少年プリズン

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三百二十七話

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 昨夜はよく眠れなかった。
 明け方少しまどろんだだけで十分な睡眠は摂れなかった。瞼が腫れぼったい。目は充血してる。いつも明晰に冴えた頭がぼんやりしてるのはきっと睡眠が足りないせいだ。
 考え事に気を取られてシャベルを持つ手に力が入らない。
 労働に身が入らない。
 由々しき事態だ。雑念に囚われて労働に支障をきたすなど天才のプライドが許さない、深刻に考慮せねば、早急に対処せねば……駄目だ、集中力が散る。思考が分散する。これも全部サムライのせいだと責任転嫁してシャベルを振るえば、先端が地を穿った拍子に砂が飛散。
 大量の砂を顔に被ってうんざりする。
 「くそっ」
 口汚く毒づき、手の甲で顔面の汗と砂を拭う。
 今日は朝からさんざんだ。サムライとは結局一言も口を利かなかった。僕は意図的に会話を避けていた、サムライもまた意図的に接触を避けていた。サムライはあれから一度も僕の目を見なかった。
 朝の気まずい雰囲気を思い出せば気分が重く滅入る。
 洗顔時もそうだ、早起きのサムライは僕が起きた頃にはとっくに身支度を済ませて毎朝の日課である木刀の素振りに勤しんでいた。決して僕の目を見ないことを除けばいつも通りだった。僕はサムライの視線を過剰に意識しつつ顔を洗ったというのに、鏡に映ったサムライの顔は憎たらしいほど涼しげだった。
 上段の構え、正眼の構え、下段の構え。
 若竹のように背筋凛々しく、端正な姿勢で木刀を振るい、虚空を撫で斬る。
 見慣れた朝の光景。サムライは毎朝自主的に稽古をしてる、誰に命じられたわけでもなく毎朝律儀に基本の型を踏襲してる。武士たる者日々精進を怠らない姿勢は立派だと感心しなくもないが、昨夜のことなどまるで覚えてないというふうな態度が癪にさわって仕方がない。
 まるで、何もなかったみたいに……
 『何もなかった』?とんでもない、人にあんなことをしておいて。
 サムライの態度に憤慨した僕は朝から一言も口を利かず無視を決め込んだ。僕に無視されても戸惑う様子もなく、サムライはいつも通り、僕と一緒に食堂に行き僕の隣で朝食を食べた。無神経ここに極まれりだ。彼がしたことを踏まえれば然るべき謝罪があって当然だが、それもない。説明もない。一切ない。おかげで何故彼があんなことをしたのか、あんな振るまいに及んだのか僕はわからないままサムライと別れて今ここにいる。イエローワークの砂漠で用水路建設にあたってる。

