少年プリズン

まさみ

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二百七十話

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 あれはいつだったか、晴天の空の下バスケットボールを奪い合った。
 あの時僕は半ば強引にレイジの暇潰しに付き合わされたのが不愉快で憮然としていたが本当は誇らしかった、涼しい顔で何でもオールマイティにこなしてしまう無敵の王様から自力でボールを奪い取ったのだから。
 あの頃からだ。
 いや、正確にはそれ以前からずっと鬱々としていた。
 無力感からくる自己嫌悪、劣等感、焦燥感。
 役立たずだという現実認識。
 どんなに知能指数が高く記憶力がよくても実際の試合では何の役にも立たない、実戦経験のない僕はレイジにもサムライにもロンにも劣る最弱の人間でその非力が恨めしかった。足手まといにはなりたくない、重荷になりたくない。彼らの足を引っ張らざるをえない非力が歯痒かった。
 僕は今までの人生で人を殴ったことはおろか他人と喧嘩したことすらなかった。
 戸籍上の両親であり事実上の養育者、鍵屋崎優と由佳利にすらめったに反抗した記憶がない。
 鍵屋崎夫妻から見た僕は従順で理想的な子供だった。それこそ、将来自分たちの研究を継がせて発展させる後継者としては非の打ち所のない優秀な子供。鍵屋崎夫妻が求めたのは愛情を注ぐ対象としての子供ではなく、自分たちが老いて引退した後の研究を受け継ぎ発展させる有望な人材だった。
 僕はその条件を完璧に満たしていた自負がある。
 血縁上のつながりなどどうでもよかった、鍵屋崎夫妻にとってはとるにたらない些細なことだ。
 後世に子孫を残すことに執着しなかった鍵屋崎夫妻が、自分たちの研究成果を譲渡する世代を欲した結果に生まれたのがこの僕、鍵屋崎直だ。その意味では恵は予定外の子供だった。恵が生まれたということは頻度は少ないにしろ鍵屋崎優と由佳利が夫婦生活を持っていた証明にもなるが、潔癖で神経質、かつヒステリックな性格の鍵屋崎由佳利は婚姻に伴い発生する配偶者間の義務だと性交渉をシビアに割りきっていた。
 恵が生まれたのは、鍵屋崎由佳利が避妊を失敗したからだ。
 女性である前に厳格な研究者だった鍵屋崎由佳利は日常的にピルを服用していたが、たまたまピルを飲み忘れて行為に及んだ結果予定外の第二子を妊娠してしまった。
 それが恵だった。恵は最初から、愛されて必要とされて生まれてきたわけではないのだ。だが僕にとっては愛情の欠損した家庭で唯一安らぎを与えてくれたかけがえのない妹だ。
 たとえ血がつながっていなくても僕は恵を唯一の家族だと思っている。
 僕が鍵屋崎夫妻に反抗せず理想的な息子を演じ続けたのは常に恵の傍らにあるため。僕は両親の期待と妹の尊敬に値する鍵屋崎直でいたいがために、物心ついたときからずっと自身の欲求を抑圧し願望を否定してきた。
 いや、もともとそんなものなかったのかもしれない。
 僕には恵がいればそれで十分で、他に欲しいものなどなかったのだから。
 両親に手を上げたことはおろか感情的に逆らったこともない僕が、両親を刺殺した罪で東京プリズンに送致されたのは半年前のこと。三歳のころから自宅で英才教育を受け、周囲の人間といえば鍵屋崎夫妻と同年輩の研究者が過半数を占める環境に隔離されて育った僕は、同年代の友人と喧嘩したことはおろか接触したこともなかった。

 バスケットボールはレイジに教えられて初めて知った。

 僕は東京プリズンでいろいろなことを知った。その内容は永遠に知らなくても一向にかまわないくだらないことから、知っておけば実生活に役立つことまで多岐にわたる。レイジにコーチされたバスケットボールはもちろん前者だ。認めたくはないが僕は運動音痴だ。少し走っただけで息切れして眩暈に襲われる体に、炎天下の球技はひどくこたえた。 地獄の特訓と言ったら大袈裟だろうか?……いや、けして誇張ではない。レイジに振り回され足が棒になるまで走り回され、あの時は本当に地獄を見た。

