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二百五十九話
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先生が言ってたの、飛行機乗ると気圧の関係でキムチが爆発するかもしれないからお土産で持ちこむときは気をつけなさいって。蓋をぴっちり閉めて爆発寸前ってトコまで膨らませたキムチを日本に持ち帰ってお父さんの目の前で開けてやる。
お土産にキムチ買ってくるからたのしみにしてて。
何かが崩壊した。
それはおそらく理性や自制心と呼び習わされる感情中枢で、次の瞬間彼は獣じみた雄叫びを発して一心不乱にテレビに掴みかかっていた。そんな彼に驚いた同僚が数人がかりで止めに入るが力づくで振りほどき狂気にかられてテレビを揺さぶる。
『リカ、なんでそこにいるんだリカ?心配しないでも大丈夫だってお前昨日そう言ったばかりじゃないか、なんでよりにもよってそんなとこにいるんだよ!?修学旅行先で事件や事故にまきこまれる確率は何千分の一だって知ったかぶってたのは誰だよ、ははははそうだよなそのとおりだよな、だってありえねえもんなそんなこと。土産にキムチ買って帰ってくる言ったのにリカが帰ってこないなんてあるわけねえよな!?』
『五十嵐落ち着け、テレビを放せ!』
『そんな乱暴に揺さぶったら壊れちまうよ!』
同僚数人がかりで押さえこまれてもテレビを手放さずに唾をとばして訴えかける、そのさまは痛切な悲哀に満ちて滑稽すぎて。
自分が目にしてるものが信じられなかった。
こんな現実、認めたくなかった。だってあそこにはリカがいるのだ、慣れた手つきで洗濯物を畳みブラックジャックに片想いし父親にからかわれればむきになり土産にキムチを買ってくると元気に手を振ったリカがいるのだ。
リカ。俺の娘。
将来はきっとカミさん似の美人になるはずだった。年下の恋人を振りまわし旦那を尻に敷くはずだった。いつかは家をでていくはずだった。
幸せな結婚をして子供を産み育てて、穏やかに老いて死んでゆくはずだった。
どこで間違ってしまったんだ?
画面で何度目かわからぬ爆発が起こった。爆発は次々と連鎖してあちこちで膨大な煙が上がり車が道路が割れ車が衝突し負傷者がでた。流血の惨事というより歴史に残る惨劇。爆発に巻きこまれた女が子供が片腕を失い片足を失い、ある者は顔面を吹っ飛ばされある者は半身を吹っ飛ばされ道路に累々と散らばる。
『あああああ、あ』
お父さん。あどけない声が鼓膜に甦る。お父さん浮気しちゃだめだからね、お母さんを哀しませちゃだめだからね。大人ぶって父親に説教するのが好きなリカは、まだ十一歳だった。十一年しか生きてなかった。
そのリカはもう、生きてはいない。
自分の目で確認したわけでもないのに手足の先から絶望が染みてきた。彼にはわかったのだ、直感的に。リカは爆発に巻きこまれて死んだのだ、爆弾に吹っ飛ばされて道路に散らばる肉片になったのだ。
友達との楽しい思い出になるはずだった修学旅行で、何千分の一かの確率のテロに巻きこまれて。
『あああああああああっああああああっあ、あ!!!!!』
人間の喉からでているとは思えない奇怪な絶叫だった。絶望に音を与えたらきっとこんな声になるはずだ。リカが死んだ。死んでしまった。自分には何もできなかった、爆弾が爆発する瞬間を画面越しに愕然と眺めていただけだ。父親のくせに娘を救えなかった、むざむざ死なせてしまった。慙愧後悔憤怒憎悪恐慌、それらすべてを呑みこんで肥大する絶望。なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ?何故リカが死ななければならない何も悪いことなんてしてないのにまだ小学生なのに好奇心半分にパレードを見に行っただけなのに爆弾が爆発する寸前まで友達と無邪気に笑いあって大統領の車に手を振っていたリカが?
テレビがすさまじい音をたて床に落下し、盛大に火花を散らして沈黙した。
自分の手からテレビが滑り落ちたことにも気付かず、意志が消失した瞳で虚空を見据える。
悲劇だな、そりゃ
悲劇でしょ
昨夜交わした他愛ない会話が運命の皮肉を示唆していたと気付き、放心した頬を一筋の涙が伝う。
違うよリカ。
こんなひどいこと、悲劇の二字で片付けられるものか。
悲劇とは誰かの身に起きた出来事を外側から見た言葉だ。
とんでもなく惨たらしいことを客観的に評した言葉だ。悲劇は同情の涙で報われるが、彼が直面したのは救いがたい現実だった。実際に誰がどれだけリカの死を嘆き遺族の心情を哀れんでも彼ら夫婦は救われなかった。
修学旅行中にテロに巻き込まれた娘の亡骸を受け取りに韓国に赴いた彼ら夫婦と対面した検死医は、終始沈痛な面差しを伏せていた。自分たち夫婦を気の毒そうに見つめるあの目が忘れられない。
娘に一目会わせてくれと半狂乱で医師に縋りつく妻の肩を支えながら彼もお願いしますと何度も頭を下げた。お願いします一目でいいから会わせてください、リカに会わせてください。夫婦揃って馬鹿の一つ覚えみたいに必死に懇願する彼らと対峙した医師は悲痛な面持ちで念を押した。
『本当にいいんですか?
