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二百六十八話
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びっくりした。
どう反応すりゃいいかわかなかった。直球に直球を返され言葉を失った俺は、呆けたように衝立を凝視するばかり。
生唾を嚥下し、口を開く。
「愛しいって、……惚れてんの」
「……よくわからない。だが鍵屋崎に対する気持ちを表現するなら、それがいちばん近い。俺は鍵屋崎が愛しい。愛しくて守りたい。誰かを心より守りたいと想ったのは、久しぶりだ」
滅多に聞けないサムライの独白に、毒気をぬかれて耳を傾ける。
サムライには昔惚れてた女がいた。俺も噂で聞いたことがある。
はっきりしたことはわからないが、その女はサムライとの仲を無理矢理引き裂かれて木で首を吊ったらしい。本気で惚れた女にそんな死に方されたら、俺ならきっと耐えられない。それから先の人生、ずっと胸の空洞を抱えて自暴自棄で生きてくと思う。
サムライは強いから耐えられた。でも、それがいいことかどうかは判断しようがない。
「俺はずっと考えていた。幼少時から剣一筋に修行を積んで、剣以外には生き甲斐もなく日々を過ごして、ずっとそれでいいと思っていた。それが武士として本来あるべき姿だと信じて疑わなかった」
「違ったのか」
「……わからなくなった」
サムライが呟く。
「苗が、死んでからだ」
苗。いまだにサムライの心の奥底に根を張る亡き女の面影。
惚れた女に死なれるなんて、どれほど悔しかっただろう。やりきれなかっただろう。自分の無力を死ぬほど呪ってこぶしを地面に叩きつけて、でもそれでも死んだ人は生き返らない。
サムライは、最愛の女さえ守り通せなかった。
衝立越しの声には、堪えても堪えきれない悔恨の苦渋が滲んでいた。
「俺が苗を死なせたも同然だ。どんなに腕を磨いたところで人を守り通せない剣に何の意味がある?俺がしてきたことは全部無駄だった。ここに来てからもずっと考えていた。俺に武士を名乗る資格があるのか、剣を手に取る信念があるのかとずっと己に問いかけ続けていた」
一呼吸おき、サムライが晴れやかに続ける。
「だが、鍵屋崎と出会って吹っ切れた。今なら断言できる、俺の剣は人を守るためにあると。愛しい者を全力で守るためなら、迷わずに剣を手に取ると」
サムライが深く、深く呼吸した。
「直と出会えてよかった。俺は、あいつに救われた」
感慨深い独白に、なにも言葉を挟めなかった。
俺の沈黙を誤解したのか、余韻が醒めたサムライが遠慮がちに声をかけてくる。
「長話に付き合わせてすまん」
「……べつに。俺から聞いたんだし」
妙な気遣いが鬱陶しい。いつからこんな優しくなったんだこいつ、鍵屋崎も最近やけに親切だしサムライと薄気味悪い影響与え合ってるのか?不貞腐れたようにゴロ寝し、すっぽり毛布を被ってサムライに背中を向ける。これ以上サムライとしゃべる気はないと意思表示すれば、空気を読まないサムライがさらに続ける。
「お前もそうじゃないのか」
「なんだと」
「レイジと出会えて、救われたんじゃないのか」
心を読まれた気がした。
サムライはすごく、すごくいやなヤツだ。俺が今いちばん言って欲しくないことを口にして、いちばん触れられたくないところを無遠慮につついてくる。
答える義務はない。毛布を被って会話を拒否した俺の背中に、ため息まじりの呟きが落ちる。
「……なら、レイジだけか」
「?」
思わせぶりな台詞に毛布から頭を抜く。ベッドに体を起こし、先を促すように衝立を見つめる。
「レイジはお前に出会って救われた。お前に出会って変わった」
「……嘘つけよ」
ひどく冷たい声がでた。
