少年プリズン

まさみ

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二百七十四話

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 俺の名前はレイジ。英語の憎しみ。
 不吉だよな、憎しみなんて。子供の人生呪ってるような縁起の悪い名前だろ。
 普通、名前てのは産まれてきた子供に幸せになって欲しくて親が願いをこめてつけるもんだよな。お前の名前はロン、中国語で龍。強そうで格好いい。お前の親はきっとガキに強くて格好いい男になってほしくて龍の字をあてたんだよ。由来が麻雀の役名だからって恥じるこたない。
 俺、お前の名前好きだぜ。
 どこから話そうか。
 長い長い話になるから覚悟しろよ。途中で寝るなよ。はは、なんか改まって話すとなると緊張するな。お前とこうやってベッドに座りこんで向き合うの、変な感じ。肩の力抜いてリラックスして聞いてくれよ、今から気い張ってたら身がもたねえぜ。後ろ手ついて足を崩して、体がしんどいならパイプに背中凭せて。
 怪我人なんだから無理すんなよ、肋骨折れてんだろ。なに、怪我人にナイフつきつけてさんざん脅した人でなしはどこのだれだって?降参、一本とられた。そうカリカリすんなって、俺はただお前に大人しくして欲しいだけなんだ。
 音痴な鼻歌を聞くみたいに、俺の話に耳を傾けてくれたらいい。

 ロン。お前なんで東京プリズンに来た?

 いまさらなこと聞くな、知ってるくせに白々しいって?
 そう、知ってる。お前は池袋を縄張りにしてた武闘派チームの生き残り。親に捨てられたり親元から飛び出したり、行き場をなくした台湾人のガキどもで構成されたチームの一員だった。
 ロン。お前がここに来たのは、手榴弾で敵チームのガキどもを殺傷したからだ。
 偶然お前の手に渡って運命を変えた手榴弾は、もとは東南アジアのどっかの戦場に送られる予定だった。 

 今、東南アジア全土を巻き込む戦争が起きてるのは知ってるな。
 そう、第二次ベトナム戦争だ。
 話がとぶけどちゃんとついてこいよ。北朝鮮は三十年前に韓国に併合されて世界地図から消えた、これは世界共通の常識。でも、共産主義を信望する人間が絶滅したわけじゃない。北朝鮮崩壊前後の混乱期にどさまぎに乗じて国外逃亡した社会主義の残党は、手ごろな潜伏先として東南アジア各地に散らばった。
 日本やアメリカに渡った連中はすぐに挙げられたけど、東南アジア各地に散らばった連中はうまく地下に潜って社会主義再興を信じて活動をはじめた。
 北朝鮮には戻れない。
 戻ってもすでに北朝鮮という国は存在しなくて、韓国では自分たちの顔が連日ニュースで流され喧伝されてるから、里心がついて帰国しようものならすぐに面が割れて逮捕されちまう。
 故国の半島を取り戻すのが不可能なら、東南アジアの半島に理想の社会主義国家を打ち立てればいい。正気の沙汰じゃないけど、追い詰められた人間は誇大妄想を本気で実現しようとするもんだ。
 で、そいつらがまずはじめたの資本主義への攻撃。
北朝鮮が瓦解した最大の原因がアメリカ主導で強行された経済封鎖ってこともあって、潜伏犯の多くが社会主義の仇敵アメリカを恨んでた。
 結果、テロの標的になったのは東南アジア各地のアメリカ大使館で、もちろんアメリカがこれを黙って見過ごすわけがない。
 つまり、八十年前のイラク戦争とおんなじことが起きたんだよ。
 テロの報復の戦争。
 最初、アメリカ大使館をテロから守るために大量の兵器と米軍をおくりこんできた。その前からアメリカは東南アジアの国々をせっついて捜査に協力しろだのはやく捕まえろと圧力かけてたんだけど、東南アジア落ち延びた連中とその協力者は一万人にも達するって俗に噂されてて、東南アジアとアメリカが協力したところで地下に潜った一万人を早晩洗い出すのは無理な話で、業を煮やしたアメリカは「自分んとこの大使館は自分とこの軍隊で守る、役立たずの臆病者はひっこんでろ」 って、大量の軍隊送りこんでどっかり腰を据えちまったわけ。
 しばらくはテロとのいたちごっこが続いた。
 やらたらやり返す不毛なくりかえし、血で血を洗う悪循環。当然被害は逃亡先に選ばれた東南アジア各地におよんで、民間人が多数巻き添えくって命を落とした。
 事態が泥沼化して激怒した東南アジア諸国が手を組んで、「人の庭先で喧嘩すんな、おまえらでてけ」と抗議したんだけどアメリカは聞く耳もたない。
 逆に「俺たちは軍隊送りこんでテロの被害からお前ら東南アジアのイエローモンキー守ってやってんだ、ありがたい救世主さまにその態度はなんだ、気に入らねえ。お前ら実はこっそりテロリスト匿ってんじゃねえのか、だからいつまでたっても地下に潜ったネズミのしっぽが掴めないんじゃねえか」といちゃもんつけて、そっからさきはまあ予想どおりの展開。
 他人の喧嘩にわりこんだら、自分に矛先むくのが世の不条理。
 第二次ベトナム戦争って呼び方は正確じゃないけど、アメリカ側にとっちゃ第一次のリベンジの意味合いがこめられてるからあながち間違ってねえのかもな。
 
