少年プリズン

まさみ

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二百八十話

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 レイジの腕の中で朝を迎えた。

 ……誤解するな。深読みもするな。俺が言ったのはそのまんまの意味だ。
 なんらやましいところはない。
 そりゃ確かに一時の迷いというか熱のせいというか、俺がレイジに乗っかったり乗っかられたりしたの事実だが、一晩明けてレイジの腕の中で目を覚ましたときは完全に素面になっていた。昨晩の俺は熱に浮かされたように体が疼いて意識が朦朧としてたからどこまでが夢で現実かもわからないのだ。
 レイジが夜半こっそりベッドを訪ねてきたのは現実だ、その時俺はまたタジマがきたんじゃないかと警戒して衝立越しの不審者を追い返そうとした。
 衝立のカーテンに映った人影は潔く名乗りでようか引き返そうかとさんざん躊躇して俺をイラつかせたけど、いざ腹を括って衝立の影から姿を現したのはひどいなりをしたレイジだった。
 変な跳ね癖がついた茶髪と物憂げに伏せた切れ長の目、俯き加減に立ち尽くすそのさまは叱責に怯える子供のようで無敵の王様の威厳なんかさっぱり吹き飛んでいた。
 昨日はレイジと長い長い話をした。本当にいろいろな話を。
 今まで腹の底に溜まっていた澱をぶちまけるように言いたいこと言い合ったせいか、今日はすっきりと気持ちよい目覚めを迎えることができた。俺はレイジに洗いざらい本音をぶちまけてレイジも俺に悲惨な過去を話してくれた。
 俺たちは一応あれで仲直りした、のだと思う。
 なにせレイジと本気で喧嘩するのも仲直りするのもはじめてなので、未だに騙されてるようなキツネにつままれたような拍子抜けの感が否めない。ふざけあいの延長の喧嘩は日常茶飯事だけど、こんなに長くて深刻な喧嘩は十三年の人生で初体験で、鈍感で駆け引き下手な俺はとことん本音をぶつけてわだかまりをなくすしかレイジを引きとめる方法が思いつかなくて。
 なんというかその、かなり恥ずかしいやみっともないことをしたと、一夜明けてから殊勝に反省する。結果よければすべてよしと言うが、レイジの上にのしかかって股間揉んだりしたのはやりすぎだろ実際と思い返しても顔から火が出る。なにやってんだ俺と昨晩の俺を平手打ちして正気に戻させたくなる。
 他にも口に出せないことを色々したりされたりした。悪夢よけのおまじないだと適当な理由つけて額にキスされたことは前にもあったけど、舌に舌を絡める情熱的なキスは初めてで、俺は手も足も出ずレイジに翻弄されるばかりだった。貪欲な舌で口腔をまさぐられて体が蕩けるような快感を味わって、キスだけで腰が抜けそうだった。男でも女でも経験豊富なレイジのキスは巧みで、ベッドをともにする相手を悦ばす術を完璧に身につけていて、獣じみて獰猛なキスは生きながら臓物を暴かれてるような官能をもたらした。
 相手を食らって自分の体の一部にするような、貪欲なキスだった。
 飢えが極限に達して見境つかなくなってる豹に貪り尽くされそうだった。
 レイジは外に愛人百人いるとうそぶいていたが、まんざら嘘じゃないかもしれない。あれは間違いなく女を虜にするたらしのキス、誠意なんかかけらもなく口先だけで愛を囁く性悪男のキスだ。レイジの唾液にはサーシャに含まされた麻薬が溶け残っていたのか、口移しで唾液を飲まされた俺まで酔ってしまった。
 体がふわふわ浮ついて、まどろみの靄が頭に纏わりついてたのはそのせいだ、きっと。
 ……いや、レイジのキスがいかに達者だったかなんてそんなことはどうもでいいんだ。しっかりしろ俺。
 そんなわけでとやや強引に話をまとめるが、俺は今朝、レイジの腕の中で目覚めた。男の腕の中で朝を迎えるなんてしょっぱいなと客観的には思わなくないが、レイジに一晩中抱擁されていた俺は、しなやかな胸板に顔を埋めて、鉄錆びた血の匂いと汗とがまじりあった獣じみた体臭をかぎながら眠りに落ちて、自分を包み込んだ人肌のぬくもりに安息を感じていた。
 レイジは一晩中俺を手放さなかった。豹が猫を抱くみたいにして、小柄な俺の体に両手を回して、無防備に油断した寝顔を晒していた。はっきり言って、笑えるくらい間抜けヅラだった。幸せな夢でも見てるのか、頬と口元が柔和に緩んでくすぐったそうな笑みが浮かんでいた。
