少年プリズン

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三百十六話

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 これは試合じゃない。拷問だ。
 「………っ」
 残虐な拷問だ。
 顔を背けたい、目を背けたい。しかし、できない。
 今リングで闘っているのはレイジ、東棟の王様、ロンの相棒で僕らの仲間。ロンと僕とを売春班から救い出すためにペア戦100人抜きという無謀な目標を立ち上げた男。序盤はレイジが優勢だった。片腕のハンデを感じさせずにサーシャと互角に闘っていた。
 だが、サーシャに背中を見せた瞬間にすべてが逆転した。
 レイジはいついかなる時もロンの安全を最優先する、ロンを守るためなら自身がどれだけ危険な目に遭ってもかまわないと考えてる節がある。自身の命すら惜しげもなく放棄してロンの盾になろうと駆け付けてきたのがいい証拠だ。レイジはロンが絡むと周囲が見えなくなる、冷静な判断ができなくなる。それ故サーシャに背中を曝け出すという致命的なミスを犯して優位を譲ってしまった。
 そして現在、レイジは絶体絶命の危機に瀕していた。
 何度リングから目を逸らそうとしたことだろう、耐え切れずに顔を背けかけたことだろう。その度に弱気な自己を叱咤して、金網を掴んで顔を上げるくりかえし。僕は見た、金網越しの安全圏で無力を噛み締めて傍観していた。
 包帯の下から露出した腕を容赦なく嬉々として踏みにじるサーシャ。
 化膿した傷口をつま先で抉りこむようにこじ開けて、踵に体重をかけて念入りに蹂躙する。片腕が軋む激痛に全身汗みずくのレイジが苦鳴を漏らして首を仰け反らす。
 どれほどの痛みだろう、化膿した傷口をつま先で抉られるのは。
 正視に耐えない光景だった。サーシャは恐ろしく残酷だった。顎先から汗を滴らせて苦悶にのたうちまわるレイジ。今にも蒸発しそうな理性を繋ぎとめるため、拡散しかけた自制心をかき集め、喉を内側から食い破らんとする悲鳴を殺す。
 「はなせよ鍵屋崎、レイジがこのまま犯されて殺されるの指くわえて見てろってのかよ!?」
 「落ちつけロン冷静になれ、君が後先考えずリングに上ればその瞬間にレイジの失格が確定、僕たちがこれまでやってきたことが無意味に……」
 「だから放っとけってのかよ、レイジが痛がってるのに!!」
 僕の腕を振りほどこうと躍起になって暴れるロン。
 ロンは完全に度を失ってる、レイジがサーシャに手も足も出ず嬲られる現場を目撃して取り乱している。一心にレイジを見つめる目は思い詰めて、横顔は切迫して、僕の言葉を汲み取る余裕もなさそうだった。
 当たり前だ。相棒が一方的に徹底的に、それも極めて陰湿なやり方で痛め付けられてるというのに物分り良く澄ましてられるわけがない。もしサムライが今のレイジの立場なら僕も衝動的に駆け出してしまっただろう、後先考えずにリングに上がってしまっただろう。
 ペア戦100人抜き目前だとか100人抜きを達成すれば売春班から自由になれるとか、そんな些末なことはどうでもいい。
 自分にとって大切な人間が苦しんでるのに、瀕死の苦しみを味わってのたうち回っているのに看過できるはずがない。放置できるはずがない。だが僕はロンの暴走を阻止せねばならない、何故ならそれが僕の義務だから、ロンの仲間としての義務だから。
 レイジだって今ロンが出ていくことを望んではないはず。レイジが瀕死の苦しみを味わって朦朧と双眸を濁らせて身悶えているのは、それでも降参せず敗北を認めずにいるのは、売春班を潰すという最終目的をあともう少しで達成できるところまで来てるからだ。
 この試合に勝てば売春班はなくなる。ロンを取り戻せる
 レイジはまだ諦めてない。ロンを取り戻す為なら苦痛も甘んじて受け容れる、生きながら腕をねじ切る拷問にも耐えぬくつもりでいる。
 「殺すぞ鍵屋崎、手えはなせよ、あの変態ぶっ殺してやる、ケツの穴にナイフねじこんで括約筋ずたずたにして一生死ぬまで糞垂れ流させてやる!!」
