少年プリズン

まさみ

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二百六十四話

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 歓声が爆発する。
 「認めないぞ!」
 むなしく叫ぶ僕の声は、ホセの参戦に沸き立つ大歓声にかき消される。
 貫禄と風格とを兼ね備えた足取りで檻の外側を半周、矩形の出入り口をくぐったホセが丁寧に会釈をする。四囲の高所に設置された照明を浴び、燦然と輝く現代のコロシアムに満を持して南の隠者が上がる。 
 駄目だ、ホセを行かせてはいけない。ホセとレイジを戦わせてはいけない。
 ホセとレイジが戦えばどちらかが確実に死ぬ。重傷を負う。
 脳裏で危険信号が点滅する。網目に食い込んだ指は握力のこめすぎで白く強張っている。喉が異常に乾き全身の血の巡りが早くなり惨劇の予感に心臓が高鳴る。
 レイジは利き腕じゃなくても人を殺せる、ホセは素手で人を殴り殺せる。
 そんな二人が正面からぶつかれば流血の惨事は避けられない。僕はつい先日渡り廊下でホセの実力の程を目撃した。哀れな囚人に馬乗りになり狂ったようにこぶしを振るうホセ、相手の鼻骨と顎を粉砕し顔面を陥没させてもなお暴力衝動が冷め遣らず返り血にまみれたこぶしを振るい続けるさまは近寄りがたく狂気じみていた。

 ホセとレイジを戦わせてはいけない。それは確実に、どちらかの死を意味する。

 「認めないぞこんな異常事態!第一ホセ、君はそこの少年の相棒でもなんでもない。
 レイジと対戦した少年の相棒は今さっき自棟へ逃げ帰ってしまった、そこの彼は無二の相棒に見捨てられたんだ。ペア戦は二人一組で参加する大前提、事前に登録した相棒の片割れが失踪した場合は試合続行不可能となり挑戦者の敗北が確定……」
 「ブルータスくんが一言でも『俺の負けだ』とおっしゃいましたか?』
 僕の抗議を遮ったのは温和な声。
 ブルータスと入れ替わり、リングへと足を進めたホセが落ち着き払って口を開く。
 「吾輩の記憶が正しければブルータスくんはただの一度として『自分の負けだ』と認めてはいません。ならば降参を表明したことにはならない。君はなにか勘違いしてらっしゃるようですが、試合はまだ続いていますよ?」
 ホセと入れ違いに一目散に場外に逃走するブルータス。片手で目を覆い片手で喉の傷口を塞ぎ、おびただしい血痕を地面に滴らせ金網の外へと退場しつつ『He is the devil, He is a monster, He is a killer!I do not want to approach him!』と喚き散らす。無事な片目は、常人の理解を超越した怪物との遭遇がもたらした恐怖に極限まで剥かれていた。
 ブルータスの片目に映った光景が僕にはありありと想像できる。
 優しく微笑みながら頭上にナイフを振り上げるレイジ。
 全身に返り血を浴びて恍惚と佇むその姿はおぞましくも美しく、ナイフで片目を抉られ視神経を切断される瞬間さえレイジの視線に呪縛され存在感に圧倒され指一本動かすことができなくて。

