少年プリズン

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三百二十八話

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 『君、苗さんに似ているね』
 「な、……」
 口を開き、また閉じる。
 静流が礼儀正しく会釈してレイジの隣に腰掛けてからもなお僕の衝撃は冷め遣らず、思考停止状態から脱しきれてなかった。
 僕と苗が似ている?どういう意味だ、それは。単純に容姿のことを指して言っているのか。静流は苗のことを知っているのか、苗とも知り合いなのか?苗は帯刀家の使用人でかつてサムライの恋人だった、その苗とも面識があるということはすなわち静流は帯刀家の関係者であって……
 頭が混乱する。気が動転する。
 僕が苗に似ている。もしそれが事実だとしたら、僕が東京プリズンに来た当初からサムライが世話を焼いていた理由が判明する。自殺した恋人によく似た人間が突如目の前に現れたら誰だって平常心を保つのは難しい。たとえ性別が違っても顔が似ているなら、死んだ恋人の面影を重ね合わせて彼女に出来なかった分も構いたくもなるだろう。
 そうだったのか。
 サムライが東京プリズンに来たばかりで右も左もわからない僕を気にしてたのはただそれだけの理由か。僕はやっぱり、どうしようもなく、苗の身代わりだったのだ。最初から。
 スッと体の内側の温度が下がった。
 箸を握る手の感覚が消失、食欲が減退。自分がいる場所がどこかわからなくなる、前後左右の空間把握ができなくなる……現実感の喪失。僕一人虚空に放り出されたかのような孤独感……心許なさ。
 静流を問い詰めたい。サムライを問い詰めたい。
 はたして僕は本当に苗に似ているのか。
 初対面の静流に指摘されるほどに苗の面影を宿していたのか?
 だからサムライは同房になった当初から現在に至るまで無力な僕を献身的に庇ってくれた、自分の身を犠牲にしてまでも守り抜いてくれたのか?
 僕の中に苗の面影を見出して、かつて死なせてしまった恋人の身代わりに今度こそはと……

 僕は結局、苗の身代わりにすぎなくて。
 僕が苗に似ていたから、サムライは。

 サムライの横顔に視線を転じる。
 サムライは何も答えない。向かいに座った静流の姿が目に入らないはずないのに敢えて無視して今まで通り食事に没頭してる。器用に箸を操って酢豚を摘んで咀嚼、嚥下、そのくり返し。サムライの横顔からは何の感情も汲み取れなかった。いつにも増して硬い能面めいた無表情は、静流の呼びかけはおろか僕の問いかけをも拒んでいるかに見えた。
 様子が変だ。
 静流はサムライを「貢」と呼んだ。親愛の情を込めた呼び方だった。
 しかし呼びかけられたサムライの態度はそっけない。展望台では挨拶も交わさず背を翻して、今また食堂で一緒になっても静流の目さえまともに見ない。
 サムライは静流を避けてる。
 一体、二人の間に何があったんだ。
 「………」
 奇妙な沈黙が流れる。サムライは黙々と食事にいそしむ。僕は手にした箸の存在も忘れて静流の挙動を観察する。僕の視線に気付いてるのか、はたまた気付かないふりをしてるのか、スッと椀を持ち上げて汁を啜る静流。
 そんな静流を不躾に眺め、テーブルにだらしなく頬杖ついたレイジが呟く。
 「別嬪だなあ。ところで、サムライの知り合い?」
 静流が椀を置き、意味ありげな笑みを深めてサムライを一瞥。
 静流が何か言いかけたのを遮り、サムライが仏頂面で答える。
 「いとこだ」
 「いとこだと?」
 反駁したのは僕だ。意外だった。帯刀家の関係者だろうと漠然と察してはいたが、いとことは驚きだ。血の繋がりがあるにしては容姿に類似点がない。
 箸を持ったまま静流とサムライを見比べた僕は、素朴な感想を述べる。
 「いとこの割には似てないな」
 「僕の母が莞爾さん……貢くんのお父さんの妹なんだ」
 静流が補足する。なるほど、いとこか。親戚だったのか。いとこならば幼少期から行き来があるだろうし苗のことを知っていてもおかしくないと納得する。そこで初めてサムライが顔を上げ、まともに静流を見た。
 思わぬ場所で再会を果たしたいとこに対して、今だにどんな態度をとるべきか決めかねてる複雑な顔。 
 「叔母上は健やかにしているか」
 「死んだよ」
 静流はさらりと答えた。サムライの顔に初めて表情らしきものが浮かぶ。驚愕、そして悲哀。静流の言葉にひとかたならぬ衝撃を受けたサムライは、いっそう厳しい顔つきで黙り込む。
 食事を中断、トレイに揃えて箸を置く。
 己の膝を掴んで首を項垂れ、吐息をつく。
 「……俺のせいか」
 「おかしなことを言うね。なぜ貢くんのせいなんだい」
 静流が悪戯っぽく笑う。
 「俺は、帯刀の家名に泥を塗った。あの一件のせいで帯刀は家名断絶、累は一族郎党に及んだと風聞で知った。叔母上とて世間に非難されたはずだ。叔母上は帯刀の生まれに誇りを持っていた、武家の女の矜持に支えられて生きてきた。それを……」
 「寿命だったんだよ、母さんは。貢くんだって知ってたろう、母さんが癌を患っていたことを。ここ何年かはずっと臥せっていて、本家に出向くこともなかった。事件が起きても起きなくても遠からず寿命を迎えていた。貢くんが死期を早めたわけじゃない、自分を責める必要なんてどこにもない」
 「しかし、」
 「母さんのことだけ?」
 またあの目だ。吸い込まれそうに深く清冽な水鏡の目、相対した者の心を反射する止水の目。
 丁重に箸を置き、サムライを見つめる静流。
 「薫流姉さんのことは気にならないの」
 「薫流」の名にサムライが示した反応はごくかすかなもので、記憶の襞をさぐるように双眸を細めただけだった。
 「薫流か。懐かしいな。今はどうしている」
 サムライの問いに静流は答えず、ただ笑っている。
 笑いながら箸を取り、食事を再開。片手に椀を抱えて上品に汁を啜りながら続ける。
 「貢くん、覚えてるかい。ずっと昔、まだ本家と分家の行き来があった頃……僕と姉さんが本家に遊びに来てた頃、苗さんもまじえて隠れんぼしたことがあったでしょう」
 「ああ」 
 「貢くんが鬼で、僕らが隠れる側。本家の庭はとにかく広くて、沢山木があって、隠れる場所には事欠かなかった。僕は夢中で逃げた。貢くんが百数え終える前に必死で隠れる場所を捜した。そして見つけたんだ、ちょうどいい場所を。屋敷の裏手に生えてる桜の老木の洞……子供ひとり隠れるのにちょうどいい奥行きがあって、立派な枝ぶりが邪魔して外からはちょっと見えにくい位置にあった。僕は下駄を鳴らして洞に隠れて、暗闇で膝を抱えて、貢くんがやってくるのを待った。ここなら絶対見つからないって安心して……そうしたら」
 当時のことを思い出し、静流が愉快げな笑いを漏らす。
 鈴を転がすように無邪気な笑い声。
 「背中が変にもぞもぞして、あれなんだろうっておそるおそる手探りしてみたら毛虫が這ってて……あの時は本当にびっくりした。隠れんぼしてることも忘れて無我夢中で飛び出して、貢くんに泣きついた。みっちゃんお願いだからこれ取ってって大騒ぎして、一体何事だって苗さんと姉さんまで出てきて、かくれんぼどころじゃなくなって……」
 「そんなこともあったな」
 サムライが苦笑する。幼少期の思い出に触れて緊張がほぐれたか、顔から硬さがとれて、目には追憶の光が宿っていた。
 「貢くんは眉ひとつ動かさず毛虫を払ってくれた。姉さんには叱られたよ、こっぴどく。見た目だけじゃなく中身もまるで女の子ね、毛虫一匹で騒いで情けない、帯刀の男子の風上にもおけない臆病者だって……少しは貢くんを見習えって。慰めてくれたのは苗さんだけだった。あの頃は苗さんが本当の姉さんならよかったのにって思ってたよ。薫流姉さんは子供の頃からそりゃあ意地が悪くて常日頃から僕を玩具にしてたから…あとからわかったんだけど、あの時、木の洞に潜りこんだ僕の背後にこっそり忍び寄って毛虫を投げ込んだのも薫流姉さんだった。さもあらん、さ」
