285 / 376
二百八十二話
しおりを挟む
図書室は閑散としていた。
図書室のヌシの異名をもつヨンイルは勝手知ったる足取りで階段を上る。そのまま書架と書架の間に潜りこむのかと思えば、一階を見下ろす手摺へと腰掛ける。
早々に図書を返却した僕は、一階のホールから二階の手摺を見上げる格好で立ち尽くす。ホセは一階と二階の中間、階段の真ん中あたりに腰掛けている。
「早速用件を聞こうじゃないか。読書に費やす有意義な時間を割いて語彙の貧相な言い訳とやらを聞くんだ、退屈させないでくれないか」
高圧的に腕を組みヨンイルとホセとを睨みつければ、道化と隠者は示し合わせたように肩を竦めた。
「あせんな直ちゃん。お互いリラックスして腹を割って話そうや」
「実力勝負の決勝戦に禍根を残すのは頂けませんからね」
「知ったふうな口をきくなそこの裏切り者二名。だれのせいでレイジがあれほど荒んだと思っている?」
僕はヨンイルとホセに対し本気で怒っていた。彼らのことを軽蔑していた。
先日北と中央で起きた抗争を思い出す。飛び入り参加したホセとヨンイルの活躍により雑魚が一掃されたのは事実だが、その後の展開はだれもが予想だにしない方向に転がった。
まさか、ヨンイルとホセが僕らを裏切っていたなんて。
「……レイジは貴様らのことを、一応友人だと思っていたんだぞ」
「一応てなんや一応て」
鼻白んだヨンイルを無視して続ける。
「レイジは真意の読めない男だが、西と南のトップである君たちには心を許して一定の信頼をおいていた。同じトップとして苦労を分かち合う立場の人間だけが共感できることもある。それを君たちは台無しにした、こともあろうにレイジの眼前で、ロンに拒絶されサーシャに痛めつけられ精神的にも肉体的にも極限状態に追い詰められたレイジの眼前で堂々裏切り宣言をして!少しは時と場所を考えて裏切れ低脳ども、おかげであの後レイジがどうなったか……ホセ、君はその身をもって味わったはずだ」
冷たい眼差しで射貫けば、ホセは申し訳なさそうに頭を掻く。
「いやはや面目ございません。ですが、あれにはわけがあるのです」
「折角安田ハンにご登場願ったんや、機会を逃したら次がいつくるかわからへん。俺らに嘘つかれたて思いこんだレイジが大荒れに荒れるのは予想ついとったけど、まさかあそこまでとは……道化の失態や、王様甘く見とった。ホセの腕にナイフ命中させたときは血の気ひいたで」
「待て、思いこんだとは?君たちは実際嘘をついたんだろう、嘘をついてレイジを騙したんだろう?」
ヨンイルとホセは二人で結託して、レイジを裏切った。
最初は味方のふりをして僕たちに加勢して、安田が駆け付けた頃合に僕たちを裏切った。それが事実のはずだが、真相は違うのか?
「ところで直ちゃん、安田はんの銃はめっかったか」
二階の手摺に腰掛けたヨンイルが、足をぶらぶらさせながら質問する。
「それとこれに何の関係が……」
「見つかってへんのか。これだけ日数が経っても東棟から出てこんってことは、東の人間は白やな」
知ったふうな口ぶりでヨンイルが推理を述べれば、ホセも賢しげに頷いて同意する。
「でしょうね。もし東の人間が銃を所持していたのならそろそろ噂が流れてもおかしくないはず。いや、東の人間の手を経て他棟に流出した可能性もあるので一概には断言できませんが」
「西も白や。全部の房ガサ入れしたけど見つからん」
「南も白です。立ち入りを拒む不届き者は吾輩の弟子たちが少々手荒な真似をして排除して、すべての房を検証したんですが」
「ということは、残るは北」
名推理を披露するごとく人さし指を突き立て、ほくそ笑むヨンイル。
「直ちゃんがこないだサーシャに会いに行った理由あてたろか。北で銃さがしてええですかってトップに許可とりにいったんやろ」
「!何故それを、」
「わからんほうがどうかしとる。西と南と東が白やと仮定して、最有力候補は残る北。北は恐怖政治を敷くサーシャのもと徹底した秘密主義を貫いとるし、銃の噂が他棟に広まらんでもおかしゅうない。なんせサーシャは他棟の人間を毛嫌いしとる、黄色い肌も黒い肌もお呼びでなしって門前払い食らわせるんが皇帝のやり方」
「吾輩もサーシャくんと仲良くしたいんですが、なかなか」
「自棟の囚人が銃持ったら普通噂が流れるはずや。娯楽の少ない東京プリズンには三度の飯より噂好きな連中がうじゃうじゃしとる、隠し事がでかければでかいほど鼻のええやつが嗅ぎつけて漏出するもんなんや。それが西でも南でも北でも流れへんちゅーことは、自然な流れで北に容疑がかかる」
「黒とは申しませんが、灰色です」
「なにが言いたいんだ?」
北の人間が銃を持ってる可能性が強いと僕もおぼろげながら察しがついていた。だが僕はサーシャの不興を買った。今度北棟に足を踏み入れたら、生きて帰って来れる保証はない。確実に死ぬ。
北に再潜入するのが命知らずの自殺行為でしかない現状、悔しいが僕にとれる手段はなにもない。サーシャとの交渉は失敗に終わった、どうやって……
深刻な面持ちで考え込む僕を見下ろし、ヨンイルが軽快に宙を蹴る。
「さて問題。北でいちばん偉いサーシャが睨みをきかす中、銃をさがす方法は?」
そんな方法があるのか?
