少年プリズン

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三百二十話

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 二つ折りの免許証入れをめくり、五十嵐が娘を紹介する。
 あくまで穏やかで優しい笑顔で、あたかも娘が生きてるかのように。
 「五十嵐リカ。朝韓併合三十周年パレードで尹 龍一に殺された俺の娘だよ」 
 ヨンイルの眉間に免許証入れを翳し、頼りになる父親の顔でそう言った。

 伊龍一、それがヨンイルの本名。
 五十嵐リカ、それが五十嵐の娘の名。

 点が線になった。
 五十嵐本人の口からヨンイルを殺したいほど憎む真の動機が明かされた。
 壁際に力なくへたりこみ、五十嵐とヨンイルとをおっかなびっくり見比べていた僕の中で、五十嵐の衝撃告白が起爆剤となり猫をも殺す好奇心がまた騒ぎだす。
 五十嵐の娘の顔をよく見たい欲求に駆られ、腹の脇でこぶしを固めて身を乗り出した僕の視線の先、通路のど真ん中で一歩も譲らず対峙する五十嵐とヨンイル。
 蛍光灯が不規則に点滅する通路には、いつ引き金にかけた指が痙攣して銃が暴発してもおかしくないほどきなくさく濃密な殺気が漂っていた。
 壁に背中をくっつけて生唾を嚥下、慎重に体を動かす。
 耳障りな衣擦れの音。おしっこでびしょ濡れになったズボンが太股にぴっちりへばりついて気持ち悪い。
 ああ、パンツ洗わなきゃ。それにズボンも。おしっこちびるなんて何年ぶりだろうまったく、ママに叱られちゃうよ。現実逃避の思考の脱線。壁から背中を起こし、生唾を嚥下。五十嵐がヨンイルの眉間に翳した写真を盗み見る。
 目がぱっちりした可愛い女の子だった。
 色褪せた写真からでも快活な笑い声が聞こえてきそうな笑顔だった。ボーイッシュなショートヘアがよく似合う活発な印象の女の子……
 五十嵐と全然似てないな、とまず最初にどうでもいいことを思った。
 そういえば奥さん似だって言ってたっけ、自慢げに。
 娘の話をする五十嵐はいつも本当に嬉しそうだった。
 親ばかにのろけた笑顔といい照れくさげに頭を掻く仕草といい、僕たちが憧れてやまない普通の父親みたいだった。
 東京プリズンに来る囚人の殆どが治安極悪なスラムの崩壊家庭で生まれ育ったのは統計的な事実で、そいつらには片親しかいないのが普通で、両親揃ってるガキが逆に珍しいくらいだった。
 よくある話父親が他に女作って逃げちゃって、仮に父親がいたとしてもそいつは大抵ヤク中かアル中のどっちかで、妻子に殴る蹴るの暴行働いて社会から落伍した憂さを晴らす人間のクズだった。偉そうに父親ヅラされるよかいっそいないほうがマシな人間だった。物心ついた時分から最低の父親しか知らないガキどもは、ヤク中でもアル中でもない普通の父親が羨ましいのだ。

 でも、五十嵐は違う。五十嵐は本当にいい父親だったのだろう。

 家族思いで娘思いの父親、血反吐でるまで子供を蹴ったり殴ったりなんか絶対しない父親。生前の娘の写真を今も大切に持ち歩いてるのがその証。娘の思い出話をする愛情深い眼差しからは五十嵐がいかに良い父親だったかしみじみ伝わってきた。
 その五十嵐が、ヨンイルの胸に銃口をつきつけている。
 立て続けに衝撃的な出来事が起きて頭が混乱してる。お尻をずらし、背中を起こし、ヨンイルと五十嵐を見比べる。ヨンイルは五十嵐の娘の仇だった。
 情報通の僕は当然ヨンイルがなにして東京プリズンに放りこまれたか前科をばっちり把握してる。天才ハッカービバリーにお願いして個人情報データベースに忍びこみ、極秘管理されてるファイルを盗み読んだこともある。
 ヨンイルの個人データは極秘事項扱いで特に厳重に管理されていて、さしものビバリーもハッキングに手こずっていた。