 「薫流はお転婆だったな」
 「ひどい姉さんだった」
 受難の幼少時代を回想する静流の顔には、言葉とは裏腹に幸福そうな笑みが浮かんでいた。   
 「鯉を獲って来いと池に突き落とされたこともあった。姉さん、鯉料理が食べたかったんだ」
 ……ひどい姉だ。
 思い出話に華を咲かせるサムライと静流を横目にほそぼそと夕飯を食べる。
 さっきまで静流を無視していたのに、避けていたのに、共有の思い出を懐かしむサムライの顔には柔和な表情がたゆたっている。静流に対する警戒心を解いて幼い頃の思い出話に興じるサムライの横でまずい酢豚をかじる。食が進まない。食欲がない。過酷な強制労働で疲れきって空腹なのに、味覚が麻痺したように味けなくて酢豚に伸ばした箸先が鈍る。
 「イッツア・スモールワールド。二人の世界だ」
 「!」
 はっと顔を上げる。
 テーブルに身を乗り出したレイジがにやにや笑いながら僕の顔を覗き込んでいる。不愉快だ。元はといえば君が静流を呼んだのが原因だろうと文句をつけたくなるが大人げないと自粛、食事に集中するふりをする。
 そんな僕に顔を寄せ、レイジが耳打ち。
 「仲間はずれで寂しい?」
 意地悪くほくそ笑むレイジに反発心がもたげる。
 「馬鹿な。何故僕が疎外感を覚えなければいけない。久しぶりに顔を合わせた身内同士積もる話もあるだろう、僕の存在など念頭から忘却して思う存分気が済むまで思い出話に没頭すればいい、彼らの話に介入するきっかけが掴めないからといって所在なく酢豚をつついてるわけじゃないぞ。空気を読んで発言を自重してるんだ」
 「嘘つけ、ホントは羨ましいくせに」
 「君こそ、ロンと喧嘩した直後に浮気心をだすとはいい度胸だな。反省機能が備わってない欠陥人間め」
 「ビジンに親切にすんのは浮気のうちに入んねーよ」
 レイジがおどけて首を竦める。サムライと静流は童心に返って思い出話に耽っていて僕が介入する隙はない。サムライと静流の話し声を聞きながら居心地悪く俯く。サムライと静流の間に流れるのは幼少期を共有した者同士の親密な空気、他人が割り込む隙はない。
 僕は除け者でよそ者で邪魔者だ。
 箸を咥えて独りごちる僕の脳裏で静流の声が再生される。
 『君、苗さんに似ているね』
 あれは、どういう意味だ?
 胸が不吉にざわめく。徐徐に平静を保てなくなる。箸を握る手に力がこもる。僕が苗に似ているから何だというんだ、それがどうしたというんだ、言いたいことがあるならはっきり言え。
 静流に対する反発心が急沸騰、喉元に苦汁が込み上げる。
 「弟の口から言うのもなんだけど、薫流姉さんは美人になったよ」
 静流が言う。
 「貢くんは随分会ってないから知らないだろうけど会えば驚く……」
 「恵のほうが可愛い」
 考えるより先に口が動いた。
 言葉を遮られた静流が、今初めて僕がそこにいることを思い出したとでもいうふうに目を丸くする。サムライが胡乱げに僕を見る。一同の注視を浴びた僕は「しまった」と焦るが、もう遅い。
 今さら後戻りできないと覚悟を決めて饒舌に続ける。
 「君の姉がどれだけ美人かは実際に見てないから評価は差し控えるが、僕の妹には到底かなわない。恵は客観的に評価して十分可愛い。小動物めいて庇護欲をくすぐる黒目がちの瞳と小さな鼻、丸みを帯びた唇、小造りの顔……容姿だけじゃない、性格もいい。少し人見知りするきらいはあるがとても善良で心優しい自慢の妹だ、あと十年経てば君の姉―たしか薫流といったか―とは比較にならない素晴らしい女性になること確実だ。十年間誰より近くで恵の成長を見守ってきた天才が断言するんだ、間違いない」
 誰より愛しく愛らしい恵の笑顔を思い浮かべながら断固主張、ここに写真があれば実証できるのにと悔しさに歯噛みする。
 静流は目をしばたいてる。サムライはあ然としてる。レイジは爆笑する。
 三者三様の反応を見比べて、どうだ思い知ったかと腕を組む。
 静流の姉より恵の方が容姿が優れてるに決まってる。静流が姉を自慢するなら僕は恵を自慢する。大体僕の恵が静流の姉に負けるわけないじゃないか。
 恵の可愛さは偉大、よって恵は無敵だ。
 静流も実姉を慕ってるらしいが、妹を溺愛する度合いに関しては僕の右に出る者はない確信と自信がある。
 「世紀のシスコン対決だ。おもしろくなってきた」
 レイジが口笛吹いて茶化す。まさか僕と正面対決させるのが目的で静流を呼んだのではあるまいなと疑惑が芽生える。呑気に頬杖ついて見物を決め込むレイジを睨みつけ、椅子の背凭れに寄りかかり静流と向き合う。
 「確か静流と言ったか?君の実姉には全くもって何の興味もない、実の弟の口から美人だと聞いても信用に足る根拠がない、偽証の可能性も否定できないからな。第一『しずる』の姉が『かおる』だなんてあまりにも単純率直なネーミングじゃないか。韻を踏んで語感をよくしたつもりだろうが、春の次に夏が秋の次に冬がくるような単調さだ。もう少し独創性が……」
 「直」
 サムライが僕の肩を掴む。その手を邪険に払い落として挑戦的に静流を睨みつける。一触即発の緊迫感が卓上に立ち込める。前言撤回するつもりは毛頭ない、謝罪するつもりもない。僕が言ったことはすべて真実だ。
 さあ、言い返せるものなら言い返してみろと静流の返答を待つ。
 不意に、静流が身を乗り出す。
 ごくかすかな衣擦れの音が耳朶をくすぐり、静流の吐息が顔にかかる。身を引く暇もなかった。決して素早い動きでないにも関わらず、一挙手一投足に隙がない。卓上に手をついて、睫毛が触れる距離で僕の顔を覗き込み、静流が小首を傾げる。
 「名前をまだ聞いてなかったね」
 「言う義務がない」
 「知りたいんだ。教えてくれないかな」
 あくまで穏やかな物腰で静流が申し出て、毒気をぬかれた僕は淡々と自己紹介する。
 「鍵屋崎 直。サムライの同房者だ」
 「カギヤザキ ナオ……名前まで苗さんに似てる。偶然にしては出来すぎだ」
 眼鏡のブリッジに中指を押し当てた僕の正面で、さもおかしそうに静流が笑う。癇にさわる笑い声だ。何か言い返そうと口を開いた僕の肩に静流がそっと手を添える。握力自体は決して強くなかったが、有無を言わせず相手を従わせる威圧感があった。
 僕の肩に手を添えて押し止めた静流が、耳朶に口を寄せ、囁く。
 僕にしか聞こえない声で。
 「そうか。苗さんが死んで君に乗り換えたんだね、貢くんは」
 『苗が死んで、僕に乗り換えた』。
 甲高い音が鳴る。僕の手から滑り落ちた箸が床で跳ねる音。
 「貢くん、あとでここを案内してくれないかな。僕、来たばかりで地理がわからなくて……迷子になってしまいそうで心許ないんだ。貢くんの都合が悪ければ君でもいいけど」
 サムライと僕を交互に見比べて静流が聞く。 
 「冗談じゃない、何故この誇り高い天才自ら案内役を努めなければいけないんだ。君など東京プリズンの地下迷宮で遭難……」
 「キーストアがいやなら俺が案内してやろうか?」
 難色を示した僕を押しのけるようにレイジがしゃしゃりでれば、静流は首を振る。
 「君はさっき食堂をとびだしてった子に謝りに行ったほうがいい。あの子、相当怒ってたみたいだから」
 「ちぇ、つれねーの」
 レイジがしぶしぶ引き下がる。口元に微笑を湛えた静流が謎めいた目で僕を誘う。
 『君、苗さんに似ているね』
 『苗さんが死んで君に乗り換えたんだね、貢くんは』
 前述の言葉の真意が知りたければついて来いと挑発する、艶かしい流し目。
