少年プリズン

まさみ

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二百六十九話

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 「寝てたほうが都合がいい」
 通路に声が反響する。
 レイジは起きているのか眠っているのか反応がない。壁に背中を預けて無造作に手足を投げ出したレイジの正面に屈みこみ、しとどに血を吸った右袖をめくりあげる。
 袖の下から露出した右腕を見て、眉をひそめる。
 ひどい怪我だ。僕の持ち得る医療知識を総動員して応急処置にあたったところで気休めにすぎない、本当は今すぐ医務室に運んでちゃんとした治療を受けさせたいところだが本人が頑として拒否するのではやむをえない。まったく、駄々をこねる怪我人ほど迷惑な生き物はないと疲労のため息をつく。レイジもサムライもどこまでも世話のかかる男だ。
 二人とも僕より年上のくせに子供じみた言動で駄々をこねて、これではまるで僕が保護者だ。何が哀しくてこの僕が、IQ180の天才たる鍵屋崎直が医者の真似事をしなければならないと自分の境遇が恨めしくなる。
 鍵屋崎の家にいた頃は愛情が欠如した両親の代理として僕こそ恵の保護者を自認していたが、東京プリズンに来て何の縁もゆかりもない赤の他人の怪我の手当てをする羽目になるとは、僕の優秀なる頭脳をもってしてもさすがに予測できなかった。
 めまぐるしく過ぎたこの半年間を回想し、複雑な感慨にひたる。
 物思いに耽りながらも手は止めず、ズボンのポケットから包帯を取り出す。こんなこともあろうかと試合会場に赴く前に医務室から借りてきた。認めるのは悔しいが、ペア戦では僕は完全に戦力外だ。それならばせめて、後方支援としてレイジが負傷した場合の処置にあたりたいと思った。止血のやり方は全部頭に入っている。
 幸い、サムライの時ほど出血量は多くはない。見た目は派手だが、応急処置とその後の治療が的確なら大事には至らないだろう。   
 レイジの右袖を肘までまくり、ぱっくり開いた傷口を観察。純白の包帯を巻いてゆく。傷口を覆ったそばから包帯に血が滲みだす。二重三重に包帯を巻いて腕を保護したあとにテープで止め、額の汗を拭う。
 「よし、これでいい。傷口を手当てもせず放置しておいたのでは破傷風になるからな。
 現代では耳にすることも少なくなったが破傷風はおそろしい症状だ。
 知ってるか?破傷風とは嫌気性菌の破傷風菌(clostridium tetani)によってつくりだされる神経毒による神経麻痺症候群で、破傷風と診断するには菌の存在と毒素産生を促す局所病変と毒素に免疫のないことの三条件が必要となる。
 破傷風菌は傷口から体内に侵入するから自分でも見過ごしてしまいがちなかすり傷も舐めていけない。潜伏期は3~21日で……」
 不安を紛らわすため、ひとり延々と講義を続ける。いつもうるさいレイジが死んだように眠っているのはかなり異様な光景でなんとなく落ち着かない。長めの前髪で表情を隠し、昏々と眠り続けるレイジの沈黙が不吉だ。
 包帯が巻かれた右腕に目をやり、言い知れない焦燥に駆り立てられるように続ける。
 「破傷風は肩こり舌のもつれ顔がゆがむといった症状で始まり、多くは開口障害に発展。次第に嚥下・発語障害歩行障害が現れ、その後けいれん発作が起こり全身発作に進展……」
 『Doctor stop』
 講義を中断し、レイジの顔を覗きこむ。レイジが緩慢に顔をもたげ、両目を隠していた前髪が涼やかに額を流れる。コンクリ壁に背中を預け、弛緩した手足を投げ出して束の間のまどろみを貪っていたレイジがうっすらと目を開ける。
 そして、開口一番こう言った。
 『Is here heaven or hell?』
 ここは天国か地獄か?