 ロンの目は血走っていた。相棒が絡むと周囲が見えなくなるのはレイジとおなじだ。なるほど、この点に関してはレイジと似たもの同士と言えなくもない。僕の手を振り解こうとさかんに身をよじり、挙句、片腕を掴んだ僕を引きずって憤然とリングをめざす。小柄な体のどこにこんな推進力が秘められてるのか謎だ。
 違う、呑気に感心してる場合じゃない。
 はっと我に返った僕は大股に前進するロンの腕を両手で掴み、渾身の力で引きとめにかかる。 
 「ロン、現在君の脳内ではアドレナリンが過剰分泌されて異様な興奮状態にある。冷静に考えろ、状況を分析しろ、肋骨骨折および全身十三箇所の打撲傷を負った満身創痍の君がリングに上ったところでサーシャに殺されるのがオチだ!君はそんなに死にたいのか、サーシャのナイフの餌食になりたいのか、僕はいやだもう十分だ、これ以上仲間が痛めつけられるところも傷付くところも見たくないこりごりだ!!」
 『仲間』。
 ロンを引きとめる手を緩め、はっと口を噤む。
 瞬間、僕は全く無意識に、何の抵抗もなく「仲間」と口走っていた。以前はあれ程彼らを仲間と呼ぶのに抵抗があったのに。愕然としたのは僕だけじゃない。ロンも一瞬抵抗を止め、毒気をぬかれたように僕の顔を見る。
 気まずい沈黙。ロンの顔を直視できず、眼鏡のブリッジに人さし指を押しあて俯いた僕の耳朶に、小さな呟きがふれる。
 消え入りそうな呟き。
 「そう、だよな。お前、仲間だよな。見た目はつんけんしてとっつきにくいけど、付き合ってみりゃ案外いい奴で、口うるさいけど面倒見よくて、俺とレイジが喧嘩してたときも心配してくれて」
 「心配などしてない。ただ、レイジが自暴自棄になって試合に支障をきたすのを防ごうと」
 「サムライの言う通りだ。お前、優しいよな。こんなとこにいるのが不思議なくらい優しくていい奴だ」
 こんなところ。東京プリズン。
 ロンは俯いていた。叱責された子供のように不安げに目を揺らして立ち竦んでいた。ロンの目にはさまざまな感情が混沌と渦巻いていた。声をかけるのをためらったのはそのせいだ。
 深々と首をうなだれ、沈痛に顔を伏せ、物思いに沈みこむロンにかける言葉を失う。
 盛り上がる会場をよそに、僕とロンのまわりだけが喧騒から隔絶された静寂に包まれる。
 沈黙を破ったのはロンだった。
 体の脇にたらしたこぶしを握りしめ、何事か決断したように毅然と顔を上げたロンが僕の目の奥を覗きこむ。
 どこまでも愚直に真実を見極めようとするまっすぐな眼差し。
 決して口外できない秘密を抱え持った人間の胸をざわつかせる眼差し。
 「鍵屋崎。お前、本当に両親を殺したのか」
 言葉を失った。
 ロンは僕の表情から内面を推し量るようにこちらを凝視している。微動だにせず立ち竦んで、体の脇でこぶしを握りしめて潔癖な眼差しを投げかけている。 
 落ち着け鍵屋崎直、動揺するな。平静を装え、何でもないふりをしろ。ロンに怪しまれぬようこれまで通りに振る舞えばいいんだ。落ち着いた物腰で弁解すればいいんだ。
 人さし指をブリッジに添えて眼鏡の位置を直した僕は、不審げに眉をひそめ、ロンを一瞥する。
 「突然なにを言い出すかと思えば……発想の飛躍に脱帽する。試合には全然関係ないことじゃないか」
 「本当に殺したのか」
 「くだらない質問だが、回答を提示するならイエスだ。確かに僕は鍵屋崎優と由佳利を殺した。十五年間僕を養育した両親をナイフで刺殺した。結果、尊属殺人の罪に問われた僕は東京少年刑務所に送致された」
 いちから説明するのも馬鹿らしいと韜晦した口調を装っていたが、内心は動揺していた。
 何故ロンは突然こんなことを言い出した。よりにもよって今この場で、東京プリズンの命運を分けて僕らの明日を決める試合が現在形で進行してる地下停留場で?サーシャとレイジの対決は東京プリズンの明日をも左右する特別な意味をもつ重要な一戦で、試合の結果如何では僕らは売春班に戻らざるをえなくなる。
 決勝戦の夜を境に、東京プリズンの運命は分岐する。僕らの運命も分岐する。
 僕らが今後も生き残れるか身も心も衰弱して死に絶えるかはすべて今夜の一戦に賭かっているのだ。何故ロンは今この場でこんな話を持ち出した。東京プリズンの分岐点となる運命の夜に、レイジとサーシャの最終決戦が行われるそばで、僕が心の奥底に抱え持つ秘密の核心にふれる質問をした? 
