少年プリズン

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三百二十一話

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 タジマが銃を発砲した。安田の左肩が血をしぶく。安田の肩に命中した銃弾……スーツに滲みだす鮮血。
 撃たれた肩を庇い、コンクリ床に膝を折る。上体を突っ伏して苦悶に喘ぐ安田の額にはびっしり脂汗が浮かんでいる。極限の苦痛に歪んだ顔には冷徹なエリートの面影などどこにもない。
 硝煙たちのぼる銃口を虚空に擬してタジマが哄笑をあげる。
 「そんなにこいつが大事かよ、こいつの身と引き換えにお偉い副所長サマ自らしゃしゃりでてくるほど大事か。なあ、やっぱりお前らできてんだろ?こそこそ密会してデート重ねて医務室のベッドでしっぽり楽しんでるんだろうが。なあに今更隠すこたねえ、東京プリズンは俺の城だ、俺の城で起こってるこたあ全部お見通しだ。なあ安田さん、あんた何回鍵屋崎を抱いた?鍵屋崎を裸にひん剥いてケツにあれぶちこんだ、あれしゃぶらせた?類は友を呼ぶってことわざにもあるよな。スラム育ちの洟垂れガキには目もかけねえあんたでも、元エリートで特別毛並みのいい親殺しは別格……」
 「違う、そうじゃない」
 血が迸る肩を押さえ、苦痛に顔をしかめて安田が叫ぶ。銃弾が埋まったスーツの肩に急速に広がる赤い染み。今にも崩れ落ちそうな肩を片手で庇い、片手を床につき上体を起こし、縋るように必死な面持ちでこちらを振り仰ぐ。
 安田がまっすぐに僕を見る。激しい葛藤に苛まれた眼差しで、等身大に苦悩する人間の顔で。
 「鍵屋崎は私の、」
 『私の』?
 続く言葉は聞けなかった。僕をひきずって大股に安田に歩み寄ったタジマが、その肩を蹴倒す。副所長が悲鳴をあげて床に身を投げだす。床に倒れ伏した安田はそのまま動かない。タジマに蹴られた肩には銃創が開いて背広の下のシャツにも血の染みが広がっている。
 「貴様っ……肩に銃創を負った安田に暴行を働くなど卑劣にも程がある、貴様こそ真に唾棄すべき最下等の人間だ、恥を知れ!!」
 「ははっいいザマだあ、これで動けねえだろ!?俺が鍵屋崎犯すとこそこに寝転がって指くわえて見てろや。いや、待てよ、もっといいもん出し物思いついたぜ。ただ犯すだけじゃ芸がねえもんな、ははっ」
 ぐったり横たわる安田に唾を吐き、タジマが咆哮をあげる。
 「ロン、上がって来い!折角だからお前も仲間にいれてやるよ。こないだは安田に邪魔されてお預け食ったが今度はそうはいかねえ、俺が独居送りになったのだって元はといえばお前が原因だ、俺が独居房送りになったのは全部お前のせいなんだよ!さあ、観念して大人しくでてこい、言うこと聞かねえと鍵屋崎がどうなるかわかってんだろうな!?」
 「ロン、異常者の言動を真に受けるな!君が出てこようが出てこまいがどのみちタジマは僕を犯して殺す、安田の前で僕を犯して殺して復讐を成就するつもりだ!君がリングに上がったところで事態は好転しない状況が悪化するだけだ、大人しくレイジの看病でもしていろ!」
 タジマの腕にきつく絞め上げられ窒息しそうだ。出てくるなロン。タジマの脅迫に屈するな、挑発にのるな。安田は僕を助けようとしてタジマに撃たれた、このうえロンまで巻き添えになるなど……考えたくもない。ペア戦は終わった、もう全部終わったんだ。レイジはよく頑張った、持てる力を最大限発揮してボロボロになりながらも勝利を手にした。ロンはレイジのそばについてればいい、看病してればいい。
 頼むから、僕にかまうな。
 「……ここだよ」
 「!」
 金網が鳴る。僕の願いむなしく、ロンがリングに上がる。まったく、底抜けのお人よしめ。救いがたいお節介め。肋骨が折れてるくせに、全身の間接が痛んで悲鳴をあげてるくせに、片手で金網を掴んで無理を強いて歩を進めて……わかっている。こうなるだろうと予想はついていた。僕を人質に脅迫されて、ロンが見て見ぬふりできるはずなかったのだ。
 捻挫した足をひきずるようにリング中央に歩み出たロンが、荒い息を零しつつ、タジマに要求する。
 怒りと憎しみに燃える目。
 「鍵屋崎を離せよ」
 突然、タジマが僕の背中を突き飛ばす。一歩二歩、前傾姿勢でよろけて面前に迫ったロンと接触。
 「!?っ、」
 視界が反転、衝撃。ロンの顔の横に手をつき押し倒す体勢となった僕の後頭部にめりこむ硬い感触。
 僕の後頭部に銃口つきつけ、圧力をかけて頭蓋骨を抉りながら、タジマは恐るべきことを命じる。

 「鍵屋崎。お前、ロンを犯せ」
[newpage]
 「鍵屋崎。お前、ロンを犯せ」
 タジマは正真正銘の異常者、真性の変態。
 俺の目と鼻の先に鍵屋崎がいる。
 後頭部に銃をつきつけられて、俺の腰に跨り、顔の横に手をついてる。転倒した時俺が鍵屋崎の下敷きになり自然とこういう姿勢になったんだが、鍵屋崎はそのままどく気配もおりる気配もない。俺の腰に跨ったまま表情の読めない目でじっとこっちを見つめてる。片方割れたレンズが普段から表情に乏しい鍵屋崎の本心をさらに読めなくしてる。
 ひびの入ったレンズ越しに俺を見下ろす双眸に爆ぜる葛藤、逡巡、躊躇。
 だがそれも目の錯覚を疑わせる一瞬のこと。
 鍵屋崎はすぐに無表情に戻り、体をずらして位置を移動、俺の腰を這いずって騎乗位になる。
 「まさか、本気じゃねえよな」
 手足の先から冷えてゆく感覚……戦慄。目に映る光景が信じられない。いや、信じたくない。コンクリ床に仰向けに寝そべったまま、肘で上体を支えて起きあがろうにも鍵屋崎が腹に跨ってるせいで体に力が入らない。畜生、どけよ。舌打ちしたい気分で鍵屋崎をどかそうと試みるが、鍵屋崎は俺の上に乗ったまま梃子でも動かない。
 言うこと聞かない手足が恨めしい、自由に動かない体が憎らしい。
 逃げろと脳が命令を発してるのに体が従わない矛盾。葛藤。
 そうだ、わかってる。俺の体はもうボロボロで限界だった。折れた肋骨はまだ完治してなくて、胸はずきずきと疼いて、指一本動かすだけで全身の間接が痛んで軋んで地獄を見た。
 鍵屋崎を突き落とそうと腕を振り上げてみたところで全く力が入らないんじゃ意味がない。
 心臓の鼓動が速鳴る。緊張で喉が乾く。
 汗でびっしょり濡れた背中のシャツが素肌にへばりつく。ひどく耳鳴りがする。誰かが頭蓋骨を撥で叩いてるみたいだ。耳鳴りがうるさくて周囲の喧騒がよく聞こえない。鍵屋崎に哀願する自分の声さえよく聞こえない。
 「いくらタジマに命令されたからって、銃で脅されてるからって、まさか本気で俺を犯すわけないよな鍵屋崎」
 みじめったらしい懇願。鍵屋崎がまさかそんなことするはずがない。鍵屋崎は口は滅茶苦茶悪いけど付き合ってみりゃ案外いい奴で、意外なほどいい奴で、俺はいつしか鍵屋崎に心を許し始めて、今では仲間だと認めていて……
 そうだ、鍵屋崎はいい奴だ。すごくいい奴だ。俺なんかには勿体無いくらいできたダチだ。医務室に入院中の俺が暇持て余してる時に本を貸してくれた、字ばっかの糞つまんねえ哲学書だけど俺のこと気にかけてくれた鍵屋崎の親切心は純粋に嬉しかった。
 他にも鍵屋崎には世話になった、たくさん世話になった。
 俺が売春班の房に篭もりきりでいた時も通気口越しに励ましてくれた、威勢良い毒舌で気力を奮い立たせてくれた。鍵屋崎一流のひねくれた励まし方で。
 俺だってわかってる、身に染みてる。鍵屋崎の毒舌は優しさの裏返しで、鍵屋崎は本当はすごくいい奴で……
 だから、そんな鍵屋崎がタジマに言われて無理矢理俺を犯すはずがないと嘘でも信じこみたかった。
 「どうした?さっさと犯れよ、ギャラリーがお待ちかねだ」
 タジマが銃口に圧力を加えて鍵屋崎の頭を屈めさせる。鍵屋崎の頭越しに仰いだタジマはにやにやと笑っていた。反吐がでそうなゲスの笑顔。心の底からこの悪趣味な出し物をたのしんでやがるのは明白。
 くそ、体が言うこと聞けば今すぐタジマの憎たらしいツラをぶん殴ってやるのに。
 「鍵屋崎、どけよ」
 物言わぬ鍵屋崎に必死に訴えかける。顔が半笑いに崩れる。これから鍵屋崎に犯されるなんて冗談じゃねえ、俺はまだレイジとの約束を守ってねえ。レイジが勝ったら抱かせてやるって約束したんだ、100人抜きのご褒美に抱かれてやるって開き直ったんだ。
 強く目を閉じれば瞼の裏側に隻眼の寝顔が浮かぶ。
 左目を失ったレイジの寝顔。
 レイジは左目を犠牲にして勝利を掴んだ。
 背中に十字の烙印を焼き付けられて傷の開いた片腕を踏み躙られてボロボロになってまで、俺と鍵屋崎を守るために、売春班をぶっ潰すために公約どおり100人抜きを成し遂げた。俺との約束を守ってくれた。