 ひどい戦争だった。

 テロリストが地下に潜ってでてこねえなら東南アジアのイエローモンキーともども根絶やしにするまでだ、なんて極端な危険思想にアメリカが走ったとは思いたくねーけど、実際そうとしか考えられない惨状で戦場だった。
 戦火は東南アジア圏をまるまる呑みこんだ。
 島国フィリピンも例外じゃない。
 フィリピンは過去アメリカの植民地だったから英語をしゃべれる人間がたくさんいて、キリスト教を信仰してる人間もたくさんいた。でも戦争になれば関係ない。米軍はフィリピンをあっというまに武力制圧して政権を乗っ取って、情け容赦ないテロリスト狩りを強行した。 
 共産主義思想のテロリストかテロリストの協力者とおもわれた連中は、片っ端から連行されて厳しい尋問をうけて大半は二度と帰ってこなかった。その殆どは濡れ衣かけられた無実の民間人で、テロリストでもなんでもなかった。 
 やられっぱなしで黙ってるわけにはいかない。親や兄弟や親戚、友人や恋人を官憲に強制連行された連中が頭にきて、民間ゲリラとして徹底抗戦をはじめた。
 第一次ベトナム戦争で米軍をさんざん苦しめたのもおなじ民間ゲリラだった。だから米軍は、徹底的にゲリラを叩いた。フィリピンはひどい内戦状態におちいった。
 それが十八年ばかり前。
 その頃、フィリピンのとある村に美しい少女がいた。
 年のころは十六・七歳、名前はマリア。マリアはとびぬけて別嬪なことをのぞけばごく普通の女の子で、親兄弟を手伝って畑を耕したり家事をしたり毎日平和に暮らしていた。マリアが生まれたのは牧歌的な土壌の田舎の村で、村人は気のいいやつばかりだった。
 マリアは熱心なキリスト教徒だった。
 日曜日は毎週欠かさず村でただひとつの教会に通った。ペンキが剥げ落ちて廃屋になりかけたみすぼらしい教会だけど、マリアは毎週末になると決まって信徒席の最前列に腰掛けて、胸の前で五指を組み合わせて、正面の壁に掲げられた十字架に祈りを捧げた。
 マリアの家族は皆信心深いカトリック教徒で、マリアは幼い頃から主の教えに背くことないよう厳しく躾られた。マリアの胸にはいつも黄金のロザリオがぶらさげられていた。
 マリアがほんの子供の頃、親に連れられてはじめて教会を訪れたとき、老齢のため引退する神父がこの幼い信徒の行く末に祝福あれと皺張った手で頭をなでて、ロザリオを握らせたんだそうだ。
 マリアはそのロザリオをとても大切にしていた。いつもどこへ行くにも肌身はなさず身につけてもう体の一部だった。
 神の教えに従順なマリアは、村でいちばん美しく優しい娘に成長した。膝をすりむいて泣いている子供がいればおぶさって家に送りとどけてやり、盲いた目の老人に乞われりゃ音楽みたいに綺麗な声で聖書を読み聞かせてやった。
 マリアは幸せだった。
 神への愛は揺らぐことなく、信仰に疑いを抱くことなく、やさしい両親と兄弟と村人たちに愛されて、いつかは村の男と結婚して家庭に入ることを無邪気に夢見ていた。

