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三百十話
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「俺とて譲れないものがある。守りたいものがある」
地下停留場の雑音を圧して凛とした声が湧きあがる。
ホセと五指を組んだサムライが凄烈な眼光を放ち、額に汗して正面の敵を射竦める。
大動脈をすれすれをナイフがざっくり掠めた大怪我で、本来なら医務室のベッドに伏せってなきゃいけないのに、鍵屋崎を守りたい一心で、武士の信念とやらを貫き通したい一念で長い廊下を這いずってきたのだ。
恐ろしいまでの執念。
そうまでしてサムライを突き動かすのは誰かを守りたいという一途な信念、自分の身を犠牲にしてまでも全身全霊を賭して大事な人間を守り抜かんと死地に赴く武士の生き様。
凄絶の一語に尽きる生き様。
サムライにとって鍵屋崎の存在はそれだけ重要だった、他の何物にも替え難いかけがえのないものだった。
俺にとってのレイジがそうであるように、そう、それこそサムライが言った通りに絶対譲れないもの。
俺が東京プリズンに来てレイジに出会ったのは全くの偶然で、ただの皮肉な偶然で、俺は東京プリズンでレイジに出会えたことが運命だなんて甘っちょろい感傷に浸ったりはしない。
俺とレイジが出会ったのはただの偶然。俺たちは人殺しだ。人を殺した罪で裁かれてこの砂漠のど真ん中の刑務所に送られた。逆に言えば、俺が人殺しでさえなければ一生涯レイジと出会うことはなかった。
あの時手榴弾の栓を抜かなければ、手榴弾を投げなければ、俺の運命は変わっていた。
俺には別の人生があった。
今ここにいない人生、東京プリズンとは無縁の平凡な人生、レイジと出会うことなく終わった人生が。
俺たちの出会いを「運命」なんて恰好つけて呼んじゃいけない、それは俺たちが殺した人間への冒涜だ。死者への侮辱だ。これは運命なんかじゃない。ただの皮肉な偶然だ。ここは刑務所で俺たちは人殺しで、それは到底動かし難い事実でごまかしの利かない現実で。
だから俺は、この偶然に感謝する。
レイジに出会えた偶然に感謝する、サムライに出会えた偶然に感謝する、鍵屋崎に出会えた偶然に感謝する。生まれも育ちも全然違う、半生に何の共通点もない俺たちが極東の砂漠のど真ん中にあるくそったれた刑務所で出会った偶然に声を大にして万歳と叫びたい。
リンチやレイプが横行する劣悪な環境で、看守の虐待や囚人間のいじめが日常化した疑心暗鬼の毎日で、レイジやサムライや鍵屋崎と出会い、仲間めいた連帯感を抱けたことに感謝する。
俺たちの絆は鎖のように繋がっている。
鎖のように繋がった偶然を必然と呼べるなら、俺たちの出会いはきっと、東京プリズンで生き残るための必然だったんだろう。
手錠で繋がれた仲間。手錠で繋がれた相棒。
「俺は決して、この勝負に敗けるわけにはいかん」
サムライの腕に渾身の力がこもる。憔悴の隈を落とした目に凛冽たる眼光を湛え、挑むようにホセを見据える。だがサムライの目はホセを見ていない。ホセを通り越してどこか遠くを見ているかのように透徹した眼差しが向かう先は己が心の深淵か、それとも……
鍵屋崎。
「俺に伴侶はないが、最高の相棒がいる!!」
サムライの絶叫が会場を駆け抜ける。
勝敗は一瞬で決した。全身に闘志を漲らせたサムライが豪語し、腕に力をこめる。サムライの気迫に圧倒されたホセに一瞬の隙が生まれ、次の瞬間、限界まで引き絞られた弦のように腕を撓めたサムライが満を持して力を解き放つ。
「!?っ、そんなまさか!」
ホセが何かを叫ぶが、遅かった。ホセの腕は完全にサムライに組み伏せられ手の甲が台に接していた。決着。あっけない幕切れ。それがゴングが鳴る直前、黒山の人だかりの頭越しに俺が目撃した一部始終。
決勝戦第二試合はサムライの逆転勝利で幕を閉じた。
「サムライ!」
気付けば俺は叫んでいた。熱狂の渦に包まれた地下停留場は人口密度過剰で、ざっと見渡したかぎりじゃ東京プリズンのほぼすべての囚人が集合してるようだった。
リング周辺にごったがえす野次馬を掻き分け、前へ前へと手をのばし、無我夢中でサムライに駆け寄ろうとする。
駄目だ、届かない!小柄な俺じゃ人ごみに埋もれてとてもサムライのとこまで行けそうにない、くそ、サムライはすぐそこにいるのに!すぐそこにレイジと鍵屋崎がいるのに、折角レイジの試合に間に合ったってのに!こんなとこで足止め食ってちゃサムライに労いの言葉をかけることはおろかレイジを激励することもできやしない。
くそ、動け足、前へ進め!