 だから俺も、約束を守らなきゃ。

 「鍵屋崎、どけって。腹に乗んなよ、苦しいよ。おい、なんの冗談だよこれ?タジマの命令に唯々諾々と従って今から公開レイプって、マジでそんなこと考えてんのかよ。サムライだって見てるんだぜ。サムライだけじゃねえ、地下停留場には決勝戦観にきた囚人どもがごまんといるんだ。そいつらがはあはあ息荒げて見てる前で、本気で俺のこと犯すつもりかよ?お前にできんのかよ、そんなこと」
 卑屈に喉が鳴る。
 恐怖で喉が引き攣ったのが嘲笑に聞こえたらしい鍵屋崎がすっと目を細める。剣呑な表情の変化に背筋が寒くなる。 
 様子がおかしい。
 さっきまでの鍵屋崎とは別人みたく雰囲気が一変してる。いや、これは……そうだ、東京プリズンに来たばかりの頃の鍵屋崎だ。俺が出会ったばかりの頃の鍵屋崎に戻っちまった。
 人を人とも思わない傲岸な眼差し、自分には人を見下す特権があると信じて疑わない傲慢な天才の表情。
 俺の言葉は、鍵屋崎の「何か」に触れたらしい。おそらく、鍵屋崎の核心に。
 鍵屋崎に跨られた体勢から片肘立てて顔だけ起こし、早口で反駁。 
 「売春班じゃ男に犯られる一方だったお前が犯り方知ってんのかよ、無理すんなよ不感症のくせに、似合わねえよ。お前だってタジマに言われて無理矢理なんて絶対やだろ、反吐がでるって腹の中じゃ思ってるだろ。俺だってそうだよ、タジマに言われてお前に抱かれるのなんざまっぴらごめんだ。それにさ、レイジと約束しちまったんだよ。100人抜き成し遂げたら抱かせてやるって」
 ああ、なに言ってんだ俺。舌が勝手に動いて汚い唾をまきちらしてる。俺の唾が顔にかかっても鍵屋崎は動じない。片方割れたレンズの向こう側から、剃刀めいて鋭い切れ長の双眸が瞬きもせず俺を凝視する。
 完璧な無表情。
 そうだ、東京プリズンに来たばっかの頃の鍵屋崎はこんな奴だった。
 俺がくだらない冗談とばしてもつまらない話題振っても表情は殆ど変わらなくて、俺が対等な人間とはこれっぽっちも思ってない尊大な物腰で余裕ありげに構えていて……意思の疎通ができなかった。
 鍵屋崎と俺じゃ根っこから違う人間で、到底わかりあえるはずもないと絶望させる冷淡な顔。
 徹底的に共感を拒絶する無表情。
 「今ここでお前に犯られるわけにゃいかないんだよ、レイジとの約束守れなくなるだろうが。俺をいちばん最初に抱く奴はレイジじゃなきゃ駄目なんだよ、そう決まってるんだよ!俺だってやっと納得したんだ、レイジになら抱かれてやってもいいかなって思えたんだ、あんなに頑張ってぼろぼろになったレイジになら……どけよ鍵屋崎、とっとと俺の上からどきやがれこのクソ天才!!お前だって本当は嫌なくせにタジマのお遊びに嫌々付き合わされてるくせに、嫌ならさっさとどけよ、頭に銃つきつけられてるからなんだってんだ、俺とお前ふたり力合わせて反撃すりゃあタジマだっていちころだよ銃ひったくることだってできるよだから!」
 「黙れ」
 突然、口を塞がれる。息ができなくて苦しい。
 何が起きたのかと頭が混乱する。俺の口を片手で塞いだ鍵屋崎の顔が急接近、じかに吐息のかかる距離にくる。
 片方割れたレンズ越しに俺を射竦める鋭利な眼光……冷徹に研ぎ澄まされた眼光。
 「僕に選択肢はない。拒否権もない。タジマの命令に逆らえばその瞬間に脳漿を撒き散らすこと確定だ」 
 耳元で鍵屋崎が囁く。暗示をかけるように低い声。これが本当にあの鍵屋崎か、俺が知ってる鍵屋崎か?
 「……仕方ないだろう。僕だってこんなこと本意ではないが、タジマに命令に従わなければ確実に死ぬ。今タジマに逆らうのは得策ではない、それがどれ程不愉快なことであろうがタジマの命令に従うしかない」
 諦観の眼差しで苦々しく吐き捨てる鍵屋崎を前に、俺の中でなにかが爆ぜた。
 「!くそっ、」
 鍵屋崎を胴から振り落とそうと滅茶苦茶に暴れる。
 両腕を限界まで突っ張って鍵屋崎を押しのけようとする、足を勢い良く蹴り上げた反動で鍵屋崎を落とそうとする。
 だが駄目だ、無駄だ。なにをやっても無駄だ。
 鍵屋崎は俺の上からどかない。どんなに暴れたところで本調子じゃない俺が身長で勝る鍵屋崎をどかせるわけがない。いや、奴ひとりならどかすこともできたんだろうが背後には銃を持ったタジマがいて、「いきがいいなあ結構だが、これ以上手え焼かせるんじゃねえよ」と嘲弄。
 体重かけて俺の足首を踏みつける。
 「!?あああっああっ、っあ、ぐ……」
 コンクリ床に固定された足首が軋み、たまらず悲鳴をあげる。
 痛いなんてもんじゃない。タジマが踏んだのは俺が捻挫した足首、まだ包帯もとれてない足首だ。足首の骨が軋む激痛で視界が真っ赤に染まり、全身の毛穴が開いて脂汗が噴き出す。
 抵抗がやんだ隙にタジマが横柄に顎をしゃくるのが目に入る。  
 衣擦れの音。俺に跨った鍵屋崎が緩慢に動きだす。
 「やめ……」
 荒い息遣いに声がかき消される。
 鍵屋崎の手が一瞬止まるが、銃口で頭を小突かれ、まだすぐ動き出す。
 上着の裾をはだけて潜りこむ冷たい手のひら。
 ああ、鍵屋崎の体温は低いんだなとどうでもいいことを思った。冷え性なのかコイツ。いや、今そんなこと関係ない、本当にどうでもいい。
 「お前、頭おかしいよ。タジマの狂気が伝染っちまったのかよ」
 「心外だな。僕は狂ってなどいない。自分の判断に基づき行動してるだけだ」
 鍵屋崎の口調は淡々と落ち着いている。
 「売春班で僕は数え切れないほどたくさんの男に抱かれ、さまざまな種類のセックスを体験した。生憎売春班では抱かれるほう専門だったが、回数を重ねるごとに同性の性感帯は熟知した。良い機会だ。受動態のセックスには飽きてきた頃だ、能動態のセックスを試してみるのも悪くない」
 なん、だって?
 耳を疑う。目を疑う。鍵屋崎はタジマに銃で脅されて嫌々無理矢理俺を犯してるはずじゃないか、なら今の台詞は……

 「良い機会」?「悪くない」?

 どういう意味だよそれ。なあ、俺にわかるようにちゃんと説明してくれよ。 鍵屋崎お前、頭がどうかしちまったのか。一万人の大群衆の前でタジマに股間揉まれて、頭の血管が二三本まとめてぶちんと切れちまったのかよ。俺は嫌だ、鍵屋崎に抱かれるのなんて嫌だ、レイジ以外の男に抱かれるなんて考えただけでぞっと鳥肌立って生理的嫌悪が爆発する。お前だってそうだろ、売春班じゃ毎日泣いてたじゃないか、悲鳴あげて痛がってたじゃないか。
 泣いても喚いてもてんで取り合ってもらえず、男に無理矢理犯されるのがどんだけ最低最悪のことか、お前がいちばんよくわかってるはずだろ?
 「正気に戻れよ」
 戻ってくれよ、お願いだから。
 こんなことやめてくれ、俺の上からどいてくれ。
 恐怖にかすれた声で懇願しつつ、震える腕で鍵屋崎を押しのけようとすれば、邪魔っけに振り払われる。助けを求めて檻の外に目をやる。
 売春班の面々がいた。凱がいた。東棟の奴らがいた。ホセがいた。そして、サムライがいた。
 売春班の奴らは一箇所によりそいあって、慄然とこっちを見つめてる。
 凱は口を開けっぴろげにした間抜けヅラで、その他大勢の東棟の奴らは鼻息荒く興奮の面持ちで、くんずほぐれつする俺と鍵屋崎に見入ってる。ホセは笑っていた。胡散臭い笑顔だった。
 「直」
 サムライは震えていた。
 太股の傷が開いて立ちあがれず、何もできない無力感に歯噛みして、その場に蹲っていた。自分が見てるものが信じられないといった驚愕の表情。サムライに呼びかけられても鍵屋崎の動きはとまらない。
 俺の上着をはだけて腹部をまさぐりながら早口に言う。
 「君はそこで傍観していろ。わざわざこちら側に救助にこようなどと考えるな、迷惑だ」 
 「あーあ、可哀想に。ふられちまったなサムライ」
 タジマが濁声の哄笑をあげる。視界の端にちらつくサムライの顔……苦渋に歪んだ表情。
 鍵屋崎の手が上着の裾にもぐりこむ。
 上着が捲れあがり、薄い胸板が露出する。
 「!」
 鍵屋崎の顔が強張る。無理もない、俺の胸板には白い包帯が巻かれていた。胸だけじゃない。外気に晒された裸の上半身のあちこちに醜い痣がちらばっていた。俺はいみじくも痣だらけ傷だらけの醜い体を目の当たりにした鍵屋崎がおもいっきり引いてくれることを期待した、萎えてくれることを期待した。
 「萎えたろ?汚いし気持ち悪いだろ、痣だらけで。だからさ、抱くなよ。無理して俺抱いたっていいことなんかなにもないって、お互い後味悪いだけだよ。それに俺はじめてだしケツが裂けて血だって出るし、ほら、後始末大変だし。そうなったら、俺とお前……」
 俺とお前は、もう二度ともとの関係に戻れなくなる。今までどおりダチでいられなくなる。俺は殺したいほど鍵屋崎を憎む。殺しても殺しても殺したりないほど鍵屋崎を憎む。
 「手が止まってるぞ。はやく先進めよ。もう俺辛抱できねえ、股間が張ってしかたねえんだよ、はやくイきたくて仕方ねえんだよ。さあ、下を脱がすんだ。ロンを素っ裸にして股開かすんだ。できるだろ、やれるだろ、天才に不可能はねえんだから。なんなら包帯ほどいてロンの手首縛っちまえよ、そうしたらちょっとは大人しくなるだろうさ、犯りやすくなるだろうさ!!
 売春班のこと思い出せ鍵屋崎、お前が泣きながら男に犯されてるときロンは何してた?見て見ぬふり聞こえぬふりでダチ見殺しにした卑怯者だぜコイツは、そんな奴に情かける必要なんざねえ、これっぽっちも!ロンだってどうせお前の喘ぎ声オカズにしてマスかいてたに決まってる、コイツは俺に煙草の火ィ押しつけられてよがってた淫乱の半々だからな!」
 今すぐタジマの口を縫いつけたい、それが叶わないなら歯を全部ひっこぬいてやりたい。顔から火がでそうな羞恥に苛まれた俺へと罵詈雑言の礫が浴びせられる。