 そして僕は今、ふたたび中庭のバスケットコートに立っている。
 手の中にはバスケットボールがある。

 所在なく立ち尽くす視線の遥か先にはネットがぶらさがっている。
 距離にしておよそ50メートル。
 遠い。遠すぎる。この距離からボールを入れるなんて不可能だ。いや、しっかりしろ鍵屋崎直。不可能を可能にしてこそ天才だ、IQ180の本領を今こそ発揮しろ。
 この場で必要とされるのは知力よりもむしろ体力だが。
 「……なー、これから何始まるんだ。今夜のショーはお開きだろ。観客もいねえのに延長戦おっぱじめるつもりか」
 何も説明されず強引に引きずられてきた為、いまだ事情が呑みこめず、地面に手をついてだらしなく膝を崩したレイジは無視して深呼吸。
 一投目。
 大きな放物線を描いたボールが途中で浮力を失いあっけなく地面に落下。転々と跳ねながら戻ってきたボールを持ち上げ、ため息をつく。ため息?馬鹿な、最初の一回を失敗したくらいで嘆いてどうするんだ。先は長いというのに。
 二投。また失敗。  
 力なく地面で跳ねたボールを視線で追い、そちらへと歩み寄る。そんな僕を退屈そうに見送りながら催促する。
 「いい加減タネ明かししてくれよキーストア、秘密主義も程ほどにしねえと嫌われるぜ。俺をここまで引っ張ってきたからには理由があるんだよ、ひとりバスケなんて侘しい遊びに熱中してないで教えてくれよ」
 三投目。失敗。
 「無視?無視かよ、つれねーなあ。ひょっとして本格的に怒ってる?目も合わせたくなけりゃ口もききたくねえって意思表示?気持ちはよーくわかるよ、つーか全部俺のせいだけどな。ちょーっとばかし派手に暴れすぎちまったかな、今回ばかりは……独居房送り何回目だっけ。今回で三回か四回目?ああ、憂鬱だなあ。あそこ暗いし汚えし臭いんだよなあ。慣れてるからいいけどさ」
 四投目。失敗。
 「俺、駄目なんだよね。一回キレると後先考えずめちゃくちゃ暴れて自分に歯止めがきかなくなる。憎しみを抑えつけるのが絶望的に下手なわけよ。監視棟のときといい渡り廊下のときといい今回のペア戦といい、ハッと気付けば目の前で人間が血ィ流して倒れてる。殺ってるときは無我夢中で理性吹っ飛んでるから自覚ないんだよな。昔からそうだった。むかしっから」
 五投目、六投目、七投目。失敗。
 「ロンといるあいだは大丈夫だったんだよ」
 八投目、九投目、十投目。
 「ロンといるあいだは不思議と大丈夫だったんだ。気持ちが落ち着くってゆーか、なんか幸せーってかんじが持続して……脳内麻薬がでてんのかな。あいつがたまに見せる笑顔とかあいつがたまに見せる泣き顔とか、ころころ変わる表情見るのがたのしくて。
 早い話、ロンが俺の暴走抑止剤だったわけ。
 一年半おなじ房でおなじ空気吸ってるうちにいつのまにかあいつが隣にいるのが当たり前になって、あいつがいない毎日なんか考えられなくなった。あいつの罵り声が聞こえないと寂しくて寝つけない。
 知ってる?人間てさ、すごい疲れると夢も見ないんだ。
 泥のように眠るだけ。死んだように眠るだけ。
 女を抱いたあとならぐっすり眠れる。髪の匂い肌の匂い香水の匂い、そんなもんにくるまれて安心して熟睡できる。それでも悪夢を見て目覚めたら『どうしたの?』って慰めてくれる。今はそんなこともなくなったけど、ここに来る直前は特にひどくてさ……誰かとべったりひっついてないと全然眠れなくて、一度寝ても明け方近くに絶叫して目が覚めて相手叩き起こす始末で」