一瞬虚を衝かれたが、ヨンイルは既に答えを知ってるらしく、にやにやと僕の反応を窺っている。ホセもまた階段の座席に腰掛けてにこやかに僕を眺めている。
ふたりは答えを知っている。
ヨンイルとホセは、僕を試しているのだ。
だれあろう、この僕を。
唇を人さし指でなり、思案を巡らす。サーシャ支配下の北棟で銃をさがすには、人がいないときを狙えばいい。北棟が無人になった隙に房を改めることができれば、北の人間が銃を持ってるか持ってないかはっきりするはず。そして北棟から人を払う最も有効な手段は……
そうか、わかったぞ。
「放火か」
「「は?」」
ヨンイルとホセが目を丸くする。
「いつだったか、レイジとサムライが中央棟地下でしたように北棟でボヤ騒ぎを起こすんだ。故意に。火事ともなれば北の人間も先を競って逃げ出すはず、よって北棟にはだれもいなくなる。無人になればこっちのものだ、その隙にすべての房をすみずみまで……」
「まてまてまて!」
僕の視線の先、手摺から足をたらしたヨンイルがこめかみに人さし指をあて唸っている。とんでもない難問に直面したように眉間に皺を刻んだヨンイルが、ぐいとゴーグルを額に押し上げる。
外気に晒された双眸には、何とも複雑な色が湛えられていた。
「直ちゃん、あんた推理の才能ないわ。あれやな、金田一でいう佐木でコナンでいう小五郎」
「………人名に心当たりはないが、今のが僕に対する侮辱だということはわかったぞ」
「吾輩は従来の常識にとらわれない柔軟で斬新な発想だと至く感激しましたよ?」
ホセも誉めてない。
「コナンはすごいわー百二巻までいったんやで。まさか黒の組織のボスが三十五巻で死んだあの人やなんて」と興奮気味にまくしたてるヨンイルから話の主導権を譲り受けたホセが咳払いをする。
「他には思い当たりませんか?
サーシャくんの妨害を避け、北の人間に有無を言わせず房を捜索する方法」
考えろ、考えれば必ずわかるはずだ。天才に不可能はない。不可能を可能にしてこそ天才だ。サー・アーサー・コナン・ドイル、アガサ・クリスティー、エドガ―・アラン・ポー。古今東西の推理小説を読み漁り名探偵の思考過程を完璧に模倣した僕なら必ずや真相に辿り着けるはず。
今度こそわかった。
「わかったぞ、水責めだな。下水道の配管を破壊し北棟に水害を巻き起こすんだ。配管に障害が発生すれば水道の水が氾濫して北は水浸しになりサーシャを筆頭に囚人全員が逃げ出す、」
「とりあえず人為的災害はなしの方向で。つか配管傷付けたら北だけやなし西も南も東も水浸しやないか、んなことになったら俺が房にためとる漫画全部パアになってまうからやめてんか!」
即座に正気に戻ったヨンイルが血相を変えて抗議する。推理に煮詰まった。悔しいが、考えても考えても答えがわからず迷宮の奥深く迷い込むばかりだ。
「わからん?単純なこっちゃ」
あきれたふうにかぶりを振るヨンイル。
階段の座席に腰掛けたホセが思慮深げに顎をなでる。
「北の囚人はサーシャくんの命令に絶対服従。サーシャくんの許しを得なければ銃の捜索を行うことができません。それは何故でしょう?答えは明白、サーシャくんが北棟でいちばん強くて偉いからです」
脳裏でおぼろげながら像を結ぶものがあった。
漠然とだが、ホセが言わんとしてることは察しがついた。いまだ警戒心を捨てきれず疑惑の眼差しでヨンイルとホセとを見比べれば、僕の当惑ぶりが余程面白いのか、道化と隠者が笑み交わす。僕を翻弄して楽しむなど意地が悪いにもほどがあると憤慨すれば、二階の手摺に尻をのせたヨンイルが大仰に両手を広げる。
「北の連中がサーシャに逆らえんのは、あいつがトップやから。
ならサーシャ以外の人間がトップになれば問題ないんちゃうか?」
「……ヨンイル、君はとんでもないことを言ってるぞ」
眩暈を覚えた。さすがに僕もヨンイルとホセが言わんとしてることを完全に察した。
荒唐無稽、本末転倒、支離滅裂。
結論、ヨンイルとホセは僕が考えている以上に手段を選ばない人間だった。
その確信を裏付けるように、手摺に腰掛けたヨンイルが勢い良く宙を蹴る。
「話は簡単や。俺かホセがトップになって北を治めれば、だれにも邪魔されることなく銃さがしできるやろ?サーシャにだって文句言わせん、トップの命令は絶対やもんな」
ホセがにっこりと付け加える。
「それが東京プリズンのルール、弱肉強食の鉄の掟です。ブラックワークの正規試合で勝利すれば東京プリズンの全権を握れる、ということはもちろん北棟でも自由に振る舞えるようになる。房をひとつひとつ改めてプライバシーを赤裸々に暴こうが誰にも文句は言わせません」
「つまり君たちは、安田の銃を見つけるために、北のトップになりたいがためにペア戦出場を決めたんだな?」
「ようやくわかったか。飲みこみ悪いで」
眩暈が酷くなった。
片手で頭を支えた僕はヨンイルとホセの言葉を整理しようと試みるが、衝撃冷め遣らない頭ではますます混乱するばかりだ。つまりヨンイルとホセは、サーシャを追い落として北のトップになりたいがために参戦表明をした。北のトップになれば北棟で制限されることなく動き回れる、銃の捜索に全力投球できる。
彼らの目的は、ただそれだけだというのか?
「わからない、何故そこまでする?安田の銃さがしはもともと僕個人が請け負った依頼だ、本来なら僕ひとりで処理すべき問題なんだ。君たちがそこまでする義務はない、そこまでしてくれなんて頼んでない!
たしかに僕ひとりでできることには限界があるが君たちが余計なことをしたせいで話が大きくなりすぎ……」
「余計なこと?」
ヨンイルの雰囲気が豹変する。
人懐こい笑顔が薄まり、双眸がスッと細まる。刹那、勢い良く手摺を蹴った反動で宙に身を躍らせる。
ヨンイルの上着の裾がめくれ、はためき、素肌に彫られた刺青が目に触れる。
健康的に日焼けした腹部に毒々しく照り映える緑の鱗は、猛々しい生命の躍動を感じさせる芸術的完成度。
肢体に龍を飼った少年が、しなやかに身をよじり、二階の高さをものともせず僕の眼前に着地する。
あっけにとられた僕の方へ、大股に近付いてくるヨンイル。
「直ちゃん、大事なこと忘れとるんちゃうか。副所長から銃をスッた犯人はどこのだれや?北でもない南でもない東でもない、うちの棟のワンフーや。ワンフーが安田はんの銃スってもうた件に関しては、手癖を躾とかんかった俺の落ち度やて責められてもしゃあない。けどな、もし安田はんの銃が感心できんことに使われたら?