 腋の下が不快に汗ばむ。シャツの下で心臓が暴れだす。すべてを見透かすようなロンの態度が気に入らない、僕のことを理解したつもりでいる態度が気に入らない。こみあげる激情に任せてロンとの距離を縮めた僕は、語気を荒げて詰問する。
 「どうしたその顔は、この答えでは不満なのか?僕はありのままの事実を述べたまでだ、端的に率直に、僕が鍵屋崎優と由佳利を殺したと真実を述べたまでだ。理解できない、何故今そんな質問をする、今更になってそんな質問を?」
 落ち着け鍵屋崎直、逆上するな。ロンの胸ぐらに掴みかかりたくなるのを必死に自制し、深呼吸で頭を冷やそうとするが、脳裏を過ぎる鍵屋崎優と由佳利の面影がそれを許してくれない。
 僕がどこまで逃げても執拗に纏わりついてくる両親の面影。僕と全然似ていない両親の顔。
 傲慢な目つきでひとを見下す鍵屋崎優、唇が薄い神経質な面立ちの鍵屋崎由佳利。
 血の繋がらない両親の顔。
 「鍵屋崎優と由佳利を殺したのは僕だ、IQ180の天才鍵屋崎直だ!
 それ以外の人間であってはならない絶対に、それ以外の人間に鍵屋崎優と由佳利を殺す動機がない。
 そうだ、僕はずっとあの二人が邪魔だった、あの二人を憎んでいた!
 鍵屋崎優と由佳利の人格には欠陥があった、僕は物心ついてから一度も両親に頭を撫でられたことがない両親と手をつないだことがない両親に愛された記憶がない!それでは不満か、それだけでは両親を殺す動機に足りないか、憎悪が不足してるとでも?
 動機、動機、動機!動機がそんなに重要か、些細なことだろう動機など、人が人を殺す行為を正当化する動機など僕は認めない僕には必要ない!重視すべきは過程より結果だ、僕が鍵屋崎優と由佳利を殺害した事実だ、僕がこの手で両親を殺したという事実でなければらならないんだ!」
 動機などくだらない、動機があれば殺人が正当化されるとでも?人が人を殺す行為が正当化されて罪が軽減されるとでも?欺瞞だ。だから僕は警察での事情聴取でも裁判でも殺害の動機については一貫して黙秘を通した。
 だっておかしいじゃないか。
 僕は二人の人間を殺したんだ、鍵屋崎優と由佳利の命を奪って生存の権利を踏み躙って彼らを永遠にこの世から葬り去った僕が何故世間の同情を集めねばならない、おかしいだろう、世間に同情されるべきは鍵屋崎優と由佳利で僕ではない。
 訳知り顔の他人に同情されるほどみじめで屈辱的なことはない。 
 僕は人殺しだ。同情など要らない。僕は僕自身を正当に裁いてほしかった。鍵屋崎優と由佳利を殺害した動機を明かせば僕の罪は軽くなったかもしれない、東京プリズンに送られずにすんだかもしれない。
 だが僕はそれを望まなかった。
 僕の為に、誰より何より恵の為に。
 「どうした、まだ不満なのか、僕が両親を殺したという事実だけでは納得できないのか?そんなに動機が欲しいのか、僕が鍵屋崎優と由佳利を殺した真の動機とやらを知りたいのか?