 眼鏡のブリッジに指を添えて逡巡する。静流の誘いを断るのは癪だ。僕が静流に怯える必要などない、静流に引け目を感じる必要などどこにもないのだ。僕はただ真実が知りたい、僕と苗が似ていると言った静流の真意を確認したいのだ。
 深々とため息をつき、ブリッジから指をおろす。
 「……わかった、僕が行く。図書室に本を借りに行くがてら特別に案内してやろうじゃないか。天才の気まぐれに感謝しろ、低脳め」
 「なら俺も」
 「君は来なくていい」
 椅子を引いて席を立とうとしたサムライを制し、手早く食器を片付けてトレイを抱え上げる。
 「僕が用があるのは帯刀静流だ。朴念仁の帯刀貢は房に引っ込んで墨でも擦っていろ」
 トレイを持ち、先に立って歩き出した僕の背後に静流が続く。視界の端にサムライの肩を叩いて慰めてるレイジの姿が飛び込んできたが、無視する。
 僕の背後に続いた静流はくすくす笑っている。
 「貢くん、亭主関白ぽいけど惚れた相手に頭が上がらないのは相変わらずだなあ」
 おそらく幻聴だ。 
[newpage]
 レイジなんか大嫌いだ。
 あんなヤツに処女をくれてやるんじゃなかった。
 ひりひり痛むケツを押さえてどこをどう歩いたか、房に真っ直ぐ帰るのは嫌で、足は自然と医務室に向いていた。
 房に直帰すりゃあと何十分後かにはレイジと顔突き合わせることになる。
 今の状態でレイジと顔合わせりゃ手当たり次第に物ぶん投げて罵り倒して追い出しちまう、怪我人だってことも忘れて踏んだり蹴ったりあたっちまう。
 そんなわけで、短気で喧嘩っ早い性格を自覚してる俺は適当に寄り道して頭を冷やすことにした。
 食堂じゃ寸手で自制心が働いてこぶしを引っ込めた、レイジをぶん殴りたい衝動を抑えて回れ右した。顔から火が出るほど恥ずかしかった。
 いや、そんな表現はなまぬるい。死ぬほど恥ずかしかった、本当に。
 一分一秒でも早くあの場を立ち去りたかったのが本音だ。
 レイジの無神経ときたら俺がどんなふうに喘いだか乱れたか昨晩の痴態を事細かに描写しやがって、俺は周囲の連中が下品な野次とばして笑い転げる中うしろも振り返らず逃げてきた。駆け足で逃げたくても裂けた肛門が痛んでへっぴり腰になったのが格好悪かった。
 廊下を歩きながら八当たりで壁を殴りまくったら手首がじんじん痺れた。
 レイジなんか大嫌いだ。クソくらえ。 
 あいつに処女くれてやったのは間違いだった。ケツも痛いし最悪だ。今晩は寝返りも打てないだろう。なにも食堂中の囚人が興味津々聞き耳立ててる中でバラすことねえじゃんかと今思い出しても全身の血が逆流する感覚に襲われる。
 もう表歩けねえ、俺。
 明日からどんな顔して食堂行けばいいんだよ、強制労働に出りゃいいんだよ?
 心の中で愚痴りつつ医務室のドアを蹴り開ける。
 「医者いるか」
 返事がない。いないみたいだ……と思って視線を巡らしたら入ってすぐそこの机に上体を突っ伏して鼾をかいていた。
 居眠り中か。不用心だなとため息まじりにドアを閉める。ま、かえって好都合だ。医者が居眠り中ならあれこれ詮索されずに済む。俺が医務室を訪ねたのは灯台下暮らし、医者に無茶言って退院したてのレイジがここに来ることはないだろうと踏んだからだ。
 白く清潔な通路を歩いてレイジ不在のベッドをめざす。
 からっぽのベッドがあった。昨日レイジが抜け出したままのベッドに腰掛け、踵の潰れたスニーカーを荒っぽく脱ぎ捨てる。ベッドに大の字に寝転がり、天井を仰ぐ。
 片腕を額に置き、目を閉じる。
 「体だりぃ………」
 額が熱い。ひょっとしたら熱があるのかもしれない。昨晩気を失ってからもレイジに二回三回激しく抱かれた無理が祟って熱を出したのかもしれない。処女相手に容赦ねえなあいつ。ちょっとは加減しろっつの。
 片腕で目を覆い、シーツを蹴り上げる。
 体がむずむずする。熱のせいだろうか。昨日レイジに吐き出された熱が体内に沈殿してるのか?レイジに抱かれた時の感触と感覚がまざまざと甦る。体の表裏をまさぐるなめらかな手、ケツの穴を唾液で潤してほじくる指、前に回ってペニスをいじくる手……耳朶を湿らす熱い吐息。
 『愛してるぜ。ロン』
 「嘘つけ。愛してんなら俺の嫌がることすんなよ」
 『マリアより誰より愛してるよ』
 「俺を抱いたらもういいんだろ、それで満足しちまったんだろ。飽きちまったんだろ」
 だからあんな無神経なことが言えたんだ、満員御礼の食堂で周囲の連中に聞こえる大声で、俺が昨晩どんなふうに喘いだかよがったか俺の気持ちも考えずバラすことができたんだろ。明日からどんなツラして表歩いたらいいんだよ畜生、もう東京プリズンで生きてけねえよ。
 責任とれよレイジ。
 「っ、ん………」
 吐息が乱れる。呼吸が浅く荒くなる。レイジの無神経に怒りを覚える半面、行為の余熱が燻った体が意志に反して疼きだす。レイジが俺の中に吐き出した熱が隅々まで行き渡って、細胞一つ一つに至るまで沁み込んで全身の皮膚を性感帯に造り替えたのか、前とは比較にならないくらい感度が良くなってる。
 おかしい。俺は、こんな淫乱じゃなかった。こんな淫乱な体じゃなかった。なのに一晩ぶっ通しでレイジに抱かれて快楽に馴らされて、一晩経ってもまだ熱が冷めなくて、シャツの内側の肌がレイジの指を求めてじれったく疼きだす。レイジに触れて欲しくてたまらないとシャツに擦れた肌が訴える。
 おかしい。俺はレイジに怒ってるのに、食堂で昨日のことバラして一回ヤッたぐらいで俺のこと自分の女扱いするレイジの暴君ぶりに腹を立ててるのに、体の火照りと疼きを解消したくて自然と下半身に手が伸びる。
 昨日は物凄く痛かったのに、こんなの死んだほうがマシだって何度も気を失いかけたのに……
 でも。
 途中から頭がじんと痺れて、わけわからなくなって、はでに喘ぎ声あげてたのも事実で。
 最初こそ痛みが勝ってたけど、今だかつて味わったことない強烈な快感もあって。
 『全部入った。よく入ったな、苦しかったろ?』
 俺の頭を撫でる大きな手、耳朶にふれる優しい囁き。
 「…………」
 股間に手を潜らせる。信じられないことに、前が勃っていた。ペニスが勃起してズボンを押し上げていた。昨夜のことを思い出して、レイジに抱かれた記憶を貪欲に反芻して、体が勝手に興奮してる。
 レイジなんか大嫌いだ。いつもいつも俺のことおちょくりやがって、満員の食堂で恥ずかしげもなく「俺の女」宣言しやがって、ちょっとはひとの気持ち考えやがれってんだ。
 心の中で毒づきつつ、股間に手を導き、揉む。
 なまぬるい愛撫。
 『感じてんのか嫌がってんのかわかんねーよ、どっちかにしろよ。物欲しげな顔しやがって』
 「んっ…………はっ」
 鼻から吐息が抜ける。手の動きが激しくなる。
 何やってんだ、俺。ついさっきまでレイジが寝てたベッドに横たわって、股間に手を持ってって……こんなとこ誰かに見られたらどうすんだよ?医者が今にも起きだしそうで気が気じゃない。声が漏れそうになるのを枕に顔を埋めて押さえればかすかにレイジの残り香がして欲情をかきたてる。レイジなんか大嫌いだ畜生と呪詛を吐くが一旦加速した手の動きは止まらない。せめて喘ぎ声が漏れるのを防ごうと枕に強く強く顔を押しつける。
 『怖くない、大丈夫だから。俺も一緒にいくよ。お前を天国に連れてってやる』
 ズボンの上から股間を揉んでいた手を徐徐に移動させ、音たてて生唾を飲み込み、ズボンの中に潜り込ませる。下着の中をまさぐり、頭をもたげたペニスを直に掴み、性急に扱き上げる。体はまだ行為の余熱を帯びて火照っていて、俺がレイジの態度にキレててもお構いなしに下半身は独立して疼いて、ペニスの先端は上澄みの雫を滲ませている。
 何さかってんだよ、興奮してんだよ?