 「犯っちまえ、眼鏡!」
 「口ばっか達者なはねっかえりの半々なんか犯しちまえ!」
 「ケツ剥いてぶちこんじまえ!」」 
 「俺は眼鏡が犯るほうに賭けるぜ、日本人はキレたらおっかないからな」
 「自分の身が可愛いなら犯すに決まってる」
 「人が見てようが何人いようが関係ねえ、犯っちまえ!」
 「「犯れ!犯れ!」」
 「「殺れ!殺れ!」」
 「「犯れ!犯れ!」」
 「「殺れ!殺れ!」」 
 
 くそくらえ。
 東京プリズンの囚人はどいつもこいつも最低野郎ぞろいだ。タジマ乱入の混乱が公開レイプへの期待と興奮に取って代わられたらしく、見渡す限り会場を埋めた大群衆が口々に犯れ殺れと喚いてる。周囲の乱痴気騒ぎに加わらず重苦しく沈黙してるのは売春班の面々とサムライだけだ。
 「生き残りたければ僕の言うことに従え」
 「!っ、やめ、」
 声援の後押しで覚悟を決めたらしい鍵屋崎が反論を許さぬ口調で断言する。鍵屋崎の顔が急接近……払いのける暇もなかった。鍵屋崎が強引に唇を奪う。瞬時に理性が吹っ飛んだ。眼鏡のレンズが吐息で曇って鍵屋崎の表情を完全に覆い隠してしまった。俺は今なにをされてる?キス?口で口を塞がれてる?積極的に押し付けられた唇の感触が気持ち悪い、と思う間もなく唇を割って潜りこんできたのは……舌。
 「んっ、ふ」

 『生き残りたければ僕の言うことに従え』。

 さっき鍵屋崎に言われた言葉が脳裏をぐるぐる回ってる。俺が生き残るためには見世物になるしかないのか。一万人の大群衆が鼻息荒く股間を固くして見守る中、鍵屋崎に犯されて派手に喘ぎ声あげるしかないのか。
 苦しい、息ができない。口移しで注ぎ込まれた大量の唾液が逆流して噎せ返りそうになる。嫌だ、こんなキスは嫌、舌入りのキスなんてレイジにしかされたことねえってのに畜生、メイファとだってやってねえのに!
 こぶしで鍵屋崎の胸を叩き、息が続かなくて苦しいと懸命に訴える。
 漸く唇を離して舌を抜いた鍵屋崎が、手の甲で顎を拭いつつ冷笑する。
 「幼稚なキスだ。レイジを悦ばせたいならもっと練習を積め」
 「……はっ……余計なお世話、っあ!?」 
 言い終わる暇も与えられず、ズボンに手がかけられる。
 下着ごと引きずりおろす気か?それだけは勘弁してくれとズボンを掴んで抵抗する。公衆の面前で裸の股間なんか晒したら俺はもう東京プリズンで生きてけない、首吊ったほうがマシだ。そんな生き恥かくくらいなら舌噛んで死んだほうがマシだ。
 「鍵屋崎頼むから正気に戻ってくれよ、お前そんな奴じゃなかったろ、タジマに言われた通りに俺犯すようなプライドない奴じゃなかったろ!?お前はいつだって異常にプライド高くて付き合ってるとうんざりすることもあったけど、でも、お前の融通利かないとこ結構好きだったのに……」
 「無駄だロン、観念しろ。親殺しはお前のこと犯したくて犯したくてもう辛抱たまらんそうだ。どうだロン、お前だって本当は興奮してるんだろ、びんびんに勃起して今すぐイっちまいそうなんだろ?それバレるのが嫌で必死に抵抗してんだろ、ズボン掴んで駄々こねてるんだろ?お前に自慰させた時とおんなじだ、あの時のお前ときたら傑作だった、俺の言うとおり股間に手え持ってって涙目でしごきやがって……いやらしくてたまんなかったよ、オナニー中のお前の顔!」
 嗚咽まじりの抗議にも鍵屋崎は聞く耳もたない。タジマの哄笑が大きくなる。犯れ殺れ犯れ殺れ……会場の群集一丸となってタジマと鍵屋崎をけしかける。ここはどこだ、地獄か?じゃあ蜘蛛の糸がふってきてもいいだろうに。
 体じゅうが痛い。全身の間接が痛い。手足を滅茶苦茶に振りまわして暴れるたび、包帯がほどけて縺れて絡み合う。
 ズボンにかかった鍵屋崎の手が下着ごとずり下ろして……
 
 え?

 今のはなんだ。目配せ?鍵屋崎が誰かに目配せした。誰に?金網の外に待機してる人物……サムライ。
 その刹那。
 「!?ぎゃああっ、」
 サムライがおもいきり投擲した木刀が宙高く舞い、照明が翳る。サムライが投げた木刀はタジマの頭上に落下。激突の衝撃でタジマが銃を手放して倒れる。
 「今だ!」
 生気が甦った鍵屋崎が俺を突き飛ばして一目散に走り出す。
 タジマが起き上がるより速く床を蹴って加速、銃の落下地点へ腕をのばす。間に合うか?床に手をつき上体を起こしたタジマが怒りの咆哮をあげて鍵屋崎に襲いかかる。危ない!気付けば俺も走り出していた。幸いすばしっこさには自信がある、俺の唯一の取り柄といっても過言じゃない。あっというまに鍵屋崎を追いぬき、タジマの股下をくぐり抜けて銃をとる―……
 『殺してやる』
 銃を手にした瞬間、殺意が爆ぜた。タジマを殺してやる。殺したい殺したい殺す殺してやる絶対に、俺と鍵屋崎をさんざん苦しめやがったこの変態野郎に鉛弾ぶちこんでやる許せねえこいつだけは絶対許せねえ!
 タジマに命じられて自慰させられた夜、ベッドで膝抱えながら誓った。
 いつか必ずタジマを殺してやると。復讐を果たしてやると。
 それが今だ。絶好のチャンスだ。今しかない今を逃したら後はない俺の手の中には銃がある、さあタジマの眉間に銃口を定めて引き金引け!!感情が急沸騰、引き金に指をかけ奇声を発して反転―……