 ヨンイル。伊龍一。

 祖父は韓国・朝鮮併合を機に半島に帰化した在日二世。
 半島の景気低迷を朝鮮併合による弊害として韓国独立を目指す過激テロ組織にかつては祖父ともども身をおいていた。十一歳で逮捕されるまでのあいだに総計二百個の爆弾を製造、KIAのテロ活動に関与して世間を震撼させた。
 ヨンイルがばらまいた爆弾の巻き添えくった犠牲者の数は二千人をくだらない。
 僕はヨンイルの前科を知ってる。僕だけじゃない、東京プリズンの囚人のあいだじゃ有名な話だ。ヨンイルは間違いなく東京プリズンでいちばん多く人を殺した前科持ちだ。レイジだってかなわないぶっちきりイチバン。
 だからそう、ヨンイルに身内を殺されたと私怨を抱く人間がいても不思議じゃないのだこれっぽっちも。
 けど、それはおとなり韓国の話。
 まさかこの刑務所で、天文学的極少確率の偶然で、娘を殺された父親と犯人とが出会ってしまうなんて。
 復讐が実現するなんて。
 「…………は?」
 ヨンイルはぽかんとしていた。
 口を半開きにした間抜けヅラ。五十嵐の口から真相を聞かされてもにわかに呑みこめないといった放心の表情。五十嵐の言葉が脳裏に浸透するにつれ、ヨンイルの顔に驚きの波紋が広がっていく。
 ヨンイルの表情の変化を苦笑まじりに観察しつつ、免許証入れを閉じ、懐に写真をしまう。
 「覚えてなくても無理ねえか。パレード中に爆弾爆発させたのはお前じゃねえ、お前はあの時テロ現場にいなかったんだから。でもな、リカはあの時あの場にいたんだ。修学旅行先で運悪く居合わせちまったんだ。修学旅行の日程がタイミングよく……いや、悪くか……韓国併合パレードの期日と被ってたんだ」
 五十嵐はあくまで淡々と語る。
 人間として大切な一部分が完全に欠落してしまった違和感ばりばりの口調。口元は薄く笑ってたが目は酷く醒めていた。
 ヨンイルは神妙な面持ちで五十嵐の語りに耳を澄ましていた。
 ヨンイルの胸に銃口を埋め、乾いた哄笑をあげ、五十嵐がヤケ気味に続ける。
 「リカは友達と一緒にパレードを見にいった。そして運悪くテロに巻き込まれた。運悪く、運悪く、運悪く……はは、聞き飽きたぜ。リカが死んでから五年、毎日毎晩考え続けた。俺の娘が死ななきゃならなかったわけを、たった11歳で将来棒にふらなきゃならなかった納得いく理由ってやつを。
 でも、どんだけ考えたってそんなもん見つからなかったよ。
 運悪く。
 まわりの連中だれもかれもが口を揃えてそう言った。リカちゃんは運が悪かったんだ、自分を責めるな五十嵐、お前はなにも悪くない。あのテロはだれも予想できなかったんだ、リカちゃんはたんに運が悪かったんだよ、あの時あそこにいなけりゃ……せめて爆発地点からあと5メートルか10メートル離れてりゃあ一命とりとめたかもしれねえのに。可哀想にリカちゃん」
 五十嵐の目に悲痛な光が宿る。
 銃口に圧力をくわえる。
 肋骨に銃口がめりこむ激痛にたまりかねてヨンイルがよろける。
 だが、五十嵐は動じない。ヨンイルの胸を銃口で小突き、畳みかける。
 「なあヨンイル、これってどういうことだ。リカは『運』なんて目に見えない、形のないものに殺されたってのかよ?そんはずあない。違うか?運に人は殺せない。人を殺すのは人だ。この五年間ずっとずっと考えてたんだよ、リカが死ななきゃならなかった理由を、俺がリカの死を割りきれるちゃんとした理由を。でも、駄目だった。どんだけ考えても埒が明かなかった。
 だってリカは、きちがいどもの馬鹿騒ぎに巻き込まれただけなんだから。リカ自身はなにも悪くないんだから。だれかになにかひどいことしたわけじゃねえ、だれかを騙したり傷付けたりしたわけじゃねえ。修学旅行にでかける前の夜もリカは洗濯物畳んでたんだ、具合悪くて寝こんでる母親の代わりにせっせと洗濯物畳んでたんだよ。そんなリカがなんだってあんな死に方しなきゃならねえ、面影なんかこれっぽっちも残らねえ肉片にならなきゃなんねえ?」
 グリップを破壊せんばかりに手に力がこもる。
 銃口で顎を押し上げ上向きに固定したヨンイルの顔を覗きこみ、自嘲の笑みを吐く。
 「ここでお前と会った時、柄にもなく運命を感じたよ。すっごい偶然だよな、考えてみりゃ。俺は看守でおまえは囚人。はるばる海越えた砂漠くんだりの刑務所で、憎い娘の仇とおなじ空気吸うはめになるなんて悪い冗談にもほどがあるぜ。ありえないよな実際、こんな偶然。運命って呼んでもいいよな。それか宿命か……まあ、どっちでもいいか」
 五十嵐が深呼吸する。
 「お前のデータ読むまで、俺はリカを殺した犯人についてなんにも知らなかった。当局にしつこく食い下がってもなんにも教えちゃくれなかった。日本と韓国のあいだでそういう取り決めがあったんだろうな……今となっちゃどうでもいいことだがよ。五年前、本当はすえながく記念すべきめでたい日になるはずだったパレード中に爆弾ばらまいた実行犯はもういない。あの時あの場にいた大勢の人間を巻き添えに自爆しちまった。でも、爆弾造った張本人はこのとおりぴんぴんしてやがる。毎日漫画読み放題で浮かれてやがる」
 ヨンイルの下顎を銃口で抉り、威圧的に顔を近付ける。
 引き金に指をかけて脅迫され、凄味の利いた目つきで睨まれても、ヨンイルは決して視線を逸らそうとしなかった。
 銃口ではなく、五十嵐の目をまっすぐ見つめ、じっと糾弾に耐えている。
 「ずるいよ、お前」 
 語尾がかすれる。
 アルコール依存症患者のように手が震え、銃口がかちゃかちゃ鳴る。
 五十嵐の顔が悲痛に歪み、双眸で光が揺れる。
 どれだけ憎んでも憎みたりない、どれだけ殺しても殺したりない娘の仇を前に、引き金を引きたい衝動に抗いながら切々と心情を吐露する。
 「リカはもう漫画が読めねえのに、あんなに好きだった手塚治虫読めねえのに、お前ときたら通路歩きながら漫画読んでけたけた笑い声あげやがって……俺はもう、お前に漫画読んでほしくないんだよ。手塚治虫にふれてほしくないんだよ。お前を最初に見た時もそうだった、お前漫画読んでたんたな、漫画読みながら笑ってたな?頭にかあっと血が上ったよ。くそったれの人殺しのくせに、爆弾で二千人殺した鬼畜外道のくせに、お前ときたらまるきり普通のガキみたく笑いやがって。リカが好きだった漫画をリカ殺した張本人が面白がるなんて認めねえ、リカとお前がおなじ手塚治虫好きだなんて許せねえ絶対に!」
 激昂した五十嵐が硬い銃口でヨンイルの脇腹をつく。
 「いいかよく聞け、ブラックジャックはリカのもんだ、お前のもんじゃねえ。人殺しが手塚治虫を読むな、語るな、横取りするな。さも自分こそイチバンのファンだってツラすんじゃねえ。お前も読んだんなら知ってるだろヨンイル、ブラックジャックは立派な医者だよな、最高にかっこいい無免許医だよな。リカが惚れる気持ちがよくわかるよ、お前が憧れる気持ちもわからなくねえよ。けどな、お前には、お前にだきゃあ手塚治虫を読む資格がないんだよ。リカはお前のせいで手塚治虫が読めなくなったんだから、あんなに好きだったブラックジャックが二度と読めなくなったんだから!」
 言ってること滅茶苦茶だ。支離滅裂だ。
 五十嵐はもうヨンイルの憎しみでまわりが見えなくなってる。
 唾とばしてヨンイルを口汚く罵りながらあちこち銃口で小突き回す。
 銃床が肩を殴打、ヨンイルが痛みに顔をしかめ前かがみの姿勢になる。
 銃口がへそを圧迫、ヨンイルが体を二つに折って激しく咳き込む。
 腹を抱えて咳き込むヨンイルの視線にあわせて屈みこんだ五十嵐が、手首に捻りを加えて乳首を押し潰す。
 「…………っ、あ」  
 「痛いだろ」
 いい気味だといわんばかりに五十嵐が嘲笑う。
 卑屈な顔。嗜虐の悦びに爛々と輝く目と低温の笑み。額に脂汗をかき、意志の光失わない反抗的な目つきで五十嵐を睨むヨンイル。その正面に屈みこみ、苦痛に息を荒げるヨンイルの表情を舌なめずりせんばかりに観察しつつ、ごりごりと銃口を回して乳首に重圧をかける。
 「資料に詳細に書いてあったよ。お前がかつていた組織……反政府テロ組織KIAに入るには避けて通れない儀式のことが。組織への絶対忠誠と服従を生涯誓わせるため、KIAじゃ正式メンバーの体に刺青彫るんだってな。
 老若男女関係なくKIAのメンバーの体にはどこかしらに龍の刺青が入ってて、その大きさは組織への貢献度によって異なる。KIAの実態は今だ謎に包まれてて当局も手を焼いてるそうだが、逮捕した連中を徹底的に取り調べてくうちに全員の体におなじ刺青見つけて、事の次第が発覚したんだそうだ」
 五十嵐が銃口をどける。ヨンイルの乳首は切れて血が滲んでいた。
 切れた乳首を一瞥、今度はじかにヨンイルの体に触れる。
 肉付きを確かめるように脇腹を揉み、まさぐる。胸板を撫でる。そうやってヨンイルの体に好き放題さわりつつ、熱に浮かされたように呟く。
 「お前の刺青もそうだ。KIA正式メンバーになる時に彫った龍の刺青……二千人を食い殺した龍だよ。その全身の刺青こそ、お前がだれよりKIAに貢献した消し去りがたい証だ。ヨンイル……日本名で龍一たあよく言ったもんだな、お前はたしかに人食い龍だよ、二千人の血肉を食らって成長した恐ろしい龍だよ!リカは飢えた龍に食い殺されたんだ、腹を空かせた龍の餌食にされちまったんだよ!」
 ヨンイルの体に刻まれた龍の刺青、その鱗を爪で掻き毟り剥がそうとする五十嵐。
 龍のあぎとをこじ開けて喉に手を突っ込んで娘を吐き出させようとでもするかのように必死な形相で、ヨンイルの腕に肩に脇腹に爪を立てる。
 五十嵐の爪で引っ掻かれた肌に赤い筋ができる。
 「吐き出せよ。お前がむかし食い殺した二千人今ここで吐き出せよ、まさか消化しちまったなんて言うなよ、まだたった五年しかたってないんだ、今ならまだ間に合うはずだ、龍の胃袋はでけえからリカは溶けきってないはずだ!なあ返せよ、返してくれよヨンイル、リカを、俺の娘を!」
 五十嵐が爪に力をこめ、龍の鱗を掻き毟る。
 娘を返してくれ、返してくれと馬鹿の一つ覚えみたいに訴えるさまはただ惨めで、救いがたく惨めで、僕は何度も顔を背けたくなった。
 その姿がまるで、殺したいほど憎いヨンイルになりふりかまわず縋りついてるようだったから。
 ヨンイルは同情めいた眼差しを五十嵐に投げかけぼんやり床にうずくまっていた。見るもの不安にさせる掴み所ない表情。体のあちこちを引っ掻かれ、爪で抉られた皮膚に赤い筋が浮いても、痛みを凌駕した驚きのために抗弁できずにいる。

 僕より誰よりヨンイルがいちばん驚いたのかもしれない。

 かつて自分が造った爆弾が五十嵐の娘を殺したと知り、予想だにしない衝撃の事実に打ちのめされ、さっきまでの威勢よさが嘘みたいに虚脱しきっていた。
 両手を腹に回して背中を丸め、額にびっしょりと脂汗をかき、体の鱗を剥がされる激痛に耐えるヨンイル。五十嵐の爪がヨンイルの二の腕に食い込み、痛々しい引っ掻き傷ができる。だが、五十嵐が意地になって鱗を剥がそうとしてもヨンイルの体に刻まれた刺青はかわらずそこにある。
 ただ、ヨンイルの体が傷付くだけ。
 「……はっ、……」
 ヨンイルの目尻が朱を刷き、うっすらと涙の膜が張る。
 なんで反抗しないのヨンイル、突き飛ばさないのさ?
 ヨンイルはまったくの無抵抗で、通路の真ん中に片膝ついて、五十嵐に刺青引っ掻かれるまま唇を噛んで耐えていた。ヨンイルは西の道化、五十嵐がヨンイルの刺青から目を離さずにいる今なら反撃の手段なんかいくらでもあるはず。五十嵐の股間を蹴り上げるか、手を蹴り上げて銃を落とすか……
 方法はなんだっていい、とにかくヨンイルなら五十嵐から銃を取り上げるのなんて簡単なはず。でもヨンイルはそれをしない、他に考えがあるのかどうか遠目に見てる僕にはちっともわからないが、ただ五十嵐にされるがまま通路のど真ん中にうずくまって全身に爪が食いこむ激痛に耐えている。
 首を仰け反らせ、首をうなだれ、ぎりっと音鳴るほどに奥歯を食い縛り。
 こめかみを一筋二筋汗が滴り、みみず腫れに似た赤い筋が全身に浮く。
 「言えよ。もう二度と手塚を読みませんて」
 ヨンイルの肩に手をおき、もう一方の手に銃を預け、そっと囁く。
 「手塚治虫はリカのもんだ。ブラックジャックはリカのもんだ。お前に漫画読む資格はねえ。俺はもう二度と、一生死ぬまで、お前に漫画を読んで笑ってなんか欲しくないんだよ。お前が殺した二千人のこと度忘れして楽しい思いなんかしてほしくねえんだよ」
 「いやじゃボケ」
 深呼吸で意を決したヨンイルが頑固に首を振る。強情な顔つき。
 即答したヨンイルを醒めた目で見下ろし、銃口を下ろす五十嵐。
 ヨンイルの胸板をつ、と滑らせ、へそを縦断した銃口をズボンの中に突っ込む。ズボンの股間に突っ込まれた銃口にヨンイルがぎょっとする。恐怖と驚愕に強張った顔。床に後ろ手ついてのけぞったヨンイルに跨るように前傾姿勢をとり、重ねて脅迫する。
 「言えよ。俺はもう二度と手塚治虫を読みません、語りませんて」
 銃の引き金に指をかけたまま、いつでも発砲できるぞと脅しをかけ、萎縮した股間をつつく。
 もし僕がヨンイルならおしっこちびるの確実。実際、壁にべったり背中付けて傍観してるだけでペニスが縮み上がった。 
 ヨンイルが首肯すればすべてはまるくおさまる。
 五十嵐は正気になって銃をしまうかもしれない、元通り話のわかる看守になって安田に銃を返しにいくかもしれない。
 ヨンイルなにもたもたしてんのさ、さっさと頷いちゃえよ!
 ヨンイルが「はい」って言えばすべてがまるくおさまるんだ、もう二度と手塚治虫読みませんて、漫画と縁切りますって誓えばそれで五十嵐は納得、一件落着の大団円なんだ!
 ああ、イライラする。焦燥で神経が焼ききれそうだ。
 腹を抱えて通路にうずくまったヨンイルは僕がこれまで見たこともない真剣な顔で葛藤してる、深刻な様子で苦悩してる。
 ちょっと待て、これってそんな悩むような二者択一?手塚をとるかイチモツをとるか……イチモツで即決だろ? 
 「………五十嵐。間抜けな話やけど、俺、あんたに恨まれてる理由今の今までこれっぽっちも知らんかった。俺があんたの娘殺した爆弾つくったなんて、想像もせんかった」

