少年プリズン

まさみ

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二百八十八話

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 みんな死んじゃえばいいんだ。

 医務室をとびだしてからどこをどう歩いたのかわからない。
 ただでさえ東京プリズンの内部は迷宮のように入り組んでいて、平坦な天井と壁と床が延々と続く変わり映えしない景色が方向間感覚を狂わせる。コンクリむきだしの殺風景な空間には灰色以外の色彩の印象が持てない。
 寂れた廃墟のごとく荒涼とした印象の通路をあてどもなくさまよい歩いてるうちに僕は帰り道を見失い本当の迷子になってしまった。舌打ち。これも全部ロンのせいだ。やつあたりで逆恨みだと自分でもわかってるけど腹立ちはおさまらない。ロンのやつ何様だよ、偉そうに。自分だってついこないだまでレイジと喧嘩してたくせに今度は僕にお説教か?
 豹の懐に爪を立てるしかできない子猫のくせに調子のりすぎ。
 そうだよ。ロンなんかレイジがいなけりゃ何もできない、ただの足手まといのガキじゃないか。
 鍵屋崎だってそうだ。サムライがいなきゃ何もできない自称天才の足手まといだ。
 相棒なんて笑っちゃうよ、ロンと鍵屋崎が何をしたっていうの?戦力面では足手まといもいいところ、ロンと鍵屋崎の存在は100人抜き達成を危うくする重荷だとレイジもサムライも腹の底で承知してるくせに、なんだってあの二人ばかり守られて庇われて大事にされる?
 むしゃくしゃする。気分がひどくささくれだっている。なにかにおもいきり八当たりしたい、ストレス発散したい。
 そんな衝動に駆られ、手近の壁を蹴り付ける。
 一発だけじゃ足りない。二発、三発、四発と続けて蹴りを見舞うが足が痺れただけで憂さ晴らしにもならない。
 頭の中ではさっきロンに言われたことがぐるぐる回っている。
 『リョウ、お前はどうなんだよ。そう思える相手いるのかよ。いないのか?可哀想にな。俺は今までの人生ろくなことなくて、しまいにゃ東京プリズンに送られてずっとヤケになってたけど、レイジと出会えた今はそれなりに人生楽しいよ。あいつがいてくれて幸せだよ』
 勝ち誇った声、哀れみの眼差し。
 『その分だと、お前の人生はつまんないだろうな』
 「うるさい」
 うるさい、お前になにがわかるんだよ。知ったふうな口聞くなよ、王様の愛玩猫が。
 気付けば声に出していた。ロンを訪ねたのは失敗だった。ビバリーと喧嘩した僕は、無視される辛さに房をとびだしてから他に行くあてもなくついふらふらと医務室に吸い寄せられた。極度のお人よしのロンなら無碍に追い返されることもないだろうと踏んで頼ったのは事実だが、ロンが怪我してベッドから動けない今なら愚痴をぶちまけるにはちょうどいいと思ったのだ。適当に客をあたって一晩泊めてもらおうかとも思ったけど、今の僕はとてもじゃないが男に跨ったり跨られたりしゃぶったりしゃぶられたりする気分になれなかった。その点ロンなら安心だ。僕から誘っても絶対なびかない身持ち固いヤツだしね。
 僕の読みどおり、ロンは不満たらたらの顔してたけど、邪険に僕を追い払ったりはしなかった。ベッドに上体を起こして、時々ツッコミを入れながら僕の愚痴に付き合ってくれた。
 ロンはいいヤツだ。むかつくぐらい、いいヤツだ。
