黄金の輝きがくすんで、レイジの胸にあった時の名残りが跡形もなく消え失せる。犬は待ってましたといわんばかりに十字架にかぶりついた、ちぎれんばかりに尻尾を振って前脚で十字架を押さえ付けて顎で噛んだ。
犬の傍らに片膝つき、頭を撫でながら囁く。
「お前の玩具だ。好きにしていいぞ」
レイジは呆然としていた。目の前で十字架が蹂躙されても手も足もでず立ち尽くしていた。屈強な看守数人がかりで拘束されてはさすがにレイジといえど跳ね返せず、十字架が汚されてくさまを虚しく見守るしかなかった。
どれ位時間が経った頃だろう。疲労に息を荒げた犬が独り遊びに飽きて、踵を返す。そして、後ろ脚を高々上げる。まさか。ビバリーが両手で目を覆う、ロンの顔が悲痛に歪む、鍵屋崎が虚空に手を伸ばす、サムライが無念そうに瞠目する。
しゃああああ。
音が、した。黄色い液体が弧を描いて迸った。犬が放尿した。砂利に塗れて輝きの失せた十字架に勢いよく尿を浴びせた。十字架を覆った砂利が尿で洗い流されて皮肉にも燦然と輝きが甦った。
気持ち良さそうに放尿した犬が甘えるように鼻を鳴らして主人のもとへ戻る。その頭を撫でてやりつつ十字架に歩み寄り、無慈悲な一瞥をくれ、革靴で執拗に踏み躙り砂利をかけたのち蹴り飛ばす。
視界から汚物を排除したい衝動に突き動かされて十字架を蹴り飛ばしたのは明らかだった。
「規則では私物の持ち込みは禁止だ。今後私の目に装身具が触れたら例外なく取り上げてハルの玩具にする。ハルは貴金属に目がない犬だから彼の二の舞になりたくなければ諸君らも心しておけ」
縁なし眼鏡のブリッジを押し上げ厳粛な静寂が支配する中庭を睥睨、溜飲を下げた所長が看守を率いて踵を返す。看守に後ろ手を締め上げられたレイジは虚ろな目で十字架を見つめていた。
前髪に表情を隠し、壊れた人形めいて首を項垂れたレイジの傍らを通りすぎざま、所長が何かを囁いた。
「匂いがつくから早く洗ったほうがいいぞ。私は破棄を勧めるがな」
僕にはそう言ったように聞こえた。
所長が通りすぎると同時に腕の戒めが解かれ、レイジがよろけるように前に出て、十字架の前に膝をつく。ズボンの膝が犬の小便で汚れるのにも頓着せず、十字架に手を伸ばし、掴む。犬の小便に濡れた十字架からは強烈な異臭が漂っていたが、レイジは迷うことなく十字架を掴んで上着の裾で拭いた。何回も何回も繰り返し上着の裾に包んで擦り付けて丹念に汚れを拭き取った。
なにかに憑かれたように必死に、掌中の十字架に縋るように必死にその動作をくりかえした。
遠くで犬の鳴き声がする。しらじらと夜が明ける。すべての事物の輪郭を克明に暴き出す太陽のもと、全貌を曝け出した中庭にただひとり膝を付き、懐に十字架を抱いたレイジは項垂れていた。
やがて。緩慢な動作で十字架に顔を近付け、匂いを嗅ぎ。
折りよく一条の朝日が射して、前髪に隠された表情が暴かれる。
「……はは。くせえ」
困ったように、笑った。
あんまり滑稽で情けなくて、胸が痛くなる笑顔だった。
[newpage]
タジマが東京プリズンに凱旋した。
僕が見たものは幻覚ではなく現実だった、生身の肉体を持って現実に存在する人間だった。ただしそれはタジマとよく似た別人、タジマの実兄だった。
タジマの兄を名乗る新所長は囚人への顔見せとなる今朝の集会で、東西南北全囚人が固唾を呑んで凝視する中、生贄を召喚して見せしめの儀を執り行った。
生贄の胸に輝く十字架を取り上げ犬の餌食にして徹底的に貶めた。
レイジが拠り所にしていた十字架は汚された。
犬の涎にまみれた挙句に放尿された十字架は彼の手の中で悪臭を放つ汚物に成り果てた。レイジの胸で輝いていた頃の名残りは留めず、犬に噛まれたあとがへこみ、地面に叩き付けられた際に擦れた表面には細かい傷が付いていた。
強制労働開始の時刻が迫っていた。
中庭に居残る囚人に業を煮やした看守が警棒を振り上げ、野次馬を散らしにかかる。警棒に追い立てられて中庭を後にする囚人に混ざり、僕もまた踵を返した。いかなる理由があろうと強制労働は休めない。遅刻者には厳罰が下る。立ち去り際に振り向けば、レイジはのろのろと腕を伸ばして方々に散らばった玉を集めていた。
自我を持たない人形めいて空虚で緩慢な動作。
前髪の隙間から覗いた隻眼には光がなく、ただ虚ろだった。
レイジは一つ一つ丁寧に周囲に散らばった玉をつまみ上げ、掌に載せていった。但馬の手に引っ張られ、千切れ、ばらまかれた無数の玉は、林立する足の間をすりぬけて肉眼では捉えきれぬ広範囲に散逸してしまった。全部を拾い集めるには丸一日を費やすことになるだろう。いや、一日で足りるかどうか……想像しただけで気が遠くなる。全部拾い集めるには膨大な手間と時間がかかる。はっきり言って、全部を拾い集めるなど不可能だ。しかしレイジは中庭を動かず、諦めに似た倦怠を漂わせ、手近な玉から一つ一つ拾い上げていく。
僕は、声をかけられなかった。サムライも同様だ。ロンは後ろ手の拘束を振りほどこうと必死に暴れたが、結局力づくで連れ去られてしまった。今のタイミングでロンを解放すれば大変なことになると危惧したためらしい。実際ロンは理性をかなぐり捨てて暴れていた、看守の手に噛みついて脛を蹴り上げて口汚い罵声を浴びせていた。
