少年プリズン

まさみ

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二百六十五話

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 「卑怯者!」
 レイジに盾にされた衝撃から現実へと回帰した僕に、罵声がとぶ。
 「な……」
 金網によじのぼった何十人という野次馬が、一斉に僕を指さし口々に何かを喚いている。だが僕はそれどころではない。レイジに盾にされた。僕がホセとの交渉に臨んでいるあいだ、レイジは僕の言葉を一切斟酌することなく反撃の機会を窺っていた。僕の言葉はレイジに届かなかった、それが非情な現実。僕の訴えはレイジの内面に何の変化も起こさなかった。もう駄目なのか、レイジには説得が通じないのか、レイジは本物の怪物になってしまったのか?僕がレイジを背に庇いホセとの交渉に臨んだのはそんなことをさせるためじゃない、でも結果的にそうなってしまった、事態は僕の予想を裏切る最悪の方向に転がり出してしまった。
 「卑怯者が、てめえレイジの相棒の親殺しだな!?」
 「ホセ説得するふりしてレイジに反撃させるなんざ感心感嘆の頭脳プレイだな、恐れ入ったぜ」
 「レイジと仕組んでホセ嵌めるなんざどこまで悪賢いんだ、天才よお」
 「さっすがてめえを生み育てた両親ナイフでぐさっと殺っちまう鬼畜外道はやることえげつねえぜ」
 「地獄に落ちやがれ屑が!!」
 なに、を言ってるんだ?
 彼らは一体何を言ってる、僕は何を言われている?全く身に覚えのない濡れ衣をかけられ、愕然とリングに立ち竦む。違う、そんなつもりはなかったんだ。僕がリングに駆け込んだのはレイジを救いたいという一心で、これ以上レイジとホセの殺し合いを見たくないという一心で、僕の背中に隠れたレイジがナイフを投擲したのは予想外の出来事で。
 それが、彼らの目には裏切り行為に映ったのか?
 真摯に説得するふりで時間を稼いで、僕とレイジが二人で仕組んでホセを嵌めたように見えたのか?確かにそう見えないこともない、いや、客観的に見ればそれこそ正しいのだ。レイジが視界に入ればまたホセが逆上するに違いないと危惧した僕は慎重に立ち位置を移動して、片腕を負傷したレイジを背中に隠した。両手を広げて立ち塞がればその時点でレイジの姿は背中に隠れてしまいホセの位置からは死角になる。
 だがレイジは違った。金網に背中を凭せて座りこんだレイジは、下方から標的を見定めることができた。
 盲点。 
 「これは違う、」
 「違わねえよ屑が!!」 
 誤解が誤解を招き、僕は卑劣な裏切り者として周囲に認知された。ホセを説得する演技で足止めしてレイジにとどめを刺させようとした悪辣な策士、薄汚い裏切り者。僕と交渉中で死角から襲来したナイフを避けきることができなかったホセは、額におびただしい脂汗を浮かべて蹲っている。ホセは、ホセは大丈夫だろうか?ナイフで貫かれた片腕を抱き、苦悶のうめきを漏らすホセのもとへと……
 「!!っ、」
 反射的に後退する。第六感に起因する咄嗟の判断が僕を救った。足元に落下したペットボトルが床一面に大量の水をぶちまける。僕めがけてペットボトルを投げつけた囚人が的が外れて舌打ち、「裏切り者の屑のくせに生意気によけやがったぜ、あいつ」と悪態を吐く。
 水の飛沫がズボンの裾を濡らす。
