少年プリズン

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三百二十二話

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 鍵屋崎とサムライが抱き合ってる。
 「僕のサムライだ」
 「俺の直だ」
 鍵屋崎はサムライを所有格で語る。サムライもまた鍵屋崎を所有格で語る。
 お互いを所有格で呼び合う鍵屋崎とサムライの距離が接近、視線が絡み合う。
 サムライの腕に身を任せた鍵屋崎が安らかな顔で瞼を閉じる。
 鍵屋崎のこんな穏やかな顔、初めて見た。俺が知ってる鍵屋崎はいつも感情の薄い無表情か眉間に皺寄せた気難しいしかめ面で、笑顔を見せることはおろか無表情を崩すことだって滅多にないのに、サムライに抱擁された鍵屋崎は安堵に頬緩ませてあるかなしかの微笑すら湛えていた。
 瞬き一つで吹き消されてしまいそうな儚い微笑だった。
 「俺の直だ」
 ゆっくりと噛み締めるようにサムライが繰り返す。心に沁み込むように重たい言葉。
 そして、鍵屋崎の肩に腕を回す。最初は優しく加減して、徐徐に力をこめて抱きすくめる。他の誰にも鍵屋崎を渡さないと決意するかのように、他の誰にも鍵屋崎を抱かせないと決心するかのように、力強く。
 細く華奢な鍵屋崎の肩を腕に包み込み、しっかりと抱き寄せる。サムライの胸に顔を埋める恰好になった鍵屋崎は、サムライのシャツの胸を掴み、ただ黙って首をうなだれていた。
 細く華奢な肩がかすかに震えているのは、残りわずかな自制心を振り絞って嗚咽を堪えているからだろうか。人前で声をあげて泣くなどみっともない、恥ずかしい。異常にプライドの高い鍵屋崎はそう自分に言い聞かせて、サムライの胸に顔を伏せて涙を拭いていた。
 全身の関節痛も忘れ、呆けきったようにリングに立ち尽くして二人の抱擁を凝視しながら、鍵屋崎にもこんな優しい顔ができるのかと意外に思った。
 虚勢がすっかり剥げ落ちたあとに残ったのは、ひどく脆くて傷付きやすい繊細な素顔。
 特別に心を許した人間にだけ見せる素顔。
 サムライの胸に必死に縋り付く鍵屋崎の背中はあまりに孤独で痛々しくて、今まで塞き止めていた感情が堰を切って溢れ出して、鍵屋崎自身を翻弄してるみたいだった。傷付き疲れ果てぼろぼろとなった鍵屋崎を、サムライは迷うことなく迎え入れた。武士の命の木刀を惜しげもなく放り出してまで、自分に許しを乞うた鍵屋崎を選んだのだ。
 サムライの胸に身を委ねた鍵屋崎の肩に腕を回し、体を摺り寄せる。長身のサムライが鍵屋崎を抱擁すると背中を丸める恰好になる。いつもぴんと伸びた、人ごみでもすぐにわかる真っ直ぐな姿勢が、今この時ばかりは前屈みになっていた。俺にはサムライが一人の男に見えた。一振りの刀に信念を賭して戦いぬく孤高の武士じゃない、そんな偉いもんじゃない、どこにでもいるただの男に見えた。

 ああ、そうか。
 鍵屋崎の前でだけ、サムライはただの男に戻れるんだ。
 武士の虚勢を捨てて、ありのままの自分を曝け出せるんだ。
 傷付き疲れ果てぼろぼろとなったありのままの自分を曝け出して、鍵屋崎の傷を癒すことができるんだ。

 「……………恥ずかしい奴ら」
 惚気にあてられたのか、一万人の大群衆がぽかんと口を開けて凝視する前で、鍵屋崎とサムライはまだ抱き合っていた。お互いの体に腕を回して、もう二度と離れたくないといった具合に互いのぬくもりを貪っていた。あんまり長く抱き合ってるもんだからじっと見てるのがうしろめたくなった。
 別に野郎同士が抱き合ってる場面見て興奮してるわけじゃない、むらむらするわけがない。
 当たり前だ、俺はまともだ。けど、鍵屋崎とサムライは俺たちすっかり置いてけぼりにして二人の世界に没入してる。サムライには鍵屋崎しか見えてないし鍵屋崎にはサムライしか見えてない。盲目。長い長い回り道を経て漸く結ばれた二人は、一万人の大群衆にじろじろ見られてようが、安田が焦れようがお構いなしに熱い抱擁を続けてる。おい、ちょっとは周りの連中のことも考えろっての。
 ああもう、尻がむず痒い。
 「ん?」
 目のやり場に困ってそっぽを向けば、耳朶にふれる衣擦れの音。
 床に突っ伏した安田が肘を使って移動している。
 目指すは5メートル先の銃の落下地点。額に大量の汗を滲ませ、撃たれた肩を庇い、じりじりと銃の落下地点に這いずってく安田に注目する人間はいない。野次馬どもの注意はサムライと鍵屋崎が引きつけてくれてる。今ならイケる。絶好のチャンス。
 安田の応援に行こうと反射的に駆け出す。
 こうしてずっと蚊帳の外にいても埒があかない。勝手にやってろお二人さん。二人の世界を邪魔する気は毛頭ないが、状況が状況だ。ぼけっと突っ立ってラブシーン見物するよかやるべきことがあるはずだ。
 「怪我人は大人しく寝てろ、銃なら俺が取ってくる!」
 無理が祟って副所長に失血死されちゃ元も子もないと激しくかぶりを振る。
 安田は肩を撃たれて怪我してる、肘を使って遅々と這いずりながら激痛に顔をしかめてる。安田が這いずったあとに点々と落ちた血痕を飛び越えてあっというまに安田を追い越す。銃はすぐそこだ、手を伸ばせた届く距離だ。ずきずき疼く肋骨を押さえ、片手をおもいきり銃へと伸ばす。こんな物騒なもんが人目につくとこに転がってたらまた面倒なことになる。
 早いとこ安田に返さなきゃ……

 「!?」
 驚愕。眼前から銃が消失。

 何が起きたか咄嗟に理解できず、はじかれたように顔を上げた俺の目に映ったのは意外な人物。五十嵐。いつからそこにいたのか全然気付かなかった。多分、サムライがタジマを滅多打ちしてるどさくさに倒れた金網を踏んで乗り込んだんだろう。やばい。理屈じゃなくそう感じた、直感した。俺の指先が触れる寸前に強引に銃をひったくった五十嵐の目は狂気を宿して爛々と輝いていた。様子が普通じゃない、完全にイッちまってる。これが本当にあの五十嵐か、俺が知ってる五十嵐と同一人物なのかと気が動転する。
 分け隔てなく囚人に接してくれる親切な看守、東京プリズンでいちばんお人よしな看守。
 その五十嵐がなんで俺の手から拳銃をひったくった、怖い顔して銃を取り上げた?
 その銃で一体全体なにをする気なんだ。
 「五十嵐おま、」
 言葉が途切れて語尾が宙吊りになる。五十嵐が考えてることがわからずに当惑の度を深めた俺の肘が勢い良く引かれる。誰だ?後ろから肘を引かれ、足が縺れてバランスを崩す。肘に巻いた包帯がほどけてそよいで視界を過ぎる。
 「伏せろ!」
 視界にたなびく包帯の向こう側で声がする。叫んだのは鍵屋崎。ということは、俺の肘を引いたのも?振り返って確かめる暇もなく、後頭部を押さえこまれて顔を伏せられる。視界がめまぐるしく反転する。ゴン、と鈍い音とともに衝撃が下顎を突き抜ける。鍵屋崎の手に押さえ込まれて顎を強打したのだ。
 間一髪、舌を噛まなくてよかった。
 「この野郎どういうつもりだ邪魔すんな、サムライと乳繰りあってろ!」
 「心外だな乳繰りあってなどいない軽く抱擁しただけだ、それより頭を伏せておけ!」
 ひりひり疼く顎を持ち上げて罵倒すれば即座に言い返される。咄嗟に俺を庇って背中に覆い被さった鍵屋崎が真剣な面持ちで正面を凝視、つられて顔を上げた俺は衝撃のあまり言葉を失う。

