少年プリズン

まさみ

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二百九十四話

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 歓声が爆発する。
 網膜を灼いた白熱の奔流の正体は金網の高所に設置された照明の光線。
 四囲から威圧的にリングを俯瞰する巨大な照明器具の下、銀の檻に囲われた正方形のリングは流血を尊ぶ現代のコロシアムとなる。平日ともなれば強制労働に赴く囚人を送迎するバスが忙しげに出入りする地下停留場だが週末の夜は様相が一変し、普段は東西南北に分かれて行き来もない囚人たちが一堂に会する闘技場となる。
 棟同士の抗争を防ぐため渡り廊下が封鎖されて以降、表面的には交流断絶した東西南北の囚人が、生の殺し合いを観たい一心で地下停留場にわきだしてくる。
 東京プリズンの囚人は血に飢えている。
 今までにない人口密度の地下停留場。その中央に設置されたリングにて、ヨンイルと対峙する。
 ヨンイルは腰に手をついたふてぶてしい態度で僕を出迎え、にやにや笑いながら口を開く。
 「策はあるんか、直ちゃん。まさかその手の中の木刀で戦うつもりとちゃうよな」
 満場の注目を集めたリングの中心、公衆の面前で僕をちゃん付けする。不敵な挑発。僕のプライドを刺激して神経を逆撫でしようという道化の浅知恵。ヨンイルの挑発はとりあわず、手の中の木刀を見下ろす。
 僕の手の中におさまってるのは一振りの木刀。
 しなやかに反った切尖と渋い飴色の艶を帯びた刀身。眩い照明を燦然と弾き返す木刀は、先日サムライから譲り受けたものだ。重傷を負って決勝戦を辞退せざるをえない自分の代わりに、日々鍛錬を重ねて手垢が染みたこの木刀を決勝戦に持参するようにと僕はサムライに頭を下げて頼まれた。
 友人の頼みは断れない。怪我人の頼みならばなおさらだ。
 どうやら僕は自分で思っている以上にお人よしな性分だったらしく、サムライに礼儀正しく頭を下げられたら嫌とは言えなかった。
 剣の扱いを知らない僕が木刀を持っていたところで戦いには生かせない、有利にはならない。そんなことは百も承知だ。僕は有利な立場に立つのが目的で木刀を持ちこんだわけではない、ただなんとなく手放せなかっただけだ。理解不能の奇妙な行動に自分でもあきれる。
 木刀を持参してリングに上がった行為に理由を見出すなら、心細かったからだ。
 木刀にはまだ、サムライのぬくもりが残ってる気がした。
 もちろんそれは僕の錯覚にすぎない、先入観からくるただの思いこみだ。サムライから木刀を譲りうけてから既に数日が経過している、サムライに手渡されたときのぬくもりなどとっくに失せてしまっている。 
 だが、僕はまだ、サムライのぬくもりに縋っている。
 胸裏にこみあげる不安をごまかすべく木刀を握る五指に力をこめ、瞼を落とし、サムライの顔を回想する。地下停留場に下りる前、医務室に寄ってサムライと短い会話をした。決勝戦を控えた緊張をごまかすため、僕たちは本題を避けて他愛ないことを話し合った。
 話の内容よりも印象に残ったのは、僕の緊張をほぐそうとというサムライの気遣いだ。自分も怪我をして辛い体だというのに、決勝戦を目前に控えた僕を心配して真摯に労わってくれた。彼なりの不器用なやり方で、精一杯一生懸命に。
 その時心に決めた。