安田はんの銃で人が殺されたら?
それも全部ひっくるめて不始末しでかしたワンフーの責任は俺が負わなあかん。ワンフーが出来心で銃をスッた、のみならずそのへんにポイして知らん振りしたのがすべての元凶ならトップの面目丸潰れや。自分とこのガキが勝手したせいで人死に起きたらトップの面子にかかわる一大事やで、他棟に顔向けできんし最悪トップの座を返上せなあかん。そろそろマジにならな西の道化の名が廃るやろが」
尊大な大股で僕に接近したヨンイルが無造作に腕をのばし、上着の胸を掴む。
ヨンイルに胸ぐらを掴まれた僕は、体に彫られた刺青そのままに剣呑きわまりない道化の本性に息を呑む。
ヨンイルの言い分には一応筋が通っている。たしかにすべての元凶はワンフーが出来心で安田の銃をスッたこと。スリ師の血が騒ぎ出したワンフーが誘惑に負けて安田の銃に手を出したはいいものの、後始末に困って地下停留場に放置したのが一連の騒動の発端だ。
この上もし安田の銃で人が殺されたら、ヨンイルの責任は重大だ。
西の人間の監視を怠って騒動の原因を作った上に、安田の銃で人が殺傷されるのを未然に防げなかったとしたら、無能なトップの烙印を押されるのは間違いない。
どうやら事態は僕が思っていた以上に深刻なようだ。今回の銃盗難事件は安田と僕だけの問題ではなく、西棟を根底から揺るがし道化の地位を危うくする一大事だった。
僕の胸ぐらを締め上げたヨンイルが、獰猛に犬歯をむく。
剣呑に双眸を輝かせた好戦的な笑顔には、身の内の龍が発する精気が溌剌と漲っていた。
「ことは直ちゃんだけに手におえる問題やない、首突っ込んだ俺も後戻りできんとこまできとるんや。西の人間の不始末はトップの責任、中途半端で放り出すわけにはいかん。だれもが納得する形できっちりけじめつけな西の道化の評判ガタ落ちや。
安田の銃で人死に起きたらまず真っ先に責められるんはスった犯人のワンフーや。独居房送りだけで済めばまだ恩の字やけど、副所長の懐に手え出したっちゅーんは上の人間に喧嘩売ったも同然や。この先あいつが東京プリズンで生き残れる確率は低い、看守のリンチで始末されるんがオチやろ。そうなる前に銃を見つけ出して安田はんに返さんと」
「ワンフーを心配しているのか?普段はふざけて見えて情が厚いじゃないか」
ヨンイルの隠された一面を垣間見た気がした。
ヨンイルがこんなに責任が強く面倒見がよいトップだったなんて少し意外だが、それならヨンイルが西の人間に慕われる理由がわかる。
ヨンイルはきっと、西で絶大なる支持と人望を集める情の厚いトップなのだろう。どこかの王様とは大違いだ。
しかしヨンイルは、とんでもない誤解だといわんばかりに鼻で笑い飛ばす。
「アホぬかせ。俺はトップの座が惜しいだけや。万一このことがバレてトップの座を追われたらうまい汁吸えなくなる。強制労働免除特権も食堂席優先権ものうなるし、昼っぱらから図書室で漫画三昧の極楽ライフから地獄に転落や。
俺はまだまだまだまだ漫画が読み足らんのや、死ぬまで漫画読んで呑気に笑って暮らすんが野望なんや。野望の実現の為にはこれから先もトップでい続けなあかん、つまらんことでトップの座から引きずり下されロミオとジュリエットみたく手塚と引き離されるのはごめんや」
「シェ―クスピアの古典を卑近な話に引用するな、一気に俗っぽくなるじゃないか……まあいい、君の本心はわかった。だがそれならそれで何故事前にレイジに伝えておかない?事前にレイジに打ち明けておけば、彼の暴走は防げたはずだ。レイジが暴走した要因のひとつは、君たちが最悪の形で裏切った事実だぞ」
昨晩のペア戦でレイジがあれほど暴れたのも、元を正せばヨンイルとホセが最悪のタイミングで裏切りを暴露したからだ。ヨンイルとホセの目的が銃さがしにあるのなら何故レイジに秘密にする必要が……
「ご存知ですか?三は不安定な数です。公的な数、と言い換えてもかまいませんが」
ホセがにこやかに三本の指を立てる。
「二人なら生涯守り通せる秘密も、三人になればいずれ露見する。三人目を加えるのは秘密保持の観点からも感心できません。
秘密を抱えた人間が二人なら互いを監視すればいい、ですが三人ともなると全員に目が行き届かず綻びが生まれるのは避けがたい事態。
君もご存知かとは思いますが、レイジくんはああ見えてひどく単純で子供っぽいところがある。秘密を打ち明けたところでサーシャくんに知られず巧妙に隠し通せるか怪しいものです。他の人間には言わなくても、相棒のロンくんにだけはとポロッとこぼしてしまうかもしれない。それでは駄目です」
「レイジはロンロンに甘々やからなあ」
ヨンイルが殺気を引っ込めて苦笑する。たしかに、レイジがロンにひどく甘いのはだれの目から見ても明らかだ。共感をこめて頷けば、我が意を得たりとホセが笑みを広げる。
「銃を盗んだのは西の人間ですが、なにかのきっかけで南の人間に銃が渡らないとも限らない。いや、吾輩が知らないだけで現に南の人間が隠し持っているのかもしれない。憎いだれかを殺そうと日頃銃を持ち歩いてるのかもしれない。
吾輩がトップでいるあいだに発砲事件が起これば、南棟が根底から覆る混乱は避けて通れません。それは平和主義者にして博愛主義者、ワイフに生涯の愛を誓った吾輩が歓迎すべき展開ではない」
「てなわけで、ホセと意見が一致したんや。今いちばん怪しい北棟を心おきなくとっ散らかすためには、北のトップになればええんちゃうかって」
「木を隠すなら森の中。西と南が要求したのは東京プリズン全体を掌握する権利、ですが真の狙いは北棟のみ。残念ですが、サーシャくんには話し合いなど通用しない。ならばこちらも強行手段をとるしかない。北での捜索を円滑に進めるためには、多少卑怯な手を使ってでもサーシャくんにトップの座を退いてもらわなければ」
ヨンイルとホセの言い分も一理ある。サーシャには話し合いが通じないと僕も身をもって痛感した。だがしかし、あまりにやり方が過激すぎやしないか?