 『奴は悪魔だ、怪物だ、人殺しだ!奴には二度と近付きたくない!』

 医療班の手を薙ぎ払い、ブルータスが咆哮する。リング外の安全圏に脱してもなおレイジへの恐怖が拭い去れず手足を振りまわして暴れるブルータスが看守数人がかりで押さえこまれ、強制的に鎮静剤を打たれる。痙攣の発作のように喉を仰け反らせ四肢を突っ張らせたブルータスが口の端から唾液の泡を噴いて昏倒する。そのさまを哀れみ深く見届け、ホセが首を振る。
 「片目と喉を潰すとはやり口がえげつない。しかしまあ、切り落とされたのが腕ではなくて安心しました。腕を切り落とされてはボクサー生命が終わりますからね」
 そういう問題か?
 僕の疑問をよそに、ホセは一方的に話を続ける。
 「吾輩も南棟のトップを張っている手前、自棟の人間が東のトップに片目と喉を潰され殺されかけたのを見て見ぬふりで放置するわけにはいきません。ブルータスくんの仇は吾輩がとります。今から始まるのは東と南の面子を賭けた復讐戦。遠慮はご無用ですよ、レイジくん」
 噛み砕くように説明するホセ。唐突な展開に理解力が追いつかず、不穏げにざわめく満場の観衆が、いつしか人心を掌握する魅力的な声音を武器とするホセの演説に陶酔し、興奮に上気した面持ちでリングを見つめだす。
 コンクリートの絶海に浮かぶ孤島の如く、銀の金網に包囲されたリングを支配するのは周囲の喧騒とは無縁の静寂。
 「待て、勝手に話を進めるんじゃない!こんな唐突な展開承認されるわけ……」
 「認めるぞ!」
 どこからか怒号が上がる。反射的にそちらを向けば、地下停留場を埋めた空前絶後の大観衆が波涛のようにのたうちホセの飛び入り参加を歓迎する。
 「面白くなってきたじゃねえか、おい」
 「南の隠者と東の王様、二大トップ対決が早くも実現か。予定外のカードだが大歓迎だ、退屈な前座はおしめえだ。いけ殺っちまえホセ、レイジの鼻っ柱へし折っちまえ!」
 「決勝戦が一週繰り上がっただけだ、たいした問題じゃねえ。なあ賭けしようぜ、南のトップと東のトップどっちが試合に勝つか」
 「俺はホセに賭ける。素手でひと撲殺できる人間凶器、狂戦士ホセといや泣く子もひきつけを起こす地下ボクシング王者だ。レイジご自慢のツラが鉄拳粉砕されるとこ見たくねえか?」
 「不細工に整形してやれ!」
 「醜男の僻みかよ。俺はレイジに賭けるぜ、なんたって東京プリズン最強の男だ。南のトップだって目じゃねえよ。第一レイジはナイフを持ってる、素手とナイフじゃどう考えたって後者が優勢だ」
 「レイジを殺せホセ!」
 「ホセを殺せレイジ!」
 「殺しちまえ殺しちまえ、イカレた猛獣二匹情け容赦なく殺し合って存分に楽しませてくれよ!!」
 いつしかホセの参戦を歓迎する波涛は地下停留場全体へと及び、何百何千の大観衆がこぶしを突き上げ怒号を発し地震の如く足を踏み鳴らす。地下停留場が震動する騒音で鼓膜が破裂しそうだ。殺せ、殺せ、殺しちまえ。観衆の頭上を飛び交うのは手から手へと投げ渡される紙幣、レイジとホセどちらが勝つかを対象とした賭けが看守の取り締まりを無視して公然と行われ、あちこちで十数人規模の乱闘が勃発し負傷者が頻出し事態の収拾がつかなくなる。