申し上げにくいのですが、娘さんは人間の姿をしていませんよ』
通訳はそう言った。
どういうことだ、なんて質問は間抜けすぎてできなかった。彼は職場のテレビで見てしまった、気心の知れた同僚とコーヒー片手に歓談しながら凄惨なテロ現場を目撃してしまったのだ。道路のコンクリートには亀裂が走りあるいは陥没し大破した車からは濛々と白煙が上がる、老若男女が逃げ惑う血と肉片飛び散るテロ現場を。警察の話によると、リカのいた場所は二度目の爆発地点から5メートルしか離れていなかったという。沿道には細切れの肉片や臓物が散らばっていてかき集めるのに苦労したとそういえば誰かが言ってたな、と彼は弛緩した頭でぼんやり考えた。
彼はとうとう、娘に直接会う勇気がわかなかった。
生前の面影が完膚なく破壊された肉塊と化しても歯の治療跡はそのままだった。それが決め手となった。帰国後すぐに葬式を挙げた。リカの葬式。遺影の中ではリカが天真爛漫に笑っていた。あれはたしか公園で撮った写真だ、妻の体調が良い休日に家族で公園にでかけて映したのだ。
遺影の写真も自分が手配したはずなのに、何故だか実感が湧かなかった。すべてが自分を放ったらかして進行してるような違和感が拭えぬまま焼香する参列者に惰性で会釈する。葬式にはマスコミが詰めかけており、遺影を抱えた自分にマイクが殺到したような記憶があるが何と受け答えしたのかさっぱり覚えていない。ただ、カメラのフラッシュが眩しかったことだけ覚えている。
娘の同級生も葬儀に出席していた。生前リカと仲の良かった女子がお互い身を寄せ合って号泣する光景を喪主席から遠目に眺め、彼は心の中で呟いた。
ああ、生き残りか。
そう呟いてから、それがどんなに不謹慎で残酷な言葉が痛感する。リカの死を悼んで号泣する女の子達に申し訳なくなった。自分はどうかしてしまったのか?テロの衝撃も癒えぬのに娘の葬式に出席してくれた彼女らにこんな感情を抱くこと自体間違っている。理性ではちゃんとわかっている、わかっている。だが心が納得しないのだ。
彼女らは生き残り、リカは死んだ。
なにが両者の命運を分けた?何故リカが「そちら側」じゃないんだ?
慌しく葬儀を終えて、リカのいない日々が始まった。彼は空虚な喪失感を抱え漫然と日々を過ごした。なにをしても張りがなかった。リカの死の一報を受けてから妻はずっと泣いていた、葬儀の間もずっとずっと泣いていた。葬儀が終わって一ヶ月二ヶ月が過ぎても妻の嗚咽が止むことはなかった。
うるさい、いい加減に泣き止め。いくら泣いたところでリカは戻ってこないんだぞ。
三ヶ月目に、結婚以来初めて妻に手を上げた。憤怒に声を荒げ、妻をはげしくぶったのだ。初めて夫に殴られた妻は恐怖に目を見開き信じられないものでも見るかのように硬直した。彼はすぐに後悔したが、つまらない見栄だか意地だかが邪魔してその場で謝罪することはどうしてもできなかった。
いや、見栄でも意地でもない。再び妻と向き合い、糾弾されるのが怖かったのだ。
何故リカを止めてくれなかったの、何故修学旅行に行かせたの?リカが死んだのはあなたのせいよ。
激昂した妻が、華奢なこぶしで彼の胸を殴打しながら吐き捨てた台詞を思い出す。その台詞はこぶしより何より深く彼の胸を抉り致命傷を与えた。
リカの死を忘れたい。娘を死なせた罪悪感から逃れたい。
彼は酒に溺れることで寝ても覚めても自分を苛む罪悪感を紛らわし現実逃避を試みた。彼は自暴自棄になった。ささいないことで妻に手を上げるようになり同僚と揉め事を起こすようになり囚人の相談にも生返事で対応するようになった。もともと酒には弱かっただけに、一度溺れてしまえば忘却の恩恵に浴すことができた。有り難かった。
ある日、彼は職場で障害事件を起こした。同僚を殴ったのだ。
あの日あの時、画面越しのテロ現場を同時に目撃した同僚だった。彼の妻を「水商売上がり」と呼んだ一言多い男だ。娘をテロで失ってからというもの生活態度が荒み、周囲と軋轢を起こすようになった彼を心配し、同僚が言ったのだ。
『娘さんのことは残念だけど、よかったこともあるじゃねえか』
なにを言ってるのかわからなかった。
同僚はへらへら笑いながら続けた。
『これで嫁と縁切る口実ができたろ。偏頭痛持ちの寝たきりフィリピ―ナなんて国に帰して今度は日本人の嫁さん貰えよ、なんなら俺がいい娘紹介してや』
気付けば同僚に馬乗りになり、顔面をめちゃくちゃに殴り付けていた。同僚は鼻の骨を折る重傷を負い大問題になった。彼を庇う人間はだれもいなかった。程なく別の職場へと移された。わかりやすい厄介払いだった。その傷害事件をきっかけに、彼はいくつもの刑務所を転々とした。どの職場も一年と長続きせず、周囲と馴染めない憂さ晴らしに以前にも増して浴びるように酒を飲むようになった。
リカが死んで何年目かに転機が訪れた。妻の自殺未遂が原因だった。
