261 / 376
二百五十八話
しおりを挟む
リカは自慢の娘だ。
『修学旅行前夜の娘に洗濯物畳ませるってひどくない?』
不満げに口を尖らせつつも、リカは慣れた手つきで洗濯物を畳んでゆく。
『いやならそこらへんに放っときゃいいよ、俺があとでやっとくから。そろそろ休んだほうがよくないか?寝坊して飛行機に乗り遅れましたなんて洒落になんねえぞ』
『やだなあ、お父さんと一緒にしないでよ。ばっちり目覚まし時計かけといたから大丈夫だって。それに私がやんなきゃ誰がやるのさ、お父さんが洗濯物畳んでる姿なんて想像できないし……目に浮かぶもん、私が「ただいまー」て玄関のドアを開けたら洗濯物が出てった時まんまに散らばってるとこ。それだけじゃないよ、どうせお父さんが脱ぎ散らかしたままにした汗臭いシャツとか腐った靴下とかが三日間放置された生ゴミ並の悪臭放ってるんだ。ご近所さんから苦情きたらどうするの、ねえ?』
リカは口が達者だ。
自分から言い出したくせに無精者の父親にはあとを任せられないと意地を張る娘に、これが難しい年頃というヤツかとひとり頷く。
『なに笑ってんのお父さん。やーらしい』
『父親にむかってやーらしいとはなんだ』
『エッチなこと考えてたんじゃないの?お母さんが病弱なのいいことに外で浮気してたりしたら許さないから。もしお父さんが外で風俗行ったり女の人と浮気してたら私迷うことなくお母さんに離婚勧めるよ、そんでお父さんがどんだけ親権主張しても絶対お母さんについてって養育費がっぽりふんだくってやるから』
『……リカなんだ、その世知辛い未来予想図は。実の父親に対してあんまりな言いようじゃないかそれは?お父さんちょっと傷付いたぞ』
『傷付いたってことは心当たりあるの?』
洗濯物を畳む手も休めず言い返すリカにぐっと押し黙る。あっさり父親をやりこめたリカは、膝の上で丁寧にシャツを畳みながら妙に大人びた表情で付け足す。
『おんなじ女だもん、そりゃあお母さんの味方をします』
そんなに信用ないのか俺は、と情けなくなる。
本気で浮気を疑われているのだとしたら父親失格だ。ワイシャツの袖と袖を合わせ器用に折り返しつつ、がっくりうなだれた父親を澄まし顔で観察するリカだが目元は笑っている。
フィリピン人との混血であるリカの肌は浅黒い。
混血が進んだ日本では肌の色や髪の色にも多様性がでてきたが、外国人に根強い偏見や反感を抱く層が彼の世代には多い。実際彼が子供の頃は今日ほど混血が進んでおらず、外国人との混血児はクラスに一人いるかいないかという確率だった。それが今では一クラス五名の割合に増加したのだからつくづく日本も変わったものだと痛感する。
いつしかこの国は、両親とも日本人というだけで優遇される時代に突入した。
その次に偉いのは片親が日本人の子供で、最下位は両親ともよそ者……つまり外国人の子供。 それが世間の平均的価値観にして一般常識だ。
リカの母親とは同僚に連れていかれたクラブで知り合った。
第二次ベトナム戦争の戦火を逃れて日本に来たばかりの彼女は日本語が不自由で、人見知りをするタチなのか根が引っ込み思案なのか慣れない接客で失敗続きだった。うっかり手をすべらし客のズボンに酒を零したり、うっかり手をすべらしグラスに入れようとした氷を客の股間に落としたり……
今でこそ笑い話だが、新人にありがちな初々しい失敗談を笑い飛ばせるほど気丈ではなかった若い妻は店の裏手でよく泣いていた。
彼は彼女に恋をした。
そうして彼はフィリピン人の伴侶を得て、程なく子供が産まれた。妻によく似た可愛い女の子だった。目鼻立ちのくっきりした彫り深い顔だちは母方の血が強く出たためだろう。一目で東南アジア系黄色人種との混血児だとわかる外見のリカは、親から偏見を刷り込まれた園児たちに仲間はずれにされては毎日泣いて帰ってきた。台中戦争やら第二次ベトナム戦争やら半島の経済破綻やらさまざまな経緯からおもに東アジアや東南アジア圏の国々から日本に逃れてきた人々を敵視する者は少なくない。