 今までレイジのこと考えながら自慰したことなんてなかったのに、自慰する時思い浮かべてたのは大抵メイファや空想上の女のあられもない姿で、レイジの顔思い浮かべて股間に手え持ってったことなんて今までなかったのに……
 耳朶に吐息の湿り気を感じる。レイジの囁き声で脳髄が甘く痺れる。
 『愛してる。ロン』
 「あっ………」
 嘘つけ、調子のいいことばっか言ってんじゃねえと反発しつつも一旦加速した手は止まらない。下着の内側に突っ込んだ手で乱暴に股間を揉みしだく。緩急つけてペニスを扱けば瞬く間に腫れ上がって掌中で体積を増して射精の欲求が強まる。
 カーテンはきっちり閉め切ってるし枕に顔面押しつけてるし声が漏れる心配はない、大丈夫だと自分に言い聞かせる俺自身、自分がやってることが信じられなかった。
 レイジの無神経にブチギレて、あいつとはもう絶交だって心に誓って、けどいざ医務室にやってきてレイジが寝てたベッドに横臥したら意志を裏切って手が股間に伸びちまった。わけわかんねえ。快楽に馴らされて快感に目覚めて勝手に興奮する体が恨めしい。昨日一晩かけて性感帯を開発されちまったのか火照りを持て余した体が疼いて疼いて仕方ない。
 体の火照りを持て余してベッドに寝転がり、股間を揉む。激しさと浅ましさを増す腰の動き、耳障りな衣擦れの音。ヤッてる最中レイジは何度も俺にキスして「愛してる」と囁いた。残り一つになった目に慈愛の光を湛えて、極上の微笑を浮かべて……俺も「愛してる」と返した、「愛してる」とレイジに返してあいつを強く抱いた。もう二度とレイジを手放したくない、離れたくない一心であいつを思いきり抱きしめた。
 自分の手にレイジの手を重ねてさらに激しく性急にペニスを扱き上げる。
 「んっ、くう………っ」
 できるだけ声は押さえてるが、妙に甘ったるい喘ぎが鼻から漏れるのは如何ともしがたい。鼻にかかった喘ぎ声……俺の声じゃないみたいだ。片手でシーツを掴み、枕に顔を擦りつける。腰が浮く。脳裏に浮かぶのはレイジの顔、左目に眼帯かけて右目を細めた笑顔……
 この世でただ一人俺だけに向ける極上の笑顔。
 俺が独占する笑顔。
 「あっ、」
 駄目だ。イく。掌中のペニスが硬くなる。俺は夢中でペニスを摩擦しながらさらに腰を上げてそして…
 「やっほーヨンイル起っきしてるー?皆に愛される人気者、フェラ十八番の便利屋リョウくんがとっときの情報もってきてあげたよー。感謝し……」
 シャッ、と勢い良くカーテンが開け放たれて赤毛で童顔のガキがひょっこり顔を出した。プライバシー侵害もいいところの派手で騒々しい登場の仕方に手の動きが止まり、体が硬直する。自慰も佳境に入って手の動きがますます加速してた俺は、枕に顔を埋めて腰を上げたみっともない姿勢のままリョウと直面する。
 「…………あはははははははっはははっはは!?」
 気まずい沈黙を破ったのはリョウの盛大な笑い声。
 リョウときたら事もあろうにベッドに突っ伏した俺を指さして笑い転げた、ズボンに手を突っ込んで枕に顔突っ伏して尻を掲げた俺を容赦なく嘲笑った。だけじゃ済まず、近所迷惑な大声張り上げて周囲のベッドにふれまわりやがった!
 「ちょっとご近所の皆さんこっち見てご覧よ、東棟の王様もとい東京プリズンの王様の飼い猫がご主人サマ不在のベッドでおいたしてるよ、粗相してるよー?わあ愉快な眺め、ロンてばこんなとこでナニやってんの、愛しのご主人様の匂い辿ってベッドに潜りこんで……自慰?オナニー?一人エッチ?」
 「ばばばばばかっ、でっかい声だすんじゃねえ!?」
 興味津々俺の顔を覗きこんで満面に小悪魔の笑みを湛えたリョウにとびつき、そのよく動く口を塞ごうと両手をばたつかせるもリョウのほうが一枚二枚上手で俺の反撃を身軽にかわして続ける。
 「ロンてば、昨日レイジと結ばれたばっかなのにまだ足りないの?さっきなんか食堂ではでに痴話喧嘩やらかした癖に、レイジが寝てたベッドに潜り込んでレイジの匂い嗅ぎながら一人エッチなんて健気な飼い猫じゃん。どうしたのねえ、里心ついちゃったの?昨日一晩かけて躾られて王様なしじゃいられない淫乱な体にされちゃったの!?」
 「違っ……勝手に話作んじゃねえ、勘違いだ勘違い、デタラメだ!」
 甲高い笑い声が周囲の壁に跳ねかえり天井高く響き渡る。爆笑するリョウを前に、ズボンから手を引っこ抜いてベッドに立ち上がった俺は怒髪天で喚き散らす。ああもう最悪だ畜生、今日は何から何までツイていねえ!