 僕がイエローワークに復帰して二週間が経つ。

 イエローワークに復帰した僕を誰もが歓迎したかというとそうでもなく、「なんで戻ってきたんだ」と露骨に顔を顰める同僚が多かった。自分が嫌われてることくらい知ってる、今更傷付くはずもない。売春班上がりだと軽蔑されても心は痛まない。低脳を相手にするのは時間の無駄、低脳と議論するのは類人猿に因数分解を教えるに等しい愚だ。彼らの嫌味をいちいち取り合ってるほど僕は暇じゃない。
 僕はイエローワークに戻れたことを感謝する。売春班の一週間と比べればイエローワークの過酷な労働も苦にならない。たまに炎天下で眩暈を覚えて穴に落ちたりもするが、二週間を経て体力が回復するにつれ貧血の頻度も減った……気がする。あくまで気がするだけかもしれないが。
 僕がいない間に砂漠に変化が起きていた。
 以前僕とロンが共同で掘り当てたオアシスから方々に水路が引かれて畑ができていたのだ。畑では品種改良されたジャガイモを代表に砂漠の環境にも適応した作物が栽培されてる。終わりの見えない不毛な穴掘りは情け容赦なく囚人の気力体力を奪いさるが、栽培収穫の目的ができてから飛躍的に労働意欲が向上したらしく、イエローワークの砂漠で働く囚人の顔は生き生きしてる。
 用水路建設もまた新たに増えた労働の一環だ。
 オアシスから新たに用水路を引いて畑予定地を耕す下準備を割り当てられた数十人が、各々手分けして側壁に土嚢を積んだりシャベルで溝を掘ったり作業にあたってる。
 顎先を汗が滴る。
 灼熱の太陽が頭上で輝く。
 太陽の高度に比例して気温は上昇する一方だ。炎天下での労働は熾烈を極め、熱射病に倒れる者や脱水症状を起こす者が続出する。砂漠で倒れたらそのまま埋められるだけだ。都合がいいことに、イエローワークの砂漠には人一人埋めるのにちょうどいい深さ大きさの穴が無数に点在している。
 僕らは働き蟻のように穴を掘る、仲間を埋める墓穴を、いつか自分が埋まる墓穴を。
 シャベルに寄りかかり、手の甲で汗を拭いて周囲の囚人を眺める。小休止。周囲には無数の囚人が散らばって看守の監視のもと働いている。リヤカーで砂を運んだり鍬やシャベルで砂を掘り返したりブリキのバケツをぶら下げてオアシスに水を汲みに行ったりと忙しない。両手にバケツをぶら下げてオアシスと持ち場を往復する囚人を見送る僕の頭上に、スッと影が射す。
 「汗水流して精だしてるみてえじゃんか、親殺し」
 頭の悪い声がした。目で確認する前に誰だかわかった、顔を上げるのも億劫だった。休憩終了、シャベルを両手に持ち仕事を再開。声の主を無視してシャベルを振るい、
 「!」
 突然、後ろ襟を掴まれ引き倒された。喉を絞められて息が詰まった。
 僕の後ろ襟を思いきり引っ張ったその人物がスニーカーの靴裏で盛大に砂を跳ね散らかして斜面を滑降、用水路の底に着地する。一人じゃない。二人、三人……三人いた。皆見覚えある顔、僕と同じ班の連中だ。僕を敵視してる者ばかりだ。
 売春班にとばされる前から彼らには日常的にいやがらせを受けてきた、わざと足を引っ掛けられたりシャベルを脛にぶつけられたりリヤカーで轢かれかけたり数え上げればきりがない。単なる「いやがらせ」では済まない、命に関わる事故に発展しかねない危険性もあるのに彼らは一向に反省も加減もしない。 懲りない連中だとあきれる。
 最も、万一僕が死んだ場合は作業中の事故として処理されるだけで彼らには何のお咎めもないのだから、いやがらせがエスカレートするのは自明の理だ。
 「何か用か」
 面倒くさい連中に捕まった。
 迷惑げに眉をひそめて聞けば、中のひとりが肩を竦める。
 「同じ班の先輩として、ひ弱な日本人がへばってねえか見に来たんだよ」
 「日本人はすぐサボるからな」
 「信用できねえもんな」
 「貴様らこそ自分たちの持ち場に戻ったらどうだ。現場監督の看守に見つからないうちに」
 僕を取り囲んだ連中は優越感を隠しもせずにやにや笑ってる。大勢で群れて獲物をいたぶる行為に陰湿な快感を見出したゲスの笑顔。辟易。内心舌打ちして、正面の囚人を睨む。
 見覚えある顔……売春班初日に僕を犯しにきた同僚が野卑に笑っていた。
 「イエローワークに復帰して二週間、真面目にやってるみてえじゃんか。感心感心。でも、そろそろ売春班が恋しくなってきたんじゃねえか。お前ら売春夫はみんな男なしじゃ生きられねえ淫乱揃いだからな、セックス浸けの日々が懐かしくてケツが疼いてる頃だろ?なんなら俺たち全員で相手してやろうか」
 「なあに、そんなに時間はかからねえさ。五分ありゃ上等だ、そこの物置小屋に引っ込んでケツまくって……」
 「おっかねえ顔すんなよ。同僚なんだ、仲良くしようぜ」
 「こいつから話聞いてるぜ、お前買った時のこと。立ったままやったんだろう?こうやって洗面台に寄りかからせてケツまくって後ろから突っ込んだんだろう。可哀想に、痛かったろ。処女相手にも容赦ねえからな、こいつ」
 「安心しろ、俺たちゃ優しくしてやるよ。お前の穴という穴に舌突っ込んで一粒残らず砂ほじくりだしてやるよ」
 僕を犯した少年を小突きながら仲間が哄笑する。中央の少年は腰に手をあて尊大にふんぞり返っている。陰険に目を細め、唇をしつこく舐め上げて、期待と興奮を込めて僕を眺めている。
 物欲しげな顔だった。
 彼が得意になって僕を犯した時の状況を吹聴してたと知っても、何の感慨も持たなかった。ただ、軽蔑しただけだ。
 「身のほど知らずにも、僕に交渉を持ちかけているのか」
 眼鏡のブリッジに指を添えて嘆息する。笑い声が止み、同僚が気色ばむ。剣呑な雰囲気。険悪な形相に豹変した同僚三人を観察、シャベルを放り捨てて中央の少年に歩み寄る。
 ざくざくと砂を踏むごとに売春班初日の悪夢が鮮明に甦る。
 僕を洗面台に押さえ付けてズボンを剥いで背中にのしかかって『顔上げろよ』汗まみれの素肌を密着させ『ちゃんと感じてる顔見ろよ』『鏡に映ったいやらしい顔を』立たせたまま後ろから犯した……忌まわしい記憶。陵辱の記憶。僕と対峙した同僚三人が顔強張らせてあとじさる。
 僕の気迫に押されたのか眼光の強さに怖じたのか、目には怯えと当惑が浮かんでいた。加害者と被害者の立場が逆転したかのような、嬲られる一方の獲物が突如反撃に転じたかのような色濃い戸惑いを覚えてるのは明白。
 中央の少年の前で立ち止まる。
 「なん、だよ」
 少年が寄り目で凄み、僕の胸ぐらを掴もうとする。その手を素早く払い、無造作に手を伸ばし、逆に少年の胸ぐらを掴む。左右の同僚が何か言いかけるの視線で制して正面に顔を戻す。
 「僕を抱きたいか?」
 吐息のかかる距離に顔を寄せ、訊く。耳朶で囁かれた少年が驚きに目を見開く。意外げな表情がいっそ愉快だ。同僚の胸ぐらを掴んだまま、挑戦的に微笑む。
 「言っておくが、僕は高いぞ。君らごときが足掻いても手も届かないほどに」
 自信を込めて断言すれば、同僚が絶句する。まさか、こう返されるとは思ってもみなかったのだろう。意表をつかれて言葉を失った同僚たちの間抜け面を眺め、失笑を噛み殺す。少年の胸を軽く突き放し、余裕ある足取りで元の場所に戻り、自然な素振りでシャベルを持ち直す。
 「……はっ!元売春夫がでけえ口叩きやがって、何様のつもりだお前。体に触れる客を選ぶ権利が売春夫ごときにあるってのか、笑わせるぜ」
 虚勢を張って吠えたてる同僚を一瞥、嘆かわしくかぶりを振る。まったく頭が悪い、理解力の乏しい連中だ。こんなにわかりやすく説明してやっというのにまだ不満なのかと疲労を感じつつ続ける。
 「そうだ。僕に触れる人間は僕が決める、君たちはその選から漏れた、それだけの話だ。実に単純明解だろう。用が済んだなら可及的速やかに消えてくれないか、仕事の邪魔だ。視界に汚物が入るのは精神衛生上悪い。最低15メートル離れてくれ、君たちの下品で猥褻な声が聞こえると労働意欲が削がれる」
 「おっ……俺の下で喘いでたくせに!!」
 憤怒で顔を染めた少年がこぶしを振り上げる。とんでもない誤解だ、ありもしないことを捏造されては困る。シャベルを砂に突き刺し、眼鏡の弦に触れて下を向く。
 再び顔を上げた時、口元にはこらえきれず笑みが浮かんでいた。
 低脳どもの神経を逆撫でする、不敵な笑みが。
 「勘違いするな。君が僕の上で喘いでたんだろう」
 「こおおおおォおおおおおの野郎!!!!」 
 怒り爆発した同僚が一斉に襲いかかってくる。多勢に無勢、僕に逃げ場はない。面倒なことになったなと醒めた気持ちで同僚を待ち受ける最中、頭上にまたも影がさす。用水路の縁に人影が佇んでこちらを覗きこんでる。逆光に塗り潰された人影は肩にシャベルを担いでおり、そのシャベルが勢い良く振るわれ、そして……
 「ぶわっ!?」
 「この野郎、なにしやがっ……」
 砂で目くらましした直後に足元に置いたバケツを抱え上げて中身をぶちまける。全身びしょ濡れで転倒した同僚たちが砂に顔面を埋めてもがき苦しむ。その上にさらにざくざく掘った砂をかける。
 「水の次は砂、この順番でぶっかけりゃあ身動きとれねえ。びしょ濡れの肌に砂がこびりついて、体じゅうの穴という穴塞がれて呼吸できなくなるだろ」
 得意げな声とともに頭上から降ってきたのは小柄な影……からのバケツを両手にぶら下げたロンだった。スニーカーの靴裏で斜面を滑降、僕の隣へと着地したロンを睨む。
 「なんて荒っぽいことをするんだ、僕の顔にも水が飛んだじゃないか」
 「それが命の恩人に対する言い草かよ」
 「君が不要な介入をしなくても事態を収拾することはできた、僕の計算が正しければあと二秒で…」
 「お前ら、ここで何をやってる!!さっさと持ち場に戻れ!!」
 「やべっ、看守だ!」
 「警棒食らう前に逃げろ!」
 僕の予想は的中した。用水路の異状を察して駆け付けてきた看守が警棒をさかんに振り回して三人組を追い立てる。看守に叱責を浴びせられた三人が舌打ち、這う這うの体で斜面をよじのぼり持ち場へ駆け戻っていく。
 最後尾、売春班初日に僕を犯した少年が振り返り際に中指を立てる。
 「覚えてろ親殺し、いつか満足いくまで犯してやるからな!班の連中全員でお前のケツ回してやる、二度とそんなでかい口叩けねえよう躾てやる!タジマがいなくなったからって調子のってっと痛い目見るぞ!」
 「ピンチの時のタジマ頼みか。とっとと消えろゲス野郎」
 砂煙に紛れて消えた同僚の背にロンが吐き捨てる。同僚たちが走り去ったのを確認後に警棒を振りながら看守も立ち去り、あとには僕とロンが取り残された。
 「それで?いいのか、捨ててしまって。バケツに水を汲みに行くのが君の仕事だったんじゃないか」
 からのバケツを一瞥、あきれた声で指摘すればロンがこの上ない渋面を作る。
 「仕方ないだろ、お前が囲まれてるの見えて慌ててすっとんできたんだから。ああまた性懲りもなく絡まれてるドン臭いヤツだなって呆れたぜ。力でかなわねーくせに挑発するのやめろよ」
 「挑発などしてない。ただありのままの事実を述べただけだ。僕の体に触れる人間は僕が決める、彼らには僕に触れる資格も権利もない。爪垢が溜まった手で体をまさぐられるのは不快の極みだ、接触感染する病気がうつらないとも限らない。彼らときたら疫病を媒介するネズミやゴキブリよりタチが悪い、半径1メートル内に近付かれると殺虫剤を噴射したくなる」
 「お前にさわれるのはサムライだけってか」
 ロンが鼻先で笑い捨てる。反論しようとして、続く言葉を飲み込む。確かに、ロンの言い分は正しい。サムライになら触られても不快じゃない、どころか僕は心地よささえ感じている。
 昨夜だって。
 「………」
 昨夜、サムライは僕の唇を奪った。理由はわからない。
 人さし指を唇に滑らせ、物思いに耽る。 
 昨夜、深夜の図書室にホセを呼び出して真相究明した。僕の優秀な推理力が導き出した仮説はホセが黒幕だと示していた。本来僕一人で行く予定だったがサムライが強引についてきた。僕はホセを糾弾したが相手はさすが隠者、のらりくらりと核心をはぐらかされて僕より一枚も二枚も上手だと痛感するに至った。結局僕はホセの本心を暴くことができなかった。この僕ともあろう者が、IQ180を誇る天才鍵屋崎直ともあろう者が頭脳戦に破れたのだ。内心忸怩たるものがある。
 だがそれより僕を動揺させたのは、昨夜のサムライの行動。
 突然僕に襲いかかり、唇を奪ったサムライの行動。
 片手に預けたシャベルの存在も忘れ、首をうなだれ立ち尽くし、人さし指で唇をなぞる。唇にはまだキスの感触が残っている。サムライの唇は熱かった。血潮の火照りが感じられた。性急で拙いキスには切迫した一念が感じられた。何故こんなことをしたのかと理路整然と問いただすことはできなかった、僕自身動揺していたのだ。自分の身に起きたことを分析するのを頭が拒絶して、僕はサムライに背中を向けて逃げるようにその場を去った。
 サムライの唇の感触を反芻するように、指で撫でる。
 サムライは何故僕にあんな真似を?わけがわからない。理由が知りたい、動機を究明したい。だが同時に、強制労働を終えて房に帰り、彼と顔を合わせるのが気鬱でもある。
 僕にはサムライの目を見る自信がない。今朝から、いや昨夜から僕はサムライを過剰に意識してる。彼の視線や息遣いを意識するばかり普段なら絶対しないはずのミスを連発してる。洗面台の蛇口を捻りすぎて顔に逆噴射したり食事中に箸を落としたり……
 おかしい、こんなの僕らしくない。