「お前だって見ただろサムライ、あの時あの場にいたろ?レイジが渡り廊下でなにしてたかばっちり目撃しただろが。あいつこともあろうにサーシャのところにいたんだ、俺がタジマに襲われてるあいだも知らぬ存ぜぬでサーシャと乳繰り合ってたんだ。畜生許せるかよ、許せねえよ!!」
駄目だ、限界だ。もう理性を保てそうにない。
語尾は絶叫だった。急激に怒りがこみあげて目の前が真っ赤になった。今でも思い出す、夢に見る。渡り廊下の光景、サーシャにいいようにされてよがってるレイジの姿態。吐き気がする。認めたくない。レイジが俺よりサーシャを選んだなんて認めてたまるか。
でも、
「レイジは俺を裏切った、それが現実なんだ!」
そうだ。レイジは俺を裏切った。
俺を捨てた。
「裏切るってことはどうでもいいってことだろ、平気で裏切れる人間ってのは所詮その程度のヤツってことだろ?ああ認めてやるよ、俺は今までずっとレイジのダチのつもりだったよ!王様のダチ気取りでいい気になって調子乗ってた、あいつと一緒にいるとうんざりさせられることも多かったけどすっげえ楽しかったよ!あいつすげえ馬鹿でお調子者で尻軽だけど、でも俺にはすっごく優しくしてくれたんだ!!」
でも、全部勘違いだった。芝居だった。
俺はもうなにを信じたらいいかわからない。レイジの笑顔が嘘ならこれまで俺に優しくしてきたことも全部嘘なのか?俺はずっと騙されてたのか?いやだそんなの、そんなわけあるか。否定したい、嘘であってほしい、嘘であってくれたらどんだけいいだろうと今でも思う。
『お前なんか大嫌いだ、死んじまえ!!』
「くそ、あんなこと言いたくなかったよ……だってやっと会えたんだ、やっと会えたのに、なんであんなこと言わなくちゃなんねえんだよ。死んじまえなんて言いたくなかった、ホントはお前のツラ見れて安心したとか心配させた借り返せとか軽口叩いて今までどおりやりたくて、でもだめだったんだよ!」
全部覚せい剤のせいにできたらどれだけ気がラクだろう。
でも、俺がレイジを心の底から憎んだのは真実だ。すぐ正気に戻ったとしても、一度口にした言葉は取り返しがつかない。俺はまた、レイジを拒絶した。あんなに会いたかったのに、会いたくて会いたくてたまらなかったのに、いざ顔を会わせりゃ反対のことばっか言っちまう。舌を切り落としたい、正直になりたい。違うだろ、そうじゃないだろ。それよりもっと大事な、いちばんに伝えたいことがあるだろう。
俺は本気でレイジに怒ってる。サーシャと寝てたことは許せない。
でも、それ以上に。
「ちくしょ……さんざん心配させたくせに、これ以上俺に心配かけんのかよ。かってにひとりで結論だして行っちまって、なんで何も相談してくれないんだよ。俺だって力になりたい、どうにかしたいよ。悩んでるんならちゃんと言えよ、ひとりで抱え込むなよ。頼むから、」
我慢できなかった。
毛布をにぎりしめ、上体を突っ伏す。息を吸うたび肺が焼けるようだ。めちゃくちゃ胸が苦しい。本当はあの時手をのばしたかった、レイジを引きとめたかった。
瞼の裏側にレイジの背中が浮かぶ。
二度と振り向いてくれない背中。俺を置き去りにする背中。
いやだ。行くなレイジ、戻って来い。ひとりぼっちはこりごりだ。もう怖がったりしないから、ひどいことしたり言ったりしないから見捨てないでくれ。
お袋のように、メイファのように
「頼むから、捨てないでくれよ…………っ」
レイジに捨てられるのはいやだ。
寂しい。戻ってきてほしい、そばにいてほしい、ダチでいてほしい。
頼むから、お願いだから、許してほしい。レイジの過去のことでうじうじ悩んでた自分を殺したくなる。いまさら虫がいい願いかもしれない。二度もレイジを拒絶しといて、自分が見捨てられる側になった途端こんなふうに泣き喚くなんてみっともない。わかってる、わかってるよそんなこと。でもレイジと離れてやっとわかったんだ。俺は東京プリズンに来てからずっとレイジと一緒にいて、いつのまにかあいつの笑顔が隣にあるのがあたりまえになって、あいつと馬鹿やって騒いでそれで救われてた。