「!」
すっ、と俺の腋の下に何かがもぐりこむ。
隣にはビバリーがいた。サムライの勝利に浮き足立って、俺は今の今までビバリーの存在を度忘れしてた。薄情者だと自分にあきれる。医務室から廊下の途中まで俺に肩を貸して歩いてくれた恩人の存在を度忘れしちまうなんて、舞いあがりすぎだ。
「ほんと薄情っスよロンさんは、こんな頼りになる助っ人の存在忘れちゃうなんて」
ビバリーが苦笑する。照れ臭げな笑顔。俺の腋の下に腕をくぐらせ、首の後ろに腕をかけるように担ぎなおしたビバリーが「よし」と意を決して前を向く。真剣な顔。
「いいのか?リョウ捜さなくて」
そうだ、わざわざビバリーが地下停留場までやってきたのは何も親切心からじゃない。ひとりじゃ歩けない怪我人を放っておけなかったからじゃない。確かにビバリーはお人よしだが、レイジに会いたいと我侭言って自分勝手に医務室とびだした俺の尻拭いをするほど間抜けじゃない。
ビバリーがここにいるのは、五十嵐と一緒にいるリョウが心配だからだ。
五十嵐は銃を携帯してる、安田が前回だか前々回だかのペア戦で盗難に遭って紛失した銃を。五十嵐がすぐ銃を安田に返却せず、今の今までひそかに持ち歩いてたのには五十嵐にしかわからないワケがあるはずだ。五十嵐にしかわからない事情があるはずだ。
もし五十嵐が、安田の銃を何か、悪いことに使うつもりなら。
安田の銃を用いて何か事件を引き起こす気なら、一緒にいるリョウが危ない。
こうして大人しくおぶわれてる今もビバリーの焦りは手にとるように伝わってくる、目はきょろきょろとさまよい人ごみに埋もれた赤毛のちびを捜している。
本音じゃ今すぐ人ごみ掻き分けて五十嵐見つけ出してリョウの安否を確かめたいはずなのに、リョウの無事をその目で確認したいはずなのに、俺なんかにかかずりあって時間潰してる場合かよ?
俺だって人のことを言えた身分じゃないが、ビバリーときたら底抜けのお人よしだ。
「……リョウさんはきっと無事っす。あのしぶとくしたたかなリョウさんが、そう簡単にズドンやられるわけありませんて。ロンさんを仲間のもとに届けるぐらい三分もかかりませんよ、リョウさんを捜すのはそれからでも遅くはありません」
肩からずり落ちかけた俺の腕を担ぎなおし、ビバリーが努めて明るく、さりげなく言う。
「ロンさんにはリョウさんがさんざん迷惑かけましたし……リョウさんの尻拭いは相棒の役目っス」
リョウのことを気負いなく相棒と言い、ビバリーがはにかむ。いい奴。本当にリョウにはもったいないくらいのいいダチだ。実際地下停留場まで運ばれてくる途中凱に手荒く扱われて体がしんどいのも事実だし、俺は素直にビバリーの好意に甘えることにした。ビバリーの肩にぐったりと体を凭せ、呟く。
『謝謝』
『Youre welcome』
台湾語のありがとうに返されたのは、英語のどういたしまして。いくらバカな俺でもそれくらい知ってる。初歩の初歩だ。片手で俺の腰を抱え、片手で俺の腕を掴んだビバリーが大股に人ごみを突っ切る。迷いなく一直線に雑踏を突きぬけ突き進み、行く手を邪魔する奴がいれば素早く迂回するか股下をくぐるかして、よどみない歩調でリングを目指す。
サムライは、レイジは、鍵屋崎は?俺の仲間はどこにいる?