『あのバカ犬殺してやる、舌引っこ抜いて金玉毟りとって食わしてやる!!よくもレイジの十字架を、お袋から貰った大事な宝物を……タジマの兄貴のくそったれ、ぜってえ許さねえ、ぶち殺してやる!!』
狂乱をきたしたロンの声も届かぬのか、レイジは顔すら上げず、無言で玉を拾い集めていた。
いつも大胆不敵で自信と余裕に溢れた王様らしからぬ意気消沈ぶりだった。
イエローワークの強制労働が始まってからも僕は今朝のことを考えていた。考え続けていた。タジマの実兄の到来、異常な言動が際立つ就任演説、生贄に選ばれた二人……ロンとレイジ。
但馬所長は自分の存在を強く印象付ける為に見せしめの生贄を欲した。自分の地位をより確固たるものにするために、彼言うところの「愚鈍な家畜」である囚人たちを服従させるために。
そして、多くの囚人の中からロンとレイジが選ばれた。
なんて陰湿な男だ、陰湿なやりくちだ。思い出すだに背筋が冷える戦慄を覚える。
結果、何から何まで所長の目論見通りなった。東京プリズン最強の男、いつ何が起きても余裕を失わない大胆不敵な王様が所長の前では手も足も出なかった。所長は看守数人に命じてレイジを後ろ手に戒めたあとで十字架を取り上げ、レイジは言うに及ばず、全囚人と看守が息を詰めて見ているのを意識しつつ満足いくまで十字架を嬲った。かくして新所長は前任者のように看守に軽んじられ囚人に舐められる前に、自分の存在を強く印象付け、畏怖の念を植え付ける演出に成功した。
恐ろしい男だ。そして頭がいい。中庭を埋めた数多くの囚人の中からレイジを指名したのは直感か、あるいは彼こそが最も影響力を持つ男だと見ぬいたからか。但馬は洞察力と観察力に優れた強敵だと今朝の一件で痛感した。
レイジは今頃どうしてるだろう?中庭にひとり座り込んで玉をかき集めているのだろうか。
最後に見たレイジの姿を思い出し、気が滅入る。
前髪の隙間から覗く虚無に呑まれた隻眼。
僕は、但馬所長を許せない。二週間前に東京プリズンを去ったタジマは僕の天敵で、僕を何度も犯して苦しめた最低の男だ。殺意を覚えたことも一度や二度じゃない。だが、タジマはもういない。代わりにタジマの兄が所長として赴任した。悪夢の再来。シャベルを持つ手が震える。
こんなのはまだ序の口だ、とどこかで囁く声がする―……
「ちんたらやってんじゃねえよ、親殺し!」
「!?っ、」
突然、砂を蹴りかけられた。目に砂が入って涙が滲んだ。
シャベルに取り縋って蹲った僕は、足元に射した影で数人の少年に取り囲まれたと悟る。僕を取り囲んだひとりは、昨日、僕を襲った同僚だと声でわかった。全く、度し難い低能どもだ。彼らの考えることなどお見通しだ、昨日静流に倒された復讐にやってきたのだろう。付け加えるならば、彼らを倒したのは静流であって僕ではない。僕は無関係だと主張しようとしたが、反論する暇もなくシャベルが振り下ろされる。
「昨日の借りだ、死ねっ!」
一方的な死刑宣告に条件反射で体が反応、迅速にシャベルを構える。鈍い金属音、腕に伝わるに衝撃。咄嗟に翳したシャベルで脳天を防御、両腕に力を込めて均衡を維持。涙で砂を洗い流して正面に目を凝らせばやがて輪郭が定まり、憤怒の形相の少年が出現。やはり昨日の少年、売春班初日に僕を犯した同僚だ。
「労働放棄は感心しないな。君がサボった分まで仕事が増える」
「ひとの心配する暇あんなら自分の心配しろ!昨日は舐めた真似してくれたじゃねえか、あんな強え相棒いるなんて反則だ、親殺しのくせにいっちょまえにダチ作りやがって!」
「意味不明なことを言うな。僕は新入りに請われて刑務所内を案内してただけだ、友人などではない。第一君たちが性懲りなく僕に襲撃をかけてきたから静流に倒される羽目になったんだろう、自業自得じゃないか。君たちの記憶は三秒しか保たないのか、そういう病気なのか?学習能力のなさは視床下部の萎縮が原因か?一度精密な脳検査を勧める、少なくとも六割脳細胞が壊死してる可能性が」
「うるせえ!!」
少年が激昂、腕に渾身の力を込めてシャベルを押し込む。ありのままの事実を指摘しただけだというのに……責任転嫁も甚だしいと内心嘆息する。低脳には付き合いきれない。
シャベルに圧力がかかる。自慢ではないが、僕は腕力がない。貧弱な細腕を叱咤してみたところで、シャベルを受け止めるだけで精一杯で跳ね返すことなど不可能。わざわざ持ち場を離れて因縁をつけにくるなと罵倒、乏しい腕力を振り絞る。力と力が拮抗、危うい均衡を維持するも次第にシャベルが重みを増して―……
「そこ、何をしている!!」
「やべっ、副所長だ!」
鋭い叱責が飛ぶ。腕に掛かる圧力が取り除かれ安堵したのも束の間、耳朶を震わすエンジンの重低音に胸騒ぎが再発。音がした方を振り返った僕は、重厚なジープを下りてこちらにやってきた人物に息を呑む。
安田と但馬……所長。
いや、表記する順番は逆だ。実際には但馬所長が安田を従わせて歩いてきたのだから。安田が視察に来たのはわかる。だが、何故所長も一緒に?勿論所長が視察にきたとて何の不思議もない、いや、それが本来あるべき姿なのだ。暑い盛りの時間帯、副所長がジープに乗って各地の視察に赴いてるのに所長が涼んでいるのは不公平だ。
勤勉と怠慢。