 ならば教えてやる、僕はずっとずっと恵を独占したかったんだ、僕は実の妹にずっと近親相姦的な愛情を抱いてたんだ!両親はそれに気付いて僕を非難した、二人して僕を責め立てた、逆上した僕はナイフを手にとり発作的にふたりを刺した!すべては恵を独占したいがための利己的な動機に裏付けられた行動だ、僕に同情の余地などないとこれでわかったか?
 鍵屋崎直は卑劣な殺人者だ、薄汚い人殺しで親殺しだ。いいか二度と疑うな、僕が両親を殺したことを疑うんじゃない!!」
 僕には生涯守り通さねばならない秘密がある。誰より何より恵の名誉のために、恵の幸福のために。奔騰した激情に駆り立てられ、ロンの至近距離で怒鳴り散らす。普段の冷静沈着な態度をかなぐり捨て、凄まじい剣幕で激情を吐露する僕にもロンは動じず、あどけない顔には不釣合いに大人びた、達観した表情を浮かべていた。
 息が切れた。僕としたことが、無様に取り乱してしまった。低能相手にむきになるなど天才にあるまじき失態だ。ロンから距離をおいて呼吸を整え、眼鏡を外す。片方のレンズにひびが入っていた。ヨンイルに側頭部を蹴られた衝撃でレンズに亀裂が入ったのだ。
 ロンの静謐な問いは、僕の心に亀裂を入れた。
 「……話が脱線したな」
 かぶりを振って感傷を切り捨て、眼鏡をかけ直し、俯き加減に押し黙ったロンへと向き直る。
 「ロン、今は耐えろ。君がリングに上がったところでどうにもならない、死体がひとつ増えるだけだ。レイジは敗北したわけじゃない、今も懸命に闘っているんだ。君を……いや、僕らを守るために」
 「鍵屋崎」
 ロンが顔を上げて僕を見る。優しい目をしていた。少し寂しそうでもあった。不可思議な表情だった。
 そしてロンは、しっかりと僕を見据えて断言した。
 泣き笑いに似て、儚く笑み崩れた顔で。
 「お前は仲間だけど、レイジは相棒なんだ。たったひとりきりの相棒なんだ」
 思いがけぬ言葉に胸を衝かれる。
 「もういやなんだよ、大事な奴を失うのは。好きな奴を手放すのは。お袋もメイファも俺の前から消えちまった、いや、実際は俺が捨てたんだ。俺のほうから切り捨てたんだ、俺のこと好きになってほしくて滅茶苦茶頑張ってみたけどちっとも振り向いてくれないのが悔しくてやりきれなくて、こんな思い味わうくらいならもういいやって、悟ったふりであきらめたんだよ。本当は未練たらたらなくせに」
 ロンがリングを振り返り、強い決意を秘めた断固とした口調で続ける。
 「ここでレイジを見捨てたら、またおなじ間違いをやっちまう。心の底じゃ全然納得してないのに、自分が傷付くのが怖くて好きな奴切り捨てて、切り捨てたことをずっと後悔し続けるんだ。本当は好きだったのに、大好きだったのに、ずっとそばにいたかったのに、そばにいさせてほしかったのに、そんな最低限の望みも永遠に叶わなくなるんだよ」
 僕の腕を強引に振りきったロンが一転、からかうような笑みを覗かせる。
 「お前はどうなんだよ鍵屋崎。今、後悔してるか?東京プリズンに来たこと後悔してるか。東京プリズンにさえ来なけりゃこんな思いしなくてすんだのにってうじうじ後悔してるのかよ」
 「……いや」
 即答した。僕は東京プリズンに来たことを後悔してない。東京プリズンに来てからさまざまなことがあった、死んだほうがマシな目にもさんざん遭った。しかし今は、東京プリズンに来たことを後悔してない。