 たかがキスじゃないか、あの程度のことで何故こんなに動揺してるんだと自分に当惑する。しっかりしろ鍵屋崎直、冷静になれ。たかがキスじゃないか、口唇接触じゃないか。舌を挿入されたわけでもない、ただ唇と唇が触れ合っただけの幼稚なキスで妄想を逞しくしすぎだ。
 きっと何か理由があるはずだ、僕の唇を奪った理由が。
 でなければサムライがあんな振るまいに及ぶはずがないと結論付ければ、脳裏に推測が閃く。
 「熱病の一種か」
 「あん?」
 妙な声をだしたロンを振り向き、人さし指を立てる。
 「僕の推測によるとあれは熱病の一種に違いない、東京プリズンの衛生状態は最悪だから悪性の疫病や熱病が流行する可能性は多いにあり得る。眩暈吐き気の他に幻覚症状を伴う熱病に罹患したのかもしれない、サムライは。そうだ、きっとそれが正しい、サムライはあの時一種の夢遊病状態だったんだ!だからたまたま近くにいた僕に……こうしてはいられない、強制労働を終えたら図書室に直行して医学書を調べねば。僕の知らない病気があったなんて不覚だ、職務をさぼって将棋に打ちこむヤブ医者は信用できない、天才の威信に賭けてこの僕が熱病の真相を究明せねば……」
 考えてみれば単純なことだ。サムライはきっと新種の熱病にかかったんだ、ゴキブリやネズミが媒介する病気に感染して昨夜あんな……あんな、サムライにはふさわしくない真似を。なんてことだ、早期に手を打たなければ。一人ぶつぶつと呟く僕をシャベルに凭れたロンが薄気味悪そうに眺めている。
 「おい鍵屋崎、頭大丈夫か。暑さでイカレちまったのか」
 痺れを切らしたロンが不審げに眉をひそめ、僕の顔の前で手を振る。
 「失礼なことを言うな、僕はサムライと違って心身ともに健康だ、寝不足気味かつ貧血気味なことを除けば体に異常はない。憂慮すべきはサムライだ、熱病の兆候に気付きもしない低脳どもだ。早期に対策を練らねば大変なことになるぞ、熱病患者が東京プリズンに溢れて手当たり次第に……ああ、僕としたことが迂闊だった!危険視すべきはネズミやゴキブリだけじゃない、蝿や蚊が病原菌を媒介することも十分あり得るじゃないか、くそ!病原菌を媒介する害虫を一掃しない限り東京プリズンに未来はない、ちょうどいい機会だ、日夜僕の平穏を脅かす昆虫綱ゴキブリ目ゴキブリを絶滅させる方法を本格的に考えねば!!」
 サムライが罹患した熱病の正体究明から害虫駆除へと目的が移行しつつあるが、まあいい。大体東京プリズンの衛生管理が杜撰だからゴキブリやネズミが繁殖して謎の熱病が蔓延するんだ、東京プリズンの体質を根本から変えない限り悪循環は断ち切れない。ロンは僕の隣で呆然としてる。僕の頭の回転の速さに完全に置いてかれて口を挟めないらしい。
 それでも顔を引き締め、何か言いかけたロンの背後をシャベルを抱えた囚人が通り過ぎる。
 「処女喪失おめっとさん!」
 は?
 ぱん、と乾いた音が鳴る。すれ違いざま囚人がロンの尻を叩いたのだ。続けざまに二・三人が通りすぎ、連続でロンの尻を叩き、揶揄とも祝福ともつかぬ卑語を浴びせる。
 「遂に男になったな、いや、女になったが正しいか?」
 「昨日はずいぶんお楽しみだったみてえじゃんか、羨ましい。隣近所に筒抜けの喘ぎ声響かせてよ」
 「後で初夜の感想聞かせてくれよ。レイジのモンのサイズとかな」
 「おかげでこちとら寝不足だぜ、壁の向こうっ側からひんひんあんあん喘ぎ声聞こえてきて毛布の中で勃ちっぱなし。強制労働控えて早めにベッドに入ったってのに目がギンギンに冴えちまったよ」
 「手がイカくせえぞ。半々の喘ぎ声に興奮して朝までヌきまくったんだろ。何回イったんだ、おい」
 「うるせえ」
 「おい半々、何ラウンド行ったんだ?レイジは精力絶倫だから一回や二回じゃ満足しねえだろ」
 「晴れてレイジの女に昇格だ。東京プリズンの女王サマ名乗れるぜ。喜べよ」
 シャベルや鍬を抱えた囚人がロンの尻を叩き、足早に去っていく。最後尾の囚人が立ち去ると同時にロンがシャベルに凭れてその場にしゃがみこむ。悶絶。首をうなだれまた仰け反らせ、激しく身をよじるロンを遠方で指さして囚人たちが爆笑する。
 「~~~~~~~~~~~~~~~いいっでええええええええっ!!!あいつらわざとケツ叩きやがったな、くそったれ!!」
 涙目で毒づくロンのもとへと歩み寄り、腕を組む。
 昨日と今日とで外見的な変化はないかと仔細に観察してみたが、いつも通りのロンだった。特に肌艶が良くなってるわけでもない。ロンは片手で尻を押さえて、片手でシャベルの柄を掴んで、きつく唇を噛みしめていた。肛門の裂傷がひどく痛むらしく、シャベルに縋って立ち上がろうと試みては、情けない悲鳴をあげて激痛に膝を屈する。
 「レイジと性交渉を持ったのか」 
 「!!なっ………」
 ロンが赤面する。どうやら図星だったようだ、わかりやすい人間だなとあきれる。囚人に軽く尻を叩かれた位で激痛にしゃがみこむなど普段のロンには絶対あり得ない。その程度のいやがらせは日常的に行われてるのだ。それが今日に限って悲鳴をあげてしゃがみこむなど処女を喪失したとしか考えられない。
 「涼しい顔して性交渉とか言うなよ恥ずかしい!」
 「自分がした恥ずかしいことは棚に上げて他人を非難するとは自省が足りないぞ。ところで僕は祝福すべきか同情すべきか、どちらだ?」
 「同情してくれ……」
 やはりな。わざとらしくため息をつく。レイジのことだ、処女喪失の激痛を和らげようと十分気を配ったのだろうが、それでも昨日の今日で強制労働にでるのは無茶だ。無謀だ。実際ロンは二足歩行はおろか二本の足で立つのも辛い状態で、シャベルに凭れてへたりこんだまま、どうしても腰を上げられない。
 尻を押さえてうずくまったロンをあきれ顔で見下ろし、言う。
 「どうする?残り八時間、強制労働を続行するか。その状態で働くのは危険だ、肛門の裂傷が悪化するぞ。僕の経験から言えば、排泄時には地獄を見るな。今日くらい大人しくベッドで寝ていればいいものを…」
 「囚人にそんな自由あるか。風邪だろうが肺炎だろうが強制労働サボったらお仕置きだ。独居房送りだきゃごめんだ」
 ロンの言い分は最もだ。たとえ風邪だろうが肺炎だろうが囚人は強制労働を休めない。シャベルに凭れて呼吸を整え、再び立ち上がろうと腰に力をいれたロンが、バランスを崩して派手に尻餅をつく。
 「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!!?」
 シャベルを放り出して悶え苦しむロンを見かねて手を貸す。周囲の囚人がこちらを指さして爆笑する。
 「……あとで医務室に行って診てもらえ。薬を塗っておけば少しはマシになるだろう」
 「ご忠告どうも。くそ、赤っ恥だ!どいつもこいつも人のこと指さして笑いやがって、むしゃくしゃするぜ。なんで昨日のことがもうイエローワークの砂漠中に広まってんだよ、早すぎだよ。会うやつ会うやつ片っ端から人のケツ叩いておめでとう言いやがって!!」
 「君の喘ぎ声が大きかったからじゃないか」
 「お前も聞いたのか!?」
 ロンが顔面蒼白になる。
 「階が違うせいで聞こえなかった」
 安堵に胸撫で下ろすロンに肩を貸して、からのバケツを拾い上げ、ゆっくりと慎重に歩き出す。向かうはオアシス。ロンはオアシスに水を汲みに行った帰りだった。一歩ごとに激痛に引き裂かれる下肢をくりだして、バケツ一杯の水を両手にぶら下げて往復するのは荷が重いだろうから今日だけは特別に手伝ってやる。
 僕に担がれたロンはまだぶつぶつと呟いてる。
 「ほんっと災難だぜ。俺がケツ庇って歩き方変なのわかってて水汲み言いつけた班の連中もむかつくけど、いちばんむかつくのはなんたってレイジだよ!あいつ、ちょっとは人のこと考えろっての。医務室で一日中寝てりゃいいあいつと違って俺は強制労働あるんだぜ、サボれないんだぜ。なのに人が気を失ってからも一回二回三回……初めてなんだからもう少し手加減してくれたっていいじゃんかよ」
 「君の体に夢中でまわりが見えなかったんだろう。一年と半年我慢したんだ、大目に見てやれ」
 「体に夢中って……だからそーさらっと恥ずかしいこと言うなっての!」
 「事実だろう」
 「知らねえよ。途中で気絶したから覚えてねえっつの」
 ロンの頬は赤く染まっていた。少し熱があるらしく息が荒かった。相当激しく抱かれたんだろうと同情する。足を引きずりながら歩くロンを支えてオアシスに到着、適当な場所に座らせてバケツを持ち上げる。
 「君は休憩してろ。水を汲んでくる」
 「いいのかよ、仕事ほっぽりだして……俺に構ってる暇ねえんじゃねえの?」
 「タジマが去ってからイエローワークの看守も随分と寛容になった。さっき僕に絡んできた低脳どものように、100メートル以上持ち場を離れて行動しなければ見逃してくれるだろう。誤解するな、別に君の為じゃないぞ。万一君が倒れでもしたらそばにいる僕が迷惑を被る。まだ息がある人間を生き埋めにするのはぞっとしないからな」  
 「担架呼ぶより埋めるほうが手っ取り早いもんな」
 ロンが足を崩してその場に座り込む。地面に接した尻が痛んだらしく顔を顰め、腰を浮かせる。からのバケツを両手に下げてオアシスの斜面を下りれば「謝謝」と声が追いかけてきた。
 オアシスは人で賑わっていた。
 仕事をさぼって涼みにきた囚人がなだらかな斜面に腰を下ろし、裸足を水面に浸けて談笑してる。囚人たちに混ざり、何人か看守の姿もあった。同じく斜面に腰を下ろしてタバコを吹かしている。
 オアシスに来る度、中世の昔より井戸端が社交場だった事実を思い出す。
 大昔より井戸端が庶民の社交場として機能していたように、砂漠に生まれたオアシスもまた、看守と囚人の垣根を取り払った憩いの場として親しまれていた。
 日焼けした上半身を晒した囚人が上着を手洗いしてるのがなおさらその印象を強める。中にはジャガイモを洗ってる囚人もいる、オアシスに飛び込んではしゃいでる囚人もいるが看守は特に注意しない。
 懇々と水を湛えたオアシスは砂漠に潤いをもたらす特別な場所、砂漠の命脈なのだ。
 オアシスにいると心身ともに癒されて寛容な気分になるらしく、囚人が少々羽目を外して騒いだところで声を荒げる看守はいない。
 なだらかな斜面を滑り降りて、バケツに水を汲む。水は茶褐色に濁っていたが、喉が干上がった囚人は平気で口をつけてる。
 両方のバケツに水を汲んで顔を上げ、ふと違和感を覚える。
 何かがおかしい。いつもと違う。
 バケツを脇に置き、注意深く周囲に視線を巡らした僕は違和感の原因を悟る。わかった、昨日より囚人が多いんだ。増えてるんだ。オアシスで休憩する囚人の中にちらほらと僕の知らない顔が混ざっている。
 不審に思いながら斜面をよじのぼり、ロンの隣へ戻る。
 「早かったな」
 僕が突き出したバケツを受け取り、ロンが労う。
 「ロン、気付いていたか」
 「?」
 「囚人が増えてる」
 「ああ」
 そのことかとロンがあっさり頷く。足の間にバケツを抱え込んだロンの隣に座り、眼下のオアシスを一望する。やはり多い。オアシスで憩う囚人の中に僕の知らない顔が何人か……否、何人も混ざっている。
 オアシスの方角に顎をしゃくり、ロンが言う。
 「『新入り』だよ。昨日か一昨日か東京プリズンにやってきた新入りの強制労働が始まったんだ。お前だって覚えてるだろ、強制労働始まった時のこと。視聴覚ホールで部署発表あって、配属先が決まって……」
 「なるほど。彼らは十ヶ月前の僕か」
 「そゆこと」
 足の間に挟んだバケツに手を浸けてロンが頷く。今一度、感慨深げにオアシスに散らばる囚人たちを見下ろす。彼らは十ヶ月前の僕だ。東京プリズンに来たばかりで右も左もわからぬまま過酷な強制労働に投げ込まれて、一日一日を生き抜くだけで精一杯で、それ以外のことを省みる余裕がなかった僕だ。
 「あれから十ヶ月が経つんだな」
 「もうすぐ一年だ。頑張ったよ、お前」
 本当に、色々なことがあった。東京プリズンも僕も変わるはずだ。ロンと並んでオアシスの窪地を眺めていたら、耳に騒音が届く。
 「?」
 なんだ?
 水を汲んだバケツを置いて立ち上がり、振り向く。
 音に誘われて砂丘の頂に登れば、眼下に道があった。アスファルトで舗装された平坦な道が砂漠の中央を貫いて延々と伸びている。僕らが強制労働の行き帰りに乗り込むバスがひた走る道、安田がジープでやってくる道で前景にはバス停の標識が立っている。
 乾燥した青空の下に無限に広がる砂漠、その中央を一直線に貫くアスファルトの道。
 アスファルトの車道に目を凝らす。道路の彼方から空気を震わせてかすかに音が聞こえてくる……エンジンの稼動音。やがて、針で突いたような極小の黒点が道路の彼方に出現する。点は次第に大きくなり、車の形をとる。
 洗練されたデザインの黒塗りの高級車だ。乾いた風が吹きすさぶ砂漠にはあまりに場違いな車だ。
 車が急接近する。
 胸騒ぎが増す。腋の下が不快に汗ばみ、動悸が速まる。なんだ、この感じは。この感覚は。嫌な予感。砂漠を貫く一本道の彼方から黒い脅威が近付いてくる、とてつもなく不吉な何かがやってくる。砂丘の頂に慄然と立ち竦んだ僕は、体の脇でこぶしを握りこみ、固唾を飲んで車を凝視する。
 砂漠には場違いな、東京プリズンには場違いな異質な存在……
 黒い光沢の高級車。
 茫漠と砂煙を舞い上げて走行してきた車が僕の目の前を過ぎる刹那、後部座席の車窓に映ったのは。