かつて副所長と所長を対比するキーワードがそれだった。有能と無能に置き換えてもいい。僕が前所長に面会したのは一度きり、東京プリズンに来た初日のみだが、彼に抱いた印象は「俗物」の一言に尽きた。実務は副所長の安田に任せきりにして、自分は決して表に出ず事なかれ主義の保身に腐心していた。所長を名乗るにはあまりに無責任かつ無関心な職務姿勢に反感を募らせていた看守も多いと聞く。
ならば、副所長と共に視察に赴く所長の姿は健全といえるのではないか。安田を同伴して歩いてきた但馬所長は、用水路を覗きこみ、「ほう」と嘆声を発した。感心したような、面白がってるような声。
「随分原始的な用水路だ。水を流せば崩れてしまうんじゃないか」
所長が嘲笑する。安田は短く答える。
「そうならないように土嚢を積ませて補強しています」
「しかし、作業ははかどってないと見える」
縁なし眼鏡の奥の双眸を細めて所長が言い、安田の顔が渋くなる。確かに、作業は沈滞してる。土嚢を積む囚人は疲労で動きが鈍くなっている。脱水症状を呈してシャベルに寄りかかっている者も少なくない。
所長の目には、シャベルに凭れて休む囚人の姿が怠慢と映ったようだ。
「嘆かわしい。なんと怠惰な家畜どもだ。畑を耕さない牛馬に生きる資格はないというのに……君たちは肥溜めで溺死したほうが社会に貢献するな」
辛辣な毒舌を吐き、侮蔑の笑みを浮かべる。
用水路を建設していた囚人がその言葉に反応、いつ手の中のシャベルが凶器に変わるともしれない殺気が充満する。僕に襲いかかった同僚たちも所長に怒りの矛先を転じたらしく一気に険悪な形相になる。
「所長、いたずらに囚人を刺激する真似は控えてください。彼らはストレスをためています、不用意な一言が引き金となって暴発する危険性が」
「私に意見する気かね?」
たまらず口を挟んだ安田を牽制する。安田が歯痒げに押し黙る。所長は暫く用水路を覗きこんでいたが、やがて、名案を閃いたとばかりに嬉々とする。
「そうだ。競争させよう」
競争だと?
囚人が不安げに顔を見合わせる。
探り合うように視線を交わす囚人たちを眺めて悦に入った所長が背広の懐に手を忍ばせ、宣言。
「注目したまえ、諸君!」
注意を促された囚人が次々に鍬やシャベルを振るう手を止める。これから何が始まるのかと闖入者を注視するイエローワークの囚人たち。帯電したような緊迫感。
縁なし眼鏡の奥の双眸を陰湿に光らせ、砂漠に散った囚人たちを睥睨する所長。
「諸君らに良い知らせだ。今週いちばんよく働いた者に一日休みを与える」
「!……な、」
頭を殴られたような衝撃。
所長自ら強制労働の視察に赴いて休みを言い渡すなど前代未聞だ。何があっても強制労働だけは休めないのが鉄の掟なのに所長自らその取り決めを破るのか?極端な話風邪をこじらせて肺炎を併発しても、強制労働は休めないのが東京プリズンの掟なのに……半信半疑でざわめく囚人たちを冷ややかに見渡し、所長は大袈裟に首を振る。
「私の話が信用できないか。所長自ら宣言しても疑いを捨てきれないか。私の言葉に嘘はない、功労者には休みを与える。さあ、競え。効率向上には競争が一番だ。隣人に負けるな、汗水流して必死にシャベルを振るって用水路を築け、死に物狂いでノルマを果たせ!休みを獲得できるのはただ一人だ。褒美が欲しくば牛馬のように働いてライバルを蹴落とし抜きん出ろ」
「所長!」
安田が声を荒げて非難する。
「勝手なことをしないでください。強制労働は囚人に課された義務だ、義務の放棄は許されない怠慢だ。休みで釣って競争させるなど卑劣な!」
「黙りたまえ副所長、誰に口を利いている。ここのトップは誰だ?私に意見できる立場か」
安田の意見に耳を貸さず開き直った所長が再び命じる。
「休みが欲しいなら働け。過酷な強制労働を続ければやがては体を壊して使い物にならなくなる。諸君らは休みを渇望している、一日中ベッドに寝転んでいられるならそれに越したことはないと思っている。ならば要望を受け入れよう。ただしその代わりに三日後までに用水路を完成させるんだ。もし一日でも完成が遅れた場合は今ここにいる者全員を連帯責任で処分する」
「連帯責任だって?冗談じゃねえ」
「お前らとまとめて独居房に入れられちゃたまんねえよ!」
悲鳴じみた声が連鎖し、僕を除く囚人が狂ったようにシャベルや鍬を振るい出す。脇目もふらずに砂掘りを再開した囚人たちの顔には焦慮に揉まれて切迫した表情が浮かんでいた。
飴と鞭は家畜をしつける常套手段だ。
弛緩した倦怠感が漂っていた現場が一転、異様な熱気に包まれた。盛大に砂を跳ね散らかして鍬やらシャベルやらを振るう囚人たちを見まわして所長は満足げに頷いた。
おかしい。
絶対に間違っている。
「副所長、話があります」
極力抑えた声で安田に呼びかけ、シャベルを投げ捨てる。
土嚢が段段に積まれた斜面を上り、砂まみれになりつつ安田の足元に手をかける。これは、こんなの絶対おかしい。但馬所長のやりかたは根本的に間違っている。
休みで釣って競争させ、労働意欲を煽る。
それに関してはまあいい、効率的なやり方だと感心しなくもない。だが、三日で用水路を完成させるなど無茶だ。無謀だ。事実用水路はまだ三分の一も出来あがってない状態で、僕らがどんなに頑張ったところで完成には最低一週間はかかる。にも拘わらず、期限は三日。三日後までに用水路を完成させることができなければ連体責任で処分するという。
所長は、僕らに死ねというのか?