 十一投目、十二投目、十三投目、十四投目、十五投目。
 「渡り廊下で言ったろ?男でも女でも若くても年食っててもおかまいなしって、あれマジ。十対一の比率で女が多かったけど、男とも時々寝た。気持ちよけりゃ誰でもよかった、天国にイかせてくれるならだれでもよかった。女が多かったのは単純に柔らかくて抱き心地よかったから。聖母マリアみたいに優しい女の胸の中ならやなことさっぱり忘れて気持ちよく寝れるだろ」
 「無節操」
 「言うと思った」
 レイジがおどけたように肩を竦める。
 「否定はしねーよ。したって無駄だ、サーシャの房にいたとこ見つかっちまったもんな。喜べ、お前が第一発見者だ」
 「不愉快だ。思い出しくもない」
 レイジが苦笑いして十字架の鎖をなでる。
 「……ロンとうまくいかなくなってから、いや、具体的にはあいつが医務室に入院した頃から女の柔肌恋しい症候群もといだれかが添い寝してくれなきゃ熟睡できない症候群が再発した。あいつがいない房に一人じっとしてるのがいやで、からっぽのベッド眺めてるうちにむしゃくしゃしてきて、しまいにゃヤケになって」
 からっぽのベッド。うるさいロンがいない生活。
 房にいればいやでも無人のベッドが目に入る。
 いやでもロンの不在を思い知らされる。
 「だからか」
 僕の声に反応したレイジが物問いたげに目を細める。
 「だから、サーシャのところへ行ったのか」
 「ああ」
 レイジはあっさり首肯した。
 疲労の色濃く憔悴した面持ちに力ない笑みを浮かべ、自嘲する。
 「ロンのベッドをあのままにしといたのはつまらない感傷、くだらない未練だよ。出てった時のまんまにしといても自分がむなしくなるだけなのになあ……ロンのこと吹っ切ったつもりでも心のどこかじゃ浅ましく期待して、物欲しげにベッドを眺めてた。
 ばっかだよなあ、いつ帰って来るかわかんないのに。帰って来ても元通りになれるはずねーのに……」
 レイジに自己投影し、その光景を想像する。
 奇妙に広くよそよそしく感じられる房。行儀悪く毛布がめくれて枕がひっくり返ったままのベッドは、ロンが出て行ったときと寸分違わぬ状態で放置してある。
 ベッドに腰掛けてからっぽのベッドを眺めるレイジ。無為に過ぎる空白の時間。
 だれからも見放された孤独な背中。
 「耐えられなかった」
 「何故サーシャなんだ?ヨンイルでもホセでも他に候補がいたのに、よりにもよって最悪の選択肢を」 
 それがいちばん不思議だった。南と西とは比較的友好な関係を保っていたのに、ロンを失ったレイジがその足で訪ねたのは北のサーシャ。半年前はロンをおとりにレイジを監視棟におびきだし殺そうとし、以後もレイジをブラックワーク覇者の座から引きずりおろそうと付け狙う狂帝。そんな男のもとへ出向けばどんな仕打ちをうけるか、馬鹿でお調子者を演じていても意外と賢いレイジがわからないはずない。
 ボールを手に持った僕の疑問に、レイジは簡潔に答えた。
 「心配しないからさ」
 どういう意味だと困惑すれば、コンクリに手をついて仰け反ったレイジが首を振る。 

