少年プリズン

まさみ

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三百十八話

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 「悦べレイジ、奴隷の烙印をくれてやる」
 狂える皇帝サーシャが灼熱の腕をひと振り、残像の弧を曳いたナイフから微塵の火の粉が舞い飛ぶ。真っ赤に熱した焼き鏝と化したナイフから視線を逸らせない。目を離せない。あれはもう人の肌を裂く武器じゃない、奴隷に生涯癒えぬ烙印を押す拷問具の焼き鏝。
 サーシャは正気じゃない。完全に狂ってる。
 サーシャの絶技をもってすればレイジを苦しめず殺すこともできたはず、喉首かき切って即死させることもできたはずだ。
 なのにあえてそれをせず長く苦しめて殺す方法をとった。生かさず殺さず、できるだけ苦しみを長引かせる方法を選んだ。俺は今の今までずっとサーシャはレイジを殺すに違いないと思ってた。
 サーシャにとってレイジは殺しても殺したりない憎い男で、かつて自分の背中を鼻歌まじりに切り刻んで生涯癒えぬ烙印を残んだ前科がある。皇帝に無礼を働いた人間が五体満足で生還できるはずがない、衆人監視の処刑場でギロチンにかけられるに決まってる。
 黄色人種と白色人種の混血、薄汚い淫売の股から産まれ落ちた雑種の私生児の分際でサーシャをさしおき東京プリズン最強と呼ばわれていたレイジへの恨みは根深い。
 サーシャが東京プリズン最強になるには、名実ともに東京プリズンのトップとなるためにはレイジを排除せねばならない。
 邪魔なレイジさえいなくなればサーシャは王座に上れる、東京プリズンのトップになるという長年の野望を叶えることができる。
 サーシャがレイジを生かしておく理由はない。殺したほうが都合がいい。
 けど、違う。サーシャはすぐにレイジにとどめをささなかった、安全確実に息の根止めず蛇が獲物を絞め殺すようにじわじわ嬲りものにする方法を選んだ。
 サーシャはレイジを飼い殺しにするつもりだ。
 特注の首輪を嵌めて飼い殺しにするつもりだ、血で汚れたナイフを四つん這いのレイジに舐めさせて陰湿な優越感に酔うつもりだ。
 愛憎表裏一体の妄執。
 サーシャにとってレイジは憎んでも憎みたりない男、殺しても殺したりない男。ならばあっさり殺したりせず、できるだけ長く自分のそばで屈辱と苦痛を舐めさせるはず。それこそ気まぐれに駄犬を足蹴にする暴帝の奢り。
 サーシャにとって重要なのはレイジを殺すことではなくレイジを服従させること、従順な飼い犬のように絶対服従を誓わせ身も心も飼い馴らすこと。
 「!ロン、待てっ」
 鍵屋崎が背後で何か叫ぶが聞いちゃいない、それどころじゃない。
 俺にはもう会場の喧騒も鍵屋崎の制止も届かなくて、耳の裏側で喧しく鼓動が鳴り響いて異常に喉が乾いて全身が熱くなって、発作的に金網に足をかけ身軽によじのぼっていた。
 すばしっこいのが俺の唯一の取り柄だ。
 この程度の高さの金網その気になりゃいつでも越えられる、ひょいと金網を越えてレイジを助けにいける。もっとはやくこうすりゃよかったとやりきれない後悔が押し寄せる。サーシャにレイジを渡すもんか、サーシャなんかにレイジをやるものか。レイジは俺の相棒で俺の支えで俺の、