 ―『不可以拉!』―

 引くな。
 だれかが耳に懐かしい台湾語で叫んだ一瞬、指が鈍る。衝撃。だれかがおもいきり俺にぶつかってきた。激突の衝撃で跳ね飛ばされて視界が反転、白熱の照明が網膜を灼く。床に尻餅ついた俺の指をこじ開け、銃をひったくろうと頑張ってるのは……鍵屋崎。何の真似だ。なんで鍵屋崎はこんな怖い顔をしてる、殺意に爛々とぎらついた目で銃口を覗いてる?俺の手をひっかいて俺の指をこじ開けて銃をふんだくって、それで何をする気だ?
 だれを殺す気だ?
 答えはすぐにでた。鍵屋崎が殺したがってる人間なんてひとりしかいない……タジマだ。
 「放せ鍵屋崎余計なことすんなタジマを殺すのは俺だ、俺がタジマを殺すんだ!東京プリズンに来てから今の今までタジマにはさんざん酷い目にあわされてきた、二度と思い出したくもないことばっかされてきた!こいつが死んだところでだれも哀しまねえんだからいいじゃねえかもう殺しても、もういいじゃねえか、俺だって限界まで我慢したよ、でももう限界なんだよ、こいつ殺さない限り俺はもう東京プリズンで生きてけない、俺たちが生き残るには俺たち苦しめる元凶絶つしかねえんだよ!!」
 目が溶けそうに熱い。東京プリズンに入所してから今日まで、タジマにされてきた数々が走馬灯のように脳裏をよぎる。タジマがいるだけでタジマがいるせいで毎日が地獄だった。イエローワークの強制労働でタジマに殴られない日はなかった、生傷と痣が絶えない毎日だった。
 俺が売春班に落とされたのだってタジマの逆恨みの計略だ。それだけじゃない、医務室に入院中の俺を性懲りなく襲いにきた。今ここでタジマを殺さなきゃ俺は一生後悔する、このさき一生タジマに付き纏われる。ああいやだいやだ冗談ねえ畜生おことわりだそんなの、きっぱりさっぱり縁切ってやるよ、お前なんか俺の人生に要らないんだよタジマ!!
 「ああああああああああああっああああああっ!!!!」
 死ね、タジマ。頼むから死んでくれ、俺の視界から消えてくれ、東京プリズンから消えてくれ!
 腹の底から咆哮して引き金を引く。腕に伝わる反動、地下停留場に轟く乾いた銃声。殺ったか、死んだか?タジマの生死を見極めようとよろばいでた俺に鍵屋崎が足払いをかける。
 視界が反転、背中に衝撃。俺の手から銃をひったくった鍵屋崎が硝煙たちのぼる銃口を一瞥、無言でタジマへと歩み寄る。床に大の字に伏せったタジマはぴくりとも動かない、遠目には生死もわからない。
 慌てて起きあがり、鍵屋崎を追う。
 そんな俺の前で、鍵屋崎が思いがけぬ行動をとる。
 いまだ硝煙たちのぼる銃口をタジマの眉間に翳して、言う。
 「君に殺人は荷が重い」      
 眼鏡越しの目は静謐に凪いでいた。あまりに穏やかで、不安になる眼差し。
 とてつもなくいやな予感がする。何故鍵屋崎はあんなすっきりした顔をしてる、すっきりした顔でタジマの眉間に銃口をつきつけている?まるで、これまで自分がしてきたことにもこれから自分がすることにも悔いはないといわんばかりに……
 「痛う…………ロンと鍵屋崎のクソガキャ、舐め腐った真似を……ふたり並べてケツ剥いて犯」
 タジマはまだ死んでなかった、数秒間気を失ってただけだった。俺が満腔の殺意を込めて放った銃弾は惜しくも逸れたらしい。床に肘をつき、大儀そうに上体を起こしたタジマの目が驚愕に剥かれる。
 カチャリと銃口が鳴る。
 タジマの前に立ち、眉間に銃口を固定。ゆっくりと慎重に引き金に指をかけ、宣告する。

 「タジマを殺すのは僕だ」 
[newpage]
 「タジマを殺すのは僕だ」
 動揺、狼狽、当惑、好奇、驚愕……戦慄。
 地下停留場の暗がりに夜行性の獣のように身を潜めた群集を包み込む緊迫の静けさはやがて不穏などよめきへと変化する。
 引き金にしっかり指をかけ、矯める。
 僕の背後ではロンが愕然と立ち竦んでいる。目に映る光景が信じられないといった驚愕の表情。金網の向こう側には売春班の面々とサムライがいた。売春班の面々は不安げな面持ちで僕とタジマとを見比べて、サムライは歯痒げに唇を噛んでこちらを見つめている。地下停留場に集った大半の人間とおなじく、あまりに急すぎる事態の推移についていけないといった困惑の様子。
 急展開に取り残されておろおろ混乱するばかりの無能な少年たちから標的へと視線を戻す。
 だれも僕を止められない。サムライも止められない。
 今僕がすべきことはただひとつタジマを確実に殺すこと、後腐れなくこの世から葬り去ることだけだ。
 「へっ………へっへっへっ。冗談だろ?」
 肩を揺らしてタジマが笑う。機嫌とりの習性が染み付いた媚びへつらいの笑顔。虫唾が走る。なんて卑小で矮小な人間だ、こんな人間がこの世に存在すること自体間違いだと思わせる人間の醜い部分を全部かき集めた笑顔だった。
 「なあにとち狂ってんだよ親殺し。はやくその物騒なもんしまえよ。いい子だから、な、こっちに渡せ。だいたい銃の撃ち方なんて知ってんのかよおまえ、身のほど知らずなことすんじゃねえよ」
 「銃の撃ち方など知識でしか知らない。実践経験はない。が、この距離からでは外さないだろう」
 タジマの眉間に銃口を密着させる。タジマが生唾を飲み込む。銃口に加えた圧力を介して僕の本気が伝わったようだ。床に尻餅ついたままあとじさるタジマを追い、一歩二歩と距離を詰める。
 逃がすものか。 
 「お、俺を殺したら大変なことになるぜ。囚人が看守を撃つなんざ前代未聞の大事件だ、んなことしたらお前だってただじゃすまねえぜ、処分されるに決まってる」
 「たかが看守の分際で副所長を撃った男の台詞じゃないな。分不相応にも下克上を企んだのか?」
 往生際の悪いタジマに失笑する。
 安田は出血の酷い肩を押さえて床に這いつくばっている。肩の肉は爆ぜて背広の下のシャツにも鮮血が滲んでいた。負傷した肩を庇い、苦しげに呼吸しつつ上体を起こした安田の顔はいちじるしく青褪めていた。
 胸の内側で感情が沸騰する。これは、怒り。安田を撃ったタジマに対する、ロンを痛めつけたタジマに対する怒り。
 胸の内で飼い殺すには激しすぎる憎悪。
 タジマの目に浮かぶのは紛れもない恐怖。刻々と迫りくる死に対する剥き出しの恐怖。生への貪欲な執着。タジマの目を覗きこむ。極限まで開かれたタジマの目に映ったのは……僕の知らない僕。いや、違う。以前にも一度これと同じ顔を見たことがある。
 すぐに思い当たった。鍵屋崎優と由佳利を殺した時だ。
 あの時、両親の目に映った僕も今とおなじ顔をしていた。
 全くおなじ無表情と虚無の眼差しだった。
 「と、とりあえず銃をおろせ。それから話し合おう。な、頼むよ?人間話し合えばわかるって、人類みな兄弟って言うだろ。俺たちのあいだにはそう、でかい誤解があるんだよ。俺がさっきお前にさせたことだってほんの冗談のつもりだったんだよ、最後までさせる気なんかこれっぽっちもなかった、お茶目な余興のつもりだったんだ……まあ、悪乗りしすぎたのは認めるけどよ。体のすみずみまで知り尽くした俺とお前の仲だ。笑って許してくれてもいいじゃねえか、なあ?」
 「余興だと。一万人の大群衆の前でロンを強姦する、それが単なる余興だというのか。ロンは肋骨を折ってたんだぞ。全身十三箇所の打撲傷を負い足首を捻挫していたんだぞ。満身創痍という言葉が易く思える大怪我だ。それを貴様はロンの肋骨が折れて砕けてもかまわないと、ロンの足首が捻れてもう二度と歩けなくなってもかまわないと、そのつもりで僕に強姦を命じたのか?」
 タジマの眉間を銃口を抉りながら苦汁を呑んで確信する。
 タジマには人の痛みがわからない。タジマは人の痛みに共感できない、しようとも思わない人間だ。人の痛みに共感したところで得るものはなにもないと開き直った男だ。
 タジマのそれはある意味正しい。
 他人の痛み苦しみ悩みに共感したところでなんら利益がないというのは正しい。あくまで自分中心に考えるなら、自分の偉大さとやらを世に知らしめたいなら、他者を見下すことによって自己肯定の優越感に酔いたければその生き方は正しいのだ。
 他者を貶めることにによってしか自尊心を維持できない、自己を肯定できない惰弱な人間。
 タジマは自己中を突き詰めた人間だ。
 タジマを生かしておけばこれからますます犠牲者が増える、僕のようにロンのように安田のようにその他の囚人のように不幸になる人間が増えるだけだ。タジマにされたことを思い出せ鍵屋崎直、売春班の記憶を喚起せよ。
 僕がこれまでタジマにされてきたこと、強制された屈辱的な行為……
 こめかみの血管が熱く脈打つ。
 売春班でタジマに犯された。
 何度も何度も何度も嫌になるほど気も狂うほど一日も早く死にたいと願うほど。僕を犯しながら妹の名前を呼ばせながらタジマは笑っていた笑っていたタジマの笑顔が忘れられない網膜に焼きついてはなれない。
 酷い耳鳴り。
 記憶と悪夢が混沌と溶け合い、タジマの揶揄が耳によみがえる。

 『妹の名前を呼べば許してやるぞ』 
 憎い。
 『さあ言えよ』 
 憎い。 
 『言えよ』 
 憎い憎い。
 『男にヤられながら妹の名前呼ぶなんて変態だな。本当はずっと妹とヤりたかったんだろう。妹のひらたい胸を揉んでかわいく窪んだヘソを舐めてまだ毛も生えてない股に突っ込んで喘がせたかったんだろう。はは、残念だったな!妹ヤるまえに男にヤられちまったら世話ねえな。
 妹独り占めしたくて堅物の両親殺したくせに目論見外れてがっかりだろ。まあ諦めろ、一度東京プリズンにきちまったんなら腹括って俺のご機嫌とりに徹すんのが吉だ。そうそう、そうやって素直に股開いて腰振って言うこと聞いてりゃいい。なあ、男に抱かれんのは癖になるだろ?なんだ、泣いてんのか。もうイッちまいそうってか。まだ駄目だ、俺がイくまでイかせられねえな。もうちょっとそのまま我慢してろよ。不感症のくせに不能じゃねえなんて都合いいカラダだな、本当に』
 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!!