 「ヨンイルやホセんとこ訪ねてったらこんな夜中にどうしたって心配されんだろ?ま、ヨンイルはともかくホセはそのへん大人だから見て見ぬふりで放っといてくれるかもしれないけど、態度で気遣われてるってわかっちまうんだよな。
 なんかそういうの、うざったくて。
 サーシャはそのへん徹底してる。俺を束縛して支配して服従させるのが目的だから、俺の意志なんかハナから無視して自分のしたいようにやる。絶対に俺を心配したりなんかしない。行きすぎて殺しちまってもいいやって思ってる。サーシャにとっちゃ俺は犬、躾甲斐のある雑種の犬。犬は人間のコトバ話せないだろ?犬と人間がたのしくおしゃべりなんて普通ありえないよな。サーシャは俺を言葉でなぶって痛め付けるのにご執心で、なにがあったんだとかどうしてここへ来たとか余計な詮索一切しないから気が楽だった。
 麻薬漬けのセックスに溺れてるあいだはヤなこと全部忘れられたしな……
 俺の場合体がクスリに慣れてるからあんま効かなかったけど、気晴らしにはなった」

 悪びれたふうもなくさらりと言うレイジにあきれ返る。
 意外にプライドが高いのかヨンイルやホセに迷惑をかけるのを回避したのか、最終的にレイジが身を委ねたのは自他ともに天敵と認めるサーシャだった。
 皮肉な話だ。
 レイジもサムライと同様、ひとに弱みを見せるのがへたな人間なのだ。
 会話が途切れたのを機に集中力を高める。飛距離が足らずに落下したボールを舌打ちして拾いに行けばへたな鼻歌が耳につく。
 レイジが夜空を見上げ、のんきに鼻歌を口ずさんでいた。
 「音痴な鼻歌はやめろ。集中力が散る」
 苦々しく吐き捨て、再びボールを持つ。
 僕の注意など聞く耳もたずレイジは気持ち良さそうに鼻歌を口ずさんでいた。酩酊を誘う甘く掠れた独特の響きの歌声が流れる中、頭上に手首を掲げ、伸びあがるようにボールを放つ。
 「なあ、通路で賭けがどうのって言ってなかったっけ。いい加減教えてくれてもいいんじゃないか、その賭けの内容ってやつ。焦らし上手ってほめてもらいてーの?」
 ネットを掠めて落下したボールを目で追い、落胆に肩を落とす。足をひきずるようにボールを取りに行きがてらレイジの言葉を分析する。
 『耐えられなかった』
 あれは掛け値なしの本音だ。ロンがいなくて寂しい、耐えられない。それがレイジのありのままの気持ちだ。レイジだけではない、ロンもきっと耐えられない。
 サムライがいない僕が孤独に耐えられないように、レイジにはロンが、ロンにはレイジがいなければ耐えられない。
 なら、答えは出たも同然だ。
 最後に必要なのは、決断を促す推進力。 
 「賭けの内容はこうだ。僕がこの距離からシュートを決められたら、まっすぐにロンに会いに行け」
 「は?ちょ待て、なんだよそれ聞いてねえぞ!?異議あり、そんなこと勝手に決めんなよ」
 「異論反論は一切受けない、これはすでに決定事項だ。数時間前のペア戦でさんざん僕に迷惑をかけた責任をとって賭けに付き合ってもらう。賭けの内容とはこうだ。球技初心者の僕が約五十メートル離れたこの距離から一発でもシュートを決めることができたら医務室へ直行してロンと話し合いを持て」
 「舐めるな素人。この距離から入るわけねー」
 饒舌に畳みかけられ毒気をぬかれたか、レイジがあきれたように笑う。レイジの言い分は最もだ。バスケットボールに触れてから日が浅い僕が五十メートル離れた距離からシュ―トできる確率は限りなく低い、それこそ天文学的数値だ。
 が、やるしかない。
 数週間前、レイジはあっけにとられた僕の前で軽々とシュートを決めてみせた。レイジにできたことが僕にできないはずがない。公平を期すためあの日のレイジとおなじ距離を空けおなじフォームを模して手首を掲げる。何度も何度も投げるうちに次第にコツが掴めてきた。肘の高さと手首の角度と指の位置を調整し、今度こそ成功するはずと希望を託してボールを投げる。
 ボールがネットの背板に弾かれ、鈍い音が鳴った。
 『I am disappointed』 
 残念でしたとレイジが口笛を吹く。
 背板に跳ね返ったボールが寂しく地面を転がってくる。まだ終わらない、これで終わるわけにはいかない。決意も新たにボールを両手に拾い、胸に抱いて瞼をおろす。集中しろ、極限まで集中力を高めろ。肩をゆっくりと上下させ不規則に乱れた呼吸を整え、ボールを片手に預けて額の汗を拭う。気温の低い夜中だというのに、額はびっしょりとぬれていた。手の甲を上着の裾になすりつけ、ついでに眼鏡のブリッジを押し上げる。何回も何十回も懲りずにボールを投げて手首が吊った。手首の鈍痛に舌打ち、ボールを構え直す。
 「キーストア、聞いていいか」
 「なんだ」
 上の空で返事をする。
 そんな僕を退屈に倦み果てたように眺めながら、レイジが続ける。
 「何の為に、そんな頑張ってるんだ」
 レイジは本当に不思議そうだった。深夜の中庭、バスケットコートを独占して無謀な挑戦を続ける僕を面白がっている節もあった。
 コンクリートの地面に座りこんだレイジが首を傾げ、悪戯っぽい笑みを見せる。
 「俺の為?」
 「とんでもない誤解だ」
 自意識過剰な物言いに辟易する。レイジに背中を向け、五十メートル先のネットと一直線に対峙。ネットの正面に立ち、手首を慎重に掲げ、手首から肘へと重心を移す。
 闇のむこうに頼りなく揺れるネットを透かし見て、僕はそっけなく断言した。