ある日職場から帰宅してみたらざあざあと水の流れる音がした。風呂場からだ。水をだしっぱなしにしてるのかと訝しんで急行してみれば風呂の前廊下が水浸しだった。異常を察して風呂に駆け込んだ彼は慄然と立ち竦んだ。妻が浴槽にもたれかかるように片腕をひたし、ぐったりしていた。長時間シャワーを浴び続けた腕は白くふやけて、体温が低下した肌はひんやり青褪めていた。そばには剃刀が落ちており、シャワーの水に薄まり赤い液体がタイルの床を濡らしていた。
発見が早かったおかげで一命はとりとめたが、自殺未遂以降彼女は完全に壊れてしまった。夫婦の立場が逆転した。今度は妻が酒に溺れるようになった。妻を自殺未遂させるまで追い込んだ自責の念に駆られた彼は、献身的に妻の面倒を見るようになった。
『お父さん浮気しちゃだめだからね、お母さんを哀しませちゃだめだからね』
精神的に不安定な状態が続いた妻はことあるごとにヒステリックに夫を詰るようになった。夫婦喧嘩は絶えなかった。彼ら夫婦はボロボロだった。
追い討ちをかけるように、何度目かの配置換えを通達された。
今度の職場は悪名高い東京少年刑務所……俗称東京プリズンだった。
周縁を無国籍スラムに囲まれた砂漠のど真ん中の刑務所、俗世間と隔絶された不落の要塞。東京プリズンに送られるということは看守にとっては実質左遷を意味するが、どうでもよかった。職場の環境が変化したところで堕ちるところまで堕ちた彼自身が変わることはないという諦観があったのだ。
宿舎があるのも有り難かった。酒に溺れた妻の代わりに慣れない家事と仕事とを両立させてきたが、そろそろ限界だった。妻が待つ家には週末だけ帰ることにして、残りの日々は宿舎で過ごそうと決めた。傷付けあうだけ、憎しみあうだけの不毛な夫婦関係に依存するよりそちらの方がお互いのためだと理性的に判断したのだ。
そして彼は、東京プリズンに来た。
実際来てみれば東京プリズンは噂以上に酷いところだった。囚人が囚人をリンチしレイプし看守が囚人をリンチしレイプするのが日常化した実状に最初は愕然とした。堕ちるところまで堕ちたと自嘲していたが、自分にもまだ多少の良識と良心は残っていたらしい。 だが慣れてしまえば、それなりに居心地がよかった。
少年刑務所の看守を体験するのは初めてだが、彼の世話好きな性格は囚人には好意的に評価された。札付きのワルも中にはいたが、貧困からやむをえず犯罪に手を染めたスラム出身者が東京プリズンの構成比率の大半を占めており、彼はそんな少年たちに同情し親身に接するようになった。いつしか彼は東京プリズンでは珍しく囚人を虐待しない看守として少年たちに慕われるようになった。
しばらくはおだやかな日々が続いた。
束の間の平穏に波紋を投げかけたのは、ある日の出来事。
その日、彼は宿直室で暇を持て余していた。残務処理を終えれば宿舎に寝に帰るだけの潤いのない生活も慣れれば苦ではないが、宿舎に帰っても特にやることがないし、悪夢にうなされる夜への恐怖が作用してなかなか腰を上げる決心がつかなかった。
あくびを噛み殺して不味いコーヒーを啜っていたら、醜い容貌の男が尊大な大股で宿直室に入ってきた。
同僚のタジマだった。
タジマの机は彼の正面だった。タジマは彼が眺めている前で大きく足を広げ椅子に腰掛けた。何かいいことでもあったのかへたな鼻歌を口ずさんでいた。
『どうした?いやに上機嫌じゃねえか』
『へへへっ、そう見えるか?売春班で一発ヌイてきたあとだから血色いいだろうが』
……愚問を後悔した。渋面でコーヒーを啜る彼を無視し、鼻歌まじりにパソコンを起動するタジマ。太い指には似合わない素早い動作でキーを動作したタジマにため息をつき、それまで飲んでいたコーヒーの紙コップを捨てようと腰を上げる。ゴミ箱はタジマの机の横だ。中腰に屈んで空の紙コップを捨てる際、タジマが凝視するパソコン画面が偶然目に入る。
『おいなんだよそりゃ!?』
抗議の声をあげれば、タジマにすかさず口を塞がれる。彼が驚くのも無理はない、タジマが興味本位に閲覧していたのは完全部外秘の個人情報……東京プリズンに収監された囚人のデータを管理したファイル。勿論、許可なく閲覧するのは厳禁とされている。
『そんなでっけえ声だすなよ五十嵐、ただの暇つぶしだよ』
『暇つぶしってお前、上にバレたらどうすんだよ。処分されるぞ』
『俺はコネがあるから見逃してくれるさ。ほらお前も見てみろや、面白いぜ。お前も東京プリズンに来て随分経つから知ってると思うが、まったくこの刑務所ときたら毛色の珍しい凶悪犯の巣窟だ。たとえば』
タジマがマウスをクリックする。画面に現れたのは赤毛にそばかすの少年。あどけない童顔に茶目っけを足す大きな瞳が印象的だ。
『こいつ見てみろよ、東棟の囚人で名前はリョウ。こんな可愛いツラして売春・恐喝・薬物のトリプル逮捕だと。まったく世も末だぜ。データによると渋谷スラムの母子家庭出身、父親は不明。母親は重度のヤク中娼婦で、その影響でコイツもガキの頃から小遣い稼ぎに体売っちゃあクスリを手に入れてたんだそうだ。十四歳にゃとても見えねえだろ?