 地下停留場に居合わせた誰もがレイジとホセの対決を期待してる、熱望している。南と東のトップが雌雄を決する歴史的瞬間、東京プリズンの勢力図が塗り替えられ秩序の均衡が崩れる瞬間を今か今かと待ち構えている。
 「……くっ、」
 観衆は大乗り気だ。ホセもまた、引く気は毛頭ない。大観衆に承認されたホセは、地下停留場を埋めた全囚人を味方につけたも同然だ。
 いつか安田が言った、副所長にできることは実はとても少ないと。副所長にできることは囚人を規則で締め付け暴走を抑止するだけ。だが抑止力にも限界があり、東京プリズンに現在収容されてる少年たち全員を規則に従わせることは難しい。
 東京プリズンの主役は、囚人なのだ。
 圧倒的多数派を占める彼らが一致団結したら、本来彼らを管理し監視する立場の副所長も看守も無力を噛み締めざるをえない。それがどんなに好ましくない展開でも、最悪の結果を生み出す展開でも、権威や暴力で押さえ付けることのできない規模の集団相手には道理を引っ込めざるをえない。
 数は暴力だ。集団は無敵だ。地下停留場を埋めた囚人が一丸となり血で血を洗う展開を祝福するなら、所詮は部外者である大人たちは苦汁を飲んで容認せざるをえない。
 地下停留場に赴いた囚人のだれもが、ホセとレイジの直接対決を望んでいる。二大トップ対決の実現を期待してやまない集団心理はよくわかる。だが僕だけは容認するわけにいかない、絶対に。僕はこれ以上レイジに遠ざかってほしくない、ロンとレイジの距離を開かせたくない。
 金網を掴んだ僕の視線の先、リング中央で対峙する二大トップ。
 「片目と喉を潰された弟子の敵討ち、か。隠者は優しいな」
 「性分なんです」
 気取った手つきで黒縁眼鏡を外し、ポケットにしまう。伊達眼鏡を外して素顔を晒したホセが、改めてレイジと向き合う。 
 「いずれにしても、君とはいつか決着をつけねばいけないと思っていました。東の地を治める王なら相手に不足はありません……今も医務室で寝ているロンくんのことを思えば少々気が咎めますがね」
 「御託はいいよ。はやく殺ろうぜ、ユダ」
 前説には飽き飽きしたとレイジが肩を竦める。
 「俺を倒して東京プリズンを統一したいんだろ?なら実行してみろよ」
 「ではお言葉に甘えて」
 ホセが微笑み、試合再開のゴングが高らかに鳴り響く。
 ゴングの余韻が大気に溶けるより早くレイジが行動を開始する。返り血が付着したナイフを片手に構え、頭を屈めた低姿勢で疾走しホセに肉薄。殺気を抑制し接近の気配を消し、肉食獣めいて敏捷な動作でホセに肉薄したレイジの左腕が下から上へと跳ねあがる。銀の軌跡を曳いたナイフがホセの下顎を切り付ける、と見えたのは錯覚でホセは後方に跳躍しあざやかにこれを回避。素手とナイフでは分が悪い、という大方の予想を裏切る並外れた反射神経を発揮して即座にボクシングの構えをとる。
 背筋に戦慄が走る。
 ホセの目に殺意の眼光が宿る。隠者から狂戦士へと一瞬で面変わりしたホセが鋭い呼気を吐き腕を撓め、次の瞬間レイジに殺到する気迫の風圧。  
 「避けろレイジ!」
