少年プリズン

まさみ

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二百八十五話

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 「痛そうだな」
 五十嵐が顔をしかめる。
 「痛そうやな」
 ヨンイルも眉をひそめる。
 「感想はいいから、早く処置を始めてくれないか。裸を人目に晒すのは落ち着かない」
 場所をかえて、二階へと続く図書室の階段。
 段上の座席に腰掛けた僕は、好奇の眼差しに裸の背中を晒す居心地悪さに目を伏せる。
 僕の上着の裾を掴み、肩甲骨が露出するまで大胆にめくりあげた五十嵐が懸念のため息をつく。
 「少し染みるぞ。我慢しろよ」
 そしてヨンイルに顎をしゃくる。五十嵐に命じられたヨンイルは一瞬物言いたげに口元を歪めるが、首をうなだれた僕が辛そうなのを察すると、反論を呑みこんで唯々諾々とそれに従う。
 五十嵐に代わり、無造作に僕の上着をめくる。容赦なく捲られた上着の裾からひやりと外気が忍びこむ。何度体験しても他人の手で上着をはだけられる感覚に慣れずに肌が粟立つ。
 きつく目を閉じ、売春班での苦い記憶を追い出そうと努めるがなかなかうまくいかない。日常生活では忘れたつもりでいても何気ないひとときにふと思い出してしまう、売春班で体験した一週間の生き地獄を僕の体はまだ鮮明に覚えている。
 素肌にふれる五十嵐の手を意識しないよう平静を装いつつも、耳の奥に甦る嘲笑が、忌まわしい過去を呼び起こす。
 『やっぱりな。親殺しは綺麗な背中してるって噂に聞いたけど、マジだった。お前の処女奪ったヤツが前に自慢してたぜ。男のくせに白くてきめこまかい綺麗な肌して女みてえだってよ』
 いやだ思い出したくない、あんなこと二度と思い出したくないなかったことにしてしまいたい。
 売春班ではじめて客を取った時の記憶がまざまざとよみがえり僕を苦しめる。
 鏡に映った僕の顔、前髪を掴まれ無理矢理顔を起こされ鏡と向き合わされた自分の顔。快楽と苦痛とが綯い交ぜとなった恍惚の表情、淫蕩に濁った目、物欲しげに喘ぐ唇……
 体の裏表を貪欲に這いまわる手の感触が厭わしい。
 僕を洗面台に押さえ付け背中に覆い被さった男の顔は朦朧と霞んでいるというのに、鏡に映った僕自身の顔が網膜に灼きついているのは何故だ?
 売春班で僕は何人もの男にさわられ抱かれ犯された。壁に両手をつかされ背後から、ベッドで上に跨るように、そしてシャワーのフックに吊られて……
 今でも覚えている、手首に食い込むロープのささくれだった感触を。
 僕の体を飢えたように這いまわる汗ばんだ手の感触を。
 普段忘れているつもりでも、サムライ以外の人の手にさわられれば思い出してしまう。 僕が汚れているという拭い難い事実を思い知らされ吐き気をもよおす。忘れろ忘れるんだ、今そんなことは関係ない。僕はもう売春班とは関係ない、サムライに救われ自由になったんだ、あんなことは悪い夢だ忘れてしまえと強烈な自己暗示をかけて顔を伏せる僕の背中にそっと手が被さる。
 気遣わしげに僕の肩甲骨に被さった手は、乾いていた。
 「なんでやられたんだ、これ」
 「彫刻刀だ」
 「ひでえな」
 短く答えれば、五十嵐がこの上なくいやな顔をする。
 五十嵐も東京プリズンの看守だ。弱肉強食の檻の中では、自分より立場の弱い人間に人がいかに残酷になれるかは熟知しているだろうがそれでも嫌悪感は薄まらないらしい。
 眉間に嫌悪の皺を刻んだ五十嵐が重くため息をつき、事務的に表情を改め、再び手を動かしはじめる。医者でもないのに五十嵐の手つきは正確かつ的確で、処置は迅速だった。
 消毒液を浸した綿で傷口をさっと拭き、慎重に丁寧に血を拭う。