 幸福な日々に、突然終止符が打たれた。

 ある日、村が米軍に襲われた。都会からはなれてるし安全だって思いこんでたのに何故こんな田舎に、と女子供は驚いたけど、村の男どもはちゃんとそのわけを知ってた。
 女子供は知らなかったけど、村の男どもは実は反政府ゲリラとして活動していたんだ。都会に比べて平和とはいえ、近隣の村に米軍が攻め入って暴虐の限りを尽くしたとか不穏な噂も近頃じゃ耳にして村の男どもはぴりぴり殺気立っていた。
 やられる前にやれ。
 無抵抗で殺されるくらいなら、自分たちで米軍の侵攻から村を守ろう。
 そして村の男どもは、最愛の妻子や恋人を守るため村ぐるみの反政府ゲリラとして徹底抗戦を開始した。ツテを頼りひそかに武器を調達して物置小屋に隠して、妻子が寝静まった夜ともなれば村をぬけだして前もって調べておいた米軍野営地を襲撃して物資を強奪する。無謀にもそんなことをくりかえしてるうちに、本拠地の村を米軍に嗅ぎつけられた。
 THE END.
 マリアの村ではあたりまえのことがあたりまえに起きた。戦争には付き物のとるにたらない惨劇、ありきたりな悲劇。村はあっといいうまに米軍に占拠されて男は皆殺しにされた。村の広場に集められてマシンガンで蜂の巣にされて脳漿と臓物をぶちまけた。年寄りにも子供にも容赦なかった。男どもは必死に、死に際までみっともないくら必死に女子供はなにも知らないから見逃してくれと、全部俺たちが勝手にやったことだから妻や子供には手をだすなと哀願したがだれもそんな戯言真に受けなかった。
 ゲリラは根絶やしにしろ。
 米兵は徹底的に村を破壊し尽くして、土肌むきだしの田舎道の両側にこじんまりとした家が立ち並ぶ素朴で美しい景観を弾痕だらけの戦場へと塗り替えた。

 暴行、強奪、虐殺。

 若い女は犯され殺された。中の何人か、特別若くて美しい女はすぐ殺しちまうのは惜しいし、長く楽しみたいからと誘拐された。両親と兄弟を目の前で惨殺されたマリアは滂沱と涙を流した自失の状態で、血だまりにへたりこんでるところを米兵に連れてかれた。四肢に力が入らず抵抗もできなかった。結果的にそれがマリアの命を救った、赤黒い肉塊と化した家族の死骸に激情して米兵に逆らえばその場で撃ち殺されていた可能性もある。

 マリアにとっては、家族と一緒に撃ち殺されてたほうが幸せだったかもしれない。

 暴行、強奪、虐殺ときて最後にくるのはなんだと思う?
 ……そうだよ。強姦。戦争中にはありきたりなこと。若くて健康で綺麗な女は皆にまわせる極上の戦利品。犯して犯してボロ布になるまで犯しまくって飽きた頃には、大抵の女は頭がおかしくなってる。
 マリアは村でいちばんの別嬪だった。初恋もまだだった。マリアが生涯の愛を捧げてたのはイエスさまだけで、生身の男との恋愛もまったく経験してなかった。
 マリアは三日三晩、何人もの男にかわるがわる犯されつづけた。
 家族を殺した憎い兵士、家族を肉塊にした非道な連中に飲まず食わずで輪姦された。泣いても叫んでも無駄だった、だれも助けちゃくれなかった。マリアがヒステリックに泣き叫ぶほど、手足を振り乱してあばれるほど男たちは興がのった。
 そして三日後、マリアは捨てられた。
 全裸にボロ布のように引き裂かれた服をひっかけたあられもない姿で、青く抜ける空の下、乾燥した田舎道の途中でジープから放り出された。濛々と煙る砂埃の中、ジープはうるさい排気音をたててあっというまに走り去っていった。盛大に砂塵を蹴立てて走り去るジープの後部座席から身を乗り出した兵士のひとりが、道の真ん中に全裸同然で座りこんだマリアに投げキッスをした。