 五十嵐がいた。
 そして、ヨンイルがいた。

 どこから潜りこんだのか……いや、側面の金網が開放されて誰でも出入り自由でヨンイルがいてもおかしくないわけだがこんな修羅場にひょっこり顔だすなんて飛んで火にいる夏の虫じゃねえか。道化は真性の馬鹿か?胸ぐら掴んで説教してやりたいが、鍵屋崎に押さえこまれてちゃそうもいかない。
 くそ、東京プリズンの囚人は死にたがりか?命を粗末にしやがって!
 銃を手にゆっくりと立ち上がった五十嵐は奇妙な笑みを浮かべていた。自我が崩壊していく音が聞こえそうな奈落の笑顔だった。五十嵐はおしまいだ、と耳の裏側でだれかが囁く。五十嵐は自分から破滅の道を選んでまっしぐらに突っ走って、もう引き返せないところまで来ちまったと頭の回転が鈍い俺にも漸く呑みこめてきた。
 「今日でペア戦はおしまいだ」
 「五十嵐看守、銃を渡せ」
 「ちょうどいい機会だ。俺とお前の因縁にも、今日で蹴りつけようぜ」
 「五十嵐看守、誰の許可を得て銃を所持している?それは私の銃だ、私が護身用に携帯してる銃だ。銃を紛失したのは私の落ち度だと全面的に認める。言い訳はしない、今回の不祥事についてはどんな処分も甘んじて受けるつもりだ。だが、私から奪った銃を囚人に向けたと発覚すれば……君とてただでは済まないぞ」
 必死の説得を試みる安田の肩に鮮血が滲む。背広を真っ赤に濡らして腕を染め上げる鮮血が肩に穿たれた銃創の深さを物語っている。床に突っ伏した姿勢から片肘ついて上体を起こし、焦慮に揉まれた苦悩の表情で五十嵐を振り仰ぐ。眼鏡をとると若く見えるな、なんてどうでもいい発見に驚いてる場合じゃない。
 「今ならまだ間に合う、死傷者がでてない今なら君の行動を不問に伏すことができる。銃を返せ、五十嵐。副所長命令だ」
 抑圧した声音で安田が言い、最大の切り札を発動する。だが、五十嵐は動じない。情緒不安定に揺れ動く目と口元の曖昧な微笑は、五十嵐がもはや完全に俺の手の届かないとこに行っちまったと告げていた。
 「『まだ間に合う』だって?違いますよ福所長。もう全部終わってるんですよ。五年前、リカが死んだときに」
 淡々と語りながら体ごとヨンイルに向き直り、銃口を定める。ヨンイルは逃げなかった。恐怖で足が竦んでるわけでも戦慄に顔を強張らせるわけでもなく、目に複雑な色を湛えて弾道に身を曝していた。
 ヨンイルは何故か上半身裸で、あちこちに爪で引っ掻かれた痕ができて血が滲んでいた。痛そうだった。
 刺青が彫られた上半身を外気に晒したヨンイルは、体の脇に腕をたらし、無防備に弾道に立ち竦んでいた。逃げも隠れもせず潔く無抵抗に、五十嵐が向けた銃口の前に立ち、煌煌と照明を浴びていた。
 俺にはヨンイルが全く知らない人間に見えた。ヨンイルのこんなマジな顔、初めて見た。銃口を越えて五十嵐へと注ぐ眼差しは酷く大人びて諦念の色さえ含んでいた。
 「俺の中では五年も前にとっくに終わってるんですよ」
 右腕を水平に保ち、ヨンイルに照準を定める。満場の観衆が急展開に息を呑む。暗がりに沈んだ地下停留場に走るどよめき、混沌と渦巻く不穏な気配。俺もさっぱりわけわからないが、檻の外で見物してる野次馬はもっとわけわからないはずだ。
 なんでどうして五十嵐がヨンイルに銃を向けている、平の看守が囚人に銃を向けている?野次馬どもの思惑の外で着々と進行してるのは誰もが予期しない現実、理解を超えた出来事。
 あの五十嵐が、優しくて頼りになる看守の五十嵐が、囚人に銃を向けるなんてあっちゃならない絶対に。
 腐った看守ばかりの東京プリズンでただ一人五十嵐だけは自分たちの味方だと信じてたのに、その五十嵐があろうことかヨンイルに銃をつきつけてる。
 「わけわかんねえ、意味不明だ。なんで五十嵐が銃なんか持ってんだよ、ヨンイル撃とうとしてんだよ」
 「なにかの間違いだろ?そうだよきっと、あの五十嵐が人殺せるわけねえ、虫も殺せねえお人よしなのに……悪い夢だよなきっと。だった俺、五十嵐にエロ本調達してもらったことあるのに。内緒だぜって煙草もらったことあるのに」
 「バスケの審判頼んだら二つ返事で引きうけてくれて」
 「外から来た手紙で兄貴が死んだって聞かされて俺が泣いてた時だって、ずっと一緒にいてくれたのに」
 「五十嵐が囚人に銃向けるなんて嘘だよな。悪い冗談だよな。おいだれか、頬抓ってくれよ……痛てえッ!?」 
 地下停留場に参じた囚人のあいだに波紋が広がる。動揺、当惑、驚愕。誰も皆信じられないといった放心の表情で五十嵐を仰いでいる。どよめきはどんどん大きくなる。
 「五十嵐、嘘だよなこんなのって!お前が囚人に銃向けるなんて嘘だ、お前は、お前だけはいつもいつだって俺たちの味方でいてくれるって信じてたのに!くそったれの看守ばかりの東京プリズンでお前だけは俺たち囚人の気持ちになってくれるって信じてたのに……畜生がっ!」
 「看守なんか信じるんじゃなかった、地獄に仏なんかいるはずねえのに」
 「最悪の裏切りだ。人のいいツラして俺たちに近付いて信頼勝ち取って、挙句にこれかよ。こんなしまらねえオチかよ。卑怯者、裏切り者。あんたのこと、信じてたのに。東京プリズンでたった一人、俺たちのこと人間扱いしてくれる看守だってマジで尊敬してたのによ!」
 喧々囂々浴びせられる罵声と非難。東京プリズンの囚人で五十嵐に一度も世話になったことない奴なんかいない、多かれ少なかれ五十嵐に好感もってない奴もいない。けど、五十嵐は俺たちを裏切った。現にヨンイルに銃を向けてるのがその証拠。五十嵐に失望した囚人どもが怒りに駆られて最前列に殺到、語彙の限りを尽くして口汚く罵倒する。
 「だんまり決め込んでねえでなんとか言えよ五十嵐、反論してみろよ!」
 「最初からそのつもりで、俺たち裏切るつもりで優しくしてたってのかよ!」
 「俺に煙草くれたのもエロ本くれたのもキャラメルくれたのも全部嘘だってのかよ、クソ野郎!!」
 悲痛な顔で吠えたてるガキどものうち何人かは目に涙を浮かべていた。五十嵐の裏切りに酷く傷付いて、虚勢を装う余裕もなくなったんだろう。
 五十嵐の裏切りに衝撃を受けたガキどもが癇癪を起こして金網を殴り付ける、蹴り付ける。暴動。地下停留場に配置した看守は役に立たない、囚人の勢いに流されてあっちへこっちへ右往左往するばかりだ。最悪の展開。地下停留場には現在一万人以上の大群衆がいてそれは実に東京プリズンの収容人数の九割を占めて、地下停留場で暴動が起きたらいくら無能な看守を寄せ集めたところで収拾がつかないのだ。
 鬼に金棒、看守に警棒なんて言うが看守が死に物狂いで警棒を振るったところでいったんブチギレた囚人は止められない。
 「お前なんか死んじまえ!」
 ガキがペットボトルを投げる。
 金網を軽々と越えたペットボトルが五十嵐の背中に衝突、鈍い音が鳴る。
 それを皮きりに五十嵐めがけて投げられる無数のペットボトル。地下停留場を揺るがす「死ね死ね」の大合唱とともに、何十本ものペットボトルが放物線を描いて宙を舞い、五十嵐の肩や背中や腹や足にぶつかる。
 「うわっ!?」
 頭を抱え込んで床に伏せる。視界の端を颯爽と走りぬけた人影はサムライで、床に倒れ伏した安田の前に回りこむや、頭上に落ちてきたペットボトルを一つ残らず木刀で弾き返す。
 「……面倒なことになったな。本格的に暴動が始まりそうだ」
 「冷静に言ってる場合かよ、こんなとこで暴動が起きたら最後十人や二十人の死人じゃすまないぜ!?」
 こんな時まで落ち着き払った鍵屋崎にいらつく。
 鍵屋崎にあたってもしかたないと頭じゃわかってるがむかつくんだからしょうがない。くそ、漸くペア戦が終わったのに、100人抜き達成したってのに、あとからあとから問題が持ち上がりやがる!俺だって一刻も早くレイジのとこに飛んでいきたいのを我慢して、まんじりともせずリングに伏せってるってのに……
 「鍵屋崎どういうことだよ、さっぱりわかんねーよ!なんだって五十嵐がヨンイルに銃向けてるんだ、二人のあいだに何あったんだよ!?」
 「五十嵐はヨンイルを憎んでいる。殺したいほどに」
 「ヨンイルが図書室の本私物化して勝手に持ち出したり房にためこむのに腹立てて?心狭いな、手塚好き同士仲良くやれよ!」
 鍵屋崎の腕に頭を敷かれたまま叫び返す。背中に覆い被さった鍵屋崎は、片方割れたレンズ越しに五十嵐の様子を隙なく探っていた。油断ない眼光。
 四囲から厳しく責め立てられて窮地に追い込まれた五十嵐は、それでも銃口を下ろさず、執拗にヨンイルだけを見つめていた。