彼ら戦争難民や出稼ぎ目的の外国人が二十一世紀前半に一挙に流れこんだせいで、都心には大規模なスラムができて治安が悪化して犯罪件数が激増したのだと一般に認識されているからだ。
それもまた、事実ではある。
なんでリカは他の子とちがうの、と泣いて訴えていた幼い頃の娘を思い出す。だが、ある日を境に変化が起きた。自分をいじめていたリーダー格の男の子を、リカが砂場で蹴倒して泣かしたのだ。男の子の親と保母には怒られたが、帰宅したリカはひどく誇らしげだった。
なんでそんなことをしたんだ、と聞けばリカは憤然と言った。
『だってあの子、おかあさんとおとうさんをバカにしたんだもん。日本人のくせに外国人とケッコンするなんてリカのおとうさんは裏切りものだなんて言うから頭にきたんだよ』
いじめっ子を蹴倒す場面をリカに再現され、「将来こいつと結婚するヤツは大変だろうな」とまだ見ぬ娘の結婚相手に同情し、せめて夫婦喧嘩では旦那を足蹴にするなよと当時の彼は忠告してやりたくなったものだ。
『お父さん?』
我に返った彼を疑わしげに見つめているのは、膝に洗濯物を乗せた現在のリカだ。
『なに浸ってんのお父さん?ボケるには早いよ』
『いや、なんでもない。ちょっと昔のこと思い出してただけだ』
咳払いでごまかし、わざとらしく新聞を広げる。そんな父の様子をリカは怪訝そうに眺めていたが、膝に乗せたズボンの裾を手のひらで撫で付けながらスッと目を伏せる。
『……ごめん、さっきはちょっと言いすぎた。お父さんが浮気してるなんて本気で思ってるわけじゃないから安心して』
『わかってるよ』
『お父さんモテないもんね』
……さりげなくひどいことを言うなコイツ。本当にだれに似たんだこの毒舌。
もしかしてこれが反抗期というやつだろうか?そうか、とうとうリカにも反抗期が訪れたかと新聞を読むふりをしながら冷や汗を流す。
新聞で顔を隠し、洗濯物を畳むリカの横顔を盗み見る。
親の欲目を除いてもリカは可愛い。ボーイッシュなショートヘアがくっきりとした目鼻立ちによく似合う。十年後、いや、五年後にはさぞかし気の強い姉さん女房になって彼氏を振り回すんだろうなとまだ見ぬ娘の恋人に同情して肩でも叩きたくなる。
……さっきから娘の旦那やら彼氏やらに同情してばかりだな、俺。
それに加え、勝気で世話好きな性格から娘の恋人や旦那は年下に違いないと勝手に決めつけていることに思い至り自嘲する。たしかに自分は心配性だが、まだ見ぬ娘の彼氏や旦那への同情には幾許かの嫉妬がこめられているのも否定できない。
同情は嫉妬の裏返しだ。
リカは自分にはもったいないよく出来た娘だ。
しっかり者の長女に彼ら夫婦はずっと助けられてきた。フィリピン人の妻は、リカが幼稚園の頃からホームシックにかかりふさぎこむようになった。体がだるい頭が痛いと奥の部屋で寝こむことが多くなった妻の代わりにリカは日常的に家事をこなすようになった。リカだって小学生の女の子だ。友達との約束を優先したい日や家事をさぼりたい日もあるだろうに、妻が辛い体を起こして台所に立とうとすれば「いいから、お母さんは寝てて」と背中を押し戻すようになった。
リカは優しい娘だ。
彼ら夫婦の自慢の娘だ。
だからリカがこの家を去る日のことを考えると、男親の感傷だとわかっていても寂しいのだ。
父と娘が気まずく押し黙る。
妻は奥の部屋で薬を飲んで寝ている。まだ頭痛が治らないのだ。医者は心因性の偏頭痛だと診断して心療内科への通院を勧めた。妻の頭痛は慢性的なものだ。今だに片言でしか日本語をしゃべれない劣等感と人見知りで内気な性格が災いし近所付き合いもできず、保護者会ではただでさえ排他的な日本人の親に疎外され、頼れる友達がひとりもいない環境での生活が愛する妻の精神を病ませているのだ。