 『Good-bye, yellow bitch.I could meet you and was happy』
 あばよ、イエロ―ビッチ。あんたをいただけてたのしかったぜ。

 明るい藁束のような茶髪と茶色の瞳をした、若い兵士だったそうだ。 
 
 三日三晩の地獄を見たマリアは恐怖の塊になっていた。
 村は消滅した。家族は死んだ。帰る場所はどこにもない。
 行き場を失ったマリアはあてどもなく放浪し、流れ者が行き着くさいはての街に辿り着いた。内戦で荒廃した街には浮浪者と孤児と娼婦があふれて、家を失った人間は路地裏でひっそりと雨風をしのいでいた。
 マリアは物乞いをして命をつないだ。物乞いといっても、先を急ぐ通行人に哀れっぽく身の上話をしたり嘘泣きで注意をひく必要はない。
 マリアのように若くて綺麗な娘はただ道端に座ってるだけで人目をひいて小銭を恵んでもらえた。マリア本人は物乞いの自覚もなかったんだと思う。ただ、どこも見てない虚ろな目をして、童心に返ったように道端で膝を抱えた裏若い娘の前を素通りできない人間……特に男は、意外と多かった。事情を知らない通行人の目には薄幸の白痴娘とでも映ったんだろう。
 三ヶ月が経過した頃、マリアの体は変調をきたした。
 急激に吐き気をもよおしたり突然気分が悪くなることが続き、ある日、路地の奥に駆け込んではげしくえづいてるときに直感した。

 妊娠の兆候。

 マリアの腹はどんどんでかくなっていった。
 道端にうずくまり、放心したように通りを眺めているあいだにも腹は膨れて胎児は順調に成長してた。医者にはかかってなかった。そんな金もなかった。子供を堕ろすには金がいるが、マリアにはそんな気毛頭なかった。
 何故かって?キリスト教の厳格な宗派じゃ堕胎は禁忌だからさ。神の授かりものの命を親の都合で摘むなんざとんでもないって言い分。
 子供はみんな神の種って聖書にもあるんだろ?
 ……悪い、知らねえか。お前聖書読んだことないもんな。神様の教えとは無関係に生きてきたやつだもんな。
 うらやましい。俺もそうなりたかったよ。
 マリアの腹はどんどんでかくなっていった。でかい腹を抱えてマリアは途方に暮れていた。自殺の誘惑に心傾いたこともある。物乞いで得た金を握りしめて、闇医者を訪ねようかと苦悩したこともある。でもできない、それは神様の教えに背く行為だから。自分を愛してくれた神と神を愛した自分を裏切る行為だから。
 かといって育てることもできない。
 だってこの子は、本来産まれてきてはいけない子供だから。あやまちの子供だから。家族を殺害して村をめちゃくちゃにして、三日三晩自分を輪姦した兵士のだれかの子供。そう、だれの子供だかもわからないのだ。けど父親がだれにしたってこの子が罪の子であるのに変わりはない。
 マリアは腹の中の子供に、これっぽっちも愛情を注げない自分に愕然とした。
 腹の中で元気に育ってるまだ顔も見ぬ我が子のことが、少しも愛しいと思えない。愛情を感じない。いや、違う。これは……憎悪だ。腹の中の子が憎い。親の気も知らずにぬくぬくと羊水のまどろみをむさぼっている子供が憎い。憎くて憎くてたまらない、殺したい。