 『Here is Tokyo prison』
 ここは東京プリズンだ。
 流暢な英語で応酬すれば、レイジが気だるげにかぶりを振る。正直、レイジが目を覚まして安堵した。一時はもう二度と目を覚まさないのではないかと不安に苛まれていた。そんな素振りは少しも見せず、普段通りの冷静さを装ってブリッジを押し上げた僕を、長い夢から覚めたような顔でレイジが仰ぐ。
 「……マリアかと思った」
 日本語に戻っていた。漸くここがどこか思い出したらしい。
 「マリア?聖母マリアか。くりかえし言うが、僕は男だぞ。性別が違えば当然声の音程が違うだろう、意識不明に陥ってたとはいえ錯覚にも無理がある」
 「違うよ、マリアってお袋の名前。寝てるあいだに夢見てたんだ、色んな夢を」
 夢の内容は聞かなかった。聞ける雰囲気ではなかった。 
 意識回復したレイジは、無防備な顔を晒して虚空を見つめていた。どことなく人を不安にさせる空白の表情。今のレイジはひどく危うく脆く不安定で目が離せない。長く優雅な睫毛が頬に影をおとし、疲労の色濃い顔が物憂げな風情を醸す。
 レイジの疲労は極限に達していた。消耗した体では指一本動かすのも辛いらしく、瞼は半ば以上上がらない。
 「で?なんで俺ここにいんの」
 僕を心配させないようにという配慮か、いや、それは考えすぎかもしれないがレイジが軽い調子で問う。
 「覚えてないのか?僕は医療班に応急処置を頼んで医務室に運ぼうとしたんだが、その途端君が一時的に覚醒して医務室だけは絶対行きたくないと拒否したんじゃないか!」
 愕然とする。あんなに大暴れしたくせに覚えてないのか、なんて無責任なと抗議すれば、さっぱり記憶がないらしいレイジが目を丸くする。
 「マジ?担いでんじゃねえの?全然覚えてねえ」
 「さんざん人の手を焼かせたくせに恥知らずにも記憶喪失のふりか。君の類稀なる神経の図太さに逆説的に敬意を表したい」
 きょとんとしたレイジに辛辣な毒舌を吐き、少しは気がおさまった。毒舌を自重するのはやはり体によくないなと痛感する。レイジの視線に先を促され、仕方なく続ける。
 「……認めるのは不愉快だが、僕らは道化に救われたんだ」

 『独居房に入れておけ』 
 リングに乗り込んだ安田がレイジの正面に立ち塞がる。
 看守数人がかりで取り押さえられ腕を背中に回され、手首に手錠を噛まされたレイジはその時点で気を失っていた。手錠で後ろ手に拘束されたレイジを強制的に引き立て、嵐のように立ち去りかける看守。急展開に現状把握が追いつかず、茫然自失と立ち竦んでいた僕は、看守に挟まれ連行されるレイジを追いかける。
 『待て!』 
 水を打ったように静まり返った地下停留場に、声が響く。
 場外で乱闘騒ぎを起こしていた囚人もパニックを起こして逃げ惑っていた囚人も、一斉にこちらを向く。レイジが昏倒し最大の危機が去り、彼らも平常心を取り戻したらしい。看守陣の最後尾を歩く安田へと駆け寄り、毅然と顔を上げて抗議する。
 『副所長、これはどういうことですか。何故レイジが独居房へ?レイジは腕を怪我してるんだ、まずは手当てを』
 『右腕の治療は看守の監視下のもと受けさせる、君が関知することではない』
 『中間管理職の典型たる答えですね。だが僕は部外者じゃない、当事者だ。僕はレイジの相棒だ、こうして一緒にリングに上ってるのがその証拠だ。ともにペア戦100人抜きに挑む相棒があんな非人道的な扱いをうけて、ろくな事情説明もうけずに独居房送りを告知されて、大人しく引き下がれるわけがない』
 あくまで引き下がらない僕の態度に眉をひそめ、安田が質問する。
 『君はレイジの友人なのか?』 
 頭に血が上った。
 『……僕に対する侮辱と受けとっていいのか、それは。僕と彼は特別親しくないし友人同士でもない。本来彼がどうなろうが知ったことではない、プラナリアの再生実験なみの関心すらそそられない』