 よりにもよってレイジのベッドで自慰してるとこを見つかっちまうなんてと自分の不運を嘆きつつ、リョウを適当に言いくるめる説得力ある反論はないかと頭を働かせる。
 「なにが勘違いなわけ。ロンがオナニーしてたのは事実じゃん、僕この目でばっちり目撃しちゃったもんね、レイジの残り香嗅ぎながら下着に手え突っ込んでさーいやらしい」
 「消毒液の匂いに興奮したんだよ!!」
 苦しい言い訳。苦しすぎる。
 激しい自己嫌悪と羞恥心やらなにやらに苛まれて頭を抱え込みたくなった。リョウに自慰の現場見つかりゃ今日中か明日中には言いふらされるに決まってる、レイジとヤッた件に関してはまあ合意の上だし隣近所に聞こえてたろうし半ば諦めてたけど、レイジが退院したベッドであいつの名前口走りながら自慰に耽ってたとかあることないこと脚色加えて言いふらされたんじゃ本当におしまいだ。東京プリズンで生きてけねえ。
 ああ、死ぬほど恥ずかしい。
 わけわからずむらむらして自慰なんかするんじゃなかったと今更悔やんで手遅れだ。人生最大の後悔に襲われてベッドに手足をつき項垂れた俺をよそに、リョウは元気一杯医務室中をとびまわって黄色い声で騒いでる。
 「ねえおじいちゃん先生、ロンてばおじいちゃん先生の居眠り中に医務室にこっそり忍び込んだだけじゃ飽き足らずにベッドで自慰してたんだけどこの件に関してどう思う?風紀が乱れると思わない?」
 「ふむ。健康な証拠じゃないかね」
 リョウに揺り起こされた医者が寝ぼけ声で反駁する。あの野郎医者にまでチクりやがった信じられねえと心の中で罵倒、リョウを医者からひっぺがそうとスニーカーをつっかけて走り出す。
 「東京プリズンの風紀乱してる男娼がどの口でぬかす!?大体お前医務室に何の用だ、コンドームなしでヤりまくって性病にでも感染したのかよ!」
 「うわひどっ、人格攻撃?自分が恥ずかしいとこ見られたからってそりゃないっしょー」
 リョウがおどけて首を竦める。
 「僕が今日ここに来たのは商売の一環で道化に用があるからさ。ねえヨンイル?」
 リョウが跳ねるように軽快な足取りで方向転換、カーテンを開け放つ。道化はばっちり目を覚ましていた。静かだから寝てると思って安心してたのにとまた舌打ちしたくなる。
 「気に病むなロンロン。俺かて和登さんのセーラー服姿やふしぎのメルモ変身シーンをズリネタにヌく」
 「そんな微妙な慰めいらねえ。てかメルモでヌくのかよ、ロリコン」
 「アホぬかせ。俺はロリコンちゃう、骨の随までオタクなだけや」
 「いばることかよ」
 むきになるのが馬鹿らしくなった。
 急激に脱力感を覚え、深々ため息ついてベッドに腰掛ける。がっくり項垂れた俺の肩をリョウが叩いて慰める。
 「安心してよロンロン、このコトは特別に内緒にしといてあげるから。僕だって悪魔じゃない、思春期の男の子の気持ちはよーっくわかってるつもりだよ?見て、この純真な目。お星サマきらきらしてるっしょ」
 「お前の言うことなんか信用できるか」
 邪険に手を振り払い、ヨンイルに向き直る。過ぎたことくよくよ悩んでも仕方ねえ、忘れよう、いっそなかったことにしちまえ……よし、忘れた。医務室に入ってからリョウにバレるまでの記憶を封印、さりげなく話題を変える。
 「で、ヨンイルに用ってなんだよ」
 「気になるあの人の消息さ」
 リョウがひょいと俺の隣に腰掛けて人さし指を立てる。あの人?胡乱げにリョウとヨンイルを見比べる。ベッドに上体を起こしたヨンイルはリョウの説明に聞き耳立てながら手元で作業してる。ふと興味をそそられてヨンイルの手元を覗きこんだ俺は、鼻腔を刺激する火薬の匂いに眉をひそめる。
 毛布を剥いだベッドの上に並んでるのは薄紙に包まれて選り分けられた火薬と黒い球体。
 花火師の仕事場めいた様相を呈したベッドの上で、額にゴーグルかけたヨンイルはひどく真剣な面持ちで火薬の分量を測っていた。紙から紙へと火薬を移し変えて目の位置に持っていき、肉眼で数量を見極めたのち僅かな重さの違いを手の平で確認する。
 傍から見てるだけで気が遠くなるような細かい作業をヨンイルは手際よくこなしていた。
 「気になるあの人ってまさか……」
 「ラッシーさ」
 リョウが頬杖ついてほくそ笑む。
 「あいつ、まだ東京プリズンにいたのかよ!?」
 声が跳ね上がる。ここ最近姿を見ないからとっくに東京プリズンを去ったものと思ってたのに……予想通りの反応に溜飲を下げたリョウが、フェラチオと引き換えに仕入れて来た情報を得意になって披露する。
 「ロンってほんと馬鹿だねえ。いや、ロンに限ったことじゃなく東京プリズンの囚人みんな頭悪いけどさ……あ、親殺しは例外ね。あいつも別の意味で馬鹿だけどさ。ほら、ラッシー寮住まいっしょ?東京プリズン辞めるって言ってもそんな簡単にいくはずない、部屋の整理とか掃除とか残務処理とか色々やること残ってるんだ。おまけに東京プリズン出る許可とるのがややこしくてね……囚人だけじゃない、看守がここ出るにも面倒なチェックが要るんだよ。変な病気持ってないかとか体に寄生虫飼ってないかとか」
 「じゃ、五十嵐はまだここにいるんだな」
 「もちろん……と言っても、三日後には晴れてバイバイだけどね」
 リョウがふざけて手を振ってみせる。見た目はただのガキだがリョウは囚人看守双方に顔が利く。男娼の人脈を生かした情報収集はお手の物だろう。
 「さよか。おおきに、リョウ。五十嵐が去る期限わかっただけで十分や」 
 「どういたしまして」
 リョウがにっこり微笑んで突き出した手を一瞥、囚人服のズボンに突っ込んだ紙幣をろくに数えもせずに渡して再び作業に没頭するヨンイルに、好奇心に負けて質問する。
 「ヨンイル。お前、リョウ使って五十嵐がここ去る日掴んでなにやらかすつもりだよ」 
 作業の手はかたときも休めず、今日初めて俺の方を向いたヨンイルが挑戦的に微笑む。尖った犬歯を覗かせたやんちゃな笑顔。
 「ドーンとどでかい花火打ち上げるんや。お礼は見てのお帰りってな」 
 自信満々に言い放ったヨンイルがこぶしに固めた手を頭上に持っていき、ぱっと五指を開く。花火が炸裂するジェスチャーにリョウともども首を傾げる。困惑する俺の耳にドアが開く音が届く。新たな訪問者。そいつは迷うことなく一直線にこっちにやってきてヨンイルに声をかける。
 「元気そうですね、ヨンイルくん」
 光沢ある黒髪を七三に分けた伊達メガネの男……南の隠者ことホセが、にこにこ笑いながらヨンイルに挨拶して、隣のベッドに腰掛けてる俺とリョウに気付く。
 「これは奇遇な。君たちもヨンイルくんのお見舞いに?」
 「ちゃうちゃう、ロンロンはこっそり医務室のベッドに潜りこんでオナニーしとったんや。俺が珍しく静かにしとるから寝とると思い込んで油断したんやろな」
 「バラすなよ!?」
 最悪だ。デリカシーのかけらもねえ。ヨンイルも俺が来たこと気付いてたんなら最初に声かけろよ、俺はヨンイルが何も言ってこねえから安心しきって股間に手え入れたのに!慌ててヨンイルの口を塞ぐが遅い、一度出た言葉は引っ込まない。道化に続いて隠者にまで暴露されていっそ死にたくなった。医務室になんか来るんじゃなかった、まっすぐ房に戻ってりゃよかったと落ち込んだ俺に笑いをかみ殺してリョウが付け足す。
 「さっきなんか処女喪失した時の状況バラされて顔真っ赤にして怒ってたくせに、レイジのぬくもり恋しさにベッドに潜り込んでオナニーなんてロンロンも可愛いとこあるじゃんー」
 「おや、そんなことをしたんですか彼は。可哀想にロンくん、さぞかし恥ずかしかったでしょうね」 
 ホセが同情たっぷりに俺を見る。いたたまれない。時間が戻せるなら五分前の自分を絞め殺したい。いっそ全速力で逃げ出そうかとも思ったがケツが痛くて動けない。へっぴり腰になって失笑を買うのはプライドが許さない。つまらない意地と見栄にしがみついて、針のむしろから逃げ出すこともできず立ち竦む俺のもとへホセが歩み寄る。
 肩に置かれた手のぬくもりを感じて、顔を上げる。
 俺の正面に立ったホセが分厚い眼鏡の向こうで目を細めている。
 「レイジくんが嫌になったらいつでもコーチを頼ってください。誠心誠意相談にのらせていただきます」
 俺の肩を掴んで耳元に口を近づけたホセが、妙に力を込めて断言する。
 「千夜一夜ワイフと愛の営みに耽った吾輩にかかれば夜の悩みもすっきり一発解決です。吾輩ホセならきっとロンくんのお力になれますよ。なに、弟子の下半身を鍛えるのもコーチの務めです」
 肩を掴む手に力がこもる。ホセは白い歯光らせて爽やかに笑ってるが、笑顔の裏側にどす黒い感情のうねりを感じるのは気のせいだろうか。本能的な危機感からあとじさった俺と内にどす黒いものを秘めたホセの笑顔とを見比べ、ベッドから足をぶらぶらさせたリョウがつっこむ。
 「それセクハラじゃない?」
 俺が言いたいことをリョウがさらりと代弁してくれた。
 ごくたまにいいこと言う男娼に感謝。 
[newpage]
 「東京プリズンの内部構造は複雑怪奇だ」
 コンクリ打ち放しの通路を靴音高く歩きながら説明する。
 「二十世紀香港に存在して2700平方メートルの敷地に3万3千人を収容したという高層スラム『九龍城』を例にとればわかりやすいだろうか。鉄筋コンクリート製の建造物が地上地下何階層にも渡り複合して摩天楼の如く聳えている。袋小路が複雑に入り組んでるせいで地理に不慣れな新入りは間違いなく道に迷う、方向音痴な囚人は確実に遭難する。実際年に十名前後の囚人が消息を絶ってるらしい。行方不明者リストに追加されたくなければ君も十分注意すべきだな」
 蛍光灯が不規則に瞬き、足元が翳る。
 壁の上部に設置された通気口からは鼠の鳴き声の他にカサコソと不気味な音が漏れてくる。ひび割れた壁に書き殴られているのは英語中国語その他外国語の卑猥なスラングと稚拙な落書きだ。下水の異臭が漂う中、床にしみでた汚水を迂回して歩いてると廃墟を探索してる気分になる。
 「他に何か質問はあるか」
 「図書室はないのかい」
 「いい質問だ。東京プリズンの唯一の長所は蔵書が豊富な点だ。これから図書室に案内しよう」
 内心妙なことになったぞと戸惑いつつ、表面上は平静を装って案内を続ける。静流の要望を聞き入れて図書室へと向かいながら食堂での出来事を回想する。先刻、食堂で静流に囁かれた言葉が脳裏を巡っている。
 『君、苗さんに似ているね』 
 『苗さんが死んで君に乗り換えたんだね、貢くんは』
 僕の耳元に口を近付け、僕にしか聞こえない声で囁いた静流。
 自分の言葉が与えた衝撃を推し量るように怪しく目を細めて僕の反応を探り、僕の顔に予想通りの表情を確認して悦に入った笑顔。
 静流はサムライのいとこで幼少期から行き来があった、苗とも面識があった。その静流が初対面の僕に「苗に似ている」と告げた。牽制?苗が死んで僕に乗り換えたとはどういう意味だ。静流はなにを、どこまで知ってるんだ?