 タジマ。
 何故、タジマがここに?

 「ばか、な。タジマがいるはずない、タジマが帰ってくるはずない。脊髄と頚椎を損傷する重傷でヘリを緊急要請して病院に運ばれたのに、こんな短期間で舞い戻ってくるはずがない!」
 発狂しそうだ。わけがわからない。タジマがここにいるわけない、東京プリズンに帰ってくるはずがない。だが、そうすると僕が目撃したものの説明がつかない。一瞬だけ後部座席の車窓に映ったのはタジマだった、陰険な光を湛えた双眸も嗜虐の愉悦に酔った口元もタジマ瓜二つ、タジマそのものだ!
 悪夢の再現、脅威の再来。
 眩暈を覚えてよろめく。砂に足を取られてその場に倒れこむ。砂丘の頂に手足をついた僕の眼下をタジマを乗せた高級車が颯爽と走り去る。
 濛々と砂埃を舞い上げて、威圧的なエンジン音を唸らせて、砂漠の中心に聳える巨大な監獄の方角へと―……
 背後で衣擦れの音。弾かれたように振り向いた僕を、ロンが心配げに見返している。
 砂丘の頂で独り言を喚く僕に異常を感じて斜面を這って来たらしい。
 「どうしたんだよ鍵屋崎、顔真っ青だぜ。タジマの生霊でも見たのかよ」
 「鋭いじゃないか」
 ロンの手を邪険に払い、無理を強いて立ち上がり、輝きを増す太陽に目を細める。
 車は既になく、砂煙だけが舞っていた。
 東京プリズンの方角へと一路走り去った車を砂丘の頂に立ち尽くしたまま見送った僕は、乾いた空気を肺一杯吸い込み、快晴の青空と人工物の道路を見比べる。
 そして、言う。
 瞼裏に焼き付いたタジマの顔を反芻しつつ、諦念とともに目を閉じて。
 「ロン、悪い報せだ。タジマが帰ってきたぞ」
 平穏な日々には、たった二週間で終止符が打たれた。
[newpage]
 あれは幻だったのだろうか。
 タジマを乗せた車が去ってからの記憶は曖昧で、ところどころが欠落している。白昼夢の中を漂っているような非現実感。
 僕の異常を察したロンが一生懸命声をかけていた。
 僕の肩をしきりと揺さぶって、必死の形相で詰問した。
 『タジマが帰ってきたってどういうことだよ、あいつは東京プリズンからいなくなったんじゃないのかよ!?だって重傷だって聞いたぜ、この先一生車椅子生活だって、看守として復帰する見込みは絶望的……なあおい鍵屋崎聞いてんのかよ、どういうことだよタジマを見たって、お前寝ぼけてんじゃねえのかよなんでタジマがここにいんだよあのタジマが……嘘だって言えよ、なんかの間違いだって言ってくれよ!?』
 ロンの目には紛れもない恐怖が浮かんでいた。
 漸くタジマの苛めから解放されたのに、たった二週間でタジマがまた舞い戻ってきた。ロンは冷静さを失って全力で僕の言葉を否定しにかかった、前言撤回を求めて手加減なく僕の肩を揺さぶった。
 だが僕は放心状態で、その場凌ぎの嘘でロンを宥めることもできなかった。
 いつのまにか強制労働は終わっていた。
 僕は足をひきずるように自分の房に戻りベッドに腰掛けた。サムライはいなかった。時間が経つにつれあれは何かの間違い、見間違いじゃないかとの疑惑が強まる。

 あれは本当にタジマだったのか?

 ベッドに腰掛け、片手を額にあてがい、試しに自分の熱を測ってみる。
 そういえば少し額が火照ってる……気がする。熱があるのかもしれない。
 僕は熱のせいで幻覚を見たんじゃないか?
 そう考えれば納得がいく。あの時は後部座席の人物をタジマと見間違えて錯乱したが、現実的に考えてタジマが今ここにいるはずがないのだ。
 ならばあれは別人ということになる。
 「そうだ。タジマがここにいるはずない。彼は東京プリズンを去ったんだ、二度と僕の前に姿を現す心配はない。彼はもはや永久に東京プリズンを追及された過去の人間、現在の僕に影響を及ぼすはずがない」
 口に出して自分に確認、大きく深呼吸して平常心を取り戻す。
 僕ともあろう者が、妄想と現実の区別もつかなくなっていた。タジマはいない。もういない。金輪際タジマに怯える必要はない、タジマに付き纏われる恐れもない。僕は目を開けながら寝ていたんだ、砂漠で白昼夢を見ていたんだ。今日は睡眠不足で脳が覚醒してるとは言いがたい状態だったからその可能性は多いにあり得る。
 口元に自然と笑みが浮かぶ。苦味の勝った自嘲の笑み。
 「無様だな、鍵屋崎直。亡霊に怯えるなど、僕らしくもない」
 まったく、ロンの前でみっともなく騒いで取り乱して大恥をかいてしまった。房に帰り着いて冷静さを取り戻してから、その事が悔やまれる。
 単なる見間違いを大袈裟に騒ぎ立ててロンを不安にさせた。
 食堂で会った時にでも訂正しておかねば……
 「……待て、何故僕が訂正しなければならない?おかしいじゃないか。元を正せば僕が白昼夢を見たのもサムライのせい、昨夜サムライがあんな事をしたからだ。全ての責任は彼にある。僕はサムライのせいで寝不足になったんだ、彼の存在を意識するあまり神経が張り詰めて十分な睡眠が摂れなかったんだ。謝罪すべきは僕じゃない、サムライだ。これは根拠無根な責任転嫁ではなくありのままの事実だ。サムライが昨夜あんな……」