 ぞっと二の腕が鳥肌立った。

 「五十嵐にはヨンイルを殺す動機がある」
 動機?なんだよそれ。五十嵐とヨンイルとを素早く見比べる。
 1メートルの距離を隔てて対峙する五十嵐とヨンイルの間には、部外者が入りこめない異常な緊迫感が立ち込めていた。殺気と言い換えてもいい。ヨンイルと五十嵐の周囲だけ重力が増してるかのように息苦しくて、おいそれと近付くこともできない。
 「五十嵐は……」
 「お前のこと実の親父みてえに思ってたのに!!」
 絶叫。檻の外、最前列に控えた囚人が大きく腕を振りかぶり、渾身の力を込めてペットボトルを投げる。あっ、と叫ぶ間もなかった。
 長大な放物線を描いて金網を飛び越えたペットボトルが、五十嵐の後頭部に激突。
 唐突に、あたりが水を打ったように静まり返る。
 全身水浸しとなった五十嵐が、廃人めいて緩慢に顔をもたげる。
 「俺だって、父親でいたかったさ。父親になりたかったさ」
 暗い穴のような目を虚空に凝らす。深い深い虚無を湛えた目。それまで口汚く五十嵐を罵倒してた連中が金縛りにあったように硬直する。
 暴動が止む。一万人の大群衆が息を詰めて凝視する中、五十嵐が疲れたようにため息をつく。
 「俺は、ずっと父親でいたかった。でも、駄目だった。リカは五年前に死んじまった。気違いどもが首謀した馬鹿げたテロに巻き込まれて殺されちまった。韓国併合三十周年を祝うパレードを見に行って、偶然あのテロに巻き込まれちまったんだよ。まだ十一歳だったのに」
 一気に老け込んだようにかぶりを振る。地下停留場に居合わせた観客全員が五十嵐の言葉に集中していた。凱も売春班の連中も、鍵屋崎もサムライも安田も俺も固唾を飲んで五十嵐の告白を聞いていた。

 いや、違う。これは……告発。
 五十嵐は、ヨンイルを告発してるのだ。

 「長かった。この五年間ずっと、死んだように生きてきた。飯食っても味がわかんなくて、テレビ見ても面白いと感じなくて、寝ても疲れがとれなくて、そんな毎日が延々と続いた。楽しいとか嬉しいとか幸せだとか、リカがいた頃はすぐそこに転がってたもんがいつのまにか手の届かないところに行っちまって、気付いたら俺はひとりきりだった。
 誰を恨んだらいいのかわかんなくて、誰に気持ちをぶつけたらいいかもわかんなくて、袋小路に迷い込んでぐるぐる同じところを回ってた。
 自分が垂れたクソのまわりを堂々巡りする犬とおなじことを五年間も続けてたんだ」
 五十嵐がふっと微笑む。
 「けど、お前に会って世界がひっくり返った。俺はリカの父親として、最後にやるべきことを見つけたんだ。リカが死んだとき、俺はなにもできなかった。馬鹿みたいに口開けてテレビの前に突っ立って、滅茶苦茶に引っ掻きまわされたパレードの惨状見てるしかなかった。でも、今なら」
 五十嵐が深呼吸、ヨンイルをひたと正視。
 「今ならできる。やれる。お前を殺してリカの父親に戻ることができる」
 「五十嵐の娘はヨンイルに殺されたんだ」
 痛ましげにヨンイルと五十嵐を見比べて鍵屋崎が囁く。
 「ヨンイルは元KIAの一員で祖父ともども爆弾作りを請け負っていた。ヨンイルが製造した爆弾は五年前、韓国併合三十周年を祝うパレードで使われて大量の死傷者をだした。その中にちょうど修学旅行に出かけてた五十嵐の娘が混じってたんだ」   
 「!んなまさか、偶然にしたって出来すぎ……」
 「だが、事実だ」
 鍵屋崎がきっぱり断言する。
 「五十嵐はヨンイルを憎んでいる。ヨンイルは娘の仇、パレードの最中に爆弾をばらまいて祝祭を惨劇に塗り替えたKIAの元メンバーだ。間接的に娘を殺した犯人だ。五十嵐がヨンイルを殺す動機は単純明解な一語に尽きる………『復讐』だ」
 衝撃の真相を知らされ、会場がざわつく。五十嵐とヨンイルの因縁が開示されて誰も彼もが衝撃を受けていた。安田もこの事実は知らなかったのだろう、サムライに肩を貸されて立ち上がりながら愕然と呟く。
 「本当か、五十嵐看守。君の娘が五年前のテロの犠牲者というのは……」
 「本当ですよ。副所長もご存じなかったんですか?」
 サムライに肩を貸されて立ち上がった安田を一瞥、自嘲の笑みを覗かせる。
 「……無理もねえか。俺が東京プリズンに左遷されたのは、リカが死んでからやけになって荒んだ生活してたから。五年前はまさか俺が東京プリズンに来る羽目になるなんて思ってもみなかった。
 俺が東京プリズンに左遷されたのは皮肉な偶然、ムショで不祥事起こした看守が厄介払いされるとこって言ったらここしかねえ。同僚殴り付けて左遷された平看守の資料に洗いざらい目を通すような物好きいるはずねえ。副所長のあんただって例外じゃねえ、まさか俺とこいつの間にこんな因縁あるなんざ思いもしなかったはずだ。
 誰も彼もが見落として気付きもしなかった盲点って奴さ。ここの管理体制は杜撰だから、往々にしてそういうことがありえる。世間様じゃあっちゃならねえことが悉くありえる、それがここ東京プリズンだ!」
 「……面目ない、すべて私の落ち度だ。責任は私がとる」
 サムライの肩に凭れ掛かり、殊勝に顔を伏せる安田。
 「しかし、責められるべきは私であって彼ではない。ヨンイルは確かに過去KIAに身を置いて爆弾を作っていた、ヨンイルの爆弾で多くの犠牲者がでたのは事実。だがそれは不可抗力だった、ヨンイルは何も知らず、深く考えずに爆弾を作っていたんだ。物心ついた頃からKIAの監視下に置かれて、爆弾作りの師たる祖父の影響もあって……」
 「黙れ!!」
 それ以上聞きたくないと五十嵐が激しくかぶりを振る。 
 「『何も知らなかった』?そんな繰り言は聞き飽きたぜ。何も知らなけりゃ罪にならねえってのか、人を殺しても悪くねえってのか。はっ、万能の言い訳だな」
 銃を構えた五十嵐が大股にヨンイルに歩み寄り、会場に緊張が走る。反射的に駆け出しかけた安田をサムライが引き止める。賢明な判断だ。肩に怪我した安田が止めに入ったところで五十嵐に撃たれて即死するのがオチだ。
 「五十嵐のヤツ、マジでヨンイルを撃つつもりか?一万人がいる地下停留場で、リングの上でずどんと殺るつもりか。自分の手で看守生命断ち切ってヨンイルに復讐するつもりかよ」
 五十嵐を止めなきゃと気ばかり焦って体が動かない。いや、体が動かないのは単純に上に鍵屋崎が乗っかってるせいだ。くそ、重いっつの!じたばた暴れる俺を背中に乗って押さえこみ、鍵屋崎が説明する。
 「目を見てわからないのか?五十嵐は本気だ。本気でヨンイルに復讐するつもり、娘の仇を討つつもりだ。さっき裏通路で聞こえた銃声とリング上で発砲した回数を合わせて……残りの弾丸はあと三発。1メートル以内の至近距離で外れる確率は0.1%以下だ。ヨンイルは確実に死ぬ」
 死。俺が手も足もでず見てる前でヨンイルが死ぬ、五十嵐に撃たれて死んじまう?
 頭からさっと血の気が引く。
 ヨンイル。なれなれしくて図々しいヤツ。あけっぴろげな笑顔に似合いのやかましい笑い声。入院中で退屈してた俺のもとに大量の漫画を持ち込んで長時間居座って……でも、あれはあいつなりに気を利かしてくれたからで。
 五十嵐。凱の子分どもにさんざん小突かれてぼろぼろになって、とぼとぼ歩いてた俺に声かけて、麻雀牌を恵んでくれた。いつもひとりぼっちでいた俺のこと心配して何くれと良くしてくれた。
 五十嵐がヨンイルを殺すなんて、嫌だ。
 絶対に嫌だ。
 「くそっ……どうにかなんねえのかよ、五十嵐から銃取り返すことできねえのかよ!?俺はまた何もできず見てるしかないのかよ、レイジの試合の時みたいにただ黙って見てるしかねえのかよ!」
 自分の無力が歯痒い。悔しい。鍵屋崎に押さえ込まれた俺が指一本意思通りに動かせず見守る中、五十嵐とヨンイルの距離は着実に狭まっていく。
 一歩、また一歩と五十嵐が進むごとに緊張が高まり張り詰めた静けさがいや増す。
 俺の耳に届くのは荒い息遣いと衣擦れの音、規則的な靴音だけ。サムライに抱かれた安田はひどく困憊した様子で、顔色は真っ青で、早く処置しなきゃ本格的にやばそうだった。安田を担いだサムライは、いつでも五十嵐にとびかかれるよう隙なく木刀を構えていた。俺の上にのしかかった鍵屋崎は非常な集中力でもって五十嵐を探っていた。
 靴音が止む。 
 とうとう五十嵐が立ちどまる。
 「服を脱げ」
 「は?」
 五十嵐が発した命令に耳を疑う。だってヨンイルは、既に上半身裸になってるじゃないか。この上何を脱げと……五十嵐の言動を不審がりつつ視線を下ろし、硬直する。ヨンイルも同じことに思い至ったんだろう、驚きに目を剥いて五十嵐を見上げる。 
 その胸を銃口で小突き、重ねて命じる。
 「全裸になれ」
 まさか。
 一万人の群集が熱っぽく見つめる前で、ヨンイルに全裸になれってのか?
 上も下も脱いで素っ裸になれってのか?
 ヨンイルが躊躇する。当たり前だ、一万人の群集が息を詰めて凝視する中で素っ裸になれと言われたら抵抗を覚えるに決まってる。
 「……アホらしい。そんなに裸見たいなら自分で脱がせばええやん、なんで俺が自分から恥かきにいかなあかんのや」
 無理難題を押し付ける五十嵐への反抗心がもたげて、わずかに顔を赤らめてヨンイルが吠える。
 「撃たれたいか?命令に従え」
 「嫌じゃボケ」
 「口が減らねえな」
 噛みつくように返すヨンイルに五十嵐が苦笑、きょろきょろと視線をさまよわせる。五十嵐の視線がヨンイルから逸れてリングの隅に落ちる。つられてそっちを向いた俺の目にとびこんできたのは……
 ブラックジャックの単行本。
 「しまった。回収し忘れていた」
 リングに放置された単行本は鍵屋崎が持参したものだった。目に見えて顔色の変わったヨンイルから単行本へと銃口を転じ、五十嵐が低く言う。
 「命より大事なブラックジャックに穴が開いてもいいのかよ」
 「ブラックジャックを人質にとるとは卑怯な!」
 「待て、お前本気で言ってんのか?あとアレ人質じゃなくて本質だろ!?」
 くそっ、つまんねえこと言っちまった。気色ばんだ鍵屋崎の視線の先、単行本に銃を向けた五十嵐が、ヨンイルの表情を横目で探りながら引き金に指をかける。
 究極の二択の葛藤に揺れ動き、苦悩を深めるヨンイルを挑発。
 「どうした?さっき言ったよな、お前にとって大事なもんは漫画だけだって。なら漫画のために命賭けて体張ってみろよ、さっきの言葉が嘘じゃねえって一万人の群衆が見てる前で証明してみろよ。それともアレは嘘か、漫画のために命張れるってありゃあその場凌ぎのハッタリかよ。西の道化が漫画に捧げる情熱とやらはその程度のモンだったのか。手塚治虫もがっかりだな」
 「なんやとこら」
 神と崇める手塚治虫の名前をだされ、ヨンイルの目に火がつく。
 「だってそうだろ。漫画が生き甲斐だって豪語したくせに、ここイチバンで漫画の為に体張れないなら嘘じゃねえか。お前本当は漫画なんかどうでもいいんだろ、ただの暇潰しの道具くらいにしか思ってねんだろ、ブラックジャックのことなんか尊敬してねえんだろ。お前が漫画に賭ける情熱なんざ所詮その程度のもんさ、爆弾作りから漫画に鞍替えしたところでお前は……」
 「道化を怒らせよったな」
 何かに憑かれたように饒舌にまくしたてる五十嵐の前で、ヨンイルがズボンに手をかける。檻の外の野次馬がぐっと身を乗り出す。
 ズボンに手をかけて深呼吸を二回、ヨンイルがゆっくり顔を上げる。
 「ブラックジャックのためなら火の中水の中、素っ裸にだってなったるわ。それが俺の生き方じゃ」
 ヨンイルは一気にズボンを脱ぎ去った。下着も一緒に。
 「!!」
 ヨンイルが投げ捨てたズボンとトランクスが顔に落ちかかって、瞬間真っ暗闇に包まれた。どよめき。視界に被さったトランクスを振り落とした俺は、ヨンイルの裸を見て絶句する。

