少年プリズン

まさみ

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二百七十六話

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 「幸せになじゃねえよ」
 長い、長い話が終わった。
 衝撃的な告白だった。俺はまだその衝撃から立ち直れなくて、腰を抜かしたようにベッドに座りこみ、膝の上でこぶしを握りしめてる。
 レイジは年端もいかないフィリピン娘が米兵に強姦されてできた子供だった。産まれてすぐへその緒で息の根止められる運命の子供だった。レイジがたまたま生き長らえたのはたんなる偶然でほんのささいな出来事がきっかけで、母親にむかってくしゃっと笑いかけたからだ。
 羊水の皮膜に包まれた猿みたいな赤ん坊が、ただでさえくしゃくしゃな顔をもっとくしゃくしゃに崩して母親に笑いかけた。無邪気で無防備で無垢な笑顔。
 だからレイジのお袋はレイジを殺せなかった、へその緒を首にかけた手が止まっちまった。
 レイジは自分でも覚えてないたいした意味もない笑顔に命を救われた。
 笑わなきゃ、生きてけなかったのだ。
 『Because I laugh, do not kill me』
 今ならレイジの寝言の意味がわかる。十字架の鎖が首に絡んで寝苦しく身悶えて、眉間に悩ましげな皺を寄せたレイジが英語で哀願したわけが今ならわかる。笑うから殺さないでくれ。あれは母親に向けられた言葉だった。笑顔を代償にさしだすから命を助けてくれと、自分を愛してくれという痛切な懇願。レイジは物心つく前のガキから笑わなきゃ生き延びれない環境で育って、物心ついた時には笑顔が習性になって、人を殺したときも母親にぶたれたときも顔から笑みがとれなかったのだ。
 それは、どれだけ深い絶望だろう。どれだけ救いのない地獄だろう。
 俺には想像もつかない。想像することもできない。俺の幼少期もそりゃ惨めでさんざんだったが、レイジに比べりゃ全然マシだ。レイジの過去と比べるのもおこがましい。お袋はガキの前でも平気で男と乳繰り合うとんでもないあばずれで酒乱の淫売で、男にフラれた気晴らしにベルトを持ち出しては俺を痛めつけた。
 両手でひしと頭を庇って鼻水たらして泣き喚くことしかできない俺に、殴る蹴るの容赦ない暴力を振るうことで憂さを晴らしていたのだ。
 俺はお袋が憎い。大嫌いだ。許せない。でも、やっぱりおなじくらいの比重で、いや、それ以上の比重でお袋のことが好きだった。お袋に振り向いてほしかった。
 レイジと一緒だ。
 レイジのお袋が裏切られても裏切られても神に救い求めて縋り続けたように、レイジは報われなくても報われなくても笑い続けた。それは俺とおなじだ。どこも違わない。
 そしてレイジは、今また俺と別れようとしてる。
 俺のそばからはなれる決心固めて、俺に最後の言葉を告げたつもりでいる。
 どこまで身勝手なんだよ。
 「幸せにな、じゃねえよ!!」
 自制心が吹っ飛んだ。目の前が憤怒で真っ赤になってこれ以上憎しみが抑えつけられなかった。
 「幸せにな?なんだよそれ、格好つけやがって、最後まで気障に決めやがって!
 自分勝手も大概にしろよ、お前それでけじめつけたつもりかよ、俺と別れられたつもりかよ!?」
 「ロン、」
 「お前なんで今夜ここにきたんだよ、俺と仲直りするためじゃなくてちゃんと別れ告げるためだったのか、俺が素面でいるときに改めてフリにきたのかよ!」
 俺は混乱していた。脳裏にはレイジに聞かされた悲惨な過去の光景が悪夢みたいに焼きついてる。途中何度も吐き気に襲われて耳を塞ぎたくなった、知らん振りしたくなった。 レイジの口から語られたのはリンチで殺された黒人がポプラの木に吊るされるよりずっと救いのない現実で、俺はそんな現実見たくも聞きたくも知りたくもなかった。でも俺が目を閉じようが耳を塞ごうが現実は変わらずそこにあって、レイジの過去は変わらなくて、レイジの狂気を癒す術も見当たらない。
 正直、俺はまだレイジの過去を消化できてない。悲惨すぎる出生を明かされた直後で、心が拒絶反応を起こしてる。
 でも。
 レイジは「後悔しないか」と聞いた、俺は「後悔しない約束はできない」と即答した。だが「嫌いにならない約束をする」と力強く請け負った。レイジを安心させようと首肯したのは否定しないが、それ以上にあれは本音だった。レイジの過去がどんなに悲惨で救いがなかろうが、俺はレイジを嫌いにならない。レイジがどんなに狂っていたところで、嫌いになれるはずがない。
 だって、レイジはレイジなのだ。俺の大事な相棒なのだ。
 だから俺はなおさら悔しい、なおさら悔しくてやりきれない。レイジはもうすっかり俺と別れるつもりでいる、それが俺のためだって身勝手に決めつけて俺のもとを去ろうとしてる。
 幸せにな?ふざけんな。愛してたぜ?過去形かよ、今はどうなんだよ。
 「ふざけんなよっ、勝手に思い詰めて勝手に結論だすんじゃねえよこの馬鹿が!!
 俺のこと傷付けたくないから俺の前からいなくなるってどうしてそうなんだよ、お前の名前が憎しみだからどうだってんだ、たかが名前じゃねえか、たかが名前に服従すんじゃねえよ王様!」
 「キーストアとおんなじこと言うんだな」
 俺に襟首掴まれたレイジが苦笑した。笑いより苦味が勝った笑顔だった。諦観を目に宿したレイジに胸かきむしられて、俺は肋骨の痛みも忘れてレイジの胸ぐらを両手で締め上げる。
 「お前はそれでいいのかよ、俺のためとかいいわけして自分の気持ちごまかしてそれで後悔しないのかよ?お前俺のこと好きなんだろ、俺を抱きたいんだろ。
 ほんとはずっと俺と一緒にいたいんだろ、俺のダチでいたいんだろ、俺の隣で笑ってたいんだろ。じゃあそうしろよ、ずっと一緒にいろよ、俺のダチでいろよ、俺の隣でへらへら馬鹿みたいに能天気に笑ってる東棟の王様でいてくれよ!!」
 上着の胸ぐらを両手で掴んで一息にぶちまければ、大人びた苦笑を浮かべたレイジが優しく俺の頭を撫でる。言うことを聞かないガキをなだめるような動作だった。
 「困らせるなよロン。駄目なんだってそれじゃ。俺は我慢がきかないから、手加減できないから、いつかお前を殺しちまうよ。
 お前のことが死ぬほど大事で好きなのに、俺以上に大事なのに、いつかみたいに髪引っ張られただけでブチギレて腹に蹴りいれて今度こそ内蔵破裂させちまう。お前だってほんとは俺が怖いくせにいきがるなよ。
 お前にはいいトモダチがいるだろ。キーストアはすげえともだち思いの頑張り屋で、サムライはすげえ頑固だけど実は思いやり深いヤツだ。
 あいつらがいるなら、安心してお前の前からいなくなれる」
 「綺麗にまとめようとすんなよ!!」
 なんでわかってくれないんだレイジ。なんでそんなにわからず屋なんだよ。
 レイジの胸に縋って、吠える。
 「お前の代わりなんかだれもいねえよ、俺にはお前だけなんだよ、お前がいなくなったら寂しいよ!!」
 「……いい加減にしないと怒るぞ。これ以上世話焼かせんな。いい年して駄々っ子の真似かよ」
 レイジの声が低まり、スッと目が細まる。酷薄な眼光に射貫かれ、背中に戦慄が走る。
 