リングが近付いてきた。いた。白熱の照明を浴びてリングに膝を屈し、背中を丸めているのはホセだ。ホセの周りをわらわらと取り巻いてるあれは、浅黒い肌が特徴の南の囚人ども。
「大丈夫ですかコーチ!?」
「お怪我はありませんか!」
「腕の骨は折れてませんよね!?」
「気を落とさないでください。あんなの敗けたうちに入りませんよ、コーチの伝説は永久に不滅です!俺たちはコーチの勇姿をばっちりこの目に焼き付けました、遠い空の下でコーチの帰りを待ってる奥さんだってきっとコーチの頑張りを誉めてキスの嵐を降らせますよ!」
「コーチ万歳!」
「「コーチ万歳!!」」
皆で揃って意気消沈したホセを慰めてるらしい。弟子に恵まれてるな。リングに膝を屈して落ちこんでいたホセが、弟子たちの声援を受けてゆっくりと顔を上げる。復活の兆し。弦に触れ、眼鏡の位置を直して顔を起こしたホセの目は感動の涙で潤んでいた。
「有り難い声援の数々いたみいります……不肖このホセ、試合には負けてしまいましたが素晴らしい弟子に恵まれた現状とワイフへの真実の愛を確認できただけでも収穫があったというもの。吾輩は幸せ者です」
うわ。ホセの奴マジで泣き出しやがった。引くぞこれ。
しかし、俺の予想を裏切り南の囚人たちは全員目を潤ませていた。感動の嵐。中には下品に鼻を噛んでる奴もいる。
俺にはお涙頂戴の嘘芝居にしか見えないが、根が単純な南の囚人どもは見事にころりと騙されちまったようだ。
それが証拠に、わざわざポケットから取り出したハンカチでそそと目尻を拭い、大仰に鼻を噛むホセの口元は笑っていた。
転んでもただでは起きあがらない腹黒隠者め。
リング上で繰り広げられる盛大な嘘芝居をよそに、もう一人の主役は早々と退場していた。リングを下りたサムライが向かう先は鍵屋崎とレイジのもと。片足をひきずるように歩くサムライは既にいつ倒れてもおかしくない状態で、危なっかしくふらついていた。疲労困憊。太股の出血は酷くて、ズボンが真っ赤に染まっていた。
「サムライ!」
鍵屋崎が叫び、サムライが来るのを待ちきれず駆け出す。片手には木刀を抱えていた。サムライの木刀。サムライが鍵屋崎の手に託した信頼の証。いつものお高く取り澄ました表情が嘘のように、冷静沈着な態度が嘘のように、リングを下りたサムライを一目見た瞬間に鍵屋崎の余裕は消し飛んでいた。
おいおい、いつもの落ち着き払った物腰はどこ行ったんだよ?とツッコミ入れてる暇はなかった。俺も鍵屋崎とおなじだ。レイジの面を一目見た瞬間から理性が吹っ飛んで、まっしぐらに駆け出していたのだから。
「レイジ!」
鍵屋崎に遅れること二秒、俺は我を忘れて駆け出した。ビバリーの制止の声に背を向け、虚空に手をのばし、一直線にレイジを目指して。
俺の声に反応して振り返ったレイジはぽかんとしていた。なんで俺がここにいるのか理解できないといった呆然とした顔。驚愕。こんな時じゃなかったら吹き出しちまうくらい、折角の美形が台無しの間抜けヅラ。
サムライのもとへ駆け寄る鍵屋崎、レイジのもとへ駆け寄る俺。
互いが互いの相棒のもとへ、まっしぐらに。
レイジの肩越しに俺の目に映ったのは、サムライの面食らった顔。慌てふためく鍵屋崎なんて見るのはまれだからおったまげたんだろう。
「ロン!」
衝撃から冷めたレイジが信じられないといった面持ちで目前に迫った俺の名前を呼ぶ。レイジまであと少し、手を伸ばせば指先が触れる距離。もう少しでレイジに届く。足を前に繰り出すたび肋骨が軋んで激痛が走った。
錐で胸を貫かれるような、心臓を生絞りされるような激痛にもめげずに足を前にくりだす。
レイジが両腕を広げて俺を迎え入れる体勢をとるのが、朦朧とした視界に映る。
俺がレイジの腕にとびこむのと、サムライが鍵屋崎の胸に倒れこむのは同時だった。
「どうしてこんな無茶するんだよ!?」
「どうしてこんな無茶をするんだ!?」
レイジと鍵屋崎が同時に怒鳴る。鍵屋崎の胸に凭れるように顔を埋めたサムライが「……すまない」と呟く。誠意をこめた謝罪。サムライはいつもおそろしく姿勢がよかった。背筋はいついかなる時もぴんと伸びていた。錬鉄した精神の在り処を示すように一本芯の通った背中だった。
その背中が、いつも鉄板を仕込んだみたいに真っ直ぐ伸びていた背中が、今はぐったりと丸まっている。ホセとの試合でひどく体力を消耗し、直立不動の姿勢を維持するのが難しくなったのだろう。
「ロン、お前医務室で寝てるはずだろ!肋骨折れてる怪我人がなに地下停留場まで出張してきてんだよ、だれも呼んでねーのに目立ちたがりも大概にしねえと」
「呼んだろ!?」
レイジの腕の中で声も限りに叫ぶ。
レイジの腕に縋るように上体を起こし、レイジの目をきっと見据える。レイジに抱擁され、レイジのぬくもりに包まれ、泣きたくなるような安心感を覚える。気を抜けば涙腺が緩んで視界が曇りそうになる。