 しっかりしろ、優先順位を間違えるな鍵屋崎直。自己憐憫に浸るのは後回しだ、今優先すべきはホセの怪我の程度を確かめることだ。はげしくかぶりを振り惰弱な心を否定し、ホセのもとへ駆け寄る。
 「大丈夫か、しっかりしろ!」
 「はは……さすがですレイジくん、ブラックワーク覇者の腕は鈍っていませんね。あの位置と距離から確実に腕を狙いましたか、サーシャくんにも匹敵する恐ろしい腕前です」
 ホセの背中に手を添え支え起こす。大儀そうに上体を起こしたホセが、蒼白の顔に強がりの笑みを浮かべる。ナイフが刺さったのは左腕だ。血染めの左腕をおさえて苦悶するホセの顔を覗きこみ、傷口周辺部の血管を指で圧迫する。幸い、傷は思ったより深くない。
 「腕はボクサーの命です。ボクサーとしてリングに立てない吾輩など……」
 「弱気になるな、たいした怪我じゃない。すぐに手当てすれば助かる。なにをしている医療班、すぐ来い!ホセは腕を負傷して血を……」
 「待てよ」
 金網の外へと呼びかける僕の眼前にレイジが立ち塞がる。足元のナイフを左手で拾い上げ、柄を掴み、器用に旋回させる。傷口が開いて流血した右腕は肩からだらりとたれたまま、筋肉が弛緩して使い物にならない状態だ。
 にもかかわらず、レイジは不敵に笑っていた。
 「まだ試合は終わってねえぜ」
 「正気か貴様」
 声が震えた。怒りのせいだ。僕を裏切りホセを裏切りすべてを台無しにくたせに反省の色などかけらもなく、大胆不敵に試合再開を促すレイジに視界が赤く染まる。レイジさえ余計なことをしなければすべてが丸くおさまった、決勝戦は次週に持ち越されレイジは今ごろ右腕の手当てを受けていたというのに……
 レイジはまだ、戦い続けるつもりなのか?
 「いい加減にしろレイジ、もう試合は終わったんだ。決勝戦は次週に持ち越しだ、殺し合いを繰り上げる意味などどこにもない。君は準決勝戦に勝利した、また一歩100人抜き達成の目標に近付いた、あと一歩でロンを救えるところまで到達できたんだ。今日の成果はそれで十分じゃないか、何が不満なんだ?これ以上他人を傷付け自分を傷付けても得られるものなど何もないとまだわからないのか!」
 僕を盾にして、ホセの片腕を切り裂いただけでは不満なのか?
 僕はレイジの枷になると誓った、レイジを必ずロンのもとへ連れ帰りロンに会わせると決意した。しかし今のレイジをロンに会わせるわけにはいかない、血で汚れた手でロンに触れさせるわけにはいかない。
 正気に戻れ、レイジ。そんな笑顔、君本来の笑顔じゃない。
 片腕を抱いたホセを背に庇い、レイジと対峙する。
 「どけよ」
 「断る」
 レイジが鼻白む。が、僕は一歩たりともそこを動かない。負傷したホセを背中に隠して立ち塞がれば、返り血にぬれたナイフが鼻先につきつけられる。
 四囲から降り注ぐ照明を浴び、鋭利な先端が白銀の閃光を放つ。
 だが僕の視線はナイフの切っ先を通り越し、終始レイジへと注がれていた。レイジの奇行に驚愕したか、金網に群がった野次馬が緊張の面持ちで口を閉ざし、食い入るようにこちらを凝視する。
 最前までの喧騒が嘘のように地下停留場が静まり返る。
 「どけ」
 「どきはしない」
 レイジが無造作に顎をしゃくる。僕は頑として拒否する。鼻先に擬されたナイフが物騒に輝き、心臓が高鳴る。喉仏が動けばナイフの切っ先が刺さりそうで唾を嚥下することさえできない。ナイフを構えたレイジは、つまらない出し物でも見るように退屈な顔をしていた。倦怠と侮蔑とが綯い交ぜとなった表情を飾るのは、口元の薄い笑み。
 けして怯まず、レイジの目をまっすぐ見据える。