 僕はサムライの分まで戦わねばならない。いつまでも庇護されていてはだめだ、いつまでも守られていては駄目だ。僕はサムライが信頼して背中を預けられる相棒になりたい、その為には自分の足でリングに立つのが大前提だとようやく気付いたのだ。
 僕はヨンイルに勝つ。
 僕の持てる力を総動員して、サムライに誇れる相棒になってやる。
 『HEY Baby,Come back!』
 ガシャンと金網を殴り付ける音。
 そちらに目をやれば、レイジが手足を振り乱して暴れていた。試合開始十秒前に突然僕が参戦表明して、制止する暇もなくリングに上がってしまって、場外に取り残されたレイジは激昂していた。説得にも耳を貸さずリングへと上がった僕の振るまいは、レイジの目には裏切り行為とでも映ったのだろう。 
 両手の指を鉤のように曲げて金網を掴んだレイジが、憤怒の形相で大口あけ、盛大に唾をとばす。 
 「ついにヤキが回ったのかよ天才、トチ狂ってんじゃねえよ!猛獣の檻に入るのは俺ひとりで十分だ、お前は外で指くわえて待ってろよ。いいかキーストアよく聞け、これから始まるのはなんだ、子供のお遊びか?ヘルズキッチンのままごとか?違うだろ、そうじゃねえだろ、これからはじまるのは俺たちの未来を決める大事な試合だよな。ペア戦の終幕を飾る3トップとの対決だよな」
 眼鏡のブリッジを押し上げ、冷たく光るレンズ越しにレイジを一瞥する。
 「僕を侮辱するな、君が今述べたことは当然予備知識として委細漏らさず頭に入っている」
 癇癪を起こしたレイジが金網を蹴りつける。
 「だったらなんで檻の中にいんだよ、ヨンイルに食われにいくんだよ!いいか、まだ間に合う、馬鹿な真似はやめてとっとと戻って来い。俺の中の暴君が起きねえうちに、俺がまだ寛容さを売りにした王様でいられるうちに速攻戻ってきな世間知らずのスカした坊や。今ならまだ許してやる。会場を湧かす前座、お茶目なジョークだって笑って許してやるよ」
 蒸発寸前の理性を繋ぎとめ、ぎこちない笑顔で手招くレイジにむかって吐き捨てる。
 「冗談を言うな。さっきとおなじことを二度言わせる気か?僕が今ここにいるのは自分の意志だ、外野がうるさく吠えたところでいまさらリングを下りたりはしない。どうしてもと言うなら力づくで下ろしてみろ。ただし忠告しておくが一度リングに上ったら最後、手と手を打ち合わせてだれの目にも明らかな形で合図しないかぎり選手交代ができないのがペア戦のルールだ。君が周囲の制止を振りきり強引にリングに上れば即退場となり、今までやってきたこと全部が無駄になる。付け加えれば、これは命令ではなく脅迫だ」
 言わずもがなのことを噛み砕いて説明するのは疲れる。
 徒労のため息をつき、レイジを見据え、付け足す。
 「まだわからないのかレイジ?僕が一度リングに上がったら、ヨンイルを倒すか倒されるかしないかぎり下りることはできないんだ。絶対に」
 『Fack!!』 
 レイジの怒りが爆発した。
 育ちの悪さが知れるスラングで悪態を吐き、申し分なく長い足で金網を蹴る。現状に納得してない証拠にこめかみでは血管が脈打ってるが場外から手を出せないのではどうしようもない。いい気味だ、レイジもたまには金網越しにリングを傍観するしかない無力さと屈辱とを味わえばいい。少しは僕とロンの気持ちがわかるだろう。
 溜飲をさげ、ふたたびヨンイルに向き直る。
 怒り心頭のレイジと対照的に冷静な僕とを興味深げに見比べながら、ヨンイルは口元の笑みを絶やさずにいた。不敵な笑顔を余裕のあらわれととった僕は露骨に気分を害す。