あまりに理不尽な命令に反発が込み上げ、安田の行く手を阻むように立ち塞がる。
「三日以内に用水路を完成させるなど無茶だ、明らかに超過労働だ。今のペースで働き続ければ遠からず死者がでる、少なく見積もっても十人が過労死する。ここは屠殺場か?僕らに死ねというのか!?一体どうしてしまったんだ、貴方はそんな非人道的な命令を承認する人間ではなかったはずだ。僕の尊敬する副所長ならこんな馬鹿げた命令断固拒否するはずだ!」
「誰だ君は?」
但馬所長がうろんげに僕を見る。安田は唇を噛んで俯いている。
無性に悔しさが込み上げてやり場のない怒りを感じた。
何故黙っているんだ安田、僕を納得させる反論をしてみろ、副所長の威厳をそなえた毅然たる態度で説得してみろ。どうした出来ないのか、一体どうしてしまったんだ。脳裏で疑問符が増殖する。安田に裏切られた思いで愕然と立ち竦む。正直、安田には幻滅した。所長の暴走を止められるのは副所長だけなのに、肝心の安田は全く頼りにならないどころか、苦渋に満ちた顔つきで下を向き現状を黙認しているのだ。
所長の存在を無視して副所長と対峙した僕は、現状に傍観を決め込む情けない安田を否定しにかかる。
「何故なにも言わずに現状を放置している黙認している!?貴方は副所長だ、所長に次ぐ権力の持ち主だ!僕が知る安田ならこんな無茶な命令即刻却下するはずだ、僕らの生命を軽く扱ったりしないはずだ!」
安田に対する信頼が音をたてて崩れていく。
僕は所長よりむしろ安田に怒りを覚えていた。何故安田は反論しない、所長に逆らわない?何か弱みを握られているのか。自分よりに地位が上の人間には逆らえない中間管理職の宿命か。
僕は安田を評価していた。安田は高潔な人格者だと思っていた。僕らの生命が危うくなれば命がけで守ってくれるはずと絶対の信頼を置いていたのに……
僕は。
僕らは安田に見捨てられたのか。見殺しにされたのか。
今まで信じてきたものが根幹から揺らいで眩暈を覚えた。
安田は僕に責められ詰られても唇を噛んで耐えている。自分には反論する資格がないとでもいうふうに沈痛な面差しを伏せている。糾弾に耐えて自己憐憫に酔うつもりか卑怯者め。体の脇でこぶしを結んだ僕は砂を蹴散らして憤然と安田に接近、怒号を発する。
「貴様には幻滅した。僕は貴様を過大評価していたようだ、人間不信の僕ともあろう者が貴様に一定の信頼を置いて最近では好感めいたものまで抱き始めていた。危うく騙されるところだった!貴様は所詮その程度の人間だ、保身に固執する俗物だ!少しでも貴様に心を許したことを恥じる、人生最大の汚点、一生の不覚、天才にあるまじき失態だ!!」
視界の端で所長が不快げに顔を歪めるのが映った。安田を押しのけて身を乗り出した所長が、僕に何かを言いかける。それを遮るように顔を上げた安田が、銀縁眼鏡の奥の目に悲痛な色を湛える。
弱り果てた凝視に耐えられず、思い詰めた眼差しに耐えきれず、僕は叫んだ。
「人格者を装った俗物より俗物らしい俗物のほうが余程マシだ、偽善に満ちた人格者より欺瞞に満ちた父親のほうがマシだ。貴様に比べれば鍵屋崎優のほうが上等だ!!」
頬に衝撃が爆ぜる。
空高く乾いた音が吸い込まれて周囲の囚人が一斉にこちらを向く。
衝撃はすぐに熱をもった痛みに変じた。安田が大仰に手を振り上げて僕の頬をぶったのだ。殴られた衝撃で眼鏡がずれて視界がブレた。
反射的に頬を庇い、放心状態で安田を仰ぐ。
「……口を慎め鍵屋崎。所長の前だ」
低い声で安田が言う。腫れた頬に手をやり、のろのろと顔を上げた僕は、皮肉げに口角を吊り上げる。
「所長の犬に成り下がったか。見下げ果てた男だ」
「鍵屋崎……そうか、君が例の!」
それまで興味本位に成り行きを見守っていた所長が、じろじろと僕の顔を眺める。
「遺伝子工学の世界的権威たる鍵屋崎夫妻の一人息子で、両親を殺害した凶悪犯か。そういえばそんな事件があったな、十ヶ月も前に。君の噂はかねがねうかがっていたが、どうしてなかなか……」
思わせぶりに言葉を切り、安田に微笑みかける。
「しつけ甲斐のありそうな、反抗的な家畜じゃないか」
「……ええ」
安田が神経質にブリッジを押し上げる。
「持ち場に戻れ、鍵屋崎。労働放棄を認めた覚えはない。これ以上ここに留まれば処罰する」
「飴と鞭か。新所長の方針に従って宗旨がえか。意外と影響されやすい性格なんだな」
安田に皮肉を言う。だが、本人は顔を上げもしない。
安田と対峙するのが耐えきれなくなり、逃げるように踵を返す。安田はもう以前の安田ではない。僕が知る安田はいなくなった。あそこにいるのは但馬の犬に成り下がった男だ。
シャベルを拾い上げて振り返れば、安田を従えた所長がジープへ戻っていくところだった。
二人の会話が切れ切れに耳に届いた。
「君は少し甘すぎるんじゃないか。たかが家畜にあんな生意気な口をきかせて放逐か?どちらが立場が上かはっきり思い知らせる必要があるんじゃないか」
「ご心配には及びません。私には私の考えがあります」
「ふん、頑固だ。しかし有能な人間は嫌いじゃない。私は君の能力を高く評価してる」