 「偽善ぶるなよ親殺し」
 「偽悪ぶるなよ憎しみ」
 即座に言い返せば、レイジの笑みが消える。 
 僕はもうたじろがない。レイジに親殺しと吐き捨てられ、胸が痛むのは事実だ。だからなんだ?レイジがわざと僕を「親殺し」と呼んでることぐらいとっくにわかってる、僕を遠ざけようと偽悪的に振る舞ってることくらい最初からお見通しだ。だから僕もレイジの言いまわしを借りて応酬した、それだけのことだ。
 だから今ここで、改めて言わせてもらおう。
 逃げずにレイジと対峙し、逸らさずに目を見つめ、レイジに対する恐怖など微塵も感じさせない態度で。
 対等な立場の人間として。
 「僕の名前は鍵屋崎直だ」
 「俺の名前はレイジ。英語の憎しみ。名は体を表すって言うよな?最高に皮肉な格言だ」
 「君の名前の由来など興味もない。親から与えられた名前が気に入らない心情には共感する、だがそれと君の人生になんの関わりがある?僕は君の過去についてなにも知らないも同然だ、君がどんなに悲惨な幼少期を過ごして壮絶な体験をして地獄を見たか僕にはわからない。だがレイジ、君は本当にそれでいいのか?名前に運命づけられたとおり憎しみそのものの存在になって、それで満足なのか?」
 リングに立ち、照明の熱を痛感する。
 白熱の奔流がリングを眩く照らし出す中、僕は僕自身の運命を覆そうとでもいうように言葉を続ける。
 「名前に沿った人生を歩んで、それで満足なのか?君の名前が憎しみだろうが心まで憎しみで埋め尽くせるわけがない、親が勝手に与えた名前で運命を決定され人生を左右されるほど人は弱くないぞ。名前が憎しみなら名前に抗え、名前に負けるんじゃない」
 僕の本当の名前はカギヤザキスグル。
 鍵屋崎夫妻の長男に出生前から用意されていた名前。僕の名前はそれ以上でも以下でもないただの記号にすぎない。だが僕の身近には、僕を親しく呼んでくれる人間がいた。
 『おにいちゃん』
 大事な妹、恵。
 『直』
 大事な友人、サムライ。
 だから僕も、僕だって自分の名前は捨てたものじゃないと思えるようになったんだ。親しく名前を呼んでくれる人がそばにいれば名前などなんでもいいのだ、意味などなくてもかまわないのだ。
 大事なのは名前の意味じゃない。
 多くは望まない。たったひとりでいい。 
 心をこめて名前を呼んでくれる人間がそばにいれば、それだけで生きていける。
 どんなに救いのない人生にも耐えがたい現実にも、絶望せずにいられる。 
 僕は他のだれに親殺しと呼ばれてもかまわない、親殺しと蔑まれ罵られ唾吐きかけられてもかまわない。
 たった一人でいい。たとえこれから先なにが起きてもサムライが僕を「直」と呼んでくれる確信があれば、それを支えに生きていける。
 「レイジ、君にもいるだろう。いつも身近で名前を呼んでくれる人間が、うるさいくらいに名前を呼んでくれる友人が。その友人が、いちいち君の名前の意味など考えていると思うか?彼にとって君はレイジ以外の何者でもない、レイジという名の友人以外の何者でもない。思い出せ、レイジ。彼に名前を呼ばれた時、君は嬉しかったろう?ごく自然に笑顔を浮かべていたろう?」     
 だから僕はくりかえしレイジの名を呼ぶ。祈るように、呼ぶ。僕は何度親殺しと罵られようがかまわない、僕のそばには常にサムライがいる。周囲の人間すべてが僕を親殺しと蔑み罵り唾を吐きかけても僕が自分を見失わず鍵屋崎直のままでいられるのはサムライが僕の名を呼んでくれるからだ。