 龍がいた。
  
 燦燦と降り注ぐ照明に鱗一枚一枚が毒々しく照り映える、一頭の龍。
 下肢を螺旋状に絞め上げて腰に巻きついて、引き締まった腹筋に蛇腹をのたうたせて、脇腹から肩へと上昇する龍。
 ヨンイルの体に彫られた刺青の全貌が暴かれた。天からの光を浴びて艶々と輝く鱗一枚一枚が瘴気を噴いてるかのような、それ自体が人知を超えた神通力を宿してるかのような、獰猛なまでの生命力と躍動感に満ちた刺青だった。
 健康的に日焼けした背中には、あぎとを開いた龍の顔が位置していた。
 地下停留場に居合わせた全員がヨンイルの刺青に目を奪われていた。健康的に日焼けした肌と引き締まった体を扇情的に引き立たせる刺青に忘我の境地で見惚れていた。
 素っ裸の股間を隠すでもなく体の脇に腕をたらし、毅然と顎を引き、檻の外を睥睨するヨンイル。
 「さあ、拝め。有り難う目に焼き付けろ。こいつが俺の体に棲んどる龍、道化の身の内に宿る人食い龍や」
 視線が一巡して五十嵐に戻ってくる。五十嵐が無表情に銃口を掲げる。
 「ずっと会いたかったぜ、伊 龍一」
 「おおきに」
 ヨンイルが寂しげに笑う。過去に決別した自分と巡り会ったような、諦念を含んだ笑顔だった。
 五十嵐はヨンイルではなく、ヨンイルを束縛した龍に挨拶していた。かつて自分の娘を含む二千人を食い殺した残忍な人食い龍を、語り尽くせぬ想いを込めて眺めていた。
 「お前と会えてよかったよ。そう思わなきゃ、やってらんねえ」
 ヨンイルの眉間に銃口を埋めて五十嵐が独白する。
 「……俺を殺せば気が済むんやな」
 ヨンイルがため息をつく。いつも能天気なヨンイルらしくなくしんみりした口調だった。額にかけたゴーグルに手をやり、撫でる。俯き加減に黙りこんだヨンイルをひややかに眺め、五十嵐は続ける。
 「ああ、そうだよ。お前を殺せば全部終わる、俺の五年間が終わる。リカの弔いに捧げた五年間がやっと終わるんだ。俺は今日ここに、かつて二千人を食い殺した龍を弔いに来たんだよ」
 なんとかしなきゃ。五十嵐が引き金を引くまであと十秒もない。はやいとこ鍵屋崎の下から抜け出ようと半狂乱でもがく俺の視線の先、五十嵐とヨンイルが互いの目をまっすぐ見つめて言葉を交わす。

 『アンニョンヒ カセヨ』
 『アンニョンヒ ケセヨ』

 韓国語はわからないが、雰囲気で直感した。これは別れの挨拶、逝く人へと告げる最期の言葉。   
 ヨンイルが瞼を閉じる。何もかも全部受け入れた穏やかな顔で。 
 ゴーグルに触れた手を力なく体の脇におろし、ふと思い出したように薄目を開ける。
 「ああ、そうや。最期に一言。十年前に絶版になった手塚治虫の『ガムガムパンチ』読みたかっ、」
 