「はい」
「くれぐれも私の期待を裏切らないでくれたまえよ」
さくさくと砂を踏みジープに接近、すかさず前方に回り込んだ安田が後部座席の扉を開く。慇懃に頭を垂れて、主人の為に扉を支える安田は忠実な執事のようだった。車に乗り込む一瞬、舐めるようにいやらしい目つきで安田の顔を眺めた所長が、おもむろに手を伸ばし、安田のネクタイを掴んで引き寄せる。
顔を密着させ、囁く。
「これからたっぷりと飼い殺してやる」
ネクタイを締め上げる苦痛と屈辱に安田の顔が青ざめる。小馬鹿にするように鼻を鳴らしてネクタイを突き放した所長がジープに乗り込むのを確認、扉を閉めた安田が唐突に振り向く。
僕と目が合った。
安田がばつ悪げな表情を浮かべた。いちばん見られたくない人物にいちばん見られたくない場面を見られた失望の表情。多分、僕も同じ顔をしてるはずだ。
安田はもはや完全に、但馬の犬に成り下がったのだ。
[newpage]
『これからたっぷりと飼い殺してやる』
安田のネクタイを掴んで所長は脅迫した。
顔を密着させ、威圧的に声を低めて、お前は私の所有物だと言外に暗喩を込めて安田のネクタイを掌握した。安田は従順に返事をした。所長の命令に唯々諾々と従って、後部座席に乗り込む際は慇懃に頭を垂れて扉まで支えた。
安田は自分に厳しく他人に厳しい潔癖なエリートから主人の命令に絶対服従の卑屈な犬へと成り下がった。
飴と鞭を巧みに使い分けて隷属を強いる調教の成果。
僕の知る安田はもういない、僕がかつて憧れを抱いて信頼を寄せた高潔な人格者たる副所長はもういない。
但馬と安田の間に何があったのか正確にはわからない。
だが、仮説を組みたてることはできる。
今を遡ること二週間前ペア戦最終日の事件で安田が銃を紛失した事実が発覚、地下停留場に居合わせた囚人看守に広く知れ渡った。今だかつてない不祥事を「上」は重く見て一時は副所長の退任が要求されたらしい。
無理もない、刑務所内で銃の盗難事件が発生したなど世間に漏洩したら一大事の醜聞だ。それだけではない。安田がなくした銃はタジマの暴走を引き起こす要因となり、ヨンイルに対する五十嵐の殺意を顕在化させる要因になった。
安田の責任は重大だ。
副所長の退任もしくは辞任は避けられないだろう、と僕とて覚悟を決めていた。銃をなくした責任を追及された安田が副所長の地位を返上して東京プリズンを去るのはもはや避けられない事態に思われた。しかしそうはならなかった。不祥事の責任をとらされ現実に東京プリズンを去ったのは無能な前所長で、副所長の安田はその有能さを惜しまれ残された。
多分、これが真相だろう。
結論。たかだか一回の不祥事ごときで辞めさせるには安田はあまりに惜しい人材だった。それが「上」の下した判定だ。
しかし、いかに有能な人材であっても僕は安田を軽蔑する。
所長の犬に成り下がって権力にプライドを売り渡した男を軽蔑する。
『……口を慎め鍵屋崎。所長の前だ』
瞼裏に苦りきった安田の顔が浮かぶ。
激しい葛藤に引き裂かれて苦悩するエリートの表情、プライドと保身の狭間で揺れ動く自意識。
安田が僕に手を上げたのはあれが初めてだった。
東京プリズンでは看守の暴力が日常化して凄惨なリンチが横行してるが、いついかなる時も冷静沈着な物腰の安田が囚人に暴力を振るう場面を見たことは一度もない。
その安田が手を上げた。僕の頬をぶった。
義父にもぶたれたことがないのに。
所長と副所長を乗せたジープが嵐のように去ったのちも、砂漠に取り残された囚人たちは鍬やシャベルを手に労働に励んだ。
期限は三日。三日後までに用水路を完成させねば連帯責任で処罰されるのだ、必死にもなろうというものだ。
鍬やシャベルを振るって用水路を掘り進めながら、囚人たちが共通して頭に思い描いてる光景は、レイジの十字架を犬の餌食にしてほくそ笑む但馬の姿だった。レイジの十字架を残忍に踏み躙り、傷だらけにし、無造作に蹴り飛ばした但馬の姿は脳髄に強い印象を刻み込んだ。
但馬は容赦がない。ある意味弟よりもずっと邪悪な性格をしている。但馬の命令に逆らえばどうなるか今朝の出来事で皆十分に理解した。
但馬に逆らえば、心を殺される。
廃人にされる。レイジのように。
ペア戦を制した王様でさえ手も足もでない男に囚人がかなうはずもない。但馬のパフォーマンス効果は絶大だった。東京プリズン最強の呼び声高いレイジを徹底して痛めつけることでその他大勢の反抗心を根こそぎ奪い去ってしまった。
「群れを支配したくばボスを倒せ、か。愛犬家らしい考えだ」
あれで済めばいいが、と祈るように心の中で反駁する。
十字架を犬に食わせて涎まみれにして踏みにじりながら但馬は狂喜していた。
看守に後ろ手を戒められたレイジが虚心で凝視する中、靴裏に体重をかけて十字架を擦りながら、嗜虐の悦びに爛々と目を光らせて……鳥肌立つのを禁じえない異様な光景だった。舌なめずりせんばかりにレイジを眺めて十字架を踏みにじる但馬の姿は、手負いの豹を嬲る快感に目覚めた調教師を彷彿させた。
残虐な快感に酔い痴れて十字架を踏みつける但馬の残像を首振りで散らし、中庭に足を向ける。