 東京プリズンに来なければサムライと出会えなかった。ロンやレイジと出会えなかった。
 東京プリズンでの日々を否定することは、彼らを否定するのと同義だ。
 だから僕は、運命の分岐路に立った僕の選択を後悔しない。 
 「だろ」
 最後に皮肉っぽく笑ったロンがまっしぐらに金網へと駆け寄る。照明の効果だろうか、光に溶けこんだロンの背中がひどくまぶしく、手庇を作って目を細めた僕の隣にいつのまにかサムライが佇んでいた。
 「ロンは強いな」
 感心した口ぶりで呟くサムライの視線を追う。金網を半周したロンが口の横に手をあてレイジに檄をとばす。多少頭が冷えたらしく、金網にしがみついて声援をとばすだけで、リングに殴りこむような無茶はしなかった。
 ロンは決心したのだ。たとえ何が起ころうとも、最初から最後までレイジの闘いを見届けようと。僕の腕を振りきり駆け出したのはリングに上がるためじゃない、試合に乱入するためじゃない。
 常にレイジの目の届くところでレイジを応援するためだ。
 一瞬たりとも目を閉じてなるものかと、試合を見逃してなるものかと、瞬きさえせずに。
 「……ああ」
 ロンは、強い。僕は勘違いしていた。ロンを引きとめる必要など全然なかったのだ、最初から。ロンはちゃんとわかっていた、今自分が率先して何をすべきかを。僕はもっとロンを信頼すべきだった。
 友達を信頼すべきだった。
 「……口にだせるわけがないじゃないか、そんなこと」
 憮然と呟いた僕をよそに、隣のサムライが気色ばみ、会場中がどよめく。不穏な気配。危険な兆候。胸騒ぎ。いやな予感。サムライと同時に駆け出し、ロンを挟んで金網に取り付く。
 目を見張った。
 サーシャがレイジの手首を踏みつけて床に固定、傷口を嬲るようにナイフの刃を滑らせる。覚せい剤の粉末を塗った刃が上から下へとごく緩慢に腕を滑ってゆく。傷口から滴る血に粉末が溶けこみ吸収される。サーシャは一体何をしているんだ、何をするつもりなんだ?心臓の動悸が速まり、こめかみを汗が伝う。レイジはぐったりと上体を突っ伏したまま、流血した腕をナイフの刃が滑っても指一本動かせずにいる。 
 「犬と抱擁する趣味はない。ならば、この腕は無用だな」
 熱に浮かされたようなサーシャの囁きに総毛立つ。まさか、レイジの腕を切り落とす気か?ナイフで?不可能だ。医学上ナイフで人間の骨は切断できないはず。もし無理に切断しようとすればナイフの刃が骨にひっかかって筋肉が断裂、失血性ショック死……
 ナイフでの腕切断に伴うのは、僕が想像もできないほどの激痛。想像したくもない生き地獄の拷問。
 「レ………、」
 ロンの顔から血の気が失せる。サムライの双眸に憤怒が爆ぜる。蛇がとぐろを巻くように血染めの腕を滑り落ちてゆく銀の刃。サーシャは明らかに興奮していた。この異常な状況に性的興奮を覚えていた。コンクリ床に上体を突っ伏したレイジは、血と汗とを吸って変色したシャツの裂け目からところどころ褐色の素肌を覗かせ、瀕死の豹のように苦しげに呼吸していた。
 「はっ…………っ、く」
 床に肘をつき、ナイフの刃から逃れようと本能的に身をよじったレイジの喉から押し殺した苦鳴がもれる。官能の喘ぎにも似た切ない声。腕を舐めるナイフから這って逃げようとするレイジを見下し、サーシャが唇を舐める。
 「痛いか」