 最後まで言わせず銃声が轟き、ヨンイルが血を噴いて倒れた。
[newpage]
 「ヨンイル!!」
 ヨンイルが吹っ飛ぶ。たった一瞬の出来事がスローモーションのように脳裏に投影される。
 体感時間はひどく間延びしていた。実際にはヨンイルが吹っ飛ばされて床に倒れるまで三秒にも足らなかった。
 両腕を虚空に差し伸べて後ろ向きに倒れゆくヨンイルの視界に最後に何が映ったのかはわからない。
 ロンの頭を押さえこんでリングに伏せった僕の眼前、手を伸ばせば届く距離でヨンイルは最初から死を覚悟していた。
 遅かった。間に合わなかった。
 「認めないぞこんな展開!」
 ヨンイルの死に際して僕が何もできなかったなんて嘘だ。僕は天才なのに、IQ180の優秀な頭脳を持つ天才なのに、むざむざヨンイルを見殺しにしてしまった。
 ヨンイル。西の道化、図書室のヌシ。
 漫画を読んだことない僕に手塚治虫の素晴らしさを教えてくれた、半ば強引にブラックジャックを貸してくれた。図々しくてなれなれしくて不愉快な男。そうだ、僕はヨンイルのことが嫌いだった。彼のことを常々不愉快に思っていた。饒舌でバイタリティに溢れて、僕のことを事もあろうにちゃん付けして、たかが低脳の分際で天才を愚弄するにも程があると不満を抱いていた。
 だが僕は、いつのまにか彼に親近感を抱き始めていて。
 『ブラックジャックは最高やろ直ちゃん。手塚治虫晩年の傑作や。名エピソードには事欠かないけど俺的ベスト3挙げるなら「コルシカの兄弟」と「勘当息子」と「サギ師志願」で……』
 ヨンイル。
 『ええ加減素直になったらどや直ちゃん。漫画おもろいやろ?新しい世界が拓けたろ。世の中にはまだまだぎょうさんおもろい漫画が埋もれとるんや。俺の野望はな、古今東西の漫画ぜーんぶ読み尽くすことなんや。当面の目標は手塚治虫の著作全冊制覇!東京プリズンに来てから毎日たのしいで、嘘ちゃう、ホンマや。暇な一日漫画読み放題で幸せ噛みしめとる。いつか俺が死ぬときは本に埋もれて大往生したいなあ……』
 「笑わせる」
 ヨンイルが死ぬわけない。こんな現実は認めない。僕はヨンイルの死を全否定する、たとえどれほど可能性が低くても望みが薄くてもヨンイルの生存を祈る。
 弾かれたように跳ね起き、床を蹴る。
 「「鍵屋崎!?」」
 全速力で駆け出した僕をロンとサムライが同時に呼ぶ。だが、止まらない。僕にはヨンイルしか見えていなかった、まわりの光景など見えていなかった。両手に銃を構えて放心した五十嵐の足元、仰向けに寝そべったヨンイルの傍らに屈みこむ。
 「起きろ、道化!」
 ヨンイルは瞼を閉じていた。顔には血飛沫が散っていた。耳元で呼びかけても反応はなく、指一本動かない。額にかけたゴーグルにも血痕が付着していた。死。即死。そんなまさか。そんなことがあってたまるか。ヨンイルの頭を抱えて膝に乗せ、青褪めた顔を覗きこむ。ヨンイルの四肢はだらりと弛緩して無造作に投げ出されて、揃えた膝に頭を抱え上げても瞼はぴくりとも動かなくて。
 「ヨンイル、君は以前言ったな?君の野望は本に埋もれて死ぬことだと、大往生を遂げることだと!ならこんな所で死ぬな、ここは図書室じゃないぞ、君の死に場所じゃないぞ!野望はどうしたんだ、世の中に溢れる古今東西の漫画を読み尽くすという壮大に馬鹿げた野望を放棄していいのか!?」
 「そんな、ヨンイルさんが……畜生、こんなことって!まだ俺ヨンイルさんに恩返ししてないのに!」
 ヨンイル突然の死に西の囚人がどよめく。中には号泣する者もいる。ワンフーが力なく金網に凭れてくずおれる。ヨンイルの死が与えた衝撃で気力が折れた囚人が膝から崩れ落ちる。
 ヨンイルは人望あるトップだった、面倒見がよい性格から西の囚人皆に慕われていた。東西南北のトップでは最も人望と信頼を勝ち得ていた。レイジよりもサーシャよりもホセよりも自棟の囚人に慕われていた親しみやすいトップだった。
 「俺、ヨンイルさんに尻拭いさせてばっかで、何ひとつ返すことできなくて……ヨンイルさんは言ってくれたんだ、俺が出来心で安田の銃スッて、それがバレて落ちこんでるときに背中叩いて励ましてくれたんだ。
 『過ぎたことくよくよ気にすんな。お前の気持ちはわからんでもない、俺かてとおりすがりの古本屋に82年初版ガムガムパンチがおいてあって、手持ちの金足りんかったらスッてまうわ』って……ヨンイルさんらしい微妙な慰め方だけどそれでも嬉しかったんだよ、凛々にも愛想尽かされたどうしようもない俺のこと見捨てないでくれて最高に嬉しかったんだよ!!」
 ワンフーが金網を殴る。最前列に詰めかけた西の囚人が金網にしがみ付き、口々にヨンイルに訴えかける。

 「ヨンイルさん!」
 「ヨンイルさん!」
 「しっかりしてください、こんなオチなしっスよ、ヨンイルさんいつも言ってたじゃないっスか死にオチと夢オチはご法度だって」
 「読者に希望と夢を与えるオチじゃなきゃ俺は認めんて豪語してたじゃないすか」
 「復活してくださいよ」
 「主人公は不死身ってのが漫画のお約束でしょう」
 「一見死んだように見えて実は死んだふりしてるとか、よくある展開じゃないすか」……

 「聞こえるかヨンイル。こんな展開、読者は望んでないぞ」
 声が震える。僕に膝枕されたヨンイルは瞼を開けようともしない。
 ヨンイルは死んだ。
 もう、手遅れだ。
 「あれが、あんなのが遺言か?他にもっと言うことはないのか。君は最期の最後の瞬間まで手塚に未練を残して、自棟の人間のことや僕のことは何も考えてなかったというのか。遺される人間の心情を考慮しなかったというのか?
 なんて配慮の足りない、デリカシーに欠けた人間なんだ。社会不適合者の典型症例だな。現実と漫画を混同するのは君の悪い癖だ。君にとって漫画は現実逃避の手段だった、君は架空の世界に没入することで過去に犯して罪から目を背けた」
 頼む起きてくれヨンイル。
 ヨンイルの肩に手をかけ、最初は弱く、次第に激しく揺り動かす。自問自答は虚しい。君の声が聞けないと寂しい。図書室に君がいないと物足りない。僕はまた君と漫画の話がしたい、手塚治虫について討論したい。
 胸が熱くなる。手が震える。
 ヨンイルの肩を揺さぶり、懸命に呼びかける。
 「また逃げるのか君は?それで罪を償ったつもりか、二千人を殺した罪を龍に着せて自分だけ逃れたつもりか。なんて卑劣な人間なんだ!僕は認めない、死と引き換えた贖罪など欺瞞だ、ただの自己陶酔の自己満足だ!いいかよく聞けヨンイル、君は過去爆弾で二千人を殺した大量殺戮犯だ。
 僕は綺麗事が嫌いだから率直に言う、この世には確かに死んだほうがいい人間がいる、死んだほうが無害な人間が確実に存在する。
 それはおそらく僕で、おそらく君だ。過去二千人を殺した君も、IQ180という恵まれた頭脳を持ちながら両親を殺害した僕も、その他大勢の幸福を望むなら死んだほうがマシな人間には違いないんだ」
 そうだ、僕は死んだほうがいい人間だ。
 恵も僕の死を願っている、僕の死を望んでいる。
 だが僕は、それでも生きていたい。たとえ恵に憎まれても、恵に死ねと言われても、生への執着を捨てきれない。
 死にたくない。死ぬのは怖い。死は未曾有の虚無だ。理解を拒む虚無だ。
 自我が分解される圧倒的な恐怖、想像すら及ばない未知の恐怖。
 いや、違う。僕が死を恐れるのはそんな漠然とした理由だけじゃない、もっと具体的な理由がある。
 「聞け、ヨンイル。僕には友人がいる、仲間がいる。サムライがいてレイジがいてロンがいる。なるほどここは確かに地獄だ。けど、地獄にだって救いはある。一握りの希望がある。僕はそれを信じる!」
 だから目を開けろ。息を吹き返せ。
 ヨンイルの頭をかき抱き、胸に埋める。
 僕は神を信じないが、ヨンイルが心酔する漫画の神なら信じてもいい。