 消毒液が傷口に染み、鋭い痛みが走るたび、体が強張る。そんな僕を気遣うように、「大丈夫か」と声をかけてくる五十嵐に強がりで頷く。
 必死に痛みを堪えていたら、力をこめすぎたせいか手のひらに爪が食いこんだ。無意識に手を握りしめ、表情を覗かれるのを避けて深々と俯く。
 「……っ、あく」
 どうしても噛み殺せない苦鳴がもれた。
 苦痛に翻弄される僕の気を紛らわすためか、僕の上着を持ち上げたヨンイルがどうでもいいことを口にする。
 「にしても五十嵐はん、あんたいつでもどこでも消毒液とガーゼの応急処置キット持ち歩いとんのかい。ご苦労なこっちゃな、医者でもないのに」
 「怪我人に肩貸して医務室に運ぶよりこっちのほうがラクだって気付いたんだよ、時間の節約にもなるしな。医務室に運ばなきゃいけないような怪我人ならともかく、かすり傷程度ならさっと消毒してバンソウコウ貼っときゃすむだろ。こう見えて手先は器用なんだぜ、俺」
 「さすが、親切やな」
 ヨンイルが意味ありげにほくそ笑み。
 気のせいかもしれないが、棘のある言い方だった。
 そしてまた五十嵐も、処置の手は休めず皮肉げに笑み返す。
 「お前ら囚人がしょっちゅう喧嘩して問題ばっか起こすから慣れちまったんだ」
 二人の会話に意識を集中したせいで、だいぶ苦痛が薄れた。
 ヨンイルと五十嵐は努めてさりげなく振る舞っているが、たがいを立ち入らせない一線を引いてることが如実に伝わってくる。  
 傷口の血を拭き取り、しずかにゆっくりとガーゼを押し当てながら五十嵐が呟く。
 そのさまを醒めた目で眺めながら、ヨンイルが呟く。
 「俺んときはそんなこと、してくれへんかったな」 
 「お前が階段から落ちたときか。馬鹿言えよ、捻挫の応急処置なんか知らねえよ。添え木でもあてりゃいいのか?生憎知識がなくてね。俺ができるのはかすり傷の手当てだけ」
 「階段から落ちた、か。あんさんにはそう見えたんか、あれが」
 ヨンイルがさもおかしげに笑う。喉をひきつらせるような奇妙な笑い方。僕の肩甲骨にガーゼをあてがった五十嵐が、物言わずヨンイルを睨みつつテープを貼ってゆく。傷口を覆ったガーゼにテープを十字に貼りつけ、「よし」と満足げに首肯。
 ヨンイルに目配せして上着をおろさせる。
 「これでいいだろう。たいしたことない怪我でよかったぜ」
 「ほんま、あんさんがタイミングよく現れてくれたおかげで助かったわ。なんや五十嵐はんとは図書室でよお顔あわすけど、あんさんホンマは俺のストーカーとちゃうんか」
 ふざけた口調でまぜっかえすヨンイルに、消毒液の瓶を戻しながら五十嵐が肩を竦める。 
 「バレちまったか。実はそうなんだよ」
 どこまで本気で冗談かわからない。
 しかし、五十嵐がきてくれて助かったのも事実だ。五十嵐の話によると、たまたま図書室付近を歩いていたら血相変えて逃げ出してきた残虐兄弟と遭遇し、何が起きたのか気になって足を向けてみたのだという。
 そして、ぐったり座りこんでる僕とヨンイルとを発見した。
 偶然にしてはタイミングがよすぎる。僕は全面的に五十嵐の証言を信じたわけではない、五十嵐が嘘をついてる可能性も捨てきれない。
 上着の皺をのばすふりをしながら、疑念を宿した目で、注意深くヨンイルと五十嵐とを見比べる。
 五十嵐はヨンイルを憎んでいる、はずだ。何故ならヨンイルは五十嵐の娘の仇、五十嵐の娘が死亡する原因を作った張本人なのだ。ヨンイルが作った爆弾で五十嵐の娘は死に、五十嵐は生きる希望を失い、東京プリズンに左遷されてきたのだとしたら…… 
 五十嵐がヨンイルを殺したいくらい憎む気持ちもわかる。