 ゆっくりと顔を上げ、ヨンイルが独白。
 未練と葛藤が綯い交ぜとなった目で五十嵐を凝視。

 「こっちきてから五年、俺もヤキ回ってもうた。自分がむかしやったことすっかり忘れて、漫画三昧の極楽ライフ送っとった。あんたが俺を殺したいほど憎むのは無理ない。俺、あんたに階段から突き落とされても自分に非があるなんて気付きもせんかった。あんたに恨まれる心当たりないなんて、神経逆撫ですること平気で言うとった。ホンマ、阿呆や。たった五年間ですっかり腑抜けになってもうた。あんたにはちゃんと俺を憎む理由あったんやな」
 ヨンイルが深く息を吸い、体ごと五十嵐に向き直る。
 だれになにを言われても信念を譲らない目。 
 「せやけど、それだけは断る。俺は手塚が大好きや、じっちゃんの次に手塚尊敬しとる!いくらあんたの頼みでもこのさき手塚を読めなくなるなんてお断りじゃ、手塚は俺のすべて、爆弾造りしか知らんかった俺が東京プリズンで見つけた生き甲斐なんじゃ!!俺には手塚のおらん人生なんか考えられん、このさき漫画読めなくなるくらいなら今ここでイチモツ吹っ飛ばされたほうがマシじゃ!!」