「それは、毒をもって毒を制すようなものじゃないか」
生唾を嚥下し、声をひそめる。道化も隠者もとんでもない、理解の範疇を超えている。
それとも僕の想像以上に、東京プリズンを構成する四棟の相互関係は危うい均衡の上に成り立っているのか?
水面下ではそれぞれの思惑や打算が複雑に絡み合い、他棟を牽制して自棟の体面を維持するためなら手段を選ばないとヨンイルとホセをして言わしめるほどに事態は逼迫してるのか?
正面に立ち塞がったヨンイルが「ちっちっち」と指を振り、威風堂々と言ってのける。
「それを言うなら『龍をもって蛇を制す』や」
龍はヨンイル、蛇はサーシャだ。
肢体に龍を飼った少年が好戦的に微笑む。僕とそう身長が変わらないにも拘わらず、とんでもなく物騒なものを孕んだ威圧感がヨンイルの体を何倍にも大きく見せる。パッと僕の胸ぐらを突き放したヨンイルが、人懐こい笑顔に戻って階段席のホセを振り仰ぐ。
「こんなもんでええか、ホセ」
「補足しましょう。
もし吾輩とヨンイルくんがレイジくんに敗北した場合は、東の人間であり副所長の銃さがしを引きうけた君自身がレイジくんに頼めばいい。まあ、それにはまずレイジくんがサーシャくんに勝利するのが前提となりますがね。吾輩かヨンイルくん、そしてサーシャくんの3トップのいずれかがレイジくんを倒せばその人間が東京プリズンの頂点に立つという噂はすでに全棟に広まっています。
逆説的に言えば、我々3トップを下せばレイジくんこそが東京プリズンのトップに立つにふさわしい人間と認められる。他のトップを下して頂点に立てばだれも文句は言えません。サーシャくんは死ぬほど悔しがるでしょうが、気にすることはない。
いかにサーシャくんがレイジくんを逆恨みしたところで、衆人環視のリングで戦って敗北した弱みがあれば、レイジくんのやることに金輪際ケチをつけられない」
「負け犬が吠えたところで恥をさらすだけや。いくらサーシャがイカレとったかてそんなみっともないことできひんやろ。一握りでもプライドが残っとったら、な」
ホセが気取った手つきで眼鏡の弦を押し上げる。分厚いレンズの奥の双眸は少しも笑っておらず、戦慄の眼光を放っている。
「この頃北の専横が目に余るのも事実ですし、牽制には持ってこいの機会です」
そうか、わかった。
すべてはレイジを嵌めるためではなく、サーシャを嵌めるために仕組まれた罠だったのだ。
衝撃の事実が次々と発覚し、愕然と立ち尽くす僕の脳裏にある疑問が過ぎる。眼鏡のブリッジに触れ、一呼吸おいて顔を上げる。内心の動揺を悟られないよう平静を装い、沈着な物腰でヨンイルとホセとを見比べる。
「……君たちがペア戦出場を決めた真の動機はわかった。だが、最大の疑問が残っている。ホセ、君はさきほど三は不安定な数だと言った。それが何故今になってそんな重大な打ち明け話をする?僕らを騙したことに対し良心が咎めて、一週間後に決勝戦を控えた今になって懺悔したくなったのか。
しかし、何故僕なんだ?レイジでもサムライでもロンでもなく、秘密を分かち合う三人目に僕を指名したんだ?」
それが最大の疑問だった。レイジが独居送りになり、ロンとサムライが入院中の現在、自由に動き回れるのは僕だけだがそんな単純な理由でヨンイルとホセが僕を選んだとはどうしても思えない。
僕が選ばれたのには理由があるはずだ。
「なんで直ちゃんに秘密を教えたかて?簡単や」
ヨンイルがなれなれしく僕の肩に手を置く。
「直ちゃんは約束破らへんやろ」
「え?」
「今のは他言無用の内緒話や。サムライにもレイジにもロンロンにも言わんといて。どのみち決勝戦が終われば俺らからバラす予定や、たった一週間黙っといてくれたらええんや」
至近距離で僕の目を覗きこんだヨンイルがにやりと笑う。
「これでも人を見る目あるんやで、俺。直ちゃん、ホンマは俺たちのこと信じとったろ?俺たちがレイジ裏切ったのには他に理由があるんちゃうかって悩んで悩んで悩みぬいて非情に切り捨てられんかったろ。
直ちゃんにだけ特別に教えたのは、おなじ手塚友達のよしみで一方的な友情の証。直ちゃんはプライド高い天才やから、周囲の凡人どもにぺちゃくちゃ人から聞いた話広めたり無節操な真似せえへんやろて信用しとるんやで」
階段席から腰を上げたホセが、ゆったりとした足取りでこちらに近付いてくる。
「昨晩、体を張ってレイジくんを止めた君の姿に吾輩いたく感銘を受けました。君に秘密を打ち明けたのは、昨晩の勇気ある行動に敬意を表した上でのささやかな返礼」
ホセが深々と頭を下げる。
「もしあのとき君が止めてくれなければ、吾輩は見境なくレイジくんを殴り殺していたでしょう。左手薬指の指輪が割れるまでこぶしを振るい続けていたことでしょう。今もこうして無事な姿で指輪が嵌まっているのは君の活躍のおかげです。誠意を尽くして感謝の念を表明せねばワイフに怒られてしまいます」
つられてホセの薬指に目をやる。銀の指輪にはまだ乾いた血がこびりついていた。 「心配せんでも一週間後にはすべての決着がつく。銃は必ず見つけたる、道化が言うんや間違いない」
自信ありげに断言したヨンイルが、ぽろりと本音をこぼす。
「まあ、俺が勝利した暁には南と北と東に漫画喫茶つくるんは確定やけどな」