 僕が静流の挑発に乗って案内役を引き受けたのは、二人きりになって直接真意を問い質したかったからだ。サムライは邪魔だ。彼がいると話がややこしくなる。僕は静流と二人きりになりたかった、彼と二人きりで話す必要性を感じたのだ。胸に蟠る不安感を解消したい、先刻の発言の真意を知りたい。
 静流が背後についてくるのを確認しつつ、中央棟へ至る渡り廊下を歩く。
 「東京プリズンの図書室は蔵書が充実してる。まさしく汗牛充棟、天井が高く広く快適な空間は読書にもってこいだ。僕も頻繁に図書室を利用してる。娯楽が限られる東京プリズンでは本を読み漁り知識を高める以外に楽しみもないからな、特に古今東西の哲学書の充実ぶりには目を見張るものがある。僕が推薦する一冊はニーチェ『道徳の系譜』で……」
 「君、直くんだっけ」
 唐突に話を遮られて不機嫌になる。IQ180の天才自ら推薦図書を教えてやろうというのに何だその態度は。不快感を隠しもせず露骨に顔を顰めて振り向けば、静流はにこにこと笑っていた。
 「それがどうかしたか。IQ180の天才自ら貴様のような凡人にもわかりやすく為になる哲学書を教えてやろうとしたのに、貴重な話を遮ってまで確認することか?」
 「貢くんとはどれくらいの付き合いになるの」
 静流がやんわりと聞く。
 「僕がここに来てからだから十ヶ月にもなるが」
 「十ヶ月。あと二ヶ月で一年か」
 心得たと静流が頷く。知ったかぶった態度が気に食わない。貴様に僕とサムライの何がわかるんだと詰問したくなるのをぐっと抑えて歩行を再開、歩調を速めて図書室に急ぐ。静流は洗練された身振りで歩きながら物珍しげにあたりを見まわしている。短い間隔で蛍光灯が点滅して視界の明暗が切り替わる。蝿や鼠の死骸、煙草の吸殻や使用済みコンドームが散乱して荒廃を極めた通路を眺めながら静流が口を開く。
 「聞いていいかい」
 「なんだ」
 「あの避妊具だけど」
 静流が指差した通路の隅には使用済みコンドームが捨てられていた。 
 「ここは刑務所だ。対象となる異性がいない環境で性欲を持て余した囚人がとる行動は限られる」
 「知ってるよ。男同士でもちゃんとコンドーム使うんだなって不思議に思っただけさ」
 静流が砕けた言い方で肩を竦める。
 「東京プリズンには性病が蔓延してるからな。念には念を入れて予防してるんだろう」
 「強姦する時にも避妊具を使うのかい。変な話だ」
 「囚人の大半はコンドームなど使用しない。コンドームを装着するのは主に看守だ。察するにあのコンドームは看守が性病予防に使ったものだろう。東京プリズンでは囚人と看守が性交渉を持つのも決して珍しいことではない、合意にしろ非合意にしろな……くだらないことを説明して口が汚れた。先を急ぐぞ」 
 汚水に浸かってふやけた吸殻と萎んだコンドームを一瞥、足早に歩き出す僕のあとを静流がついてくる。肩越しに振り返り、さりげなく静流の表情を観察する。静流は目に映るものすべてが新鮮とばかりに生き生きとした表情をしていた。
 東京プリズンに収監されたということは更正不可能、社会復帰不可能の決定を下されたに等しいのに静流は全くもって悲観してない、絶望してない。
 違和感の源はこれか、と僕は思う。
 こうして歩いてる途中も何人か新入りとおぼしき少年とすれ違ったが、彼らは一様に暗く沈んだ顔をして、俯き加減に足をひきずっていた。
 東京プリズンに送られたということはつまりそういうことだ。
 東京プリズンは砂漠の涯てにあるこの世の地獄、日本の法律に見捨てられた最果ての監獄なのだ。
 静流は何故平気でいられるのだろう。何故こんなに余裕があるのだろう。その他大勢の新入りをよそに飄々と振る舞う静流は食堂でも通路でも異彩を放っていた。
 東京プリズンの実態を目の当たりにしても涼しげな微笑みを絶やさず、物怖じせずに振る舞う静流の存在自体が集団の中の異端だった。
 掃き溜めに舞い降りた一羽の白鷺。
 「へえ、図書室は別棟にあるんだ。いちいち渡り廊下通らなきゃいけないなんて結構面倒くさいね」
 静流が気さくに声をかけてくる。静流の言葉を無視して黙々と歩く。中央棟に渡り終え、一路図書室へと足を向けた僕の背後から靴音が遠のく。振り向けば、いつのまにか静流が遠ざかっていた。
 「どこへ行く気だ、まず最初に図書室に!」
 自分から図書室を見たいと言い出した癖に土壇場で方向転換とは自己中極まると憤慨しつつ、足取り軽く廊下を歩く静流を小走りに追いかける。僕の視線の先で静流が立ち止まる。静流に追いついた僕は、彼の視線を追い、慄然と立ち竦む。
 静流の足元には暗闇に沈んだ階段が続いていた。
 地下への階段。
 「この階段はどこへ続いてるんだい」
 「………この階段の先は閉鎖されてる、囚人は立ち入り禁止だ」
 静流は立ち去りがたげな様子で階段の奥底を覗き込んでいる。静流の隣に立ち竦んだ僕は、忌まわしい物から目を逸らしたい衝動と戦いつつ埃っぽい闇が淀んだ階下を覗き込む。この階段の先は悪夢と地続きに繋がっている。
 僕がかつて売春を強いられていた場所……中央棟地下一売春通り。
 売春班廃止が決定されてのち、階段の先は完全封鎖されてバリケードが築かれてるはずだが…… 
 「立ち入り禁止か。冒険心をくすぐるね」
 静流が悪戯っぽくほくそ笑み、階段へと足を踏み出す。
 制止する暇もなかった。先に立って階段を下りていく静流の背にむなしく手を伸ばし、彼を追おうか否か逡巡する。階段の先には地獄がある。僕はもう二度とあの場所に戻りたくない。蛍光灯の破片が床一面に散乱した薄暗い地下、客の怒声と罵声、売春夫の嗚咽と悲鳴が殷殷とこだまするあの場所に……
 背中にびっしょりと冷や汗をかき、叫ぶ。
 「待て帯刀静流、僕を無視して勝手な振る舞いをするな!そこから先は立ち入り禁止だと言ったろう、入所早々規則を破ったことがバレれば看守に目をつけられるぞ。天才の忠告は聞いたほうが身の為だ、大人しく戻って来い!」
 「なにを怖がってるの。暗闇に怯えるなんて子供みたいだ」
 階段を下りた静流が不思議そうに僕を仰ぐ。 
 「誰も来ないなら内緒話に最適だ。そう思わないかい」
 続く静流の言葉に虚を衝かれる。
 静流は僕を誘ってる……挑発してる。二人きりで話をしたいならついてこいと背中で促している。僕はどうする?逃げるのか。まさか。僕はIQ180の天才、誰より誇り高く奢り高い鍵屋崎直だ。暗闇など恐るるに足りない、過去の恐怖も克服してやる。生唾を飲み込み、決心して一歩を踏み出す。
 暗闇に没した静流の背中を追い、足元に気を付けながら階段を下りる。
 静流は既に地下一階に到着していた。
 手摺に掴まり階段を下り、静流と対峙する。僕の到着を待って静流は再び歩き出す。パリンとかすかな音がする。先に立って歩き出した静流が蛍光灯の破片を踏み砕いたのだろう。 