 一言一句違わず今でも思い出せる記憶している、一生かかっても忘れられそうにない。夢の中まで僕を苦しめる嘲笑、下劣な笑顔、体の表裏を這いまわる乾燥した手。タジマのがさついた手の感触など早く忘れたい、でもできない、体に刷り込まれてるんだ、肉体が消滅しないかぎり体に刷り込まれた触感は拭えないんだ畜生!!!
 僕がロンの手から銃を奪ったのは善意じゃない、ロンを庇いたかったからでも守りたかったからでもない。僕は純粋にタジマが憎くて殺したくて気付けば無我夢中でロンの手から銃をひったくっていた。
 僕は善人じゃない、聖人君子じゃない。
 僕は人殺しだ、ただの人殺しだ。だから今度もタジマを殺せるはず、両親の時のようにうまくやれるはずだ!
 綺麗ごとはよそう。僕はタジマが憎い、とてつもなく憎い。
 これは僕の意志だ。
 殺人の動機まで他人に転嫁してたまるか、他人に依存してたまるか。今ここでタジマを殺さなければまたおなじことが起こる、どこまでいってもおなじことのくり返しだ。
 タジマはまたしつこくロンや僕に付き纏う、僕らを犯して殺そうと執念深く付き纏う。ロンはきっとまたタジマに襲われる。
 今度は未遂じゃ済まない、間違いなく犯される。
 売春班が廃止されてもタジマが東京プリズンにいるかぎり僕らに安息の日々は訪れない。これからもこのさきもずっとタジマの気配に怯えて暮らすくらいならいっそ……
 「命乞いは無意味だ」
 タジマの眉間に銃口を押し付け、低い声で言う。
 「貴様が低脳らしく貧相な語彙を尽くして命乞いをしたところで、僕は確実に引き金を引く。決定は覆らない。僕は人殺しだ。過去に両親を殺害して懲役八十年を言い渡された。今さら殺人の罪科が加算されたところで些細な問題でしかない。どうせ僕は一生死ぬまで東京プリズンから出られないと確定してる、終身刑も同然の身の上だ。東京プリズンに送致された時点で戸籍は抹消された。僕はもう日本にいない人間、社会的に抹殺された人間だ。ならば……」
 意識して口角を吊り上げ、酷薄な笑みを作る。
 「もう、いいじゃないか」
 社会的に抹殺された僕が、社会復帰の見込みがない僕が、生きて再び恵にまみえる可能性のない僕が。
 人を殺したところで、どうだというんだ?
 自嘲の笑みはそのままに、諦念の淀んだ口調で吐き捨てる。もう、いい。覚悟は決まった。いまさら殺人の罪科がひとつふたつ追加されようがたいしたことじゃない。だいたい誰が僕を裁くというんだ?鍵屋崎直の罪を正当に裁いてくれるというんだ。僕は社会的には既に死亡した人間扱いで、公式に裁判を受ける権利すらない。僕が今ここでタジマを射殺したところで、どうやって死人を裁くというんだ?
 しずかに目を閉じる。迷いはなかった。心は冷めきっていた。両親を殺害した時はただただ必死だった、恵を守らなければとただそれだけを考えていた。だが、あの時と今では状況が違う。
 今の僕には失う物などなにもない。
 恵を失いたくなくて、恵を守りたくて両親を殺害したあの時と今では状況が異なる。誰かを守るためじゃない、誰かの身代わりじゃない。僕がタジマを殺すのは純粋にタジマが憎いから、殺したいほど憎いから。
 正義に唾を吐け、偽善に砂をかけろ。
 殺人を正当化する動機など要らない。
 僕が引き金を引くのは僕がそう望んだからだ。
 ほかならぬ僕自身が、だれより切実にタジマを殺したいからだ。
 「僕は人殺しだ。親殺しだ。今さら屑一人殺したところで痛むような良心など、生憎持ち合わせてない」
 「鍵屋崎ィ……」
 タジマの顔が絶望に暮れる。ズボンの股間から蒸気が立ち上る。
 命の危機に瀕した恐怖のあまり失禁したらしい。ズボンの股間に広がる染みを見下ろして眉をひそめた僕に、かぶりを振りながらタジマが懇願する。
 「頼むよ、このとおりだ。命だけはどうか見逃してくれ。今までお前にしてきたことなら謝るよ、だから……」
 「解せないな。僕がいつ謝罪など要求した?懺悔の芝居などしなくていい、余興にもならない。貴様が後悔する必要などなにもない、悔い改める必要などどこにもない。僕を後ろから犯しながら貴様は笑っていたな。下品に口を開けて哄笑をあげていたな。心の底からおかしくておかしくて、愉快で愉快でたまらないといった具合に」
 「頼むから聞いてくれよ……」
 「僕の体には満足したか?それはよかった。僕が抵抗しようが哀願しようが貴様はかまわず押し入ってきた、僕を押さえ付けて無理矢理押し入ってきた。肛門が裂けて出血してシーツが赤く染まろうが一切手加減せず、僕が暴れれば容赦なく殴り付けて黙らせて、いつだって自分の好きなように、暴君のように振る舞って……独占欲は満たされたか?征服欲は満たされたか?」
 「アレはお前が暴れるからだよ、俺だって本当は暴力なんかふるいたくなかった。本当は優しい男なんだよ俺は。でも、抵抗されるとついカッときて……」
 「僕の裸を見るか。売春班にいた頃貴様につけられた痣や痕がまだ体のあちこちに残っている。今でも疼くんだ、痣が。貴様に噛まれた痕が。疼いて疼いて眠れないんだ」
 「体が俺を欲しがってる証拠だよ。調教の成果……」
 卑屈な愛想笑いを浮かべて僕を見上げたタジマをひややかに一瞥、満腔の悪意を込めて銃口をねじる。
 「脳とは脊椎動物の頭にある神経細胞の集まった部分を指す。脊椎動物では脊髄と共に中枢神経系をなす。中枢神経系の細胞は複雑に接続しあって情報を伝達・処理しており、脳は感情・思考・生命維持の中枢とされる。そこに鉛弾を撃ちこんだらどうなると思う?運がよくて脳死、悪ければ即死だ」
 「ひっ……」
 感情の伴わぬ口調で脅迫すれば、顔面蒼白のタジマが尻で這うようにあとじさる。逃がさない。右手に預けた銃をタジマの額に擬して、左手で上着の裾を掴み、じらすように捲り上げる。あらわになったのは生白い肌と痩せた腹筋、筋肉の発達してない貧弱な肢体。
 そして、下半身の青痣。
 「覚えているだろう、僕を殴りつけながら犯した時のことを。一度だけじゃない。二度、三度、四度……正確な回数は覚えてない。素手で、警棒で。僕を殴打しながら笑っていたな」
 「勘弁してくれ……」
 タジマはすでに涙目だ。
 自衛の本能で頭を抱え込んで胎児のように身を丸め、歯の根の合わない反論を試みる。  
 「お、お前だって楽しんでたじゃねえか。さんざん俺の下でいい思いしたじゃねえか、なのに全部俺のせいにするのか、俺だけ悪者にするのかよ?割にあわねえぜ畜生!俺の膝に跨って弾んでたのは誰だよ、狂ったようにケツ振ってたのはだれだよ?ケツに極太バイブ突っ込まれてあんあんよがり狂ってたくせに、妹の写真に汁とばして自分でイッたくせに!!そうだお前も共犯だ、俺と一緒に楽しんだから同罪だよ!ほ、ほんとは悪い気しなかったんだろ?お前は真性のマゾだから俺に言葉で嬲られてぶたれて、本当は感じてたんだろ?びんびんに勃起してたんだろ?不感症治してやったんだから感謝されこそすれ恨まれるすじあいは」
 「黙れ」
 押し殺した囁き。グリップを握る手に力がこもり、引き金にかけた指が怒りで震えだす。だが、恐慌をきたしたタジマは従わない。汚い唾をとばし、爛々とぎらつく目を剥いて、会場じゅうに響き渡る声で絶叫する。
 「白状しちまえよ、お前だって感じてたんだろう。俺に犯られて勃ってたのがいい証拠じゃねえか!いい子ぶるんじゃねえよ、てめえはもう汚れちまったんだ、俺とおなじとこまで堕ちちまったんだ」
 「黙れ黙れ黙れ!!」
 「お前はもう立派な売春夫だよ!どんだけ足掻いたところで今さら後戻りできねえ、引き返せねえとこまで来ちまったんだ。今だってほら、俺に言葉でいたぶられて興奮してるんだろ?乳首勃ってんだろ?はははっはあはっはははっははっ、おいてめえら、檻の外で間抜けヅラさらしてるガキども、よおく見ろ!お前らの中にもコイツ抱いた奴いるはずだ、コイツのケツで楽しんだ奴が混ざってるはずだ!」
 檻の外から注がれる視線を痛いほどに感じる、体が意識してしまう。
 やめろ、そんな目で僕を見るな。
 僕は売春夫じゃない、売春夫じゃない、タジマに犯されて感じてなどない絶対に!
 「でたらめを言うな、僕は感じてなどない、気持ちよくなどなかった少しも貴様に触れられるたび虫唾が走った反吐がでそうだった後ろから貫かれるたび激痛で失神しそうだった!!」
 「嘘つけ、活きのいい海老みてえに背中仰け反らせてよがってたくせに!シーツ掻き毟って悶えてたくせに!エリート面して気取るなよ親殺しが、てめえなんぞ売春夫で十分だ、一生俺の言うこと聞いてりゃいいのに飼い主の手え噛むような生意気な真似しやがって……くそっ、どいつもこいつも馬鹿にしやがって!!安田もお前も気にいらねえ、お高く取り澄ましたエリート面で俺のこと見下しやがって兄貴とそっくりだ畜生めが!!悪かったな不肖の弟で悪かったな、どうせ俺は兄貴に比べたら屑だよおおおっぉっおおっ!?」
 劣等感の塊となったタジマが猛然と僕に掴みかかる。