 すでにゴングを鳴らした看守は退場した。今リングにいるのは僕とヨンイルだけだ。
 ヨンイルがいつ攻撃を仕掛けてきても即時対応できるよう、道化の一挙手一投足に細心の注意を払いながら、腰を落として身構える。サムライの握り方を模し、眉間の延長線上をよぎるよう木刀を立てる。
 「手加減いるか?」
 スニーカーのつま先で軽快に床を叩きながらヨンイルが問う。
 木刀を正眼に構えた姿勢で微動だにせず、僕は言い放つ。
 「手加減などされたら天才のプライドに傷がつく、もし万が一僕に一方的な友情を感じているなら手を抜くなと忠告しておく」
 「ほな」
 ヨンイルが口角をつりあげ、楽しげに笑う。  
 「いくで」
 ヨンイルが飛んだ。
 いや、跳んだ。足腰のバネを生かし、コンクリ床をおもいきり蹴り、飛距離を稼ぐ。俊敏な跳躍で瞬時に僕に肉薄したヨンイルが鋭い呼気を吐き半回転。
 腕に衝撃が伝わる。
 右側部を急襲したスニーカーの踵をとっさに木刀で受けたはいいものの、あまりの衝撃に腕が痺れる。体重の乗った重い蹴り。こめかみに炸裂していたら失神は免れなかったろう。
 獰猛に犬歯を剥き、僕へと襲いかかるヨンイル。その眼光は、身の内に宿した龍の狂気に侵されたかのごとく苛烈。目を爛々と輝かせたヨンイルは、硬い木刀で足を払われても痛手を被った様子もなく飄然としてる。どれだけ骨が頑丈なんだ、レントゲンを撮りたい。
 いや、今はそんな場合じゃない。冷静になれ、現実を見ろ。 
 さかんにかぶりを振り現実逃避の妄想をしめだす。痺れた腕を叱咤し、慎重に木刀を構え直し、切っ先をヨンイルに向ける。
 ヨンイルは口を尖らせ、何か考え込むような顔つきをしていた。思慮深げに眉をひそめたヨンイルは、木刀を持った僕の眼前に無防備に身を晒している。隙だらけだ。今ならやれる、倒せる。緊張に汗ばんだ手で柄を握り、高々と振り上げ―……
 「!」
 信じがたいことが起きた。
 ちょうど僕が振り下ろした木刀とすれちがうように、ヨンイルがしなやかな身ごなしで木刀の下をかいくぐり、伸びあがるように僕の肩に手をかける。
 あっと叫ぶ暇もない一瞬の早業、道化の名にふさわしくサーカスの軽業師めいた芸当。
 僕の肩に手をおいたヨンイルが、むなしく地を穿った木刀を踏み台にし、ひらりと跳躍。僕の肩に手をおいて逆立ちした体勢から目を疑う柔軟さで背後へと降り立つ。
 ヨンイルの手のひらに押された肩が沈み、腰が前に泳ぎ、体勢が崩れる。
 「直ちゃん、育ちええやろ」
 脳裏で警報が鳴る。
 「ガキの頃から本の虫で、まともに喧嘩したこと一回もないやろ」
 背後で気配が動く。耳につく衣擦れの音。木刀を取り直し、体ごと振り返った時にはすでに遅い。
 大気に溶ける寸前の残像を網膜に投じ、ヨンイルの姿が消失。
 「はっ、舐められたもんやな俺も。西の道化怒らせたら後悔すんで?」
 空気を縫って伝わる失笑の気配。反射的に足元を見下ろす。地面に這うような低姿勢で屈みこんだヨンイルが目にもとまらぬ速さで足を一閃。
 足首に衝撃。
 後退する余裕さえ与えられなかった。足払いをかけられた僕はぶざまに足を開いて尻餅をつく。
 頭上に靴裏の影がさした。
 顔面に迫るスニーカーの靴裏。ヨンイルがまったく無造作に僕の顔を踏もうとしている、僕の鼻面を靴裏で圧迫して窒息させようとしている。
 冗談じゃない、窒息させられてたまるか!