 サムライだけは変わらず僕の名を呼んでくれるという希望があるからだ。

 僕の呼びかけにもレイジは反応を示さなかったが、その目に波紋が生じたのを見逃さない。ナイフを構えた手がゆっくりと引かれ、やがて体の脇へとおろされる。
 僕の説得が通じたのか?レイジは元に戻ったのか? 
 「レ、」
 「死にやがれ!!」
 照明の光がふいに遮られる。
 金網越しの安全圏からレイジにブーイングを浴びせていた主犯格の囚人が、大きく腕を振りかぶりなにかを投げる。照明の逆光に塗り潰された落下物に目を凝らす。あれは……
 鉄パイプだ。
 危ない。 
 囚人が力任せに投擲した鉄パイプが金網を飛び越えて照明のひとつに激突、盛大に破片を撒き散らす。鉄パイプが命中した照明が不安定にぐらつき、落下。
 すさまじい轟音、衝撃。 
 視界が明滅して足元が揺れる。僕とレイジの中間に落下した照明の破片が四方に飛散、鋭利な破片が頭上に降り注ぐ。反射的に腕で顔を庇ったから細かい切り傷だけで済んだが、もしあれが頭上に落ちていたら間違いなく絶命していた。
 「は、ははははははは!ざまあみやがれ、腰抜けが。びびって漏らしちまったか、クソ眼鏡」
 金網に両手をかけた囚人が背を仰け反らせて哄笑をあげる。 
 だが僕を戦慄せしめたのは、足元に落下した照明器具でも狂ったように哄笑する囚人でもなく眼前のレイジ。片手にナイフを携えたレイジが体ごと金網に向き直り、豪腕で鉄パイプを投擲した囚人を見据える。
 レイジの雰囲気が豹変したことにも気付かぬ愚かな囚人は、なにかに取り憑かれたようにまくしたてる。
 「勝手に話進めやがって、無視するんじゃねえよ!準決勝の相手は南のガキだけじゃないぜ、46組目の俺さまはアウトオブ眼中かよ?どいつもこいつも人の見せ場横取りしやがって気にいらねえ、でしゃばりは死ね、むしろ殺す!!」
 ホセの飛び入り参加で自分の試合がうやむやとなった不満をここぞと爆発させる囚人に、レイジが微笑みかける。
 「そんなに死にたいのか」
 止めに入る余地もなかった。
 「………あ?」
 金網を掴んでがなりたてる囚人の脇腹から、ナイフの柄が生えていた。刃は半ばほど腹部に埋まっていた。無造作にナイフを引きぬくのを合図に、囚人が膝から崩れ落ち、栓をぬかれた傷口から血が噴出する。
 脂肪に濡れ光るナイフをひと振り、慣れた動作で血を払ったレイジが金網に寄りかかった囚人を容赦なく蹴り飛ばす。腹部を片手で庇った囚人が床に転倒、海老反りの絶叫をあげる。
 「あああああっいっいてええ、血、血がこんなにで……」
 「情けねえな、そんな体たらくでよくもまあ準決勝まで勝ちぬけたもんだ。裏で賄賂でも渡してわざと負けてもらったのか?」