クスリのヤリ過ぎで骨がボロボロのスカスカで成長しないんだとよ。はは、長生きしそうにねえな。さらには渋谷を拠点にしたぺド専門売春組織のトップで、人には言えない趣味をお持ちの財政界の客とも互角に渡り合ってたんだそうだ。
恐喝で巻き上げた金は五千万を超す、ってマジかよ羨ましい』
自分のことは棚に上げて人の趣味を嘲笑うタジマに辟易する。個人情報の覗き見になんら良心の呵責を感じてないのはさすがだ。
『いい加減にしろよタジマ、誰にだって人に知られたくない秘密のひとつやふたつあるだろ。そっとしといてやれよ』
同僚の不正行為を見逃せず注意した彼に鼻白み、マウスを操作する手は止めず次々に囚人の個人情報を画面に呼び出しながらタジマが皮肉る。
『てえことはお前にも人に言えない秘密があんのかよ、正義漢気取りの五十嵐さんよ』
脳裏を一瞬リカの顔が過ぎる。
『あるよ』
タジマの手から強引にマウスを奪い取る。娘のことは職場のだれにも話してないし、また話す必要もなかった。いや違う。彼が意図的に伏せたのは娘がテロで死亡したという事実だけで、娘の存在は以前、家族のことを聞かれた時にうっかり口を滑らしてしまった。タジマにしつこくせがまれて渋々写真を見せたこともある。
リカの写真を見たタジマが開口一番発した台詞は、『お前のガキにしちゃ可愛いじゃんか。あと十歳年食やさぞかし気が強くて踏まれ甲斐のある女王様になったろうに惜しいなあ』という意味不明なものだったが。娘は事故に巻き込まれて死んだ、と事前に告げておいての感想がそれなのだから彼がタジマに殺意を抱いたのは言うまでもない。
タジマの手から奪い取ったマウスを性急に操作し、画面を強制終了しようとし、ふと動きを止める。次々と窓を閉じる途中で、慄然と立ち竦んだ彼を椅子の背凭れにふんぞり返ったタジマが不審げに見上げる。
『どうした五十嵐、おっかねえ顔して』
『こいつは……』
手足の先からスッと感覚がなくなった。不吉な予感に胸が騒ぎ異常に血の巡りが早くなる。マウスを握り締めた手がじっとり汗ばみ、唇が興奮に乾く。戦慄。画面から目をはなせない。次々と窓を消してゆく過程で液晶画面に表示されたのはある囚人のデータ。黒いゴーグルをかけた短髪の少年で、八重歯が特徴的な快活な笑顔を振りまいている。五十嵐の脇から画面を覗きこんだタジマが得々と解説する。
『ああ、こいつか。聞いて驚け、まだ若いが東京プリズン一の古株だ。わずか十一歳でテロ組織の活動に関与してとんでもねえ事件起こして厄介払いされてきたんだよ。
お前も知ってんだろ、何年か前にあった韓国のテロ事件。そうアレだよ、半島併合三十周年を祝う記念式典中に起きた韓国犯罪史上最悪の爆弾テロ。コイツはなんとそのテロで使われた爆弾を作ってたんだな。
信じられるか、たった11歳のガキがだぜ?言うなりゃ爆弾作りの天才だな。火薬の扱いにかけちゃ右にでる者なしって重宝されてたみたいだぜ。
ま、テロ組織じゃヒーローでもここじゃ二千人殺した懲役二百年の大量殺戮犯だ。東京プリズンを生きて出られる可能性は万に一つもねえ……』
タジマの声が急速に遠のき、マウスにおいた手が小刻みに震え出す。
液晶画面の中ではゴーグルをかけた少年が快活に笑っている。良心の呵責など一片もなく、二千人もの人間を大量殺戮した罪の意識とは無縁に。
遺影のリカの笑顔が、目の前の少年に重なる。
ああ、そうか。
こんなところにいたのか。
これは何の冗談だ。運命の皮肉、復讐の好機?リカを殺した人間がおなじ刑務所にいる。ここにいる。今でも呼吸をし飯を食べ笑っている、リカがもう二度とできないことを普通にやっているのだ。
そんなことが許されるのか?
許されていいのか?