 無意識に唇をさわる。
 撫でる。
 サムライの唇が触れた場所に、微熱を感じる。

 「…………」
 一口には説明しがたい不思議な気分だ。当惑、混乱、そして……動揺?
 僕はサムライにキスされて動揺してるのか。まさか。売春班ではキス以上のことを日常的にされたのに、今さらキスひとつくらいで動揺する理由がない。相手がサムライだから?
 僕が友人と認識してる特別な男だから、だからこんなにも動揺してるのか。胸がざわめいているのか。僕はサムライを信頼している。僕には決して危害を加えないと油断して無防備な面を見せていたことは否定しがたいが……だからって、僕の無防備に付け込むような真似をするのはいつもの彼らしくない。
 「何故、キスをしたんだ」
 人さし指で唇をなぞり、小声で呟く。
 僕以外に誰もいないからこそ声に出すことができた。物問いたげに対岸のベッドを見つめる。サムライはまだ帰ってない。レッドワークの残業が長引いてるらしい。そろそろ夕食の時刻だというのに……慣れない仕事に苦労してるのだろうか。
 たかがキスだ。あの程度のことでサムライを過剰に意識しすぎだ。欧米では恋人同士に限らず友人間家族間で当たり前に交わされる親愛表現だ。だが待て、サムライは日本人だ。それも三代遡って純血の……おかしい。やはりおかしい。しかも、僕は男だ。僕は同性愛者じゃない、異性にも同性にも恋愛感情を抱いたことはないと断言する。サムライだってそうだ。
 少なくとも、僕は今までそう思っていた。
 サムライには過去恋人がいた。幼馴染であり使用人であり、世話好きな姉のような存在だった……苗。
 サムライが唯一心を許した、心優しい盲目の女性。
 サムライは今でも、苗が忘れられないんじゃないのか。
 苗のことを、愛しているんじゃないのか?
 苛立ちまぎれに頭を掻き毟り、吐き捨てる。
 「……わけがわからない。支離滅裂意味不明だ。動機が不明瞭でイライラする。サムライは同性愛者なのか?僕に欲情したのか?まさか。昨夜のあれはいくらなんでも唐突過ぎる、必然の過程を踏まえてない。やはり熱病か?高熱を発して脳に異常が起きて発情を促す脳内麻薬が過剰分泌されたのか。レイジは常に脳内麻薬が過剰分泌されていて一年中さかっているが、サムライは一年中禁欲生活をしてるから昨夜その反動がきたのかもしれない。そういえば僕はサムライが自慰してるところを見たことがない、見た目は老けているが彼も一応十代の少年だというのにどうやって性欲処理をしてるんだ?」
 疑問だ。サムライには性欲が無いのだろうか。僕はもともと性欲が薄いからタジマに強制された以外では自慰の経験もないが……論点がずれてきた。
 考えても答えは出ない。サムライが僕にキスした動機は不明だ。
 彼が何を思ってあんな行動にでたのか知りたければ本人に問い詰めるしかないが、サムライと顔を合わすのは気が重い。
 だが、これは自分でも意外なのだが……

 サムライにキスされても、嫌じゃなかった。

 扉が開いた。
 「!」
 反射的にベッドから腰を浮かし、開け放たれた扉を注視する。
 サムライがいた。強制労働から帰ってきたらしい。
 「あ……」
 何か言わなければと強迫観念に駆られて、目下最大の関心事を率直に聞く。
 「君の、自慰の経験の有無が知りたい」
 まずい、率直すぎた。
 何を聞いてるんだ僕はなんて下世話な質問だいや違うこれは生理学的な好奇心に端を発した質問であって疚しい意味は微塵もないこれは真面目な質問なんだ僕はただ禁欲的なサムライが日頃どうやって性欲を処理してるのか気になってそれで!!
 激しい自己嫌悪に苛まれて頭を抱え込む。
 廊下に立ったサムライは不審げに僕を眺めていた。
 「そんなことを聞いてどうする?」
 「今の質問は忘れてくれ、なかったことにしてくれ!!」
 頬に血が上る。大体、サムライの自慰の経験の有無を知ってどうするんだ。答えを聞いたところで僕はどう対応したらいいんだ。
 大袈裟に咳払いし、何事もなかったように姿勢を正して顔を上げる。サムライの背後で鉄扉が閉じて鈍い残響が壁にこだまする。対岸のベッドに腰掛けたサムライは胡散臭げに眉をひそめて僕の表情を探っている。
 不躾な観察に気分を害した僕は発作的に立ち上がり、憤然とサムライに歩み寄る。
 いい機会だ。
 サムライに直接聞こうじゃないか、僕にキスした理由とやらを。
 房には現在、僕とサムライ二人きりだ。
 格子窓の外から猥雑な話し声が漏れ聞こえてくるが、構わない。 
 背筋を伸ばしてベッドに腰掛けたサムライと一対一で向き合い、慎重に口を開く。 
 「サムライ、君に聞きたいことがある」
 「なんだ」
 「昨夜……、」
 突然、サムライが腰を上げる。心臓が跳ね上がる。待て、逃げる気か卑怯者めと心の中で罵倒してその背に足早に追いすがる。
 僕の質問を遮ってサムライが向かう先は洗面台。
 サムライが無造作に蛇口を捻り、水を出す。ズボンに挟んでいた手拭を蛇口の下に置いて水を含ませて、鮮やかな手際で絞る。サムライの背後で立ち止まった僕は、質問を続けようか否か迷い、虚しく口を開閉する。これはひょっとして、誤魔化されているのか。最後まで言わせまいという無言の意思表示かと邪推した僕に体ごと向き直り、サムライが言う。
 「眼鏡をとるぞ」
 「なっ」
 拒否する暇もなくサムライの手が伸びて眼鏡を外されて、視界が曇る。何をする気だ貴様、安田に直してもらった大事な眼鏡を……
 声を荒げて抗議する僕を無視、サムライが思いがけぬ行動にでる。
 サムライの顔が接近する。
 「!」
 鈍い音。背中が壁に衝突して逃げ場を失った僕は、サムライの手から眼鏡を取り返そうと試みるも、視界が曇ってるせいで遠近感が掴めないせいで上手くいかない。まさかこの展開を予期して前もって眼鏡を取り上げたのかと疑惑が深まる。昨夜の光景が脳裏にフラッシュバックする。
 図書室の扉を背に追い詰められた僕にのしかかるサムライ、熱い吐息が睫毛にふれて、唇が触れて―……
 再び、キスされるのか?
 恐怖と緊張に体が強張る。反射的に目を閉じる。暗闇。サムライの顔は見えないが、手に取るように息遣いを感じる。瞼の向こう側にサムライがいる。僕の顔を凝視する。
 そして……
 「!?いっ、あ?」
 ひやりとした感触。
 冷たく柔らかい布で瞼の上を覆われた。顔面に手をやり、僕の両目を塞いだ布をおそるおそるまさぐれば、サムライが今さっき蛇口で濡らした手拭いだった。何の真似だといぶかしんでサムライを見上げれば、当の本人があっさり言う。
 「目が腫れている。酷い顔だ。手拭いで冷やしておけば少しはマシになるだろう」
 「!!ちょっと待て、僕の目が腫れてるのは誰のせいだと……元はと言えば君が寝不足の原因、」
 「俺が?」
 サムライが不審げに眉をひそめる。
 鈍感もすぎると無神経だ。サムライと議論するのに疲れて脱力、壁に背中を凭せて素直に手拭いを受け取り、目の位置にあてがう。水の冷たさが瞼に沁みて気持ちがいい。なんだか急に眠たくなり、手拭いを押さえる腕の力が抜ける。顔から剥がれた手拭いを瞬時に拾い上げて、再び僕の瞼に押しあてたのはサムライだ。
 「……まったく。君の行動は何から何まで紛らわしすぎる」
 僕の目が腫れてるのを心配して、わざわざ手拭いを冷やしてくれた。細心の気配り、不器用な思いやり。手拭いの冷たさが火照った顔に心地いい。だが、いつまでもこうしてるわけにはいかない。壁から背中を起こし、「もういい」とサムライの手をどけようとして、手拭いを顔から外した僕は初めて気付く。
 「サムライ、手に怪我をしてるじゃないか!?」
 「大したことはない」
 「大したことはないって、剣を握る大事な手じゃないか!」
 手拭いを乱暴に払い落とし、サムライの右手を掴んで引き寄せ、指を開かせる。サムライは手に火傷を負っていた。範囲はそう広くないが、皮膚が赤く焼け爛れて痛そうだった。
 薬を塗って包帯を巻いておいたほうがよさそうな怪我だ。
 「医務室で診てもらえ。夕食にはまだ時間がある」
 「その必要はない。この程度の怪我、放っておけば治る」
 「痕が残ったら大変じゃないか。そうじゃなくても君は傷だらけだ、少しは自分を大事にしろ。こないだの太股の怪我だって相当酷かったじゃないか、これ以上君の体に傷を増やしたくない」
 「俺は男だ。体にひとつふたつ傷が増えたからとて問題は」
 「そう言うなら今ここで服を脱いで全裸になれ、君の体にある傷を全部数えてやる。言っておくがひとつふたつどころじゃ済まないからな、僕を庇って負った傷は!!」
 サムライの腕を引っ張り、鉄扉を開け放つ。当然、火傷を負ってないほうの手だ。サムライは不承不承僕のあとについてくる。なんだその不満げな顔はと憤慨する。僕はこれ以上つまらない罪悪感に苦しみたくない、サムライを怪我させた責任を感じたくない。
 元はといえばサムライがレッドワークに落ちたのも僕のせいだ。
 胸の痛みを覚えながら、サムライを医務室に連れて行き治療を受けさせる。サムライは憮然としていた。この程度の怪我で医者にかかるなど情けないと自分の不甲斐なさを恥じてるのは明白だった。構うものか。
 サムライは人体の自然治癒力を過信しすぎだ。
 火傷を放っておいて、黴菌が入って悪化したらどうするんだ。
 「……包帯は邪魔だ。すぐにほどける」
 治療を終えて医務室を出てからもサムライは不機嫌だった。
 手に巻いた包帯を憮然と見下ろし、五指を開け閉めする。
 「二三日剣の稽古を休んだらどうだ」
 「できん。たとえ一日でも剣の修行を休むめば腕がなまる」
 「強情な男だな。君はそう言うが、怪我が悪化したら意味がないじゃないか」
 「俺は強くならねば」
 どこか思い詰めた口調と眼差しでサムライが呟く。僕は困惑する。
 「今だって十分強いじゃないか。まだ上を望むのか?見かけによらず強欲だな」
 大股に先を歩むサムライの背中に皮肉をなげる。だが、サムライは立ち止まらない。どこか思い詰めた横顔で無心に廊下を歩く。そのまま真っ直ぐ房に帰るかと思えば、途中で角を曲がる。
 サムライの後ろ姿はどこか、僕を不安にさせた。
 昨夜からサムライは変だ。己が内にとてつもない秘密を抱え込んだ故の不安定さがサムライの背中に表れている。歩き方に余裕が感じられない。背中はぴんと張り詰めて、痛々しいほどに研ぎ澄まされて、人を寄せ付けない硬質な空気を放っている。 
 一体どうしてしまったんだ。
 サムライと距離を埋めようと必死に足を速めるが、どうしても追いつけない。人を寄せ付けない孤高の背中。僕を冷淡に突き放す背中。
 息を切らしてサムライを追う。
 サムライが向かう先は展望台だった。
 窓ガラスが除去された矩形の出入り口が壁に穿たれた向こう側は、囚人が自由に出入りできる憩いの場だ。サムライが僕を待たずに窓枠を乗り越えて展望台に出り、さらに歩く。サムライに遅れること数秒、窓枠を跨いで展望台にでれば生ぬるい風が頬をなぶる。
 西空は朱に染まっていた。凄まじい夕焼けだ。溶鉱炉に呑まれたみたいな空だった。展望台には数人囚人が散らばっていた。その誰もが呆けたように口を開けて残照を眺めていた。
 神々しいばかりの夕日の美しさに心奪われて腑抜けに成り下がった顔。
 サムライはどこだと視線を巡らした僕の目にとびこんできたのは、若竹のようにまっすぐな背筋。
 サムライは展望台の中央に立ち尽くしていた。黄昏の残照を浴びて足元に長く影を伸ばしたその姿は不思議と絵になっていた。
 目の位置に手を翳して赤光を遮りつつ、サムライの背後に歩み寄る。サムライは振り向きもしなかった。
 どこまでも孤独に孤高に、砂漠の彼方に沈みゆく夕日と対峙していた。
 朱に照り映える横顔の眩さに目を細めて、控えめに声をかける。
 「サムライ」 
 サムライは微動だにせず立ち竦んでいた。いつか、これと同じ夕日を見た。あれは数ヶ月前、まだ僕がサムライを友人と認めていなかった頃。タジマに燃やされた手紙の灰をかき集めて、展望台に運び、風に飛ばした。あの時のサムライの姿が現在のサムライと二重写しになり、胸が詰まる。