 僕が五十嵐の立場でもおなじだろう。最愛の存在、唯一の家族……恵。僕の心の支え、生きる希望そのもの。生きる目的そのもの。もし恵が五十嵐の娘とおなじように不条理な死に方をしたら、僕は到底納得できず、恵に死をもたらした人間に何をおいても復讐する。 
 そうだ。ヨンイルが憎くないはずがないのだ。
 「慣れているというだけあって、さすがに腕はいいな。応急処置の手際もいい。評価してやる」
 眼鏡のブリッジに触れながら尊大に言い放てば、五十嵐が苦笑する。
 「ありがとよ。まあ、あんまり自慢できることじゃねえけどな……一日でいいから喧嘩や事件に巻きこまれず東京プリズンで平和にやりたいもんだぜ」 
 「無理やろ。地獄で仏様拝むようなもんや」
 ヨンイルが挑発的に笑う。五十嵐が登場した瞬間からヨンイルの態度が硬化した。五十嵐がヨンイルを憎んでいるのは事実だが、ヨンイルもまた五十嵐を快く思ってないらしい。
 殺気立ったふたりを残し、僕ひとり図書室をあとにするのは心配だ。
 べつに僕が心配する必要はこれっぽっちもないのだが、五十嵐とヨンイルをふたりきりにして万が一のことでも起きたら困る。僕が席を外した途端にはげしい口論に発展した五十嵐とヨンイルが掴み合いの喧嘩をしないとも限らない。
 険悪な雰囲気のふたりを残してゆくのも気が引けるし、もう少し様子を見るべきだと判断し、階段の座席に大人しく腰をおろす。
 図書室に僕ら三人以外の人間はいない。
 整然と書架が並んだ一階には埃臭い静寂が漂い、僕ら三人のあいだにも気まずい沈黙が落ちる。
 「……ええ機会やな」
 沈黙を破ったのはヨンイルだった。
 「なにがいい機会なんだ?端的に独白せず、前後の文脈がつながるように説明しろ」
 ぼそりと呟いたヨンイルに怪訝な眼差しを向ければ、当の本人はどこか遠くを見るような目を虚空に馳せていた。ひどく大人びた眼差しに、何故だか急にヨンイルが遠くなった気がして心臓の鼓動が速まる。
 そしてヨンイルが、体ごと僕たちに、いや、正確には五十嵐に向き直る。
 「五十嵐はんにずっと聞きたかったんや。今日ここでこうして会うたんもなにかの縁、じっちゃんの導きや。さあ、腹を割って話し合おうか」
 突然なにを言い出すんだこの男は。せめて緩衝材になろうと、ふたりの間にじっと座っていた僕の努力を無駄にする気か?だがヨンイルの決意は固いらしく、五十嵐をまっすぐ射貫く目はひどく真剣だ。
 「五十嵐はん、ずばり聞くけど。なんで俺のこと殺そうとしたんや?」     
 単刀直入にもほどがある。
 瞬間、五十嵐の表情が豹変する。愕然と強張った顔は、囚人に慕われる看守のそれではなくけして口外できない後ろ暗い秘密を抱えた人間のそれだ。   
 しかしヨンイルは引かない。凝然と固まった五十嵐の方へすかさず身を乗り出し、早口に畳みかける。
 「忘れたとは言わせへんで。ちょっと前、俺が漫画読みながら歩いとる時に階段から突き飛ばしたやろ。おもいきり。背中をドンと突いて」
 「え?」
 驚愕の声を発したのは僕だ。五十嵐がヨンイルを階段から突き落としたなんて初耳だ。 衝撃の事実に狼狽する僕の視線の先でヨンイルは有無を言わせず五十嵐ににじり寄る。
 「俺が捻挫だけですんだのは持って生まれた運動神経のおかげやけど、打ち所悪かったら即死やで。洒落にならんでホンマ。東京プリズンの看守が囚人いじめて楽しむクズばかりやってのは常識やけど、あんさんはちゃうやろ。とてもそんなかんじに見えへん、囚人に好かれる看守や。
 西のやつらもあんさんのことはえらい慕っとる、みんなあんさんに恩を感じとる。みんな一度や二度、あんさんに助けられたことがあるからや。今もこうやって直ちゃん助けてくれた、俺もあんさんが皆に好かれるのはようわかる」  