 殺らなければ殺られる。  
 引き金をひかなければ。

 「!っ、」
 引き金を引けばすべて終わる、悪夢に蹴りをつけることができる。さあ、ここで決着をつけるんだ。額の中心に銃口を定め、予定通り引き金を引く―……

 ―「やめろ!!」―

 耳元でだれかが叫び、後ろから僕を抱きすくめる。だれだ?邪魔をするな!背中に覆い被さった誰かが僕の手から銃を取り上げようと指を締める。させるものか、あともう少しでタジマにとどめをさすことができるのに!
 「どけっ、邪魔をするな!」 
 「銃をはなせ鍵屋崎、冷静になれ!」
 僕の背中に覆い被さっていたのは……安田。オールバックに撫で付けた前髪が乱れ、脂汗に濡れた額に一房垂れ下がっている。何故安田がここに?動ける体調でもないだろうに。スーツの肩に鮮血を滲ませた安田は、普段の沈着な物腰をかなぐり捨て、悲壮感漂う必死な形相で僕の指をこじ開けにかかる。
 銃のグリップを発矢と掴み、安田と激しく揉みあいつつ絶叫。
 「僕はタジマを殺す、今ここでどうしても殺さなければいけないんだ!僕が生き延びるにはこれしか方法がないんだ、タジマを抹殺するしかないんだ!嫌なんだもうこの男とおなじ空気を吸うのは嫌なんだ耐えられないんだ、嫌なんだ、視界にちらつくのが許せないんだ!売春班が潰れたってこの男が東京プリズンにいるかぎりなにもなにも変わらない、なにも根本的には変わらない、この男を駆除しなければ!!」
 どうしてわかってくれないんだ安田は、どうして余計なことばかりするんだ。
 こみあげる激情のままに、衝動的にこぶしを振り上げて銃創が穿たれた肩を殴りつける。
 「あなたは理解できない、僕が僕たちがどれだけこの男に苦しめられてきたか虐げられてきたか何もわかってない!!この男が、こいつが、こいつのせいで、僕はサムライの隣にいる資格を失くすんだ!こいつのせいで全部台無しだ、軽蔑されるのが嫌でずっと隠してきたのに、タジマに何をされたか言わないでいたのに畜生!!」
 見るな。こんなぶざまでみっともない僕を見るな、サムライ。
 めちゃくちゃに手足を振りまわして安田を殴り付けて子供のように泣き喚く、情けない僕を見るな。全部サムライに知られてしまった、暴露されてしまった。畜生畜生と口汚く悪態を吐き、何度となくこぶしを振り上げ振り下ろす。生温かい液体が頬をしたたり、口の中に流れこむ。
 涙と鼻水が溶けた塩辛い味に喉が詰まる。
 安田は僕の背中にしっかりと腕を回し、無言で殴打に耐えていた。銃創が開いた肩を殴られてもわずかに顔を歪めてくぐもった苦鳴を漏らすだけで、決して僕を放さない。献身な抱擁。それが悔しくて哀しくて無性に腹が立って、安田の腕の中で狂おしく身をよじる。そんな僕を力強く両腕で抱きしめて安田が声を荒げる。
 「こんな男君が手を汚す価値もない!」
 「父親でもないくせに保護者ヅラをするな!」
 僕は見た。ほんの一瞬、目の錯覚かと疑う一刹那、安田の傷付いた顔を。
 「私は!」
 『私は』?
 こぶしの軌道が狂い、眼鏡を弾く。安田の顔から外れた眼鏡がカチャンと音をたて床に落ちる。眼鏡の弦で引っ掻いた頬に一筋血を滲ませた安田が、冷徹な眼光で僕を射竦める。
 「……私は、東京プリズンの副所長だ」
 「鍵屋崎、もういいよ!お前がそこまですることねえよ!」
 僕と安田を引き離したのはロンだ。僕の背中にしがみついて動きを封じるロンを引き剥がそうと体ごと振り返り、ロンの頭を押し返しながら苛立ちをぶつける。
 「君だって……君だって、タジマのことを殺したいほど憎んでるんじゃないのか!?」
 「ああそうだよ、憎いよ、殺しても殺したりないほど憎いよ!!」   
 「だったら、」
 「でも、お前が人殺しになるのはいやだ!!」
 「僕はもう人殺しだ!!」
 「お前はただの天才だよ、恐ろしく口が悪くて恐ろしくプライド高いただの天才のカギヤザキナオ、いつだってだれかのために一生懸命で自分をかえりみる余裕なんかこれっぽっちもない俺の……」
 ロンが深呼吸する。
 「俺たちの、大事なダチだよ!!」
 指の力が抜けた。僕の背中に縋り付くロンがあまりに必死で、その叫びがあまりに悲痛で。
 力を失い垂れた指から銃のグリップが抜け落ちる。銃が床にぶつかる重く鈍い音。視界の端、それまで腰が抜けたようにへたりこんでいたタジマの唇が動く。
 『しめた』
 「!っ、」
 銃の落下地点にタジマが頭から滑りこんでグリップを握る。銃を手に跳ね起きたタジマが狙うのは、ロンの無防備な背中。まずい。考えるより先に体が動いた。ロンの肩を掴み強引に脇にどかし、弾道に身を晒した僕の眉間にタジマが銃口を掲げる―……
 「鍵屋崎っっっ!?」
 慌てふためくロン、僕へと精一杯腕をのばす安田。だが、間に合わない。僕の眉間を弾丸が撃ちぬき即死が確定するまであと三秒、二秒、一秒……  
 「遅参した」
 「え?」
 凄まじい轟音、足裏に伝わる振動。地震に襲われたのかと錯覚する衝撃が地下停留場を揺るがす。何が起きたのか知覚する先に殺気を纏った烈風が吹き、タジマが悲鳴をあげて拳銃を投げ捨てる。
 タジマの手首は変な方向に曲がっていた。骨折した手首を庇って悶絶するタジマから隣へと視線を転じれば、そこに思いがけぬ人物が立っていた。サムライだ。何故?サムライは檻の外、金網の向こう側にいたはず。いつのまに瞬間移動した?周囲の状況を把握しようと素早く視線を巡らした僕は、側面の金網が倒れたのを目撃。そして、こちら側の床に折り重なって倒れているのは……売春班の面々。   
 そうか。売春班の面々が金網に一斉突撃、自重に耐え切れず金網が倒れたのか。
 「いけっ、サムライ!」
 「カギャ―ザキを頼む!」
 ルーツァイが威勢よくこぶしを振り上げ、その下敷きになったワンフーが急きたてる。身を呈して突破口を開いた売春班の面々に感謝の念を込めて会釈、体ごとタジマに向き直る。
 憤怒に燃え立つ双眸で上段の構えをとり、サムライが断言。
 「外道が。お前など、直が手を汚すに及ばん」
 「まっ………」 
 命乞いを遮るように木刀が振り下ろされた。
[newpage]
 ビバリーと手に手をとりあって逃避行。
 「リョウさんもたもたしないでください事態は急を要するんス、早くはやく一分一秒もはやくタジマに追いつかなきゃ地下停留場にでなけりゃ乱射騒ぎで血祭りフィーバーっスよ!?」
 「ちょ、ま、待ってよおいてかないでよビバリーってばこの薄情者!人でなし!ビバリーだって僕が持久力ないの知ってるっしょ、こっちはヤクのヤリ過ぎで体力底ついてるんだからもうちょっと思いやりの心持っておんぶしてくれたっていいじゃん!使えない相棒だなあ本当にもう!」
 「なんスかなんスかその言い草は、だれがリョウさんの大ピンチに盾にやってたと思ってるんスか!?それとも僕は所詮弾除けっスか、リョウさんは僕のこと利用するだけ利用してボロ雑巾のようにポイと使い捨てるつもりっスか!」
 「んなこと言ってないじゃん今、ビバリーのことはそこそこ使える相棒だなあって今さっき見直したとこなのに現在進行形で評価大暴落だよ!あーもう疲れた~走れない~おんぶ~」
 「駄々っ子っスか!斜め四十五度の角度で小首傾げても駄目、目え潤ませておててすりすりしても駄目!親父キラーの手練手管は先刻承知っス、リョウさんもラクすることばかり考えずたまには自分の足で走ってください!はいイチ二ッイチ二ッ」
 「イチ二ッイチ二ッてそんなかけ声いまどきアリかよ、白い歯と爽やかな汗がうそ臭いよビバリー…」
 廃墟特有の寂れた空気を醸し出す地下通路にこだまする二重の足音。
 息せききってひた走る僕とビバリーの足音。
 コンクリ打ち放しの天井に等間隔に連なる蛍光灯、延々と左右平行に続く壁。長い間交換もされずに放置中の蛍光灯の幾つかは寿命が切れてるし、辛うじて点っている蛍光灯だって虫の息で瞬いてる。
 手に手をとりあって逃避行なんて洒落た言い回しをしてみたけど実際はそんなロマンチックなもんじゃない。より忠実に現実に即して言うならビバリーに手を引っ張られた僕が嫌々不承不承走らされてるってのが正しい。
 んもうビバリーてば強引なんだから、と誤解を招く言い方してみたり。
 まあ、ハイエナの追跡を巻こうと必死な駆け落ちの光景に見えなくもない。ビバリーに手を引っ張られて強制的に走らされながらそれでもまんざら悪い気はしなかった。
 ビバリーは絶対僕を見捨てない。
 僕がごねても冷淡に突き放したりはしない、キレて手を上げたりしない。こうして不平不満をたれてもぎゅっと手を握ってはなさずにいてくれる。
 ビバリーの手のぬくもりが心強い。人肌のぬくもりが心地いい。
 もうビバリーと離れ離れになるのは嫌だと素直にそう思えた、五十嵐に銃を向けられて痛感した。
 僕にとって、ビバリーはなに?
 ビバリーにとって、僕はなに?
 「…………」
 わからない。わからないよ。そっと目を瞑り、ぎゅっとビバリーの手を握り返す。僕らの関係を表すにはきっとすごく簡単な言葉があるんだろう。すぐそこに答えが転がってるんだろう。
 でも今は知らんぷりをする、見て見ぬふりをする。
 僕はまだ理性と感情に折り合いをつけられない、生き方を変えられない。
 だってそうでしょ?いきなり人生を宗旨替えできないよ。僕はこれまで他人を利用して利用して、徹底的に利用して自己中を極めて生きてきた。僕は子供の頃から薄々気付いてた、だれかが僕に優しくしてくれるのは下心があるからだと。その人の目当ては僕の体だったりママの体だったりママが箪笥に隠してるお金だったり色々で、下心ぬきに僕に優しくしてくれる人間なんかこの世にいるわけないと思っていた。
 騙される前に騙すのが賢く生きる鉄則、世界の法則。
 東京プリズンに来てからもそれは変わらなかった。騙される前に騙さなきゃ生き残れない、東京プリズンじゃだれもかれもがだれもかれもの足を引っ張って出しぬきあってるんだから。
 けど、ビバリーは。
 「ビバリー」
 深刻に呟けば、ビバリーが即座に振り返る。心配げな表情。僕がさんざん「疲れたー」「おんぶー」とねだっても鼻にもかけなかったくせに、僕が本当に伝えたいことには酷く敏感で。
 ああ、いいヤツだなあ。
 ほんと、鼻につくくらいいいヤツ。
 なんだか無性にやるせなくなった。泣きたいような笑いたいようなどっちつかずの複雑な気分。言うなら今しかない、ともう一人の僕がけしかける。今を逃したらずっと言えなくなる、こんな恥ずかしいこと言えなくなる。ビバリーが通路のど真ん中で立ち止まり、訝しげに僕を見る。 
 「あの、ええと、その……」
 赤面した顔を伏せ、頬を掻きつつ、言う。
 『…………………Im sorry』 
 ばつ悪げに謝った僕に返されたのは、心外な反応。 
 「はあ?リョウさん頭でも打ったんスか。そういえばおでこに血が滲んでますけど」
 ビバリーが奇異の眼差しを向けてくる。なにさそのあきれ顔、失礼しちゃうよ。僕がもてる勇気を振り絞って、めちゃくちゃ恥ずかしいのを我慢してごめんなさいをしたのに。あんまりじゃないか、と食ってかかろうとした僕にビバリーが急接近。
 心臓が跳ねあがる。キスされるのか、と反射的に身構えた僕の予想を裏切り、間延びした声が聞こえる。
 「いたいのいたいのとんでけー」
 銃床で殴打された額に人肌のぬくもりが覆い被さる。
 目を開ける。ビバリーが僕の額に手を被せて優しく撫でる。ビバリーはひどく真剣な顔で子供だましのおまじないに取り組んでいた。本当に僕を心配してるのが伝わってくる思いやり深い手つきだった。
 ガキ扱いすんな、とビバリーの手を邪険にどかすこともできたはずなのに敢えてそれはしなかったのは、ママの手の感触を思い出したからだ。僕が熱を出して寝こんだ時、ママもよくこうしてくれた。僕の枕元に付きっきりで寄り添ってくれた。
 いい匂いのする手で、僕の額を撫でてくれた。 
 「ほら、これで大丈夫っスよ。いきましょうリョウさん」