やっとレイジに会えた。間に合った。
レイジがリングに上がる前にもう一回会うことができた、言葉を交わすチャンスを貰えた。
謝謝神様。あんたはひょっとしたら、どこかにいるかもしれない。
案外俺たちの近くに。
「嘘つけよ、お前が呼んだから俺はここにいるんだよ、ここまで必死こいて息切らして走ってきたんだよ!なんだよ医務室でるとき恰好つけやがって、なんだよ我愛弥ってふざけやがって、別れ際に愛してるなんて遺言みてえで縁起悪いじゃねえかよ!お前は言いたいこと言って試合にでて、俺のために戦って死んで満足かもしれねーけど、じゃあ俺はなんなんだよ!?俺は相棒が死にそうな思いしてるときに医務室のベッドで寝てるだけなのか、何もできず指くわえて見てるだけなのか、じっとしてるだけなのか!?」
俺の剣幕に気圧され、レイジがたじろぐ。
レイジはいっつもそうだ、いつだってそうだ。
自分ひとり恰好つけて、俺を置き去りにする。俺はもうレイジに置き去りにされるのはいやだ、ごめんだ。大事な人間に置き去りにされるのはごめんだ、耐えられない。
発作的にレイジの胸ぐらを掴み、顔を引き寄せる。
「恰好つけて『我愛弥』じゃねえ、本当は俺に会いたくて会いたくてしょうがなかったくせに我慢してんじゃねえよ!独りが不安で不安でしょうがなくて、リングに上るのが怖くて怖くて小便ちびりそうなくせに無理して平気なふりしてんじゃねえ!お前と一年半も付き合ってんだ、嘘ついてるって笑顔みりゃすぐわかるんだよ、一発で見ぬけんだよ!俺はいやだぞ、相棒を見殺しにして自分だけぬくぬく毛布にくるまってるような意気地なしに成り下がるのだけはごめんだ、冗談じゃねえ!!」
盛大に唾をとばし、一息にまくしたてる。
俺に胸ぐらを掴まれたレイジがあんぐり口を開けて固まっている。返す言葉もないってか?ざまみろ。
「俺についてて欲しいなら最初からそう言えよ、俺のためだとか言い訳すんじゃねえ、俺のこと一番に考えて我慢する必要なんかねえんだよこれっぽっちだよ!俺だってお前と一緒にいたいんだよ、お前についててやりたいんだよ、お前のことが心配でおちおち寝てられねえんだよ!お前のことが、」
続く言葉を喪失する。
いきなりレイジに抱きしめられたから。
「………サンキュ」
俺の背中に腕を回し、頭に顎をのせたレイジが呟く。俺はもう胸が一杯で何も言えず、汗臭い上着に顔を擦りつける。レイジの顔を見たら言ってやろうと決めていたことが山ほどある。
お前が心配だ。
お前が大事だ。
お前と離れたくない。
お前を失いたくない。
お前が、
「………好きなんだよ」
「知ってたよ」
王様は自信過剰だ。俺がもてる勇気を振り絞って一世一代の告白をしたってのにしれっとしてやがる。でも、本音じゃ嬉しい証拠に顔がにやけていた。
レイジの腕を掴み、瞼を閉じ、涙を引っ込めて顔を上げる。胸が疼くのは折れた肋骨のせいばかりじゃない。照明に淡く輪郭を溶かしたレイジの笑顔が目に染みたから。
「生きて帰ってこいよ。必ず」
「ああ」
「守れよ。約束」
「ああ」
レイジがポケットをまさぐり、俺の鼻先にこぶしを突き出す。ゆっくりと五指が開き、手のひらに置かれた牌が現れる。
別れ際、お守り代わりにと俺が投げ渡した牌。
俺もおなじようにポケットをまさぐり、牌をとりだす。レイジに渡した牌の片割れ。地下停留場の喧騒が遠ざかる。
煌煌と照明が降り注ぐ中、レイジと対峙した俺は、牌を摘んだ指先を無言で虚空へとさしのべる。正面の虚空へと牌を翳した俺にならい、レイジが片腕をさしのべる。
安物のプラスチックでできた牌と牌がかち合い、澄んだ音が鳴る。
レイジの凱旋を祈るように。
ゆっくりと腕をさげおろし、深々と息を吐き、レイジが顔を上げる。
心残りを全部片付け、未練を一切合財吹っ切った、さっぱりした顔だった。
「生きて帰って、必ずお前を抱くよ」
これでいいんだ。
レイジは俺を抱くために必ず帰ってくる。
レイジの生還を念じ、五指の間接が白く強張るほどに牌を握りしめる。牌をポケットにしまったレイジが最後にぽんと俺の頭を叩き、猫科の肉食獣をおもわせるしなやな歩みでリングへ赴く。
いよいよ決勝戦最終試合、王様と皇帝の対決が実現する。
「レイジ!」
白い照明に溶けこむように、俺から遠ざかるレイジの背中へと声をかける。
レイジに駆け寄りたいのを寸手のところで自制し、レイジによく見えるようこぶしにした片手を高々と突き上げ、叫ぶ。
ずっとレイジに伝えたかった想いを。
今のありのままの気持ちを。
『我也一様我愛弥!我認識弥眞好!!』
俺も愛してるよ。お前と会えてよかった。
肩越しに振り向いたレイジの顔が、笑み崩れる。