 『約束守れよ』
 『勝ったら抱かせてくれよ』

 「………っ、」
 別れ際の笑顔が瞼の裏側によみがえる。
 あまりに綺麗すぎて切ない笑顔、本当にこれが最後なんじゃないかと疑わせる儚い笑顔。照明を透かした茶髪が金色に輝いてたことを覚えてる。背後に降り注ぐ照明効果で顔の輪郭が淡く滲んで後光がさしてるみたいだった。
 あれが最後だなんて思いたくない認めたくない、俺はこれから先もずっとレイジと一緒にいてやると心に決めた、もう二度とレイジを寂しがらせないと決めた。
 いやそんなのは詭弁だ、本当は俺が、俺自身が独りぼっちになりたくないんだ。レイジと離れたくないんだ、相棒を失いたくないんだ。俺は東京プリズンに来て偶然レイジと出会うまでずっと独りきりで、残飯あさりの野良猫みたいに荒みきった生活をしてて、俺の人生にこれから先いいことなんか起こるはずねえと早々に諦めてた。
 でも違った。レイジと出会えた。
 最高の相棒ができた、自慢できる仲間ができた。
 見ろよお袋俺にもダチができたんだぞもうひとりぼっちなんて言わせねえ。 もし東京プリズンを出てメイファと顔あわす機会があったら刑務所でできたダチのこと話してやろうって、俺の初恋は実らなかったけど、今の俺ならメイファが言ったことが少しはわかるようになったって教えてやろうと思ってたのに。
 『ロンにもいつか大事なひとができるよ』 
 メイファが言ったことは本当だった。命以外に失う物なんか何もないと斜に構えて世間を見てた俺が、東京プリズンでレイジに会って、鍵屋崎とサムライと出会って、最高の仲間をもって、いつのまにか「失ったら怖いもの」がたくさんできていた。大事な人間。大事な仲間。自分でもくさいこと言ってると思う、畜生わかってるよそんなこと、でも俺にとってレイジがかけがえのない大切な人間なのは事実でだれもレイジの代わりになんかなれなくてレイジがいなくなったら俺は!!
 「ロン!」
 金網がうるさく鳴る。
 金網に手をかけ足をかけよじのぼろうとした俺の背後から手が回され、突然抱きとめられる。サムライだった。俺の腋の下に手をさしいれ後ろから抱擁する恰好でひしと抱きとめてる。つんと鼻腔をつく酸っぱい汗の匂い、サムライの匂い。胸に回された腕から伝わってくるサムライの熱。
 「くそはなせよ、はなしやがれサムライ、お前は鍵屋崎だけ守ってりゃいいだろ用心棒らしく!用心棒契約してねえ俺にまでかまうこたねえだろ、ほうっとけよ、行かせてくれよ!もう我慢できねえ冗談じゃねえこのままここでじっとしてるなんてこりごりだ、レイジがやりたい放題なぶられて血を流してうめいてるのに放っとけるかよ、お前ら見てわかんねえのか、あいつ痛がってるだろ今にも死にそうに青白い顔してんだろ!?」
 サムライの腕の中で滅茶苦茶に暴れる。
 サムライの腕を掻き毟り死に物狂いでもがき、サムライの脛を後ろ足でおもいきり蹴りあげる。
 鍵屋崎が何か言いたげに口を開きこっちに寄ってこようとしたのを目で制し、抱擁の腕力を強める。サムライの身長はレイジより高くて190cm以上あり、サムライに抱きとめられた俺はどれだけ足掻いたところで腕から抜け出すことができない。
 癇癪もちのガキが手足振り乱して駄々こねるのを余裕であやしてる大人みたいで、ますます腹が立って、懸命に手を伸ばせども金網に阻まれてレイジに届かないのが悔しくてたまらなくて視界がぼやける。
 「なんで止めるんだよ、レイジのとこに行かせてくれよ、俺がそばにいてやらなきゃ駄目なんだよあいつには俺がいなきゃ駄目なんだよ!俺はその為にビバリーに肩借りてぜえはあ息切らして医務室からやってきたんだ!」
 「しずまれ、怪我にさわる」
 耳の裏側で囁かれた落ち着いた声音が癪に障る。俺の怪我を本気で心配してることが伝わる真摯な声音。
 サムライはいい奴だ、レイジと喧嘩したときも親身に慰めてくれた。俺が前向きになれたのはサムライの助言あってこそで、レイジと仲直りできたのは鍵屋崎とサムライが俺の目の届かない場所で俺の知らないところで苦労してくれたおかげで。
 わかってるよそんなこと、いい仲間をもって幸せだよ俺は、もったいないくらいだよ。その気持ちは嘘じゃない、仲間を誇りに思う気持ちは嘘じゃない。
 鍵屋崎もサムライも大好きだ。
 でも今この瞬間だけは、俺を抱きとめるサムライが憎くて憎くてしょうがなかった。
 目の前が真っ赤に煮立つ憎悪。
 自分だって鍵屋崎を助けたい一心で試合にでたい一心でしゃしゃりでてきたくせに、長い道のりを肘で這いずって地下停留場にやってきたくせに、偉そうにお説教かよ?何様だよサムライ、この刀キチガイが!
 怒りが急沸騰し、金切り声で喚き散らし、サムライの腕の中で身をよじる。サムライの腕におもいきり爪を立てひっかけば、長く伸びた爪が腕の肉を抉る激痛にサムライが顔をしかめる。
 前髪がざんばらにかかる額に脂汗を滲ませ、苦痛の縦皺を眉間に刻み、苦鳴を漏らさぬよう奥歯を食い縛り、それでもサムライは意地でも腕をはなさなかった。抱擁に見せかけた拘束。怒りでわけがわからなくなった。
 なんでサムライはわかってくれない、行かせてくれない?
 俺がリングに上ればレイジが即失格だってわかってる、さっき鍵屋崎が言ったとおりこれまでしたきたことが全部無駄になるってわかってるよ。