 ヨンイルが淡々と独白するあいだ、五十嵐は無表情に押し黙っていた。だがその無表情は、腹の奥底で沸騰する激情を必死に押し殺してるように切迫したものだった。
 それに気付いているのかいないのか、もしくは気付かないふりをしてるのか、五十嵐と面と突き合わせたヨンイルは不可思議としか言いようがない顔をしていた。何故自分が恨まれるのかこれっぽっちも心当たりがないといったあっけらかんとした態度。
 五十嵐の顔を覗きこみ、ヨンイルが首を傾げる。
 「なんで、俺にだけ冷たくするん?」
 本当に不思議そうな声音だった。
 自分が恨まれる筋合いなどこれっぽっちもないと開き直った態度だった。  
 手のひらがじっとり汗ばみ、心臓の鼓動が高鳴る。ヨンイルはあまりに無防備だ。看守の五十嵐に対しても僕とおなじようになれなれしく接して憚らない。
 その無防備さが、命取りとなる。
 重苦しく押し黙った五十嵐の顔をまっすぐ見つめ、ヨンイルがさらに続ける。
 「言いたことあんならちゃんと言うてや、ええ年した大人がまわりくどいいやがらせしてみっともない。俺、あんさんになにか気にさわること言うかするかした?」
 大仰にかぶりを振りながらヨンイルが嘆く。
 「身に覚えのないことで恨まれちゃこっちも気分悪うてかなわ」
 
 ヨンイルが吹っ飛んだ。
 五十嵐におもいきり平手打ちされて。

 「ヨンイル!?」
 僕が立ち上がった時にはすでに遅く、ヨンイルの体は階段から落下していた。後ろ向きに倒れたヨンイルが凄まじい音をたて階下に叩きつけられる。下から三段目に座っていたので命拾いしたが、もう少し上にいたらと思うとぞっとする。
 反射的にヨンイルに駆け寄り、助け起こす。
 階下に転落したヨンイルが、背中を強打した衝撃ではげしく咳き込んでいた。幸い外傷は見当たらなかったが、五十嵐にぶたれた頬が赤く腫れていた。痛々しく腫れた頬をさすりながら頭上を仰いだヨンイルは、ただただ驚きに目を見張るばかりでとっさには口もきけない。
 段上に仁王立ち、傲然とヨンイルを見下ろす五十嵐。
 その目に渦巻いてるのは、底知れない憎悪。
 「……身に覚えはないんだな」
 「……ぜんぜん」
 低く押し殺した声で五十嵐が問えば、茫然自失のヨンイルが緩慢に首を振る。操り人形めいた動作でヨンイルが否定すれば、五十嵐が何とも複雑な色を目に浮かべる。悲哀とも苦渋ともつかぬ表情が覗いたのは一瞬のこと。
 尖った靴音を響かせ、大股に階段を下りた五十嵐が、ヨンイルの眼前に立ちはだかる。僕が知る五十嵐はどこにでもいる冴えない中年男のはずだった。しかし今の五十嵐はそうじゃない、皺だらけの制服はそのままだが顔つきがまるで違っている。
 今の五十嵐は、とても恐ろしくて。
 「人殺しのくせに、身に覚えはないんだな?」
 僕に優しくしてくれた五十嵐とは、別人のようで。
 これが本当に、ついさっき傷を手当てしてくれた五十嵐と同一人物かと疑りたくなる。片方の手を腰にかけた五十嵐が、肘をつき上体を起こしたヨンイルの胸ぐらを乱暴に掴み、自分の方へと引き寄せる。
 五十嵐が囚人に暴力を振るう現場をはじめて目撃した僕は、情けないことに体が硬直して、言葉を発することもできない。
 「人殺し、て。そりゃ俺はたしかに、人殺しやけど」
 この場でいちばん冷静なのはおそらくヨンイルだった。横っ面を殴られ階段から落とされたショックが大きすぎていまだに現実を呑みこめないのか、怒りよりも恐怖よりも当惑が勝った表情で五十嵐を見上げる。
 「でも、俺が人殺しなのとあんさんが俺を階段から突き落としたのは別の話やろ。かってに関連づけんなや。だいたい人殺し言うたら東京プリズンに入れられとるガキの八割九割がそうやろが、なんも珍しいことあらへんわ」
 困惑めいた眼差しでヨンイルが反駁すれば、五十嵐の口元に笑みが浮かぶ。