はにかむような笑顔。心の底から幸せで満ち足りて、それ以上言葉なんか必要としない笑顔。
牌を握りしめたこぶしを高々と空に突き上げた俺は、その場を一歩も動かず、まっすぐにレイジを見送る。俺のもとを離れてリングに上がるまでずっと、リングに上がってからもずっと、レイジはズボンのポケットに片手を突っ込んで握り拳を作っていた。
俺とレイジ、二人分の願いとぬくもりがこめられた牌をポケットの内側で握りしめて。
地下停留場の雑音を圧して凛とした声が湧きあがる。
ホセと五指を組んだサムライが凄烈な眼光を放ち、額に汗して正面の敵を射竦める。
大動脈をすれすれをナイフがざっくり掠めた大怪我で、本来なら医務室のベッドに伏せってなきゃいけないのに、鍵屋崎を守りたい一心で、武士の信念とやらを貫き通したい一念で長い廊下を這いずってきたのだ。
恐ろしいまでの執念。
そうまでしてサムライを突き動かすのは誰かを守りたいという一途な信念、自分の身を犠牲にしてまでも全身全霊を賭して大事な人間を守り抜かんと死地に赴く武士の生き様。
凄絶の一語に尽きる生き様。
サムライにとって鍵屋崎の存在はそれだけ重要だった、他の何物にも替え難いかけがえのないものだった。
俺にとってのレイジがそうであるように、そう、それこそサムライが言った通りに絶対譲れないもの。
俺が東京プリズンに来てレイジに出会ったのは全くの偶然で、ただの皮肉な偶然で、俺は東京プリズンでレイジに出会えたことが運命だなんて甘っちょろい感傷に浸ったりはしない。
俺とレイジが出会ったのはただの偶然。俺たちは人殺しだ。人を殺した罪で裁かれてこの砂漠のど真ん中の刑務所に送られた。逆に言えば、俺が人殺しでさえなければ一生涯レイジと出会うことはなかった。
あの時手榴弾の栓を抜かなければ、手榴弾を投げなければ、俺の運命は変わっていた。
俺には別の人生があった。
今ここにいない人生、東京プリズンとは無縁の平凡な人生、レイジと出会うことなく終わった人生が。
俺たちの出会いを「運命」なんて恰好つけて呼んじゃいけない、それは俺たちが殺した人間への冒涜だ。死者への侮辱だ。これは運命なんかじゃない。ただの皮肉な偶然だ。ここは刑務所で俺たちは人殺しで、それは到底動かし難い事実でごまかしの利かない現実で。
だから俺は、この偶然に感謝する。
レイジに出会えた偶然に感謝する、サムライに出会えた偶然に感謝する、鍵屋崎に出会えた偶然に感謝する。生まれも育ちも全然違う、半生に何の共通点もない俺たちが極東の砂漠のど真ん中にあるくそったれた刑務所で出会った偶然に声を大にして万歳と叫びたい。
リンチやレイプが横行する劣悪な環境で、看守の虐待や囚人間のいじめが日常化した疑心暗鬼の毎日で、レイジやサムライや鍵屋崎と出会い、仲間めいた連帯感を抱けたことに感謝する。
俺たちの絆は鎖のように繋がっている。
鎖のように繋がった偶然を必然と呼べるなら、俺たちの出会いはきっと、東京プリズンで生き残るための必然だったんだろう。
手錠で繋がれた仲間。手錠で繋がれた相棒。
「俺は決して、この勝負に敗けるわけにはいかん」
サムライの腕に渾身の力がこもる。憔悴の隈を落とした目に凛冽たる眼光を湛え、挑むようにホセを見据える。だがサムライの目はホセを見ていない。ホセを通り越してどこか遠くを見ているかのように透徹した眼差しが向かう先は己が心の深淵か、それとも……
鍵屋崎。
「俺に伴侶はないが、最高の相棒がいる!!」
サムライの絶叫が会場を駆け抜ける。
勝敗は一瞬で決した。全身に闘志を漲らせたサムライが豪語し、腕に力をこめる。サムライの気迫に圧倒されたホセに一瞬の隙が生まれ、次の瞬間、限界まで引き絞られた弦のように腕を撓めたサムライが満を持して力を解き放つ。
「!?っ、そんなまさか!」
ホセが何かを叫ぶが、遅かった。ホセの腕は完全にサムライに組み伏せられ手の甲が台に接していた。決着。あっけない幕切れ。それがゴングが鳴る直前、黒山の人だかりの頭越しに俺が目撃した一部始終。
決勝戦第二試合はサムライの逆転勝利で幕を閉じた。
「サムライ!」
気付けば俺は叫んでいた。熱狂の渦に包まれた地下停留場は人口密度過剰で、ざっと見渡したかぎりじゃ東京プリズンのほぼすべての囚人が集合してるようだった。
リング周辺にごったがえす野次馬を掻き分け、前へ前へと手をのばし、無我夢中でサムライに駆け寄ろうとする。
駄目だ、届かない!小柄な俺じゃ人ごみに埋もれてとてもサムライのとこまで行けそうにない、くそ、サムライはすぐそこにいるのに!すぐそこにレイジと鍵屋崎がいるのに、折角レイジの試合に間に合ったってのに!こんなとこで足止め食ってちゃサムライに労いの言葉をかけることはおろかレイジを激励することもできやしない。
くそ、動け足、前へ進め!