 風に吹き散らされた微塵の灰。 
 展望台の突端に佇み、夕空へと手を差し伸べた残影。

 言葉にできない想いが込み上げて胸を締め付ける。
 口を開き、また閉じ、遂に決心して息を吸う。
 今を逃したら、二度と聞けない。
 「何故、僕にキスをしたんだ?」
 サムライが緩慢に振り向き、真っ直ぐに僕を見る。なんとも形容しがたい、深い眼差しだった。複雑な色を湛えた双眸だった。そう見えたのはサムライの双眸が夕日を照り返して朱を帯びていたからだろうか。
 地平線に沈みゆく夕日に身をさらしたサムライが、噛み締めるように呟く。
 「夢を見た」
 「夢?」
 僕からふいと視線を外し、再び夕日に向き直り、双眸を細める。
 「業火に呑まれる夢だ」
 大気が朱に染まる。空が燃え上がる。長短さまざまの人影が展望台の床に黒々と穿たれる。サムライはそれ以上語らなかった。僕もそれ以上聞けなかった。業火に呑まれる夢が何を暗示するのか僕にはわからない。だが、サムライが今ここでそれを口にしたのには理由があるはずだと直感で悟った。
 残照に染め抜かれた横顔には耐えがたい苦渋が滲んでいた。内面の激しい葛藤が窺える苦悩の表情。細めた双眸には悲哀と自責が相半ばして宿っていた。まるで、生きながら業火に灼かれて地獄の責め苦を味わっているような―……
 