 何故私に宿ったの?
 ねえ教えて、あなたは一体だれの子なの。
 下品な言葉を吐きながら、笑いながら私を犯した何人もの兵士のうち一体だれの子供なの。私に口での奉仕を強制したあの男?私の前髪を掴んでひきずりまわしたあの男?私の背中にまたがってうなじに噛みついたあの男?
 強姦されてできた子供。愛してもいないどころか、心の底より憎んでいる男たちのだれかの子供。
 殺したい。
 殺意は子供と一緒に育っていった。私をこんな目にあわせた男たちを殺したい、復讐したい、地獄を味あわせたい。神様私がなにをしたんですか、私や私の家族がなにかお気にさわるようなことをしましたか。私は父や兄が反政府ゲリラとして活動していることも知らずに安穏と暮らしていた、これはその報いなのですか、罰なのですか。
 殺したい。子供が憎い。腹の中の子供に罪はない、本当にそう?断言する、私はこの子を愛せない。絶対に愛せない。お父さんお母さんお兄さん、あなた達を殺した男の子供が私の中にいるの。日に日に大きくなってるの、元気に育ってるの。もうおなかを足で蹴ってるのもちゃんとわかる。
 「これ」は、私の子供であると同時に親の仇。私を犯した兵士の子供。産みたくない。産みたくないです神様、どうか私をお救いください。助けてください。この子を流してください。

 マリアの祈りは天に通じなかった。気高く恵み深き主はマリアの祈りを無視なされた。マリアは絶望した。そして決意した。
 神が祈りを聞き届けてくれないなら、自分でやるしかないと。 
 自分の手で、我が子を殺そうと。
 ……矛盾してるよな。倫理が逆転してる。もちろん人殺しはキリスト教のご法度だ。堕胎を禁じてるんだからそもそも人殺しは絶対駄目に決まってるのに、マリアはすっかりおかしくなってた。
 子供を産み落としたらすぐに息の根をとめよう。なかったことにしてしまおう、それがいちばんだ。
 神様もきっと、お許しになられる。

 そしてついに、その時がきた。
   
 九ヶ月の時が満ちたことをしらせるように陣痛が始まった。人通りの少ない道端にぼんやりすわりこんでたマリアは身重の体で、なるべく人目につかない路地の奥へと逃げるように這いずっていった。手を地面について前へ前へと這い進むたび、胸にたれさがった十字架が頼りなく揺れた。粗末な外壁と外壁のあいだ、陽光がさしこまない路地は暗く湿っていて、すえた異臭がたちこめていた。
 路地の奥に辿り着いたマリアは、行き止まりの外壁に両手を突っ張り、額に脂汗をにじませ力一杯奥歯を食いしばった。固く目を瞑ったマリアの脳裏に次々と浮かぶのは、幸せだった頃の記憶。
 親に連れられてはじめて教会を訪れ、優しい神父に頭をなでられた。小さな手のひらに贈られた十字架。
 平凡で退屈で、でも平和で穏やかだった村での生活。日曜日にはかかさず礼拝に行った。信徒席の最前列に腰掛けて十字架に祈りを捧げた。主よ、どうかお守り下さい。
 お父さんとお母さんがいつまでも元気で健康でありますように、家族が末永く仲睦まじくありますように。そしていつか、あと五年後くらいには私にいい人が見つかりますように。
 愛する夫と愛する子供と、幸せな家庭が築けますように。
 最後は自分のことを祈った。祈りに雑念が入ったから、図々しいお願いをしたから、その報いをうけたのだろうか。だから今自分はこんな目にあってるのだろうか。
 愛する夫と愛する子供。そんなもの、永遠に手に入れられないのに。
 私はこの子を愛せない。世界に産まれいでようとしてる今この瞬間もこの子にちっとも愛情を感じない。
 目を閉じれば思い出す、笑いながら自分を犯す男たちの顔が。濛々と舞う砂埃の中、未舗装の田舎道をジープで走り去りながら手を振る軽薄な男の顔。