『そいつがお気に召したようだな。聖人気取りの五十嵐もカミさんとご無沙汰でタマってましたってか。お前にそっちの趣味あるなんて意外。手えだすなら止めねえけど、相手は東京プリズン一の古株で西のトップだから心してかからねえと返り討ちにあうぜ。念の為に縄でも持ってくか?スタンガンは?猿轡はどうする、ボールギグのがいいか。ボールギグのいいところは涎垂れ流しで声聞けるとこだな。
俺のSM七つ道具貸してやるからよ……』
勝手に勘違いし机の引き出しをかきまわすタジマの方は見もせず、上の空で返事をする。
『ああ、そうだな』
彼の目は少年だけを見つめていた。リカを殺した人間、リカを殺したくせに図々しく生き延びている大量殺戮犯……彼がこれから、この手で殺すことになる少年。
『返り討ちにあわないように、ちゃんと準備しとかなきゃな』
お土産にキムチ買ってくるからたのしみにしてて。
何かが崩壊した。
それはおそらく理性や自制心と呼び習わされる感情中枢で、次の瞬間彼は獣じみた雄叫びを発して一心不乱にテレビに掴みかかっていた。そんな彼に驚いた同僚が数人がかりで止めに入るが力づくで振りほどき狂気にかられてテレビを揺さぶる。
『リカ、なんでそこにいるんだリカ?心配しないでも大丈夫だってお前昨日そう言ったばかりじゃないか、なんでよりにもよってそんなとこにいるんだよ!?修学旅行先で事件や事故にまきこまれる確率は何千分の一だって知ったかぶってたのは誰だよ、ははははそうだよなそのとおりだよな、だってありえねえもんなそんなこと。土産にキムチ買って帰ってくる言ったのにリカが帰ってこないなんてあるわけねえよな!?』
『五十嵐落ち着け、テレビを放せ!』
『そんな乱暴に揺さぶったら壊れちまうよ!』
同僚数人がかりで押さえこまれてもテレビを手放さずに唾をとばして訴えかける、そのさまは痛切な悲哀に満ちて滑稽すぎて。
自分が目にしてるものが信じられなかった。
こんな現実、認めたくなかった。だってあそこにはリカがいるのだ、慣れた手つきで洗濯物を畳みブラックジャックに片想いし父親にからかわれればむきになり土産にキムチを買ってくると元気に手を振ったリカがいるのだ。
リカ。俺の娘。
将来はきっとカミさん似の美人になるはずだった。年下の恋人を振りまわし旦那を尻に敷くはずだった。いつかは家をでていくはずだった。
幸せな結婚をして子供を産み育てて、穏やかに老いて死んでゆくはずだった。
どこで間違ってしまったんだ?
画面で何度目かわからぬ爆発が起こった。爆発は次々と連鎖してあちこちで膨大な煙が上がり車が道路が割れ車が衝突し負傷者がでた。流血の惨事というより歴史に残る惨劇。爆発に巻きこまれた女が子供が片腕を失い片足を失い、ある者は顔面を吹っ飛ばされある者は半身を吹っ飛ばされ道路に累々と散らばる。
『あああああ、あ』
お父さん。あどけない声が鼓膜に甦る。お父さん浮気しちゃだめだからね、お母さんを哀しませちゃだめだからね。大人ぶって父親に説教するのが好きなリカは、まだ十一歳だった。十一年しか生きてなかった。
そのリカはもう、生きてはいない。
自分の目で確認したわけでもないのに手足の先から絶望が染みてきた。彼にはわかったのだ、直感的に。リカは爆発に巻きこまれて死んだのだ、爆弾に吹っ飛ばされて道路に散らばる肉片になったのだ。
友達との楽しい思い出になるはずだった修学旅行で、何千分の一かの確率のテロに巻きこまれて。
『あああああああああっああああああっあ、あ!!!!!』
人間の喉からでているとは思えない奇怪な絶叫だった。絶望に音を与えたらきっとこんな声になるはずだ。リカが死んだ。死んでしまった。自分には何もできなかった、爆弾が爆発する瞬間を画面越しに愕然と眺めていただけだ。父親のくせに娘を救えなかった、むざむざ死なせてしまった。慙愧後悔憤怒憎悪恐慌、それらすべてを呑みこんで肥大する絶望。なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ?何故リカが死ななければならない何も悪いことなんてしてないのにまだ小学生なのに好奇心半分にパレードを見に行っただけなのに爆弾が爆発する寸前まで友達と無邪気に笑いあって大統領の車に手を振っていたリカが?
テレビがすさまじい音をたて床に落下し、盛大に火花を散らして沈黙した。
自分の手からテレビが滑り落ちたことにも気付かず、意志が消失した瞳で虚空を見据える。
悲劇だな、そりゃ
悲劇でしょ
昨夜交わした他愛ない会話が運命の皮肉を示唆していたと気付き、放心した頬を一筋の涙が伝う。
違うよリカ。
こんなひどいこと、悲劇の二字で片付けられるものか。
悲劇とは誰かの身に起きた出来事を外側から見た言葉だ。
とんでもなく惨たらしいことを客観的に評した言葉だ。悲劇は同情の涙で報われるが、彼が直面したのは救いがたい現実だった。実際に誰がどれだけリカの死を嘆き遺族の心情を哀れんでも彼ら夫婦は救われなかった。
修学旅行中にテロに巻き込まれた娘の亡骸を受け取りに韓国に赴いた彼ら夫婦と対面した検死医は、終始沈痛な面差しを伏せていた。自分たち夫婦を気の毒そうに見つめるあの目が忘れられない。
娘に一目会わせてくれと半狂乱で医師に縋りつく妻の肩を支えながら彼もお願いしますと何度も頭を下げた。お願いします一目でいいから会わせてください、リカに会わせてください。夫婦揃って馬鹿の一つ覚えみたいに必死に懇願する彼らと対峙した医師は悲痛な面持ちで念を押した。
『本当にいいんですか?