 網目に片腕をくぐらせ目にもとまらぬ早業で46組目を屠ったレイジに勝利を誇る色はなく、ただただ楽しげに楽しげに笑っていた。足元一面に散乱した照明の破片を踏み砕き、靴裏をねじる。レイジの靴の下で薄氷が割れるように破片が砕け散る。
 レイジは今、正気と狂気の境界線上にいる。
 足元の薄氷を踏みぬいたら、底まで堕ちるだけだというのに。
 「ちょうどいい、せっかくだ。46組から先全ペアまとめて相手してやるよ。どうしたほら、かかって来いよ。さっきまでの威勢のよさはどうしたよ?俺のことさんざん馬鹿にして罵ってたくせにいざとなりゃ逃げ腰かよ、情けねえ。そこのお前」
 レイジが顎をしゃくった先には、ひとりの囚人。ついさっき、僕にペットボトルを投げつけた少年。
 「知ってんだぜ、お前が47組目だろ。入り口近くうろちょろして目障りだったからすぐわかったぜ。相棒はどうしたよ、お前ひとりほっぽりだして逃げ出したのか?」
 「ひっ………」
 反射的に背中を翻し逃走を図るが、レイジはその無防備な背中めがけてナイフを突き出す。肩甲骨と肩甲骨の間、痛点が集中する急所を抉られた少年が前傾のち転倒、上着の背中を真っ赤に染めて身悶えればレイジが口笛を吹く。
 いたずらに味をしめた子供さながら朗らかな笑顔。
 「さあ、文句があるヤツはでてこいよ。寂しがり屋の王様が遊び相手募集中だ」
 「い、いかれてやがる……!」
 「逃げろ、少しでも遠くレイジから離れろ!」
 「いやだ死にたくねえ、王様のお遊びに付き合わされて嬲り殺されるなんざ冗談じゃねえ!!」
 地下停留場が大混乱に陥る。
 我先にと逃げ出す囚人たち、先行者の後ろ髪を掴んで踏み倒し蹴散らし逃走する。レイジと目が合えば殺される、確実に刺される。恐怖に駆り立てられた囚人たちが溶岩流に襲われたソドムの住人のように怯え逃げ惑うさまにレイジは哄笑する。
 僕の目に映る光景は、地獄だ。
 「こら、大人しくしろ!言うことを聞かねえと独居房送」
 「どけよクソ看守、俺は命が惜しいんだよ!」
 「これ以上ここにいたら命がいくつあっても足りねえよ、血に飢えた暴君に嬲り殺されてたまるかよ!」
 激昂した囚人に看守が突き飛ばされ無様に転ぶ。転倒した看守の顔面を踏みつけ泥まみれにし雑踏を掻き分けるように前へ前へと四肢をくりだす囚人たち。混乱。恐慌。我先にと逃げ出した囚人たちが先行者を手荒く突き飛ばし殴り飛ばし聞くに堪えない罵声を浴びせて乱闘へと縺れこむ。額を割られ鼻骨を折られ顎を粉砕され顔面を血の朱に染めた囚人たちが互いの胸ぐらを掴み合い罵り合う。
 地獄を召還した地下停留場に血なまぐさい匂いが充満する。
 自らが騒乱のきっかけとなった阿鼻叫喚の戦場を睥睨し、レイジが満足げに呟く。