 その刹那。
 サムライの目が、驚愕に見開かれた。
 
 僕が今だかつて見たことがない激情の発露……戦慄の表情。
 サムライの視線を追って正面を見た僕は、まともに残照を浴びて顔を顰める。
 瞼の裏側が朱に染まる。目が眩さに慣れてくると同時に、展望台の突端に佇んだ人影が残照に輪郭を彫り込まれて鮮明に浮かび上がる。
 その少年はこちらに背を向けて夕日を眺めていた。
 すらりと伸びやかに均整の取れた、優美な肢体の少年だった。
 周囲には他にも囚人がいたが、その少年だけが異質な……若しくは異端な存在感を放っていた。少年を包む空気からして清冽に浄められていた。
 コンクリート造りの殺風景な展望台に音もなく翼を畳み、見目麗しい一羽の白鷺が舞い降りたようだった。
 紅に暮れる世界と対峙していた少年が、緩慢にこちらを向く。
 癖のない黒髪が風に揺れて、色白の肌が残照に怪しく照り映えて、切れの長い眦が覗く。淫靡な微笑を含んだ唇だけが艶やかに赤い。
 清楚な少女と見紛うほどに端麗な容姿の少年だった。
 夕日が煌煌と燃え尽きる。
 「静流?」  
 サムライの唇がわななき、掠れた声を漏らす。己の正気を疑っているような、実際目にしてるものが信じられないといった当惑の声。
 展望台の突端に立った少年は風に吹き流れる前髪を手で押さえ、久しぶりの再会を恥じらうようにはにかむ。
 誰もが好感をもたざる得ない心の琴線をかき鳴らす笑顔だった。
 「久しぶりだね。貢くん」
 容姿に似合いの涼しげな声で、夕日に溶けた少年は挨拶した。
[newpage]
 今日の献立は中華だ。
 東京プリズンの献立に中華が加わって二週間が経つ。
 中国系が最多数を占める東京プリズンでは以前から献立に中華を加えて欲しいという根強い要望があったが、上にはすげなく却下された。
 それでなくても洋食と和食の二種類のみの日替わり、ワカメの切れ端が浮かぶ味の薄い味噌汁と小骨が喉に刺さる焼き魚に炊飯、不味いマッシュポテトに脂が白く凝り固まったベーコン、黄身の潰れた目玉焼きなど味だけでなく見目も悪い料理が供給されるのだ。上の人間に献立改善の意志などあろうはずもない。
 だが、味も見た目も悪くても一日二食の貴重な栄養源であることに変わりない。
 働かずざる者食うべからずの諺を例に出すまでもない。囚人に選り好みする権利はない、好き嫌いを唱える資格もない。食べなければ飢えるのみ、贅沢を言って食事に手をつけなければ食い意地の張った同輩に横取りされるのみだ。
 連日の強制労働で空腹の極みに達した囚人は、不味い食事でも文句を言わず飯粒ひとつ残さずたいらげている。愚図愚図していたら食器を横取りされる、のろのろしていたら椅子を蹴倒されてトレイごと奪われる。
 東京プリズンにおける食事は一分一秒を競う熾烈な戦いだ、とにかく口に詰め込んで咀嚼して嚥下して消化するそのくり返しで胃袋を満たすのが肝心だ。飢え死にしたくなければ殴られ蹴られてもトレイを死守して食器を抱え込んでがっつくしかない。それが東京プリズンでまかり通る弱肉強食の掟だ。
 ところが二週間前に方針転換があり、東京プリズンの献立に待望の中華が加わった。中国系の囚人は狂喜した。中国系だけではない、食事のバラエティーが増えるのはマンネリ化した献立に飽き飽きしていたその他囚人にとっても朗報だった。
 僕が安田に交渉したのが効いたのだろうか?
 まあいい。何にせよ献立のバラエティーが増えたのは喜ばしい。
 「すごい人出だな」
 食堂の熱気にあてられて、凡庸な感想を口にする。
 食堂は混雑していた。
 油汚れが目立つ床には無数の靴跡が刷り込まれて不衛生な惨状を呈してる。
 ここの囚人は行儀が悪い。最悪だ。最下等だ。彼らの辞書にはきっと「食事作法」が載ってないのだろうと思わせる飢えた豚の如き下品極まる食べ方には思い余って目を覆いたくなる。箸を鷲掴みにして飯をかきこんでいる囚人はまだマシなほうで、中には椀に直接口をつけて無作法な音をたてて汁を啜り、口のまわりを食べ滓だらけにして手掴みで貪り食っている者もいる。
 東京プリズンの食事風景を表す言葉はこれに尽きる。
 『餓鬼地獄』。
 「俺の酢豚返しやがれ箸で目玉ほじくりかえすぞ!」
 「目玉ほじくり返されたって酢豚は返すか馬鹿やろう、もう唾つけちまったんだから俺のモンだ、この酢豚は巻きじっぽでぶひぶひ言ってた頃から俺の胃袋に入る運命が決定してたんだ、往生際良く諦めろ!」
 「適当言ってんじゃねえそりゃあ俺の酢豚だ端っこに齧ったあとあるだろ、歯型ついてんだろ!?汚ねえ唾とばすんじゃねえ、そっちがその気にならその麻婆豆腐もらうぜ!」
 「ああっ卑怯者、俺の麻婆豆腐を三分の一も啜りやがって……」
 「上等だ、火ィ吹く勢いで全部飲み干してやらあ!!」
 酢豚の奪い合いから取っ組み合いの喧嘩に発展した囚人二人が、めまぐるしく上下逆転しながら卓上を転げり、はてに床に転落。後頭部を強打してなお互いの胸ぐらを掴んで罵り合いを止めず、周囲の顰蹙を買っている。
 食べ物の恨みは根深い。派手に食器をひっくり返し、酢豚と麻婆豆腐を床一面に撒き散らして殴り合いを続ける囚人のそばを通り過ぎる。
 「あんちゃんひでえや、それ俺の湯(タン)!!」 
 「こまかいことを気にするな弟よ、この世にたった二人きりの兄弟の仲じゃねえか。血を分け合った実の兄弟、一杯の椀から湯を分け合うのも肉親の情あってこそ……いでっ、箸で刺すんじゃない、股間を狙うんじゃない弟よそこは男の急所で強姦魔の大事な場所だ!?」
 「あんちゃんの馬鹿馬鹿もう絶縁だ、あんちゃんはいっつもそうだ、小さい頃からずっとずっと俺のおかず横取りして私腹を肥やして……旧正月のお祭りの時だって俺がなけなしの小遣いで買った肉包を横からガブッて!!俺がハリボテの龍に見惚れてる隙にガブッて!!」
 「弟よ刺すんじゃない箸を凶器にするんじゃない強姦魔の凶器は下半身だ!!」
 向こうのテーブルでは残虐兄弟が口論してる。涙に目を潤ませた弟が妙に舌ったらずな口調で兄を非難、兄がしどろもどろに反論しつつ振り上げ振り下ろされる箸をかわす。反射神経がいいなと感心する。
 くりかえすが、食べ物の恨みは根深い。
 「僕としたことが不覚だった、せめてあと三分早く来るべきだった。すでに席がないじゃないか」
 食堂を見まわして舌打ち、食器を載せたトレイを抱えて立ち往生する。
 席争奪戦に出遅れたのが致命的だった。途中展望台に寄ったりせず真っ直ぐ食堂に来ればこんなことにはならなかった、と悔やんでも遅い。
 席はあらかた埋まっている。
 このままでは立ちっぱなしで食事をとることになる。
 「キーストア!」
 混雑した食堂を見渡して途方に暮れた僕を誰かが呼ぶ。聞き覚えある声に振り向けばレイジが軽薄に手を振っていた。既視感。以前にもこんなことがあったなと思いながらサムライを連れて通路を歩く。
 喧騒の渦と猥雑な通路を抜けて、一階中央やや左寄りのテーブルに到着。
 レイジがいた。隣には仏頂面のロンもいた。
 「何故君がここにいるんだ。入院中じゃないのか」
 「退院したんだよ。一分一秒でも長くロンと一緒にいたいって無茶言って、ちょーっだけ早めにな」
 レイジはこの上なく幸せそうににやけていた。馴れ馴れしくロンの肩に腕を回して抱き寄せて、向かい席を顎でしゃくる。
 「座れよ」
 レイジの向かい席には先客がいたが、その一声でトレイを抱えて立ち去ってしまった。職権乱用、もとい権力乱用だ。東棟の王様から晴れて東京プリズンの王へと昇格したレイジの命令には誰も表立っては逆らえない。
 それまで椅子を温めていた囚人と入れ替わり着席、ため息をつく。
 「王様は不死身か。左目を失明して背中に火傷を負った割には随分元気そうだが、まさか仮病を使って医務室のベッドを独占していたのか。東京プリズンの王様に出世して以降やりたい放題じゃないか」
 勿論イヤミだ。レイジが機嫌な理由はわざわざ聞かなくても見当がついた。愛情こめてロンの肩を抱く仕草で一目瞭然だ。野生の豹は舐めて傷を治す。ペア戦から二週間が経ち、レイジは脅威的な回復力を見せたがまだ体調は万全とは言えない。ナイフで焼かれた背中の火傷が痛むらしく、時折顔を顰めてるのがその証拠だ。
 「キーストアってば相変わらず毒舌な。久しぶりに顔合わせたんだ、退院おめでとうとか俺がいなくて寂しかったとかお祝いにキスしたげるとか温かい言葉かけてくれもバチあたらねーと思うけど?」
 「どうせならその口も縫合してもらえばよかったのに。僕なら舌も切除するがな」
 箸を手に持ちあきれる。同情をこめた眼差しをレイジの腕の中のロンに向ければ、本人は憮然として、箸で摘んで口に放り込んだ酢豚を咀嚼していた。レイジの腕を肩にかけたままでいるのは怪我人に遠慮してるからか、自分の体が辛いからかと邪推する。
 まだ尻が痛むのだろうか?……痛むに決まっている。
 あの後医務室で診てもらったか確認したかったが、食事中にだす話題ではないと自重して酢豚を咀嚼するのに集中する。
 レイジの隣のロンから、隣のサムライへと視線を移す。
 サムライは黙々と箸を使っていた。
 いつものことだが、思わず見惚れてしまうほど姿勢がいい。
 「………」
 サムライに聞きたいことがある。
 『静流?』
 耳の奥に殷殷と声が甦る。
 黄昏の展望台でサムライと対峙した少年の姿が脳裏で像を結ぶ。最涯ての夕日を背景に振り返る囚人……黄昏の涼風に舞う黒髪、睫毛の影に沈んだ物憂げな双眸、艶やかに赤い唇。一瞬性別を見誤った。全体的に線が細く骨格が華奢で、白鷺の化身めいて優美な肢体が残照に映えていた。
 美しい少年だった。
 東京プリズンには不似合いな、場違いな、異端の存在。
 東京プリズンにいること自体が間違いではないかと思わせる特異な存在感の持ち主。
 風に吹き流れる前髪を手で押さえ、少年はかすかに微笑んだ。一陣の涼風が胸を通り抜けるような清冽な微笑みだった。
 『久しぶりだね。貢くん』
 少年は親しげにサムライの名を呼んだ。サムライが過去に捨てた名を呼んだ。幾許かの恥じらいと溢れんばかりの親愛の情をこめ、みつぐ、と。