申し上げにくいのですが、娘さんは人間の姿をしていませんよ』
通訳はそう言った。
どういうことだ、なんて質問は間抜けすぎてできなかった。彼は職場のテレビで見てしまった、気心の知れた同僚とコーヒー片手に歓談しながら凄惨なテロ現場を目撃してしまったのだ。道路のコンクリートには亀裂が走りあるいは陥没し大破した車からは濛々と白煙が上がる、老若男女が逃げ惑う血と肉片飛び散るテロ現場を。警察の話によると、リカのいた場所は二度目の爆発地点から5メートルしか離れていなかったという。沿道には細切れの肉片や臓物が散らばっていてかき集めるのに苦労したとそういえば誰かが言ってたな、と彼は弛緩した頭でぼんやり考えた。
彼はとうとう、娘に直接会う勇気がわかなかった。
生前の面影が完膚なく破壊された肉塊と化しても歯の治療跡はそのままだった。それが決め手となった。帰国後すぐに葬式を挙げた。リカの葬式。遺影の中ではリカが天真爛漫に笑っていた。あれはたしか公園で撮った写真だ、妻の体調が良い休日に家族で公園にでかけて映したのだ。
遺影の写真も自分が手配したはずなのに、何故だか実感が湧かなかった。すべてが自分を放ったらかして進行してるような違和感が拭えぬまま焼香する参列者に惰性で会釈する。葬式にはマスコミが詰めかけており、遺影を抱えた自分にマイクが殺到したような記憶があるが何と受け答えしたのかさっぱり覚えていない。ただ、カメラのフラッシュが眩しかったことだけ覚えている。
娘の同級生も葬儀に出席していた。生前リカと仲の良かった女子がお互い身を寄せ合って号泣する光景を喪主席から遠目に眺め、彼は心の中で呟いた。
ああ、生き残りか。
そう呟いてから、それがどんなに不謹慎で残酷な言葉が痛感する。リカの死を悼んで号泣する女の子達に申し訳なくなった。自分はどうかしてしまったのか?テロの衝撃も癒えぬのに娘の葬式に出席してくれた彼女らにこんな感情を抱くこと自体間違っている。理性ではちゃんとわかっている、わかっている。だが心が納得しないのだ。
彼女らは生き残り、リカは死んだ。
なにが両者の命運を分けた?何故リカが「そちら側」じゃないんだ?
慌しく葬儀を終えて、リカのいない日々が始まった。彼は空虚な喪失感を抱え漫然と日々を過ごした。なにをしても張りがなかった。リカの死の一報を受けてから妻はずっと泣いていた、葬儀の間もずっとずっと泣いていた。葬儀が終わって一ヶ月二ヶ月が過ぎても妻の嗚咽が止むことはなかった。
うるさい、いい加減に泣き止め。いくら泣いたところでリカは戻ってこないんだぞ。
三ヶ月目に、結婚以来初めて妻に手を上げた。憤怒に声を荒げ、妻をはげしくぶったのだ。初めて夫に殴られた妻は恐怖に目を見開き信じられないものでも見るかのように硬直した。彼はすぐに後悔したが、つまらない見栄だか意地だかが邪魔してその場で謝罪することはどうしてもできなかった。
いや、見栄でも意地でもない。再び妻と向き合い、糾弾されるのが怖かったのだ。
何故リカを止めてくれなかったの、何故修学旅行に行かせたの?リカが死んだのはあなたのせいよ。
激昂した妻が、華奢なこぶしで彼の胸を殴打しながら吐き捨てた台詞を思い出す。その台詞はこぶしより何より深く彼の胸を抉り致命傷を与えた。
リカの死を忘れたい。娘を死なせた罪悪感から逃れたい。
彼は酒に溺れることで寝ても覚めても自分を苛む罪悪感を紛らわし現実逃避を試みた。彼は自暴自棄になった。ささいないことで妻に手を上げるようになり同僚と揉め事を起こすようになり囚人の相談にも生返事で対応するようになった。もともと酒には弱かっただけに、一度溺れてしまえば忘却の恩恵に浴すことができた。有り難かった。
ある日、彼は職場で障害事件を起こした。同僚を殴ったのだ。
あの日あの時、画面越しのテロ現場を同時に目撃した同僚だった。彼の妻を「水商売上がり」と呼んだ一言多い男だ。娘をテロで失ってからというもの生活態度が荒み、周囲と軋轢を起こすようになった彼を心配し、同僚が言ったのだ。
『娘さんのことは残念だけど、よかったこともあるじゃねえか』
なにを言ってるのかわからなかった。
同僚はへらへら笑いながら続けた。
『これで嫁と縁切る口実ができたろ。偏頭痛持ちの寝たきりフィリピ―ナなんて国に帰して今度は日本人の嫁さん貰えよ、なんなら俺がいい娘紹介してや』
気付けば同僚に馬乗りになり、顔面をめちゃくちゃに殴り付けていた。同僚は鼻の骨を折る重傷を負い大問題になった。彼を庇う人間はだれもいなかった。程なく別の職場へと移された。わかりやすい厄介払いだった。その傷害事件をきっかけに、彼はいくつもの刑務所を転々とした。どの職場も一年と長続きせず、周囲と馴染めない憂さ晴らしに以前にも増して浴びるように酒を飲むようになった。
リカが死んで何年目かに転機が訪れた。妻の自殺未遂が原因だった。