 「お?」
 ヨンイルが目を丸くする。
 地面に仰臥した姿勢から木刀を両手で支え、ヨンイルの靴裏を受け止める。唇を噛みしめ、なんとか肘をつき上体を起こそうと努力するがヨンイルに靴裏を押しこまれてるためこれ以上腕が進まない。渾身の力をこめ、腕を励まし、ヨンイルの靴裏を押し返そうと浅い息を吐く僕の耳に地鳴りが轟く。
 「「西!」」
 「「西!」」
 「「西!」」
 「東の親殺しなんか殺っちまえヨンイルさん、東京プリズン最強は西だって他棟の連中に思い知らせてやってください!」
 「日頃ヨンイルさんのこと手塚信者の漫画オタクって馬鹿にしてる他棟の奴ら見返してやってください」
 「一生ついてきますヨンイルさん!」
 「東京プリズンのトップに立つのはやっぱヨンイルさんでなきゃあ、俺たちヨンイルさん以外のトップの下につくのなんて嫌ですから」
 「東の色ボケ王も南の腹黒隠者も北のキチガイ皇帝もヨンイルさんの敵じゃありません、ヨンイルさんが本気だせば全員まとめてひとひねりですよ!」
 「「ヨンイル!」」
 「「道化!!」」
 「「ヨンイル!」」
 「「道化!!」」
 地下停留場を揺るがす大歓声、一糸乱れぬ合唱。十重二十重にリングを囲んだ人垣からヨンイルに声援を送っているのは西棟の囚人だ。結束をはかるように肩を組み、変声期を終えた者も終えてない者も喉が嗄れるまで声をはりあげてヨンイルを応援している。
 「……すごい人気じゃないか。うちのトップにも人望を分けてほしいな」
 東棟のトップを自認しているのに周囲に敵ばかりのレイジとは凄まじい差だ。
 「直ちゃんの応援団もおるで。ほら」
 僕の応援団?
 ヨンイルが顎をしゃくった方角につられて目をやれば、人垣の最前列に押し出された囚人が数人、口の横に手を当てなにかを叫んでいる。周囲の騒音にかき消されて最初はなにを言っているか聞き取れなかったが、唇の動きに目を凝らし、注意して意を汲み取る。
 「頑張れ、負けんじゃねえ!」
 「売春班ぶっ潰すためにもお前には勝ってもらわなきゃ困るんだ、お前は俺たちの希望、夢そのものなんだよ!またあんな生き地獄に突き落とされるのはごめんだ、野郎に犯される毎日に逆戻りはうんざりだぜ」
 「せっかくここまで来たんだ、あと三人倒せば百人抜き達成できるとこまできたんだ、夢がかなう一歩手前まで来たんだ!しっかり応援してやるから根性見せろよ親殺し、お前には売春班の仲間がついてる!」
 「ばかっ、親殺しじゃねえよカギャ―ザキだよ」
 「あ、そうか。くそ、日本人の名前は発音しにきィぜ」
 人垣の最前列に陣取った囚人たちには見覚えがある。売春班でおなじ生き地獄を味わった囚人たち、ボイラー室に拘禁されたロンの救出作戦に加わった少年たち。一児の父親たるルーツァイを筆頭に集合した売春班の懐かしい面々が「鍵屋崎!」「鍵屋崎!」と馬鹿のひとつ覚えみたいに僕の名前を連呼する。
 恥ずかしい真似をするんじゃない、と内心叫び出したかった。
 「ええ仲間に恵まれて幸せやな」
 「……いい迷惑だ。だいたいアクセントの打ち方が間違ってる、中国語の訛りが顕著で聞いてられない。カギヤザキがカギャ―ザキになっているじゃないか」
 本当に、いい迷惑だ。リング外に生還できたら売春班の面々の発音を矯正したい。ふと、木刀でヨンイルの靴裏を押し返そうと必死な僕の目に顔に傷のある囚人が映る。売春班の同僚であり、安田の銃を盗んだ張本人でもある西棟のワンフーだ。彼も売春班の面々に混ざって決勝戦を観にきていたらしいが、どうも挙動不審だ。僕へと声援をとばす売春班の面々と、ヨンイルを応援する西棟の面々とを見比べつつ、この上もなく情けない顔で途方に暮れている。