強制労働を終えて中庭に来てみれば既にレイジはいなかった。あれから半日以上経ったのだから当たり前といえば当たり前だ。中庭を見渡してレイジの不在を確認、安堵と不安とを等分に抱く。レイジは今どこにいるのだろう?房に帰っているのだろうか。今朝の様子から考えて、鼻歌まじりに出歩く元気はさすがになさそうだ。
いないなら、かえって好都合だ。
「………このへんだな」
呟き、足を進める。今朝レイジと所長が対峙したあたりで立ち止まり、片膝付いて周囲の状況を検分。二人が争った痕跡は既に消えていた。地面を濡らした犬の小便も蒸発して、僅かに変色した染みを残すのみだ。犬の小便が乾いたあとを一瞥、ため息を吐いて腰を上げる。この辺はあらかたレイジが拾ってしまったようだが見落としがないとも限らない。地面に膝を付いた体勢から周囲に顔を巡らし……
「奇遇だね」
爽やかな声がした。
「!」
咄嗟に顔を上げれば、深紅の夕日を背に見覚えある少年が佇んでいた。さらさらと清涼に流れる癖のない黒髪、色白の肌、囚人服の中で泳ぐほっそりした肢体。黒目がちに潤んだ瞳には人懐こい笑みを浮かべている。可憐な少女と見紛う清楚な容姿の美少年……静流。
「こんなところで何してるんだい。ゴミ拾い?」
親しげに声をかけてくる静流に不快感を覚え、鋭い目つきで睨む。
「君こそ何故こんなところにいる。強制労働は終了したんだろう?なら房に帰って仮眠をとるなり読書に励むなり夕食まで効率的に過ごすのを推奨する」
「散歩にきたんだよ。中庭はまだ見て回ってなかったら好奇心が疼いてね。それにほら、夕日が綺麗だし風も凪いでるし散歩にはもってこいだろう」
そう言って僕の傍らに屈み込む。
「蟻の観察?」
「……愚弄するなよ低脳の分際で、蟻の生態観察など小学生の自由研究じゃないか。第一いまさら蟻の観察などせずとも僕は蟻の生態に関して博識を誇っている。知りたいか?いいだろう教えてやる、心して聞けよ。蟻は昆虫綱・ハチ目・スズメバチ上科・アリ科に属する体長1mm-3cmほどの小型昆虫をさす名称だ。熱帯から冷帯まで砂漠・草原・森林など陸上のあらゆる地域に分布、繁殖行動を行う雄アリと雌アリには翅がある。なお毒をもつ種類もいてヤマアリ亜科の毒を蟻酸と称す……」
「蟻に興味ないからいいよ」
……不愉快だ、非常に。貴重な時間を割いて蟻の生態に関する博識を披露してやったとうのに「興味がない」だと?たかが凡人の分際で天才の好意を無にする気かと反発がもたげる。
「そういえばさ、やっぱり砂漠には蟻がいるの?蟻地獄っていうくらいだし」
「僕の説明を全然聞いてないな。つい二秒前に蟻は砂漠・草原・森林など陸上のあらゆる地域に分布すると言ったはずだが?東京プリズンの砂漠とて例外ではない、事実スニーカーの内側によく潜り込んできて辟易する。蟻は嫌いだ、蟻に限らず虫全般が嫌いだ。理屈で説明できない生理的嫌悪を覚える。特に我慢できないのは頭部に触覚を生やして翅をもち、暗くてじめじめした場所を好む茶褐色の……」
「ゴ」
「その先を言うな!噂をすれば何とやらだ、ヤツらは神出鬼没だからな」
慌てて静流の言葉を遮り、腰を上げる。面倒くさい奴につかまってしまった。なるべく人に知られずに済ませたかったのに、と内心舌打ちして足早に移動。静流から遠ざかりたい一心で憤然と歩くが、嫌われてる自覚がない無神経な静流はのらりくらりついてくる。
西空が残照に照り輝く。
コンクリートで固められた中庭に長く影が伸びる。バスケットボールを追って走りまわる囚人たちから離れた場所を歩きながら、慎重に足元に目を凝らす。おそらくこの辺に落ちているはずだ。鎖が千切れた時、確かにこちらの方へ転がってきたから……
「あ」
あった。
最初の一粒を発見し、思わず歓声を上げて屈みこむ。僕の足元に転がっていたのは一粒の玉。但馬の手に引っ張られ、千切れ、ばらまかれた無数の玉のひとつ。レイジ一人で全部は拾い切れなかったはずだから、この辺に落ちているだろうなと推測を立てていたのだ。
指先で慎重に玉をつまみあげ、目の位置に持ってくる。
なにげなく頭上に翳せば、残照を浴びて美しく輝く。
「そうか。そういうことか」
背後で感心したふうな声がする。玉をてのひらに握りこんで振り向けば、静流が微笑を湛えていた。
「直くんは友達思いで優しい子だね」
「意味不明な発言は慎め。僕は空き時間に散歩にきただけだ」
「千切れた鎖を拾いにきてあげたんでしょう」
何もかもお見通しとばかり達観した口調で静流が言ってのけ、ぎくりとする。てのひらの玉を素早くポケットに入れ、静流に背中を向ける。足元に視線を落として緩慢に歩き出せば静流も自然についてくる。
夕日に染まる空は、血を流したように赤い。
唐突に足を止め、地面に手を伸ばす。二個目、三個目と続けて発見。
なにかの道しるべのように点々と落ちた玉を拾いながら、恵が好きだった童話の一場面を思い出す。森の奥深くに迷い込んだ幼い兄妹が道しるべに千切り捨てたパン屑は小鳥の餌となり、二人は帰路を見失ってしまった。今の状況はあの童話によく似ている。夢見がちに目を潤ませ、僕が読み聞かせる童話に熱心に耳を傾ける恵を思い出し、胸が絞め付けられる。