ある日職場から帰宅してみたらざあざあと水の流れる音がした。風呂場からだ。水をだしっぱなしにしてるのかと訝しんで急行してみれば風呂の前廊下が水浸しだった。異常を察して風呂に駆け込んだ彼は慄然と立ち竦んだ。妻が浴槽にもたれかかるように片腕をひたし、ぐったりしていた。長時間シャワーを浴び続けた腕は白くふやけて、体温が低下した肌はひんやり青褪めていた。そばには剃刀が落ちており、シャワーの水に薄まり赤い液体がタイルの床を濡らしていた。
発見が早かったおかげで一命はとりとめたが、自殺未遂以降彼女は完全に壊れてしまった。夫婦の立場が逆転した。今度は妻が酒に溺れるようになった。妻を自殺未遂させるまで追い込んだ自責の念に駆られた彼は、献身的に妻の面倒を見るようになった。
『お父さん浮気しちゃだめだからね、お母さんを哀しませちゃだめだからね』
精神的に不安定な状態が続いた妻はことあるごとにヒステリックに夫を詰るようになった。夫婦喧嘩は絶えなかった。彼ら夫婦はボロボロだった。
追い討ちをかけるように、何度目かの配置換えを通達された。
今度の職場は悪名高い東京少年刑務所……俗称東京プリズンだった。
周縁を無国籍スラムに囲まれた砂漠のど真ん中の刑務所、俗世間と隔絶された不落の要塞。東京プリズンに送られるということは看守にとっては実質左遷を意味するが、どうでもよかった。職場の環境が変化したところで堕ちるところまで堕ちた彼自身が変わることはないという諦観があったのだ。
宿舎があるのも有り難かった。酒に溺れた妻の代わりに慣れない家事と仕事とを両立させてきたが、そろそろ限界だった。妻が待つ家には週末だけ帰ることにして、残りの日々は宿舎で過ごそうと決めた。傷付けあうだけ、憎しみあうだけの不毛な夫婦関係に依存するよりそちらの方がお互いのためだと理性的に判断したのだ。
そして彼は、東京プリズンに来た。
実際来てみれば東京プリズンは噂以上に酷いところだった。囚人が囚人をリンチしレイプし看守が囚人をリンチしレイプするのが日常化した実状に最初は愕然とした。堕ちるところまで堕ちたと自嘲していたが、自分にもまだ多少の良識と良心は残っていたらしい。 だが慣れてしまえば、それなりに居心地がよかった。
少年刑務所の看守を体験するのは初めてだが、彼の世話好きな性格は囚人には好意的に評価された。札付きのワルも中にはいたが、貧困からやむをえず犯罪に手を染めたスラム出身者が東京プリズンの構成比率の大半を占めており、彼はそんな少年たちに同情し親身に接するようになった。いつしか彼は東京プリズンでは珍しく囚人を虐待しない看守として少年たちに慕われるようになった。
しばらくはおだやかな日々が続いた。
束の間の平穏に波紋を投げかけたのは、ある日の出来事。
その日、彼は宿直室で暇を持て余していた。残務処理を終えれば宿舎に寝に帰るだけの潤いのない生活も慣れれば苦ではないが、宿舎に帰っても特にやることがないし、悪夢にうなされる夜への恐怖が作用してなかなか腰を上げる決心がつかなかった。
あくびを噛み殺して不味いコーヒーを啜っていたら、醜い容貌の男が尊大な大股で宿直室に入ってきた。
同僚のタジマだった。
タジマの机は彼の正面だった。タジマは彼が眺めている前で大きく足を広げ椅子に腰掛けた。何かいいことでもあったのかへたな鼻歌を口ずさんでいた。
『どうした?いやに上機嫌じゃねえか』
『へへへっ、そう見えるか?売春班で一発ヌイてきたあとだから血色いいだろうが』
……愚問を後悔した。渋面でコーヒーを啜る彼を無視し、鼻歌まじりにパソコンを起動するタジマ。太い指には似合わない素早い動作でキーを動作したタジマにため息をつき、それまで飲んでいたコーヒーの紙コップを捨てようと腰を上げる。ゴミ箱はタジマの机の横だ。中腰に屈んで空の紙コップを捨てる際、タジマが凝視するパソコン画面が偶然目に入る。
『おいなんだよそりゃ!?』
抗議の声をあげれば、タジマにすかさず口を塞がれる。彼が驚くのも無理はない、タジマが興味本位に閲覧していたのは完全部外秘の個人情報……東京プリズンに収監された囚人のデータを管理したファイル。勿論、許可なく閲覧するのは厳禁とされている。
『そんなでっけえ声だすなよ五十嵐、ただの暇つぶしだよ』
『暇つぶしってお前、上にバレたらどうすんだよ。処分されるぞ』
『俺はコネがあるから見逃してくれるさ。ほらお前も見てみろや、面白いぜ。お前も東京プリズンに来て随分経つから知ってると思うが、まったくこの刑務所ときたら毛色の珍しい凶悪犯の巣窟だ。たとえば』
タジマがマウスをクリックする。画面に現れたのは赤毛にそばかすの少年。あどけない童顔に茶目っけを足す大きな瞳が印象的だ。
『こいつ見てみろよ、東棟の囚人で名前はリョウ。こんな可愛いツラして売春・恐喝・薬物のトリプル逮捕だと。まったく世も末だぜ。データによると渋谷スラムの母子家庭出身、父親は不明。母親は重度のヤク中娼婦で、その影響でコイツもガキの頃から小遣い稼ぎに体売っちゃあクスリを手に入れてたんだそうだ。十四歳にゃとても見えねえだろ?