 「手塚治虫の著作を全冊制覇せず逝くなんて、道化の名が廃るぞ!!」

 ブラックジャックを庇って死ぬなんて、ヨンイルらしい死に方かもしれない。道化に似合いの最期、あっけない幕切れ。だが僕はまだヨンイルに死んでほしくない、ヨンイルを失いたくない。僕はヨンイルに親近感を抱き始めたばかりで、これからもっと彼と語り合いたいことがあって……
 ヨンイル。何故死んだ。何故こんなことになった。
 「!………っ」  
 膝に乗せたヨンイルの頭を抱きしめる。ヨンイルの死に顔は眠ってるように安らかだった。いつ瞼を開けてもおかしくないほどに……
 「…………う、」
 「!」
 懐でうめき声がした。驚愕、はっと顔を上げる。僕の腕に抱かれたヨンイルが緩慢に瞼を開ける。芒洋と薄目を開けたヨンイルの眉間を一筋血が伝う。ヨンイルの鼻梁に沿って顎先から滴り落ちた血……
 奇跡が起きた。ヨンイルはまだ死んでいなかった。鼻腔に手を翳して呼吸の有無を確認、シャツに手をおけば胸郭が浅く上下していた。生命反応は微弱だが、ヨンイルはまだ息があった。 
 そして、いくらか冷静さを取り戻した僕は気付いた。
 額のゴーグルに弾痕が穿たれて亀裂が入っていた。ヨンイルの眉間から流れ出した血は、着弾の衝撃で飛び散ったゴーグルの破片が額に刺さったものだった。ヨンイルの頭を膝に置いてゴーグルを毟り取れば、眉間を貫通して一面に血と脳漿を撒き散らすはずだった銃弾は、額に浅くめりこんで薄皮を裂いただけだった。
 肉眼では捉えられなかったが、一瞬、銃口がブレたのだ。それに加えてゴーグルが防壁となってヨンイルは即死を免れた。凄まじい強運……いや、違う。これは偶然などではない。
 肉眼では捉えられなかったが、一瞬、銃口がブレたのだ。
 「くそっ、くそおっ」
 今にも泣きそうに惨めな顔で、五十嵐が銃を構えている。失神したヨンイルにまっすぐ銃口を向け、震える指で引き金を掻いている。
 指で引き金を弾く音が虚しく響く。
 この場の誰より五十嵐自身が動揺していた。明確な殺意を込めて引き金を引いたはずが、ほんの一瞬の躊躇が指を鈍らせて銃口がずれたのだ。 
 「なんでだよ、なんで外れるんだよ、こんな大事な時に!漸く五年越しの復讐が果たせるってのに、リカの仇をとれるって肝心な時になんで指が言うこと聞かねえんだよ畜生!?」
 目元を神経質に痙攣させながら五十嵐が吠える。口汚く悪態を吐いてやり場のない怒りをぶちまける五十嵐の姿はどこまでも惨めで滑稽で同情を誘った。引き金から指が滑った事実を認めたくないばかりに、失神したヨンイルに銃口を向けて喚き散らす五十嵐に満場の注目が集まる。
 畏怖、当惑、敬遠……つい先日まで五十嵐に無邪気に懐いていた囚人が今はよそよそしく距離をとり、正視に耐えない醜態を晒す五十嵐を遠巻きに包囲している。五十嵐と囚人の間には不可視の壁が出来ていた。
 嫌悪に顔を強張らせ、畏怖の色を目に宿した囚人たちを睥睨し、五十嵐が絶叫する。

 「なんで……なんでそんな目で俺を見るんだよ、畜生が、どいつもこいつも畜生めが!俺は五年間死んだように生きてきたんだ、リカがいなくなってから何もかもうまくいかなくなって、何をする意欲もなくなって……俺の人生はこいつに台無しにされたんだ、俺たち家族はこいつに滅茶苦茶にされたんだ!
 こいつが遊び半分の手慰みに作った爆弾のせいでリカは細切れの肉片になった、かき集めるのも大変な肉片になって路上に散らばった!
 こいつは人殺しだ、くそったれだ、こいつが生きてるだけで俺は苦しいんだ、憎しみで窒息しそうなんだ!リカを殺したくせに不幸にしたくせになんだってお前はまだ生きてるんだヨンイル、図々しく生き長らえてやがるんだ、そんなこと誰も望んでねえのによ!?
 そうだ、お前が肉片になりゃあよかったんだ、自分が作った爆弾で自爆すりゃあよかったんだ、そうすりゃ因果応報の自業自得だって無理矢理にでも納得することができたのに……リカのいない人生になんとか折り合いつけて生きてくことができたのに!!」

 五十嵐は泣いていた。
 心の底に長年かけて蓄積された怒り哀しみ憎しみ、それら全部が涙に溶けて澱のように流れ出した。目尻から零れた涙が滂沱と頬を濡らして、点々と床に沁みた。
 右手で銃を構え、左手でそっと胸に触れる。 
 看守服の胸ポケットにしまってあるのは……亡き娘の写真を挟んだ免許証入れ。いつだったか、照れ臭げに笑いながら娘の写真を見せてくれた。「カミさんに似て美人なんだ」とまんざらでもなく惚気ながら、色褪せた写真を見せてくれた。ほんの数ヶ月前のことがやけに遠く懐かしく思い起こされる。
 あれから僕は変わってしまった。五十嵐も変わってしまった。どうしようもなく変わってしまった。

 もう、取り返しがつかないのか?

 『ああ。かわいいだろ、カミさん似だ』
 嬉しそうに。
 『「生きていれば」お前と同じ位だ」』
 寂しそうに。
 僕は、五十嵐を裁けない。五十嵐の行動を非難できない。五十嵐にはヨンイルを殺す動機がある、ヨンイルは殺されても仕方のない人間だ。僕だって恵が殺されたらどんな手を使っても犯人に復讐する、恵の無念と苦痛を犯人に味あわせて生への執着に足掻く姿を眺めながら徹底的に嬲り殺してやる。

 五十嵐と五十嵐の娘の人生を滅茶苦茶に破壊して。
 二千人の人生を滅茶苦茶に破壊して。

 ヨンイルは、殺されても仕方がない。
 人を殺したものは、いつか人に殺されても仕方がない。
 胸に手をやったまま、五十嵐が瞼を閉じる。手のひらに感じる心臓の鼓動とぬくもり。五十嵐の中で今もたしかに生き続ける娘の息吹。
 「次は外さねえ。これで最後だ」
 再び銃口を掲げ、呼吸を整える。
 おしまいだ。手足の先から絶望が沁みてくる。五十嵐の目は救い難い悲哀を帯びて翳っていた。これからヨンイルを殺そうというのにまるで自分のほうが痛みを感じてるような、ヨンイルを射殺することで自分の心をも撃ち抜こうとしてるかのような、悲愴な決意を映した顔だった。
 ただただ、痛々しい姿だった。
 「どけ、鍵屋崎。そんな奴を庇って死ぬつもりか?娑婆に妹がいるんだろう。生きてここを出たいだろう。なら、そこをどけ。道化が脳漿ぶちまける瞬間を大人しく見物してろ。ヨンイルが死ぬとこ見たくなけりゃほんのちょっとだけ目を閉じてりゃいい。三秒もかからねえさ」
 僕は、どうする?銃口で脅されて、五十嵐の命令通り素直に場所を空ける?
 ヨンイルの頭を胸に抱き、焦燥に焼かれて目を閉じる。
 五十嵐。僕に手紙を届けてくれた。僕がいちばん苦しくて辛い時に希望を運んでくれた。僕が今ここに在るのは五十嵐がいたからだ、僕は五十嵐に救われたのだ。
 その五十嵐が、ヨンイルを殺したいという。
 ヨンイルを殺して娘の仇をとりたいという。
 「…………」
 いいじゃないか。五十嵐が殺したいと言うならそうすればいい。
 五十嵐の復讐は正当なものだ。ヨンイルが作った爆弾でかつて二千人の人間が殺された。ただパレードを見にきただけの市民が大規模なテロの巻き添えで殺された。こんな奴、生かしておく意味などない。ヨンイルは過去二千人を殺した大量殺戮犯で、倫理観の欠落した犯罪者で……
 そうだ。ヨンイルこそ本当の意味で、死んだほうがマシな人間だ。
 ヨンイルが死ねば五十嵐が救われる。五十嵐は僕の恩人だ。ヨンイルを殺して五十嵐が救われるなら、それでいいじゃないか。なにを迷うことがある、ためらうことがある、鍵屋崎直?ヨンイルは僕の友人でもなんでもない、東と西に分かれて敵対する立場の人間じゃないか。 
 瞼を開け、ヨンイルの寝顔を覗きこむ。安らかとさえ表現してもいいだろう寝顔。 
 
 かつて二千人を殺しておきながら、僕の膝で呑気に寝てるヨンイルなど死ねばいい。
 死んだほうがいい。
 それで五十嵐が救われるならば、それはいいことなのだ。

 『直ちゃんは図書室のヌシのダチで、西の道化の敵。 
 今の俺は、道化や』 
 いいことなのだ。  
 『さあ拝め。有り難う目に焼き付けろ。こいつが俺の体に棲んどる龍、道化の身の内に宿る人食い龍や』
 いいことのはずなんだ。
 『おおきに』
 いいこと……

 「………はずが、ない」
 いいことの、はずがない。
 「…………なんだと」
 五十嵐がうろんげに眉をひそめる。気色ばんだ問いに顔を上げ、五十嵐を正視。
 「僕はどかない。ここをどくわけにいかない。僕がどいたら、貴方は確実にヨンイルを殺す。僕はヨンイルの死を望んでない。彼に生きて欲しいと願っている。だから命令に従うわけにはいかない、絶対に」
 命令を拒否した僕の眼前、五十嵐の顔に怒気が滾る。
 「―っ、お前も殺してやる!!!」
 怒りに駆られてまわりの状況が見えなくなった五十嵐が咆哮、力一杯腕を振り上げる。撃たれる。そう直感し、ヨンイルの頭を抱いて目を閉じる。
 サムライ。ロン。レイジ。安田。恵。脳裏を過ぎる複数の顔…