 『では』
 『でも、僕には彼を連れ帰る義務がある!』
 先回りをして、力強く断言する。そうだ、僕にはレイジをロンのもとへと連れ帰る義務がある。ここで安田に渡すわけにはいかない、副所長の好きにはさせない。いくら安田の意向でもこんな決定には従えない。
 眩い照明を浴びたリングにて、安田と対峙する。今の安田は僕のことを気にかけ親身に接してくれる年の離れた兄のような存在ではない、東京プリズンの全権代理人たる合理主義の副所長だ。
 銀縁眼鏡の奥の切れ長の双眸が、剃刀めいて怜悧な眼光を帯び、緊張を強いる。
 眼光の威圧に怯まぬよう自己を叱咤し、挑むように安田の目を見る。今レイジを助けられるのは僕だけ、安田を説得できるのは僕だけだ。そう決心し、口を開く。
 『……レイジはもう十分頭を冷やしている。独居房に入れるのは行きすぎだ』
 『いや、妥当な処罰だ』  
 安田の返答はとりつくしまもない。無個性で画一的、垢染みた囚人服を身に纏った囚人たちばかりの中で三つ揃いのスーツを着こなす安田はひどく浮いていた。
 刑務所には場違いに洗練された風貌の副所長が、冷たい目でレイジを一瞥する。
 『彼は場外の囚人を二名殺傷した。それも殴る蹴るの単純な暴力ではなく鋭利な刃物を使った犯行で、彼に刺された囚人は重傷を負った。処置が早かったから幸い命には別状はないが、ペア戦を台無しにし、地下停留場を混乱させ間接的に多数の負傷者をだした罪は重く見なければならない……南のトップと対戦した時の常軌を逸した言動からも、しばらく独居房に隔離して頭を冷やさせる必要があると判断した』
 『レイジは元に戻った、彼が行くべき場所は独居房ではなく医務室だ』 
 『右腕の手当ては私が責任もって受けさせる。だがそれから先は、独居房に入れて経過を見る』
 安田の顔に苦渋が滲む。
 『いい加減自覚しろ、鍵屋崎。事態はもう君ひとりの手には負えない。私ひとりの手にもだ。レイジは地下停留場を埋めた満場の観客の前で凶行に走った、場外の囚人二名に重傷を負わせて事態を混乱させ多数の負傷者をだした、その責任はとらせなければ。けじめをつけなければ』
 安田の葛藤も心情的には共感できる。たしかに、レイジの言動が騒ぎを大きくして地下停留場の混乱を招いて多数の負傷者をだしたのは事実だ。何百何千の囚人が目撃者なのだから言い逃れは不可能だ。独居房送りは妥当な処罰だと頭ではわかってる、場外の囚人二名をナイフで殺傷したのは明らかに行き過ぎだ。
 だが、レイジは。
 『レイジは僕を庇ったんだ。だから、僕にも責任の一端がある』
 レイジが逆上したのは、あの二人が僕に手をだしたからだ。僕に危害を加えようとしたからだ。
 『僕はレイジの共犯者だ。裁くなら、僕を裁け』
 今のレイジを独居房に入れさせるわけにはいかない、絶対に。せっかくレイジを暗闇から連れ出したのに、これではまた逆戻りだ。それにレイジと罪状を分担すれば、処罰が軽減され独居房送りを免れるかもしれない。誤解するな、僕は別に自己犠牲精神に酔ってるわけじゃない。それが最も合理的な結論だと判断したから、ただそれだけだ。
 安田の顔が悲痛に歪んだのは一瞬のこと。すぐに無表情に戻り、僕に背中を向け歩き出す。
 『待て!話はまだ終わってない』
 懸命に安田に追いすがり、行く手に回りこみ立ち塞がる。
 『そこをどけ鍵屋崎』
 『断る』
 『私は忙しいんだ。君と話し合いをもつ時間はない』
 安田が僕にかまわず歩を進める。すさまじい威圧感。だが僕はどかない、このまま安田を行かせるわけにはいかない。レイジを連れていかせるわけにはいかない。僕の鼻先に安田が接近、僕がどかないと見るやそっけなく迂回する。待て、行くな!安田の背中にむなしく手をのばせば、看守に肩を小突かれる。
 『邪魔だ、ひっこんでろ』