クスリのヤリ過ぎで骨がボロボロのスカスカで成長しないんだとよ。はは、長生きしそうにねえな。さらには渋谷を拠点にしたぺド専門売春組織のトップで、人には言えない趣味をお持ちの財政界の客とも互角に渡り合ってたんだそうだ。
恐喝で巻き上げた金は五千万を超す、ってマジかよ羨ましい』
自分のことは棚に上げて人の趣味を嘲笑うタジマに辟易する。個人情報の覗き見になんら良心の呵責を感じてないのはさすがだ。
『いい加減にしろよタジマ、誰にだって人に知られたくない秘密のひとつやふたつあるだろ。そっとしといてやれよ』
同僚の不正行為を見逃せず注意した彼に鼻白み、マウスを操作する手は止めず次々に囚人の個人情報を画面に呼び出しながらタジマが皮肉る。
『てえことはお前にも人に言えない秘密があんのかよ、正義漢気取りの五十嵐さんよ』
脳裏を一瞬リカの顔が過ぎる。
『あるよ』
タジマの手から強引にマウスを奪い取る。娘のことは職場のだれにも話してないし、また話す必要もなかった。いや違う。彼が意図的に伏せたのは娘がテロで死亡したという事実だけで、娘の存在は以前、家族のことを聞かれた時にうっかり口を滑らしてしまった。タジマにしつこくせがまれて渋々写真を見せたこともある。
リカの写真を見たタジマが開口一番発した台詞は、『お前のガキにしちゃ可愛いじゃんか。あと十歳年食やさぞかし気が強くて踏まれ甲斐のある女王様になったろうに惜しいなあ』という意味不明なものだったが。娘は事故に巻き込まれて死んだ、と事前に告げておいての感想がそれなのだから彼がタジマに殺意を抱いたのは言うまでもない。
タジマの手から奪い取ったマウスを性急に操作し、画面を強制終了しようとし、ふと動きを止める。次々と窓を閉じる途中で、慄然と立ち竦んだ彼を椅子の背凭れにふんぞり返ったタジマが不審げに見上げる。
『どうした五十嵐、おっかねえ顔して』
『こいつは……』
手足の先からスッと感覚がなくなった。不吉な予感に胸が騒ぎ異常に血の巡りが早くなる。マウスを握り締めた手がじっとり汗ばみ、唇が興奮に乾く。戦慄。画面から目をはなせない。次々と窓を消してゆく過程で液晶画面に表示されたのはある囚人のデータ。黒いゴーグルをかけた短髪の少年で、八重歯が特徴的な快活な笑顔を振りまいている。五十嵐の脇から画面を覗きこんだタジマが得々と解説する。
『ああ、こいつか。聞いて驚け、まだ若いが東京プリズン一の古株だ。わずか十一歳でテロ組織の活動に関与してとんでもねえ事件起こして厄介払いされてきたんだよ。
お前も知ってんだろ、何年か前にあった韓国のテロ事件。そうアレだよ、半島併合三十周年を祝う記念式典中に起きた韓国犯罪史上最悪の爆弾テロ。コイツはなんとそのテロで使われた爆弾を作ってたんだな。
信じられるか、たった11歳のガキがだぜ?言うなりゃ爆弾作りの天才だな。火薬の扱いにかけちゃ右にでる者なしって重宝されてたみたいだぜ。
ま、テロ組織じゃヒーローでもここじゃ二千人殺した懲役二百年の大量殺戮犯だ。東京プリズンを生きて出られる可能性は万に一つもねえ……』
タジマの声が急速に遠のき、マウスにおいた手が小刻みに震え出す。
液晶画面の中ではゴーグルをかけた少年が快活に笑っている。良心の呵責など一片もなく、二千人もの人間を大量殺戮した罪の意識とは無縁に。
遺影のリカの笑顔が、目の前の少年に重なる。
ああ、そうか。
こんなところにいたのか。
これは何の冗談だ。運命の皮肉、復讐の好機?リカを殺した人間がおなじ刑務所にいる。ここにいる。今でも呼吸をし飯を食べ笑っている、リカがもう二度とできないことを普通にやっているのだ。
そんなことが許されるのか?
許されていいのか?
『そいつがお気に召したようだな。聖人気取りの五十嵐もカミさんとご無沙汰でタマってましたってか。お前にそっちの趣味あるなんて意外。手えだすなら止めねえけど、相手は東京プリズン一の古株で西のトップだから心してかからねえと返り討ちにあうぜ。念の為に縄でも持ってくか?スタンガンは?猿轡はどうする、ボールギグのがいいか。ボールギグのいいところは涎垂れ流しで声聞けるとこだな。
俺のSM七つ道具貸してやるからよ……』
勝手に勘違いし机の引き出しをかきまわすタジマの方は見もせず、上の空で返事をする。
『ああ、そうだな』
彼の目は少年だけを見つめていた。リカを殺した人間、リカを殺したくせに図々しく生き延びている大量殺戮犯……彼がこれから、この手で殺すことになる少年。
『返り討ちにあわないように、ちゃんと準備しとかなきゃな』
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