 「鍵屋崎!!!」

 悲鳴じみた絶叫が耳を貫く。そんなに叫んで喉が嗄れないか?誰かがこちらに駆けてくる。誰だ?一人じゃない。二人、三人……
 「………お、まえらは、なんなんだよ」
 うろたえきった五十嵐の声が鼓膜を頼りなく叩く。用心深く薄目を開ける。ヨンイルを胸に庇った僕の右側にサムライが、左側にロンが、背後に安田がいた。サムライとロンは床に片膝つき、両側から僕を支えていた。重傷の安田は荒い息を零しつつ、僕が倒れないよう肩を掴んでくれた。

 ヨンイルを守りたいのは、僕一人じゃない。

 サムライも、ロンも、安田も。怪我でぼろぼろで、体力も気力も尽きて果てそうなのに。二本の足で立てるのが奇跡に近い体調なのに、僕とヨンイルを庇うように弾道に身を曝している。
 強い意志を双眸に宿した、真剣な顔で。
 「なんなんだよ…………なんなんだよおっ!!お前らみんな死にたがりかよ、どうしてしゃしゃりでてくんだよ、銃が怖くねえのかよ!どうしてこんなやつのためにそこまでするんだ、ヨンイルなんか死んだっていいじゃないか、お前らが命捨てて盾になる意味ねえじゃねえか!」
 五十嵐が身を灼かれて悲鳴をあげる。僕らの行動が理解できないといった戦慄の表情。安田の手に重ねて僕の右肩に手をおいたサムライが、今一度自らと向き合うように目を閉じる。 
 再び瞼を上げた時、サムライの目には強靭な意志と崇高な矜持が宿っていた。
 「俺は直を守る。直が守りたい人間も守る。ヨンイルが死ねば直が泣く。俺は直が泣くのを望まない、これ以上直が嘆き哀しむ姿を見たくない」
 眼光鋭く、まっすぐに五十嵐を射抜くサムライの双眸に一片たりとも迷いはなかった。サムライの眼光に気圧された五十嵐が、ロンへと矛先を転じる。
 「ヨンイルはレイジのダチだ。ヨンイルがくたばれば、レイジが哀しむ」
 僕の左肩に縋り、ロンが微笑む。
 「……それに、ヨンイルは俺に漫画をもってきてくれたんだ。入院中の俺が退屈してると思って、足の踏み場もねえくらい沢山の漫画を土産にさ。馬鹿だよな、こいつ。死ぬほど漫画が大好きで、手塚治虫が大好きで……そうだ、前にこんなことがあったんだ。俺が明日のジョー夢中で読み耽ってたら、近くにいたコイツがネタバレして、力石とジョーの対決の行方とかジョーの最期とか全部ぶちまけちまって。
 マジで腹立ったよ、あの時は。
 とんでもねえよ、コイツ。先のたのしみ奪いやがって畜生、漫画好きの風上にもおけねえって……けどさ。やっぱり、こいつがいなくなるの嫌だ。寂しい。図書室にコイツの姿がないと、なんだか落ち着かねえんだ。コイツの笑い声が聞こえないと物足りねーんだ。静かになって、かえっていいはずなのにな。おかしいよな」
 折れた肋骨が痛むのか、苦しげに顔をしかめながら、それでも身を乗り出してロンが言う。言い残すことを恐れるように、五十嵐に必死に訴える。
 「俺さ、結構コイツのこと好きなんだ。だから、殺さないでくれよ」
 一つ言葉を絞りだすのにも胸が軋んで激痛に襲われて、僕の肩に凭れて呼吸を整えて、それでも続ける。
 「ヨンイル死んだら、寂しいよ。すっげえ寂しいよ」
 「…………っ、」
 追い詰められた五十嵐が助けを乞うように安田に視線を投げる。  
 「……私は、なにも偉そうなことを言えない。今回の不祥事はすべて私の責任だ。私の不注意で銃が紛失して、こんなことになった。私は君を説得する言葉すら持たない、既に副所長の資格を失くした人間だ。東京少年刑務所に本来いるべきでない人間だ」
 片手で肩を押さえた安田が、複雑な色を湛えた目で五十嵐を見る。
 「……正直、君のしてることが間違っていると断罪できない。テロの巻き添えで子供を亡くした父親の心情を十分に理解してるとは言えない。でも、おそらく。これは仮定だが、私が君の立場でも同じ事をする。不条理な理由で子供を奪われたら、目的の為なら手段を問わずに犯人に復讐したいと思う」
 激しい葛藤に揺れ動きながら、安田が何故か僕を見る。
 いつもきっちり撫で付けたオールバックが乱れ、憔悴の色濃い顔に落ちかかる。一房額にたれた前髪をもはやかきあげる気力もなく、苦渋に満ちて吐き捨てる。
 「……子供には、幸せになってほしかったのに」
 「なら!!あんたならわかるだろう俺の気持ちが、俺の身になって考えることができるあんたなら引き金を引かせてくれるだろう!?俺はずっとヨンイルを殺したくて殺したくてたまらなかった、リカの仇をとりたくてしかたなかったんだよ!リカを不幸にした代償を払わせたくて、リカの父親として最後に誇れることをしたくて」
 「これが誇れることか!?」
 安田が激昂する。
 鞭打つように叱責された五十嵐が慄然と立ち竦む。
 「人殺しが誇れることか、五十嵐看守?君は本当にそう思っているのか。君を父親のように慕う囚人の信頼を裏切り、私怨で銃をとることが誇れると?君がなりたかったのは、そんな父親か。正義を語って騙って、殺人を正当化するのが理想の父親だとでもいうのか」
 「知ったふうな口を利くな、俺たちの五年間を知らないくせに!!」
 発狂したように叫ぶ。口角泡をとばして首を巡らせて、世界を全部敵に回したように恐怖を剥き出して安田を罵る。檻の外側にも内側にも五十嵐の居場所はない。五十嵐の居場所はもはや東京プリズンの何処にもない。手の震えが銃に伝わり、照準が激しくブレる。
 僕、サムライ、ロン、安田を順繰りに巡った銃口をヨンイルに固定して、嗚咽まじりの悲鳴をあげる。

 「俺たち家族の五年間を知らないくせに、知ったかぶりをするなよ!子供がいねえあんたに何がわかる、わからないだろう子供を亡くした父親の気持ちなんて、父親でいられなくなった父親の気持ちなんて!俺はずっとリカの父親でいたかったんだよ、リカに『お父さん』て呼んでほしかったんだ。将来彼氏連れてきたら普通の父親がそうしてるみたいにヤキモチ焼いて、あいつの結婚式じゃどもりながらスピーチして、いつかは孫をあやして抱いて……何ひとつ高望みなんかしなかった、家内とリカがいりゃそれでよかった。
 リカが死んでからもっとああすりゃよかったこうすりゃよかったって毎日毎晩自分を責めたよ。あいつが小遣い上げてくれてって頼んできたとき聞いてやりゃよかったとか、修学旅行の前の夜に洗濯物畳んでたとき、もっと他に言うことあったんじゃねえかって……リカはブラックジャックが初恋だったんだよ。ブラックジャックと結婚したいって言ってたんだよ。俺は笑いながらそれを聞いてた、今はこんなこと言ってるけどリカはすぐにでかくなって他の男のもんになっちまうだろうなって寂しく思いながら……
 ところがどうだよ。リカは死んじまった。くだらねえテロに巻き込まれて殺されちまった。畜生、なんであの時止めなかったんだよ!こうなるってわかってりゃ止めたのに、リカが泣こうが喚こうが絶縁されようが行かせなかったのに逝かせなかったのに!!」