 「『珍しいことない』、か。たしかにそうだよな。そうだよな」
 ヨンイルは知らないのだ。自分が五十嵐に憎まれている本当の理由を。
 なんて愚かで浅はかな道化なのだろう。
 「……五十嵐はん、ええ加減手えはなしてくれへん?直ちゃんびっくりしとるやろ。俺もこの姿勢首絞まってきついんやわ。それともなに、窒息死させる気か?図書室で本に埋もれて死ねるなら本望やけどな、はは」
 ヨンイルが乾いた声で苦しげに笑う。五十嵐はそんなヨンイルを慈悲のかけらもない目で冷然と見下ろしていた。ヨンイルの胸ぐらを掴み、締め上げ、獣のような体勢でその上にのしかかった姿には鬼気迫るものがある。 
 「五十嵐、落ちつけ。自制心を取り戻せ。はやくヨンイルの上からどけ」
 五十嵐のこんな姿は見たくなかった。ようやく金縛りがとけた僕は、意を決して五十嵐に訴えかける。五十嵐が本当にヨンイルの首を絞めて殺してしまうんじゃないかとそればかりが心配だった。床に寝転んだヨンイルは、無造作に手足を投げ出して自分の上に跨った五十嵐を仰いでいる。
 五十嵐に頬を張られた際に切れたらしく、唇の端に血が滲んでいた。
 ヨンイルの唇に滲んだ血が僕と同時に目に入った五十嵐が、ごくりと生唾を嚥下する。
 「俺がお前を憎む理由、教えてやろうか」
 五十嵐の声は興奮にかすれていた。ヨンイルは無抵抗だ。ただ疑問の色に染め上げられた眼差しで、五十嵐の口の動きを観察している。僕は何もできない。ヨンイルと五十嵐に近寄ることさできない。今のふたりには第三者の介入を拒む何かがあった。
 五十嵐の親指が、そっと、唇の血を拭う。
 「!痛っ……」 
 切れた唇に触れられ、ヨンイルが眉をしかめる。 
 ヨンイルの抗議を無視し、親指に血をぬりつけ、顔へと滑らす。
 ヨンイルの頬に一筋なすられた鮮血に物欲しげに喉を鳴らし、五十嵐が言う。

 「俺がお前を憎むのは、嫌いだからさ」

 『嫌いなものは殺してしまう、それが人間のすることか?』
 『憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね』
 唄うようなレイジの声が眼前の光景に被さる。

 「アホ、言うな……嫌いって、嫌いになるにも理由いるやろ。具体的に俺のどこがどう嫌いか教えてくれな納得できひん」
 「全部だよ。お前の顔も声も性格も全部が。お前が今こうして俺の下でみじめにみっともなく足掻いてるということ自体が。なあヨンイル、お前なんで呼吸してるんだ?こうしてしゃべってるんだ?お前だって頬ぶん殴られりゃ痛いだろ、ちゃんと痛いって感じるだろ。血も涙もある人間だって証拠だよな、それ。なのに……」
 五十嵐の独白が不自然に途切れ、不吉な予感に胸が騒ぐ。
 「五十嵐、やめろ。やめるんだ」
 それしか言えない。僕も恵が殺されたら五十嵐とおなじ行動をとる。だから、五十嵐を制止はできても非難などできるはずがない。五十嵐の目はヨンイルさえも見ていない。自分の内側を覗いているのだろう深い闇を映した瞳は、復讐の狂気に魂を売り渡した人間のそれ。
 「ヨンイル、お前手塚治虫が好きか」
 突然、五十嵐が話題をかえる。  
 「大っ好きや」
 ヨンイルが即答する。
 「そうか。俺の娘もな、手塚治虫が大好きだったんだよ。ブラックジャックと結婚したいって言ってた。馬鹿だよな」
 「馬鹿ちゃうわ。ブラックジャックかっこええもん、そりゃ女やったら惚れるわ。俺男やけど惚れたもん。信念ちゅーか、生き方に。孤高を貫く無免許医なんてめちゃかっこええやん」
 「リカとおなじこと言うんだな」
 「あんさんの娘さんとは気が合いそうや。残念やな、生きとったらよかったのに」
 ヨンイルが朗らかに笑い、五十嵐の顔が泣きそうに崩れる。