「!」
すっ、と俺の腋の下に何かがもぐりこむ。
隣にはビバリーがいた。サムライの勝利に浮き足立って、俺は今の今までビバリーの存在を度忘れしてた。薄情者だと自分にあきれる。医務室から廊下の途中まで俺に肩を貸して歩いてくれた恩人の存在を度忘れしちまうなんて、舞いあがりすぎだ。
「ほんと薄情っスよロンさんは、こんな頼りになる助っ人の存在忘れちゃうなんて」
ビバリーが苦笑する。照れ臭げな笑顔。俺の腋の下に腕をくぐらせ、首の後ろに腕をかけるように担ぎなおしたビバリーが「よし」と意を決して前を向く。真剣な顔。
「いいのか?リョウ捜さなくて」
そうだ、わざわざビバリーが地下停留場までやってきたのは何も親切心からじゃない。ひとりじゃ歩けない怪我人を放っておけなかったからじゃない。確かにビバリーはお人よしだが、レイジに会いたいと我侭言って自分勝手に医務室とびだした俺の尻拭いをするほど間抜けじゃない。
ビバリーがここにいるのは、五十嵐と一緒にいるリョウが心配だからだ。
五十嵐は銃を携帯してる、安田が前回だか前々回だかのペア戦で盗難に遭って紛失した銃を。五十嵐がすぐ銃を安田に返却せず、今の今までひそかに持ち歩いてたのには五十嵐にしかわからないワケがあるはずだ。五十嵐にしかわからない事情があるはずだ。
もし五十嵐が、安田の銃を何か、悪いことに使うつもりなら。
安田の銃を用いて何か事件を引き起こす気なら、一緒にいるリョウが危ない。
こうして大人しくおぶわれてる今もビバリーの焦りは手にとるように伝わってくる、目はきょろきょろとさまよい人ごみに埋もれた赤毛のちびを捜している。
本音じゃ今すぐ人ごみ掻き分けて五十嵐見つけ出してリョウの安否を確かめたいはずなのに、リョウの無事をその目で確認したいはずなのに、俺なんかにかかずりあって時間潰してる場合かよ?
俺だって人のことを言えた身分じゃないが、ビバリーときたら底抜けのお人よしだ。
「……リョウさんはきっと無事っす。あのしぶとくしたたかなリョウさんが、そう簡単にズドンやられるわけありませんて。ロンさんを仲間のもとに届けるぐらい三分もかかりませんよ、リョウさんを捜すのはそれからでも遅くはありません」
肩からずり落ちかけた俺の腕を担ぎなおし、ビバリーが努めて明るく、さりげなく言う。
「ロンさんにはリョウさんがさんざん迷惑かけましたし……リョウさんの尻拭いは相棒の役目っス」
リョウのことを気負いなく相棒と言い、ビバリーがはにかむ。いい奴。本当にリョウにはもったいないくらいのいいダチだ。実際地下停留場まで運ばれてくる途中凱に手荒く扱われて体がしんどいのも事実だし、俺は素直にビバリーの好意に甘えることにした。ビバリーの肩にぐったりと体を凭せ、呟く。
『謝謝』
『Youre welcome』
台湾語のありがとうに返されたのは、英語のどういたしまして。いくらバカな俺でもそれくらい知ってる。初歩の初歩だ。片手で俺の腰を抱え、片手で俺の腕を掴んだビバリーが大股に人ごみを突っ切る。迷いなく一直線に雑踏を突きぬけ突き進み、行く手を邪魔する奴がいれば素早く迂回するか股下をくぐるかして、よどみない歩調でリングを目指す。
サムライは、レイジは、鍵屋崎は?俺の仲間はどこにいる?
