少年プリズン

まさみ

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二百九十話

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 運命の夜が始まる。 
 もうすぐ決勝戦が始まる。東京プリズンの頂点に立つ人間を決める最後の試合が始まろうとしている。
 東京プリズン最大の娯楽として囚人たちを熱狂させたペア戦も今日が最終日、泣いても笑っても今日が最後なのだ。
 思い返せば波乱万丈の数週間だったなと感慨深げにため息をつく。
たった数週間、されど数週間。俺はこの数週間で十年分の経験を積んだ気がする。
 いや、十年分の気苦労をしょいこんだと言ったほうが正確だろうか。レイジとサムライの喧嘩、ボイラー室での騒動、酒の勢いで参戦表明。レイジへの不信、暴君の過去、渡り廊下の抗争、そして……
 レイジと仲直りした一週間前の夜を思い出すたび頬が熱くなる。
 あの時はレイジを引きとめるのに夢中でまわりの耳目を気にする余裕もなかったが、一週間経って冷静に振り返ってみればとんでもない無茶やらかしたもんだと自分の大胆さにあきれる。俺にはどうやら火事場のクソ度胸が備わっていたらしく、あの時の俺はレイジを引きとめるためなら本当になんでもする覚悟で、自分の体を代償にしてもいいやと諦観して鼻水たらして泣きじゃくってレイジに縋りついた。
 ほんの一週間前の記憶がまざまざとよみがえり、恥ずかしくて死にたくなる。
 赤面した顔を毛布に埋め、両手で頭を抱え込む。ああもう俺の馬鹿恥ずかしい、なんて真似すんだよと一週間前の自分を殴り付けたくなる。レイジを引きとめようと必死だった俺は、自分からすすんでレイジに抱かれようとまでしたのだ。そればかりか、レイジにその気がないなら俺から犯ってやるとあいつに馬乗りになっちまった。 
 それから色々なことがあって、俺はレイジの過去を聞いた。壮絶な過去。地獄という形容が生やさしく感じるほどにレイジの幼少期は悲惨なものだった。レイジは物心ついた時から立派な暗殺者になるべく特殊訓練を施されてきて、十歳の時にはもう標的をたぶらかして安宿に連れ込んで、相手が行為中に隙を見せたらナイフで頚動脈かっさばくか銃で脳天を撃ち抜くかという血なまぐさい暗殺稼業を淡々とこなしていた。
 俺はレイジが抱えた暗闇の一端を覗き見た。レイジが抱えた狂気の核に触れた。レイジが今でも憎しみを抑えつけるのが下手で、ひとたび怒りが爆発すれば暴君の狂気に翻弄されざるえないのは、過去の体験が積み重なった故の哀しい性。
 殺らなければ殺られる。生か死か究極の二者択一。
 それがレイジが慣れ親しんだ世界の掟、レイジの血肉となって吸収された生き方。
 人の喉笛を噛みきるために調教された豹の習性。
 レイジは暴君になりたくてなったんじゃない。結果的にそうなってしまったのだ。それ以外の人生が選べなかったのだ。
 お袋に殴られ蹴られた俺の子供時代が甘ったるく感じられるほど、レイジの過去には救いがなかった。レイジの口から過去を聞かされた俺は動揺した。レイジが抱えた暗闇の底知れなさを見せつけられて、言葉を失ってしまった。
 でも、レイジと一緒にいたいという気持ちに変わりなくて。
 レイジとはなれたくないという狂おしい気持ちに変わりはなくて。
 『俺はお前が怖い。でも、お前がいなくなる方がずっと怖い』  
 気付いたら、そう叫んでいた。泣いて叫んでレイジに縋りついていた。