 おもわず叫んでいた。僕のアドバイスが功を奏したか、レイジの姿が消失。片足を踏み込み腕を振りかぶるホセ、そのこぶしが穿つのは最前までレイジがいた虚空。ホセの運動神経も尋常じゃないが、レイジの運動神経はさらにそれを上回る。常人を凌駕する運動神経を持ち得た二人が交差し交錯し、ホセとレイジが一刹那すれ違う接点でナイフとこぶしが衝突すればキィンと歪な音が鳴る。
 指輪とナイフとが擦れ合う高音域の金属音。
 試合の加熱ぶりに比例して観衆も熱狂する。
 「殺せ、殺しちまえ!」
 「東京プリズン最強王者の椅子はお前のもんだ、ホセ」
 「がっかりさせんなよレイジ、こちとら100人抜きに大枚張ってるんだ!お前と心中すんのはおことわりだぜ」
 「勝て東!」
 「勝て南!」
 「どちから一方が息絶えるまで檻から出るなよ気狂いのケダモノが!」
 遅い、既に殺し合いが始まってしまった。金網に両手をかけた僕の眼前ではレイジとホセとが迫力の死闘を演じている。
 律動的なフットワークで後方に飛び退いたホセが床の血痕で靴裏を滑らせば、その一瞬で距離を稼いだレイジが凄惨な笑みを浮かべる。 
 『You are a betrayer. A betrayer has death.』
 裏切り者には死あるのみ。
 ホセの頚動脈を切り裂こうと斜め上方から振り下ろされたナイフだが、首の薄皮を裂くだけに留まる。確実に急所を狙い、致命傷を与えんと襲い来たナイフをホセのこぶしが撃ち抜いたのだ。斜め上方から急襲したナイフを懐に隠したこぶしで突き上げれば、ホセの腕力とレイジの腕力とが拮抗して両者膠着状態に陥る。
 ナイフと指輪とが擦れる金属音が耳を劈く。
 「……吾輩を怒らせましたね、レイジくん」
 押し殺した呟き。指輪に傷をつけるのは禁忌、ホセが激怒する兆候。
 「いいこと教えてやろうか、ホセ」
 前傾姿勢をとり、ホセの耳元に口を近付け、性悪な色男の顔でレイジが囁く。
 「お前のワイフと寝たぜ。情熱的な腰つきのラテン女」
 『Uooooooooooooooo!!』
 挑発、そして激昂。
 獣じみた咆哮をあげ、暴力衝動を解放する。膠着状態が破られた。嘘と分かっていても最愛の妻を侮辱された怒りはおさまらず、破壊の権化となったホセが猛然とこぶしを振るう。大気を穿つ砲弾、頑丈な骨で鎧われたこぶしが風切る唸りをあげてレイジの額へ頬へ胸郭へ鳩尾へ下腹部へと打ちこまれる。だがレイジはそのすべてを余裕でかわす、口元に笑みを絶やさずこぶしの軌道を見極めて最小限の動きでそれを回避。
 「実写版北斗の拳や……」
 声の方を振り向く。隣にヨンイルがいた。ヨンイルもまた会場の熱気にあてられたか、恍惚とした表情で無心にリングを見つめている。 
 「呑気な感想を述べてる暇があるなら止めろ、道化!ペア戦で死者をだしたいのか?」
 「アホ言うなや、ホセがキレたら最後だれにも止められへん。死にとうないなら大人しゅうしとれ」
 ヨンイルは役に立たない。
 耳を聾する大歓声が広大な地下停留場に反響する。興奮が絶頂に達した囚人が金網によじのぼり引きずりおろされ下品なスラングと狂騒の口笛とが死闘の伴奏になる。 