 『そんなにダチに会いたきゃ独居房に見舞いにこいよ』
 駄目だ、レイジが連れていかれてしまう。後ろ手に手錠をかけられ強引に歩かされてるレイジの背中に、名伏しがたい衝動が突き上げる。駄目だ、ここでレイジを行かせてしまったらどんな顔でロンに会えばいい?床を蹴り、一散に走りながら叫ぶ。
 『なら、時間をくれ!一日だけでいいんだ!』
 『時間?』
 安田が怪訝そうに振り向く。浅く肩を上下させつつ安田の行く手に回りこみ、畳みかける。
 『レイジと話し合いたい。独居房に入れられたら面会できなくなるんだろう?それは困る、今後のペア戦のことも相談したいし……頼む、数時間だけでいいんだ。見逃してくれ。それが済んだら責任もって引き渡すから』
 体の脇でこぶしを握りしめ、安田に頭を下げる。他人に頭を下げるなどプライドが許さないが、なりふりかまってられない。ほんの数時間だけでいい、レイジと話し合う時間が欲しい、レイジを説得する最後のチャンスがほしいと切実な願いをこめて副所長に頼み込む。
 安田は躊躇した。眼鏡越しの双眸には葛藤が浮かんでいた。ブリッジを押し上げるふりで動揺を塗りこめ、副所長が続ける。
 『……いいだろう』
 『副所長!?』
 『ただし数時間だけだ。そうだな……明朝六時をタイムリミットしよう。話し合いが済んだら約束どおりレイジの身柄を引き渡してもらう、約束を破れば君も処罰する』
 驚いた看守に安田が腕時計を見ながら付け加える。明日の朝六時、それがレイジに与えられた自由の期限。
 承諾した。残り時間がどんなに少なくても、最後までけして諦めない。
 そう自分に確認し、安田を見上げて皮肉げな笑みを浮かべる。
 『見損なってもらっては困る。こう見えて僕は責任感の強い人間なんだ。逃げも隠れもするものか、期限が訪れたら必ずレイジを引き渡す。他人を売る行為に良心など痛まない』
 「他人」を強調すれば、安田が降参したというふうに苦笑いする。看守に指示をとばしてレイジを解放した安田がリングを去るのを見届け、執行猶予つきの寛大な処置に感謝し、レイジに歩み寄る。
 看守に手荒く背中を突き飛ばされ、よろけたレイジをとっさに支える。レイジは首をうなだれまま、僕の肩に体を預けるように立っている。まだ気を失ってるのかと訝りつつ、レイジをひきずってリングを下りようとして……
 『負けだ負けだ、お前らの負けだ!!』
 『何?』
 反射的に声の方を向けば、怒り狂った囚人数人、力任せに金網を揺さぶっていた。
 『親殺しと色ボケ王のコンビの敗北確定、100人抜きの夢パアだ!』
 『こんだけ騒ぎでっかくして地下停留場大混乱させたんだから責任とって辞退しやがれ』
 『いや、辞退表明なんかしなくてもどうせあいつらの負けだろ。知ってるか、ペア戦のルール以前の大前提大事な大事なお約束その一「補欠と交代するときは必ず手と手を打ち合わせて合図すべし」ってな。おいそこのメガネ、お前レイジと手え打ち合わせて交代したか?してねえだろ、勝手にレイジの前にとびだしてきたんだろ!そんな反則許されると思ってんのかっええっ』
 『ちげえねえ、あのメガネがレイジのピンチに勝手にとびだしてきやがったんだ。約束破りは当然反則負け、次週の決定戦はホセとヨンイルの不戦勝だな』
 『不戦勝!』
 『不戦勝!』
 『反則負け!』
 『反則負け!』
 『なっ……、』
 予想外の事態に戸惑う。興奮が冷めたあとに押し寄せたのは、自分の失態を悔いる気持ち。確かに僕がしたことは反則だ、ペア戦の前提を無視した行為だ。通常リングには二名しか上れない、実際に戦う人間しかリングに立つことが許されないのに僕はレイジの危機に反射的に体が動いてとびだしてしまった。
 まさか、そんな。僕のせいで、僕たちが敗北?100人抜きの目標が達成できず、こんなところで終わってしまう?