 それがさんざん回り道して辿り着いた俺の結論だった。俺が見つけた答えだった。たぶんレイジに対する恐怖心を完全に拭い去ることはこれから先もできないけど、それでもかまわなかった。たしかに俺はレイジが怖いがその何倍も何十倍もレイジが好きだった、心の底からレイジを必要としていた。
 レイジと離れたくない理由なんてそれだけで十分だ。
 だけど一週間経って冷静に振り返ってみれば、俺はだいぶ恥ずかしいことを言ったりやったりして、しかも一部始終を隣のベッドで狸寝入りしてたサムライにばっちり聞かれちまったらしい。死ぬほど恥ずかしい、穴があったら埋まりたい。だれか土をかけてくれお願いだから。
 一週間前の夜の出来事を回想するたび、恥ずかしさに身悶えて顔から火がでそうだ。この一週間というもの寝ても覚めてもあの夜のことが脳裏によみがえり、恥ずかしさに耐えかねてベッドに突っ伏したり頭からすっぽり毛布をかぶったり枕にぼかすかやつあたりした。怪我人のくせに元気だなと自分でも呆れるが、ベッドの上で手足を振りまわして暴れるたび、肋骨に激痛が走って悶絶したのも事実だ。
 そして今日、レイジが帰って来る。
 俺は一週間ぶりにレイジと顔をあわせることになる。
 「………」
 くそ、柄にもなく緊張してきたじゃねえか。
 レイジとまともに顔あわすのはあの晩以来だ。一週間前は最初に目が覚めたらレイジの腕の中で、次に目が覚めたらレイジはもういなくなってて、ぬくもりが残るベッドに上体を起こした俺は困惑した。レイジが独居房に連れてかれたことは、遅い朝飯の最中にサムライから聞かされた。俺はまたなにも聞かされてなかった、レイジは俺に黙って行っちまった。俺に心配かけまいと気を利かせたんだろうが、生憎ちっとも嬉しくない。
 長い一週間だった。
 俺はただひたすらレイジの帰りを待ち続けた。この一週間大人しくしてたおかげか怪我もだいぶ良くなり、足首の捻挫も癒えた。骨折の完治にはもうしばらく時間がかかりそうだが、俺は育ち盛りだから回復も早いと医者も太鼓判をおしてくれた。今じゃ医務室の中を歩き回れるぐらいには体力が戻ってきたし、迂闊に寝返りを打つたび肋骨への負荷で悲鳴をあげることもなくなった。
 「レイジをぶん殴れるくらいの体力は戻ってきたな。よし」
 試しに口に出して言ってみる。
 俺に別れの挨拶もせずトンズラぶっこいた借りはきちんと返してもらう。一週間もご無沙汰してたんだ、ご自慢のツラに一発見舞うくらいは許してほしい。
 レイジはもうすぐここに来る。鍵屋崎がレイジを連れてくるのだ。
 俺とサムライが重傷で入院中の現状、鍵屋崎が身柄引き取り人になったのは当然というか不幸というか、本人にとっちゃ災難だ。独居房から出された直後の囚人は一様にひどく憔悴してて、多くは自力で歩けず口もきけない状態で、補助役がいないと十中八九真ん中で行き倒れちまうのだそうだ。
 ああ見えて鍵屋崎は面倒見がいい。レイジの首に縄つけて必ずここまで引っ張ってきてくれるはず。
 レイジがツラ見せたら、いちばんはじめになんて言おう。
 緊張をごまかすため、どうでもいいことを真剣に考える。
 「久しぶりだな」?「待ちくたびれたぜ」?どうもしっくりこない。もっと洒落た台詞があるんじゃないか、もっときつい罵倒を浴びせてやったほうがよくないか?なんたって俺はこの一週間、寝ても覚めてもレイジのことばかり考えていたのだ。レイジが元気に戻ってくる日を待ちかねて、独居房で腹を空かせてないかとか悪い夢にうなされてないかと心配して、寝不足のあまり目に隈までつくっちまった。