 なにも知らないということは、なんて残酷なのだろう。
 僕はヨンイルの無神経を詰れない、無知を責められない。ヨンイルの過去はよく知らないが、彼もまた、やむをえず犯罪に手を染めた人間なのだ。それ以外の選択肢がなく、それ以外の生き方を知らず、自分が人を殺す凶器を生産している実感もなくただ命じられるがままに爆弾を作り続けていたのだとしたら。
 無知な子供の無邪気さで、毎日のように爆弾を作り続けていたのだとしたら。
 「……ヨンイル」
 五十嵐がやさしくヨンイルの名を呼ぶ。
 「お前もう手塚読むな」
 「は?なんでじゃボケ、手塚読めなくなるくらいなら死んだほうがマシじゃ」
 手塚治虫。ブラックジャック。五十嵐の娘が好きだった漫画を、ヨンイルもまたこよなく愛している。
 皮肉な現実に、五十嵐の心は耐えられない。
 この世でいちばん憎い人間が、既にこの世にない愛しい人間とおなじものを好む残酷な現実が、非情に徹しきれない五十嵐の心を無残に引き裂く。
 「………そうか。そうかよ」
 力なく笑い、ヨンイルの胸を突き放す。己に言い聞かせるような口調で何度も呟きつつ、ふらふらと立ち上がった五十嵐の目からは、正気の光が完全に失せていた。
 おそらく無意識だろうが、五十嵐が腰に手をおいてるのが妙に気になった。 
 消毒液を入れたポケットとは反対側に、庇うように手をおいた五十嵐の態度が何故こんなにも気になるのだろう。まるで、今まさになにかを取り出そうとしてるみたいな……
 かぶりを振って馬鹿な想像を蹴散らし、ヨンイルに声をかける。
 「ヨンイル、大丈夫か?」
 「だいじょぶだいじょぶ、ちょい死にかけただけや。今はぴんぴんしとる。あち、唇切れとるやないか。今日は味噌汁のめんな」
 呑気に笑うヨンイルに、安堵のあまり脱力する。間の抜けたやりとりに緊張を解いたか、深々と嘆息して腰から手をどけた五十嵐がふらつきながら歩き出す。
 その背中が、やけに遠くて。
 「五十嵐」
 気付けば五十嵐を呼びとめていた。五十嵐は振り向かなかった。悄然と肩を落としたその姿は急速に精気が萎えしぼんでひとまわりもふたまわりも小さく見えた。 
 声をかけたはいいものの、言葉が続かない。
 何か言わなければと気ばかり焦る。僕が五十嵐を呼びとめたのは、今を逃せば手遅れになるような錯覚に襲われたから。五十嵐がもう二度と戻って来ないような言い知れぬ危機感を抱いたから。
 五十嵐の背中を見つめ、むなしく立ち尽くし、目を伏せる。 
 「………その、僕もヨンイルの意見に同感だ。手塚治虫は素晴らしい。とくにブラックジャックは往年の最高傑作だと思う。ブラックジャックは人を寄せ付けない外見とは裏腹に医療の限界に苦悩する主人公で、とても人間らしい魅力にあふれている」
 「それがどうかしたのか」
 「あなたの娘が、彼を好きになった理由がよくわかる」
 五十嵐が首をうなだれる。
 「僕もその、漫画の登場人物にこんなことを言うのは面映いが、彼を尊敬してる……から」
 まったく僕は何を言ってるんだ?ここで告白をしてどうする。
 赤面した僕をよそに、五十嵐が再び歩き出す。ふらつく足取りで図書室の出口に向かいながら、最後の挨拶とばかりに肩越しに手を振る。
 「今度読み返してみるよ。リカが好きだったブラックジャック」
 五十嵐の言葉とは裏腹に、彼がブラックジャックを読み返すことは二度とない予感がした。
 バタンと鉄扉が閉じる。
 呆然と立ち竦んだ僕の背後で、ヨンイルが大きな声をあげた。
 「ふう。ホンマに殺されるかと思った」  
 まだわからないぞ、と僕は心の中で反駁した。
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