 だから僕はロンに意地悪したくなった。どんなに酷い目や痛い目にあわされてもけして挫けず心が折れず、レイジの相棒を自負してレイジの身を真摯に案じるロンを見てたらいてもたってもたまらなくなって、ロンをめちゃくちゃに傷付けてやりたくなった。
 ロンはなんで、恥ずかしげもなく「相棒」だとか「仲間」だとかクサイ台詞が吐けるんだ?自信満々にレイジの相棒を名乗れるんだ?レイジの相棒に見合う実力もないくせに、レイジの相棒に見合う活躍もしてないくせに。そりゃ凱を負かしたのはすごいけど、それがなんだっての?レイジだったら十五分以内に凱を倒せたはず、涼しげな笑顔を絶やさずかすり傷ひとつ負わず楽々と勝利できたはずなのだ。ロンがでしゃばる必要なんかこれっぽっちもなかった、全部王様に任せときゃよかったのにでなくていい試合にでてしなくていい怪我してばかみたいだ。
 要らない苦労ばっか背負い込んで、ばかみたいだ。お人よしも度が過ぎる。
 王様に溺愛されてるくせに、ぬくぬく抱っこされてるくせに。豹のしっぽにじゃれついてる子猫がいきがるんじゃないよ、笑っちゃう。なにが相棒だよ、嘘つくなよ。レイジを利用してるだけのくせに。
 独りぼっちになるのが怖いから、独りぼっちで生きてく自信がないから、強者に寄りかかっておこぼれ貰おうとしてるんだろ?
 僕はちがう、ひとりでも生きてける。ロンみたいに鍵屋崎みたいにだれかによりかからなくても生きてける、他人に依存しなくてもひとりで立派に生きてける。生き抜いてみせる。現に今までだってそうだった、僕はずっとひとりぼっちでゴミ溜めみたいな世界を生き抜いてきた。他人を信じたら裏切られる、付け込まれる、利用される。それが僕が生きてきた世界の常識、他人に弱みを見せたら即座に引きずりおろされるのが鉄則の世界で生き抜くためには僕が出しぬく側にまわるしかない。僕はずっと、今までずっと、東京プリズンに来る前も来てからもずっと命がけで他人を出しぬいてきた。
 お友達ごっこしてる暇なんかないんだよ、くだらない。
 ロンも鍵屋崎もすっかり腑抜けになっちゃって面白くない。最初の頃はあんなに突っ張ってたのに、今じゃロンはレイジがいなきゃ生きてけない、鍵屋崎はサムライがいなきゃ生きてけない依存体質に成り下がった。ロンに至っては僕にむかって「レイジがめちゃくちゃ好きだ」とか言い出す始末。
 「おもしろくない。みんな死んじゃえばいいんだ」
 苛立ちをこめて吐き捨てる。
 ロンも鍵屋崎もレイジもサムライもビバリーも死んじゃえばいいんだ。仲間だとか友達だとか気色悪いこと言い出すやつは、僕の生き方を偉そうに非難するやつはみんな。そしたらさぞすっきりするだろうな、と妄想を膨らませて溜飲をさげる。
 そして、気付いた。
 僕を取り巻く空気が微妙に変容してることに。
 コンクリむきだしの殺風景な通路は東京プリズンのどこでも目にする見慣れた光景だけど、言い知れない違和感が付き纏う。灰色の天井と壁と床に囲まれた閉塞的な空間にかすかに漂う異臭、耳を澄ませば廊下の奥から聞こえてくる不気味な唸り声。  
 しまった。
 まず最初に頭に浮かんだのはそれだった。今になって僕はようやく自分の失態に気付いた。今すぐ回れ右しなければ、後戻りしなければ、一刻も早くこの場から遠く離れなければと脳裏で警鐘が鳴り響くが情けないことに足が恐怖で竦んで一歩も動けない。