 ああくそ、レイジ相手に緊張する必要なんかねえってのに。頭を掻き毟ってベッドに突っ伏した俺の隣じゃ、サムライが憮然と腕を組んで目を閉じている。カーテンを取っ払ってるため、気難しい渋面をつくったサムライを身近に感じる。口には出さないし表情にも出さないがサムライもまた緊張してるんだろう、いや、それとも決勝戦を辞退せざるをえないおのれの不甲斐なさを呪っているのだろうか?眉間に縦皺を刻み、堅苦しく腕を組み、むっつり黙りこんだ顔はいつも以上に近寄りがたく厳しい印象を与えた。
 「サムライ、起きてるか」
 「無論だ。見ればわかるだろう」
 「いやわかんねっつの」
 素早くつっこむ。
 サムライは生来口数少ないのか字数の節約でもしてるのか、必要最低限の単語しか発さないため会話が成立しにくい。だが俺が話しかければちゃんと答えてくれるし、基本的には面倒見がいい奴なのだろうと好意的に解釈する。レイジが来る前からそわそわ落ち着かない俺は、緊張をほぐすためにサムライに食い下がる。
 「残念だったな、試合でれなくて。怪我してるからしかたないっちゃそれまでだけど、悔しいだろ」
 「見ればわかることを言うな」
 「……お前最近鍵屋崎に似てきたな。ダチの影響ってやつ?」
 よろしくない兆候だ。サムライにつれなくされた俺は、不服げに口を尖らせる。
 「ここ最近ずっと機嫌悪いのも、自分が決勝戦に出れないのが悔しいからだろ。鍵屋崎と一緒に行動してるレイジのことやっかんでるんだ。わかりやすいな、お前」
 「黙れ。俺は武士だ、武士が嫉妬などするものか」
 「口先だけだね。本当は試合にでたくてでたくてたまんねえくせに、医者にダメだしくらって鍵屋崎に説教されたじゃ、不満たらたらでもベッドで大人しく寝てるしかねえってか?武士はつらいよ」
 サムライの眉がぴくりと動く。 
 「……俺とて試合にはでたい。今の状況には我慢ならん。俺は鍵屋崎を守ると約束した、武士の信念に賭けて全力で鍵屋崎を守り抜くと誓ったのだ。にも拘わらず、おのれの未熟さ故に怪我をして安静を余儀なくされるなど汗顔の至り。友が死闘に赴く夜もこうして何もできず瞑想に耽るだけなど、屈辱の極み。この上生き恥を晒すならいっそのこと武士らしく切腹」
 「ベッド汚すなよ。臓物かきあつめるの大変だろ」
 サムライはいちいち言うことが大袈裟だ。ついてけないぜと内心ため息。まあ大上段に構えているが、サムライが現状を歯痒く思っていることは間違いない。今のサムライにできることはただひとつ、医務室のベッドでただひたすら友の無事を祈るしかない。太股の傷口が塞がって包帯の量が減ったとはいえ、サムライがいまだに絶対安静を言いつけられた重傷患者であることに変わりない。怪我の経過は順調だそうだが、無茶をしたらせっかく塞がりかけた傷口が開いて泣きを見るぞと医者に脅されている。
 「そんな難しい顔してむっつり黙りこんでるくらいなら医者と将棋でもしてろよ、辛気くさくてかなわねえよ。こっちまで滅入っちまう」
 「……こんな状態では将棋にも身が入らん」
 「おや残念、もう一勝負と将棋台を持ってきたのに」
 噂をすれば影、絶妙のタイミングでひょっこり現れたのは初老の医師。準備万端将棋の駒台を持参したのに、サムライにすげなく断られて哀しげな顔をする。
 「お前らいつのまにそんな仲良しになったんだよ。暇さえありゃ二人でぱちぱち将棋打ちやがって、考え事してるとき気が散るんだよ。どうせなら麻雀にしやがれ、麻雀なら俺にもルールわかるし」
 「仲間にまざりたいのかね」
 「本格的にボケ始めたのか耄碌ジジィ。目障りだって言ってんだよ」
 だれが仲間にいれてほしいもんか。
 あらぬ疑いをかけられ、医者をきつく睨む。だが医者は俺の威嚇をさらりと受け流し、あまつさえ俺のベッドによっこらしょと爺臭いかけ声つきで腰を下ろしちまった。おいこら、俺のベッドは年寄りの休憩所じゃねえぞ。