 「ワイフを侮辱した者は誰であろうと撲殺します。最愛の人の名誉を守り抜くなら何度返り血を浴び何度刑務所に入れられようと吾輩に悔いはない、しかしここは刑務所の中、すでにして檻の中。ワイフを侮辱した不心得者に鉄拳制裁を下したところで何人たりとも吾輩を咎める権利はない」
 目を血走らせたホセがこぶしを握り締め、破裂寸前まで手の甲の血管が膨張する。
 そしてホセは、朗々と宣言した。
 「愛のために、君を滅します」
 渾身のこぶしがレイジの顔面に迫り来る。速い。紙一重で避けたつもりが完全にはかわしきれず、レイジが体勢を崩す。それがホセの狙いだった。豪速のこぶしをこめかみに掠め平衡感覚を失わせるのが知恵ある隠者の作戦だったのだ。
 「!!!!!」
 ガシャン、と金網が鳴った。
 レイジが平衡感覚を失った一瞬に、鳩尾にこぶしが炸裂。衝撃に吹っ飛ばされたレイジの背中が、腕が、重力の法則に従い金網に叩きつけられる。
 腕。サーシャに切り裂かれた右腕が金網に激突し、たまらずレイジが苦悶の咆哮をあげる。レイジの右袖に滲んだのは、鮮血。金網に激突した衝撃で右腕の傷口が開き、目にもあざやかな血が染み出しているのだ。額を脂汗でぬらしたレイジが金網に背中を預け、くずおれるようにその場に座りこむ。
 負傷した右腕を庇い、激痛に声もなく無防備に座りこむレイジのもとへ歩み寄るホセ。
 白熱の照明に暴かれたその姿は、沈着な隠者の仮面を脱ぎ捨て、狂戦士の本性をむきだしたとつもなく物騒なもの。
 「やめ、ろ」
 やめろ、レイジを殺すな。殺さないでくれ。
 僕は、僕は一体どうすればいい?リングでは一歩、また一歩とレイジとホセの距離が縮まりつつある。右腕の再出血したレイジは試合続行不可能で、ホセはといえばそんなレイジを無表情に見下している。体の脇にたらしたこぶしからは血が滴り、大股に横切る道中に点々と血痕を残す。
 僕にはなにもできないのか?
 このまま指をくわえて見ていることしかできないのか? 
 違う、そんなわけがない。僕はレイジの相棒だ、レイジを助ける義務がある。レイジを生きてロンのもとへと連れ帰る義務がある。目を閉じ深呼吸し、心を落ち着かようと努める。
 ホセを止めなければ、レイジを救わなければ。
 「なおちゃん?」
 ヨンイルの不審げな声を無視し、顔を上げる。僕はこれからとんでもないことをしようとしてる、とんでもなく馬鹿げた行動をとろうとしてる。失敗したら命はない、二度とサムライのもとには帰れない。
 でも、やらなければならない。
 僕はけして無力ではないと証明するために、行動を起こさなければならない。
 今の僕を見たらサムライは笑うだろうか、取り乱すだろうか。
 きっと後者だ。
 だが、今ここにはサムライがいない。従って、僕を止める人間はだれもいない。
 そう決心し、ヨンイルをその場に残して全速力で駆け出す。間に合えと一心に念じつつ矩形の出入り口から檻の内側へと駆けこむ。
 金網に背中を預け、浅く呼吸するレイジの頭上に影がさす。
 緩慢に頭上を仰いだレイジの目がとらえたのは、照明の逆光になり、闇に沈んだホセの顔。
 『Adios』
 そして。
 必殺のこぶしが膨大な風圧を纏い、レイジの頭蓋骨が陥没― 