恵は今どうしてるだろう。
病院の窓から同じ夕日を見ているだろうか。
……らしくもない感傷に浸ってしまった。静流の存在も忘れ、無防備な横顔を見せて物思いに耽っていたことを恥じて玉の採取に没頭する。玉は1メートルほど間隔をおいてあちこちに散らばっていて、視界に入った玉を手元に集めるだけでかなりの時間がかかった。
明朝、筋肉痛で悲鳴を上げることになるのはわかっていたがどうしても腰をあげられなかった。僕の目には孤独に玉を拾い集めるレイジの背中が焼き付いていた。犬に放尿された十字架を胸に抱きしめて項垂れたレイジを忘れられなかった。看守に口汚く罵声を浴びせるロンや無念そうに目を閉じたサムライの顔も。
僕にできることは、これくらいしかない。
ならば、僕にできることを全力でやるまでだ。
決意を新たに顔を引き締め、手前の玉へと指を伸ばした僕の耳朶に、衣擦れの音がふれる。
「手伝うよ」
スッと指が伸びて、今しも僕が拾おうとした玉を掠めとる。隣を向けば静流がいた。笑っていた。柔和に微笑みながら僕の隣に屈みこみ、洗練された動作で腕を伸ばしてすいすい玉を回収する。
「余計なことをするな、物好きめ」
どういう気まぐれだと警戒しつつ皮肉を言い、競争心を煽られて手の動きを速める。静流に負けてなるものかとつまらない意地を張り目についた玉を片っ端から拾い集める。お互い会話もなく熱中。
「あいつら何やってんの」「さあ」「地面掘って金塊でもさがしてんじゃねえか」「バカ、コンクリート掘ったら爪割れて悲惨だぜ」「言えてら」……言いたい奴には言わせておけ。バスケを中断した囚人が遠巻きに僕らを眺めて嘲笑する。構うものか。
爪に砂利が入り、手が汚れる。
真っ黒に汚れた手を見下ろし、房に帰り次第洗わなければと考える。
その流れで静流の手に目をやり、驚く。
静流の手に、サムライと同じ火傷があった。
「静流、その手は?」
考えるより先に舌が動いて問いを発していた。僕の言葉に促されて手を一瞥、「ああ、これ?」と恥ずかしげに歯を見せる静流の笑顔に秘密めいたものを感じて胸がざわつく。なんだ、この感情は。サムライと火傷を共有する静流に、この僕が、鍵屋崎直が嫉妬している―?
「溶鉱炉にゴミを入れるときに火の粉が飛んできたんだ。レッドワークにまだ慣れてなくて」
「レッドワークなのか」
サムライとおなじレッドワーク。ならば当然サムライと顔を合わす機会があって口を利く機会があって、僕がサムライと一緒にいられるのは強制労働が終了してから朝までで、静流がサムライと共有する時間に比べれば……
馬鹿な、何を考えてるんだ僕は。サムライと過ごす時間を比較して何の意味があるというんだ。いいじゃないか別に、静流とサムライはいとこなんだ、数年ぶりに再会を果たした親戚同士積もる話もあるだろう。彼らが僕の知らないところで仲睦まじく話し込んで二人が親密さを増そうが全然……
「その、強制労働中サムライと話す機会はあるのか。彼の仕事態度はどうだ。サムライは決して手を抜かないだろう?人より無理をして体を壊すんじゃないかとあきれてるんだ。レッドワークの巨大溶鉱炉はかなりの高温で火傷する者が後を絶たないと聞くが」
「班が違うからあまり話すことはないね。ときどきすれ違うけど、頑張ってるみたいだよ。レッドワークは都会から運ばれてきた危険物を溶鉱炉でどろどろに溶かすのが仕事だから、ちょっとよそ見しただけでも大惨事になりかねない。その点貢くんなら心配ない、真剣な顔で溶鉱炉見張ってるから。
僕も何回か手伝ってもらったよ。小さい頃から剣を持たされてきたから腕力は並以上あるけど、リヤカー一杯に運ばれてきた鉄屑を溶鉱炉に放り込むのはなかなか力がいってね……僕が困ってると、さりげなく貢くんが手伝ってくれるんだ。ひょいってリヤカーを持ち上げてね。かなわないよ」
「そう、か。サムライはああ見えて親切だからな、誰であろうが困ってる人間は放っておけない物好きなんだ。別に君に限ったことではない、レッドワークの同僚がおなじように困っていればおなじように手を貸してこそ武士の美徳だ。渡る世間は鬼ばかり情けは人のためならずだ」
動揺のあまり指が滑り、せっかく拾い上げた玉を落としてしまう。
動揺?おかしいじゃないか、何故この僕が動揺しなければならないんだと憤慨する。静流はそんな僕を見てくすくす笑っている。男のくせにやけに艶っぽい笑い声だ。
そして。
不意に静流が接近、肩と肩がふれあう。
僕の手に手を重ね、耳元で囁く。
「君、貢くんのことをよく知ってるね。貢くんも君には心を許してるみたいだし……」
静流の吐息が耳朶をくすぐる。
「妬けるよ」
「半径1メートル以内に接近するな」
静流の囁きに肌が粟立ち、本能的な危機感から肩を押しのける。否、押しのけようとして逆に手を取られて引き寄せられる。痛い。華奢な五指で締め上げられた手首に、万力を嵌められた如く激痛が走る。この細腕のどこにこんな力がと驚いた僕の目をまっすぐ見据え、静流が言う。