 当たり前のことを訊く。レイジが痛がってないように見えるのだろうか。いや、レイジが激痛に身悶えているのを承知でわざと訊いたのだろう。
 「!ぐあっ、」
 サーシャが無造作にレイジの体の下に足をさしいれ、裏返す。レイジがうつ伏せになる。体を覆された際に床に打ち付けた腕に激痛が走ったらしく、体が跳ねる。
 「汚らしい雑種の分際で生意気に血は赤いのだな」
 レイジの背中に腹這いにのしかかったサーシャが耳朶で囁き、傷口の開いた腕をナイフで舐める。
 覚せい剤の粉が傷口に直接溶けこんでゆく。
 「……っ……どけ、よサーシャ。だ、れの許可得て人の上に乗ってんだよ。騎乗位はお断りだ」
 ぐっしょり濡れそぼった茶髪が両目にかかる。眉間には苦痛の皺。優雅に長い睫毛は物憂げに伏せられて頬に影を作っていた。金属の刃が腕を滑るたび、睫毛の先端がよわよわしく震える。
 セックスより官能的な光景。
 血塗れた刃を介してサーシャと交わってるような倒錯的な光景。 
 「お前は汚い」
 レイジの後ろ髪を片手で掴んで首を仰け反らせ顔を引き起こし、サーシャが言う。血に溶けて吸収された覚せい剤のせいで痛みが麻痺したレイジが虚ろな眼差しでサーシャを仰ぐ。
 ナイフの一振りで血糊を払い、レイジの背中を片膝で押さえこみ、のしかかる。
 レイジの髪をすくいとる。
 干した藁に似た明るい茶髪がサーシャの指の間を擦り抜ける。
 「藁の髪」
 髪をもてあそぶのに飽きたサーシャが褐色のうなじへと指を伸ばす。
 「くすんだ肌」
 「………っ、く」
 性感帯をさぐるように淫靡な指遣いでレイジのうなじを撫で、ゆるやかに熱を煽る。最初は加減して、徐徐に束縛をきつくし、快感と苦痛を交互に与えて恍惚の内に獲物を絞め殺す蛇のように繊細な指の動き。 
 猫科動物の喉を撫でて手懐けようとでもいうかのように、しっとり汗ばんだうなじを重点的に責める。
 首の後ろをくすぐっていた指が今度は顎に添えられ、強引に自分の方を向かせる。
 「極め付けはその目だ。汚い目だ。血の穢れが透けて見えるような瞳の色ではないか。脆く壊れやすい安物の色硝子の瞳だ。一体その瞳はだれから受け継いだ、淫売の母親か、放蕩な父親か?」
 前髪の隙間から虚ろな視線を返すレイジの瞳は朦朧と濁っていた。
 怒りも憎しみもなく、ただ澱のように疲労が沈殿した瞳。
 「瞳が気に入らないなら、抉ったらどうだ」
 レイジが呟く。ロンがぎょっとする。 
 コンクリ床に顔を寝かせたレイジが、気だるげに続ける。
 「どうした、抉れよ。遠慮せずに。眼窩にナイフ突っ込んで抉り取れよ。マリアも」
 一呼吸おき、続きを言い淀んで前髪に表情を隠す。
 「……マリアもこの目が嫌いだった。はは、悪魔みたいな瞳だろ。ひとの心の奥底まで見透かす瞳だって、ひとの秘密を暴いて心を犯す瞳だって。いいぜ、お前にやるよ。ロンとの約束守るには腕なきゃ困るけど目がなくなったところで困らねえし、ロンの可愛い顔は見納めて、瞼閉じても思い出せるから心残りは…」
 『有問題!』
 ロンが金網を殴打してレイジの述懐をさえぎり、満場の注目を浴びる。
 ロンは怒っていた。頬はあざやかに上気して目は潤んでいた。憤怒の形相。
 「ふざけんなよレイジ、寝言ほざくなよ。俺の顔見納めたからもう心残りねえってか、サーシャに目ん玉抉られても本望だってのか?いいかレイジ目えかっぴろげてしっかり俺を見ろ、瞼の裏っ側に焼きつけろ!目ん玉なくなったらもう二度と俺の顔見れなくなるんだぜ、それでもいいのかよまだ俺を抱いてないのに」