 俺はあえてレイジを起こさなかった。
 一瞬レイジの腕をどかそうかと体を起こしかけたが、無意識に非難するように不機嫌そうに唸ったのでやめておいた。寝た子を起こすな、さわらぬ豹に祟りなし。レイジは負傷した体でペア戦に出場して疲労が極限に達しているのだ、大人しく寝かせておいてやろうと、レイジのしたいようにさせて俺もふたたびベッドに横たわる。
 目と鼻の先にレイジの顔があった。
 睫毛と睫毛が縺れそうな至近距離に、口から涎をたらしたレイジの寝顔がある。俺の体にゆるやかに腕をまわし、ちょうど俺の肩に顎をのっけるようにうつ伏せたレイジが、むにゃむにゃと寝言を呟く。
 『愛してるぜロン』
 聞き飽きた口癖が、なんだか妙に面映くて。
 普段の俺なら怒り狂って叩き起こしてるところだけど、今日ばかりは気が済むまで寝かせてやることにした。仲直りした翌朝くらい、いいよな?男とべったりひっついて眠るのは気色悪いけど、レイジの体温は不思議と不快じゃなくて、だれかに庇護されてるみたいで心強くもあった。自分はひとりじゃない、という実感とでもいえばいいのだろうか。奇妙な安らぎに満たされて、レイジの規則正しい寝息に誘われ瞼を閉じる……
 『……今度抱かせて』 
 前言撤回。だれがレイジの腕の中で安らげるか、貞操の危機だっつの。
 こいつほんとに寝てるのか、意識があるんじゃないかと勘繰ってみたが鼻腔に手を翳して確認したところ本当に眠ってるらしい。爆睡。なんというか、夢の中でも節操がない男だとほとほと呆れた。
 『……100人抜き達成したらな』 
 寝言に律儀に返し、苦労して毛布をたくし上げる。レイジが上になってるため、自然とレイジの背中を覆う格好になった。レイジの背中に毛布を引き上げた俺は、とりあえず二度寝をすることにした。見ていて気持ちいいくらいに爆睡してるレイジはもうしばらく起きそうにないし、正直俺もまだ瞼が重かったのだ。
 だが次に目覚めたとき、レイジの姿はどこにもなかった。
 レイジが俺の上から忽然と消えてたときは、不安になってきょろきょろあたりを見まわして姿を捜し求めたが、レイジの姿は医務室のどこにも見当たらなくて、ひょっとしてあれは都合のいい夢だったのかと落胆した。だが、医者の話によるとレイジは昨晩たしかに俺のベッドで寝ていたらしい。
 ……医者にまで目撃されてたのかよ、と赤面したのは言うまでもない。
 俺が最初に目覚めたとき、まだ夜明けは訪れてなかった。医務室は暗かった。二度目に目覚めたときはもう昼近くて、医務室はすっかり明るくなっていた。
 医務室では歩いて食堂に行けない患者のために、係の看守の手で遅い朝食が配膳される。
 冷や飯という言葉がそぐわしい粗餐がワゴンに乗って届けられる頃には、大半の囚人は寝ぼけ眼をこすりながら起き出している。俺も例外ではなく、朝飯が届く頃にはベッドに上体を起こして、係の看守から押しいただくようにトレイを受け取った。
 現在、医務室に入院中の患者は少ない。
 医務室には閑古鳥が鳴いていて、医者はしょっちゅう居眠りをしてるという噂がまことしやかに流れているが、それにも一応ワケがある。左手首の骨折や右足首の捻挫、どこそこの骨にひびが入ったくらいでは東京プリズンでは怪我のうちに数えられず、強制労働を抜けられないのは常識。折れた足をひきずって医務室を訪ねたところで「完治三日だね」とすげなく追い返されるのが目に見えてるから、だれも最初から医務室を訪ねたりしないのだ。
 入院を許可されるのはつまり、捻挫や骨折以上の大怪我をした囚人に限られる。俺の場合は肋骨の骨折と全身十三箇所の打撲だが、もし肋骨が折れただけだったら入院の許可がでたか怪しいもんだ。サムライは太股を十五針縫う重傷で、大動脈すれすれを掠めていたから大事をとって入院を言い渡されたが、本人は至く不満げなご様子。
 来週の決勝戦までに、退院が間に合いそうもないのが悔しいのだろう。