 けど。

 俺の視線の先じゃ興奮に息を喘がせたサーシャが片手にナイフをひっさげ、レイジの背中を踏んでいる。上着を断たれた背中はところどころ皮膚が裂けて薄く血が滲んでいた。失神寸前で辛うじて意識を保ってるレイジは、苦痛で朦朧と濁った虚ろな目でサーシャの掌中のナイフを見つめてる。

 はやくしなきゃ手遅れになっちまう。
 今度こそ本当に手遅れになっちまう、レイジがサーシャの物になっちまう。

 「離せよクソザムライ、刀キチガイの朴念仁、頑固で融通きかねえバカ野郎!不要阻碍、討厭!!お前だって鍵屋崎がおんなじ目に遭えば血相かえてとんでくくせに俺のことは止めるのか、行くなってのかよ、いい子でおとなしくレイジが帰ってくるの待ってろってのかよ!どいつもこいつもガキ扱いしやがって畜生、ああそうさ俺はガキだよいちばん年下だよ、だから何だよ、俺がレイジ思う気持ちがお前が鍵屋崎思う気持ちに負けてるってのか!?」
 涙腺が熱い。涙で視界が滲む。
 自分の無力が歯痒い。サムライの腕ひとつ自力じゃほどけず、ただ喚き散らすだけ。やつあたりだ、みっともねえ。相棒助けたい気持ちはおなじなのに、サムライは強いから実行できて俺は弱いから実行できなくて、ただ見てるだけで。折れた肋骨がずきずき疼く。はげしく身をよじり手足を振りまわせば激痛が全身を襲い悲鳴をあげそうになる。俺がもっと強ければサムライをひっぺがすことができた、今すぐ試合に乱入してレイジとサーシャをひっぺがすことができた。
 相棒が苦しんでるのに何もできないなんて。
 好きな奴が苦しんでるのに、何もできないなんて。
 「!!っ、」 
 かくなるうえはとサムライの腕に噛みつく。
 「サムライ!?ロンいい加減に、」
 「いいんだ」
 鍵屋崎が目の色変えて寄ってきて、俺とサムライのあいだに割り込もうとする。
 それを制したのは他ならぬサムライだった。激怒した鍵屋崎をしずかに制し、おもてを伏せ、腕の肉を噛まれる激痛に耐える。俺はまだサムライの腕に噛みついていた。もうこれしか手段が思いつかなかった。
 おもいきり噛みつけばさすがに痛みと驚きで手をはなすだろうと思ってたのに、サムライは抱擁をやめることなく、俺の前髪を掴んで無理矢理顔を上げさせることなく、恐るべき忍耐力と自制心とを持って腕の柔肉に尖った犬歯が食いこむ激痛に耐えている。
 「俺のことは気が済むまで罵ってもらってかまわない」
 その言葉に怯み、犬歯を引きぬく。ゆっくりと顔を上げ、首仰け反らせてサムライを仰ぐ。
 「……お前の言うとおりだ、ロン。俺は身勝手な人間だ。本来ベッドで寝てるはずの怪我人でありながら鍵屋崎を助けにきた俺が、お前に説教するのはおかしい。今リングにいるのが鍵屋崎でレイジとおなじ目に遭っていたら、俺は迷わず金網を飛び越えてサーシャを斬りにいくだろう」
 俺の体に腕を回し、俺の頭のてっぺんに顎を埋めたサムライが吶々と思いの丈を語る。誰のことを想起してるのか、自責の念にでも苛まれてるかのように苦渋に顔を歪め。
 「俺は昔も今も身勝手な人間だ。ちっとも変わっとらん。おのれにできないことを他人にしろという、ここは黙って耐えろと言う。卑劣な卑怯者だ。武士の風上にもおけん。俺の言動は矛盾している。
 怪我人の身でありながら試合にでたい一念でここまで這って来たのは鍵屋崎を守りたいからだ。お前とておなじだロン、肋骨が折れていても全身が痛くてもレイジを放っておけない気持ちはよくわかる。
 だがそれでも俺はお前を止めねばならない。今ここでお前を行かせれば、鍵屋崎は売春班に戻らざるえなくなる。俺は、」
 サムライの語尾がかすれる。
 俺の頭に顔を埋めてるせいで表情は読めないが、抱擁の腕に力がこめられ。
 「俺はもう、直を他に男に抱かせたくない」
 俺にだけ聞こえる声で、しかしはっきりとそう言った。
 「レイジとてそれはおなじだ、お前が売春班に戻るのを望んでいない。無理を承知で言う、耐えてくれロン。俺とて我慢ならない、今すぐにでもとびだしてレイジを助けにいきたい、サーシャに斬りかかりたい衝動を必死におさえこんでいるのだ。鍵屋崎もそうだ」
 俺を抱く腕に力をこめたサムライが、血を吐くように懇願する。
 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでくれと、無理を承知で申し入れる。どうか、このとおりだ」
 サムライの声は咳をしすぎたみたいに嗄れていた。