 ロンの語尾がかすれる。針金を編んだ網目に指を食いこませ、嗚咽を堪えるように唇を噛んで首をうなだれたロンが、大きく息を吸って顔を上げる。ロンは必死だった。激痛に腕を齧られ、意識を蝕まれたレイジを振り向かせようと何度もこぶしを振り上げ金網を殴り付けて叫び続けた。
 「いいのかよ、抱いてる最中に俺の顔見れなくて!?お前まだ見てねえだろ、俺が感じてる顔とか喘いでる顔とか知らねえだろ全然、なら見納めたとか言うんじゃねえよ、未練残せよ!!」
 ロンが決死の覚悟で暴れる。狂ったように金網を殴り付けてレイジの注意を引こうとする。金網が鳴る。ロンがこぶしを振り下ろすたび傾ぎ軋む金網の向こう側、コンクリ床に突っ伏したレイジの目に生気が甦る。
 「そう、だよな」
 レイジの唇が動く。独白。自分に確かめるように呟き、余力を振り絞り瞼を押し上げる。
 「はは、はははははははははははっ!俺としたことが肝心なこと忘れてたぜ、そうだよ、そうだった、俺まだロンを抱いてないじゃん、ロンが感じてるとこ見てないじゃん。ここで目え抉られたらロンが感じてるとこ一生見れないじゃん、やばい、うっかりしてた。どうかしてたよ、俺。自暴自棄ってやつ?」
 肘を立て、上体を起こす。熱病患者のうわ言のように饒舌に呟きつつ、肘で這いずって上体を起こしたレイジの顔は悲痛に笑っていた。嗜虐心をくすぐる表情。官能に火をつける表情。体の奥底の熾き火をかきたてる表情。唇を噛んで苦鳴を堪え、顎先から滴り落ちた汗の雫が床に染みるのを見下ろし、双眸に執念を燃やす。ロンに叱咤され、レイジの双眸でふたたび燻りはじめた闘争心。手負いの獣か野生の豹か、全身を血と汗とに染めたレイジが肘で這いずって上体を起こし、背中にのしかかるサーシャを視殺する。

 『Move the dirty foot immediately.
 It is only the person whom King likes that there is a qualification to touch King.
 Are you OK?』
 即刻汚い足をどけろ。
 王に触れる資格を有するのは王が寵愛する人間だけだ。
 承認せよ。

 唄うような節回しで、俗っぽい発音で、流暢な英語でサーシャに宣戦布告する。
 サーシャの眼光が凍てつく。手中のナイフがきらめく。レイジに威圧された屈辱に顔筋を痙攣させたサーシャが、自分の方に背中を向けたレイジの上着の内側にナイフを潜らせ、刃にシャツを噛ませる。
 布の引き裂かれる乾いた音が響く。
 レイジの腰に跨ったサーシャが目を爛々と輝かせて陰湿な笑みを刻む。レイジを嬲る快感に酔い痴れ、恍惚と目を細め、性的興奮に息を喘がせる。
 「呆れた男だな。見下げ果てた愚か者め。まだ自分の立場がわからないのか、すでに革命は成就したも同然、王座は完全に覆された。
 お前は私の犬だ。そうやってみじめに這いつくばり苦痛に喘ぐしかない今のお前にどんな反撃の手段があるという、起死回生の勝機があるという?
 所詮は雑種は雑種、これまで王座にいたのが間違いなのだ、東京プリズンの汚点なのだ!もはや王座は私の物だ、私が王座を奪取したも同然だ。
 はははははははっ、悔しいかレイジよ、口惜しいか?