 そうか、どちらを応援しようか迷っているのか。
 ヨンイルはワンフーが属する西棟のトップで、僕は売春班の同僚。ワンフーはどちらの味方もできない、どちらか一方を応援すればすなわち一方を裏切ったことになる。
 「ワンフー、てめえどっち応援すんだよ!?」
 「男らしく白黒決めやがれ!」
 煮え切らないワンフーに激怒した西棟の囚人が語気荒く食ってかかる、応援を中断したルーツァイがワンフーの胸ぐらに掴みかかる。
 「で、できねえよどちらか一人に決めるなんて!だって俺ヨンイルさん尊敬してるし親殺しには恩があるし……だからそうだ、二人とも応援するよ!これで解決」
 「「しねえよ馬鹿!!」」
 同時に怒鳴られ、ワンフーが萎縮する。「優柔不断は女に嫌われるぜ」「娑婆に残してきた女が今のお前見たらがっかりして他の男に走っちまうな」と懇々と説教されたワンフーが意を決したように顔をあげ、僕とヨンイルを見比べ、口の横に手を当てる。
 「ヨンイルさん、加油!!」
 「………西の人間は裏切り者ぞろいだな」
 「俺は勘定にいれんなて。渡り廊下のアレはサーシャだまくらかすための芝居や」
 ヨンイルを選んだワンフーを非難するつもりはない。だが、軽蔑するのは僕の自由だ。
 軽口を叩きながらも、ヨンイルは徐徐に靴裏に体重をかけて踏みこんでくる。もう腕が限界だ、痺れて感覚がなくなっている。コンクリ床に背中を付けて仰向けに寝転がり、木刀を頼りにヨンイルの靴裏を押し返そうとするが、時間稼ぎの悪あがきにすぎない。
 ヨンイルが刀身に乗せた足をぐっと踏みこみ、額に木刀が触れる。
 照明の逆光になったヨンイルの表情が、酷薄に翳る。  
 「つまらん」
 感情の失せた声でヨンイルが吐き捨て、鋭く切りこむ角度で木刀の下に足をくぐらせる。
 手の中から木刀が消失した。
 ヨンイルに蹴り飛ばされた木刀が高々と宙に舞い、飴色の刀身が照明を反射する。
 サムライの木刀が。
 必ず返しに行くと約束したのに。
 手の届かぬ遠方へと蹴り飛ばされた木刀へと目を奪われたのは失態だったと悔やんでも遅い。乾いた音をたてコンクリ床に落下した木刀の方へと腕をのばしたそばから、上着の胸ぐらを掴まれ強引に立たされる。
 目と鼻の先にヨンイルの顔がある。
 「直ちゃん、俺が西のトップに就いてるのはなんでやと思う」
 「東京プリズンに最も長くいるからか?」
 ヨンイルがにっこり笑う。
 だれもに好感をもたせる人懐こい笑顔。   
 「はずれ」
 
 衝撃。 
 視界がブレた。

 何が起きたか一瞬わからなかった。腕の骨が折れたかと危ぶむほどの衝撃に体ごと吹っ飛ばされ、背中から金網に激突。金網に背中を預けてずり落ち、力なくコンクリ床にうずくまり、遅ればせながらヨンイルに蹴られたのだと理解する。蹴りが炸裂した左上腕を片手で庇い、骨が折れてないかどうか確かめる。幸い骨は折れてないが、激痛ゆえすぐさま立ちあがれない。
 片腕を庇って座りこんだ僕のもとへ、大仰に両手を広げ、ヨンイルが近付いてくる。
 「単純な話や。東京プリズン至上の掟は弱肉強食、ここじゃ弱い奴から先に死んでくのが常識。俺が西でトップ張っとるんは単純にいちばん強いからっちゅーただそれだけの話や。ああ、勘違いすなよ?俺は外にいた頃からめちゃくちゃ暴れとったわけはない、そりゃ外でもつまらんことで喧嘩したことはあるけどガキがこぶしで殴り合う微笑ましいもんや。鉄パイプなんて物騒なもん持ち出したこともない」