 鼻腔の奥がつんとする。ビバリーの手はママみたいにいい匂いはしなかったけど、条件反射でママを思い出して、無性に涙がこみあげてきた。服の袖で乱暴に目を擦り、涙をふく。こんな涙もろいキャラだっけ、僕?違うっしょ、そうじゃないっしょ。しっかりしろ。
 「ビバリーの手、すごいね。魔法の手だ」
 優しくさしのべられた手をとり、強気に笑ってみせる。
 「そうでしょうそうでしょう、僕のフィンガーテクでロザンナはショート寸前っスよ」
 「言ってろ電脳ハッカー」
 指に指を絡め、力強く握る。ビバリーと頷き合い、再び走り出す。
 床を蹴る足を速めれば、灰色の壁と天井が瞬く間に後ろへ飛び去っていく。足裏が床を叩く振動が壁に伝わり天井の蛍光灯を揺らす。点滅が激しくなる。
 微塵の埃が舞い散る通路をビバリーと前後して疾走。全身の血が沸騰する。心臓が爆発しそうだ。惰性で足を蹴り出しながら朦朧と歪む視界にビバリーの背中を映す。
 ビバリーは前だけ見て猛然と突っ走っていた。
 自分には何の得も利益もないのに、他のだれかのためにいつでもいつだって一生懸命なビバリーは、タジマの凶行を事前に食い止めるためにびっしょり汗かいて走ってる。
 間に合うか?わからない。微妙なところだ。
 五十嵐から銃をふんだくったタジマの目は憎悪で爛々と燃えていた、復讐に燃え盛っていた。タジマに銃を持たせたのはまずかった。今のタジマはなにをしでかすかわからない、満員御礼の地下停留場であたりかまわず銃を乱射して血の海に変えても不思議じゃない。
 銃の件に関しては僕もちょっとだけ責任を感じないでもない。それに、あの銃は元はといえばビバリーが拾ったものだ。もしタジマが銃をぶっぱなして死人がでたらビバリーもただじゃすまない。急げ、急がなきゃ。ああ、体じゅうの細胞が蒸発しそう。頭がゆだって目が回る。左右の壁が物凄い速さで後ろに飛び去っていく。
 「出口っス!」
 ビバリーが快哉を叫ぶ。はじかれたように顔を上げれば、遠く前方に矩形の光。地下停留場へと繋がる出口が見えてきた。ラストスパート。脳内麻薬が過剰分泌されたせいか、僕は酷く爽快な気分で、疲労は既に感じなかった。光がどんどん近付いてくる。
 あと少し、もう少しで天国の扉に手が届く―……
 『Open the  door!!』
 ビバリーと手と手をとりあい、跳躍。光の洪水の中へと身を躍らせる。 
 薄暗い地下通路を抜ければそこは混沌と熱気渦巻くだだっ広い空間、ペア戦のリングが中央に設置された地下停留場。空前絶後の大群衆でごった返す地下停留場に立った僕は、目が明るさに慣れるまで一時停止を強いられる。 
 「タジマはどこ!?」
 「あそこっス!」
 眉間に手庇を翳してビバリーが言う。僕を引きずるように足早に歩き出すビバリー。ビバリーに手を引っ張られて人ごみを抜けながら、光に目が慣れつつあった僕は周囲の異常な気配を感じ取る。
 空気感染する高揚、興奮……熱狂。
 なに、これ?ペア戦はもうとっくに終わったはずなのに波が引かないのはどうして、だれも帰ろうとしないのはどうして。何かが明らかにおかしい、いつもと違う。異質な空気に取り巻かれた二の腕が粟立つ。
 これからとんでもない事件が起ころうとしてる予兆。
 東京プリズンを根底からひっくりかえす出来事が起ころうとしてる前兆。
 リングを中心に嵐の兆しの波紋のように広がる不吉なざわめき。
 「ねえ、変だよビバリー。絶対変だってば、雰囲気がいつもと違う、みんなおかしいよ。もうとっくに試合終わったはずなのになんだって一人も帰ろうとしないの?みんなしてリングを見てるの?リングで一体何が……、」
 人ごみから転げ出て、絶句する。
 目に映る光景は信じがたいものだった。どよめきの渦中のリングでは異常な出来事が起きつつあった。
 「ひっ、ひぎっ、やめっ……頼む勘弁してくれこの通りだ、謝るよ、謝るよだから!!」
 金網に背を寄りかからせ、頭を抱え込んで泣きじゃくるタジマの頭上に容赦なく振り下ろされる木刀。凶暴な唸りを上げて鋭利に風を切り、タジマの頭を、腕を、肩を、脇腹を、全身を無慈悲に打ちすえる。
 暴風の如く荒れ狂い、裂帛の気合いを込めて木刀を振るっていたのは、仁王の形相のサムライだった。
 「………え?な、にこれ」
 サムライのそばには鍵屋崎がいて、片方割れたレンズ越しに呆然とサムライの背中を凝視している。放心状態で立ち尽くす鍵屋崎のそばには肩から流血した安田とロンがいて、その全員が固唾を呑んで、サムライの凶行を傍観していた。だれも止めに入らなかった。止めに入れなかった。
 「わ、悪かったよ!ほら謝った、これでいいだろう!お前の鍵屋崎には金輪際手だししねえって約束するよ、鍵屋崎の半径1メートル以内に近付かねえって約束するよ!この通り土下座するから、」
 床に額を擦り付けたタジマを見下ろすサムライの双眸には、冥途の篝火の如く青白い炎が揺らめいていた。 
 背中に冷水を浴びせられた。
 戦慄で足が竦み、反射的にビバリーにしがみつく。
 「ビバリー、あれ、ホントにサムライ?僕が知ってるサムライと同一人物?わかんない……わかんないよ、わかんないことだらけだよ、なんでサムライがタジマ滅多打ちしてるのリングの上で大群衆の前で!?」
 「落ち着いてくださいリョウさん」
 「異常だよ……サムライの目を見た?普通じゃないよ、完璧イッちゃってるよ!怖い……怖いよ、あんな目のサムライ知らない、あんな物騒な目のサムライ知らない。まるで……」
 まるで、人斬り。
 「!っ」
 僕が手をつかねて見てる前で再びサムライの腕が上がる。
 舞のように優雅な挙措、無駄なく隙のない身ごなし。耳朶がちぎれそうな風鳴り。絶叫。頭を抱えて身を縮こめたタジマの肩を木刀が打ちすえて服が裂ける。肩の肉が爆ぜた激痛に涙と鼻水を滂沱と垂れ流して悶絶するタジマを見下ろし、呟く。
 「外道が」
 物静かな口調だった。だが、僕にはわかった。サムライは激怒していた。僕がこれまで見たことがないほどに、手がつけられないほどに怒り狂っていた。不自然に抑圧された口調は胸の内で吹きすさぶ激情の裏返し、極限まで膨張した怒り憎しみの反動。
 「痛っ、いでっいだっでえててえっててっ、やめてくれ頼むそれ以上したら死んじまう!」
 「この程度でか。張り合いがない」
 「ぎゃあっ!!」
 木刀で鳩尾を刺突。渾身の一撃でタジマが吹っ飛び、もんどり打って転げる。ぶざまにひっくりかえったタジマの服はあちこち裂けて血の滲んだ素肌が覗いていた。何回、何十回殴打されたのか。裂けた額から垂れた血が、鼻梁に沿って滴り落ちる。手のひらで血を受けて悲鳴をあげたタジマのもとへ緩慢な歩調で赴き、殺気を吹かせて上段の構えをとる。
 「畜生道に堕ちろ」
 「やめっ、」
 木刀が肉をぶつ鈍い音が連続、僕の足元に血が飛んでくる。血。タジマの血。タジマの顔面は血まみれだった。これが本当にあのタジマかと疑いたくなる情けない顔だった。這うようにあとじさるタジマの尻を追いかけるサムライの歩調は澱みない。
 ざんばらに乱れた前髪の奥、剣呑に眇めた双眸は憎しみの炉と化していた。
 衣擦れの音さえたてぬ足さばきでタジマに忍び寄り、鬼気迫る眼光で射竦める。贅肉など何処にもない、鞭のように引き締まった痩身のすみずみまで殺気で満たして、気流と戯れるように眉間に木刀を翳す。  
 「獄にて私利私欲を貪り尽くす餓鬼めが。命乞いなど言語道断。お前がこれまで直にしてきたことを思えば釣りがくる」 
 「ぎゃっ、ぐ」
 一回、二回、三回、三回、四回、五回。
 「痛いか。苦しいか。その痛み苦しみ、とく噛み締めて冥途の土産としろ」
 タジマの返り血が顔に跳ねてもサムライは眉一筋動かさず鉄面皮を保つ。
 六回、七回、八回、九回、十回……
 無造作に木刀を振り下ろす。タジマが床に這いくばり顔掻き毟り痙攣をはじめても打擲をやめず、次第に勢いを増して。
 「血があ、血がこんなに……いてえよう畜生、血が目に入って見えねえよう」
 「お前が味わう痛み苦しみなど取るに足らぬものだ。直のそれと比べたら釣りが来る」
 サムライは本気でタジマを殺す気だ。一万人の大群衆が息を詰めて見守る前で、鍵屋崎と安田とロンが身近に見守る前で殴り殺す気だ。
 「もっとはやくこうすべきだった」
 苦渋に満ちた独白。悔恨と自責に苛まれて、目に悲哀を宿してサムライが言う。自分こそが地獄の業火に灼かれてるように痛切に顔を歪めて。
 「俺は躊躇すべきではなかった。もっと早くに剣をとるべきだった、お前を斬るべきだった。俺は馬鹿だ。どうしようもない愚か者だ。直がお前になにをされてるか知らずに、守る守るとただそればかりを経文のごとく繰り返していた。それどころか、俺は満足すら感じていたのだ。今度こそは間に合ったと、手遅れになる前に間に合ったと……想いを懸けた人間が業火に焼き尽くされて灰燼に帰す前に、炎に手を入れて地獄から引き上げることができたと」
 頬に返り血が跳ねる。タジマの返り血を浴びて朱に染まったサムライが、口の端に笑みらしきものを浮かべる。
 だがそれは、笑みというにはあまりに儚くて。あまりに暗く、救いがなくて。
 虚無の深淵が開くような笑顔だった。
 「とんだ思い違いだ。直はまだ、地獄にいるじゃないか」
 「あ、あしがああっあっああ!?」
 タジマの体が跳ね、首が仰け反る。左腕と右足が折れ、逆方向に曲がる。骨が折れ砕けた手足をひきずり、毛虫めいた動きでサムライから逃げるタジマを目の当たりにし、野次馬どもが悲鳴をあげて逃げ惑う。大恐慌。肩を突き飛ばされ頭を小突かれて人ごみに揉みくちゃにされて、それでも足が竦んで動けずに、僕はビバリーに抱き付いていた。サムライの手に握られてるのはただの木刀だ、人を斬り殺すなんて到底できない木刀だ。でも、サムライの手を介して殺気が通った木刀は、外見はそのままに本質が真剣に変異したかの如く異様な迫力があった。
 「俺の手が焼け爛れようとも助けだすつもりだったのに」
 これが最後だと直感した。
 サムライが瞼をおろし、また開く。左手で柄を掴み右手を添えた上段の構え。足を折られたタジマは立ちあがれない、逃げ出せない。もがいてもがいてもがき苦しんで、のたうちまわって唾液の泡を噴いて、「ひいいいィいい」と断末魔をあげる。極限まで目を剥いたタジマの顔に不気味な影が落ちる。
 サムライの影絵がゆっくりと動く―……
 「もういいサムライ、やめてくれ!」  
 「!」
 鍵屋崎がサムライの背中に抱きつく。サムライの腕から木刀を取り上げようと必死に指をこじ開けにかかる。
 「止めるな直、この男を斬らせてくれ!」
 鍵屋崎を振りほどこうとサムライが悲痛に叫ぶ。
 「今ここでタジマを斬らねば俺は一生後悔する!俺はタジマが許せん、この男が許せん!!タジマがお前にしたことを聞いて腸が煮えくり返った、いや、そんな生易しいものではない、地獄の業火に灼かれたほうがまだマシだとおもえる熱が体の奥底から噴き上げてきた!お前を傷付けたタジマが許せん、お前を苦しめたタジマが許せん!!」
 「武士の誇りはどこにやった、無抵抗の人間を殺すつもりか!?武士の信念を放棄してまでこんな男殺す価値もない、君がそこまですることはない!!」
 「お前を抱きながら誓った、いつか必ずタジマを殺すと!!」
 激しく揉みあううちにサムライの手から木刀がこぼれ、頭を抱え込んだタジマのそばへと転がる。激昂したサムライが鍵屋崎の肩を掴む。
 強く強く、力をこめ。
 「あの夜俺は誓った、いつか必ずタジマをこの手で殺すと、さんざんお前を苦しめてお前の誇りを汚したタジマをこの世から葬り去ると!それが今だ。武士の誇りがなんだ、信念がなんだ。お前の傷を癒せぬ誇りなど要らん、お前を地獄から救えぬ信念など要らん!俺には武士であることよりお前の友人であることのほうが大事だ、俺は武士の前に友でありたい、お前を守れる友でいたい!!」
 鍵屋崎の肩を掴んで引き剥がし、木刀を拾い上げたサムライの行く手に両手を広げて回りこむ。
 はからずもタジマを背に庇うように立ち塞がった鍵屋崎をどかそうと肩に手をかける。