あいつが隣にいなくちゃ、生きてけない。
生きたいとも、思えない。
「………どうしたらいいんだよ」
答えを求めて虚空に問いかける。返事はない。隣で衣擦れの音。頭を抱え込んだ俺のほうへ、なにかが床を這いずってくる。
「答えはもうでているだろう」
緩慢に声の方を向けば、サムライが床に座りこんでいた。わざわざベッドをおりてこっちまで這いずってきたのか、ズボンの膝が汚れていた。おもわずその太股に目をやる俺を故意に無視し、ベッドにすがり、上体を起こす。俺の枕元に這いあがったサムライが、五指を開く。
そこには牌の欠片が握られていた。
「………何の真似だ」
「お前が投げ捨てた牌を拾っておいた」
「いつのまに?全然気付かなかった」
「お前が寝ているときに拾ったから気付かなくて当然だ」
「今までずっと持ってたのかよ。牌拾うにはベッドから下りて這いずってこなきゃいけねえのに、物好きだな」
サムライが点滴を外し、パイプに手をかけて慎重に足を床におろし、太股の傷が開く激痛に耐え、床を這いずってくる光景を想像する。頑張り過ぎだ。
俺の手に牌の欠片をのせ、上から手を被せ、やわらかに包ませる。
「俺は直がいるから頑張れる。命をかけて試合に臨める。だが、今のレイジにはだれもいない。知っているかロン、レイジはああ見えて頼りなく情けない男だ。相棒がそばにいないと不安で不安でたまらない世話の焼ける男だ」
「お前も大概世話が焼けるよ。少なくとも鍵屋崎にとっちゃな」
サムライが苦笑する。つられて俺も笑う。
その笑顔に励まされ、決意した。
「レイジとやりなおしたい」
強く強く、牌を握りしめる。
「元に戻りたい。前みたいに馬鹿やりたい。あいつの笑顔が見たい。あいつにおもいきり笑ってほしい。どついてどつかれて、たまには寝こみ襲われて枕投げたり投げ返されたり、そんな馬鹿みたいな日常に戻りたい」
レイジが隣にいたから、東京プリズンの日常には救いがあった。
俺はそこそこ、東京プリズンの日常をたのしむことができたのだ。
でも、不安だ。本当に元に戻れるのか、レイジは許してくれるのか?俺はレイジを許せるのか、あいつの過去もサーシャと寝たことも全部ひっくるめて受け入れられるのか?
牌をにぎりしめたこぶしを胸にあてがい、言葉を吐き出す。
「大丈夫かな、元にもどれるかな?さんざんひどいこと言ったのに、いまさら元に戻れたりするもんなのか?俺のことなんかいい加減嫌いになって捨てたくなったんじゃ」
「ロン」
力強い声にハッと顔を上げる。サムライが真摯にこっちを見つめていた。
そしてサムライは、まっすぐ俺の目を覗きこんだ。
「レイジはお前を捨てない。俺が生涯剣を捨てることがないように」
なによりも説得力のある言葉だった。
泣きたいような笑いたいようなこの気持ちを、どう説明したらいいだろう。顔がみっともなく崩れて、安堵のあまり指が弛緩して、牌がこぼれおちそうになった。
顔を俯けた俺の目に映ったのは、サムライの真剣きわまりない面持ち。
「レイジが俺を捨てないって、マジで言ってんのかよ、それ」
「ああ」
「嘘じゃないよな。信じていいんだよな」
「武士に二言はない」
「レイジが俺を捨てるなんて、絶対ない?」
「そうだ」
そこで深く息を吸い、虚勢の笑みを浮かべてみせる。
泣くんじゃない、笑え。なにも泣くことなんかない、漸く決心がついたんだから。自分が本当にやりたいことがわかったんだから。
「お前が鍵屋崎を捨てたりしないように?」
サムライが笑った。
本当に珍しい、あたたかい笑顔。普段の仏頂面が綻べば、そこにいたのはとても優しい顔をした男。
「俺が鍵屋崎を捨てることなど天地神明に誓ってありえん。だから安心しろ、ロン。龍の名が泣くぞ」