 道化のおおばかろう。
 手塚とイチモツはかりにかけて手塚選びやがった。

 威勢よくこぶしを振り上げ、片膝立ちで啖呵を切るヨンイルに開いた口が塞がらない。
 だって、そんな……アホな。
 五十嵐もぽかんとしてる。絶句。まさかズボンの股間に銃口突っ込まれて危機一髪、もとい危機イチモツの状態で啖呵を切り返すやつがいるとは夢にも思わなかったんだろう……ああ、くだらないこと言っちゃった。危機イチモツって最低のギャグだ。死んだほうがマシだ僕……
 いや、今のは言葉の綾。本当は死にたくない。殺さないでお願い。
 「お前、正気かよ。命と漫画はかりにかけて漫画選ぶのか?お前にとって漫画って、そんなに大事なもんなのかよ。人生に欠かせねえほど大事なもんなのかよ。他にもなにかあるだろうよ、人生に欠かせないもんが!?」
 五十嵐の手が震え、銃口がかちゃかちゃ鳴る。
 僕の位置と距離からでも五十嵐の顔が真っ赤に充血してるのがわかった。
 五十嵐は激怒していた。
 もう無理して平静を装う必要も殺意の衝動を抑制する余裕もなかった。
 ヨンイルへの憎しみを剥き出した醜悪な形相で五十嵐が叫べば、ヨンイルが凄まじい剣幕で反論する。
 「今の俺に漫画より大事なもんなんかあるかボケ、今の俺には漫画がすべてなんじゃ!!五年前まで俺の人生に欠かせんもんは爆弾やった、物心ついたときからじっちゃんの背中見て、じっちゃんに憧れて見よう見真似で爆弾造ってきたんや!じっちゃんみたいになりとうて、じっちゃんが造ったみたいな爆弾造りとうて、毎日毎日寝る間も惜しんで手ぇきなくさくなるまで火薬と銅線いじってきたんじゃ!!」
 衝動的に立ち上がったヨンイルが五十嵐と対峙、発達した犬歯を剥く。
 「せやけどじっちゃんはもうおらん、俺が爆弾造りにこだわる理由ものうなった、俺にはなんもなくなった!そん時見つけたんが漫画なんや、そんな時出会ったんが漫画の神様手塚治虫や!悪いか人殺しが漫画読んで漫画読んで声あげて笑ったら、しゃあないやんオモロイんやもん、最っ高にオモロイんやもん!俺がど腐れ外道の人殺しでも好きなもんは好きなんじゃ、読みたいもんは読みたいんじゃ!!」
 ヨンイルの剣幕に気圧された五十嵐が顔強張らせてあとじさり、ゴーグルから足がどく。その隙を逃さずスライディング、腹這いに床を滑ってゴーグルをひったくる。
 埃まみれでゴーグルを取り返したヨンイルが会心の笑顔になる。 
 犬歯があどけない笑顔。
 「!!!!くそがっ、」
 その笑顔で、なにかが切れた。
 怒髪天を衝く咆哮をあげた五十嵐が両手でグリップを支え、ヨンイルの眉間に銃口を定める。危ない!今度こそ五十嵐は本気だ、本気だヨンイルを殺すつもりだ!
 ゴーグルを腹に庇ったヨンイルがぎょっと目を剥く。
 駄目だ、間に合わない!五十嵐が引き金にかけた指を手前に……
 乾いた銃声が通路に響き渡る。
 「リョウさんっ!」
 「え?」
 懐かしいビバリーの声。ママより誰より今僕がいちばん会いたかった人の声。一瞬幻聴かと疑った。だってあんまりタイミングいいもんだから。
 耳から手をどかして顔を上げた僕の視線の先、五十嵐の腰にしがみついているのは……ビバリー。嘘、ええっ、なんで?!自分が見てる光景がにわかに信じられず試しに頬をつねってみたらちゃんと痛かった。夢じゃない。ビバリーがいる。どっから湧いて出たのか……いや、目を閉じる前にこっちに駆けてくる足音を聞いた。たどたどしく僕を呼ぶ声も……
 ひょっとして、助けにきてくれたの?絶交中の僕を?
 ビバリー、ほんといい奴。
 「なにボ―ッとしてるんすか、こいつ取り押さえるの手伝ってください!」
 前言撤回。
 「ちょ、それが腰抜かしてへたりこんでる赤毛の美少年に言うせりふ!?大丈夫っスかとかどこも怪我ないっスかとかさんざんおっかない思いさせてごめんやっぱり僕が悪かったっスとか他に、」
 ビバリーの顔見た途端、安堵で泣きたくなった。
 けど、再会の感動で泣きべそかくのも恥ずかしいから、壁に肘をついて体を起こしがてら毒舌を返す。五十嵐の腰にひしとしがみついたビバリーはいいように振りまわされて酔いはじめていた。たしかに銃声が聞こえた、銃口が硝煙を噴いてるし五十嵐が発砲したのは間違いないがヨンイルはぴんぴんしてる。
 弾はどこいったとあたりを見まわせば、天井に穴が開いて弾丸がめりこんでいた。間一髪、ビバリーが腰にしがみついた衝撃で銃口がブレたんだろう。
 よし。
 「手伝うよ、ビバリー!」
 生渇きのズボンを気にしてる暇はない。
 五十嵐の手から銃を取り上げなきゃビバリーが危ない。助走して五十嵐にとびかかり、両手で腕にぶらさがる。さっきまで腰が抜けてへたりこんでたのが嘘みたいに恐怖心は消し飛んだ。ビバリーの顔を一目途端に体の底から元気が湧いてきて、ビバリーが頑張ってるんだから僕も頑張らなきゃ相棒失格だと対抗心をかきたてられ、無我夢中で五十嵐にしがみつく。
 「どけ、リョウ!俺が殺したいのはヨンイルだけだ、巻き添えになりたくなきゃ引っ込んでろっ」
 「やだよ!ラッシーに銃預けたの僕じゃん、ラッシーがひと殺したら僕とビバリーが大目玉くらっちゃう!」
 五十嵐が舌打ち、僕とビバリーを振り落とそうと滅茶苦茶に暴れだす。腰を捻り、腕を振り、奇声を発して暴れる五十嵐に必死にしがみつく。
 銃床が額を強打、出血再開。
 かち割れた額から飛んだ血がビバリーの顔にかかる。
 「リョウさん、大丈夫っスか!?」
 「最初にそれ言ってよ!」
 あはは、変なの。こんな状況だってのに、おかしいや。脇腹くすぐられてるみたいに後から後から笑いがこみあげてくるのはどうして、頬が緩むのはどうして?ビバリーが心配してくれるのが嬉しい、僕に声かけてくれるのが嬉しい。無視せず話しかけてくれる、たったそれだけのことが凄く嬉しい。 
 ビバリーがそばにいるだけで体の底から元気が湧いてくる。
 「邪魔すんじゃねえ!!」
 怒り狂った五十嵐が大きく腕を振りかぶる。視界が反転、無重力の浮揚感。背中に衝撃。ああ、やっぱ二人がかりでも駄目か。ちびでやせっぽっちの僕とビバリーが本気をだした大人にかなうわけないのだ。床に転落した僕は、肘をついて上体を起こし、眩暈がおさまるのを待ち……
 「ああああああああっああああああっいいいいいっがらしいいいっ!!」
 招かれざる闖入者。
 「!!」
 ビバリーと同時に振り向く。
 通路の奥、今しも角を曲がって姿を現したのは、全身糞尿にまみれて凄まじい悪臭を放つ……タジマ。タジマ?え、ちょっと待って、なんでタジマがここにいるの?独居房に閉じ込められてるはずじゃあ……
 「だれかが独居房の鍵開けて逃がしたんスよ!」
 「だれだよ、人騒がせな!」
 「俺だよ」
 ビバリーと同時に五十嵐を見上げる。
 正面に顔を据え、卑屈な半笑いでタジマを迎える五十嵐。どんな迷走経路を辿ったんだか、副所長指揮下の看守の追跡を巻いて地下停留場へと繋がる通路へ姿を現したタジマが、酩酊した足取りでこっちにやってくる。
 「……なんでそんなこと?」
 「時間稼ぎだよ」
 にべもなく五十嵐が述べる。
 「タジマを独居房からだせば看守の注意は全員そっちにいく。タジマが暴れてくれればくれるほどこっちにとっちゃ好都合だ。だからタジマを逃がした。俺は動物園の餌やり係で鍵の管理を任されてる、その気になりゃいつでもタジマを逃がすことができたんだ」
 たった、それだけのために。
 時間稼ぎが目的で、タジマを檻からだしたっていうの?
 ぞっとする。五十嵐は正気じゃない。ヨンイルへの憎しみが暴走した挙句、破局にむかってまっしぐらに突き進んでる。
 タジマも正気じゃない。最初は普通の歩幅で、徐徐に大股になり、10メートル付近から全速力で駆け出す。
 タジマに銃口を向ける五十嵐。
 威嚇。
 射殺するつもりはない、銃口を向ければさすがにタジマも大人しくなるだろうと……
 「止まれタジマ」
 だが、タジマは止まらない。五十嵐の制止を無視して全速力でこちらに……
 「止まれ!!」
 五十嵐の顔に焦りが浮かぶ。タジマは止まらない。地鳴りめいた足音を轟かせ、肥満した腹を弾ませ、五十嵐を抱擁するかのように両腕を広げてこちらに駆け寄ってくる。
 白目を剥いた顔、弛緩した口元……
 「危ないっ!!」
 ビバリーが僕の上に覆い被さる。ビバリーの懐に抱かれて続けざまに横転、壁に衝突した脳裏で火花が爆ぜる。ビバリーの腕の中から僕は見た、タジマと五十嵐が衝突する瞬間を。タジマが五十嵐をはねとばす瞬間を。両腕広げて五十嵐押し倒したタジマが力づくで銃をひったくり、ぎらぎら輝く目で銃口を覗きこむ。
 「ごろじてやる」
 タジマの目は五十嵐を通り越してどこかを、だれかを見ていた。
 「あの若造、殺してやる。俺様に恥かかせたこと後悔させてやる。囚人どもが間抜けヅラ並べて見てる前で口に銃突っ込んで脳漿ぶちまけてやる、俺様を独居房にぶちこんでクサイ飯食わせたことたっぷり後悔させてやらあ!!」
 床に転倒した五十嵐が起きあがるのを待たずタジマが走り出す。片手に銃を持ち、地下停留場へと通じる出入り口めざして。僕にはわかった。タジマがだれを殺そうとしてるか、五十嵐から奪った銃でだれに復讐するか。
 安田。
 タジマに独居房行きを命じた東京プリズン副所長。
 「まずいよビバリーこのままじゃ、今のタジマが安田ひとり殺すだけでおさまるはずない、地下停留場で手当たり次第に発砲してまわりの連中巻きこむに決まってる!」 
 「わかってますよそんなこと、ああもう次から次へと!?」
 ビバリーが僕の手を掴んで助け起こし、きっぱり断言。
 「行きましょう、リョウさん。地下停留場が血の海になる前にタジマ食いとめなきゃっス!」
 「ちょっとビバリー、いつからそんな格好よくなったの?惚れそうだよ」
 ビバリーの手をしっかり握り返し、皮肉げに笑う。銃床で殴られた額はまだ疼くけど、かまやしない。
 迷子にならないようビバリーが手を握ってくれるなら。
[newpage]
 「勝者レイジ!!」
 審判役の看守がゴングを打ち鳴らし、レイジの腕をとり高く掲げる。
 最後までリングに立っていたのは東棟の王様レイジだった。
 レイジは最高に最強だった、俺が知ってるレイジだった。余裕綽々鼻歌まじりでとはいかなかったが、背中を焼かれても目を刺されてもサーシャに実力で劣ることなく劣勢ひっくりかえす逆転劇を演じてみせた。
 瞼の裏側には勝利の瞬間が焼き付いてる。
 流れるような一連の動作で襟足で束ねた髪を切断、サーシャの掌中に一束の毛髪だけ残して間合いから飛び退いたレイジの手に銀光閃く。
 サーシャの首筋にひやりと吸いつく銀の刃、切り裂かれる皮膚、一筋流れる血。
 そして皇帝は、王に膝を屈し降参を宣言した。
 だれの目にもあきらかなサーシャの完敗。サーシャは命惜しさに敗北を認めてレイジの足元にくずおれた。
 晒し者。
 コンクリ床に手をつき首をうなだれたサーシャには既に興味が失せたようにナイフを引っ込め、気持ち良さそうに目を細め、惜しみない喝采を浴びる王。
 「王様万歳!」
 「王様万歳!」
 「くそったれレイジがやりやがった、サーシャくだして東京プリズンのトップに立ちやがった!」
 「それでこそ俺たちの王様だ、東京プリズン最強を名乗る東棟の王様だ!」
 「調子いいの」
 リング周辺を占拠した東棟の囚人どもがてのひら返したように労いの言葉をかけるのを見まわし、レイジがまんざらでもなさげに苦笑。
 金網によじのぼったガキどもが口の横に手をあて快哉を叫び、できあがった酔っ払いみたいに肩を組んだガキどもがご機嫌に唄いだす。
 胸が熱くなる。瞼がじんわり熱をおびて目に涙が浮かぶ。
 くそ、人前で泣くなよ恥ずかしい。手の甲で乱暴に目をこすり、涙を拭く。 マジでレイジが死んじまうかと思った、もう二度と帰ってこないんじゃないかと不安になって途中何度も心臓が止まりそうになった。レイジが生きててよかった、とても五体満足とはいえない姿だけど元気に笑っててよかった。
 さあ、帰ってこいレイジ。
 お疲れさんて言ってやるから、おかえりなさいて言ってやるから。
 東棟の面目躍如で盛大に出迎えてやるから。
 金網越しにレイジと目が合う。俺を見つけてレイジが微笑む。
 やること全部やり終えてさっぱりした笑顔。悔いを残すことなくやること全部やり終えた……
 え?
 笑顔の残像も儚く、ぐらりとレイジの体が傾ぐ。
 あっと言うまもなかった。レイジの重心がぐらつき、均衡を失った体が二三歩よろめき、うつ伏せに転倒……鈍い音。振動。濛々と舞いあがる埃。
 「!?レイジっ、」
 力尽き倒れたレイジ。裸の背中は無残に焼け爛れて赤黒い肉を晒してる。まともな神経の持ち主なら正視に耐えない火傷のあと。
背中だけじゃない。
 血糊がべったり付着した前髪でふさがれた左目も、傷口を無理矢理こじ開けられた片腕も……
 大怪我だ。今まで二本足で立ってられたのが不思議なくらいの。
 「気絶したか」
 安堵の表情をかき消して鍵屋崎が呟く。リング中央でうつ伏せに倒れたレイジのもとへ担架を持った医療班が駆け付ける。気絶したのはレイジだけじゃない、ほぼ同時にサーシャも昏倒していた。無理もない、レイジほどじゃないとはいえ片目から大量出血してるのだ。
 担架に乗せられ運び出されたレイジのもとへ、一目散に走りだす。
 「おい大丈夫かよ、ちゃんと息してるのかよ!?」
 人ごみをかきわけおしのけ、邪魔なやつにはすね蹴りをくれ、レイジの安否を確かめたい一心で担架へいそぐ。リングから運び出された担架に仰向けに寝かされたレイジの顔が目にとびこみ、胸がぎゅっと絞め付けられる。
 苦しげな寝顔だ。
 悪夢にうなされてるみたいに脂汗をびっしょりかいてるのに顔色はひどく青ざめていた。
 ぞっとした。
 間近で見たレイジはそりゃ酷いありさまだった。
 血と汗でぐっしょり濡れそぼった前髪が左目に貼りついてるが、斜めに抉れた傷痕は惨たらしく、いくら俺が鈍感でもレイジが危険な状態だと一発でわかって。
 「目え開けろよ」
 嘘だ、こんなの。
 声が震える。足が竦む。
 約束したじゃんか。抱かれる俺の顔見るまで目をなくすわけにいかないって笑ってたんじゃんか。
 嘘だ。レイジの左目がもう開かないなんて嘘だ、どうか嘘だと言ってくれ。 担架の傍らに腰が抜けたようにへたりこみ、おそるおそるレイジの顔を覗きこむ。
 「また見えるようになるんだよな?」
 だれにともなく、一縷の希望に縋るように聞く。
 俺の右隣の鍵屋崎が深刻に黙りこむ。左隣のサムライが沈痛に顔を伏せる。なんだってそんなシケた顔するんだよ、しんきくさいツラするんだよ。担架の傍らに片膝ついて身をのりだし、体温が低下した手をとり温める。
 冷たい手。悪い予感。胸騒ぎ。
 「また見えるようになるんだよな。左目、ちゃんと治るんだよな。傷口縫えば元通りちゃんと物見えるようになるんだよな、瞼開くようになるんだよな、人の顔見分けられるようになるんだよな?なあ、なにか言えよ、どうして黙ってるんだよ。なんとか言ってくれよ鍵屋崎、お前医学書読んでいろいろ知ってるんだろ、俺よか何倍も何十倍も物知りなんだろ?いつも威張ってるじゃねえか、自分は天才だって、不可能を可能にする天才だって。じゃあ不可能を可能する天才の力でレイジの目を治してくれよ、また見えるようにしてくれよ。簡単だろ、お前なら」
 「ロン」
 鍵屋崎を庇うように木刀に手をかけてサムライが歩みでる。
 わかってる、無茶を言ってることは先刻承知だ。
 世の中にはだれがどんだけ頑張ってもどうにもならないことがある、諦めて受け容れるしかない現実がある。
 でも。
 胸裏で激情が沸騰する。喉元に悪態が殺到する。くそ、くそ、くそ……レイジの手を必死に擦る。脳裏に過ぎる凄惨な光景、レイジとサーシャが目を刺し違えた瞬間の映像。あの時俺は金網越しにレイジの左目が切り裂かれる瞬間を目撃して、レイジの顔面が鮮血に染まる瞬間を目撃して、それでも金網飛び越えて助けにいく踏んぎりがつかなくて、結局またレイジを見殺しにして。
 「治るんだろ。また見えるようになるんだろ」
 胸が痛い。痛くて苦しくて呼吸ができない。
 担架の傍らに膝をつき、意識不明のレイジの手をとり、執拗に擦り続ける俺に憐憫の眼差しを投げかけるサムライと鍵屋崎。担架を担いだ治療班も、わざわざ首を捻って俺を見下ろしてる。同情の眼差し。
 レイジの手に両掌を被せて額に導き、頭をたれる。
 額の火照りがレイジに伝わるようにと目を閉じた俺の姿は、手を介して生気を注ぎこむ儀式めいて連中の目に映ったことだろう。
 そばには医者がいた。東京プリズンの医務室でしじゅう居眠りしてるヤブ医者だ。老眼鏡を傾げ、気遣わしげにレイジを覗きこみ、血糊で塞がれた左目を調べる。
 「………」
 重たい沈黙が肩にのしかかる。
 医者は何も言わない。細心の手つきで傷の周辺部に触れて怪我の程度を確かめている。サムライと呑気に将棋やってた時とは人が違ったみたく厳しい顔。ひどく苦労して生唾を飲み込み、医師の診断を待つ。
 鍵屋崎とサムライも不安げな面持ちで医者を見つめていたが、二人の目の底には最悪の事態を予期した諦念がたゆたっていた。
 俺たちが見つめるまえで、レイジの顎に手を添えた医者が無念そうにかぶりを振る。
 「残念だが、手遅れじゃ」
 手遅れ?
 レイジの手を握ったまま、ぼんやりと医者を見上げる。周囲の喧騒がにわかに遠ざかり雑音が消滅する。担架に乗せられたレイジは呼吸してるかどうかも不確かな状態で意識の有無も判然としない。
 「手遅れ、って」
 「傷が深い。早急に処置したところで左目の失明は免れない。それに彼は大量の血液を失っている、はやく輸血しなければ命に……」
 「手遅れって、ふざけんなよ!?」
 やり場のない怒りに駆られて怒鳴る。
 手遅れ。それはつまりこの先一生レイジの目が見えなくなるってことで、顔に傷痕が残っちまうってことで……
 失明。頭が混乱する。