 王座に未練があるなら私の足裏でも舐めて許しを乞うたらどうだ。犬には犬にふさわしい謝罪の仕方があるだろう、主人の機嫌をとるには従順に頭を垂れて奉仕すればよいのだ」
 ナイフで裂かれたシャツの下から裸の背中があらわになる。左右対象の突起、一対の肩甲骨。綺麗に筋肉が付いたしなやかな背中。背筋に沿って滑り落ちたナイフがボロ切れ同然のシャツを断ち、処女のようにきめこまかな褐色の背中を暴いてゆく。
 背徳的で冒涜的な行為。
 冷たい金属の刃が、一糸纏わぬ背中を舐めるように愛撫する。むなしく手をつかねて傍観してる僕でさえ、見てはいけないものを見てるようなひどく後ろめたい気分になった。ロンの動揺はいかほどだろうと表情を探ってみれば、今にもサーシャにとびかからんばかりの形相だった。実際、サムライがロンの膝を木刀で押さえてなければ実行していただろう。
 「!っあ、うく」
 ナイフが素肌に触れる感触に顔をしかめ、手探りでナイフを捜し求めるレイジ。だが、届かない。サーシャが腰に跨っているためそれ以上は動けず、ナイフの落下地点に指が届かない。ナイフを引き寄せされば挽回のチャンスはある、サーシャがレイジの体に夢中になってる今なら……
 届け。届いてくれ。あともう少しなんだ。
 じっとり汗ばむ手で金網を掴み、祈る。金網越しに僕らが見てる前で上着がが裂けて裸の背中が露出する。呼吸にあわせて肩甲骨が上下する背中は美しく均整がとれていた。太陽に焦がれた肌は官能的に汗ばんでいた。
 彫刻のように完成された肢体。生き生きと躍動する肢体。
 「……はっ、俺の背中見て面白いのかよ。言っとくけど、爪痕はねーぜ」
 レイジの軽口にサーシャは取り合わない。レイジの背中から腰をどけて立ち上がり、片手にナイフをさげ、もう片方の手で懐をさぐる。
 「気が変わった。皇帝を侮辱した代償に体の一部を貰いうけるつもりだったが、許してやる」
 『許す』?
 耳を疑う。まさかあのサーシャが、レイジを許すと言ったのか?侮辱には流血で報いる残虐無比な北の皇帝が、かつて自分の背中を切り刻んだ男を許すと?
 満場の観衆が固唾を飲んでサーシャの次なる言葉を待つ。
 かすかな衣擦れの音。サーシャが懐から取り出したのは、銀のライター。
 澄んだ金属音とともにライターの蓋が跳ねあがり、火が揺らめく。掌中にライターを掴んだサーシャが、比類なき美しさのアイスブルーの目に陶酔の色を浮かべる。     
 アイスブルーの瞳で炎があやしく揺らめく。
 「……………」
 直感した。これから何か、とてつもなく不吉なことが起きる。サーシャがレイジを許すことなどありえない。サーシャにとってレイジはこの世で最も憎い人間、それこそ何度殺しても殺したりない人間なのに。
 アイスブルーの瞳に映る小さな炎。氷塊の芯で燃える炎。
 すっ、と優雅な動作でライターの炎に刃を翳す。炎に炙られた刃が先端から熱をおびてゆく。
 「腕を切り落とすより目を抉るより、私の古傷が疼く場所に生涯消えぬ烙印を与えてやろう。かつてお前が私にしたように、絶対服従の印を刻み込んでやろうではないか。知っているかレイジ、家畜の体に焼き鏝を押し付ける習慣があることを。家畜は財産だ。飼い主の所有物だ。ならば生涯消えぬ烙印を付してしかるべしだろう」
 「………反吐がでる」
 サムライが唾棄する。ロンのこぶしは震えている。
 ぼくはただ凝然と、異常な光景に見入っていた。
 ナイフを表返し裏返し、炎で炙る。高熱をおびた刃が真っ赤に染まる、拷問に使う焼き鏝のように。
 焼き鏝。はからずもその比喩は的を射ていた。
 軽快な音をたて蓋を閉じ、ライターを宙へと放り投げる。金網を飛び越えて放物線を描いたライターの落下地点に北の囚人が殺到、餓鬼のようにライターに群がる。そちらを一瞥だにせず、体ごとレイジに向き直るサーシャ。
 片手には溶鉱炉の熱をおび、灼熱の輝きを放つナイフ。
 サーシャの瞳はナイフにも負けず輝いていた。爛々と、爛々と、狂熱を湛えて。
 「!ぐあ、う」
 レイジの背中に片膝乗せ、片手で肩を押さえ付ける。手負いの豹を調教するようにレイジを組み伏せサーシャが、嗜虐の悦びに蕩けた表情で、狂喜の哄笑を孕んだ宣告をくだす。
 「悦べレイジ。奴隷の烙印をくれてやる」
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