 こめかみに血管を浮かせた俺をよそに、懐に駒台を抱えた医者が、恬然とした表情で話し始める。
 「患者にも気晴らしは必要だよ」
 「あ?」  
 脳天から間の抜けた声を発した俺を一瞥、悪戯っぽく微笑み、将棋の台を叩く医者。
 「そこの彼はとくに思い詰めるタチだからね、放っておくのはよくないと長年の経験から判断してまでさ。患者の気晴らしに付き合うのも医者の義務だろう?病は気からという言葉もある。暇な一日くよくよ思い悩んでいては体も心も弱りきり、治る怪我も治らなくなってしまう。長い入院生活に気分転換は欠かせんよ」
 この医者は。
 実は、ヤブじゃないのかもしれない。
 ベッドに起きあがった俺は、珍しいものでも眺めるようにしげしげと医者を見つめちまった。今俺はさぞかし意外げな表情をしてることだろう。のほほんとして見えて、この医者は患者の精神面もばっちりケアしてくれてたわけか。サムライが深刻に思い詰めるタチだと見抜いて、患者の苦悩をほんの少しでも晴らしてやろうとわざわざ将棋の台を持ち出して気分転換させてたわけか。
 素直に感嘆し、医者に対する見方を改めた俺に水をさしたのは他ならぬ本人。
 「まあ、ワシが暇で暇でしかたなかったのもあるのだが」
 前言撤回。過大評価しすぎた。
 どっちかと言うとそれが本音だろう飄々とした口ぶりで、悪びれずに暴露した医者に脱力する。
 「君も将棋を覚えんか?いやあ、彼は強くてね。とてもじゃないがワシはかなわん、だがしかし見るからに単純そうな君になら容易に勝てそうな」  
 「ロンは賭け事強いぜ」
 この声は。 
 「!」
 ベッドに片膝立ち、はじかれたように顔を上げる。衝立の向こう、ドアの位置を凝視。こちらに近付いてくる足音はまぎれもない……
 レイジ。そして鍵屋崎。
 「博打運と悪運の強さじゃ右に出るやついねえよ。だよな、ロン?」
 鍵屋崎に肩を貸されたレイジが、俺にむかって器用に片目を瞑ってみせる。一週間前とおなじ軽薄な笑顔で、一週間前とおなじ不敵な態度で、軽く片手を掲げて挨拶するレイジに絶句する。
 言いたいことは山ほどあった。
 なんで俺になにも言わなかったんだとか別れの挨拶くらいしてけとか文句をつけたいことは山ほどあって、レイジのツラ見たら一発ぶん殴ってやると心に決めていた。でもその全部がレイジのツラを見た途端綺麗さっぱり吹っ飛んで、さまざまな感情が一挙に沸騰して、胸が苦しくなった。
 喘ぐように口を開き、また閉じる。酸欠の金魚のようにぱくぱく口を開閉しながら、俺はレイジの顔を見つめていた。この上なく不機嫌な顔をした鍵屋崎に肩を貸されたレイジは、この上なくお気楽なツラをしていた。だが憔悴の色は隠しきれず、頬がこけたせいで顔の輪郭が鋭くなっていた。
 独居房ではよく眠れなかったのだろうか?寝ても悪夢ばかり見て、うなされていたのだろうか。
 レイジの目の下には隈が浮いて、いつでも自信に満ちた表情が沈痛に翳っていた。一年と半年レイジの笑顔を見てきた俺には痛々しく無理してることがすぐにわかった。
 「ばかやろう」
 最初にでてきた言葉が、それだった。
 「ばかやろう、お前一週間前なんて言った。もう俺のそばから離れないって、俺をひとりにしねえって約束したよな?なに言ったそばから裏切ってんだよ!俺が最初目が覚めたらお前がいて、だから安心して二度寝したのに次起きたらもういなくなってて、なにがあったかわかんなくて混乱して!サムライに聞いて初めて独居房送りになったって知ったんだ、俺はまたお前においてかれたんだ!何回おいてけぼりにすりゃ気が済むんだよ、薄情も度が過ぎるぜくそったれの王様!」 
 「寂しがり屋の子猫ちゃんだな」
 「殺すぞ」
 だれが子猫ちゃんだ尻軽が。