 俺をしっかり腕に抱いたまま、サムライが深々と頭を下げる。体に回された腕は熱く火照っていた。双眸は沸沸と滾っていた。
 サムライだってレイジがどうでもいいって思ってるわけじゃない、今すぐレイジを助けにいきたくて救いにいきたくて気が狂いそうなのだ。金網を颯爽と飛び越えリングに下り立ち、サーシャを成敗したくてたまらないのだ。
 サーシャに斬りかかりたい衝動を必死に抑制し、爛々と血走った双眸でリングを睨みつける形相には鬼気迫るものがあった。
 蝿みたいに金網にたかっていた野次馬連中が数人、サムライの全身から滲み出る殺気と迫力に気圧され、顔面蒼白でとびのく。鍵屋崎も言葉を失い慄然と立ち竦んでいた。サムライは頭を下げたままだった。誠心誠意をこめ、全身全霊でおのれの不実を詫びるかのように、深々と頭を垂れたまま一向に面を上げようとしなかった。
 「…………っ、」
 胸が苦しい。そんなふうに謝罪されたんじゃ、俺はもうサムライを罵れない。サムライも鍵屋崎も俺と気持ちは同じ、今すぐリングに踏みこんでレイジを助けたいのだ。それがわかってしまったからもう何も言えなかった、言ったらさらに虚しくみじめになるだけだと思い知った。
 サムライの腕の中で首をうなだれ、足元に目を落とす。
 さっきまでサムライの腕を振りほどこうと躍起になって暴れてたのに、今はこうして俺を支えてくれるサムライの腕が有り難かった。
 「すまん、ロン」
 俺の耳元でサムライが謝罪する。俺が倒れないよう体に腕を回してしっかり支え、自責の念に苛まれて。
 「俺を恨んでくれ」
 サムライを恨めるわけがない。サムライの腕をふりほどけない俺が悪いのだ。喉に魚の小骨がひっかかったように呼吸が苦しくなり、目尻にこみあげた涙をサムライの腕に顔を擦りつけ、拭う。鍵屋崎はサムライの傍らに立ち、ただじっと俺とサムライの抱擁を見守っていた。
 誰も何も言えなかった。
 歓声が盛り上がる。わずかに入り混じる悲鳴と怒号。
 「ああ、くそう、とうとう東棟の王様やられちまうのかよ!?」
 「こんなん見てられねえよ胸くそわりぃ、ただの公開拷問ショーじゃねえか!」
 「立てよレイジ立ちあがれよ王様、いつまでも寝てんじゃねえよ根性なし、100人抜きまであと一歩のとこまで来てんのにゴール直前でへばんなよ!!」
 「お前がやられちまったら俺たちまた売春班に逆戻りじゃんか、いやだぜもう男にケツ掘られるのは、痔が悪化しちまうよ!!」
 北の軍勢がサーシャに捧ぐ声援にかき消されて切れ切れにしか聞こえないが、このだだっ広い地下停留場にごくわずかだがレイジを応援する人間がいる。レイジの味方がいる。
 凱、売春班のガキども、一攫千金狙いでレイジの100人抜き達成に賭けた博打うち。
 全体比からすりゃ一割か二割に満たない少数だが、レイジに肩入れしてる物好きも確実に存在するのだ。
 金網を蹴り付け殴り付けよじのぼり、周囲の喧騒に負けじと盛大に唾を撒いてレイジに声援をとばしてるのは売春班の連中だ。レイジに救われた恩義を少なからず感じてるらしい売春班のガキどもが、最前列に殺到した野次馬に揉みくちゃにされながらも頑固に場所を譲らずレイジを応援してる。
 『加油大王!』
 『加油大王!』
 『弥是我的希望!』
 がんばれ王様。
 がんばれ王様。
 お前は俺たちの希望だ、と売春班の面々が叫ぶ。
 『弥是我的目標!』
 お前は俺の目標だ、と凱が叫ぶ。
 熱狂と興奮に湧き返る地下停留場を睥睨したサーシャが、満場の観衆を抱擁するかのごとく優雅な動作で腕を広げて恍惚と声援を浴びる。
 もう誰もサーシャを止められない、レイジを助けられない。
 手足の先に絶望が染みて体の芯が凍る。レイジ、と口を動かして名前を呼ぶ。レイジなあ起きろよおい、いつまで寝てんだよ、なんてザマだよ。サムライの腕に抱かれたまま、ポケットに手を入れて指先で牌をさぐる。
 どうか神様。プラスチックの安物でもお守り代わりの牌に願いをこめれば通じると、今この瞬間だけは嘘でも信じこませてくれ。指の骨も砕けよと牌ごとこぶしを握りこみレイジの無事を祈る俺の視線の先、金網を隔てた向こう側でサーシャがゆっくりと屈みこみ、片手でレイジの背中を押さえ付ける。
 レイジ、生きてるのか?起きてるのか?なら返事しろよ、気付けよ!
 畜生レイジの分際で俺を無視しやがって寝ぼけてるのかよ!
 焦燥に焼かれ、サムライの腕の中ではげしく身悶える俺の呼びかけもむなしく、真っ赤に焼けたナイフが徐徐に背中に接近……
 灼熱の刃の先端で火の粉が爆ぜ。
 『モーイ・サバーカ』