 「僕たちの為だ」
 力を貸してくれ、サムライ。 
 扉を打ち壊して閂を壊したが、レイジはまだ怯んでいる。
 レイジの手を掴み闇から引き上げることができるのは、ロンだけだ。
 
 僕の手を離れたボールが虚空に長大な放物線を描き、半孤の軌道に乗じてネットへと吸いこまれてゆく。心臓が止まった。目が離せなかった。時間が停滞した一刹那、緩慢に虚空をすべるボールの行方を息を詰めて見守る。パサリと軽い音。背板にぶつかることなくネットへとすべりこんだボールが地面で跳ね、高く高く、夜空高く浮上する。
 やった。
 通算八十二回目でついに成功した、賭けは僕の勝ちだ。
 「レイジ見たか今の、入ったぞ!!信じられない、闇で視界が利かないにも関わらずこの遠距離からシュートを決めるなんて奇跡だとは思わないか!?バスケ初心者のこの僕が、」
 しまった、興奮のあまり略称を口走ってしまった。
 慌てて口を噤み、気恥ずかしさが先行して上気した顔を伏せた僕の視界にとびこんできたのは意外な光景。レイジが首を浅く振りながら睡魔と戦っている。唐突に目が覚めたか、ハッと顔を上げてきょろきょろあたりを見まわす。
 そして、最後に僕を見る。
 「見てなかったのか」
 レイジに口を開く間を与えず、怒気が氷結した声で確認する。
 「わざとか?わざとなのか?そういう姑息で小賢しい手を使う男だったのか、見損なった。いや見損なったは正確ではない、僕は君のことを買いかぶっていたわけでも尊敬していたわけでもない従って見損なう素地がない。もともと低かった評価がさらに失墜して底が抜けたのだからこの場合なんといえば……」
 憤懣やるかたなく肩を震わせる僕のもとへ生あくびをしながらレイジが歩いてくる。肉食獣のように優雅でしなやかな歩み。僕の手からボールを借りたレイジがあくびを噛み殺し、複雑そうな顔で逡巡。手の中のボールを角度をかえしげしげと観察、有無を言わさず僕をどかして場所を交替する。
 「お前、全然駄目。ボールの構え方がてんでなっちゃなくて危なっかしくて見てらんねえ。いいか?手首で投げるから失敗するんだよ、こうやって肘で構えて距離をとって……」
 レイジが鋭く呼気を吐き、地を蹴り、手首を返す。 
 靴裏が宙に浮き、上着の裾が風圧に舞いあがる。めくれた裾から覗いたのはしなやかな肢体、美しく筋肉がついて引き締まった腹部に淫らな痣。
 夜目にもくっきりと鮮明に浮上する姦淫の烙印。
 それは一瞬だった。靴裏が地面に接すると同時に、ガコンと鈍い音がした。背板に弾かれたボールが宙に投げ出されあさっての方向に転がってゆく。
 「……偉そうなこと言えねーな。キーストアに抜かれちゃざまあねえ、コーチ引退すっかな」
 レイジらしからぬ力ない笑顔に胸が騒ぎ、気付けば僕は歩き出していた。ボールに追いつき、拾い上げ、何食わぬ顔でレイジのもとへと引き返す。そして、あっけにとられたレイジの眼前にボールを突き出す。
 「スリーポイントシュートだろう?残り二回だ」
 半ば強引に胸に押し付けられたボールを受け取り、レイジが意を決して顎を引く。憔悴した面持ちから一転、挑戦的な笑みを覗かせ今度は確実にネットを狙う。
 二投目。レイジの手を放れたボールは飛距離が致命的に足らず、三分の一の十五メートルもいかずに落下してしまった。
 まだ終わりはしない。最後のチャンスが残っている。
 自然に足元へと転がってきたボールを拾い上げた僕は、レイジの様子に異変を悟る。
 「大丈夫か、腕を痛めたのか!?」
 おもわず声を荒げレイジに駆け寄る。右腕を庇って屈みこんだレイジの額には大量の脂汗が浮いていた。
 二回連続失敗もするはずだ、レイジは利き腕を怪我してるのだ。
 賭けに熱中するあまり失念していた、不覚だ。
 「傷口が開いたんじゃないか?見せてみろ」
 不意に、僕の手の中からボールが消失。力づくでボールをひったくったレイジが長々と息を吐き、疲労と苦痛で青褪めた顔で遠方のネットを仰ぐ。無理をするんじゃないと叱責しようとしたが、今のレイジには声をかけるのをためらわせる神聖さがある。
 力尽きたように瞼を下ろして首をうなだれたレイジが、両手に挟んだボールに切実な願いをこめる。
 「……最後の賭けだ」
 胸に抱いたボールに顎先を埋め、自分に言い聞かせるように小声で呟く。
 「これが入ったらお前に尻ひっぱたかれてロンに会いに行く。入らなかったら……」
 入らなかったら?
 ゆっくりと瞼を開ける。睫毛の先端が震え、瞼の奥から真剣な瞳が現れる。激痛を訴える右腕を励まし、苦痛に顔をしかめて呼吸を荒げながらボールを頭上に掲げる。血が乾き赤黒く変色した右袖がはらりとめくれ包帯があらわになる。