 目の前が暗くなった。眩暈を覚えた。レイジを抱いてよろけた僕の耳に不戦勝と反則負けコールがこだまする。言い逃れはできない、たしかに僕は反則した。どうすればいい?サムライとロンになんと言えば……
 『じゃあ、俺らも反則負けやな』
 のんびりした声がした。
 会場の怒号に水をさしたのは、ホセに肩を貸したヨンイルだ。いつのまにか僕の隣に来たヨンイルが、顎を引いて周囲を見まわす。
 『お前ら大事なこと忘れてへんか?そう、四人目の道化こと西のトップヨンイル様や。選手でもないにもかかわらずリングに上がったのはなおちゃんだけやない、俺も一緒や。ホセの大ピンチに勝手に体が動いてもうたわ。あー、俺も負けかあ。残念やわあ、レイジ倒して東京プリズン制覇して全棟に囚人憩いの漫画喫茶つくる野望が潰えたわー』 
 大袈裟に嘆くヨンイルに、周囲の囚人がざわめく。道化の一声で大人しくなった囚人たちを睥睨し、ヨンイルが悪戯っぽく笑う。
 『ま、そんなわけでホセ対レイジの一戦はなかったことにしようや。ややこしことになるからな。決着やったら日を改めてつければええやん?はい、そんなわけで今日はこれでおしまい。たのしいたのしい殺し合いの時間はしまいや、とっとと帰らんとヨンイルの手塚漫画夜話に強制参加させるで―』
 ヨンイルが軽快に手を打ち解散を命じれば、周囲の囚人がぞろぞろ引き上げ始める。普段は軽薄に振る舞っているが、ヨンイルの影響力は絶大だった。いや、たんにヨンイルの長話に付き合わされるのを忌避したのかもしれない囚人たちが口々に毒づきながら地下停留場を立ち去るのを見届け、ヨンイルがこちらに向き直る。
 『……何の真似だ、裏切り者が。それで恩を売ってるつもりか』
 『べっつに。ただ、こんなつまらんことで決勝戦フイになるのが惜しかっただけや。まあ、なおちゃんからおおきに聞けたら嬉しいけどな』
 『カムサハムニダ』
 憎めない笑顔のヨンイルをひややかに睨みつけ、足早に立ち去る。 
 『君は韓国人だから韓国語で礼を述べた。理にかなってるだろう』
 『なおちゃんのイケズ。まあええ、はやくそいつ手当てしたれ。顔色悪いで。ホセもはよ手当てしたらなボクサー生命の危機や』
 ホセを担いだヨンイルが最後に付け加える。
 『来週の決勝戦ではおたがい頑張ろや、なおちゃん』
 ヨンイルへの警戒心を捨てたくなるような、あきれるくらい無防備な笑顔だった。

 「……以上の経緯で、君には明日の朝六時までの自由時間が与えられた。安田は手強い交渉相手だったが、僕の頭脳の前では敵じゃなかった」
 「ヨンイルか。なに考えてんだよあいつ」
 レイジは人の話を聞いてない。まったく、せっかく説明してやったのに失礼な男だと憤慨しつつ包帯をしまう。レイジに無視されたのは不愉快だが、いつまでも拗ねてるわけにはいかない。僕らに残された時間は少ない、時間は有効利用しなければ。
 僕の焦りをよそに、レイジはぶつぶつ呟いていた。
 「ヨンイルもホセもわっかんねーよ、謎だらけだよ。俺に不満抱いてたなんてあん時が初耳だ。そりゃ他棟のトップに内緒で100人抜き決めたのは悪かったけど、にしたってこんなの……」
 「落ちこんでいるのか」
 「……サーシャはともかく、西と南のトップとはそこそこうまくやってたつもりだったんだけど。ホセともヨンイルとも付き合い長いし、あいつらの昔話も本人の口から聞いたことあるし、ブラックワークじゃ敵同士だけど普段はダチみたいな……ああ畜生、うまく言えねえ。お前がかわりに言えよキーストア、語彙が豊富な天才ならうまく説明できるだろ」
 「責任転嫁も甚だしい。それに僕には遠く及ばないまでも君の語彙も豊富じゃないか、聖書をすらすら暗唱できる暗記力は常人の域を凌駕してるぞ」
 「ガキの頃から読み聞かされてたから自然に覚えちまったんだよ。そういうお前もよく知ってたな。あれ全部丸暗記したのか。ひょっとしてキリスト教徒?」
 「僕は無宗教の無神論者で神や霊魂の存在には懐疑的だ。ただ聖書を覚えてると読書の際に便利だから暗記したまでだ、聖書といえば今なお読み継がれる世界最大のベストセラーで古今東西の書物に引用抜粋されてるからな。シェークスピアの作品を例にとればわかりやすいだろう?」
 「『空気のように軽いものでも嫉妬する者にとっては聖書の本文ほどの手堅い証拠になる』」
 「オセローか」
 ふと一抹の疑惑が脳裏を過ぎり心穏やかではいられなくなる。
 眼鏡のブリッジに触れて動揺を静め、そんなまさかと否定しようとする。まさかありえない、そんなわけがない。天地がひっくり返ってもそんな馬鹿なことあるはずがないじゃないかどうしてしまったんだ僕は?