妻の頭痛にはもう市販の薬が効かなくなってる。医者の勧めにしたがい、心療内科に通院してみるべきかもしれない。いちばんいいのは一時的にでも故郷へ里帰りさせることだろうが、妻の故郷フィリピンは米軍侵略以降、反政府ゲリラとの熾烈な内戦が繰り広げられる銃弾飛び交う激戦地だ。
そんなところに妻を帰すのはみすみす死にに行かせるようなものだ。
苦りきった表情の父親に向き直ったリカが、洗濯物を畳む手を止めて揃えた膝におく。
『ね、修学旅行のお土産なにがいい?リクエスト聞くよ』
景気づけに膝を叩き、活発に笑うリカ。雰囲気を明るくしようと彼女なりに努力しているのだ。そんな様子がけなげでいじらしくて、ついぽろりと本音をこぼしてしまう。
『無事に帰ってきてくれ』
リカが大きく目を見張る。いけない、せっかく娘が気を利かせて雰囲気を明るくしようとしているのに不用意な一言でまた暗くしてしまった。やけにしんみりと呟いた彼は、口にだしてしまってからそのささやかな願いを悔いる。
なにを心配しているんだ俺は、リカはもうでかいんだ、迷子の三歳児のように親が気を揉むことはないんだこれっぽっちも。
思春期を迎え、父親が浸かった風呂には三十分以上時間をおいてからじゃないと入らないという不可解な行動をとるようになったリカがどうでるかと彼は緊張する。
『お父さん心配しすぎ。韓国なんてすぐそこだよ、日本のお隣さんじゃん。三日後には元気で帰って来るから大丈夫だって』
怒られはしなかったが笑われた。これはこれで不愉快だ。
父親が娘を心配してなにがおかしいのだと憮然とそっぽを向いた拍子に、新聞の隅に小さく囲われた記事が目にとびこんでくる。
『修学旅行先で事故か事件に巻き込まれるかも知れねえだろ。最近物騒だからな、そこらじゅうで戦争やらテロやら起こってるし……お前が行く韓国だって例外じゃねえ。ほら、これ見ろ』
リカの鼻先に新聞の記事を突き出す。新聞の隅に地味に存在していたのは、「釜山でテロ 二十名死傷 韓国独立を掲げる革命組織の実体未だ解明できず」という内容の記事だった。
『韓国だってテロが起きてんだぞ、他人事じゃねえぞ』
『あーもううざいなー、お父さん心配しすぎ。修学旅行先で事件や事故に巻き込まれる確率なんて何千分の一にすぎないのにさあ……』
畳に膝を崩したリカがあきれたように首を振る。新聞記事まで持ち出して自分に注意を促す父親を鬱陶しがるのは思春期の娘として当然の心理だが、彼とて後に引けない。娘に馬鹿にされたままでは父親の威厳が保てないと問題の記事を指さしてしつこく大人げなく食い下がる。
『何千分の一ってことはゼロじゃないだろ、万一ってこともありえるだろ!いいか、よーく気をつけろよリカ。修学旅行の予定には祝併合三十周年パレードも入ってんだろ?友達と一緒だからって羽目外してはしゃぎすぎて、大統領の車追って道路にとびだしたりするんじゃねえぞ』
『はいはいはいわかりました』
『ハイは一度』
『ヘイ』
……まったく可愛げのないヤツだ。諦観のため息をつき新聞を投げ出した彼の眼前では、してやったりとリカがほくそ笑んでいた。コイツは将来男をからかって楽しむ性悪女になるかもしれない、といういやな想像が脳裏をかすめてはげしく首を振る。父親をやりこめて満足したか、畳に行儀悪く寝転がって新聞をめくるリカ。毎日連載の四コマ漫画を熱心に読み、上機嫌に足を揺らすさまを眺め、苦笑する。
『本当に漫画が好きだな』
『大好き。だっておもしろいじゃん。あーあ、先生と結婚したいなあ』
『先生?おまえ担任に片思いしてるのか』
聞き捨てならない。小学五年生で担任教師に片思いだなんてませガキめけしからん、と眉を吊り上げた父親に軽蔑の眼差しを投げてリカが寝返りを打つ。
『違うって、先生は先生でもブラックジャック先生ー』
『なんだ漫画か』