 『THE END』
 長い長い一瞬だった。

 レイジと二人肩を並べて見守る前で、夜空に弧を描いたボールが上下に旋回しながらネットへ吸いこまれてゆく。ネットをくぐりぬけたボールが直下の虚空に生み出され、地面で軽快に跳ねる。 
 文句のつけようがない見事なシュートだった。運さえ味方につけたかのような最後にして最高のシュートだった。三投目の初成功が信じ難いのか、ボールを投げた姿勢のまま呆然と立ち尽くしていたレイジが脱力したように手をさげおろす。 
 「……今の見たか」
 「……ああ」
 「入った、よな」
 「馬鹿にするなよ、僕の視力は裸眼では0.02だが眼鏡をかければ0.5に上昇する。シュートの瞬間を見間違えるわけがない」
 『I love God!!』
 突然だった。
 レイジが頓狂に叫んでいきなり抱きついてきた。それまでの疲労困憊ぶりが演技ではないかと疑いたくなるほどに、それまでの意気消沈ぶりが芝居ではないかと怪しまれるほどにレイジは狂喜していた。
 「やっべーすっげー今の見たか見ただろキーストアやっぱ俺天才だよ!顔だけじゃなく運動神経にも恵まれてるなんて反則だよな、神様に特別愛されちゃってるよな!?ああ畜生すげえ嬉しいぜ、まさか成功するとは思わなかった、自分でもこりゃちょっと無理かなあって半分諦めてたんだよ!!」
 「気色悪いからべたべたするな同性と密着して喜ぶ趣味はないぞ、抱擁するならロンにしろ、ただしロンは肋骨を折ってるからから控えめに!風圧と重力が作用したただの偶然を自分の実力と錯覚して優越感に酔い痴れるのは個人の自由だ認めよう、だが今はそれより先にすべきことがあるんじゃないか!?」
 レイジの胸に頭をおさえこまれて窒息しそうだ。サムライ以外の男に体を触れさせないと約束したのにまた破ってしまった、これで何度目だろうと数えてうんざりする。
 ふいに腕の拘束が緩む。
 僕の肩に手をかけて顔を上げ、レイジがまっすぐに目を見つめてくる。
 そして、微笑む。
 血に飢えた暴君から憎めない王様へと戻った屈託ない笑顔。 

 『Thank you.Thank you for saving me.You are my friend who is more reliable than God』
 ありがとう、救ってくれて。
 お前は神様より頼りになるダチだ。
 
 本当に久しぶりにレイジの笑顔を見た気がした。
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