 五十嵐が怒鳴る。
 サムライもロンも安田も五十嵐に対する反発と共感を等分に抱いて沈痛に黙りこんでいた。 
 五十嵐は泣いていた。自制の箍が外れて感情の堰が決壊して、泣きたくても泣けずにいた五年分の涙を流しているようだった。沈黙の内に自分を見守る観客の視線を薙ぎ切るようにかぶりを振り、両腕をまっすぐに伸ばして銃を構え直す。
 「お願いだよ、殺させてくれよ。こいつ殺せば終わるんだ、自分を許せるんだ。ラクになれるんだ」
 「できない」
 僕は首を振る。
 「なんでだよ!!?」
 五十嵐が叫ぶ。
 「……五十嵐。こんなことをして、天国の娘が喜ぶと思うか」
 平板な口調で問いかければ、五十嵐が自嘲の笑みを吐く。
 「ガキのくせに、お前まで俺にお説教垂れるつもりかよ?その台詞は聞き飽きたぜ。そんなことをしてなんになる、正気に戻れ五十嵐、今のお前を見て天国のリカちゃんが喜ぶと思うか?
 はっ、くだらねえ。リカが天国にいるってなんでわかるんだよ、大体どこにあるんだよ天国って。行って見てきたわけでもねえくせに、死んだリカが今でも生きてるみてえに脅しかけて、それで復讐思いとどまらせようなんざ反吐がでるほど卑劣なやり口だと思わねえか。偽善臭がぷんぷん匂うぜ。
 いいか?リカはもういねえんだ。死んじまったんだ。もうとっくにこの世にいねえ人間が、この世から消された人間が、哀しんだり喜んだり泣いたり笑ったりできるわけねだろ。生きてる人間が当たり前にやってることを、当たり前にできるわけねえだろ。
 『こんなことをして死んだリカが喜ぶと思うか』だと?くそくらえだ。どうやったらリカが喜べるんだよ。リカは死んだんだぜ。哀しいとか悔しいとか嬉しいとか楽しいとか、暑いとか寒いとか痛いとか苦しいとか、一切合財感じることできなくなったんだぜ。さっぱり無くなっちまったんだぜ」
 「その通りだ」
 あっさり肯定すれば、五十嵐が大仰に目を剥く。
 サムライもロンも安田も、僕の正気を疑うようにこちらを見つめている。 
 「くだらない。実際口にしてみて痛感したが、偽善の集大成の薄っぺらい言葉もあったものだ。今すぐ口をすすぎたい。
 『こんなことをして死んだ人間が喜ぶと思うか』?倫理破綻した、矛盾した言葉だ。古今東西で最も卑劣極まる、最低の説得方法だな。人は死ねば蛋白質の塊になるだけだ、思考停止した蛋白質の塊が喜怒哀楽を感じるわけがない。僕は無神論者だ。神も霊魂も天国も信じない。人は死ねば無くなる、自我が分解されて消えてしまう、それだけだ」
 僕にはわかる。
 五十嵐は娘の為ではなく、自分の為にヨンイルを殺すのだ。
 「ヨンイルを殺したところで娘は帰ってこないとわかっていながら引き金を引くのは、娘の無念を晴らすという大義名分があるからじゃない。 
 そんなものはどこにもない、どこを探したところで見当たらない。死者を代弁した復讐など、自分が罪を負いたくない卑怯者がやることだ。自分で罪を負う覚悟がない偽善者がやることだ。
 五十嵐、今貴様がしてることは正義でもなければ大義でもない。そんな偽善はどこにもない、貴様はただ単純に純粋にヨンイルが憎くて引き金を引こうとしてる。僕は貴様を裁けない。僕は人殺しだ、親殺しだ。この手で鍵屋崎優と由佳利を、僕を十五年間育てた両親を殺害したんだ」
 二人を刺した時の感触はまだ手に残ってる。一生かかっても拭えない。
 瞼の裏側に甦る鍵屋崎優の顔、由佳利の顔。僕は恵を守る為に彼らを殺した、殺さなければならなかった。

 父さん、母さん。

 「僕は人殺しだから、これから人殺しになろうという貴様を裁けない。憎ければ人を殺す、それが人間本来の在り方ならヨンイルを殺すのは正しい!僕だって恵が殺されたら同じことをする、哀しくて悔しくてやりきれなくて、足掻いて足掻いてみっともなく足掻き続けて、恵が味わったのと同じだけの苦しみを、いや、それに倍する苦しみを犯人に与えてやる!!救われないとわかっていてもそうせずにはいられない、恵を殺した人間が目の前で自然に生きて笑っていて、僕だってきっとそんな現実には耐えられない!」

 僕がしたことには取り返しがつかない。
 父さんと母さんは戻ってこない。

 わかってる、そんなこと。わかってるに決まってるじゃないか。僕を誰だと思っている、IQ180の天才鍵屋崎直、鍵屋崎優と由佳利の自慢の息子だぞ。 
 両親を殺してしまった僕が、ヨンイルの同類の人殺しの僕が、五十嵐に何を言える?テロの巻き添えで子供を亡くした父親の絶望の深さを測れる?
 五十嵐に言うべき言葉など何ひとつ持たない僕が、五十嵐に言えることはただひとつ……
 「だからこれは、僕のわがままだ」 
 五十嵐リカを引き合いにだしてヨンイルを殺すなとは言えない。そんな卑劣なこと、口にできない。死者を代弁する脅迫は偽善の骨頂だ。だから僕は言う、僕の腕の中で眠るヨンイルを守りたい一心で本音を言う。

 「ヨンイルが死んだら僕が哀しむ。頼む、ヨンイルを殺さないでくれ!!!」 
 
 ヨンイルが死んで哀しむのは五十嵐リカではなく、この僕だ。ロンであり、サムライであり、レイジであり、西の囚人たちだ。
 「……………そう、だ」
 檻の外で固唾を飲んで事の成り行きを見守っていたワンフーが、呟く。
 「ヨンイルさんが死んだら俺が哀しい、俺が泣く!ヨンイルさんがいなくなったらつまんねえよ、いやだよ、殺さないでくれよ!ヨンイルさんは確かに阿呆で馬鹿で無神経なとこあるけど、俺と一緒に鍵屋崎に謝ってくれたんだ!俺の分まで鍵屋崎に頭下げてくれたんだ、安田の拳銃スッたのは俺なのに、そんな俺のこと最後まで面倒見てくれたんだよ!『しゃあない奴っちゃなあ』って笑いながら!」
 「五十嵐、ヨンイルさん殺さないでくれ!どうしてもって言うなら俺がヨンイルさんの代わりに撃たれるから、ちょっと痛えくらい我慢するから、それで勘弁してくれよ!ヨンイルさんがあんたの娘の仇だってのはよくわかったよ、俺にも外に残してきたガキいるから気持ちわかるよ、でも俺ヨンイルさんのこと好きなんだ、時々しょうもねえトップだけど……俺が東京プリズンで今日まで生き残れたのはヨンイルさんのおかげなんだよ、ヨンイルさんは恩人なんだよ!」
 「ヨンイルさんが死ぬのはいやだ!」
 「笑かし騒がし役の道化がいなきゃ毎日しんきくさて息が詰まっちまうよ!」
 「ヨンイルさん!」
 西の囚人たちが金網に縋り付き、懸命に叫ぶ。ヨンイルの無事を祈る声は次第に大きくなり、遂には会場中に行き渡る。
 「…………うっ、くぅ……」
 五十嵐の口からひび割れた嗚咽が漏れ、だらりと腕がたれさがる。床に膝を屈した五十嵐の胸ポケットから、黒革の免許証入れが落ちる。免許証入れが開き、古い写真が現れる。
 五十嵐リカは泣きながら笑っていた。
 そう見えたのは、床に手を付いてうなだれた五十嵐の涙が写真に落ちたからだ。
 あとから、あとから、とめどなく。

 終わった。

 「……拳銃をとってくる」
 「怪我は大丈夫ですか」
 低く呟き、腰を上げた安田を目で追う。
 「これは私の役目だ。他人に任せるわけにはいかない」
 前だけ見て毅然と言い放った安田は、既に人を寄せ付けないエリートに戻っていた。肩を片手で庇い、慎重に五十嵐に歩み寄る。そんな安田の背中を、僕はサムライに抱かれて無言で見送っていた。
 「よくやった、直」
 サムライが耳元で囁く。
 「すごい奴だよ、お前」
 ロンが僕の肩に凭れかかる。
 限界値まで張り詰めた緊張の糸が切れてその場にへたりみ、ため息まじりに言う。
 「低脳に称賛されると侮辱された気分にな、」

 視界の隅で何かが動く。

 「!!」
 そちらを向いた僕は見た。這う這うの体のタジマが懐から手錠を取り出すところを、投げるところを。
 タジマが力一杯投げた手錠は狙い違わず五十嵐の手首を直撃、拳銃を弾き飛ばす。
 「俺だけのけ者にして大団円なんて認めねえ、どうせもう俺はおしまいだ、だが俺だけじゃねえ、親殺しも半々もエリート気取りの若造もお前ら全員道連れにしてやらあああっああっあっあ!!!!」
 拳銃が高く高く浮上する。
 僕たちの頭上を越え、放物線を描き、檻の外側に落下しつつある拳銃にタジマがとびかかる―……
 
 「タジマに銃をとらせるな!」
 「心得た!」
 「駄目だ、間に合わねえ!!」
 
 サムライがタジマの背に駆け寄る、僕とロンも駆け寄る。
 タジマが金網に激突、自重で金網が倒れる。振動、衝撃。濛々と舞いあがる埃。銃はどうなった、誰の手に渡った?埃にむせながら顔を上げた僕の前にいたのは―……
 『Really!?』
 両手で銃を抱えたリョウだった。
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