 挙動不審な僕を訝しんだレイジが「どうした?」と覗きこんできて動揺が激しくなる。
 「レイジ、まさかそんなことはありえないと思うがひとつ質問していいか」
 「なんだよ」
 恐ろしい疑惑を払うため、動揺を静めるため、さらには僕のプライドを根底から揺るがす最大の危機を脱するため、この上なく深刻な面持ちで切り出す。
 「君はまさかひょっとしてそんなこと絶対不変的にありえないとは思うが僕より頭がいいんじゃないか」
 たぶん僕は世界に絶望したような顔をしてたんだろう。
 暗澹と黙り込んだ僕に虚を衝かれたレイジが、次の瞬間弾けるように笑い出す。
 「あ、はははははははっはははっ!馬鹿だなお前そんなこと気にしてたのか。ひょっとしてアレ、さっきのパフォーマンスひきずってんの?それで俺のほうがお前より頭いいかもしれないって悩んで思い詰めて存在意義揺らいでひとり悶々としてたわけ?かわいいなあ」
 「うるさい黙れ笑うな侮辱するなこの低脳、試しに聞いてみただけだ!
 聖書を全部暗記してるのならひょっとしたら僕に比肩しうるIQの持ち主ではないかとほんの一瞬、時間にして0.03秒ほど疑っただけだ!しかしこれではっきりした、僕が絶対的自信をもって断言するが君はただの馬鹿だ低脳だ。
 そのだらしなく弛緩した顔と下品な笑い方がいい証拠だ」
 そうだ、レイジがこの僕より頭がいいなんてことあるはずないじゃないかと無理矢理自分を納得させた僕の正面で笑い声が途切れ、レイジが疲れたように目を閉じる。 
 「俺、シェークスピアで好きな言葉あんの。知ってる?」
 「見当もつかない」
 まどろみの倦怠感に身を委ね、安らかに目を閉じたレイジが唄うように口ずさむ。

 「『嫌いなものは殺してしまう、それが人間のすることか?』
  『憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね』」

 「……ベニスの商人か」
 レイジらしいといえばレイジらしい。たしかにシェークスピアの台詞は真実の暗い一面を言い当ててる。
 憎ければ殺す、それが人間だ。
 レイジのように。僕のように。他のだれかのように。
 「……君の博学ぶりはよくわかった。だが、生憎と僕らには時間がない」
 沈鬱な雰囲気を払拭するように腰を上げる。ペア戦終了から一時間が経過し、無人の地下停留場からは歓声も聞こえてこない。閑散とした裏通路を見回し、周囲に人がいないのを確認してからレイジを見下ろす。
 「レイジ、ついてきてほしい」
 「だりい」
 「子供か。僕の胸で寝たくせに駄々をこねるんじゃない、君が拒否しても強制的に連れて行く」
 最後は命令になった。乗り気じゃないレイジに肩を貸して立ち上がらせ、急いた足取りで裏通路を歩く。
 「いつからそんな強引になったんだよキ―ストア、惚れちまいそうだよ」
 僕の肩にだらしなく凭れ掛かったレイジをひややかに一瞥、突き放すように答える。
 「バスケットコートだ」
 残り時間は少ない。今夜中にレイジを説得しなければ、僕たち東棟の四人に未来はない。
 理解不能といった顔のレイジに向き直り、きっぱりと断言する。
 「今度は僕の賭けに付き合ってもらう」
 そうえいば「あの人は本当は頭がいいから阿呆の真似ができるのね、上手にとぼけてみせるのは特殊な才能だわ」という台詞がシェークスピアにあったなと、レイジをひきずりながら僕は思い出していた。
 思い出したそばから不愉快になった。記憶力がよすぎるのも考え物だ。
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