 ふざけて肩を竦めたレイジを殺意をこめて睨み付ける。俺はこの一週間本気でレイジのことを心配して、レイジが無事に独居房からでてくるようただそれだけを一心に念じ続けたのだ。結果として俺の願いは通じたわけだが、レイジときたら俺の心中なんかさっぱり知らねえで、懲りない軽口を叩きやがって。
 くそ。なのになんで、こんななんでもないやりとりが嬉しいんだよ。
 「さて、私はそろそろ失礼するよ。カルテの続きを書かなくては」
 医者が腰に手を添えて立ち上がる。
 医者と入れ違いに、ベッドにレイジを座らせた鍵屋崎がそっけなく言う。
 「ぺア戦が始まるまでまだ少し時間がある。一週間ぶりの再会だ、話したいこともあるだろう。僕はサムライのベッドにいる。一応カーテンを引いてプライバシー保護の建前を尊重するが、良識にそむく破廉恥な会話をするなら第三者を不快にさせないよう声を低めろと忠告しておく」
 「その言葉そっくり返す」
 鍵屋崎にだけは言われたくない。
 即座に嫌味を返せば、鍵屋崎が鼻を鳴らす。小馬鹿にした態度も今はそれほどむかつかない。だって、鍵屋崎がほんとはいい奴だって知ってるから。鍵屋崎がシャッとカーテンを閉じ、隣のベッドを覆い隠す。視線を遮るカーテンの向こうからぼそぼそ聞こえてくる会話。鍵屋崎もまた、決勝戦を控えて思うところがあるのだろう。 
 大きく深呼吸し、レイジと向き合う。
 ベッドの足元に腰掛けたレイジは、少し照れ臭そうだった。気持ちは俺もおなじ。一週間ぶりに顔を合わせて、どんな会話をしたらいいかわからないのだ。
 「体、大丈夫か」
 だからとりあえず、無難なことを聞いた。
 「おおよ、ぴんぴんしてるぜ」
 「どこも痛くないか、怪我してないか。飯はちゃんと食ってたか」
 「飯は一日二回ちゃんと食ってたぜ。後ろ手に手錠かけられて床に転がされてたから、最初のうちは手を使わず犬食いするの不便だったけどすぐに感覚を取り戻した。縛られ慣れてるからな、俺」
 自然とレイジの手首に目がいく。
 レイジの手首には赤い溝ができていた。手錠が食いこんで肉が抉れた痕。
 「ちゃんと消毒したのかよ」
 憂慮に眉をひそめた俺の視線の先、猫科の動物のしぐさで手首の傷痕を舐めるレイジ。唾をつけて傷を癒そうというのか、血が滲んだ傷痕に舌先をあてがい、平然とうそぶく。
 「唾つけときゃ治るよ。試合に支障はねえ」
 「てきとー言うなって、黴菌入ったらどうすんだよ」
 「心配?」
 「一応な」
 「じゃあロンが治してよ」
 なに?
 レイジの手首をひったくった俺の眼前で、王様がにっこり微笑む。
 「ロンが舐めて治してくれよ。愛の力で治りも早い」
 いつもなら「くだらねえこと言うな馬鹿、とうとう頭に蛆が沸いたか」と一笑に伏せてた。レイジもそれを想定して軽口を叩いたんだろうが、俺はレイジの手首を掴んだまま真剣に考え込む。
 そして。
 レイジの手首を手に取り、おそるおそる、傷口に舌をつける。 
 レイジの手首を取り巻く凄惨な傷痕、金属の手錠が食いこんで肉が抉れた痕におずおずと舌先を這わせ、唾液をすりこんでゆく。鉄錆びた血の味が舌で溶け、眉をしかめる。吐き気をこらえ、手首に口をつけ、舌を蠢かせる。唾液と混ざった血が薄赤く滲んでゆく。
 レイジはびっくりしたように目を丸くしていた。
 「ほら、消毒してやったぜ。これでいいんだろ」
 まずい。
 手の甲で口を拭い、乱暴にレイジの手首を突き放す。
 口にはまだ血の味がわだかまってる。唾液に濡れ光る手首を見下ろし、レイジが呟く。 
 「……サンキュ」
 妙な沈黙が落ちた。
 「ロン、ちょっと大胆すぎねえ?びっくりしちまったよ。こないだなんか俺の上にのっかるし」