 地獄に君臨する暴君のように。
 褥に横たわる怠惰な悪魔のように。

 『私は見た。海から一匹の獣が上ってきた。これには十本の角と七つの頭とがあった。
 その角には十の冠があり、その頭には神の名を汚す名があった。
 私の見たその獣は豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に自分の力と位と大きな権威とを与えた。
 その頭のうち一つは打ち殺されたと思われたが、その致命的な傷も治ってしまった。
 そこで全地は驚いてその獣に従い、そして竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで「誰がこの獣に比べられよう、誰がこれと戦うことができよう」と言った。この獣は傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二ヶ月間活動する権利を与えられた。
 そこで彼はその口を開いて神に対するけがしごとを言い始めた』

 誰がレイジに比べられよう、憎しみそのものと戦うことができよう?
 返り血にぬれたナイフを頭上高く照明に翳してレイジが宣誓する。
 神への冒涜。
 この世の悲惨に目を瞑る神への呪詛、ヨハネの黙示録。
 
 『もう一匹の獣が地から上ってきた。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
 この獣は最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。
 また天と地に住む人々に致命的な傷の治った最初の獣を拝ませた。
 また人々の前で火を天から降らせるような大きなしるしを行った。
 またあの獣の前で行うことを許されたしるしを持って地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように人々に命じた。
 それからその獣の像に息を吹きこんで獣の像がものを言うことさえできるようにし、またその獣の像を拝ませない者を皆殺させた』
 腕の激痛も麻痺したか、レイジの独白はよどみない。
 狂気と虚無とに蝕まれ、絶望的に透徹した目にナイフの閃光が映える。
 『また小さい者にも大きい者にも富んでいる者にも貧しい者にも自由人にも奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに刻印を受けさせた。またその刻印、すなわちあの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外にはだれも買うことも売ることもできないようにした。
 ここに知恵がある。
 思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。
 その数字は六百六十六である』
 レイジを止めなければ。
 呪縛が解けたのは僥倖だった。レイジの狂気に伝染して茫然自失と立ち竦んだ僕を正気に戻したのは、靴裏で破片が砕ける音。レイジに気圧されてあとじさった拍子に照明の破片を踏み砕き、弛緩した頭が現実に直面し、ハッと顔を上げる。 
 この場は僕が収拾をつけなければ。
 レイジを正気に戻せる人間は、もう僕しかいない。
 しかし僕になにができる、レイジの暴走を止めるにはどうすればいい?どれだけ言葉を尽くしても説得が無意味なら他に僕にできることは何も……
 待てよ。
 脳裏に一条の閃光が射す。諦めるのはまだ早い、手がないわけじゃない。どれほど望みが薄くてもレイジを正気に戻す手段が残されているならそれに賭けてみるしかないじゃないか。
 深沈と目を閉じる。
 脳裏に次々と浮かび上がる映像。褐色の手に十字架を握り締めたレイジの安らいだ顔、レイジが憑かれたように呟く聖書の言葉。そうだ、レイジはこれまでけして十字架を手放さなかった。どこへ行くにも、サーシャのもとへ赴くときさえ肌身はなさず持ち歩いていた十字架はレイジにとって命にも代えがたい重大な意味をもつ。心が乱れたとき、狂気に呑まれそうになったとき、レイジが小声で口ずさむ聖書の言葉。
 十字架を握り締める行為が狂気の抑止剤なら、聖書の暗唱は精神安定剤。十字架をまさぐる行為と聖句を唱える行為の相乗効果でこれまで何とか正気を保ってこれたのだとしたら……
   
 まだ、望みはある。
 レイジを悪魔でも怪物でも人殺しでもなく、ただのレイジに戻せる可能性がある。
 
 足元に散乱した照明の破片を踏み砕き、レイジを刺激しないよう、慎重に慎重を期して歩み寄る。
 「あぶない!」
 叫んだのはホセか、雑踏に揉まれるヨンイルか?どちらでもかまわない。制止の声を無視し、レイジとの距離を詰める。一歩、また一歩と歩を進めるにつれ恐怖が心臓を鷲掴みにする。全身の毛穴が開き、いやな汗が噴き出す。怖い、逃げたい。怯惰に竦む足を叱咤しひたすら前へと運び、虚勢をかき集めて毅然と前を向く。今の僕を支えているのはレイジから逃げるのを良しとしないプライド、レイジを必ずロンのもと連れ帰るという使命感、事態を混乱させた責任の一端を担いレイジを止めなければという責任感。
 いや、それ以上に。
 僕が、僕自身がレイジを止めたい。これ以上過ちをおかしてほしくない、他人を傷付け自分を傷付ける愚をおかしてほしくない。他罰と自虐の悪循環を断ち切らねばレイジは永遠に救われない、自分へとさしのべられるすべての救いの手を拒絶してどこまでもどこまでも堕ちてゆくだけだ。
 そんなこと、あってたまるか。
 僕が苦しい時はサムライが手を掴んでくれた、僕の手を掴んで闇から引きずりあげてくれた。
 だから今度は、僕の番だ。
 レイジが嫌がろうが抗おうが、全力で暗闇から引き上げてやろうじゃないか。
 そして僕は、全身朱に染めたレイジとふたたび対峙した。
 僕が枷となり、レイジをこちら側に留まらせるために。
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