 「俺と一緒にいたら不幸になるぞ」
 「お前と一緒じゃなきゃ幸せになれねえよ!!」
  
 レイジは自分の価値を低く見過ぎだ。
 レイジがいなきゃ、俺の幸せは考えられないのに。
 虚を衝かれたレイジの胸に顔を埋め、かすれた声を吐き出す。
 「ああそうだよ、俺はお前が怖いよ。腹に蹴り入れられたときはマジで殺されると思った。すげえ痛かったよあの蹴り、胃袋破裂したかと思った。だからなんだよ?俺だってキレるよ。キレておまえに当り散らすことあるよ、お互いサマじゃねえか。お前だけが特別じゃねえ。お前がそばにいないと寂しいんだ。もうどこにも行ってほしくない。サーシャのとこなんか行くなよ、ずっと俺のそばにいろよ。もう一人ぼっちはごめんなんだ」
 「ロン」
 俺の肩に手をかけ強引に引き剥がしにかかりながら、レイジが有無を言わせぬ口調で断言する。
 「俺は人殺しだぜ」
 「俺も人殺しだよ」
 間髪入れず言い返せば、俺をどかそうとしたレイジの手が止まる。 
 「そうだ。俺は人殺しだ。お前だけが特別なわけじゃない、それが漸くわかったんだ。俺達は人殺しだ。だから東京プリズンで出会えた。俺たちの出会いはたくさんの人の命の上に成り立った偶然で、だれからも祝福されるもんじゃないけど、でも俺は、お前と出会えて嬉しい。心の底から嬉しい。ああそうさ、何度だって言ってやる。だれに罵られようが蔑まれようが地獄に落ちようが、東京プリズンでダチができて嬉しいって喉すりきれるまで叫んでやる。罰あたりで結構だ」
 俺の肩に手をかけたまま、信じ難いものでも見るように硬直したレイジの目を少しも怯むことなくまっすぐ覗きこみ、この一年半、ずっと胸の内にしまっていた本音を探り当てる。
 暗闇に沈んだレイジの瞳は深く神秘的な色を湛えていた。
 虚無の深淵めいて底知れない目に魅入られるように、俺はレイジの胸に上体を預け、肩に手をかける。