 「やめろ!!!!」

 両手を広げ、ホセの眼前にとびだす。
 歓声が途絶え、リングを取り囲んだ観衆の視線が一斉に僕へと注がれる。肩で息をしながらホセの眼前に立ち塞がれば、レイジに脳挫傷の致命傷を与えようと大気を攪拌したこぶしが鼻先で静止する。
 「おどきなさい」
 「どくものか」
 冷静になれ鍵屋崎直、こんなことには何の意味もない。体を張ってレイジを庇う行為には意味がない。頭の片隅、一握りの理性が囁く。まったくその通りだ。なんて無謀なことをしてるんだ、僕は。さあ早くリングを下りろ、何もなかったような顔で野次馬に混ざれ溶けこめ、それが最善の策で賢い対処法だ。
 だが、僕の足は一歩たりともその場から動かなかった。
 レイジを庇うように両手を広げ、ホセと対峙する。
 頭上に降り注ぐ照明が熱い。網膜が白く灼ける。
 深呼吸で肩を浮沈させ、しっかりと目を見開き、漂白されたリングに佇むホセを睨みつける。
 「レイジは右腕を負傷してる。今また出血が再開した、早く手当てしなければ危険だ」
 「だから?ブルータスくんは片目と喉を負傷して光と声とを失いました。金ヤスリで研いだような濁声では最愛の女性に愛を囁くこともできず、ナイフで抉られた片目は二度と最愛の女性を映すことがない」
 ホセがにこやかに続ける。
 「南の人間に損害を与えた代償は利子つきで払わせます」
 「言葉を返すが、今ここでその代償とやらを払わせる意味は?」
 落ち着け、鍵屋崎直。心を静めて交渉に臨め。僕は天才だ、豊富な語彙と辛辣な毒舌とを兼ね備えた僕なら必ずや一対一の交渉に勝つことができる。
 自己暗示で勇気を奮い立たせ、できうる限り理性的な説得を試みる。
 「ホセ、君は何故ここにいる?客観的意見を述べれば、君が本来ここにいること自体イレギュラーなんだ。君はブルータスの相棒じゃない、ブルータスの所属する棟のトップで親密な師弟関係にあるとしても交代要員として登録してなければ前提上リングにのぼれないはずだ。違うか?」
 頼む冷静になってくれ、頭を冷やしてくれ。
 ホセにひとかけらでも自制心が残っているなら、僕の説得が通じるはずだ。僕の説得で目が覚めて、怒りを制御できるはずだ。これ以上ホセを激昂させないよう摺り足で立ち位置を移動してレイジを背中に隠す。
 「自棟の人間を傷付けられ逆上する心理はわかる。が、今ここで決着をつけるのは時機尚早だ。遅かれ早かれ君とレイジは決勝戦で当たることになっている、ならばその時に代償を払わせればいいじゃないか。それとも何か、君は片腕を負傷したレイジに勝利して嬉しいのか?それで誇れるのか、自尊心を満たせるのか?」
 ホセは南のトップ、何千人という囚人の頂点に君臨する隠者、レイジと実力で拮抗しうる東京プリズンでは数少ない存在なのだ。ならば正々堂々レイジと戦って勝利してこそ、東京プリズン最強を自認できるんじゃないか?
 片腕を負傷して本調子ではないレイジを倒したところで、ホセが東京プリズン最強を名乗れるとは思えない。
 冷酷な狂戦士からお人よしの好青年へ、毒気をぬかれたホセが苦笑いする。
 よし、いい調子だ。あともう少しで、ホセを説得することができる。
 「焦ることはない、あと一週の辛抱だ。僕らが順調に勝ちぬけば来週にはトップ対決が実現する。よく考えろホセ、決定戦まで一週間の猶予があったほうが君にとっても有利じゃないか?一週間の準備期間があれば存分に英気を養い体調を万全に調え心身ともにべストの状態で試合に臨むことができる。
 一週間あればレイジの怪我もよくなる、君はレイジと同条件で戦った上で東京プリズン最強の称号を勝ち取れる。ここまで言っても僕の提案を受け入れる気はないか?
 双方ともに利益はあっても不利益はない提案だと自負するが」
 機を逃さず饒舌に畳みかければ、ホセが降参したというふうにかぶりを振りながら眼鏡をかけ直す。
 「……よろしいでしょう。献身的な友情に免じて本日のところは、」
      
 ホセの感慨を遮ったのは、僕の背後から投擲されたナイフ。

 「……え?」
 銀の放物線を描いたそれが、狙い定めたようにホセの片腕に刺さる。苦痛に歪むホセの顔、眼鏡のレンズに付着する血飛沫。片腕を押さえて膝を屈したホセ、その手の下から滲みだすのは鮮血。
 カチャンと軽い音をたて、ナイフが地面に転がる。
 なんだこれは?なにが起きたんだ。
 呆然と立ち竦む僕の眼前では、ホセが額にびっしり脂汗を浮かべて悶絶してる。
 「これで『おあいこ』だろ」
 声に反応し、緩慢に振り向く。
 ホセとおなじように片腕を抱いたレイジが、疲労の隈が落ちた顔に凄惨な笑みを刻んでいた。
 そうか。
 何が起きたのか、わかった。
 僕の背に庇われたレイジが、ホセめがけてナイフを投げた。
 僕を隠れみのにして、ずっと逆襲の機会を窺っていたのだ。

 『He is the devil, He is a monster, He is a killer!I do not want to approach him!』
 奴は悪魔だ、怪物だ、人殺しだ。奴には二度と近付きたくない。

 ブルータスの絶叫が耳の奥に甦り、世界が崩落するような眩暈に襲われた。
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