 『俺としたことが肝心なこと忘れてたぜ、そうだよ、そうだった、俺まだロンを抱いてないじゃん』
 そうだよ。抱いてないじゃん。
 『ここで目え抉られたらロンが感じてるとこ一生見れないじゃん、やばい、うっかりしてた』
 うっかりしすぎだぜ、王様。

 レイジの左目はもう一生見えない。もう一生開かない。
 硝子みたいに綺麗な瞳だったのに。俺の大好きな目だったのに。
 医師が下した非情な診断結果に衝撃冷めやらぬ俺は、放心状態でその場にうずくまり、レイジの前髪をすくいとる。
 小刻みに震える手で前髪をどける。
 外気にふれた左目には無残な傷痕ができていた。担架に寝かされたレイジを間近で覗きこみ、憔悴の色が滲んだ寝顔にほんの数時間前の面影を重ねようとするが、うまくいかない。
 ほんの数時間前まで俺の隣で元気に笑ってたレイジの面影が急激に薄れていって、掴み所なく漠然としたものへと変わってく。
 一年と半年かけて積み重ねた記憶が指をすりぬけていく。
 ほんの数時間前のことなのに、ほんの数時間前までレイジの目は両方ともちゃんと見えてたのに。
 両目ともちゃんと瞼を開けてたのに、両方の目に俺を映してたのに、俺はもう両目を開いたレイジの顔が明確に思い描けなくなってることに気付いて愕然とする。
 そんな馬鹿な。信じたくない。
 俺が一年と半年見慣れたレイジの輪郭がぼやけて違うものへとすりかわる。
 勝利の代償はあまりに大きすぎた、レイジは身体の一部を犠牲にして勝利を掴んだのだ。レイジの左目はもう二度と見えない、勝利の代償に永遠に光を失ってしまった。
 「医者なら治せよ」
 ひどく胸が疼いた。折れた肋骨のせいじゃない、俺自身の不甲斐なさのせいだ。なんで助けてやれなかった、レイジが目を切り裂かれる瞬間を指くわえて見てた?なんで体を張って止めてやれなかった、相棒のくせに。
 塩辛い涙と鼻水が一緒くたに鼻腔の奥をぬらす。
 泣いてたまるか。
 大勢が見てるのに、野次馬どもに取り囲まれてるのに、泣いてたまるか。
 奥歯を噛みしばり涙を嚥下、白衣の胸ぐら掴んで力任せに医者を揺さぶる。
 「あんた本当は名医なんだろ、なら治せよ、レイジの目がまた見えるようにしてくれよ!頼むこのとおりだ、一生のお願いだ!」
 「無茶だよ」
 「あんたこいつの目え見たことないのかよ、すっげえ綺麗な瞳えしてるんだよ、こんな試合で失っちまうにはもったいないくらいさ!じっと見てる吸いこまれそうで、おっかないくらい澄んだ目で、なにもかもすべてお見通しってかんじで……ああくそっ、なんでだよ、なんで肝心なときにうまい言葉がでてこないんだよ!?くそ……本当に、おっかないくらい綺麗な瞳なんだよ。最初はこいつの目が嫌いだった、俺が隠してる本音とか全部見通されてるみたいで落ち着かなくて」
 そうだ、最初の頃はレイジの目が嫌いだった。
 レイジの目にじっと見つめられるのが怖かった。レイジに怯えてることまで見ぬかれてるみたいで時々たまらなくなった。
 でも。いつからか俺は、レイジの目に映る俺の表情が柔らかくなってることに気付いて。
 俺を宿す目の色が日増しに柔らかくなってることに気付いて。
 レイジの目に見入られて、レイジの瞳に魅入られて。
 「今は大好きなんだよ、レイジの目も笑顔も俺になくちゃならない大事な物なんだよ!だから治せ、気合いと根性で治せ、さっさと手術して傷口縫合して……できるだろ、やれるだろ?ヤブ医者の汚名返上で本領発揮しやがれ耄碌ジジィ、医者なら手遅れなんて言い訳せずとことん悪足掻きして患者救えよ!」
 「ロン、いい加減にしろ」
 すぐ耳元で鍵屋崎が囁き、俺を羽交い絞めにして医者から引きはなす。
 それでもまだ気はおさまらない。白衣の胸を掴んで激しく揺さぶりをかけた医者が咳き込むのを睨み、滅茶苦茶に手足を振りまわす。
 「畜生、ブラックジャックならできたのに!ブラックジャックはどんな難しい手術だって成功させたのに、絶対助からないって言われてる患者だって救ったのに……怪我の具合見ただけで匙投げてんじゃねえよヤブ医者、助けてくれよ、助けてやってくれよ!レイジの目がもうだめなら俺の目くれてやるから、左右色違いの目になっちまうけどいいよな、見えなくなるよりマシ……」

 ―「ブラックジャックにもできないことはあるんだ!!」―

 鍵屋崎に一喝され、体の力が抜けた。
 耳のすぐそばで叫ばれたせいで鼓膜が麻痺した。
 緩慢な動作で肩越しに振り向けば、俺を羽交い絞めにした鍵屋崎が、片方割れたレンズ越しに真剣な眼差しをむけてくる。
 心の一部を毟られるかのように悲痛な光を宿した双眸。
 「……現実を受け容れろ、ロン。ブラックジャックにも不可能はある。手術を失敗したことだってある、力及ばず死なせた患者もいる。レイジは片目を失ったが命をとりとめた。それだけで十分じゃないか」
 「……十分だと?」
 「ああ」
 衝動的にこぶしを振り上げるが、途中で動きをとめる。俺を羽交い絞めにした腕から鍵屋崎の震えが伝わってきたから。下唇を噛んで顔を伏せた鍵屋崎が、努めてそっけなく平板な口調を意識して俺の説得を試みる。
 「レイジは助かった。僕たちのもとへ帰ってきた。片目を失っても背中を焼かれても約束どおり戻ってきた。誉めてやれ、ロン。よくやったと労ってやれ。ここは怒る場面じゃない、みっともなく取り乱す場面じゃない。きみがまず真っ先にしなければならないことは幼稚なやつあたりか、医者に無理難題をふっかけて痴呆の老人を困らすことか?」
 鍵屋崎が拘束をとき、俺を解放する。ふらつく足取りで担架に接近、その場にへたりこむ。担架をぐるりと取り囲んだ野次馬が興味津々俺とレイジとを見比べる。周囲の野次馬が不躾に好奇の眼差しを浴びせる中、担架の傍らに膝をつき、レイジの額にてのひらを翳す。
 「…………」
 鍵屋崎の言うとおり、レイジは約束を守った。約束通り帰ってきた。片腕と目と背中を怪我してぼろぼろになりながらもこうして帰ってきた。
 額にそっと手をおく。てのひらを被せた風圧で睫毛が震え、まどろみから浮上した右瞼が動く。
 試合を終えたレイジに最初にかけてやる言葉は決めていた。
 ゆっくり深呼吸し、しっとり汗ばんだ額を優しく撫でる。
 レイジがいつ目を開けてもいいようにひどく苦労して笑顔をつくり、そして……
 