娘の仮想恋人が漫画の登場人物だと判明し、安堵の息を吐く。父親の間抜けな勘違いに笑いの発作を噛み殺しながらリカが続ける。
『だあってかっこいいんだもん先生、マジ惚れちゃう!法外な治療費ふんだくる無免許医だって世間から後ろ指さされてるのにホントはすっごく優しくて絶対最後まで患者さん見捨てたりしないんだよー最高じゃん?傷痕もセクシーだし白衣も似合うし……あ、でもいちばんはやっぱ黒マントかな?いいよねー。黒マントをあんなに自然に着こなせるの先生くらいのもんだよ。ああっ、ピノコになりたいっ』
……娘が別の意味でかなり心配だ。まあ、漫画の登場人物に片思いすることも思春期の女の子にはありがちな現象だと無理矢理納得しよう。
そう思ったが。
初恋の微熱に目を潤ませてブラックジャックを絶賛する娘がおなじ部屋にいればついつい釘をさしたくなるのが父親という生き物だ。
『先生に恋するのは結構だが、どんなに好きでも漫画の登場人物とは結婚できないぞ』
『お父さんの馬鹿、どうしてそう夢のないこと言うの!?娘の初恋ぶち壊してたのしいのっ』
冷めた指摘に失望したリカが非難の声をあげる。勢い良く跳ね起きたリカを一瞥し、これまでさんざんおちょくられた意趣返しだと彼は意地悪くほくそ笑む。
『リカも小5になったんならクラスに好きな男子のひとりやふたりいるんじゃないか?』
図星だったようだ。
赤面したリカが酸欠の魚のように喘ぐ。ブラックジャックが大好きというのも正直な告白だろうが、クラスに好きな男子がいるというのもまた事実なのだ。本命を暴かれた娘の反応が新鮮で彼はつい調子に乗ってしまう。
『で、そいつとブラックジャックとどっちが好きなんだ?』
『お父さんには関係ないじゃん、ひとの恋愛事情に口ださないでよっ!もう馬鹿最低、そういう冗談言うお父さん見損なった。いやがらせにキムチ大量に買ってくるから』
『キムチ?』
訝しげに眉をひそめた彼を振り返り、極上の笑顔を湛えるリカ。
『担任の先生が言ってたの、飛行機乗ると気圧の関係でキムチが爆発するかもしれないからお土産で持ちこむときは気をつけなさいって。蓋をぴっちり閉めて爆発寸前ってトコまで膨らませたキムチを日本に持ち帰ってお父さんの目の前で開けてやる』
『……悲劇だな、そりゃ』
『悲劇でしょ』
真面目くさって相槌を打ったリカに我慢の限界が訪れ、彼は腹を抱えて笑い転げた。その下敷きになり新聞がぐしゃりと潰れ、釜山のテロを報じた記事が破れた。
翌日リカは韓国へ旅立っていった。
『お土産にキムチ買ってくるからたのしみにしてて』とくどいほど念を押し、元気に手を振って。
そして二度と帰ってこなかった。
半島併合三十周年を祝うパレード中に起きた、あの忌まわしい事件に巻きこまれて。
彼は職場のテレビでそれを知った。
テレビでは半島併合三十周年を祝うパレードが生中継されていた。
盛大な式典だった。社会主義に固執した朝鮮民主主義人民共和国が瓦解して韓国に併合されてから早いものでもう三十年が経つんだな、と彼は不味いコーヒーを啜りながら感慨に耽っていた。
色とりどりの紙テープが風に散らされ華麗に吹きすさぶ中、鼓笛隊を先頭に幅広の道路を典雅に行進しているのは韓国大統領を乗せた黒塗りの高級車だ。後部座席の窓を開けた大統領が笑顔で観衆に手を振るたびに歩道は喝采に沸き拍手が起こる。
大統領の顔から沿道の観衆へとカメラが流れると同時におもわず身を乗り出してリカをさがしてしまう、そんな自分に苦笑する。この何千何万という観衆の中にリカがいるのだ。不思議な感じだ。目立ちたがり屋のリカのことだからカメラを見つければ友達をつつき、大きく手を振り自分の存在を主張するかもしれないと期待してみたが、ついにリカを見つけることはできなかった。
『五十嵐、やけに熱心だな。そんなに楽しいかよ、隣の国のパレードが』
『まあな』