 絶叫。

 じゅっ、と音がした。よく熱した鉄板に水を一滴零したみたいな音、水分が瞬時に蒸発する音。レイジの背中、ちょうど右の肩甲骨のあたりに刃を寝かせる。真っ赤に熱された金属の焼き鏝が肩甲骨に接着、たんぱく質が融けて脂肪が溶けて、肉の焼ける甘い匂いが鼻腔の奥を刺激する。
 「ひっ、あっ、あああああっあああああっひ!!?」
 レイジが喉を仰け反らせ全身を波打たせて絶叫する。それまで意識が混濁してぐったりしてたのが、裸の背中に焼き鏝押し付けられた激痛で覚醒したらしい。爪がひび割れるまでコンクリ床を掻き毟り、肘で這うようにサーシャから逃れようとするも、傷が開いた片腕のせいで前進できない。
 肩甲骨が焼け爛れる絶後の苦しみに全身の毛穴が開いて汗が噴出、涙と涎を滂沱と垂れ流して悶絶するレイジを眺めつつ、サーシャがさらにナイフをおしあてる。
 耳を塞ぎたくなる悲鳴。肉が焼け焦げる独特の臭気。
 この匂いはいつか嗅いだことがある、あれはそう、ガキの頃お袋の客にタバコを押し付けられたとき。タバコを腹に押し付けられただけで死ぬほど熱く痛かったのに、火でじっくり炙った金属の刃を裸の背中に置かれるなんて……
 「う、ぐあ」
 胃袋が痙攣する。嘔吐の衝動。
 周囲のガキどものうち何人かがコンクリ床に跪いて胃の内容物をぶちまけてる。いくら喧嘩慣れしててもナイフといえば刺す道具で、こんな狂った使い方普通思いつかない。鍵屋崎も口を手で押さえ懸命に吐き気と戦っていが、目は挑むようにリングを見つめたまま、決して逸らそうとはしなかった。 
 「涙と涎と鼻水を滂沱と垂れ流し、絶頂に達した女のように背骨を撓らせ背中を仰け反らせ、今のお前はなんと淫らな姿をしてるんだ!!そうだ喚け叫べ喘げ、もっと淫らによがり狂え、爪が剥がれるまで床を掻きむしり苦悶にのたうちまわり、皇帝に屈するみじめさを痛感しろ!はははっ、雌犬を犯してる気分だ!」
 「ひっ、いっあ、ああああっ!?」
 レイジの喉から悲鳴がほとばしる。何度目かの絶叫。
 レイジの首の付け根に灼熱の刃を添えたサーシャが、じっくりと時間をかけ、火の粉爆ぜる焼き鏝を一直線におろしてゆく。
 サーシャは舌舐めずりせんばかりの満面の笑顔。レイジの背中を踏み付け踏み躙り床に這わせ、真っ赤に熱したナイフを緩慢に滑らせて、見るも無残な火傷の烙印を刻んでゆく。もう片方の手でレイジの後頭部を掴み、無理矢理顔を上げさせ、狂喜の哄笑をあげる。
 「王の処刑を待ち望んでいた檻の外の愚民どもによく見せてやれ、みっともなく口を開け発情期の犬のごとく息を喘がせ、涙とよだれとに溶け崩れた悲痛な面相を!どうした私の指が欲しいか、自分で悲鳴が殺せないなら代わりに私の指を咥えていたいか?浅ましい犬め、物欲しげに飢えた目をして!
 そうかそうかさっき含ませた麻薬がだいぶ効いてきたか、狂おしく燃える体が私を求めてやまないか!いっそここで犯してほしいか、満場の観衆が固唾を飲んで趨勢を見守る中で私の物になりたいか!?ならばいいだろう、宴の余興だ、烙印の施しが終われば思う存分に犯してやるぞ!!」
 「『また、ソドム・ゴモラおよび周囲の街々も彼らとおなじように好色にふけり不自然な肉欲を求めたので、永遠の火の刑罰を受けてみせしめにされています』」
 レイジの背中の上で反りかえり、狂喜の哄笑をあげるサーシャを眺めて鍵屋崎が言う。いつだったか渡り廊下でレイジが口走った聖書の文句。火の刑罰を受けてみせしめにされるなんて、これ以上なく今の状況にふさわしいじゃんか。泣き笑いしたい気分だ。
 もうどうしようもない。悔しいけど、手も足もでねえ。