リングが近付いてきた。いた。白熱の照明を浴びてリングに膝を屈し、背中を丸めているのはホセだ。ホセの周りをわらわらと取り巻いてるあれは、浅黒い肌が特徴の南の囚人ども。
「大丈夫ですかコーチ!?」
「お怪我はありませんか!」
「腕の骨は折れてませんよね!?」
「気を落とさないでください。あんなの敗けたうちに入りませんよ、コーチの伝説は永久に不滅です!俺たちはコーチの勇姿をばっちりこの目に焼き付けました、遠い空の下でコーチの帰りを待ってる奥さんだってきっとコーチの頑張りを誉めてキスの嵐を降らせますよ!」
「コーチ万歳!」
「「コーチ万歳!!」」
皆で揃って意気消沈したホセを慰めてるらしい。弟子に恵まれてるな。リングに膝を屈して落ちこんでいたホセが、弟子たちの声援を受けてゆっくりと顔を上げる。復活の兆し。弦に触れ、眼鏡の位置を直して顔を起こしたホセの目は感動の涙で潤んでいた。
「有り難い声援の数々いたみいります……不肖このホセ、試合には負けてしまいましたが素晴らしい弟子に恵まれた現状とワイフへの真実の愛を確認できただけでも収穫があったというもの。吾輩は幸せ者です」
うわ。ホセの奴マジで泣き出しやがった。引くぞこれ。
しかし、俺の予想を裏切り南の囚人たちは全員目を潤ませていた。感動の嵐。中には下品に鼻を噛んでる奴もいる。
俺にはお涙頂戴の嘘芝居にしか見えないが、根が単純な南の囚人どもは見事にころりと騙されちまったようだ。
それが証拠に、わざわざポケットから取り出したハンカチでそそと目尻を拭い、大仰に鼻を噛むホセの口元は笑っていた。
転んでもただでは起きあがらない腹黒隠者め。
リング上で繰り広げられる盛大な嘘芝居をよそに、もう一人の主役は早々と退場していた。リングを下りたサムライが向かう先は鍵屋崎とレイジのもと。片足をひきずるように歩くサムライは既にいつ倒れてもおかしくない状態で、危なっかしくふらついていた。疲労困憊。太股の出血は酷くて、ズボンが真っ赤に染まっていた。
「サムライ!」
鍵屋崎が叫び、サムライが来るのを待ちきれず駆け出す。片手には木刀を抱えていた。サムライの木刀。サムライが鍵屋崎の手に託した信頼の証。いつものお高く取り澄ました表情が嘘のように、冷静沈着な態度が嘘のように、リングを下りたサムライを一目見た瞬間に鍵屋崎の余裕は消し飛んでいた。
おいおい、いつもの落ち着き払った物腰はどこ行ったんだよ?とツッコミ入れてる暇はなかった。俺も鍵屋崎とおなじだ。レイジの面を一目見た瞬間から理性が吹っ飛んで、まっしぐらに駆け出していたのだから。
「レイジ!」
鍵屋崎に遅れること二秒、俺は我を忘れて駆け出した。ビバリーの制止の声に背を向け、虚空に手をのばし、一直線にレイジを目指して。
俺の声に反応して振り返ったレイジはぽかんとしていた。なんで俺がここにいるのか理解できないといった呆然とした顔。驚愕。こんな時じゃなかったら吹き出しちまうくらい、折角の美形が台無しの間抜けヅラ。
サムライのもとへ駆け寄る鍵屋崎、レイジのもとへ駆け寄る俺。
互いが互いの相棒のもとへ、まっしぐらに。
レイジの肩越しに俺の目に映ったのは、サムライの面食らった顔。慌てふためく鍵屋崎なんて見るのはまれだからおったまげたんだろう。
「ロン!」
衝撃から冷めたレイジが信じられないといった面持ちで目前に迫った俺の名前を呼ぶ。レイジまであと少し、手を伸ばせば指先が触れる距離。もう少しでレイジに届く。足を前に繰り出すたび肋骨が軋んで激痛が走った。
錐で胸を貫かれるような、心臓を生絞りされるような激痛にもめげずに足を前にくりだす。
レイジが両腕を広げて俺を迎え入れる体勢をとるのが、朦朧とした視界に映る。
俺がレイジの腕にとびこむのと、サムライが鍵屋崎の胸に倒れこむのは同時だった。
「どうしてこんな無茶するんだよ!?」
「どうしてこんな無茶をするんだ!?」
レイジと鍵屋崎が同時に怒鳴る。鍵屋崎の胸に凭れるように顔を埋めたサムライが「……すまない」と呟く。誠意をこめた謝罪。サムライはいつもおそろしく姿勢がよかった。背筋はいついかなる時もぴんと伸びていた。錬鉄した精神の在り処を示すように一本芯の通った背中だった。
その背中が、いつも鉄板を仕込んだみたいに真っ直ぐ伸びていた背中が、今はぐったりと丸まっている。ホセとの試合でひどく体力を消耗し、直立不動の姿勢を維持するのが難しくなったのだろう。
「ロン、お前医務室で寝てるはずだろ!肋骨折れてる怪我人がなに地下停留場まで出張してきてんだよ、だれも呼んでねーのに目立ちたがりも大概にしねえと」
「呼んだろ!?」
レイジの腕の中で声も限りに叫ぶ。
レイジの腕に縋るように上体を起こし、レイジの目をきっと見据える。レイジに抱擁され、レイジのぬくもりに包まれ、泣きたくなるような安心感を覚える。気を抜けば涙腺が緩んで視界が曇りそうになる。
やっとレイジに会えた。間に合った。
レイジがリングに上がる前にもう一回会うことができた、言葉を交わすチャンスを貰えた。
謝謝神様。あんたはひょっとしたら、どこかにいるかもしれない。