 僕はいやというほど知ってる。この先になにがあるか、どんな地獄が待ちうけているか。生唾を嚥下し、廊下の奥から漂い出す異様な雰囲気に気圧されるよう一歩二歩とあとじさる。ビバリーが待つ房から遠ざかりたい一心で考え事をしながらあてどもなくさまよっているうちに、普段は足を踏み入れることのない東京プリズンの最奥にもぐりこんでしまった。
 周囲に人けがないのはとっくに消灯次間が過ぎてるせいだけじゃない。通路が閑散としてる最大の理由を僕は知っている。この先はだれもが近付きたがらない禁断の場所、だれもが無言の内に避けて通る地獄への一本道。
 例に漏れず、僕も慌てて回れ右しようとして、ぴたりと立ち止まる。
 待てよ、今帰ってどうなる?ビバリーは房にいる。この時間帯だとまだベッドの上でパソコンをやってるはず。今房に帰ればビバリーと顔を合わす事態は避けられない、いやだ絶対に、ビバリーに無視されるのはこりごりだ。あんな重苦しい雰囲気はごめんだ。
 なら、足を進めるしかない。
 人がいないなら好都合じゃないか。そうだ、この場所にはだれも立ち寄らない。消灯次間を過ぎて出歩いてる物好きな囚人も、蛍光灯が不規則に点滅し壁には陰鬱な染み汚れが浮き出し、さながらモルグのような腐敗臭が漂うこの場所にはけして立ち寄らない。暗黙の内に皆が避けて通るあそこなら隠れるには持って来い、ビバリーが寝るまで時間を潰すには最適だ。 
 体の脇で手を握りしめ、意を決して足を進める。
 一歩ずつ足を運ぶたび、うるさいくらいに心臓の鼓動が高鳴った。コンクリ壁に挟まれた通路に靴音が反響する。距離はほんの十メートルばかりだというのにひどく長く遠く感じられた。
 遂に終点に辿り着いた。
 廊下の終点。Т字路の分岐点、その左側。
 延々と伸びる廊下の両壁に並んでいるのは、頑丈な鉄扉。コンクリ壁に等間隔に穿たれた鉄扉には通常の房とは違い窓がなく、完全な密閉状態になっている。が、この通路を覗きこんだ瞬間むっと押し寄せてきた鼻の曲がりそうな悪臭の正体は間違いない。
 さっきまで僕がいた通路とは、雰囲気が一変していた。
 なにかが腐敗してるような強烈な悪臭がたちこめる空間、鉄錆びた扉の内側からは意味不明の唸り声や獣じみた咆哮や嗚咽などが混沌と聞こえてくる。英語、日本語、中国語……さまざまな国の言語が入り乱れたそれはもはや言葉の体を成さない耳障りな雑音にすぎない。だれか中の人間が扉に頭でも打ちつけているのか、ガンガンという轟音がしつこく連続している。
 「だせっ、だしやがれクソ野郎!俺にこんなことしてただじゃ済まさねえぞ安田ああ、そのエリートぶったツラにクソなすりつけて背広ひっぺがしてズボンひきずりおろしてやるからケツ洗って待ってやがれ、副所長気取りの若造が!」
 息を吸いこむだけで狂気が伝染しそうな、重苦しく陰鬱な雰囲気がたちこめるこの場所こそ、東京プリズンで最も恐れられる場所……独居房が設けられた区画だ。
 東京プリズンの独居房は、東西南北各棟の最も奥まった場所に人目を憚るように設けられている。それぞれの棟で問題を起こした囚人を一時的に隔離して反省を強いるための独居房だけど、普段、どんなに好奇心旺盛なヤツでもこの場所には滅多に近寄らない。
 怖いもの見たさより我が身可愛さを優先するのが人間の本能だ。
 口さがない連中に「動物園」と呼び習わされるここはその名の通り、昼夜問わず野太い咆哮やら発狂した笑い声やら絶叫やらが響き渡る禁断の領域なのだ。
 正気の沙汰の人間がくるところじゃない。