 器用に箸を操るサムライの食事風景を眺めながら、毛布で覆った膝にのせたトレイから椀を持ち上げ、口をつけて啜る。今医務室にいるのは、俺とサムライの他にはつい先日の渡り廊下の抗争で重傷を負った北の囚人七名だが、俺たちのベッドからは幾重にも衝立を隔てて遠く隔離されている。まあ、渡り廊下では敵同士だったし、七名のうち何名かは俺の隣のサムライに骨を砕かれたか内臓を破裂させられたかしたわけで、医務室で乱闘を起こしたくなければベッドを隔てるのは妥当な処置といえよう。
 俺もまあ、なるべく距離が離れてたほうがいざこざに巻きこまれる恐れなく安心して眠れる。  
 薄味の味噌汁を啜りながらちらちらと隣のサムライを窺う。眉間に縦皺を刻み、常と変わらぬ渋面を作りながら器用に焼き魚を開いて骨を取る箸さばきのあざやかに見惚れる。
 さすが純血の日本人は違う。サムライはこんな時でもぴんと背筋が伸びていて、ベットに座した姿も目に染みるように凛々しい。
 サムライの手元に視線をやりながら、箸をくわえ、声をかける。
 「……なあ、サムライ。レイジどこ行ったか知らね?」
 サムライの動きがぴたりと止まる。うろんげにこちらを向いた目にはわずかばかりの動揺の色。
 「今日起きたら俺の上からいなくなってたんだ。薄情だよなアイツ、なんにも言わずにひとりで帰っちまったのかよ?最初に起きた時は上にいたのに、日が高くなってから起きたら体が軽くなってて、あれ、変だな?って思って毛布のけたら跡形もなくって……夢でも見てたのかなあ俺」
 箸をしゃぶりながら首を傾げる。
 「お前はどうだ?昨日レイジが入って来たとき起きてたか。起きてたんなら気付いたはずだよな。それに今日だって俺より早起きなんだから、レイジが出てくときには当然気付いたはずだよな。レイジ何か言って……」
 「レイジから聞いてないのか」
 「え?」
 サムライの深刻な声音に動揺し、口からぽろりと箸がこぼれる。虚を衝かれた俺を目の端で窺いながら、サムライが気を取り直して焼き魚を切り分ける。
 「な、なんだよ。レイジがどうかしたのかよ、まさかあいつまたなんかやらかしたのか!?」
 「独居房に入れられた。期限は一週間だそうだ」
 「は!?」
 寝耳に水だ。衝撃で気が遠くなり力が抜けた手から椀が落ちそうになる。独居房?なんでレイジが独居房へ?あいつ一体なにしたんだよ、昨日はそんなこと一言も言ってなかったじゃねえか!まさかまた俺に心配させまいと気を遣って独居房送りのこと伏せてたのかよあの野郎!!
 「くわしく聞かせろよサムライ、なんでレイジが独居房にぶちこまれてんだよ!?正気かよあいつ右腕怪我してんのに、前だって知ってるだろその目で見ただろサーシャにナイフでぐさっとやられたとこ!怪我人独居房に放りこむなんて安田は鬼かよあの冷血メガネ、ちょっとは囚人の話がわかる副所長だって信頼してたのに!」
 「レイジは昨夜リング上で対戦相手を失明させ、続いて出場した南のトップに重傷を負わせた。ほか、場外の野次馬二名を殺傷して地下停留場を大混乱に陥れた」
 「…………………………………………………マジで?」
 「マジだ」
 サムライは真顔で首肯する。箸を握ったまま俺は混乱していた。
 レイジが地下停留場で大暴れした。
 準決勝が行われたリングでキレて暴れて対戦相手に重傷を負わせて、場外の野次馬にまで手を出した。
 そりゃ、独居房行き確定だろう。
 「詳しくは知らん。俺が実際この目で見たわけではない。レイジが独居房送りになった経緯はすべて鍵屋崎から聞いた」
 「鍵屋崎もここに来たのか?」
 「昨夜な。お前たちが睦まじく添い寝した頃に」
 「添い寝って言うな」
 「ならば訂正しよう。お前がレイジの腕に抱かれて寝た頃に」
 「……わざとやってるのか?お前キャラ変わってるぞ」
 咳払いでごまかしたサムライの横顔を注意深く盗み見て、そういやこいつはどこまで知ってるんだろうと急激に不安になる。昨夜は久しぶりにレイジに再会した興奮で、俺自身取り乱して、とんでもないことを言ったりやったりした。今思い返しても顔から火が出そうだ。隣のベッドから反応がなかったからてっきりサムライは寝ているのだと思いこんでいたが、もし起きていたのだとしたら……
 まともにサムライの顔が見られない。
 「ロン」
 ふいに名を呼ばれ、びくんと肩が強張る。
 「俺とてこんな無粋なことは言いたくないが、今後ああいうことをするときは余所でやってくれ」
 ああいうことってどのことだ!?