 「何故わからない、お前を守りたいのに!」
 「守ってなんかくれなくていい、嫌わないでいてさえくれればそれでいい!!」 

 木刀が指をすりぬける。
 サムライの胸に体重を任せ、必死に縋り付く。サムライのシャツを掴み、胸に顔を埋め、深呼吸する。
 「僕は、怖かったんだ」
 鍵屋崎の肩は震えていた。鍵屋崎は怯えていた。
 サムライを失うかもしれない恐怖に。
 「ただ、怖かったんだ。生まれて初めて出来た友人に軽蔑されるのが、事実を暴露されるのが。君に嫌われるのが怖かったんだ。さっき僕は、タジマを殺してもいいと思った。こんな男死んで当然だと思った。僕にはもう失う物などなにもないから、タジマを殺したところで失うものなど何もないから、今なら引き金を引けると思った」
 サムライの胸をこぶしで叩き、きっぱりとかぶりを振る。
 「大間違いだ。天才にあるまじき思い違いだ。失う物がなにもないだって?とんでもない。あるじゃないか、ここに。いるじゃないか、ここに。
 僕が引き金を引けば、その瞬間にすべてが終わる。
 僕が今まで築き上げた君との関係、君と積み重ねた記憶のすべてが一切合財砕け散ってしまう。跡形もなく終わってしまう。
 人を殺すとはそういうことだ。自分の手で、自分のこれまでを否定することだ。鍵屋崎夫妻を殺した時と同じだ。鍵屋崎夫妻を殺した瞬間に彼らの息子じゃなくなった、カギヤザキスグルじゃなくなった、恵の兄でいられなくなった。さっき僕は、それと同じことをしようとしてたんだ」
 嗚咽にかすれた声で訴え、サムライの胸に顔を伏せる。
 サムライはしばらく茫然自失の体で立ち竦んでいた。木刀を拾い上げる気はなく、殺気も霧散していた。 
 肩を手で庇った安田が、包帯のほどけたロンが息を呑んで見守る前で、胸に縋り付く鍵屋崎の肩に手をかけるサムライ。
 引き離すためではなく、包むために。
 「僕を否定するのか、サムライ。君がかつて帯刀貢を否定したように、帯刀貢という名のもう一人の自分を切り捨てたように、僕たちのこれまでを否定するつもりか?僕たちの関係を断ち切るつもりか。そんなことは認めない絶対に。これからもずっと、君は僕の友人だ。タジマの口から真相を暴露された今でも僕を嫌わないでさえいてくれるなら、君はこれからもずっと、僕の……」
 顔を上げ、まっすぐにサムライの目を見る。
 挑むように、祈るように、縋るように。
 ぼろぼろに傷付いた素顔を曝け出して、真実を曝け出して。
 
 「僕の、サムライだ」
 「お前は俺の、直だ」 
 
 満場の観衆が見守る中、ロンと安田が見守る中、僕とビバリーが見守る中。
 
 「俺の直だ」

 サムライは鍵屋崎を抱きしめた。
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