 「お前と一緒なら、地獄だって悪くない」

 そして、のしかかるようにレイジを押し倒す。
 肩に手をかけられ、背中からベッドに寝転んだレイジの腰に跨り、抗議する暇も与えずその首筋にキスをする。塩辛い汗の味。自分から男にキスするのは初めてだ、いつもはレイジが先だった。レイジの腰に跨ったまま上体を起こし、上着の裾をめくりあげる。外気に晒されたのはしなやかに引き締まった腹部。淫らな痣やひっかき傷やみみず腫れが刻まれた腹部に一瞬怯むが、はげしくかぶりを振って、へその下あたりに顔を埋める。
 「ロンお前なにやってんだよ、騎上位は大胆すぎだろ!?」
 レイジがなにか吠えてるが無視する。俺は必死でそれどころじゃない。へその下の青痣を丹念に唇で辿り、舌で舐める。サーシャの痕跡を消したい一心で体中の痣や傷痕におずおずと舌を這わしていけば、稚拙な舌使いに快楽よりも戸惑いが先行したレイジが、俺の頭を片手で掴んで引き離そうとする。
 「やめろ、よ……無理すんなよ。お前が俺攻めるの無理だって!」
 「犯ってみなきゃわかんねえだろ!!」
 「わかるっつの、体格差と経験値の差を考えろよ!大体お前あんなに男と寝るのいやがってたじゃねえか、女のほうがイイって言ってたくせに俺の腹に顔埋めてなにやってんだよ!?」
 レイジの抵抗がはげしくなり、不意をつかれた俺は腰から振り落とされ、背中からベッドに倒れこむ。 
 ベッドに肘をついて上体を起こそうとすれば、スプリングが軋み、頭上に人影が覆い被さる。
 俺の上にレイジがいた。
 形勢逆転、最前まで俺がしてたのとまったくおなじ格好で俺の腰に跨ったレイジが冷ややかに笑う。
 「……聞き分けないガキだな。そんなに俺とヤりたいのかよ、まるでサーシャだな」
 サーシャ。その名を引き合いにだされ、体が嫌悪に強張る。
 「いいよ。これが最初で最後だ。そんなに俺とヤりたきゃ抱いてやる。女抱くのとは比べ物にならないくらいめちゃくちゃ気持ちよくさせてやるから、それで諦めろよ」
 「!レ、」
 ふたたび唇を奪われた。
 唇をこじ開け強引に割りこんできた舌がむさぼるように口腔を蹂躙する。レイジをどかそうと両手を振り上げかけ、その手を途中でおろす。顔の横に両手を寝かせ、体の力を抜き、レイジのしたいようにさせる。
 獣みたいなキスだった。二人分の唾液がまざりあい口の端からたれてシーツに染みを作る。息ができなくて苦しかった。さっきのキスなんか比べ物にならないくらい濃厚で獰猛で、生きながら食われてるみたいだった。レイジの唾液にはまだ麻薬が残ってるのか、喉を鳴らして嚥下したそばから体が火照ってきた。認めるのは癪だが、俺の体はレイジにキスされて切ないくらいに疼いてる。 
 レイジが犯りたいなら、犯らせてやる。
 諦観なのか絶望なのか、俺はすっかり抵抗する気力を失っていた。もうどうしたらいいかわからなかった。俺の言葉はレイジに通じない。レイジは俺を傷付けたくないから、俺をいつか自分の手で殺しちまうのが怖いから俺のそばからいなくなるつもりだ。俺はレイジに体をさしだして引きとめるしか方法が思い浮かばなくて、そんな自分がみじめで情けなくてやりきれなくて悔しくて、でもレイジが俺から離れていっちまうのはもっと怖くて、固く目を瞑り、爪を手のひらに食いこませ、レイジのキスに応じる。
 巧みな舌使いで口腔をまさぐられて頭に霞がかかったように意識がぼんやりしてくる。
 いろいろなことを思い出す。お袋。メイファ。鍵屋崎。サムライ。息が苦しい。窒息の苦しみに生理的な涙が滲む。俺はレイジになにをしてやれるんだろう。レイジの相棒として、なにをしてやれるんだろう。
 本当にこの方法しかないのか?
 口腔から舌が抜かれる。精一杯舌に舌を絡めてキスに応えたつもりだけどレイジの方が一枚も二枚も上手で、俺は巧みな愛撫に翻弄されるばかりだった。キスだけで体が溶けそうだった。おかしい、男とキスするなんて以前は考えられなかったはずなのに今はどうでもいいやと思える。  
 「なんで抵抗しないんだよ」
 俺の腰に跨ったレイジが途方に暮れたような顔で、哀しそうに呟く。
 伏せた睫毛が硝子の双眸を翳らせ、壊れ物めいて脆い笑顔がひどく胸をざわつかせた。
 ああ、レイジはこんな時でも笑ってる。
 そんな哀しい顔しかできないなんて、王様は不器用だ。
 だから俺は、この時ばかりは素直になることができた。キスで体が弛緩して、唾液にぬれた顎を手で拭う気力もなくぐったりとベッドに伏せって、よわよわしく呟く。