 東京プリズンの囚人に最も忌避される「動物園」……暗闇と孤独の恐怖から逃れるため、魂を狂気に売り渡し、動物へと退化した人間たちが本能むきだしの咆哮をあげる区画へと迷いこんだ僕は、嫌悪感を隠しきれず顔を歪める。早くも選択を後悔しはじめた。
 他に行くところがないからっていくらなんでもここはないんじゃない?もうちょっとマシなところがいくらでも……
 「ん?」
 視線の先で人影が動く。
 看守の制服を着た中肉中背の男が、廊下に片膝ついて屈みこんで何かをやってる。看守の手元に目を凝らせば何をやってるかすぐにわかった。 
 「餌」を与えてるんだ。
 鉄扉には格子窓がないかわりに、鉄蓋がついた空洞が下部に設けられており、そこから一日二回食事がさしいれられる。だけどトレイを押しこんでしまえばすぐに鉄蓋が閉まっちゃうから、外の光が射すのはほんの一瞬、わずかな時間だ。独居房に放りこまれた囚人は一日の大半を気の遠くなるような暗闇で過ごす羽目になる。 
 鉄扉を一個ずつ移動して、食事を盛ったトレイを押しこんでる看守には見覚えがあった。
 「気をしっかりもてよ、あと三日の辛抱だ。三日たちゃ外にでられるんだ、娑婆の空気が吸えるんだ。まあ刑務所の中だから娑婆ってのもおかしいけどよ……だからそれまで耐えるんだ、ほら、飯持ってきてやったからちゃんと食えよ。体力つけとかねえとこっから出るとき転んじまうぜ」
 「うう……うう……もうやだ、こんなとこいやだ……くさくて鼻が曲がりそうだ、目を閉じても開いても変わりゃしねえ暗闇だ。後ろ手に手錠かけられて寝返りも打てなくて、全身の筋肉ががちがちだ。五十嵐さん、なあ頼むからここ開けてくれよ。手錠が食い込んで肉が抉れてるみたいなんだ、手首の肉が腐って爛れて蛆虫に食われてるみてえなんだ。痛てえよちくしょう、なんとかしてくれよ五十嵐さんよう」
 「無茶言うなよ、こっちも仕事なんだ。だしてやりたいのは山々だけど、そしたら俺が罰則食らっちまう。また様子見にきてやるからそれまで耐えろ、な」
 「こんな格好じゃ飯も満足に食えねえよ、どうやって味噌汁飲むんだよ、こぼしちまうよ。ちくしょうひどいよ、こんなのってねえぜ。そりゃ俺は外じゃいろいろ無茶やってきた、強盗もした、殺しもやった、女を犯って姦ってヤりまくった。
 でもだからってこんなのねえだろ?手錠かけられてうつ伏せのまま放置されて、飯は犬食いで、糞尿垂れ流しの暗闇で一日中うめいてるしかねえなんてあんまりだ……東京プリズンの看守にゃ人の心ってもんがねえのかよ!?」
 「人間だから」
 嗚咽まじりの呪詛を吐く扉の内側の人物に、看守がぽつりと呟く。
 「人間だから、人間にひどいことができるんだよ」
 鉄蓋が閉じ、完全に光が遮断される。
 また暗闇に逆戻りした囚人が絶望的な悲鳴をもらす。 
 切れ切れに嗚咽が漏れる鉄扉を見つめ、複雑な顔をした看守の背後に忍び寄り、声をかける。
 「今日は五十嵐さんが飼育当番なんだ」
 はじかれたように振り向いたのは、僕とも面識のある看守の五十嵐だった。
 「……言っていい冗談と悪い冗談があるぞ」 
 「じゃあ餌係って言いなおそうか?」
 下唇を舐め、挑発的な上目遣いで五十嵐を見上げる。
 商売柄、男の庇護欲をくすぐる媚びた表情をつくるのは得意だった。けど五十嵐には通じなかった。疲労のため息をつき、五十嵐が腰を上げ、右隣の鉄扉へ移動する。 
 「お前、なんでここにいるんだ。なんか悪さでもしたのか」