それでもまだ諦めきれず、紙コップを口に運びながらテレビ画面を眺める彼に同僚が声をかけてくる。
ここは刑務所内に設えられた宿直室。
彼は看守だった。
初対面の人間に職業を言うと、決まって怪訝な顔をされる。幾許かの好奇心と不審感とが入り混じった表情だ。何故看守になったのか、なりたくてなったのか?疑問の焦点はそこに尽きる。社会の平和と秩序を守る正義の味方の警察官ならともかく、なりたくて看守になった人間は少ないだろう。
ちなみに看守とは刑務官の階級の最下位にあたり、これでも一応国家公務員である。刑務官の採用試験は高校卒業程度を条件としていたため、成績がふるわず大学進学を断念せざるをえなかった彼も無事合格することができた。
公務員の端くれなら食いっぱぐれることもないだろうし、実際に凶悪犯と格闘する刑事や警察官よりは、すでに逮捕されて反省の態度を示した囚人を監督するほうが向いてるだろうと自己分析した。
それが志望動機といえば志望動機だが、冷静に振り返ってみればリカにも遺伝した世話好きな性格が影響してるのかもしれない。囚人間の彼の評判はとてもいい。他の看守のようにストレス発散目的で囚人を罰することも虐げることもなく、囚人の相談には親身に応じ、時に優しく励まし時に厳しく叱る彼は刑務所内でも一目おかれていた。
今の仕事に特に不満はなく、実生活では妻と子供にも恵まれた。妻の精神状態が年々悪化して頭痛がひどくなっているとか悩みは絶えないが、リカの笑顔の前には全部ささいなことだ。
『あの中に娘がいるんだ』
テレビ画面に顎をしゃくり、少し自慢げに打ち明ける。対面の机に座った同僚が怪訝な顔をする。
『修学旅行で今韓国に行ってるんだ。パレード見学も日程に入ってる』
『ああ、そういうことか』
合点がいったらしく、同僚が軽く頷く。
宿直室備え付けのテレビには盛大な式典の模様が映し出されていた。
パレードは着々と進行していた。大統領を乗せた車が幅広の道路をゆっくり移動してゆく。華々しく装った鼓笛隊がさしかかるたび沿道の観衆が喝采をあげ、幼児を肩車した家族連れや仲睦まじい恋人たちが大袈裟に手を振る。平和を絵に描いたような光景。
『娘さん何歳だっけ』
『十一歳、小五。生意気盛りで困っちまうよ。昨日もさんざんやりこめられた』
『女の子はませてるからなあ。でも可愛いだろ』
『そりゃまあな。うちの子はカミさん似なんだよ』
『おまえのカミさんて水商売あがりのフィリピ―ナ?』
悪気はないのだろうが、「水商売あがり」という余計な一言が癇にさわる。不快げに残りのコーヒーを啜る五十嵐の様子に失言を悔いた同僚が頭を掻く。
『わりィ。口が滑った』
『気にすんな。寂しい独身者の僻みだと思って寛容に聞き逃してやる』
『うわ、むかつくなそれ……まあいいや。でもそれでわかった、娘がパレード見物してんならテレビから目えはなせないよな。画面の端っこに映りこんでるかもしれないと期待して目を凝らしちまうのが親心』
『笑えよ親バカだって』
照れ隠しに吐き捨て、テレビ画面へと視線を戻し、ふと違和感をおぼえる。同僚の指摘で画面の端へと目をやれば、野次馬と警官が押し問答していた。どうやら、大統領とお近づきになりたい一心で道路へとびだそうとした男を警官が必死に制止してるらしい。
警官の背後を大統領の車が通りかかった瞬間、男が突飛な行動にでる。
警官を突き飛ばし、テープをまたぎ、大統領の車の前にとびだしたのだ。
危ない、轢かれる。
おもわず椅子から腰を浮かしかけた彼の予想に反し、男がタイヤに巻きこまれる危機は回避された。観衆の声援に応えるため、車が速度を落としていたからだ。安堵に胸撫で下ろした彼の眼前、画面の中の男がふたたび奇妙な行動にでる。両手を広げて万歳、大声でなにかを叫ぶ。韓国語がわからない彼には意味不明だが様子が尋常ではない。
なにが起こっているんだ?