 眼鏡越しにサーシャを眺め、沈着な口ぶりで鍵屋崎が呟く。
 言霊の力でサーシャの邪悪を払いレイジの魂を救おうとでもいうかのように切迫して。
 「『それなのにこの人たちもまたおなじように夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者を罵っています。御使いのかしらミカエルはモーセのからだについて悪魔と論じ言い争ったとき、あえて罵りさばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました』
 サーシャを戒めるものはない。
 十字を切って神様に頼んでも無駄だ。
 「『しかしこの人たちは自分には理解できないことをそしり、わきまえのない動物のように本能によって知るようなことのなかで滅びるのです。忌まわしいことです』」
 牌に願掛けしても無駄だ。肉の焼ける甘い匂いが周囲に充満する中、レイジの背中を縦断したナイフが位置をかえる。肩甲骨の下辺に添えられたナイフが、先の火傷と交差する形で背中を横切ってゆく。  
 「あ、あ、ああっあああっあっあ」
 レイジの目尻から大粒の涙がこぼれる。汗でぐっしょり濡れそぼった髪が額に被さり、憔悴した顔をおくれ毛が縁取る。首からたれた十字架の鎖がコンクリ床でうねる。焼き鏝に蝕まれた背中は赤黒く焼け爛れて外気に晒されていた。
 このままじゃ本当にレイジが死んじまう。
 「淫売の股から産まれた薄汚い私生児の分際で後生大事に十字架を下げているお前に、贖罪の十字架を背負わせてやる」
 「!」
 それで漸くわかった、サーシャはレイジの背中に十字架を描いてた。首の付け根から尾てい骨まで伸びる縦の筋と中央で交わる横の筋。
 真っ赤に焼け爛れた巨大な十字架がレイジの背中に出現する。
 焼き鏝で十字架を描く悪魔の所業。
 『俺、神様に嫌われてるから』
 耳の奥によみがえるレイジの声。少し寂しげな笑顔。
 『ロンが俺の救い主だよ』
 そうだ。神様が救ってくれないなら、俺がレイジを救うしかない。俺にしかレイジを救えないんだ。なに弱気になってんだ、諦めてたまるか。手も足もでなくても口はちゃんと動く、喉擦りきれて血を吐くまでレイジに呼びかけることができる。
 「レイジてめえもう浮気しねえって約束したよな、浮気したら絶交だって指きりげんまんしたよな!?」
 サムライに抱かれたまま、限界まで身を乗り出し、怒鳴る。
 「あれは嘘かよ、俺の目の前でサーシャにもてあそばれてんじゃねえよ、体好きにされてんじゃねえよ!親から貰った大事な体に傷付けてんじゃねえよ、お前俺を抱くんだろ、ちゃんと生きて帰って約束通り抱くんだろ!?起きろよレイジ、約束守ればちゃんとご褒美くれてやるから、抱かせてやるから!朝から晩まで足腰が立たなくなるまで付き合ってやるから……いいのかよこんなとこで終わっちまって、こんなとこで終わっちまってどうするんだよ!マリアに言いたいことあるんじゃねえのか、娑婆に残してる愛人どもが泣くぞ、レイジお前色男気取るなら女泣かせるんじゃねえよ、お前に惚れた馬鹿な女哀しませるんじゃねえよ、甲斐性見せろよ!!」
 レイジ。レイジ。頼む起きてくれ、目を開いてくれ、立ちあがってくれ。俺にまた元気な顔見せてくれ、こんなのなんでもねえよ、冗談だよ、ひょっとしてマジ心配した?ってお気楽に笑いかけてくれ。 
 お前が「ただいま」を言えば、俺は「おかえり」を言うから。
 牌ごと握りこんだこぶしを胸にあて、金網に顔をくっつけ、肺いっぱいに空気を吸い込み…