………これまでのは壮大な嘘で、それがいちばんの動機としか思えない口ぶりだった。
図書室のヌシの異名をもつヨンイルは勝手知ったる足取りで階段を上る。そのまま書架と書架の間に潜りこむのかと思えば、一階を見下ろす手摺へと腰掛ける。
早々に図書を返却した僕は、一階のホールから二階の手摺を見上げる格好で立ち尽くす。ホセは一階と二階の中間、階段の真ん中あたりに腰掛けている。
「早速用件を聞こうじゃないか。読書に費やす有意義な時間を割いて語彙の貧相な言い訳とやらを聞くんだ、退屈させないでくれないか」
高圧的に腕を組みヨンイルとホセとを睨みつければ、道化と隠者は示し合わせたように肩を竦めた。
「あせんな直ちゃん。お互いリラックスして腹を割って話そうや」
「実力勝負の決勝戦に禍根を残すのは頂けませんからね」
「知ったふうな口をきくなそこの裏切り者二名。だれのせいでレイジがあれほど荒んだと思っている?」
僕はヨンイルとホセに対し本気で怒っていた。彼らのことを軽蔑していた。
先日北と中央で起きた抗争を思い出す。飛び入り参加したホセとヨンイルの活躍により雑魚が一掃されたのは事実だが、その後の展開はだれもが予想だにしない方向に転がった。
まさか、ヨンイルとホセが僕らを裏切っていたなんて。
「……レイジは貴様らのことを、一応友人だと思っていたんだぞ」
「一応てなんや一応て」
鼻白んだヨンイルを無視して続ける。
「レイジは真意の読めない男だが、西と南のトップである君たちには心を許して一定の信頼をおいていた。同じトップとして苦労を分かち合う立場の人間だけが共感できることもある。それを君たちは台無しにした、こともあろうにレイジの眼前で、ロンに拒絶されサーシャに痛めつけられ精神的にも肉体的にも極限状態に追い詰められたレイジの眼前で堂々裏切り宣言をして!少しは時と場所を考えて裏切れ低脳ども、おかげであの後レイジがどうなったか……ホセ、君はその身をもって味わったはずだ」
冷たい眼差しで射貫けば、ホセは申し訳なさそうに頭を掻く。
「いやはや面目ございません。ですが、あれにはわけがあるのです」
「折角安田ハンにご登場願ったんや、機会を逃したら次がいつくるかわからへん。俺らに嘘つかれたて思いこんだレイジが大荒れに荒れるのは予想ついとったけど、まさかあそこまでとは……道化の失態や、王様甘く見とった。ホセの腕にナイフ命中させたときは血の気ひいたで」
「待て、思いこんだとは?君たちは実際嘘をついたんだろう、嘘をついてレイジを騙したんだろう?」
ヨンイルとホセは二人で結託して、レイジを裏切った。
最初は味方のふりをして僕たちに加勢して、安田が駆け付けた頃合に僕たちを裏切った。それが事実のはずだが、真相は違うのか?
「ところで直ちゃん、安田はんの銃はめっかったか」
二階の手摺に腰掛けたヨンイルが、足をぶらぶらさせながら質問する。
「それとこれに何の関係が……」
「見つかってへんのか。これだけ日数が経っても東棟から出てこんってことは、東の人間は白やな」
知ったふうな口ぶりでヨンイルが推理を述べれば、ホセも賢しげに頷いて同意する。
「でしょうね。もし東の人間が銃を所持していたのならそろそろ噂が流れてもおかしくないはず。いや、東の人間の手を経て他棟に流出した可能性もあるので一概には断言できませんが」
「西も白や。全部の房ガサ入れしたけど見つからん」
「南も白です。立ち入りを拒む不届き者は吾輩の弟子たちが少々手荒な真似をして排除して、すべての房を検証したんですが」
「ということは、残るは北」
名推理を披露するごとく人さし指を突き立て、ほくそ笑むヨンイル。
「直ちゃんがこないだサーシャに会いに行った理由あてたろか。北で銃さがしてええですかってトップに許可とりにいったんやろ」
「!何故それを、」
「わからんほうがどうかしとる。西と南と東が白やと仮定して、最有力候補は残る北。北は恐怖政治を敷くサーシャのもと徹底した秘密主義を貫いとるし、銃の噂が他棟に広まらんでもおかしゅうない。なんせサーシャは他棟の人間を毛嫌いしとる、黄色い肌も黒い肌もお呼びでなしって門前払い食らわせるんが皇帝のやり方」
「吾輩もサーシャくんと仲良くしたいんですが、なかなか」
「自棟の囚人が銃持ったら普通噂が流れるはずや。娯楽の少ない東京プリズンには三度の飯より噂好きな連中がうじゃうじゃしとる、隠し事がでかければでかいほど鼻のええやつが嗅ぎつけて漏出するもんなんや。それが西でも南でも北でも流れへんちゅーことは、自然な流れで北に容疑がかかる」
「黒とは申しませんが、灰色です」
「なにが言いたいんだ?」
北の人間が銃を持ってる可能性が強いと僕もおぼろげながら察しがついていた。だが僕はサーシャの不興を買った。今度北棟に足を踏み入れたら、生きて帰って来れる保証はない。確実に死ぬ。
北に再潜入するのが命知らずの自殺行為でしかない現状、悔しいが僕にとれる手段はなにもない。サーシャとの交渉は失敗に終わった、どうやって……
深刻な面持ちで考え込む僕を見下ろし、ヨンイルが軽快に宙を蹴る。
「さて問題。北でいちばん偉いサーシャが睨みをきかす中、銃をさがす方法は?」
そんな方法があるのか?