 「お前と、はなれたくないからだよ」
 レイジとはなれたくない。 
 それが、俺の答えだ。

 レイジの顔が奇妙に歪む。泣いてるような笑ってるようなぎこちない表情。 
 レイジは俺とおなじくらい、いや、俺よりもっと不器用な人間だ。
 俺よりもっと、臆病な人間だ。

 口から勝手に言葉があふれだす。
 「なあレイジ。俺はここに来る前ずっとひとりだった。お袋には無視されて、ダチなんかひとりもいなくて、いつでもどこにいてもひとりで、人生こんなもんかなって諦めてたんだよ」
 寂しい。
 俺のまわりにはだれもいない。俺はだれにも必要とされてない。たったそれだけのことがなんでこんなに寂しいんだ?いいじゃないか、だれにも必要とされなくたって。関係ないじゃないか、そんなの。
 寂しいわけあるか。俺は強いからひとりでも生きていける。ダチなんか必要ない。ひとりでも大丈夫。
 でも、東京プリズンに来てレイジと出会って。
 俺はそれが、ただの強がりだって思い知った。
 「畜生……寂しいよ。ずっとずっと寂しかったんだよ。俺はひとりでも生きてけるくらい強くなりたかったのに、だれにも頼らずひとりで生きてけるような強いやつになりたかったのに、お前が俺なんかかまうから、どんだけ邪険にしても懲りずにちょっかいかけてくるから、そんで全部おかしくなっちまった。
 レイジ、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。
 お前がいないあいだ、死ぬほど寂しかった。お前の笑い声が聞けなくて物足りなかった。へたっくそな鼻歌が聞こえなくてろくに寝つけなかった。俺はもうお前なしじゃ生きてけない体なんだよ。
 俺をお前なしじゃいられなくした責任とれよ。ずっとずっと一緒にいてくれよ。
 それが相棒のつとめだろ。違うのかよ」
 レイジの首に両腕を回し、自分の方へと引き寄せる。親に抱擁をせがむ子供のような動作だった。レイジは逆らうことなく、俺の腕に身を任せた。 
 目と鼻の先にレイジの顔がある。困ったような表情。
 「ロン。俺が怖いだろ」
 泣く子をなだめるように背中に片腕をまわし、優しくさする。素朴な愛情に満ちた、思いやり深い動作だった。お願いだからこれ以上俺を困らせないでくれよと言ってるような動作だった。

 「俺も、俺が怖い。
 いつかお前を殺しちまう俺が怖い。外にいた時、俺は人を殺すのが仕事だった。
 だから今でも、鉄錆びた血潮の匂いやナイフが肉にめりこむ感触やきな臭い硝煙の匂いが忘れられない。体の隅々にまで馴染んでるんだ、人殺しの極意ってやつがさ。
 今こうやってお前を抱いてるときだって、その気になればいつでもとどめをさせる。ナイフで頚動脈かききるか首を絞めて窒息させるか……
 さっきだって、舌を噛みちぎってたかもしれねえ」