観衆の中にはリカがいるのに。
画面の中で何が進行しているのか判然としないが、なにか、これからとてつもなく悪いことが起こりそうな予感がする。得体の知れぬ胸騒ぎにかられた彼が狂おしく見つめる中で、それは起きた。
激震。
地震……いや、違う。揺れているのは画面の中だけだ。正しくは、パレードの進行状況を延々と映していたカメラがはげしく上下に揺さぶられ横転したのだ。撮影者の手をはなれ地面に転がったカメラが淡々と映し出すのは異常な光景。血を流して倒れこむ男、腰を抜かして座りこむ若い女、親とはぐれて泣き喚く子供……騒然と入り乱れ逃げ惑う観衆。テープを突き破り歩道から車道へと殺到した何千何万という大観衆。
なんだ?
これはなんだ?
『爆発だ』
椅子を蹴倒して立ち上がった同僚が呆然と呟き、自分の発言に興奮したかのようにまくしたてる。
『おい見たかよ五十嵐今の、大統領の車の前にとびだした男が何か投げたんだよ!よくわかんなかったけどあれ爆弾だよきっと、次の瞬間カメラがブレて……』
熱に浮かされたようにしゃべりつづける同僚の声が途中で聞こえなくなった。彼は慄然と立ち竦み、手の中で紙コップを握り潰し、驚愕に目を見開いて画面を凝視した。爆発……爆弾?大統領の車の前にとびだした男が何か叫んで何か投擲したところまでは覚えている。あれが爆弾だったのか?
そして再び、画面が揺れた。今度は一回目よりもはげしく、衝撃が強かった。
画面の外まで揺れが伝わってくるようだった。いったい向こうで何が起きているんだ?わからない……いや、わかりたくない。目から入った情報を脳が処理するのを拒絶している。だってあそこにはリカがいるのに、俺の娘がいるのに、こんな馬鹿げたこと起きるはずないじゃないか。何のための爆弾何のための爆発だ、今日は半島併合三十周年を祝うめでたい日のはずだろう?
釜山でテロ 二十名死傷 韓国独立を掲げる革命組織の実体未だ解明できず
『テロなのか、そうなのか?リカはテロに巻きこまれたのか?』
口が勝手に疑問を紡ぐ。頭は混乱していた。同僚は何も答えなかった。
宿直室にいた他の看守も、横転したカメラから送られてくる衝撃的な映像に興奮して騒いでいる。そのやりとりも彼の耳にはただの雑音にしか聞こえない。画面では三度目、四度目の爆発が起きている。道路のコンクリートに亀裂が走りあるいは陥没し煙が濛々とたちこめ、親とはぐれた幼児が我先にと逃げ出す大人に突き倒され膝を擦りむき頭から血を流した恋人を抱いて女が号泣しあれは、あれは何だあの肉塊は?あれが本当に元人間?沿道に飛び散った血と肉片は?凄惨な惨劇を目撃した同僚がその場に手足をついて嘔吐する。
正気じゃない。
今日は半島併合三十周年を祝うパレードの日だ。沿道には何千何万という大観衆がつめかけていた。その中で爆弾を爆発させるなんて正気じゃない、爆弾を投げた奴は無差別テロが目的か?悲鳴と怒声と罵声と嗚咽と断末魔の絶叫と、画面の向こうから伝わってくるのは平和を絵に描いたような記念式典から一転、酸鼻を極めた光景。
あの中にリカがいる。
『修学旅行前夜の娘に洗濯物畳ませるってひどくない?』
不満げに口を尖らせつつも、リカは慣れた手つきで洗濯物を畳んでゆく。
『いやならそこらへんに放っときゃいいよ、俺があとでやっとくから。そろそろ休んだほうがよくないか?寝坊して飛行機に乗り遅れましたなんて洒落になんねえぞ』
『やだなあ、お父さんと一緒にしないでよ。ばっちり目覚まし時計かけといたから大丈夫だって。それに私がやんなきゃ誰がやるのさ、お父さんが洗濯物畳んでる姿なんて想像できないし……目に浮かぶもん、私が「ただいまー」て玄関のドアを開けたら洗濯物が出てった時まんまに散らばってるとこ。それだけじゃないよ、どうせお父さんが脱ぎ散らかしたままにした汗臭いシャツとか腐った靴下とかが三日間放置された生ゴミ並の悪臭放ってるんだ。ご近所さんから苦情きたらどうするの、ねえ?』
リカは口が達者だ。