一瞬虚を衝かれたが、ヨンイルは既に答えを知ってるらしく、にやにやと僕の反応を窺っている。ホセもまた階段の座席に腰掛けてにこやかに僕を眺めている。
ふたりは答えを知っている。
ヨンイルとホセは、僕を試しているのだ。
だれあろう、この僕を。
唇を人さし指でなり、思案を巡らす。サーシャ支配下の北棟で銃をさがすには、人がいないときを狙えばいい。北棟が無人になった隙に房を改めることができれば、北の人間が銃を持ってるか持ってないかはっきりするはず。そして北棟から人を払う最も有効な手段は……
そうか、わかったぞ。
「放火か」
「「は?」」
ヨンイルとホセが目を丸くする。
「いつだったか、レイジとサムライが中央棟地下でしたように北棟でボヤ騒ぎを起こすんだ。故意に。火事ともなれば北の人間も先を競って逃げ出すはず、よって北棟にはだれもいなくなる。無人になればこっちのものだ、その隙にすべての房をすみずみまで……」
「まてまてまて!」
僕の視線の先、手摺から足をたらしたヨンイルがこめかみに人さし指をあて唸っている。とんでもない難問に直面したように眉間に皺を刻んだヨンイルが、ぐいとゴーグルを額に押し上げる。
外気に晒された双眸には、何とも複雑な色が湛えられていた。
「直ちゃん、あんた推理の才能ないわ。あれやな、金田一でいう佐木でコナンでいう小五郎」
「………人名に心当たりはないが、今のが僕に対する侮辱だということはわかったぞ」
「吾輩は従来の常識にとらわれない柔軟で斬新な発想だと至く感激しましたよ?」
ホセも誉めてない。
「コナンはすごいわー百二巻までいったんやで。まさか黒の組織のボスが三十五巻で死んだあの人やなんて」と興奮気味にまくしたてるヨンイルから話の主導権を譲り受けたホセが咳払いをする。
「他には思い当たりませんか?
サーシャくんの妨害を避け、北の人間に有無を言わせず房を捜索する方法」
考えろ、考えれば必ずわかるはずだ。天才に不可能はない。不可能を可能にしてこそ天才だ。サー・アーサー・コナン・ドイル、アガサ・クリスティー、エドガ―・アラン・ポー。古今東西の推理小説を読み漁り名探偵の思考過程を完璧に模倣した僕なら必ずや真相に辿り着けるはず。
今度こそわかった。
「わかったぞ、水責めだな。下水道の配管を破壊し北棟に水害を巻き起こすんだ。配管に障害が発生すれば水道の水が氾濫して北は水浸しになりサーシャを筆頭に囚人全員が逃げ出す、」
「とりあえず人為的災害はなしの方向で。つか配管傷付けたら北だけやなし西も南も東も水浸しやないか、んなことになったら俺が房にためとる漫画全部パアになってまうからやめてんか!」
即座に正気に戻ったヨンイルが血相を変えて抗議する。推理に煮詰まった。悔しいが、考えても考えても答えがわからず迷宮の奥深く迷い込むばかりだ。
「わからん?単純なこっちゃ」
あきれたふうにかぶりを振るヨンイル。
階段の座席に腰掛けたホセが思慮深げに顎をなでる。
「北の囚人はサーシャくんの命令に絶対服従。サーシャくんの許しを得なければ銃の捜索を行うことができません。それは何故でしょう?答えは明白、サーシャくんが北棟でいちばん強くて偉いからです」
脳裏でおぼろげながら像を結ぶものがあった。
漠然とだが、ホセが言わんとしてることは察しがついた。いまだ警戒心を捨てきれず疑惑の眼差しでヨンイルとホセとを見比べれば、僕の当惑ぶりが余程面白いのか、道化と隠者が笑み交わす。僕を翻弄して楽しむなど意地が悪いにもほどがあると憤慨すれば、二階の手摺に尻をのせたヨンイルが大仰に両手を広げる。
「北の連中がサーシャに逆らえんのは、あいつがトップやから。
ならサーシャ以外の人間がトップになれば問題ないんちゃうか?」
「……ヨンイル、君はとんでもないことを言ってるぞ」
眩暈を覚えた。さすがに僕もヨンイルとホセが言わんとしてることを完全に察した。
荒唐無稽、本末転倒、支離滅裂。
結論、ヨンイルとホセは僕が考えている以上に手段を選ばない人間だった。
その確信を裏付けるように、手摺に腰掛けたヨンイルが勢い良く宙を蹴る。
「話は簡単や。俺かホセがトップになって北を治めれば、だれにも邪魔されることなく銃さがしできるやろ?サーシャにだって文句言わせん、トップの命令は絶対やもんな」
ホセがにっこりと付け加える。
「それが東京プリズンのルール、弱肉強食の鉄の掟です。ブラックワークの正規試合で勝利すれば東京プリズンの全権を握れる、ということはもちろん北棟でも自由に振る舞えるようになる。房をひとつひとつ改めてプライバシーを赤裸々に暴こうが誰にも文句は言わせません」
「つまり君たちは、安田の銃を見つけるために、北のトップになりたいがためにペア戦出場を決めたんだな?」
「ようやくわかったか。飲みこみ悪いで」
眩暈が酷くなった。
片手で頭を支えた僕はヨンイルとホセの言葉を整理しようと試みるが、衝撃冷め遣らない頭ではますます混乱するばかりだ。つまりヨンイルとホセは、サーシャを追い落として北のトップになりたいがために参戦表明をした。北のトップになれば北棟で制限されることなく動き回れる、銃の捜索に全力投球できる。
彼らの目的は、ただそれだけだというのか?
「わからない、何故そこまでする?安田の銃さがしはもともと僕個人が請け負った依頼だ、本来なら僕ひとりで処理すべき問題なんだ。君たちがそこまでする義務はない、そこまでしてくれなんて頼んでない!
たしかに僕ひとりでできることには限界があるが君たちが余計なことをしたせいで話が大きくなりすぎ……」
「余計なこと?」
ヨンイルの雰囲気が豹変する。
人懐こい笑顔が薄まり、双眸がスッと細まる。刹那、勢い良く手摺を蹴った反動で宙に身を躍らせる。
ヨンイルの上着の裾がめくれ、はためき、素肌に彫られた刺青が目に触れる。
健康的に日焼けした腹部に毒々しく照り映える緑の鱗は、猛々しい生命の躍動を感じさせる芸術的完成度。
肢体に龍を飼った少年が、しなやかに身をよじり、二階の高さをものともせず僕の眼前に着地する。
あっけにとられた僕の方へ、大股に近付いてくるヨンイル。
「直ちゃん、大事なこと忘れとるんちゃうか。副所長から銃をスッた犯人はどこのだれや?北でもない南でもない東でもない、うちの棟のワンフーや。ワンフーが安田はんの銃スってもうた件に関しては、手癖を躾とかんかった俺の落ち度やて責められてもしゃあない。けどな、もし安田はんの銃が感心できんことに使われたら?