 「でも、しなかった」
 「たまたまだよ。またいつ気まぐれが起こるかわからない、お前の腹に蹴り入れたときみたいに」
 「それでもいい」
 それでもいい。レイジの首に回した腕を強め、しっかりと抱き寄せる。俺はレイジに今の気持ちを伝えたい。レイジのぬくもりをむさぼるように体と体を重ね、意を決して口を開く。

 「たしかに俺は、お前が怖い。
 でも、お前がいなくなるほうがずっと怖い」

 「…………は、ははは」
 暗闇に力ない笑い声が流れて、すぐに途絶えた。俺の腕の中でレイジが肩をひくつかせて笑ってる。嗚咽みたいな笑い声だった。俺の胸に顔を埋めてるせいで表情は見えないけど、今のレイジは寄る辺ない子供のように小さく見えて、暗闇で凍えるレイジを温めるようにさらに腕の力を強める。
 俺に抱擁されたレイジが、乾いた独白を続ける。
 「なんでかな。なんでそういう殺し文句吐くかな。鍵屋崎にケツひっぱたかれて会いに来たけど、やっぱり別れるつもりだったんだよ。これ以上俺と一緒にいてもいいことないって、お前に教えてやるつもりだったんだ。俺と一緒にいたからマリアは幸せになれなかった。俺がいたからマリアは幸せになれなかった。お前はそうなっちゃいけない。お前は哀しいくらいマトモだから、笑えるくらいマトモだから、こっち側にひきずりこんじゃいけない。糞尿垂れ流しの暗い部屋にお前をひきずりこんじゃいけないって自分に言い聞かせて、格好よくけじめつけにきたつもりだったのに」
 首から流れ落ちた鎖が、俺の顎先に触れる。
 俺の胸に落ちた十字架。レイジが聖母から贈られた。
 「……格好つけすぎなんだよ」
 まったく手がかかる王様だ。大袈裟にため息をつき、俺は強がりの笑みを拵える。
 「お前が俺なしで生きてけるわけないだろ。レイジ」
 俺がお前なしで生きてけないように、お前が俺なしで生きてけるわけがない。
 そうだよな、レイジ?
 「そういえば。お前、渡り廊下で俺に肩抱かれたときなんて言ったんだ」
 俺の腕に抱かれて胸に顔を埋めたレイジの耳元で、渡り廊下で再会を果たした時からずっとひっかかってた疑問を口にする。あの時、俺に肩を貸されたレイジが英語で言った言葉。気恥ずかしげにそっぽをむいた横顔を思い出しながら問えば、軽く息を吸い、レイジが訳する。
 「『Please don't be afraid. Because I laugh, please love it』
  ……怖がらないで。笑うから、愛してくれよ」
 レイジの願いを叶えてやれるのは、俺しかいない。
 レイジの祈りを聞き届けてやれるのは、俺しかいない。 
 ひっこんでろ、神様。今はあんたが出る幕じゃない。レイジの願いを叶えてやれるのは、俺だけだ。
 仰向けに寝転がった体勢から首に回した片手をずらし、レイジの後頭部へともってゆく。俺はいつもレイジに頭をなでられてた。だれかの頭をなでるのは生まれて初めての経験だ。干した藁束のような茶髪は手触りがよくて、五指のあいだを流れる感触もすべらかで心地よい。
  
 ああ。
 レイジと出会えて、よかった。
 こいつがそばにいてくれたから、俺は東京プリズンで生きてこれたんだ。
 レイジは自慢の相棒だ。
 おかえり王様。

 「しょうがないから、愛してやるよ」
 自分より図体がでかい男を抱くのは変なかんじだ。でも今は、今だけは不快じゃない。 
 俺の腕の中で安心したように体の力を抜いたレイジが、顔は上げず、少しだけばつが悪そうに呟く。
 「……さっきのあれ、訂正していいか」
 「あれ?」
 不審げに眉をひそめた俺の腕の中、大きく肩を上下させ深呼吸したレイジが、いきなり顔を上げる。
 レイジは笑っていた。満面の、極上の笑顔。
 俺が見慣れた、俺だけに向けられる、心の底から幸福そうな、安息を得た笑顔だった。
 「愛してる、ロン。やっぱりお前がいなきゃだめだ。お前が俺の救い主だよ」
 そしてレイジは右腕に怪我してることも忘れて、俺が肋骨を怪我してることも忘れて、俺をおもいきり抱きしめた。
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