 サムライと少年は知り合いだった。
 恐らく外にいた頃の……僕がまだサムライと出会う前の。

 その場はそれで終わった。
 サムライは迅速に背中を翻して展望台を去った。静流と呼ばれた少年の視線に追いたてられるように、逃げるように。二人の間に会話はなかった。サムライの態度はどこかよそよそしかった。僕はあれからずっと静流と名乗る少年との関係を問いただしたかったが、サムライの横顔がそれを拒絶していた。
 一体「静流」とは誰だ、何者だ、どういう関係なんだ?何故東京プリズンにいるんだ。静流は僕たちと揃いの囚人服を着ていた。ということは何らかの犯罪を犯して、囚人として東京プリズンに収監されたということだ。
 そこまで考えて困惑する。展望台で会った静流の印象と犯罪とがどうしても結びつかない。東京プリズンに収監されたということは即ち、社会に危険視される重犯罪者の烙印を押されたということ。
 僕は両親を殺害して東京プリズン収監が決定した、サムライもまた実父を含む道場の門下生十三人を斬殺して東京プリズンに送られた。ロンもレイジも殺人の前科がある。
 静流は?
 静流は一体、何をしたんだ。
 「………腑に落ちない」
 静流との関係が気になるあまり食がはかどらない。
 やはり直接サムライに聞いてみよう。箸を揃えて置き、サムライに向き直る。サムライは音をたてずに椀の汁を啜っている。
 よし、今だ。
 「サ」
 「聞いたぜ半々、ご開通おめでとうってか!?」
 口を開くと同時に邪魔が入った。
 話を遮られた不快感も露わに正面を向けば、子分を五・六人引き連れた凱がロンの背後に立ち塞がっていた。
 ロンが腰掛ける椅子の背凭れに寄りかかり、凱が野太い哄笑をあげる。
 「昨日はずいぶんとごさかんだったみてえじゃんか。レイジに突かれて喘いでケツ振って気ィ失うまで玩ばれたんだろ、可哀想に。おや、ズボンの尻に赤い染みができてるぜ。生理かよ」
 レイジが隣にいてもお構いなしにつっかかる凱に眉をひそめる。ロンをおちょくる絶好のネタができたと嬉々としてやってきたらしくまわりの状況が見えてない。愚かな裸の王様だ。 
 「消えろよ凱。飯どきにちょっかいかけてくんな」
 ロンは露骨に顔を顰めて凱の腕を振り払いにかかるが、凱はしぶとい。ロンの処女喪失という美味しいネタを逃す手はないと満面に下劣な笑みを湛えて、嫌がるロンの手を乱暴に叩き落として無遠慮に体をまさぐりだす。
 上着の裾から手を潜らせて腹を揉みしだき、さらに調子に乗ってズボンに手をかける。 
 「どれ、この俺サマ直々にお前のケツの具合確かめてやるよ。マジで処女膜破れてるかどうか指突っ込んで確かめてやる」
 「!ちょっ、どこさわって……いい加減にしろメシ時に、っあ」
 箸を鷲掴んでロンが身悶える。激しく身を捩れば肛門の裂傷が痛むらしく、腰の動きを制限されては凱の手を振り解くこともできない。箸をへし折らんばかりに力を込めてこぶしを握りこみ、恥辱に頬染めるロンを楽しげに眺めながら凱がズボンを引き下げて……
 「ぎゃああああああああああああああああっ!!!」
 凄まじい絶叫が駆け抜ける。
 「凱さん!?」
 「凱さん大丈夫っスか、しっかり!!」
 床で七転八倒する凱に血相変えて子分が駆け寄る。
 テーブルに上体を突っ伏して荒い息を吐くロンの隣、体ごと凱に向き直ったレイジが微笑む。
 怒りの波動が大気を震わせてこちらにまで伝わってくる笑顔。
 ぎりりと音が鳴るほど肉を挟み、凱の手の甲を思いきり抓り上げたレイジがその場にしゃがみこみ、床に伏せった凱の顔を覗きこむ。
 周囲の囚人が箸を止めて息を呑み、床にしゃがみこんだレイジと凱を注視する。
 喋り声はおろか食器の触れ合う音すら完全に途絶えた静寂の中、絶対的優位を誇示するごとく凱の頭に手を置き、宣言。
 「俺の女に手をだすな」
 そそくさと着衣の乱れを整えたロンが顎も外れんばかりに口を開ける。
 近隣テーブルの囚人があ然と箸を取りこぼす。
 間の抜けた沈黙がたゆたう中、レイジは言いたいこと言って満足したといわんばかりに椅子に戻って腕を組む。優雅に腕を組み、尊大にふんぞり返ったその姿には一種の風格さえ漂っていた。  
 野生のフェロモンで雌をたぶらかして、ハーレムを築いた肉食獣の風格が。
 ……察するにあれが決め台詞だったのだろう。あきれかえって二の句を継げない僕の視線の先でみるみるロンの顔が紅潮する。
 「~~~~~お前の女になった覚えはねええええええっ!!!」
 「いでっ、でででででででえっ痛いロンほっぺは痛てえ!?」
 「わざと痛いようにやってんだから大いに痛がって反省しやがれ、誰がいつお前の女になったんだよ一回ヤッたぐらいであることないこと言ってんじゃねえこの色鬼!!」
 「色鬼……スーグイ、台湾語でスケベという意味だ」
 「解説いらねえから助けろキーストア!?俺一応怪我人怪我人、ギブ、ギブだって!!」
 「あれは約束だから仕方なく抱かれてやったんだよ、お前がどうしても俺抱きたいって夜這いかけてきたからムゲに追い返すのもアレだしって情ほだされて扉を開けてやったんだよ!そしたらいきなり押し倒して舌突っ込んできやがって……なんだよあの強姦魔みてえなキスは、よっぽど噛み千切ってやろうかと思ったぜ!」
 「過ぎたこと今さらぐじぐじ蒸し返してケツの穴のちっせえ男だな!あ、ちなみにこれマジだから、そのまんまの意味だから。お前だってまんざらじゃなかったくせに俺だけ悪者扱いかよ、昨日はあんなに可愛かったのに、俺に組み敷かれてもう無理これ以上無理あっああっイく、イくーうってよがり狂ってたのはどこの誰だよ!!俺にしがみついてがくがく首振って涙目で喘いでたのは、俺のモンが奥まであたってるって頬赤らめて甘い喘ぎ声あげてねだるように腰擦りつけてきたのは」
 「……………なっ、そっ、いっ…………」
 ロンの顔色が赤を通り越して青くなる。満員御礼の食堂で、大勢の野次馬が聞き耳を立てる中で赤裸々な痴態を暴露されたのだ。レイジを呪い殺したくもなるだろう。
 レイジの頬をぎりぎり抓り上げていた指を外してうろたえるロンにさかんに野次が飛ぶ。ついでに食器も舞い飛ぶ。
 「今の聞いたか?くそっ、レイジが羨ましいぜ」
 「昨日の半々はさぞかし素直で可愛かったんだろうなあ。レイジのモンが欲しい欲しいって一生懸命腰擦りつけてきたんだろ、にゃーにゃー甘い鳴き声あげてレイジのモンねだったんだろ。想像しただけで勃っちまった」
 「俺、軽くイッちまった」
 「溜まってんなあお前」
 「おーい半々、ここで服脱いでレイジにつけられたキスマーク見せてくれよー」
 「俺たちが数えてやるからさあ」
 ロンの呼吸が浅く荒くなり、目が真っ赤に充血する。危険な兆候。さすがにやりすぎたとレイジが気付いた時には遅く、テーブルを平手で叩き、トレイを盛大にひっくり返して席を立ったロンが唾をとばして罵倒する。
 『暇正経!!!』
 鈍い音をたて椅子が転倒、台湾語で罵られたレイジが目をしばたたく。
 そのままこぶしを振り上げ殴ろうとして思い止まったのは、一応相手が怪我人だと自制心が働いたからか。怒りに震えるこぶしを押さえ込み、血走った目でレイジを睨みつけ、ロンが颯爽とその場を走り去る……訂正。五メートルも行かずに転倒、周囲の野次馬から情け容赦ない嘲笑を浴びる。
 片手で尻を押さえ、片手でテーブルの縁を掴んで立ち上がったロンが手近の食器をすくい力任せにこちらに投げる。
 レイジの足元で食器が跳ねて、甲高い金属音を奏でる。
 「やべ、怒らせた」
 「冷却期間を持て。間をおかずに追うのは逆効果、さらに怒らせるぞ」
 喧しい野次を背中に浴びて、足をひきずりながら食堂を去るロンにため息をつく。
 「ロン、さっきなんて言ったんだ」
 「説明したくない。空気で察しろ」
 実際、あまりに頭の悪い言葉だから僕の口から説明したくなかった。ロンの背中を見送って椅子に腰を下ろしたレイジがしょげかえる。
 まったく、性交渉を持っても進歩のない連中だとあきれる。レイジとロンが性懲りなく痴話喧嘩してる最中もサムライは冷静沈着に箸を運んでいた。
 レイジの隣に空席ができた。
 「……あー、おれ馬鹿だ」
 「自覚症状があるのは結構なことだ」
 サムライを見習って箸の動きを再開、酢豚を摘みながら言う。レイジはロンを傷付いたことに対して激しい自己嫌悪に苛まれてるらしく頭を抱え込んだまま身動きしない。レイジが落ち込むとは珍しいこともあるものだと箸を動かしがてら興味を持って眺める。
 「率直に言って、何故ロンが君に抱かれたのか理解に苦しむ。今世紀最大の謎だ。どのような思考過程を踏んで君との性交渉に至ったのか生理学的な興味すら覚える」
 「同感だ」
 サムライが頷き、レイジの首の角度が急傾斜する。ロンは啖呵を切って走り去ったまま戻ってくる気配がない。強制労働に疲れ果てて空腹だろうに、夕食を半分以上残したままだ。今頃どこでどうしてるだろうとロンの行方に思い馳せつつ惰性で箸を口に運ぶ僕の正面、頭を掻き毟って悲嘆に暮れていたレイジが突然顔を上げる。
 「?」
 レイジの視線を追って背後を振り向き、硬直。
 レイジの視線が射止めていたのはトレイを抱えて通路をさまよう一人の少年……さっき、展望台で会ったばかりの少年だ。空席をさがして通路を歩いているが見渡す限り全部先客で埋まっているらしく、途方に暮れた様子だ。
 「わお、別嬪だ」
 レイジが口笛を吹き、僕が見てる前で席を立ち、大仰に手を振る。
 「おーい新入り、ここ空いてるぜー。カモンベイベー」
 危なく手を滑らして食器を落とすところだった。
 「何で呼ぶんだ!?」 
 「なんでって、困ってたからさ」
 胸ぐらに掴みかからんばかりに語気荒く追及してもレイジは動じずに飄々としてる。ロンと喧嘩別れしたばかりだというのにその態度はなんだ、反省の色なしだ。レイジに手を振られた少年がこちらに視線を向け、自分に背中を向けたサムライに気付く。
 そして、微笑む。
 育ちの良い物腰と上品な所作が溶け合わさった優雅な歩みで少年がこちらにやってくる。少年が通りすぎたそばから近隣テーブルの囚人が口笛を吹き、熱っぽいざわめきが伝播する。
 食堂中から好奇の眼差しを浴びても少年は動じず歩みを止めない。通路の人ごみを貫いて威風堂々と歩くその姿に誰もが魅了され、目を奪われる。
 「ここ、いいかい」
 ちょうど僕とサムライの中間の位置で立ち止まり、少年が控えめに聞く。
 僕らの背後に立っているが、視線はレイジに向けている。箸を口に咥えて椅子を揺らしながらレイジは「どうぞどうぞ」と頷いた。尻軽め。
 声に反応して、サムライが顔を上げる。
 箸を持つ手が止まり、サムライの双眸が鋭くなる。
 「貢くんの友達か」
 僕とレイジを見比べていた視線が、やがて僕でとまる。トレイを卓上に置いた少年が体ごと僕に向き直り、片手をさしだす。僕に握手を求めてるらしい……が、応じる義務はない。潔癖症がある程度改善された今でも僕はできるだけ他人との接触を避ける傾向にある、初対面の人間と握手するなどとんでもない、どんな黴菌を持ってるかしれないじゃないか。
 「その手をどけろ。どんな黴菌を持ってるかわからない他人と無差別に握手する趣味はない、僕と握手したければ最低三十回手を洗浄したのち殺菌消毒……」
 そこまで言いかけて、続きを呑みこむ。
 少年がまじまじと僕の顔を眺めているのに不審を覚えたからだ。
 なんだ、人を珍しいものでも見るみたいに……不愉快だ。そんなに僕の顔が面白いか?レイジのように特別綺麗なわけでもない、サムライのように異様に眼光鋭いわけでもない、この平凡な顔が。
 確か、名前は静流と言ったか。
 眼鏡のブリッジと人さし指で押さえ、冷ややかな目つきで静流を睨みつける。静流は依然物言いたげな表情で僕の顔を隅々まで凝視している……観察している。 
 何だ、この感じは。
 何とも形容しがたい不思議な感覚だった。静流との会話は水鏡と対峙するのに似ていた。明鏡止水の四字熟語をそのまま体現したような、静かな流れという名がそのまま人の形をとったような、この場にいるのにこの場にいないかのような奇妙な掴み所なさ……

 水のような目だ。
 静かな流れ。静流。 

 そして、静流は言った。
 相対した者の心をそのまま映し出す水のように静謐な目で僕を見据えて、思いがけないことを。
 僕がいちばん言われたくないことを。
 「君、苗さんに似ているね」
 宣戦布告ともとれる第一声だった。
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