安田はんの銃で人が殺されたら?
それも全部ひっくるめて不始末しでかしたワンフーの責任は俺が負わなあかん。ワンフーが出来心で銃をスッた、のみならずそのへんにポイして知らん振りしたのがすべての元凶ならトップの面目丸潰れや。自分とこのガキが勝手したせいで人死に起きたらトップの面子にかかわる一大事やで、他棟に顔向けできんし最悪トップの座を返上せなあかん。そろそろマジにならな西の道化の名が廃るやろが」
尊大な大股で僕に接近したヨンイルが無造作に腕をのばし、上着の胸を掴む。
ヨンイルに胸ぐらを掴まれた僕は、体に彫られた刺青そのままに剣呑きわまりない道化の本性に息を呑む。
ヨンイルの言い分には一応筋が通っている。たしかにすべての元凶はワンフーが出来心で安田の銃をスッたこと。スリ師の血が騒ぎ出したワンフーが誘惑に負けて安田の銃に手を出したはいいものの、後始末に困って地下停留場に放置したのが一連の騒動の発端だ。
この上もし安田の銃で人が殺されたら、ヨンイルの責任は重大だ。
西の人間の監視を怠って騒動の原因を作った上に、安田の銃で人が殺傷されるのを未然に防げなかったとしたら、無能なトップの烙印を押されるのは間違いない。
どうやら事態は僕が思っていた以上に深刻なようだ。今回の銃盗難事件は安田と僕だけの問題ではなく、西棟を根底から揺るがし道化の地位を危うくする一大事だった。
僕の胸ぐらを締め上げたヨンイルが、獰猛に犬歯をむく。
剣呑に双眸を輝かせた好戦的な笑顔には、身の内の龍が発する精気が溌剌と漲っていた。
「ことは直ちゃんだけに手におえる問題やない、首突っ込んだ俺も後戻りできんとこまできとるんや。西の人間の不始末はトップの責任、中途半端で放り出すわけにはいかん。だれもが納得する形できっちりけじめつけな西の道化の評判ガタ落ちや。
安田の銃で人死に起きたらまず真っ先に責められるんはスった犯人のワンフーや。独居房送りだけで済めばまだ恩の字やけど、副所長の懐に手え出したっちゅーんは上の人間に喧嘩売ったも同然や。この先あいつが東京プリズンで生き残れる確率は低い、看守のリンチで始末されるんがオチやろ。そうなる前に銃を見つけ出して安田はんに返さんと」
「ワンフーを心配しているのか?普段はふざけて見えて情が厚いじゃないか」
ヨンイルの隠された一面を垣間見た気がした。
ヨンイルがこんなに責任が強く面倒見がよいトップだったなんて少し意外だが、それならヨンイルが西の人間に慕われる理由がわかる。
ヨンイルはきっと、西で絶大なる支持と人望を集める情の厚いトップなのだろう。どこかの王様とは大違いだ。
しかしヨンイルは、とんでもない誤解だといわんばかりに鼻で笑い飛ばす。
「アホぬかせ。俺はトップの座が惜しいだけや。万一このことがバレてトップの座を追われたらうまい汁吸えなくなる。強制労働免除特権も食堂席優先権ものうなるし、昼っぱらから図書室で漫画三昧の極楽ライフから地獄に転落や。
俺はまだまだまだまだ漫画が読み足らんのや、死ぬまで漫画読んで呑気に笑って暮らすんが野望なんや。野望の実現の為にはこれから先もトップでい続けなあかん、つまらんことでトップの座から引きずり下されロミオとジュリエットみたく手塚と引き離されるのはごめんや」
「シェ―クスピアの古典を卑近な話に引用するな、一気に俗っぽくなるじゃないか……まあいい、君の本心はわかった。だがそれならそれで何故事前にレイジに伝えておかない?事前にレイジに打ち明けておけば、彼の暴走は防げたはずだ。レイジが暴走した要因のひとつは、君たちが最悪の形で裏切った事実だぞ」
昨晩のペア戦でレイジがあれほど暴れたのも、元を正せばヨンイルとホセが最悪のタイミングで裏切りを暴露したからだ。ヨンイルとホセの目的が銃さがしにあるのなら何故レイジに秘密にする必要が……
「ご存知ですか?三は不安定な数です。公的な数、と言い換えてもかまいませんが」
ホセがにこやかに三本の指を立てる。
「二人なら生涯守り通せる秘密も、三人になればいずれ露見する。三人目を加えるのは秘密保持の観点からも感心できません。
秘密を抱えた人間が二人なら互いを監視すればいい、ですが三人ともなると全員に目が行き届かず綻びが生まれるのは避けがたい事態。
君もご存知かとは思いますが、レイジくんはああ見えてひどく単純で子供っぽいところがある。秘密を打ち明けたところでサーシャくんに知られず巧妙に隠し通せるか怪しいものです。他の人間には言わなくても、相棒のロンくんにだけはとポロッとこぼしてしまうかもしれない。それでは駄目です」
「レイジはロンロンに甘々やからなあ」
ヨンイルが殺気を引っ込めて苦笑する。たしかに、レイジがロンにひどく甘いのはだれの目から見ても明らかだ。共感をこめて頷けば、我が意を得たりとホセが笑みを広げる。
「銃を盗んだのは西の人間ですが、なにかのきっかけで南の人間に銃が渡らないとも限らない。いや、吾輩が知らないだけで現に南の人間が隠し持っているのかもしれない。憎いだれかを殺そうと日頃銃を持ち歩いてるのかもしれない。
吾輩がトップでいるあいだに発砲事件が起これば、南棟が根底から覆る混乱は避けて通れません。それは平和主義者にして博愛主義者、ワイフに生涯の愛を誓った吾輩が歓迎すべき展開ではない」
「てなわけで、ホセと意見が一致したんや。今いちばん怪しい北棟を心おきなくとっ散らかすためには、北のトップになればええんちゃうかって」
「木を隠すなら森の中。西と南が要求したのは東京プリズン全体を掌握する権利、ですが真の狙いは北棟のみ。残念ですが、サーシャくんには話し合いなど通用しない。ならばこちらも強行手段をとるしかない。北での捜索を円滑に進めるためには、多少卑怯な手を使ってでもサーシャくんにトップの座を退いてもらわなければ」
ヨンイルとホセの言い分も一理ある。サーシャには話し合いが通じないと僕も身をもって痛感した。だがしかし、あまりにやり方が過激すぎやしないか?