 『Good-bye, yellow bitch.I could meet you and was happy』
 
 憎い。
 憎しみを、抑えつけられない。
 あいつらに復讐できないなら、あいつらの血をひく子供に復讐してやる。
 どうせ悪魔の子だ。地獄に送り返してやるまでだ。
 
 産声があがった。

 壁に手をつき上体を預けた前傾姿勢から、大胆に開かれた足のあいだから産みおとされたのは元気な赤ん坊。壁に背中を預けて座りこんだマリアは、地面に寝転んで盛大に泣き続ける赤ん坊を見下ろす。
 なんの感慨も湧かなかった。我が子への愛おしさなんてひとかけらもこみあげてこない。
 疲労が極限に達して今にも失神しそうだ。気力で瞼を持ち上げ、ぼんやり薄目をあけて赤ん坊を眺める。
 男の子だった。 
 だから?どうせすぐ殺してしまうのだ、性別など確認する意味がない。心は麻痺していた。感情をどこかへ置き去りにしてきたようだ。地面に膝をついたマリアは、胎児と一緒に体外へ排出されたへその緒を手にとる。へその緒はまだ胎児と繋がっていた。このへその緒で首をしめればすべて終わる。弛緩した頭で奇妙に冷静にそう考え、羊水の皮膜で皮膚を守られた赤ん坊を見つめる。
 なんて小さい生き物だ。無力で非力な生き物だ。きっと簡単に殺せてしまう、それはもうあっけないほどに。ゆっくりと慎重にへその緒を赤ん坊の細首に巻きつける。
 そのままずいぶんと時が経った。
 何故かどうしても手が動かなかった。さっきまでうるさく泣き喚いてた赤ん坊はいつしか泣き止んで、安らかな寝顔を見せていた。首にへその緒をかけられてるってのにその寝顔があんまり無防備で、毒気をぬかれたのかもしれない。

 名前。 
 ふと、本当に唐突に、この子にまだ名前をつけてないことに気付いた。
 思案げに黙りこんだマリアの気配を察したように、赤ん坊がぱっちり目を開けた。
 赤ん坊が目を開けて、吸い寄せられるようにその目を覗きこんだ瞬間、だれが父親かわかった。

 髪の毛はまだほとんど生えてないから何色か判別できないが、この瞳の色は間違いない。
 硝子のように澄んだ茶色。
 ジープの後部座席から身を乗り出して手を振った、あの。
 
 『あなたの名前は、Rageよ』

 口がひとりでに言葉を紡いでいた。Rage、英語の憎しみ。これ以上この子にふさわしい名前はない。
 私の中に入っていたのは、人の形をした憎悪の塊だ。
 へその緒を握る手に力をこめ、徐徐に、徐徐に絞めつけてゆく。赤ん坊に名前を授けた行為に意味はない。名もなく死んでゆく我が子を不憫に思ったからではない、ただ、この無垢な目をした赤ん坊に、自分が産まれてきた理由をわからせてやろうと思っただけだ。
 赤ん坊の首にへその緒を巻きつけ、窒息させようと引きはじめる。
 赤ん坊はそんなマリアをきょとんと見上げていたが、ふいに、本当にふいに、

 笑ったのだ。
 
 『………』
 産まれたばかりの赤ん坊が顔をくしゃくしゃにして無邪気に無防備に笑ってる。母親に、笑いかけてる。産んでくれてありがとうとでも言うように、目を開けていちばん最初に見たのが自分で嬉しかったとでもいうように、天使みたいに笑ってたそうだ。
 
 赤ん坊は笑った。
 そしてマリアは、赤ん坊を殺せなくなった。

 へその緒をもつ手から力がぬけた。ぺたりと地面に膝をつけたマリアは、慣れない手つきでおそるおそる赤ん坊を抱き上げる。マリアの胸に抱かれた赤ん坊は安心したように瞼を閉じて寝息をたてはじめる。  
 マリアは赤ん坊を胸に抱いて、はるか頭上、路地の隙間から覗ぐ天を仰いだ。
 神に通じるはずの天は清冽に澄み渡り、この子の誕生を祝福してるようだった。

 子供の名前はレイジ。英語の憎しみ。
 マリアが産んだ子供は俺。兵士に強姦されてできた赤ん坊。人の形をした憎悪の塊。本来名前も与えられずへその緒で首絞められて窒息死させられてたはずのガキ。
 
 今の話は全部、マリアから聞かされた。
 俺は全然さっぱり覚えてないけど、首にへその緒かけて殺そうとしてるマリアと目が合った時、たしかにくしゃっと笑ったんだそうだ。たぶん目を開けて最初に見たのが若くて別嬪の女で単純に嬉しかったんだろう。

 あの時笑ったから、俺は生かしてもらえた。
 あの時笑ったから、聖母のようにやさしいマリアは俺を殺せなかったんだ。
 俺はたいして意味もない笑顔に命を救われた。
 
 笑うのは生きるため、生きのびるため。
 他に理由はない。
 だろ?
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