 一体なにをどこまで知ってるんだこの好色侍吐け、いや吐くな、黙っといてくれ永遠に!
 俺とはけして目を合わせず咳払いしたサムライが、焼き魚の身をほぐしながら逡巡する。言おうか言うまいか迷ってる視線の揺れに悶々と妄想が膨らんでドキドキしてくる。
 「なんだ。その。眠れん」
 平静を気取った横顔とは裏腹に、内心の動揺をごまかすように箸の先端で焼き魚の身をほじくりかえしながら、意外と純情なサムライが言った。

 レイジが独居房送りなったなんて、知らなかった。
 あいつなんで俺には一言も言わないんだよ。試合結果だって教えてくれず、肝心なことはなにひとつ言わず行っちまってよ。気まぐれ猫科の性質と言っちまえばそれまでだが、きのう腹を割って話し合ったばかりの俺は納得できない。
 遅い昼食を終えたあと、ベッドに上体を起こした俺は、憮然と本を読んでいた。本、と言ってもヨンイルがさしいれた漫画だ。だがページをめくれどもめくれどもちっとも内容が頭に入ってこない、こんなこと言ったら鍵屋崎に「理解力不足が原因だ、低脳め」と笑われそうだがそれは違う。俺が漫画に集中できないのは、憑かれたようにページをめくりながらもレイジのことを考えているからだ。
 レイジが昨日、ペア戦ではでに暴れたことはサムライから聞かされた。
 暴君の時代に逆戻りしたレイジは血ぬれたナイフを振りまわして地下停留場を恐怖のどん底におとしいれて、世界の終焉を予言するが如く狂気の哄笑をあげたという。
 だが、俺に会いに来たレイジはまともだった。まあ、口にナイフを突っ込まれたり枕を裂かれたりしたがあれはまだ正気の範疇だろうと無理矢理納得する。
 サムライは多くを語らなかったが、レイジが正気を取り戻せたのはたぶん、鍵屋崎のおかげだろう。
 鍵屋崎がそばにいたからレイジは正気を保てた、暴君から王様に戻ることができた。それくらい俺にもわかる。鍵屋崎がついててくれなきゃレイジはあっち側に行ったまま戻って来れなくて、今ごろレイジは俺と再会することなく独居房に放りこまれて、完全に壊れちまってたはず。
 レイジのことは心配だが、今は信じるしかない。ベッドから動けない無力な俺には、相棒の無事を祈るしかできないのが悔しいかな現状だ。レイジはしぶとくしたたかだから、一週間くらい独居房でも余裕で耐えぬいてくれると信じよう。
 そして一週間経ったら。
 ……いや、一週間後のことはおいとこう。先走るのは俺の悪い癖だ。唇を噛んで焦慮を散らし、膝に広げられた漫画のページに目を落とす。  
 バタン、とドアが開く。迷いなく室内を突っ切る足音。
 「入るぞ」
 シャッとカーテンが引かれ、鍵屋崎が顔を出す。大人しく漫画を読んでた俺は、急に声をかけられびっくりする。が、鍵屋崎はおかまいなしにずんずん踏み入ってくるや、高圧的に腕を組み、俺の身のまわりを見まわす。
 「見舞いに来たのか?」
 俺の間抜けな質問を無視し、鍵屋崎が片手を突き出す。要領を得ない顔でその手のひらを見下ろせば、焦れた鍵屋崎が催促する。
 「忘れたのか?君に以前貸したハイデガーの哲学書の返却日だ。カードにも記してあったはずだが」
 「あ」
 忘れていた完全に。どこにやったっけ、と慌てて毛布をめくりベッドの周囲を改めれば、ベッドの下の床に本が落ちていた。
 ふっと埃を吹き散らした本を鍵屋崎に手渡し、とってつけたような笑顔で礼を述べる。
 「謝謝、為になった。おかげさまで少し頭がよくなった気がする」
 「何ページ何章何行目が為になったと言うんだ?」 
 ……まずい。
 本を抱えたままあさっての方向に視線を逸らせば、鍵屋崎がきつい目で睨んでくる。