 「言うな。忘れろ。今すぐ忘れろ、一生の汚点だ」
 レイジが声をたてて笑う。レイジの笑い声を聞くのはひどく久しぶりな気がした。
 ぎし、とスプリングが軋み、ベッドが弾む。ベッドに片膝のせたレイジが、俺のほうへと身を乗り出し、なれなれしく頬に手をかける。甘い微笑を湛えた端正な顔が目の前にある。完璧に整った顔の造作に、同性だとわかってても目を奪われちまう俺はだいぶヤキが回ってる。 
 瞬きのたび物憂げに震える色素の薄い睫毛。
 優雅に長い睫毛に沈んだ双眸は、神様みたいに柔和な光を湛えている。
 「ロン、約束覚えてるか」
 「ああ」
 約束。100人抜き達成したら抱かせてやるとなかばヤケで啖呵を切った夜のことが、何故だかひどく昔のことのように感じる。薄茶の目をまっすぐ見つめて頷けば、安心したようにレイジの顔が綻ぶ。 
 レイジの手に包まれた頬に、ぬくもりを感じる。
 心地よいぬくもり。安息を与えて孤独を癒してくれる、長いこと焦がれてやまなかった人肌のぬくもり。
 レイジのぬくもり。
 「今日の試合が終わったら抱かせてくれよ」
 約束を確認するように、最後の念を押すように、やけに真面目くさった顔でレイジが言う。それがおかしくて、くすぐったくて幸せで、笑いを噛み殺すのに必死で。
 頬を包みこんだ手に手を重ね、頷く。
 「100人抜き達成したらちゃんとご褒美くれてやるから、安心して帰って来い」
 「よっしゃ。それ聞いてむちゃくちゃヤる気でてきた」 
 俺の頬から手を外したレイジが床に降り立ち、シャッとカーテンを開く。照明の光が一気に射しこんで眩しかった。漂白された視界の中、俺に背中を向けたレイジに慌てて呼びかける。
 「レイジ!」
 肩越しに振り向いたレイジめがけ、こぶしに握りこんだものを投げつける。
 放物線を描いてレイジの手中にとびこんだそれは、医者から借りた接着剤でくっつけた麻雀牌。前に俺が床に叩きつけて割ったやつを慣れない手つきで補修したもの。
 「今度はなくすなよ、ちゃんと返しにこい」
 虚を衝かれたレイジに、手の中の牌を掲げてみせる。俺がレイジに投げ渡した牌の片割れ。
 尊大に言い放った俺の眼前で、レイジが牌を放り上げる。蛍光灯の光を反射した牌が眩くきらめき、吸いこまれるようにレイジの手の中に落ちてゆく。
 「最強のお守りだ。十字架より効き目ありそ」
 言いたいことは山ほどあった。でも、きりがないからやめとく。
 心配しなくてもレイジは必ず俺のところへ帰って来る。俺にできることはレイジの帰りを信じて待つだけだ。隣のベッドのカーテンを開け放ち、鍵屋崎が立ち上がる。鍵屋崎とふたり肩を並べたレイジがひらひら手を振りながら医務室をあとにする。
 「速攻戻ってきて処女いただいてやるからケツの穴洗って待ってろよ」
 「ほざけ」
 ドアが閉まる直前、レイジが振り向く。
 晴れ晴れとした笑顔。
 『我愛弥、龍』 
 あいつ、いつのまに台湾語覚えたんだ。
 あきれかえった俺の耳にドアが閉まる音が響き、医務室に静寂が舞い戻る。
 ベッドに残された俺は、こみあげる不安をごまかすように手の中に牌を見下ろし、強く強く五指に握りこむ。
 そうだ、なにも心配ない。レイジ自身もそう言ってたじゃないか。
 肩越しに振り向いたレイジの笑顔を見た瞬間、不吉な予感が過ぎったなんてなにかの間違いだ。考え過ぎだ。そう懸命に言い聞かせても不安は拭えず、指の間接が白く強張るほどに牌を握りしめる。

 まさかそんなことあるわけない。
 レイジがもう、二度と帰ってこないだなんて。
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