 『歓迎回来』
 おかえり。

 長かった。
 憑き物が落ちたように肩の力がぬけた。レイジは相変わらず目を閉じたままだったが、先ほどと比べてだいぶ呼吸がラクになり、口元には笑みが覗いていた。
 安らかな寝顔だった。
 「まさかくたばっちまったんじゃねえだろな、レイジ!!」
 野次馬をおしのけ蹴散らし、怒涛の足音をたて憤然と駆けて来たのは凱。ちょうど立ちあがりかけた俺を突き飛ばして担架の脇に屈みこみ、勝手に勘違いして悲鳴をあげる。
 「……なんてこった。くそ、しっかりしろレイジ、俺がお前倒して東棟のトップにのしあがるまでくたばるんじゃねえぞ!勝ち逃げなんて卑怯な真似許さねえぞ、聞いてんのか王様!?」
 凱が怒声を浴びてもレイジの瞼はぴくりとも動かず、傍目には死んだようにも見える。
 「俺と決着つけるまで死なせてたまるかよ……東棟最強の座はこの俺様のもんだ、てめえをトップからひきずりおろすまでは懲役満了しても娑婆にでねえって決めてんのに……俺を一生東京プリズンに縛り付ける気かよ、東京プリズンの地縛霊にする気かよ。冗談じゃねえ、そんなことになったら俺に会うのたのしみにしてる可愛い可愛い娘と永遠にはなればなれになっちまうじゃんか!?」
 動揺した凱がレイジの肩に手をかけ身をのりだし、この場に居合わせた全員の度肝をぬく行動にでる。 
 
 凱が、レイジの唇を吸う。

 「………は?」
 大きく息を吸って胸郭を膨らませた凱が、再びレイジの肩に手をかけ、口移しで息を吹き込もうとする。ああそうか人工呼吸ねなるほど……なるほどじゃねえよ!?
 「凱てめえ俺に断りもなく何やってんだ、とっととレイジから離れろ!!」
 頭の血管が三本くらいまとめてぶち切れた。今まさに二回目の人工呼吸をおこなおうとしてる凱の背中に体当たり、衝撃ではねとばす。両腕広げてレイジを背中に庇う俺の足元、むくりと上体を起こした凱が獰猛に歯軋り。
 「どけよ半々、今こいつに死なれたら困るんだよ!レイジにはいやでも生き返ってもらわなきゃ俺は一生東棟の三位どまり、東京プリズン制覇は無理でも東棟制覇の野望は必ずなしとげるって娘に誓った手前示しがつかねえじゃんか!?」
 「んな傍迷惑なこと誓われる娘も可哀想だ!だいたい人工呼吸っておま、発想飛躍しすぎなんだよ心臓に悪いもん見せんじゃねえよ、まわりよーく見まわしてみろ野次馬が吐いてるだろうが!?」
 「じゃあお前がやれよ、子供騙しのキスで眠り姫が目覚めるたあ到底思えねえけどな!肺活量は俺のが数段上だ、無理矢理にでも空気吹きこんでやりゃほら……」
 凱が顎をしゃくった方角をつられて見れば、担架に肘をついて上体を起こしたレイジが、至近距離に迫った凱の唇にぎょっと仰け反り……
 「……マジ、それだけは勘弁」  
 それだけ言って、今度こそ本当に昏倒した。
 「………なんて醜い光景だ。餓鬼の宴、愚の骨頂だ」
 「同感だ」
 レイジの唇を争い掴み合いの喧嘩をする俺と凱を見比べ、嫌悪に眉をひそめる鍵屋崎の横でサムライが頷く。ああくそ、こんなことやってる場合じゃねえ!レイジの怪我の具合が心配だ、手当て終わるまでついててやらなきゃ…
 「!?痛でっ、この半々!」
 「レイジの唇の借りだ!」
 凱のすねをおもいきり蹴り上げて宙に襟首吊られた姿勢から床に着地、担架を追って走りだそうとした俺の背後で鍵屋崎が疑念を呈する。
 「そういえば、先ほどの銃声は……」
 銃声。
 そうだ、すっかり忘れてた。鍵屋崎に知らせなきゃいけないことがあったんだ。医務室のベッドの上、パソコンに映しだされた光景……銃をもった五十嵐。
 「五十嵐」
 鍵屋崎とサムライがこっちを向く。慌ててあたりを見まわすが、地下停留場のどこにも五十嵐の姿は見当たらない。ばかりか、看守の姿自体が見当たらない。変だ、どうして看守がこんなに少ないんだ?さっきの銃声といい俺たちの目の届かないところでなにかとんでもないことが起こってるんじゃ……
 「なにか心当たりがあるのか?」
 「鍵屋崎。さっきの銃声、たぶん五十嵐だ。五十嵐が銃を撃ったんだよ」
 鍵屋崎が驚愕する。サムライが目を細める。一気に表情を険しくした二人を窺いつつ、たどたどしく説明する。
 「ビバリーが医務室に持ち込んだパソコンに偶然映ったんだ。ちょうどお前とヨンイルの試合のときだ、隠しカメラしかけた金網が倒れて、五十嵐が銃に手をかけた瞬間が映って……お前たしか言ってたよな、安田の銃が盗まれたとかなんとか。俺も詳しいことはよくわかんねえんだけど、とにかく今銃を持ってるのは五十嵐で間違いない。ええと、たしか最初はビバリーが拾ったんだ。で、シャツに隠して房に持ちかえったものの後始末に困って、話のわかる五十嵐から安田に返してもらおうと……鍵屋崎大丈夫か?真っ青だぜ」
 「致命的欠陥のある君の説明を補足するとこうなる。最初、ビバリーが地下停留場で銃を拾ったのち五十嵐に相談して返却を頼んだ。しかしそれだと時間経過が矛盾する、安田が銃を紛失したのは三週間以上前、いかにビバリーが銃を隠蔽していた期間が長くとも返却に三週間もかかるはずが……」
 「故意に隠していたのだ」
 眼鏡のブリッジにふれて考えをまとめる鍵屋崎にサムライが助言する。
 「そうとしか考えられん。五十嵐はあえて安田に銃を渡さず持ち歩いていた。しかし、何の為に……」
 「復讐」
 「え?」
 サムライの語尾を奪い、鍵屋崎が断言。はじかれたように鍵屋崎を見れば、本人は偏頭痛をこらえるかのようにこめかみに手をあて、意味不明なうわ言を呟いていた。
 情緒不安定に思い詰めた目を虚空に凝らして。
 「そんな、まさか。そんなことあるはずがない、あっていいはずがない。看守が私怨で囚人に復讐、副所長の銃で囚人を殺害?そんなことをすれば五十嵐もただでは済まない、間違いなく処分をうけるはず……吊られた男。努力。忍耐。困難。障害。奉仕。自己犠牲と引き換えた成果。救済。五十嵐にとっての?復讐が救済となりうるか?復讐は自らの首を絞める行為だというのに……」 
 「おい、どうしたんだよ天才。お前いつも以上に言ってることおかしいぞ」
 「五十嵐はそこまで彼を憎んでいるのか、自己犠牲の上に成り立つ復讐を望んでいるのか!?」
 聞いちゃいない。
 話にさっぱりついてけない俺を無視して鍵屋崎があたりを見まわす。視線を彼方にとばしてだれかを捜してるみたいだが一向に見つからないらしく、もはや平常心を完全に失った鍵屋崎が怒涛の流れに逆らい地下停留場の人ごみをかきわける。
 「ヨンイルはどこにいる、何故五十嵐とヨンイルの姿が一緒に消えてる!?五十嵐はまさか……くそ、手遅れになるまえに止めなければ。僕にはもう既に最悪の想像しかできない!!」

 ―「見つけたあ!!」―
 
 二度と聞きたくない声がした。聞いただけで体が拒絶反応を起こす声。
 地下停留場を埋めた野次馬が不穏にどよめき、人垣が真っ二つに割れる。
 サムライに腕を掴まれた鍵屋崎が頬をぶたれたように顔をあげる。慄然と立ち竦んだ俺と鍵屋崎の視線の先、凄まじい悪臭を撒きちらして一歩、また一歩とこちらに足を運ぶのは……