 「人聞き悪いこと言わないでよ、おりこうさんの僕が悪さなんかするわけないじゃん。万一悪さしたってボロださなきゃ、独居房に放りこまれるような最悪の結果にはならないね」
 「じゃあとっとと失せろ。仕事中だ」
 「同情するよ五十嵐さん。同僚に煙たがれてると損な役目ばっか押しつけられて大変だね、餌やり手伝ったげようか」
 五十嵐の肩にしどけなく凭れかかり、耳元で囁く。
 そんな僕を鬱陶しげに振り払い、五十嵐が淡々と仕事を再開する。脇においたトレイを片手で持ち、鉄蓋を押し上げ、ドアの内側へと放り込む。
 「飯だぞ。食え」
 そっけないが、深い思いやりに満ちた言葉。
 「……飯?ちょっと前に食ったばっかの気がするけどそうか、もうそんなに時間経ってたんだ。この分じゃ一週間なんてあっというまだね」
 この声は。
 「レイジ、お前寝てたのかよ。声が眠そうだぞ。よくそんな環境で眠れるな」
 「しかたないじゃん、他にやることないし。こう暗いと時間が経つのもわからねえな、今が昼だか夜だからもはっきりしなくて体内時計が狂いっぱなしだ。手錠かけられてたんじゃ自分で慰めることもできねえし……でもま、たった一週間の辛抱だ。もう三日四日過ぎてるだろ?つーことはあと四日か三日後には手錠の戒めから解き放たれて娑婆の空気吸えるわけだ、大手を振ってロンを抱きにいけるわけだ」
 「真っ先にやることがそれかよ。お前らしいな」
 五十嵐が苦笑する。
 「いちばん大事なことをいちばん最初にやるだけさ。俺って我慢できないタチだから、一週間もロンと会えないとなると辛くて辛くて。この頃はロンの夢ばっか見てるよ、具体的には口に出せない夢だけど……正夢だな、これは。一足先に夢で未来を見せてやるから男らしく実行しろってゆー神様の思し召しだ。 
 そうとなりゃ話は決まった、体力落とさないよう残さず飯食ってロンを悦ばせてやんなきゃ」
 体力落とさないよう残さず飯食って決勝戦に備えるんじゃなく、ロンを悦ばすほうを優先するなんてレイジらしい。独居房に放りこまれても王様は相変わらずだ。へこたれた様子もなく飄々としてる。
 その時だ。
 「……ずいぶんと余裕ではないか、東の王よ」
 地の底から湧き上がる悪霊めいた声。妄執じみた呪詛。
 レイジが入れられた房のちょうど正面、反対側の壁に穿たれた鉄扉の奥から声がする。サーシャの声だ。
 そうだ、サーシャも独居房に閉じ込められてたんだった。
 それも皮肉なことにレイジのごく近く、会話が成立する距離に。
 「糞尿垂れ流しの暗闇で不埒な妄想を膨らませておのれを慰めているのか?節操のない雑種がやりそうなことだな。レイジよ、忘れたわけではあるまいな?お前がここを出されるのは一週間後、決勝戦の日だ。北に君臨する気高き皇帝たる私をはじめ、西の道化と南の隠者という強敵を倒さねば、お前とお前が愛玩する猫に未来はないとわかっているのだろうな」
 「何だよサ―シャ、まだ生きてたのか。気高き皇帝のお前なら、後ろ手に戒められた上に糞尿まみれの屈辱に耐えきれずにとっくに舌噛みきって死んでると思ったのにがっかりだ。プライドの高さは口先だけか」
 「決勝戦のリングで存分にお前を切り刻めるなら、数日間の屈辱にも耐えてみせる。お前を倒せば私は東京プリズン全棟を掌握する権力者となる、東も西も南もすべて私の言うがままだ。そんな素晴らしい機会、今を逃したら永遠に訪れるものか」
 サーシャが歯軋りをする。