自分から言い出したくせに無精者の父親にはあとを任せられないと意地を張る娘に、これが難しい年頃というヤツかとひとり頷く。
『なに笑ってんのお父さん。やーらしい』
『父親にむかってやーらしいとはなんだ』
『エッチなこと考えてたんじゃないの?お母さんが病弱なのいいことに外で浮気してたりしたら許さないから。もしお父さんが外で風俗行ったり女の人と浮気してたら私迷うことなくお母さんに離婚勧めるよ、そんでお父さんがどんだけ親権主張しても絶対お母さんについてって養育費がっぽりふんだくってやるから』
『……リカなんだ、その世知辛い未来予想図は。実の父親に対してあんまりな言いようじゃないかそれは?お父さんちょっと傷付いたぞ』
『傷付いたってことは心当たりあるの?』
洗濯物を畳む手も休めず言い返すリカにぐっと押し黙る。あっさり父親をやりこめたリカは、膝の上で丁寧にシャツを畳みながら妙に大人びた表情で付け足す。
『おんなじ女だもん、そりゃあお母さんの味方をします』
そんなに信用ないのか俺は、と情けなくなる。
本気で浮気を疑われているのだとしたら父親失格だ。ワイシャツの袖と袖を合わせ器用に折り返しつつ、がっくりうなだれた父親を澄まし顔で観察するリカだが目元は笑っている。
フィリピン人との混血であるリカの肌は浅黒い。
混血が進んだ日本では肌の色や髪の色にも多様性がでてきたが、外国人に根強い偏見や反感を抱く層が彼の世代には多い。実際彼が子供の頃は今日ほど混血が進んでおらず、外国人との混血児はクラスに一人いるかいないかという確率だった。それが今では一クラス五名の割合に増加したのだからつくづく日本も変わったものだと痛感する。
いつしかこの国は、両親とも日本人というだけで優遇される時代に突入した。
その次に偉いのは片親が日本人の子供で、最下位は両親ともよそ者……つまり外国人の子供。 それが世間の平均的価値観にして一般常識だ。
リカの母親とは同僚に連れていかれたクラブで知り合った。
第二次ベトナム戦争の戦火を逃れて日本に来たばかりの彼女は日本語が不自由で、人見知りをするタチなのか根が引っ込み思案なのか慣れない接客で失敗続きだった。うっかり手をすべらし客のズボンに酒を零したり、うっかり手をすべらしグラスに入れようとした氷を客の股間に落としたり……
今でこそ笑い話だが、新人にありがちな初々しい失敗談を笑い飛ばせるほど気丈ではなかった若い妻は店の裏手でよく泣いていた。
彼は彼女に恋をした。
そうして彼はフィリピン人の伴侶を得て、程なく子供が産まれた。妻によく似た可愛い女の子だった。目鼻立ちのくっきりした彫り深い顔だちは母方の血が強く出たためだろう。一目で東南アジア系黄色人種との混血児だとわかる外見のリカは、親から偏見を刷り込まれた園児たちに仲間はずれにされては毎日泣いて帰ってきた。台中戦争やら第二次ベトナム戦争やら半島の経済破綻やらさまざまな経緯からおもに東アジアや東南アジア圏の国々から日本に逃れてきた人々を敵視する者は少なくない。
彼ら戦争難民や出稼ぎ目的の外国人が二十一世紀前半に一挙に流れこんだせいで、都心には大規模なスラムができて治安が悪化して犯罪件数が激増したのだと一般に認識されているからだ。
それもまた、事実ではある。
なんでリカは他の子とちがうの、と泣いて訴えていた幼い頃の娘を思い出す。だが、ある日を境に変化が起きた。自分をいじめていたリーダー格の男の子を、リカが砂場で蹴倒して泣かしたのだ。男の子の親と保母には怒られたが、帰宅したリカはひどく誇らしげだった。
なんでそんなことをしたんだ、と聞けばリカは憤然と言った。
『だってあの子、おかあさんとおとうさんをバカにしたんだもん。日本人のくせに外国人とケッコンするなんてリカのおとうさんは裏切りものだなんて言うから頭にきたんだよ』
いじめっ子を蹴倒す場面をリカに再現され、「将来こいつと結婚するヤツは大変だろうな」とまだ見ぬ娘の結婚相手に同情し、せめて夫婦喧嘩では旦那を足蹴にするなよと当時の彼は忠告してやりたくなったものだ。