 俺たちに銃口を向けたタジマだった。
[newpage]
 タジマが僕たちに銃口を向けている。
 「……なっ……、」
 絶句する。
 何故タジマがここに?タジマは本来ここにいるはずのない人間だ。
 前回タジマはロンに強姦未遂を働いた現場を安田に目撃されて、無期限の独居房行きという厳重処分を下された。タジマが正式に独居房から出されたという話は聞いてない。もし正式に許可がおりてタジマが独居房を出れば僕ら囚人の耳に届かないはずがない。僕の記憶が正しければ、反省の色が見られないタジマは現在も独居房で謹慎中のはず。
 そのタジマが何故ここに?
 一体全体僕の預かり知らぬところで何が起こっている?
 予測不能の事態が次から次へと起こる。五十嵐が安田の銃を持っていたことといい、五十嵐とヨンイルの姿がほぼ同時に地下停留場から消失したことといい……とてつもなく悪い予感がする。いやな胸騒ぎがする。最悪の事態が別の場所で同時進行してるような漠然とした不安、焦燥感。
 タジマはひどい恰好をしていた。脳天からつま先まで糞尿に汚れきり凄まじい悪臭を放つ姿はまともな神経の持ち主なら到底正視に耐えないものだ。
 タジマは完全に理性を喪失していた、錯乱していた。痴呆じみて弛緩した口元から唾液の泡を噴き、真っ赤に充血した目を爛々と光らせている。
 「見つけたぞ……見つけたあ………こんなところにいやがったのかあ」
 呂律が回らぬ口調でタジマが言い、一歩、また一歩とよろけるように僕らのほうへ歩み寄る。右手に銃を構えたまま、覚束ない足取りで僕らに接近するタジマを遠巻きに眺める囚人の誰一人寄ってこようとしない。
 タジマは悪臭の塊、歩く汚物と成り果てていた。
 独居房から出たその足でシャワーも浴びず地下停留場に乗り込んだらしく、タジマが一歩進むごとに強烈な臭気が漂ってくる。
 「だれかが独居房の鍵開けて、タジマを逃がしたんだよ」
 僕の隣、恐怖と驚愕に強張った顔でロンが口早に説明する。ロンは食い入るようにタジマを見つめていた。一歩、また一歩……着実に縮まる距離、狭まる間隔。タジマが僕らのもとに辿り着くまでもういくらもない。
 残り5メートル、3メートル……
 鼻腔を刺激する下水の臭気に吐き気をもよおす。嘔吐の衝動を覚えて腹部に手をやった僕の隣、サムライが木刀に手をかけタジマを牽制。
 無意識に僕の肘を掴み、怯えきった顔でロンが言う。
 「けど、わかんねえ。わかんねえことだらけだ。おい鍵屋崎、なんでタジマが銃なんて物騒なもん持ってんだよ?さっきまで銃は五十嵐が持ってた、俺がちゃんとこの目で確認したんだから間違いねえ、マジだよ嘘じゃねえよ、ビバリーにも確認してみろって!?銃は五十嵐が持ってたんだ、それがなんでちょっと目えはなした隙にタジマなんかに渡ってんだよ、独居房から出た直後で頭イカレてるタジマに銃なんか渡したら誰彼構わず手当たり次第に……」
 「落ち着けロン、狼狽するな。冷静に状況を分析しろ。タジマが銃を入手するに至った経緯の明言は避けるが、今重視すべきはタジマが銃を持ってるという看過しがたい事実。他の看守はどこに行った?くそ、肝心な時に姿が見えないなんて使えない連中だ!一目見ればわかる、タジマは完全に正気を失ってる、今のタジマに銃を持たせておくのは危険……確実に死傷者がでる!」
 他の看守はたぶん、独居房から脱走したタジマを捜しに散っているのだろう。地下停留場をざっと見まわしてみたところで周囲に群がっているのは戦々恐々とタジマの動向を窺う囚人ばかり、看守の姿はごく少数。
 地下停留場にわずか残った看守にしてみたところで、タジマが銃を手に乗りこんだ事実に狼狽して無能に立ち尽くすばかり。
 東京プリズンの看守が無能なのは今に始まったことではないが、せめてもう少し彼らに機転が利けば、手分けして安田を呼んでくるなり団結してタジマを取り押さえるなり迅速に行動を起こしたはずだ。
 どうする?
 焦燥で神経が焼ききれそうだ。着実に縮まる距離、強まる悪臭。タジマは完全に理性を喪失していた、地下停留場を埋めた大群衆のどよめきもその耳には届いてない。来るな、こっちに来るな。頼むから来ないでくれ。足が竦む。全身の毛穴が開いて嫌な汗が噴き出す。
 狂人に銃口を向けられてる事実より何より僕を戦慄せしめたのは不安定な足取りで接近してくるタジマの存在そのもの。タジマの顔など二度と見たくなかった。タジマの声など二度と聞きたくなかった。
 『お前は酷くされるのが好きなんだろう』
 やめろ。
 『妹のこと考えながらイった気分はどうだよ、変態』
 やめろ。
 『これからも毎日毎晩お前を買いにきて犯してやるお前のケツは俺のもんだお前は俺以外じゃ満足できないカラダに毎日調教して従順に躾て』
 やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ!!
 耳を塞ぎたい。幻聴か現実か区別がつかないタジマの哄笑が頭蓋の裏側に響き渡る。怖い。僕にとってはタジマの存在そのものが恐怖の象徴、東京プリズンにいるかぎり逃れがたい恐怖の象徴なのだ。
 タジマの声を聞いただけで二の腕が鳥肌立ち、金縛りにあったように体が硬直する。やめろ、もう二度と僕に近付くな、売春班の悪夢を喚起させるな!
 タジマからあとじさるように半歩退いた僕の隣、木刀を正眼に構えたサムライが独白。
 「お前は、俺が守る」
 「どけえええええええええっ、用があんのは親殺しだああああああっ!!」
 タジマが猛然と疾駆、突撃。太股を庇うように腰を落として身構えたサムライが鋭い呼気を吐いて木刀を一閃。袈裟懸けに振り下ろされた木刀がタジマの手首を―……
 「!?ぐあっ、」 
 遅かった。木刀が手首を弾くより速くサムライの懐にとびこんだタジマが、銃床で太股を強打。傷が開き、さっき巻いたばかりの新しい包帯にあざやかに血が滲みだす。
 「サムライ!?」
 額にびっしりと玉の汗を浮かべ、太股の激痛に膝を折ったサムライが、それでもタジマを食いとめようと
むなしく片腕をのばす。だが、惜しくも届かない。サムライの手から遠ざかるタジマの背中。
 「直っっ!!」
 絶叫。虚空に翳した手で空気をむしりとるサムライへと僕も腕をのばす。あともう少し、もう少しで届くのに。嫌だ、もうサムライと引き離されるのはいやだ!公約通り100人抜きを達成したのに、これで売春班を潰すことができるのに、サムライのもとに帰れるのに、これですべて終わったはずなのに!
 サムライの手をとろうと精一杯腕をのばす。自由に動かない片足を引きずるようにコンクリ床を這ったサムライが、タジマの肩越しに悲愴な顔を向ける。
 「貢、」
 「下の名前で呼びあう仲たあ羨ましいな」
 衝撃、首に圧迫感。サムライへ駆け寄りかけた僕の背後に回りこみ、首に片腕を回し、徐徐に力を加えてて絞め上げる。こめかみにめりこむ銃口の感触。耳朶にかかる吐息。背後にタジマがいた。僕の肩に顎をのせ、引き金に指をかけ、こめかみに銃口をつきつける。  
 「鍵屋崎っ!」
 「手えだすな。ダチが脳漿ぶちまけるとこ見てえのか」
 僕の首に腕をまわし、後ろ向きに歩みながらロンを恫喝する。銃口を一巡させて周囲の野次馬を威嚇しつつ、リングに上がりこむ。レイジとサーシャが流した血だまりに足跡をつけ、僕をひきずるように中心に立つ。
 獣じみて荒い息遣いがタジマの興奮を伝えてくる。
 リングには僕とタジマ二人きり、金網越しの地下停留場では何千何万の大群衆が息をひそめてこちらに注目してる。異常な緊迫感。タジマは銃を所持してる、へたに刺激すれば銃を乱射して大量の死傷者をだす大惨事を招きかねない。
 冷静に、冷静に対処しなければ。
 唇を舐め、生唾を嚥下。首に巻かれた腕に手をおき、上目遣いにタジマの表情をさぐる。
 「貴様、なんのつもりだ?僕を人質にとって、これから何をしでかす気だ。わざわざ地下停留場に乗りこんでリングの中心で大群衆の視線を独占するとは自己顕示欲旺盛なことだが、目撃者が多数いる前で副所長の銃を囚人の頭につきつけるとは無謀な行為といわざるえない。それだけじゃない、反省の色もなく無断で独居房を脱走した罪は重い。今度は独居房送りでは済まない、免職を覚悟したほうが……っ!?」
 「黙れよ」
 銃口に圧力がかかり、こめかみが削れる。
 「いいかよく聞け鍵屋崎、俺は今怒ってるんだよ、最高に腹が立ってるんだよ……鍵屋崎、お前独居房入ったことあるか?ねえだろうそうだろう、なら教えてやるよ動物園の実態を!
 独居房送りになった囚人は寝返りもうてねえ狭苦しい穴ぐらで後ろ手に手錠かけられて、上のお許しがでるまでてめえの糞尿にまみれて過ごすんだよ!!俺が説明するまでもなくお利口さんならお前なら知ってるだろうが、うさぎはストレス溜まるとてめえの糞食べ出す習性があるんだそうだ。
 独居房の囚人だってそうだ、ああそうだ、俺は自分の糞だって食ったぜ!!スカトロだスカトロ、目え開けようが閉じようが真っ暗なのに変わりなくて、身動きできずに転がされて、恐怖とストレスで発狂しそうになってよお……ははは、なんでこの俺様がそんな目に遭わなきゃなんねえ?最強看守のタジマ様が独居房でスカトロしなきゃなんねえんだよ畜生、これも全部安田の若造のせいだ、あいつが東京プリズンに来てから全部狂いはじめたんだ!!」
 大量の唾をとばしてタジマが喚く。
 極限まで目を剥いて怨念に塗れた呪詛を吐くタジマの剣幕に周囲の囚人が圧倒され、戦々恐々と距離をとる。
 僕の背中に腹を密着させ、腕に力を加えて首を絞め上げる。
 気道が圧迫され、息が苦しくなる。タジマの腕を掻きむしり身悶えて解放を訴えても無駄だ、タジマはまるで聞く耳もたず続ける。
 「馬鹿にすんな、伊達に長く看守やってねえ、東京プリズンのことなら全部まるごとお見通しだ……ああ、そうだよ。五十嵐とヨンイルの関係もお前と安田の関係も、ぜーんぶお見通しだ」