 「私はずっとずっと、気も狂わんばかりにこの時を待っていたのだ。満場の観衆の眼前でお前の顔を切り刻み手足を切り落とし、血だまりの舞台で見世物とする瞬間を。お前を殺して東京プリズンの頂点を立つという野望がもう少しで達成できるところまで来ているのだ!ああ、想像するだに愉快でたまらず高揚を禁じえない。
 永久凍土と唄われた私の心までもが溶け出すようだ。手足が自由になるのなら、この扉が開くのなら、今すぐお前のその薄汚い肌を無残に切り刻んで鉄錆びた血潮を浴びたい。その瞳を抉り出して口に含みたい」
 「お前もう狂ってるよ、手遅れだ。俺が保証してやる。さんざん無茶な抱かれ方されて狂わされた俺が言うんだから説得力あるだろ」
 レイジの声は笑いさえ含んで余裕だが、対するサーシャの声は不安定な精神状態が影響するが如く振幅がはげしかった。
 一呼吸おいて噴出したのは、憎悪を凝縮した呪詛。
 「私がお前を倒した暁には、王が寵愛する猫を舞台に引きずり出してやる。寵愛する猫が無残に臓物さばかれるさまを見せ付けられれば、お前とてさすがに冷静ではいられまい。私は慈悲深く寛容な皇帝だから王に敬意を表して要望を聞いてやる。
 まず最初にどこを裂いてほしい?
 可愛い猫の顔に傷が付くのがいやなら、てはじめに服を剥いて……」
 「ロンに手を出してみろ」
 氷点下の殺気を纏わせたサーシャに返されたのは、低く落ち着いた声。
 微笑さえ滲ませた柔和な声で、レイジは宣告した。

 「嬲り殺すぞ」 

 哄笑が弾けた。
 サーシャの笑い声だ。鉄扉の内側で膨れ上がった哄笑が壁に殷殷と反響し、陰鬱な廊下全体を悪夢のように呑みこんでゆく。蛍光灯が不規則に点滅する薄暗い廊下にて、向かい合う鉄扉の内側と内側で殺気が極限まで膨張する。 

 「嬲り殺すときたか、面白い!主人に逆らったらどうなるか、再びその体に思い知らせる必要があるようだな!まったく、雑種を躾るには苦労する!ナイフの刃がこぼれるまで、鞭の革が擦りきれるまで仕置きしてやるから覚悟しろ!!お前の主人は私ひとりだけだ、他の人間に心を移すのは許さん、心も体も永遠に縛り付けて生涯所有してやる!あの拷問部屋から出さずに生涯苦痛と快楽を味わせてやるぞ、東の王よ、汚らわしい雑種めが!一生鎖に繋いで飼い殺しにしてやる!!」 

 「そいつは無理な相談だな、俺に快楽をくれるのはこの世にひとりロンだけだ。今まで数え切れないほどの女や男と寝てきたけど、どんな経験豊富な相手とのセックスよかただあいつと添い寝するほうが幸せだったんだよ。ただあいつを抱きしめて眠るほうが幸せだったんだよ。だからサーシャ、お前が俺からロンを取り上げるってんなら容赦しねえぞ。嬲って嬲って殺してやる、苦しめて苦しめて苦しめて地獄に落としてやる。お前が俺にしたことなんて目じゃねえ本当の地獄を味あわせてやるよ」

 感情を解放したサーシャの声と、感情を抑制したレイジの声。
 動と静の気迫が拮抗する。 
 サーシャの哄笑が殷殷と響き渡る中、あれだけうるさかった周囲の騒音がいつのまにか消えていた。唸り声も叫び声も嗚咽も、だれかが鉄扉に頭をぶつける音さえも途絶えたのは、おそらく独居房に閉じ込められた全員がサーシャの異常さに圧倒されたためだ。
 その場に居合わせた全員を戦慄せしめる哄笑がこだまする通路にて、生唾を飲み込み確信する。
 
 決勝戦でサーシャとレイジがぶつかる。
 そして、どちらかが死ぬ。
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