 これは、本当に僕がよく知るヨンイルだろうか。
 脳裏に一抹の疑惑がよぎる。僕が知るヨンイルは手塚治虫の漫画が好きな図書室のヌシで、なれなれしくてずうずうしくて、僕のことを「直ちゃん」などと気色悪い愛称で呼んで子供扱いする不愉快な人物で。
 しかし、今のヨンイルは。
 大股に接近したヨンイルが、足を開いて屈みこむ。まずい、起きあがらなければ。頭ではわかっているが体が言うことを聞かない、手足に力が入らない。金網に背中を凭せ掛け、片腕を庇い、唇を噛んで荒い息をごまかしながらヨンイルを睨みつける。 
 「『ここ』で喧嘩を覚えたんや。俺は」
 ヨンイルが懐かしげに周囲を見渡す。地下停留場の大群衆を薙いだ視線が一巡して僕へと戻ってきた頃に、ヨンイルが口を開く。
 「ここに来たばっかの頃の俺は11歳のガキで、もちろん最年少。直ちゃん、刑務所で真っ先に狙われるんがどんな奴か知っとる?腕力がないガキや。こう見えても最初の頃は苦労したんやでえホンマ、洒落にならん地獄やった。
 ま、幸い俺は育ち盛りやったからその時点でいくらでも強うなれる見込みがあった。実際東京プリズンで11のガキが生き延びるには強うなるしかなかったんや。寝こみ襲われたら返り討ち、力づくで飯をぶんどられそうになったら命がけで取り返さなあかん。そんなこと続けとるうちに一年たち二年たちあら不思議、いつのまにか五年が経って俺は西のトップに成り上がりましたっちゅーわけ。
 東京大学物語もとい東京監獄物語・第一部完」
 「くだらない過去話は省略して結論を述べろ」
 金網に背中を寄りかからせ、片腕を庇った格好で立ちあがる。遠方に落ちた木刀へと視線をとばす。距離的に取りにいくのは不可能だ。口惜しさに歯噛みする僕の眼前に立ちふさがり、ヨンイルが首を傾げる。
 「直ちゃん。俺、西の道化やねん」 
 少しだけ申し訳なさそうな笑顔。
 僕を通り越してヨンイルの目に映ってるのは、人垣の最前列に陣取った西棟の囚人たち。顔を真っ赤にして自分へと声援を送る少年たちを大人びた目つきで眺め、述懐する。
 「トップとして、西のガキどもにええトコ見せたいんや。わかるやろ?けじめはちゃんとつけなあかん。東の人間相手にわざと負けたりしたら俺はあいつらを裏切ることになる、俺の勝利を信じて今も一生懸命応援してくれはるあいつらを裏切ることになる」
 「君がそんなに情の厚い人間だったとは、意外だな。どうりで慕われるわけだ。レイジは東棟の囚人全体ではなく、一人限定しか愛さないからな。ロンに注ぐ過剰な愛情が分散すれば凱にも慕われるトップになれるのに、もったいない男だ」
 僕の目をまっすぐ見据え、ヨンイルがまったく悪びれることなく言う。
 「直ちゃんは図書室のヌシのダチで、西の道化の敵。
 今の俺は、道化や」
 膝を撓めた低姿勢からコンクリ床を蹴り、逆光を背に宙に身を踊らせたヨンイルの上着の裾がめくれ、龍の刺青が覗く。龍の顎に腕の付け根から食いちぎられる幻覚に襲われた僕は、苦渋の決断を下す。
 この手だけは使いたくなかったが、仕方がない。
 上着の裾をはでにはためかせながら身軽に着地したヨンイルが流れる動作で肉薄、上段蹴りの構えをとると同時にズボンの後ろに手を回し……
 
 視界に亀裂が入った。
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