 「僕と安田の関係?」
 思わせぶりな言動に眉をひそめる。五十嵐とヨンイルの関係はともかく、僕と安田の関係とは?僕と安田は副所長と囚人、それ以上でも以下でもない関係のはず。たしかに僕は安田に好感をもってはいるが、ただそれだけの……
 「知ってるんだぜ。お前、安田とできてるんだろう」
 絶句。
 「斬新な発想だな。僕と安田が肉体関係を持ってると疑惑を抱いてるなら妄想甚だしい。僕は囚人で安田は副所長、それ以上でも以下でもない関係だ」
 「嘘つけよ。ただの囚人に接する態度にしちゃあヤケに親切じゃんか、お固いエリートの副所長が数多いる囚人のなかでお前にだけ特別目えかけてるのにはそれ相応のワケがあるに違いねえ。正直に吐いちまえよ、安田とできてるんだろう?安田にケツ貸す見返りに贔屓してもらってんだろ」 
 身に覚えのない疑いをかけられた反発に体が火照る。
 安田は潔癖なエリートだ。どこかのタジマと違って囚人に肉体関係を強要したり肉体関係を見返りに特定の囚人を庇護したりなどしない。
 僕と安田が関係を持ったなど、どこからそんな奇抜な発想が湧いてくるのか理解に苦しむ。
 大きく息を吸い、肺を膨らませる。
 割れた眼鏡越しにタジマを睨みつけ、僕のプライドと安田の名誉に賭けて反論。
 「くだらない妄想だな。腐った性根が透けて見えるゲスな詮索だ。僕と安田が肉体関係を持っているだと?僕が安田に抱かれる見返りに彼の庇護を受けているだと?馬鹿にするなよ、看守風情が。この僕を誰だと思っている、IQ180の天才として誉れ高い鍵屋崎直、プライドの高さでは他に類を見ない自負がある鍵屋崎直だ。いいかよく聞け但馬看守、僕は売春班に落ちてからというもの毎日毎日無理矢理男に抱かれ、毎日毎日無理矢理犯されて身も心も汚れきってしまった。だが」
 タジマの腕に爪を立て、毅然たる態度で宣言する。
 「身も心も汚れた今でも、売春夫の生き方に堕したつもりはない」 
 僕にはサムライがいる。かけがえのない友人がいる、仲間がいる。
 売春夫に堕落して彼らを裏切ることはできない、絶対に。金網越しにこちらを見つめるサムライと目が合う。木刀に手をかけたサムライは、傷が開いた太股を庇うように腰を落とし、歯痒く僕の身を案じている。
 僕はサムライと約束した。もう決して他の男に体を許さないと。
 「はっ!俺の下じゃあさんざんよがってたくせによ」
 嘲るように喉を鳴らし、こめかみから銃口をどけるタジマ。なにをする気だ?ぎょっと仰け反った僕の反応を楽しみつつ、上着の裾に銃口を潜らせる。
 「は、なせ」
 冷たい鉄の棒が素肌をまさぐる。銃口で上着をはだけたタジマが、よわよわしく喘ぐ僕と金網越しに固唾を飲む群集とを見比べつつ、僕の股間を見下ろす。ズボンに銃口をひっかけ、下方にずらす。
 「口ばっか達者な親殺しの天才気取りにゃもう一回思い知らせてやる必要がありそうだな。売春班の躾で足りねえなら今ここで改めて犯してやろうか?よーくまわり見まわしてみろ。東京プリズンの囚人が大集合した地下停留場のど真ん中、照明降り注ぐリングの上で服はだけられる気分はどうだ?」
 「やめろ、」
 タジマはやめない。さかんに首を振って拒絶の意志を訴えたところで、腕を引っ掻いて抵抗したところで、絶対にやめはしない。
 僕の太股に押し付けられる固い股間。
 ジマは勃起していた。僕の上着をはだけてズボンを脱がしながら固く勃起した股間をぐいぐい太股に押し付けてくる。
 銃口を潜らせたズボンが下にずれて、貧弱な太股があらわになる。タジマが音たてて生唾を嚥下、僕の太股をしごく。キメ粗く乾燥した手のひら、不快にざらついた手のひらでやすりがけされた太股が赤く擦りむける。
 手も足もでずタジマにされるがままの僕の視線の先、たった数メートルの金網の向こう側には一万人以上の大群衆がいる。最前列にはサムライとロンが並び、タジマに太股を撫でられ、目にうっすら涙をためて快楽に息を荒げる僕を凝視してる。
 視線が肌に刺さり、体が狂おしく火照りだす。
 金網を隔てた向こう側に顔を並べた囚人が、タジマの手に体の表裏をまさぐられる僕を食い入るように眺めている。性欲を剥き出して爛々と輝く獣の目。視線に犯される戦慄。
 大勢の人間が見ている前で。
 サムライが見ている前で。
 「僕に露出趣味はない、離せ、冗談じゃない、一万人以上の大群衆の前で痴態をさらす気など毛頭ない!見世物になどなりたくない、晒し者になどなりたくない、早く一刻も早く一秒も早くその汚い手をどけろ友人の前で恥をかかせるな!!」
 性急に太股をしごかれ、快楽と苦痛に息を荒げながら抗議すればタジマが鼻で笑いますます調子に乗る。僕の太股が赤く染まったのを確認して今度は下着の内側に銃口を突っ込む。
 「一万人の大群衆の前で素っ裸の股間さらして、俺の手にしごかれてイッちまえばお前も少しは大人しくなるだろうさ」
 タジマは本気か?
 一万人以上の大群衆が固唾を呑んで凝視する中、僕のズボンと下着を脱がして……公開、強制自慰?嫌だ。タジマの手で扱かれて射精するなど冗談じゃない、大群衆が見ている前で、サムライの眼前でタジマの手に扱かれて射精したら二度と立ち直れない!
 死に物狂いで首を振りタジマの腕をふりほどきにかかる、首に巻き付く腕に爪を立てて容赦なく肉を抉る。大群衆の眼前で下着を脱がされるなど冗談じゃない、サムライが見ているのに!そんな僕を嘲笑い、トランクスのゴムに銃口をひっかけてゆっくりと下方にずらしていくタジマ。
 やめろ!
 もがいもがいてもがいて、暴れて暴れて暴れて、必死にタジマの手から逃れようとする。
 股間に潜りこんだ銃口がペニスを探り当てる。
 冷たい鋼鉄の塊が、恐怖に縮み上がったペニスを揉みしだく。 
 「思い出せよ鍵屋崎。お前に自慰させたことあったろ」
 タジマが耳元で囁けば強烈な口臭が匂ってくる。
 僕の背中に脂肪が段になった腹を密着させ、勃起した股間を太股に擦りつけ、熱に浮かされたように卑語をまくしたてる。
 「俺が妹の写真持ってきて、お前は妹の写真見ながら自慰したんだ。あの時のお前ときたら傑作だった、妹の写真に汁とばして涙流してよがりやがって……鍵屋崎、目え閉じてないでよーくまわり見まわしてみろ。地下停留場の野次馬どもが、股間に銃突っ込まれてよがり狂うお前のことじィッと見てるぜ。どうした顔赤くなってるぜ恥ずかしいのかよ、売春班じゃもっと恥ずかしいことだって平気でやっただろうが!もっと強く揉んでやるから今度は声あげろよ、連中にサービスしてやれ」
 「はっ、うあ………」
 四囲から注がれる視線が肌に刺さり、羞恥心に火がつく。
 死ぬほど恥ずかしい。タジマの腕の中で無力に身悶えるしかない僕に金網越しの大群衆が興奮する。サムライは足が言うことを聞かない焦燥に苛まれて金網にこぶしを打ちつけ、ロンが悔しげに歯噛みする。
 見るな。
 こんな僕の姿を見るな、タジマの手に犯される僕を見るな!
 「暴れんなよ。引き金の指が滑って大事なモンが吹っ飛んじまうかもしれねえからな」 
 興奮に息を喘がせたタジマが徐徐に、徐徐に手首をさげていく。
 僕が成す術なく見ている前でトランクスが捲れ、青白く貧弱な下肢が外気に晒される…… 
 「但馬看守、なにをしている!!?」
 地下停留場に殺到する複数の足音。タジマの腕に縋って顔を上げた僕の目にとびこんできたのは、今しも通路の入り口から安田を先頭に地下停留場に駆け込んできた看守陣の姿。リングに上がったタジマを目撃して看守陣が愕然とする。
 安田とて例外ではない。
 リング中央に立ったタジマとその腕の中との僕を見比べ、剣呑に眼鏡を光らせる。
 「但馬看守、君に聞きたいことは山ほどある。だれが独居房の鍵を開けたのか、何故君が銃を所持しているのか……しかし、今言いたいことはただひとつだ」
 冷徹に研ぎ澄まされた眼差しでタジマを射竦め、安田が厳命する。
 「副所長命令だ。即刻鍵屋崎を解放しろ」
 「やなこった」
 答えはそっけなかった。いつでも絞殺できると見せつけるように僕の首に腕をかけ、こめかみに銃口を押しあて、安田らを牽制。
 地下停留場に乗り込んだ看守数十名と安田を威嚇しつつ、のんびりとうそぶく。
 「鍵屋崎の命が惜しいならお前一人で来い、安田。ここはひとつ、穏便に話し合いといこうや」
 沈黙。タジマが申し出た交換条件に苦悩する安田。眼鏡のブリッジに指を添え、ため息まじりに顔を上げた副所長と視線が絡みあう。冷徹なエリートの顔が一瞬だけ崩れ、眼鏡越しの双眸に悲哀の色が浮かぶ。
 「承諾した」
 「副所長!?」
 背後に控えた看守が一斉に抗議の声をあげる。気でも違ったのか、と副所長の決断を非難する声。気色ばむ彼らを目線で制した安田が、ふたたび正面に向き直り、僕のこめかみに銃口を擬したタジマを視殺。
 「君たちはここにいろ。但馬看守が他の囚人に銃を向けた場合に備えて警護にあたってくれ、会場の混乱が暴動に発展しないよう囚人をおさえてくれ。私は副所長だ。東京少年刑務所の安全を預かる立場だ。交渉は私の務めだ」
 有無を言わせぬ口調と威圧感をこめた眼差しで数十名から成る看守を下がらせた安田が、地下停留場の人ごみを突っ切り、一直線にリングに赴く。安田が一歩進むごとに群集の波が引いて道ができる。囚人自ら副所長のために空けた道を靴音高らかに歩き、リングに上がる。
 地下停留場に居合わせた全員が囚人看守の区別なく息を呑み、安田とタジマの対峙を見守る。 
 タジマを刺激しないよう距離をおきつつ、冷静に説得を試みる。
 「さあ、鍵屋崎を離せ。人質を解放しろ。無関係の囚人に危害を加えるな。君に独居房行きを命じたのは私だ、憎いのは私一人………」

 銃声が轟いた。
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