 「質問がある。何故この本は埃をかぶっていた?本の状況を分析するに最低一週間はベッドの下に放置されていたように見えるが、それは日焼け防止策か?まさかありえないとは思うが、君はこの僕が入院中の気晴らしに、時間を有意義に使うようにと貸し出した哲学書を1ページも読みもせずベッドの下に放置していたというのか」
 「人聞き悪いこと言うなよ、ちゃんと読んだっつの」
 「感想を四百字以内で簡潔にまとめよ」
 「むずかしかった」
 やばい、簡潔すぎた。
 思ったとおりだ、と憂わしげにため息をついた鍵屋崎が本を受け取り表紙を開き、その瞬間気色ばむ。
 「……貴様、これは人類の叡智に対する冒涜だぞ」
 鍵屋崎が俺の鼻先に突き付けた本の1ページ目は、なにかが濡れて乾いたあとのように皺が寄っていた。
 「放置するだけならまだしも、本を枕にして寝たのか。この涎のあとが何よりの証拠だ」
 「降参、名探偵。おっしゃるとおりだよ、でも一応読もうとしたんだって、1ページ目で挫折したけど……だいたいこんな難しい本読めるわけねえだろ、今度来る時は漫画もってこいよ漫画それかエロ本!!」
 「漫画ならヨンイルが持ってきたのがあるだろう、たまには字のある本を読めこの低脳が」 
 いつのまにか凡人から低脳に格下げされてた。畜生。
 「知るかよハイデガーなんて、何人だよそいつ!?見舞いにきたんなら患者が喜びそうなもん持ってこいよ、天才ならちょっとはそのへん気ィ利かせろよ使えないメガネだな!」
 「マルティン・ハイデガー、哲学者。1889年~1976年。20世紀のドイツ哲学と実存主義に寄与をした人間。フッサールの助手を勤めながら古代ギリシャ、キルケゴール、ニーチェなどの哲学をもとに独自の思索を展開しヘルダーリン等の詩を研究……」
 「だれが作者の履歴解説しろっつったよ、それはそーと読書意欲失せる解説だなおい!?」
 肩を荒げながら淘淘と解説する鍵屋崎を遮れば、物足りなさげに口を閉ざした鍵屋崎が、哲学書を小脇に抱えて首を振る。
 「……君のような低脳に高尚な哲学を理解しろとは、酷な要求だったな。僕としたことが、迂闊だった」
 「それはそれで腹立つなあ」
 そもそも鍵屋崎との会話で腹が立たなかった試しがない。とてつもない疲労をおぼえてベッドに沈みこんだ俺の枕元で、鍵屋崎はぱらぱらとページをめくっていた。怜悧な知性を宿した切れ長の目を細め、難解な哲学書を斜め読みする姿はとても大人びて見えた。
 「鍵屋崎」
 そんな鍵屋崎に、迷った末に声をかける。
 「なんだ」
 本から顔も上げず鍵屋崎が促す。
 大きく深呼吸し、口に出す前に言葉を整理する。言いたいことはたくさんあった。鍵屋崎は昨晩、暴走したレイジを止めてくれた。鍵屋崎がついてたからこそ、レイジはこっち側に戻ってくることができた。
 俺は鍵屋崎に感謝してる。
 レイジを助けてくれてありがとうと、救ってくれてありがとうと、相棒の立場からちゃんと礼を言いたい。それが俺なりのけじめだ。
 読書に没頭する鍵屋崎をよそに喉で息をため、吐く。
 よし、決心がついた。
 「……謝謝。レイジのこと、ちゃんと連れ帰ってくれて」
 鍵屋崎がはじかれたようにこっちを見る。ばつ悪げに顔を伏せた俺は、膝の上の漫画を読むふりをしながら慌しくページをめくる。
 「あのさ、俺がこんな偉そうなこと言うのもなんだけど、お前ちゃんと役に立ってるぜ。なにもできなくなんかねえよ。お前がいてくれなきゃ俺たちとっくにバラバラだよ。サムライとレイジが喧嘩したときもそうだし俺たちが喧嘩したときもそうだ。お前が必死に仲取り持ってくれなきゃとっくに崩壊して、100人抜きなんか半分も達成できなかった。ええとだから、うまく言えねーけど」