 ―「俺を抱いてくれよ!!」―

 鍵屋崎がぎょっとしたようにこっちを見る。サムライの腕の力が緩む。かまわねえ、レイジが大変なときにいちいち恥ずかしがってられるか。レイジを起こすためなら俺は何だってする、恥くらいいくらでもかいてやる。サムライの腕をふりほどき、鍵屋崎を突き飛ばし、がしゃんと音たてて金網を掴む。 
 片腕を突き上げ、照明に映えるよう白い光沢の牌を翳す。 
 『弥有護身符!!』
 お守りを持ってるだろ!!
 なめらかな表面で照明を弾いた牌の反射光が偶然レイジの目を射る。色素の薄い睫毛の先端がかすかに震え、ゆっくりと瞼が開く。朦朧と薄目を開けたレイジが不思議そうに首を傾げ、正面の俺を見つけ、そして……

 銃声が鳴った。

 「え?」
 頭上に掲げた腕はそのままに肩越しに振り返る。鍵屋崎もサムライも周囲のガキどもも、地下停留場に居合わせた全員がほんの一瞬おなじ方向を注視する。サーシャでさえ例外ではない。突然の銃声に狂気に水をさされたかのごとく哄笑をやめ、足に敷いたレイジから顔を上げ、うろんげに虚空を凝視……
 刹那。
 他の連中より一瞬早く正面に顔を戻した俺が目撃したのは、膝を撓め床を蹴り、豹じみた脚力でナイフの落下地点へ急ぐレイジ。俺以外の全員の注意が自分から逸れた一瞬にあざやかに反撃に転じたレイジがナイフを奪取、サーシャの形相が一変、びりびり大気を震わす奇声を発して灼熱の刃を振り上げ………
 『мой победа!!』
 『I win!!』
 銀の軌跡と真紅の軌跡が交錯、ともにナイフを下向きに構えた白い腕と褐色の腕が動体視力の限界を超えて交差。俺は見た、レイジが下向きに構えた刃がサーシャの右の眼窩を深々と抉る瞬間を。サーシャの右目が潰れ、血が飛び散り、顔の半面が鮮血に染まる。
 そして、同時に。
 サーシャが下向きに構えたナイフがレイジの左の眼窩を深々と抉り、目が潰れ、血が飛び散り、顔の半面が鮮血に染まる瞬間を。
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