ああ、こいつこんなふうに笑えるのか。
そして俺は、サムライの胸に顔を埋めた。
どう反応すりゃいいかわかなかった。直球に直球を返され言葉を失った俺は、呆けたように衝立を凝視するばかり。
生唾を嚥下し、口を開く。
「愛しいって、……惚れてんの」
「……よくわからない。だが鍵屋崎に対する気持ちを表現するなら、それがいちばん近い。俺は鍵屋崎が愛しい。愛しくて守りたい。誰かを心より守りたいと想ったのは、久しぶりだ」
滅多に聞けないサムライの独白に、毒気をぬかれて耳を傾ける。
サムライには昔惚れてた女がいた。俺も噂で聞いたことがある。
はっきりしたことはわからないが、その女はサムライとの仲を無理矢理引き裂かれて木で首を吊ったらしい。本気で惚れた女にそんな死に方されたら、俺ならきっと耐えられない。それから先の人生、ずっと胸の空洞を抱えて自暴自棄で生きてくと思う。
サムライは強いから耐えられた。でも、それがいいことかどうかは判断しようがない。
「俺はずっと考えていた。幼少時から剣一筋に修行を積んで、剣以外には生き甲斐もなく日々を過ごして、ずっとそれでいいと思っていた。それが武士として本来あるべき姿だと信じて疑わなかった」
「違ったのか」
「……わからなくなった」
サムライが呟く。
「苗が、死んでからだ」
苗。いまだにサムライの心の奥底に根を張る亡き女の面影。
惚れた女に死なれるなんて、どれほど悔しかっただろう。やりきれなかっただろう。自分の無力を死ぬほど呪ってこぶしを地面に叩きつけて、でもそれでも死んだ人は生き返らない。
サムライは、最愛の女さえ守り通せなかった。
衝立越しの声には、堪えても堪えきれない悔恨の苦渋が滲んでいた。
「俺が苗を死なせたも同然だ。どんなに腕を磨いたところで人を守り通せない剣に何の意味がある?俺がしてきたことは全部無駄だった。ここに来てからもずっと考えていた。俺に武士を名乗る資格があるのか、剣を手に取る信念があるのかとずっと己に問いかけ続けていた」
一呼吸おき、サムライが晴れやかに続ける。
「だが、鍵屋崎と出会って吹っ切れた。今なら断言できる、俺の剣は人を守るためにあると。愛しい者を全力で守るためなら、迷わずに剣を手に取ると」
サムライが深く、深く呼吸した。
「直と出会えてよかった。俺は、あいつに救われた」
感慨深い独白に、なにも言葉を挟めなかった。
俺の沈黙を誤解したのか、余韻が醒めたサムライが遠慮がちに声をかけてくる。
「長話に付き合わせてすまん」
「……べつに。俺から聞いたんだし」
妙な気遣いが鬱陶しい。いつからこんな優しくなったんだこいつ、鍵屋崎も最近やけに親切だしサムライと薄気味悪い影響与え合ってるのか?不貞腐れたようにゴロ寝し、すっぽり毛布を被ってサムライに背中を向ける。これ以上サムライとしゃべる気はないと意思表示すれば、空気を読まないサムライがさらに続ける。
「お前もそうじゃないのか」
「なんだと」
「レイジと出会えて、救われたんじゃないのか」
心を読まれた気がした。
サムライはすごく、すごくいやなヤツだ。俺が今いちばん言って欲しくないことを口にして、いちばん触れられたくないところを無遠慮につついてくる。
答える義務はない。毛布を被って会話を拒否した俺の背中に、ため息まじりの呟きが落ちる。
「……なら、レイジだけか」
「?」
思わせぶりな台詞に毛布から頭を抜く。ベッドに体を起こし、先を促すように衝立を見つめる。
「レイジはお前に出会って救われた。お前に出会って変わった」
「……嘘つけよ」
ひどく冷たい声がでた。
「お前だって見ただろサムライ、あの時あの場にいたろ?レイジが渡り廊下でなにしてたかばっちり目撃しただろが。あいつこともあろうにサーシャのところにいたんだ、俺がタジマに襲われてるあいだも知らぬ存ぜぬでサーシャと乳繰り合ってたんだ。畜生許せるかよ、許せねえよ!!」