 話を切り出すなら、今しかない。
 暗闇が淀んだ通路に目を凝らして静流の背中に追いすがる。
 静流は廊下に立っていた。かつて売春班の仕事場だった地下一階の通りには有刺鉄線を張り巡らしたバリケードが築かれて囚人の立ち入りを禁じていた。 バリケードの向こう側に垣間見える鉄扉はすべて閉め切られて蛍光灯の電気も消されていた。
 周囲には先の見えない闇と荒んだ空気が立ち込めていた。
 「さっき食堂で言ったことを確認したい」
 体の脇でこぶしを握り込み、静流を睨みつける。
 「僕と苗が似てるとはどういう意味だ。サムライが僕に乗り換えたとは、どういう意味だ?」
 僕の声は知らず非難の響きを帯びて大気を震わせた。
 「それだけじゃない、他にも聞きたいことが山ほどある。一体君はどうして東京プリズンに来た、外でなにをしでかしたんだ。東京プリズンに送られるのは凶悪犯罪を起こした少年ばかり、日本の法律で許容できない事件を犯して更正不可能の烙印を押された少年に限定される。僕は両親を殺害してここに送られた、サムライは実父含む道場の門下生十三名を斬殺してここに来た。君は?僕やサムライと同じく純血の日本人でありながら東京プリズンに送り込まれた君は、一体どんな事件を起こしたんだ」
 性急に質問攻めにされた静流が苦笑して壁に凭れる。
 「君とサムライは、どういう関係なんだ」
 「貢くんは僕の好敵手だった」
 ここではないどこかを見るように遠い目で静流が述懐する。
 「貢くんは本家の後継ぎ、僕は分家の長男。小さい頃は行き来があったけど母さんと莞爾さんが仲違いしてから徐徐に疎遠になっていった。でも、噂は聞いていた。貢くんは小さい頃から祖父の再来の呼び声高い剣の天才、対する僕は努力の人。母さんの期待に応えたくて頑張ったけど、血の滲むような努力を重ねても貢くんにはかなわなくて悔しい思いをしたよ」
 闇に身を浸した静流が苦く表情を歪め、吐き捨てる。
 初めて静流の本音を聞いた気がした、静流の本性を垣間見た気がした。
 食堂ではサムライに気さくに接していたが、本家の長男に対して屈折した思いを抱えているらしく、目には葛藤の波紋が広がっていた。
 「貢くんとは物心ついたときからの付き合いさ。小さい頃は本家の庭でよく遊んだ。苗さんと姉さんも一緒にね。貢くんは当時から笑わない子供だった、口数も少なくて何を考えてるかわからなくてちょっと怖かったな。でも、本当はすごく優しいんだ。僕が転んで膝を擦りむいた時はおぶって運んでくれた。下駄の鼻緒が切れて泣いてたら器用に接いでくれた。無口で思いやりがあって剣の腕が滅法立って、本家の後継ぎにふさわしい資質を有していたよ。莞爾さんの息子とは思えないくらい」
 そこで言葉を切り、ため息を吐く。
 「僕は貢くんに憧れていた。帯刀の家名を背負って立つにふさわしい素質と人格に恵まれて、誰からも実力を認められた彼が羨ましかった。帯刀家といえば地元で有名な家柄、元禄年間から続く由緒正しい家系で人間国宝に指定される剣の使い手を明治初期から五人輩出してる。帯刀の跡取りに生まれるとはそれだけで名誉なことなんだ」
 「前置きはいい。僕は単純率直に君の真意が知りたいんだ」
 苛立ちをこらえて先を促せば、貢が緩慢な動作で顔をもたげ、闇を透かして僕を見る。
 またあの目だ。
 相対した者の心を反射する透徹した目、明鏡止水の深淵の目。
 「僕がここに来たのは帯刀貢に会う為さ」
 どういう、ことだ?
 答えになってないじゃないかと気色ばんだ僕は、静流の目が僕を越えて背後に向けられてることに気付き、反射的に振り返る。そして、硬直する。僕の背後、闇に紛れて蠢く集団の人影……間抜けなことに、静流の話に全神経を集中していて外敵の接近に全然気付かなかった。
 「!逃げろ静流、」
 「遅いよ」
 後ろ手に締め上げられた腕に激痛が走り、耳朶に生温かい吐息がふれる。
 僕を後ろ手に束縛した人物の声には聞き覚えがある。
 今日砂漠で聞いたばかりの……イエローワークの同僚の声。
 「貴様、何故ここに!?」
 「こっちの台詞だ親殺し。売春班潰れてから溜まって溜まってしょうがなくて、安田の気まぐれで営業再開してねえかって覗いてみりゃ偶然ばったりお前と再会だ。これも運命ってやつだ、そう思うだろみんな」
 「その通りだ、俺たちゃ運命の赤い糸で結ばれてんだ。諦めろ親殺し」
 「昼間犯り損ねた借りをたっぷり払ってもらうぜ、そっちのかわい子ちゃんも一緒にな」
 昼間絡んできたイエローワークの同僚にまた取り囲まれて逃げ場をなくす。舌打ち。なお悪いことに今は静流が一緒にいる、僕一人なら隙をついて逃げられるかもしれないが静流を残していくわけにはいかない。
 腋の下にいやな汗が滲みだす。二週間前に閉鎖された売春通りには僕たち以外いない、助けを呼んだところで誰も通りかからないのでは意味がない。
 暗闇に慣れた目で同僚の顔を確認、絶望的な気分になる。
 「また犯してやるよ」
 すぐ耳元で声がする。興奮に息を荒げた同僚が僕の体をまさぐり上着の裾をはだけて手を潜らせる。気色悪い。吐きそうだ。痩せた脇腹を揉みしだき薄い胸板を撫でさすり胸の突起をつねる、あまりに性急な愛撫に痛みしか感じない。不快さに顔を顰めた僕の反応をどうとったか、今度はズボンの内側に手を潜らせる。
 「!っ、あ」
 乾いた手で太股をまさぐられて肌が粟立つ。
 小さく声をあげた僕の耳朶にねっとり舌を絡めて同僚が囁く。 
 「お前の体を味わうのは何ヶ月ぶりだ?売春班に配属された初日にヤって以来だ。相変わらず薄っぺらい、太股なんか棒きれみてえに細くて……まあ、感度は抜群だな。売春班で来る日も来る日も男に抱かれて開発されたんだろう、太股撫でられただけでビクンビクンて震えがくるのがいい証拠だ」
 「はっ、ちがっ……これは生理的嫌悪からくる拒絶反応、あっ!?」
 耳朶が唾液にまみれる。耳の穴に潜り込んだ舌が淫猥に蠢いて性感帯を開発する。乾いた手が太股をまさぐり後ろに回り、僕の尻を割って肛門を突き刺す。激痛。
 「壁に手えつけよ。立ったままヤられるのが好きなんだろ、お前。最初の時みたくしてやるから、いい声だして鳴いてくれよ」
 肛門に突き立てられた指が鉤字に曲がる。やめろ抜いてくれ痛い気持ち悪い、嘔吐の衝動が喉元まで込み上げて目に生理的な涙が浮かぶ。嫌だ思い出したくない忘れたい売春班初日に犯された記憶が封印を破って甦る再生される、洗面台に手をつかされてズボンを剥ぎ取られて後ろから貫かれて……
 「ゲスだね」
 場違いに涼やかな声が流れた。
 「……なん、だと?」
 壁に背中を凭せた静流が冷ややかにこちらを眺めてる。イエローワークの同僚が一斉に気色ばみ、中のひとりが静流に急接近。静流は動じない。指一本動かさず、冷静沈着に敵の接近を待っている。
 「お嬢ちゃん、今なんつった?」