 ああくそ、改めて言うと面映い。頬に血が上るのを感じながら焦りに焦ってページをめくる。俺はただ鍵屋崎に伝えたいだけなんだ、お前はちゃんと役に立ってるって、なにもできなくなんかないって。俺は薄々勘付いていた鍵屋崎も俺とおなじ、無力感に苛まれて苦悩していることを。
 強すぎる相棒をもつと、自分の存在意義がわからなくなる。
 相棒の足を引っ張るだけの役立たずの自分に嫌気がさして、自分なんかいないほうがいいんじゃないかと自己嫌悪の悪循環にとらわれてしまう。鍵屋崎は攻撃的な毒舌で悟られまいとしてるけど、サムライと並んだ時に見せる不安げな表情や心細げな目つきから、鍵屋崎が相棒に対して引け目を感じてることが如実に伝わってしまう。
 俺もおなじだから、鍵屋崎の気持ちはよくわかる。
 でも、鍵屋崎はけして無力でもなければ非力でもない。鍵屋崎はいつだって精一杯自分にできることをやっていた。レイジとサムライが仲直りできたのは鍵屋崎の説得あってこそだし、レイジと俺が仲直りできたのもまた、鍵屋崎が陰で心を砕いてたからだとサムライに教えられた。
 鍵屋崎は、立派に俺たちの仲間だ。
 そう面と向かって言うのは照れるから、かわりに。
 「鍵屋崎。お前もう、立派にサムライの相棒とレイジの調教係を名乗れるぜ」
 「……レイジの調教係に適任なのは君だろう。僕に世話を押しつけるな」
 本を閉じた鍵屋崎が柔らかく苦笑する。鍵屋崎でもこんな笑い方をするのか、と一瞬目を奪われた。冷笑と蔑笑しか知らない俺には、その笑顔はひどく新鮮に映った。 
 こいつ笑うと子供っぽくなるな、と妙に感心しながら鍵屋崎の顔を見上げていたら、不躾な視線に気分を害した鍵屋崎がブリッジを押し上げるふりで表情を遮る。
 「サムライの相棒、レイジの調教係……じゃあ僕は、君の保護者か」
 「あん?調子にのるなよ自称天才。ガキ扱いすんな、俺はもう女も知ってる一人前の男だっつの」
 「怪我人のくせにずいぶん威勢がいいな」
 気色ばんだ俺に肩を竦めた鍵屋崎の背後で、ドアが開き、バタンと閉まる。
 「いやはや困りました、片腕が使えないと案外不便ですねえ。日常生活にも支障がでますし可愛い弟子たちにボクシングの特訓もつけられません。レイジくんもずいぶん無茶したものです、まあ顔を狙わなかったぶん手加減してくれたのかもしれませんが……吾輩は逆に感謝すべきですかね?ワイフと再会したときに面相が変わっていればすぐに見抜いてもらえるかどうか。
 おやいけない、吾輩としたことが弱気なことを!吾輩とワイフの夫婦愛は無敵、強い絆で結ばれた夫婦なら片目が潰れていようが鼻がなくなっていようがすぐにわかるはず!と、そう信じることが大切です」
 「大袈裟やなあ、ちょいとナイフが刺さっただけやないか。ぐさっと。心配せんでもすぐに両腕使えるようになるわ、見た目ははでやけどたいしたことないて医者も太鼓判押しとったやろ。心配せんでも一週間後の決勝戦、は無理やけど二週間後には包帯とれて……」
 騒々しい話し声が医務室の平穏をかき乱す。 
 足音の接近に伴い、鍵屋崎の顔が険悪になり、雰囲気が硬化する。
 なんだか雲行きが怪しい。間違いなく、医務室に乱入した二人組が原因だ。ひやひやしながら鍵屋崎と衝立の向こうとを見比べる俺の耳に、底抜けに明るい声が響く。
 「ホセの診察のついでや、見舞いに来たったでえーロンロン」
 シャッとカーテンが引かれ、招かれざる客人がぬっと顔をだす。
 いやな予感、はいつも的中する。
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