駄目だ、限界だ。もう理性を保てそうにない。
語尾は絶叫だった。急激に怒りがこみあげて目の前が真っ赤になった。今でも思い出す、夢に見る。渡り廊下の光景、サーシャにいいようにされてよがってるレイジの姿態。吐き気がする。認めたくない。レイジが俺よりサーシャを選んだなんて認めてたまるか。
でも、
「レイジは俺を裏切った、それが現実なんだ!」
そうだ。レイジは俺を裏切った。
俺を捨てた。
「裏切るってことはどうでもいいってことだろ、平気で裏切れる人間ってのは所詮その程度のヤツってことだろ?ああ認めてやるよ、俺は今までずっとレイジのダチのつもりだったよ!王様のダチ気取りでいい気になって調子乗ってた、あいつと一緒にいるとうんざりさせられることも多かったけどすっげえ楽しかったよ!あいつすげえ馬鹿でお調子者で尻軽だけど、でも俺にはすっごく優しくしてくれたんだ!!」
でも、全部勘違いだった。芝居だった。
俺はもうなにを信じたらいいかわからない。レイジの笑顔が嘘ならこれまで俺に優しくしてきたことも全部嘘なのか?俺はずっと騙されてたのか?いやだそんなの、そんなわけあるか。否定したい、嘘であってほしい、嘘であってくれたらどんだけいいだろうと今でも思う。
『お前なんか大嫌いだ、死んじまえ!!』
「くそ、あんなこと言いたくなかったよ……だってやっと会えたんだ、やっと会えたのに、なんであんなこと言わなくちゃなんねえんだよ。死んじまえなんて言いたくなかった、ホントはお前のツラ見れて安心したとか心配させた借り返せとか軽口叩いて今までどおりやりたくて、でもだめだったんだよ!」
全部覚せい剤のせいにできたらどれだけ気がラクだろう。
でも、俺がレイジを心の底から憎んだのは真実だ。すぐ正気に戻ったとしても、一度口にした言葉は取り返しがつかない。俺はまた、レイジを拒絶した。あんなに会いたかったのに、会いたくて会いたくてたまらなかったのに、いざ顔を会わせりゃ反対のことばっか言っちまう。舌を切り落としたい、正直になりたい。違うだろ、そうじゃないだろ。それよりもっと大事な、いちばんに伝えたいことがあるだろう。
俺は本気でレイジに怒ってる。サーシャと寝てたことは許せない。
でも、それ以上に。
「ちくしょ……さんざん心配させたくせに、これ以上俺に心配かけんのかよ。かってにひとりで結論だして行っちまって、なんで何も相談してくれないんだよ。俺だって力になりたい、どうにかしたいよ。悩んでるんならちゃんと言えよ、ひとりで抱え込むなよ。頼むから、」
我慢できなかった。
毛布をにぎりしめ、上体を突っ伏す。息を吸うたび肺が焼けるようだ。めちゃくちゃ胸が苦しい。本当はあの時手をのばしたかった、レイジを引きとめたかった。
瞼の裏側にレイジの背中が浮かぶ。
二度と振り向いてくれない背中。俺を置き去りにする背中。
いやだ。行くなレイジ、戻って来い。ひとりぼっちはこりごりだ。もう怖がったりしないから、ひどいことしたり言ったりしないから見捨てないでくれ。
お袋のように、メイファのように
「頼むから、捨てないでくれよ…………っ」
レイジに捨てられるのはいやだ。
寂しい。戻ってきてほしい、そばにいてほしい、ダチでいてほしい。
頼むから、お願いだから、許してほしい。レイジの過去のことでうじうじ悩んでた自分を殺したくなる。いまさら虫がいい願いかもしれない。二度もレイジを拒絶しといて、自分が見捨てられる側になった途端こんなふうに泣き喚くなんてみっともない。わかってる、わかってるよそんなこと。でもレイジと離れてやっとわかったんだ。俺は東京プリズンに来てからずっとレイジと一緒にいて、いつのまにかあいつの笑顔が隣にあるのがあたりまえになって、あいつと馬鹿やって騒いでそれで救われてた。
あいつが隣にいなくちゃ、生きてけない。
生きたいとも、思えない。
「………どうしたらいいんだよ」
答えを求めて虚空に問いかける。返事はない。隣で衣擦れの音。頭を抱え込んだ俺のほうへ、なにかが床を這いずってくる。
「答えはもうでているだろう」
緩慢に声の方を向けば、サムライが床に座りこんでいた。わざわざベッドをおりてこっちまで這いずってきたのか、ズボンの膝が汚れていた。おもわずその太股に目をやる俺を故意に無視し、ベッドにすがり、上体を起こす。俺の枕元に這いあがったサムライが、五指を開く。
そこには牌の欠片が握られていた。
「………何の真似だ」
「お前が投げ捨てた牌を拾っておいた」
「いつのまに?全然気付かなかった」
「お前が寝ているときに拾ったから気付かなくて当然だ」
「今までずっと持ってたのかよ。牌拾うにはベッドから下りて這いずってこなきゃいけねえのに、物好きだな」
サムライが点滴を外し、パイプに手をかけて慎重に足を床におろし、太股の傷が開く激痛に耐え、床を這いずってくる光景を想像する。頑張り過ぎだ。
俺の手に牌の欠片をのせ、上から手を被せ、やわらかに包ませる。
「俺は直がいるから頑張れる。命をかけて試合に臨める。だが、今のレイジにはだれもいない。知っているかロン、レイジはああ見えて頼りなく情けない男だ。相棒がそばにいないと不安で不安でたまらない世話の焼ける男だ」
「お前も大概世話が焼けるよ。少なくとも鍵屋崎にとっちゃな」
サムライが苦笑する。つられて俺も笑う。
その笑顔に励まされ、決意した。
「レイジとやりなおしたい」
強く強く、牌を握りしめる。
「元に戻りたい。前みたいに馬鹿やりたい。あいつの笑顔が見たい。あいつにおもいきり笑ってほしい。どついてどつかれて、たまには寝こみ襲われて枕投げたり投げ返されたり、そんな馬鹿みたいな日常に戻りたい」
レイジが隣にいたから、東京プリズンの日常には救いがあった。
俺はそこそこ、東京プリズンの日常をたのしむことができたのだ。
でも、不安だ。本当に元に戻れるのか、レイジは許してくれるのか?俺はレイジを許せるのか、あいつの過去もサーシャと寝たことも全部ひっくるめて受け入れられるのか?
牌をにぎりしめたこぶしを胸にあてがい、言葉を吐き出す。
「大丈夫かな、元にもどれるかな?さんざんひどいこと言ったのに、いまさら元に戻れたりするもんなのか?俺のことなんかいい加減嫌いになって捨てたくなったんじゃ」
「ロン」
力強い声にハッと顔を上げる。サムライが真摯にこっちを見つめていた。
そしてサムライは、まっすぐ俺の目を覗きこんだ。
「レイジはお前を捨てない。俺が生涯剣を捨てることがないように」
なによりも説得力のある言葉だった。
泣きたいような笑いたいようなこの気持ちを、どう説明したらいいだろう。顔がみっともなく崩れて、安堵のあまり指が弛緩して、牌がこぼれおちそうになった。
顔を俯けた俺の目に映ったのは、サムライの真剣きわまりない面持ち。
「レイジが俺を捨てないって、マジで言ってんのかよ、それ」
「ああ」
「嘘じゃないよな。信じていいんだよな」
「武士に二言はない」
「レイジが俺を捨てるなんて、絶対ない?」
「そうだ」
そこで深く息を吸い、虚勢の笑みを浮かべてみせる。
泣くんじゃない、笑え。なにも泣くことなんかない、漸く決心がついたんだから。自分が本当にやりたいことがわかったんだから。
「お前が鍵屋崎を捨てたりしないように?」
サムライが笑った。
本当に珍しい、あたたかい笑顔。普段の仏頂面が綻べば、そこにいたのはとても優しい顔をした男。
「俺が鍵屋崎を捨てることなど天地神明に誓ってありえん。だから安心しろ、ロン。龍の名が泣くぞ」
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