 筋肉質の体躯の少年がドスを利かせた声で脅迫、片手で静流の顎を掴み、強引に上を向かせる。顔面を生臭い吐息で撫でられて、静流が品よく眉をひそめる。その表情に劣情を刺激されたか、少年がごくりと生唾を嚥下して静流にのしかかる。静流の上着を無造作にはだけて胸元までたくし上げ、片手を怪しく蠢かせる。
 男にしておくには惜しいほど白くきめ細かい肌が闇に浮かび、華奢な肢体が捩れる。 
 「俺たちがゲス野郎ってそう言ったのか?」
 「言ったよ」
 「見かけねえ顔だが、新入りか?なら教えてやるよ、東京プリズンの掟を。ここじゃゲス野郎は最高の誉め言葉だ。東京プリズンで生き残りたきゃゲスを極めるっきゃねえんだよ。ここじゃ殺ったもん勝ち犯ったもん勝ちだ、お前らみてえに見目いいガキは骨の随まで美味しくしゃぶられるのがオチだ。とっとと諦めちまえよ、そっちのほうがラクだぜ。綺麗な顔にキズつけられるのはヤだろ?」
 赤裸な衣擦れの音。筋肉質の少年が鼻息荒く静流を押さえこんで肢体を蹂躙する。上着の内側に手を潜らせて痩せた腹筋を揉みしだいて、薄い胸板を撫でる。扇情的な光景。静流の首が仰け反り、前髪が散らばる。
 妖艶に赤い唇がほころび、官能の吐息を零し、胸に顔を埋めた少年の後頭部へと腕が回り……
 
 その刹那。

 「ぎゃああああああああああっあああああああっあ!!!?」
 静流が思いがけぬ行動をとる。少年の頭を抱いたのとは逆の手をズボンの後ろに潜らせ素早く抜き放つ。乾いた音が鳴る。電光石火で虚空を切った静流の手の先端の物が少年の眉間を打擲、額から流血した少年が絶叫をあげる。
 イエローワークの同僚に抱きすくめられた僕は、暗闇に目を凝らし、息を呑む。
 壁からゆるりと背を起こした静流が、舞踊のように優雅な動作で腕を泳がせ、手にした物を一閃する。
 静流が手に取った物は、白い和紙を貼られた扇子。
 能で用いられる扇には、一種呪術的な力が備わるという。
 そんな迷信を彷彿とさせるほどに扇を構えた静流の様子は豹変していた。
 暗闇に没した静流の周囲に不可視の気が渦巻いて形を成す。
 清冽に研ぎ澄まされた殺気が扇の一振りごとに鬼気の域にまで高まって、静かに流れる如く優艶な舞に凄味を与える。
 能の舞の特徴は極端な摺り足と独特の身体の構え、そして円運動のうちにある。
 静流の一挙手一投足は完璧に能の段取りに則ったものだった。
 衣擦れの音すら殆どたてない静的な足運び、膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢はサムライが剣を構える時にも共通する。
 上段に扇を構えた静流の姿と、上段に剣を構えたサムライの姿が重なる。
 静流の体に脈々と流れる帯刀の血が覚醒する。
 切れの長い双眸に凛冽たる眼光を宿した静流が、能面めいて整った顔の中でそこだけ紅を引いたように赤い唇を開き、不思議な抑揚の声で余韻嫋嫋と唄い出す。

 「『筒井つの井筒にかけしまろがたけ すぎにけらしな妹見ざるまに』」 

 闇と一体化した静流が水面を滑るような足捌きで二人目に肉薄、相手に逃げる暇も与えず流麗な動作で腕を一振り、扇の先端で目を突く。 
 「ああああああああっ、目、目が潰れたああああああああっ!?なんだこいつ、わけわかんねえこと言いやがって、正気の沙汰じゃねえっ……」
 「伊勢物語だ」
 片目を押さえて尻餅ついた囚人を見下ろして説明する。
 「『筒井筒』は伊勢物語に収録されてる挿話のひとつだ。互いに惹かれていた幼馴染の男女が結婚する内容で『筒井つの井筒にかけしまろがたけ すぎにけらしな妹見ざるまに』を現代語訳すると『貴女を見ない間に井戸の縁の高さにも足りなかった自分の背丈が伸びて縁をこしたようだ』となる、」
 「お前ら二人とも頭おかしいってことがよーっくわかったよ!!」
 僕の背中をどんと突き飛ばして最後の一人が逃走を企てる。突かれた衝撃でバランスを崩して床に膝を付いた僕のそばを姿勢正しく静流が通り過ぎる。
 足音すら殆どたてず、衣擦れの音すらたてず、容姿端麗な幻影めいて通路を抜けた静流がごく緩慢に腕を振り上げて虚空で扇子を開く。 
 静流の姿がほんの一刹那、完全に静止。
 影を射止められたように囚人の死角をとって微動だにせず立ち竦んだ静流の唇が官能的に震え、周囲の壁に殷殷と共鳴する声が流れる。

 「『くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ 君ならずしてたれかあぐべき』」
 長さを比べてきた振り分け髪も肩を過ぎた あなたでなくて誰が髪上げしようか。
 否、いない。

 静流が音吐朗々と唄い上げ、裂帛の気合いを込めて扇を打ち下ろす。拝み伏すような動作で腕を振り下ろした先には扇があり、今しも階段を駆け上がろうと無防備に背を晒した囚人を打擲する。後頭部を打たれた囚人が逆上、奇声を発して静流に襲いかかる。
 「こんのっ……なよっちい女男が、しゃなりしゃなり扇子振りまわして調子乗ってんじゃねえ、色白カマ野郎は大人しく掘られて喘ぎ声あげてりゃいいんだ!!」
 胸ぐら掴まれた静流は余裕の微笑を含んだまま腕を一閃、舞の延長の優雅さで喉仏の上を刺突、自分に襲いかかった囚人を完全に沈黙させる。
 「ぐあっ………ちぐぞっ、このカマ野郎っ……!!」
 苦悶に喉かきむしりつつ崩れ落ちる囚人を醒めた目で見下ろし、静流は扇子を畳む。たった一瞬だった。静流が囚人三人を撃退するのにものの五分もかからなかった。暗闇に沈んだ通路には静流の舞に翻弄された囚人三人が累々と倒れていた。壁に片手をついて上体を起こした僕は、壁に倒れ伏した囚人と静流とを見比べて得体の知れぬ不安を掻き立てられる。
 静流は強い。
 静かに流れる如き体捌き、流れる水の如き掴み所ない動きを強みに転じて、伝統の舞を踏むように優雅な挙措で瞬く間に三人を屠ってしまった。
 僕に背中を向けて佇んだ静流が、閉じた扇子を懐に仕舞い、呟く。
 「剣の素質では貢くんに勝てなかったけど舞の才能では僕が上だ。静流さんの舞は綺麗ねって姉さんに誉められたことがあったっけ」
 「静流。君は何故東京プリズンにやってきた」
 シャツの胸を掴み、不吉な胸騒ぎを抑えて問いを重ねる。瞼の裏側には鮮やかに扇子を操って敵を倒す白拍子の艶姿が焼きついている。
 能の基本動作を踏まえてさらに発展させた独特の体捌きはこの上なく優雅でありながらどこにも付け入る隙がなく、一挙手一投足に凄艶な凄味さえ帯びていた。
 静流は僕に背中を向けて天井を仰いでいたが、やがて肩越しに振り向き、謎めいた微笑を唇に乗せる。
 そして、答える。
 「帯刀貢を返してもらいに来たのさ」
 僕にはそれが、帯刀貢を奪いに来たと聞こえた。
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