案外俺たちの近くに。
「嘘つけよ、お前が呼んだから俺はここにいるんだよ、ここまで必死こいて息切らして走ってきたんだよ!なんだよ医務室でるとき恰好つけやがって、なんだよ我愛弥ってふざけやがって、別れ際に愛してるなんて遺言みてえで縁起悪いじゃねえかよ!お前は言いたいこと言って試合にでて、俺のために戦って死んで満足かもしれねーけど、じゃあ俺はなんなんだよ!?俺は相棒が死にそうな思いしてるときに医務室のベッドで寝てるだけなのか、何もできず指くわえて見てるだけなのか、じっとしてるだけなのか!?」
俺の剣幕に気圧され、レイジがたじろぐ。
レイジはいっつもそうだ、いつだってそうだ。
自分ひとり恰好つけて、俺を置き去りにする。俺はもうレイジに置き去りにされるのはいやだ、ごめんだ。大事な人間に置き去りにされるのはごめんだ、耐えられない。
発作的にレイジの胸ぐらを掴み、顔を引き寄せる。
「恰好つけて『我愛弥』じゃねえ、本当は俺に会いたくて会いたくてしょうがなかったくせに我慢してんじゃねえよ!独りが不安で不安でしょうがなくて、リングに上るのが怖くて怖くて小便ちびりそうなくせに無理して平気なふりしてんじゃねえ!お前と一年半も付き合ってんだ、嘘ついてるって笑顔みりゃすぐわかるんだよ、一発で見ぬけんだよ!俺はいやだぞ、相棒を見殺しにして自分だけぬくぬく毛布にくるまってるような意気地なしに成り下がるのだけはごめんだ、冗談じゃねえ!!」
盛大に唾をとばし、一息にまくしたてる。
俺に胸ぐらを掴まれたレイジがあんぐり口を開けて固まっている。返す言葉もないってか?ざまみろ。
「俺についてて欲しいなら最初からそう言えよ、俺のためだとか言い訳すんじゃねえ、俺のこと一番に考えて我慢する必要なんかねえんだよこれっぽっちだよ!俺だってお前と一緒にいたいんだよ、お前についててやりたいんだよ、お前のことが心配でおちおち寝てられねえんだよ!お前のことが、」
続く言葉を喪失する。
いきなりレイジに抱きしめられたから。
「………サンキュ」
俺の背中に腕を回し、頭に顎をのせたレイジが呟く。俺はもう胸が一杯で何も言えず、汗臭い上着に顔を擦りつける。レイジの顔を見たら言ってやろうと決めていたことが山ほどある。
お前が心配だ。
お前が大事だ。
お前と離れたくない。
お前を失いたくない。
お前が、
「………好きなんだよ」
「知ってたよ」
王様は自信過剰だ。俺がもてる勇気を振り絞って一世一代の告白をしたってのにしれっとしてやがる。でも、本音じゃ嬉しい証拠に顔がにやけていた。
レイジの腕を掴み、瞼を閉じ、涙を引っ込めて顔を上げる。胸が疼くのは折れた肋骨のせいばかりじゃない。照明に淡く輪郭を溶かしたレイジの笑顔が目に染みたから。
「生きて帰ってこいよ。必ず」
「ああ」
「守れよ。約束」
「ああ」
レイジがポケットをまさぐり、俺の鼻先にこぶしを突き出す。ゆっくりと五指が開き、手のひらに置かれた牌が現れる。
別れ際、お守り代わりにと俺が投げ渡した牌。
俺もおなじようにポケットをまさぐり、牌をとりだす。レイジに渡した牌の片割れ。地下停留場の喧騒が遠ざかる。
煌煌と照明が降り注ぐ中、レイジと対峙した俺は、牌を摘んだ指先を無言で虚空へとさしのべる。正面の虚空へと牌を翳した俺にならい、レイジが片腕をさしのべる。
安物のプラスチックでできた牌と牌がかち合い、澄んだ音が鳴る。
レイジの凱旋を祈るように。
ゆっくりと腕をさげおろし、深々と息を吐き、レイジが顔を上げる。
心残りを全部片付け、未練を一切合財吹っ切った、さっぱりした顔だった。
「生きて帰って、必ずお前を抱くよ」
これでいいんだ。
レイジは俺を抱くために必ず帰ってくる。
レイジの生還を念じ、五指の間接が白く強張るほどに牌を握りしめる。牌をポケットにしまったレイジが最後にぽんと俺の頭を叩き、猫科の肉食獣をおもわせるしなやな歩みでリングへ赴く。
いよいよ決勝戦最終試合、王様と皇帝の対決が実現する。
「レイジ!」
白い照明に溶けこむように、俺から遠ざかるレイジの背中へと声をかける。
レイジに駆け寄りたいのを寸手のところで自制し、レイジによく見えるようこぶしにした片手を高々と突き上げ、叫ぶ。
ずっとレイジに伝えたかった想いを。
今のありのままの気持ちを。
『我也一様我愛弥!我認識弥眞好!!』
俺も愛してるよ。お前と会えてよかった。
肩越しに振り向いたレイジの顔が、笑み崩れる。
はにかむような笑顔。心の底から幸せで満ち足りて、それ以上言葉なんか必要としない笑顔。
牌を握りしめたこぶしを高々と空に突き上げた俺は、その場を一歩も動かず、まっすぐにレイジを見送る。俺のもとを離れてリングに上がるまでずっと、リングに上がってからもずっと、レイジはズボンのポケットに片手を突っ込んで握り拳を作っていた。
俺とレイジ、二人分の願いとぬくもりがこめられた牌をポケットの内側で握りしめて。
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