嘘偽りを許さない真摯な声音が胸の奥深く響く。
「君、貢くんとどういう関係なの」
「何?」
静かな迫力を込めた問いが虚を衝く。西空から降り注ぐ残照が静流を燃え立たせる。手首を掴む握力が増し、骨が軋む。激痛に顔を顰めた僕の正面で、静流はゆっくりと瞬きした。
睫毛に沈んだ双眸に、激情の波紋が過ぎる。
「サムライは、僕の友人だ」
「それだけ?」
「大事な友人だ」
手首の激痛に耐えて毅然と言い返す。静流は腑に落ちない表情で思考を巡らしていたが、やがて僕を見据えて、皮肉げに口元を歪める。
秀麗な顔に不似合いに邪悪な表情を浮かべ、滝のように残照に洗われた静流が吐き捨てる。
「くだらない。君は帯刀貢の本性を知らないからそんなことが言えるんだ」
「サムライの本性だと?」
語尾が跳ねあがるのを抑えきれない。
静流は一体何を言いたいんだ、いくらサムライの知り合いでも彼を侮辱するのは許さないと乱暴に手を振りほどく。
静流が憐れみとも嘲りともつかぬ表情で僕を見る。
同情めいた眼差しを注がれ感情が沸騰、憎悪に滾った視界が真紅に燃え上がる。眼球の毛細血管の色。
一体この少年は何の権利があってサムライを侮辱するんだ、僕の大事な友人を侮辱するんだ?静流への怒りが爆発、衝動的に胸ぐらを掴んで引き寄せる。
目と鼻の先に接した顔を睨みつけ、激情に駆られて怒鳴る。
「回りくどいことを言うな、小出しにするな!帯刀静流、君の言動はまったくもって矛盾だらけで理解しがたい。昨夜は帯刀貢を取り返しにきたといい今日は帯刀貢の本性を知っているのは自分だけだと匂わせて挑発する、君は支離滅裂な言動で僕を翻弄して楽しむ性格破綻者か!?確かに君は幼年期からサムライと行き来があって親しい仲で苗のことも知っていた、悔しいがそれは認めようじゃないか、認めてやろうじゃないか!だからなんだ?自分のほうがサムライと付き合いが長いからと自慢してるのか、帯刀貢の人生に十ヶ月しか関与してないくせに思いあがるなと僕を牽制してるのか!?貴様になにが、」
「帯刀貢が苗を犯したと聞いても、彼の友人でいられるのかい?」
指から力が抜ける。喉から呼気が漏れる。
衝撃に立ち竦む僕をきっかりと見据え、静流は嘲りの笑みを浮かべた。
最初、耳から入った言葉を脳が拒絶した。しかし、徐徐に浸透してきた。
帯刀貢が、苗を犯した。
静流はそう言ったのか。僕の知るサムライが、あの寡黙なサムライが、優しい男が……力づくで苗を犯したと?間髪入れず否定しようとしたが、舌が縺れて反論できなかった。サムライを擁護しようと焦れば焦るほどに舌が縺れて、一言も発することなく口を開閉する醜態をさらした。
サムライ。
僕が読み聞かせる手紙の内容に黙って耳傾けてくれた。下水道で土下座をした。売春班に助けにきた。僕の為に涙を流してくれた。僕のせいで足を捻挫して試合に支障がでても一言だって責めなかった。タジマに襲われた夜は僕の震えが止むまで一晩中抱いて寝てくれた。サーシャのナイフから僕を庇い大動脈を掠る大怪我をした。最終決戦のリング上で僕を抱きしめた。
『お前は俺の友だ』
『俺の直だ』
何度も何度も助けられた。何度も何度も抱きしめられた。
しかしそれは、サムライだ。
僕はサムライになる前の帯刀貢を知らない。帯刀貢がどんな男だったか知らない。サムライは過去について多くを語らないから苗の自殺の原因や帯刀貢が実父含む十三人を殺した動機は依然謎に包まれたままで、
『俺が苗を殺したんだ』
『苗を追い詰めて首を吊らせたんだ』
いつか聞いた台詞が甦る。激しい自責の念に苛まれて吐き捨てるように言ったサムライ。
あれが真実だとしたら?
そのままの意味だとしたら?
頭は真っ白で、思考が働かなくて、萎えた腕が静流の胸ぐらから滑り落ちて弧を描いた。地面が沈み込むような虚脱感に襲われた僕の肩にすれいちがいざま静流が手をおく。
赤い唇が綻び、蜘蛛の糸のように耳朶に吐息が絡む。
「本当のことを教えてあげるよ。帯刀貢は苗を犯したことが発覚して後継ぎにふさわしくないと絶縁状を叩き付けられた。勘当を言い渡されて逆上した貢は神棚の刀を手にとり、実の父親を含む門下生十三人を斬り殺したんだ。莞爾さんはともかく、残り十二人はとばっちりもいいところさ」
魔性の笑みを湛えた静流が、揺蕩うように淫靡な手つきで肩を撫でる。
「せいぜい気をつけなよ。『あれ』はけだものだから」
体の脇に腕が垂れ、こぶしが緩み、五指がほどける。掌で温められた玉が滝のように流れ落ちて地面を滑っていく。潮騒の音色を奏でて地面に散らばった玉を一瞥、静流が「あーあ」と嘆く。
手近の玉を幾つか拾い上げ、放心状態から脱しきれない僕の手をとる。
僕の手に手を被せた静流が、されるがままの五指を折り曲げ、こぶしを作らせる。
優しく僕の手を包み込み、一つ一つに祈りを込めた玉を握らせて静流は言った。
「苗さんの二の舞にならないよう祈ってるよ」
残照を吸い込んで真紅に冴えた水鏡の目には、絶望に暮れた僕の顔が映っていた。
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