「それは、毒をもって毒を制すようなものじゃないか」
生唾を嚥下し、声をひそめる。道化も隠者もとんでもない、理解の範疇を超えている。
それとも僕の想像以上に、東京プリズンを構成する四棟の相互関係は危うい均衡の上に成り立っているのか?
水面下ではそれぞれの思惑や打算が複雑に絡み合い、他棟を牽制して自棟の体面を維持するためなら手段を選ばないとヨンイルとホセをして言わしめるほどに事態は逼迫してるのか?
正面に立ち塞がったヨンイルが「ちっちっち」と指を振り、威風堂々と言ってのける。
「それを言うなら『龍をもって蛇を制す』や」
龍はヨンイル、蛇はサーシャだ。
肢体に龍を飼った少年が好戦的に微笑む。僕とそう身長が変わらないにも拘わらず、とんでもなく物騒なものを孕んだ威圧感がヨンイルの体を何倍にも大きく見せる。パッと僕の胸ぐらを突き放したヨンイルが、人懐こい笑顔に戻って階段席のホセを振り仰ぐ。
「こんなもんでええか、ホセ」
「補足しましょう。
もし吾輩とヨンイルくんがレイジくんに敗北した場合は、東の人間であり副所長の銃さがしを引きうけた君自身がレイジくんに頼めばいい。まあ、それにはまずレイジくんがサーシャくんに勝利するのが前提となりますがね。吾輩かヨンイルくん、そしてサーシャくんの3トップのいずれかがレイジくんを倒せばその人間が東京プリズンの頂点に立つという噂はすでに全棟に広まっています。
逆説的に言えば、我々3トップを下せばレイジくんこそが東京プリズンのトップに立つにふさわしい人間と認められる。他のトップを下して頂点に立てばだれも文句は言えません。サーシャくんは死ぬほど悔しがるでしょうが、気にすることはない。
いかにサーシャくんがレイジくんを逆恨みしたところで、衆人環視のリングで戦って敗北した弱みがあれば、レイジくんのやることに金輪際ケチをつけられない」
「負け犬が吠えたところで恥をさらすだけや。いくらサーシャがイカレとったかてそんなみっともないことできひんやろ。一握りでもプライドが残っとったら、な」
ホセが気取った手つきで眼鏡の弦を押し上げる。分厚いレンズの奥の双眸は少しも笑っておらず、戦慄の眼光を放っている。
「この頃北の専横が目に余るのも事実ですし、牽制には持ってこいの機会です」
そうか、わかった。
すべてはレイジを嵌めるためではなく、サーシャを嵌めるために仕組まれた罠だったのだ。
衝撃の事実が次々と発覚し、愕然と立ち尽くす僕の脳裏にある疑問が過ぎる。眼鏡のブリッジに触れ、一呼吸おいて顔を上げる。内心の動揺を悟られないよう平静を装い、沈着な物腰でヨンイルとホセとを見比べる。
「……君たちがペア戦出場を決めた真の動機はわかった。だが、最大の疑問が残っている。ホセ、君はさきほど三は不安定な数だと言った。それが何故今になってそんな重大な打ち明け話をする?僕らを騙したことに対し良心が咎めて、一週間後に決勝戦を控えた今になって懺悔したくなったのか。
しかし、何故僕なんだ?レイジでもサムライでもロンでもなく、秘密を分かち合う三人目に僕を指名したんだ?」
それが最大の疑問だった。レイジが独居送りになり、ロンとサムライが入院中の現在、自由に動き回れるのは僕だけだがそんな単純な理由でヨンイルとホセが僕を選んだとはどうしても思えない。
僕が選ばれたのには理由があるはずだ。
「なんで直ちゃんに秘密を教えたかて?簡単や」
ヨンイルがなれなれしく僕の肩に手を置く。
「直ちゃんは約束破らへんやろ」
「え?」
「今のは他言無用の内緒話や。サムライにもレイジにもロンロンにも言わんといて。どのみち決勝戦が終われば俺らからバラす予定や、たった一週間黙っといてくれたらええんや」
至近距離で僕の目を覗きこんだヨンイルがにやりと笑う。
「これでも人を見る目あるんやで、俺。直ちゃん、ホンマは俺たちのこと信じとったろ?俺たちがレイジ裏切ったのには他に理由があるんちゃうかって悩んで悩んで悩みぬいて非情に切り捨てられんかったろ。
直ちゃんにだけ特別に教えたのは、おなじ手塚友達のよしみで一方的な友情の証。直ちゃんはプライド高い天才やから、周囲の凡人どもにぺちゃくちゃ人から聞いた話広めたり無節操な真似せえへんやろて信用しとるんやで」
階段席から腰を上げたホセが、ゆったりとした足取りでこちらに近付いてくる。
「昨晩、体を張ってレイジくんを止めた君の姿に吾輩いたく感銘を受けました。君に秘密を打ち明けたのは、昨晩の勇気ある行動に敬意を表した上でのささやかな返礼」
ホセが深々と頭を下げる。
「もしあのとき君が止めてくれなければ、吾輩は見境なくレイジくんを殴り殺していたでしょう。左手薬指の指輪が割れるまでこぶしを振るい続けていたことでしょう。今もこうして無事な姿で指輪が嵌まっているのは君の活躍のおかげです。誠意を尽くして感謝の念を表明せねばワイフに怒られてしまいます」
つられてホセの薬指に目をやる。銀の指輪にはまだ乾いた血がこびりついていた。 「心配せんでも一週間後にはすべての決着がつく。銃は必ず見つけたる、道化が言うんや間違いない」
自信ありげに断言したヨンイルが、ぽろりと本音をこぼす。
「まあ、俺が勝利した暁には南と北と東に漫画喫茶つくるんは確定やけどな」
………これまでのは壮大な嘘で、それがいちばんの動機としか思えない口ぶりだった。
0
お気に入りに追加
202
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。





ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる