少年プリズン

まさみ

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二百六十六話

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 『もし、だれでも獣とその像を拝み自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を呑む』 
 意を決して口を開けば、コンクリートの天井高く殷殷と反響する。
 狂乱の坩堝となった地下停留場とは巨大な金網で隔絶された銀の檻、その中央にてレイジと対峙する。
 周囲の喧騒とは無縁の静寂、絶対不可侵の聖域。
 声が震えないよう自制するので精一杯だ。
 なんとか虚勢を保ち勇気を振り絞り、しっかりと目を見開いてレイジを睨みつける。現実から目を逸らしてはいけない、逃避してはいけない。ありのままの現実と向き合わねば、ありのままの現実を受け入れて戦わねば僕まで狂気に蝕まれて平常心を失ってしまう。理性で恐怖心を制御しろと惰弱な自己を叱咤し、怯惰に竦んだ足でリングを踏みしめる。
 心臓の鼓動が鼓膜に圧力をかける。
 レイジが緩慢にナイフをおろし、返り血にまみれた顔を正面に向ける。うろんげにこちらを向いた目はどこも見ていない。精巧な硝子めいた瞳には僕が映っていない。
 ただ、その瞳にあるのは虚無。
 感情が欠落した瞳は硝子質の透明さの眼差しで、僕の心をざわつかせる。
 正気に戻ってくれ、レイジ。
 これ以上地下停留場を混乱に陥れて何の意味がある、血に飢えた暴君を演じて何の意味がある? 
 周囲の人間を血祭りにあげて、それで心の空洞が埋められるのか?喪失が贖えるのか?他人にしたことは全部反射して自分に返ってくる。他者を傷付け害することでレイジ自身が傷付いてないわけがない、レイジ自身が救われるわけがない。
 ロンがいない今、レイジを救えるのは僕だけだと自負して自戒する。
 僕が枷になってレイジをこちら側に留まらせなければレイジはもう後戻りできなくなる、完全に狂気に呑みこまれて闇に溶けてしまう。自分の手さえ見えない漆黒の闇に囚われて分厚い鉄扉の内側に閉じ込められてしまう。 

 そんなことさせるか。
 僕がレイジの手を掴むんだ。

 レイジは虚を衝かれたようにその場に立ち竦み、無表情に僕を見据える。僕の口からでたのは聖書の言葉、ヨハネの黙示録。レイジの聖句に応酬する形で暗唱し、極限まで集中力を高めてレイジの表情を探り一挙手一投足に警戒しつつ、慎重に続ける。 
 『また聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は昼も夜も休みを得ない。神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある』
 『……おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる』
 レイジも乗ってきた。
 口元に浮かんだのは侮蔑の笑み、予想だにしない展開を面白がる軽薄な表情。挑発的な笑みを顔に上らせたレイジが片腕を振り上げ、ナイフで僕をさす。
 毒舌だという自覚はある、いまさらレイジに教えてもらうまでもない。
 見損なってもらっては困る、この程度で逆上するほど僕は狭量でも短気でもない。
 ゆっくりと呼吸し、内面を沈め、凪のように穏やかにレイジを見据える。
 『不従順で反抗する者に対して、わたしは一日中手をさしのべた』
 ローマ人への手紙、「イスラエルがつまずいたのは何のためか」。
 不従順で反抗する者、さしだされた手を頑なに拒む物、神の救いを拒絶して殻に閉じこもる者への献身の訴え。
 僕は聖書を偽善の集大成だと馬鹿にしていた。
 聖書の理念に感銘を受けたことなど一度もなかった。僕は無神論者だ、神も霊魂も非科学的な物は一切信じない主義だ。神も霊魂も全否定して十五年間築き上げた価値観がそう簡単に覆るわけもない、だが今この場だけは、この瞬間だけは言霊の存在を信じてレイジに呼びかけたい。

 レイジの心を手繰り寄せたい。

 精神状態が不安定になったとき十字架を握り締め聖書を口ずさむのがレイジの癖だ。
 なら、レイジを元に戻す鍵もきっとそこにある。
 言霊の神秘に一縷の希望を託し、言葉だけを武器に暴君に立ち向かう。
 金網の外では囚人が互いに足を引っ張りあい罵りあい暴虐の限りを尽くす光景が繰り広げられていた。硫黄と火とに追われた悪徳の都の住人のように、我も我もと雑踏を掻き分ける囚人たちの怒号と罵声と悲鳴とが大気を引き裂く。地下停留場が揺れているのは足音の怒涛のせいか、地震に襲われたかの如く床と天井が震動し、コンクリートの石片が降り注ぐ。

 崩壊の序曲。

 地下停留場が鳴動する轟音と阿鼻叫喚を伴奏に、孤高の暴君が朗々と宣言する。
 『さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ』
 神への供物に自身の肉を捧げようとするかのように、大仰に芝居がかった動作で両腕を広げる。
 一身に脚光を浴び鉄錆びた血臭に酔い痴れるレイジから目を逸らさず、楔を打つ。
 『神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください』
 神よ、もしいるならこの地獄からレイジと僕とを救い出してくれ。
 僕は無神論者だ。これまで神も霊魂も全否定してきたが、今この瞬間だけは力を貸して欲しい。縋らせてほしい。
 不在の神に祈りつつ、続ける。
 『あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私の魂はそれを守ります。みことばの戸が開くと光がさしこみ、わきまえのない者に悟りを与えます。
 私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです』
 『破壊せよ、破壊せよ、その基までも』
 『御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのみことばによって私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。
 私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。
 私の敵のゆえに、私を贖ってください』
 『神よ。あなたは私の愚かしさをご存知です。私の数々の罪過はあなたに隠されてはいません』
 レイジは金網を背に立ち尽くした。
 顔にも服にも血が飛び散っていた。感覚が失せた左腕は肩からだらりとたれさがったまま、自分の意志では持ち上げることすらできない。今レイジは気力だけで立ってる状態だ。おそらく長くは保たないだろう。天井から降り注ぐ石の粉末の驟雨に打ちひしがれ、浅く呼吸しながら立ち尽くすその姿は孤独が人の形をとったようだ。レイジの右腕からは今も血が流れつづけている。はやく止血しなければ危険だ。
 焦慮に気を揉む僕の視線の先で、レイジが鈍重に顔をもたげる。一挙手一投足が四肢の先々に水銀でも流しこまれたかの如く気だるげだ。
 二本足で立っているのも限界なのに、レイジが自発的にリングを下りる気配は微塵もない。血染めの右腕を懐に抱きしめ、前傾姿勢をとり、苦しい体勢から顔だけ起こして僕の視線を受け止める。

 半透明の膜が張ったように虚ろな目。
 色素の薄い綺麗な瞳が、疲労が極限に達した苦痛と倦怠感で濁り始めている。

 病み果てた眼差しとみすぼらしい格好をさらに痛々しく際立たせるのは、虚勢の笑み。
 『ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました』
 やめろ、それ以上言うなと発狂したように叫びたかった。レイジ君は今しゃべれる状態じゃない、無理をするなと制止したかったが僕が抗弁したところでレイジの口は止まらない。片手にナイフをぶらさげたレイジは、疲労の隈が落ちた顔に痛々しい笑みを拵え、今にも膝が砕けそうな重圧の中で懸命に立ち続ける。
 それは懺悔に似ていた。
 僕に懺悔しているのか、僕を通り越してその遥か向こうにいる人物に懺悔しているのかはわからない。わかるはずがない。弛緩した右腕を懐に抱きしめ、汗で湿った額に髪を纏わりつかせ、不規則に乱れた呼吸を整え、口を開く。
 『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、鞭打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした』
 もうやめろ、やめていいんだ。
 叫びたかった。胸が絞め付けられた。激情がこみあげてきた。それでも僕は、レイジに近寄れなかった。指一本動かすことができず、銀の檻の磁力場にとらわれていた。
 静謐。静寂。
 特殊な結界が張られているかのように檻の中は別世界だった。
 不可視の結界に守られた正方形のリングは厳粛な雰囲気に支配されていた。地下停留場を半狂乱で逃げ惑う囚人の怒号も罵声も悲鳴も足音も銀の檻に閉じ込められた僕たちには干渉できなかった。
 足がふらつき、体が傾ぐ。右腕を庇ったまま、背後の金網に衝突。そのまま背中を預けてずり落ちるも、リングに尻をつく寸前、中腰の姿勢で持ちこたえる。
 呼吸が荒い。顔色が悪い。失血した右腕は、壊れた人形のそれのように肩の付け根からぶらさがっていた。辛いだろう、苦しいだろう、意識を保っているのが奇跡のような状態なのだから。
 金網に背中を凭せて頭上を仰いだレイジが、かすれて擦りきれた声をだす。
 浅い呼吸に紛れた独白、過去の告白。

 『ユダヤ人から三十九の鞭を受けたことが五度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に遭い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました』

 淡々とした独白の底から汲み取ったのは、壮絶なまでの孤独。物心ついたときからずっと虐げられ疎外され迫害されてきた人間の半生。
 僕にはわからない。僕は鍵屋崎夫妻の長男として生を受け、裕福な家庭で何不自由なく育てられた。鍵屋崎優と由佳利には子供への愛情が欠落していたが、僕のそばには常に恵がいた。大事な妹が心の支えとなり、僕に存在意義をくれたのだ。
 レイジには、そんな人物がいたのだろうか。
 名前以外の存在意義をくれる人物と、半生で出会えたのだろうか。
 僕はレイジの中に、自分を見た。
 サムライと出会えなかった自分、サムライを拒み続けた過去の自分、だれにも頼らずだれの手も借りずに過酷な環境をひとり生きぬこうと強さと弱さをはきちがえていた半年前の自分。
 ロンに拒まれて絶望したレイジは、もうひとりの僕だ。

 『だれかが弱くて、私が弱くないということがあるでしょうか』

 ブラックワークで無敵の強さを誇ったレイジすら完全ではなかった。心はひどく脆く、笑顔はひどく儚く、これまでロンに依存してどうにか正気を保ってこれたのだ。
 金網に背中を凭せ掛けたレイジの瞼は半ばまで下りていた。 
 照明が涙腺に染みるのか、眩げに目を細める。

 『だれかが傷付いて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか』

 レイジの優しさはひとりよがりで残酷だ。
 大事な人を傷付けたくなければ自分から離れるという究極の選択肢しか思いつけないのだから。
 傷付けたくないから、ロンから離れる。傷付けたくないから、僕を突き放す。
 そしてだれより、レイジ自身がいちばん傷付く。
 今度は迷わなかった。レイジに対する恐怖を克服し、足を動かす。ナイフを持っていても怖くはない、僕はレイジのことをよく知っている。さっきレイジが逆上したのはあの囚人が僕に危害を加えようとしたから、僕の頭上に照明を落とそうと鉄パイプを投げたからだ。
 照明が直撃していたら、間違いなく重量で圧死していた。
 レイジが次に刺したのは、僕にペットボトルを投げつけた囚人だ。
 二人の共通点は、僕に危害を加えようとしたこと。
 大丈夫だ、レイジは狂気に呑みこまれたわけじゃない。手当たり次第に他者を傷付けてるわけじゃない。一歩また一歩と足を踏み出し、着実に距離を詰める。最後まで希望は捨てない、レイジを元に戻す手段が残されているならけして諦めない。緊張に汗ばむ手を体の脇で握りしめ、血痕で足を滑らせないよう注意しつつ、慎重にレイジに歩み寄る。 
 金網に背中を密着させ、中腰の姿勢を維持し、危うい均衡で立ち続けるレイジの正面に立ち塞がる。
 はるかな天井を仰ぎ、大きく深呼吸して肺に酸素をとりこむ。
 そして、口を開く。
 『闇と死の陰に座す者、悩みと鉄の枷とに縛られている者、彼等は神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くさせた。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった』
 祈りが言霊に昇華する瞬間を鼓膜で感じる。
 コンクリートの天井と壁に幾重にも反響する厳粛な声音。無意味な言葉の羅列が音を付与され真摯な祈りへと浄化され、地下停留場の鳴動と共鳴する。とうとう足で自重を支える限界が訪れたが、レイジがよろける。ぶざまに足を縺れさせたレイジの姿が、僕がたった今口にした聖書の内容と重なる。奇妙な符合の一致。
 ただひとつ異なるのは……
 反射的にレイジの腕を掴む。左腕を掴まれ助け起こされた拍子に五指からナイフがすべり落ちる。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
 だが、レイジの前には僕がいる。レイジがよろければ、支える人間がいる。
 『この苦しみの時に彼らが主にむかって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた』
 レイジの腕から、肩から、体から、呪縛が解かれるように力がぬけてゆく。全身の筋肉が弛緩し、もはや立っていられなくなり、金網に背中を預けて力なく座りこむ。立ち上がる気力すら喪失したレイジの耳朶に口を近付ける。
 『主は彼らを闇と死の陰から連れ出し、彼らの枷を打ち砕かれた。彼らは主の恵みと人の子らへの奇しいわざと主に感謝せよ』
 長い長い暗唱もそろそろ終わる。瞼を閉じかけたレイジの耳朶で、結びの言葉を囁く。
 『まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄の閂を粉々に打ち砕かれた』

 扉は打ち砕かれた。閂は壊された。さあ、出て来い。

 『……Amen』
 放心したように呟き、レイジが僕の胸へと倒れこんできた。
 唐突だった。レイジの体を抱きとめようと両腕をのばしたが遅かった。視界が反転、背中に衝撃。レイジの下敷きになったはずみに眼鏡が鼻梁にずり落ち照明が滲んだ。
 漸く終わった。
 そんなに熱心に読みこんだわけでもないが、聖書の内容を全部暗記していてよかった。記憶力の勝利、頭脳に感謝しよう。レイジを沈静化させるには、言霊に言霊をぶつけて狂気を相殺するしかないと判断して賭けにでた。どのみち腕から出血していたのなら、数分と保たずに貧血を起こすだろうと予測して時間稼ぎをしたのだが成功して安心した。
 それはとにかく、いつまでものしかかれていたのでは重くてかまわない。僕を窒息死させるつもりか?
 まったく、どこまでも手がかかる男だと憤慨しながらどかしにかかる。
 「どけ、重いぞ。僕と君と何キロ体重差があると思ってる、このまま窒息死させる気か?まったく都合が悪いときばかり気絶して便利な……」
 ふいに言葉が途切れる。
 「レイジ?」
 おそるおそる声をかけ、レイジの顔を覗きこむ。おかしい、寝てるにしてはあまりに静か過ぎる。衣擦れの音はおろか寝息さえ聞こえてこない。僕の腹部に顔を埋めたレイジの様子に異変を悟り、戦慄が走る。
 嘘だ。
 こんな結末、認められるわけがない。
 漸くレイジを正気に戻すことができたのに、こちら側に引き戻すことができたのに、来週には決定戦も控えているというのに、100人抜き達成が目前まで迫ってるのに。

 そんなまさか。
 レイジが死、

 「世話かかる王様や。心配すな、寝とるだけや」
 照明が翳る。
 金網をよじのぼり、宙へと身を躍らせるヨンイル。滞空時間は一秒にも満たなかった。
 身軽に着地したヨンイルを、レイジを抱いたままあ然と見上げる。
 「……落ちるのが好きだな、君は。派手な登場で観衆の注目を浴びようと高所からの落下と着地という自己顕示欲旺盛なパフォーマンスを演じるのは結構だが時と場所を考えてほしい、不謹慎だ。第一普通に入り口から入ってくれば済むことだろう」
 「お説教は後回しや」
 僕を通り越しヨンイルが向かった先には腕から出血したホセがいた。額におびただしい脂汗をかいたホセの傍らに跪き、ヨンイルが苦笑いする。
 「手え貸そか、隠者」
 「かたじけないです、道化」
 苦しげな笑みを拵えたホセをよそに、上着の袖口を噛み、顎に力をこめて引き裂く。手首から肘にかけて袖を裂いて即席の止血帯を作り、手際よくホセの傷口に巻いてゆく。「よっしゃ」と満足げに首肯、器用に結び目をつくりホセに肩を貸して立ち上がったヨンイルが再び引き返してくる。
 照明を背中に浴びたヨンイル、そのむきだしの腕に目をひきつけられる。 
 手首から肘にかけて、日焼けした肌に映える龍の鱗が妙に艶かしい。
 「どれ、そっちは……」
 僕の横で中腰に屈み、レイジの額へと指をのばし……
 額に触れる寸前に、指が叩き落とされた。
 「生きていたのか。ならそう言え、まぎらわしい」
 すぐまた首をうなだれて前後不覚に陥ったレイジに苦笑を覗かせ、ヨンイルが腰を上げる。
 「『竜が獣に権威を与えた』んやろ。竜の言うことに従え」 
 四肢と胴体を龍に束縛された少年が軽口を叩き、僕を振り返る。
 「ホセもレイジも体から血ィのうなって貧血起こしてへろへろや。この場は一時お開きとしてはよ手当てせなまずいで」
 ホセに肩を貸したヨンイルに指摘されたのが不愉快で、憮然とブリッジを押し上げる。
 「そんなこと道化に言われなくてもわか、」 
 その時だ。
 「レイジを取り押さえろ!!」
 「副所長の命令だ、頭冷えるまで独居房にぶちこんどけ!!」
 場外から乱入した足音の大群が僕らのもとへ殺到、屈強な体躯の看守数人がかりで突進してくる。金網を背にうずくまった僕には逃げ場もない。何だ、何が起きたんだ?混乱する頭で事態の把握に努めるが、現状認識が追いつかない。場外から一斉に駆けこんできた看守が容赦なく僕を突き飛ばし床に転がす。視界が反転、眼鏡が落下する軽い音。金網に背中を凭せ、手探りで眼鏡を拾い、漸く上体を起こした僕の目に映った光景は信じ難いものだった。
 レイジが看守数人がかりで押さえこまれ、床に這わせられている。 
 背中に馬乗りになった看守が憤怒の形相で怒号をあげ、レイジの前髪を乱暴に掴み、床に顔面を打ちつける。別の看守が左腕を両手で押さえこんでコンクリ床に縫いとめ、別の看守が全体重をかけた膝で右腕を押さえこんでいる。別の看守が左足を、別の看守が右足を、その他にも二・三人の看守がレイジの脇を固める。
 膝がめりこんだ右腕から出血が再開し、レイジが苦悶に喘ぐ。レイジが低く低く苦鳴をもらすのを無視し、強制的に両腕を背中に回し、手首に手錠をかけ……
 「やめろ、彼は怪我をしてるんだ!もっと慎重に……」
 我を忘れてレイジに駆け寄ろうとした僕の眼前に、すっと誰かが立ち塞がる。
 足を辿って視線を上昇させれば、思わぬ人物がいた。
 安田。
 「彼には近付くな」
 「そこをどけ!怪我人にあんな乱暴な扱い非人道的にもほどが……」
 安田をどかそうともがけば、非情に肩を押し返される。安田の肩越し、銀の光沢を放つ手錠がレイジの手首へと次第に近付き……
 硬質な金属音が鳴り響く。
 手首に手錠を噛まされたレイジが首をうなだれ、コンクリ床に顔を埋める。僕をその場に残してレイジのもとへと歩み寄った安田が、銀縁眼鏡の奥から冷徹な眼差しを注ぐ。
 「独居房に入れておけ」
 情より理を重んじる冷酷なエリートの顔で、副所長は宣告を下した。
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