『お父さん?』
我に返った彼を疑わしげに見つめているのは、膝に洗濯物を乗せた現在のリカだ。
『なに浸ってんのお父さん?ボケるには早いよ』
『いや、なんでもない。ちょっと昔のこと思い出してただけだ』
咳払いでごまかし、わざとらしく新聞を広げる。そんな父の様子をリカは怪訝そうに眺めていたが、膝に乗せたズボンの裾を手のひらで撫で付けながらスッと目を伏せる。
『……ごめん、さっきはちょっと言いすぎた。お父さんが浮気してるなんて本気で思ってるわけじゃないから安心して』
『わかってるよ』
『お父さんモテないもんね』
……さりげなくひどいことを言うなコイツ。本当にだれに似たんだこの毒舌。
もしかしてこれが反抗期というやつだろうか?そうか、とうとうリカにも反抗期が訪れたかと新聞を読むふりをしながら冷や汗を流す。
新聞で顔を隠し、洗濯物を畳むリカの横顔を盗み見る。
親の欲目を除いてもリカは可愛い。ボーイッシュなショートヘアがくっきりとした目鼻立ちによく似合う。十年後、いや、五年後にはさぞかし気の強い姉さん女房になって彼氏を振り回すんだろうなとまだ見ぬ娘の恋人に同情して肩でも叩きたくなる。
……さっきから娘の旦那やら彼氏やらに同情してばかりだな、俺。
それに加え、勝気で世話好きな性格から娘の恋人や旦那は年下に違いないと勝手に決めつけていることに思い至り自嘲する。たしかに自分は心配性だが、まだ見ぬ娘の彼氏や旦那への同情には幾許かの嫉妬がこめられているのも否定できない。
同情は嫉妬の裏返しだ。
リカは自分にはもったいないよく出来た娘だ。
しっかり者の長女に彼ら夫婦はずっと助けられてきた。フィリピン人の妻は、リカが幼稚園の頃からホームシックにかかりふさぎこむようになった。体がだるい頭が痛いと奥の部屋で寝こむことが多くなった妻の代わりにリカは日常的に家事をこなすようになった。リカだって小学生の女の子だ。友達との約束を優先したい日や家事をさぼりたい日もあるだろうに、妻が辛い体を起こして台所に立とうとすれば「いいから、お母さんは寝てて」と背中を押し戻すようになった。
リカは優しい娘だ。
彼ら夫婦の自慢の娘だ。
だからリカがこの家を去る日のことを考えると、男親の感傷だとわかっていても寂しいのだ。
父と娘が気まずく押し黙る。
妻は奥の部屋で薬を飲んで寝ている。まだ頭痛が治らないのだ。医者は心因性の偏頭痛だと診断して心療内科への通院を勧めた。妻の頭痛は慢性的なものだ。今だに片言でしか日本語をしゃべれない劣等感と人見知りで内気な性格が災いし近所付き合いもできず、保護者会ではただでさえ排他的な日本人の親に疎外され、頼れる友達がひとりもいない環境での生活が愛する妻の精神を病ませているのだ。
妻の頭痛にはもう市販の薬が効かなくなってる。医者の勧めにしたがい、心療内科に通院してみるべきかもしれない。いちばんいいのは一時的にでも故郷へ里帰りさせることだろうが、妻の故郷フィリピンは米軍侵略以降、反政府ゲリラとの熾烈な内戦が繰り広げられる銃弾飛び交う激戦地だ。
そんなところに妻を帰すのはみすみす死にに行かせるようなものだ。
苦りきった表情の父親に向き直ったリカが、洗濯物を畳む手を止めて揃えた膝におく。
『ね、修学旅行のお土産なにがいい?リクエスト聞くよ』
景気づけに膝を叩き、活発に笑うリカ。雰囲気を明るくしようと彼女なりに努力しているのだ。そんな様子がけなげでいじらしくて、ついぽろりと本音をこぼしてしまう。
『無事に帰ってきてくれ』
リカが大きく目を見張る。いけない、せっかく娘が気を利かせて雰囲気を明るくしようとしているのに不用意な一言でまた暗くしてしまった。やけにしんみりと呟いた彼は、口にだしてしまってからそのささやかな願いを悔いる。
なにを心配しているんだ俺は、リカはもうでかいんだ、迷子の三歳児のように親が気を揉むことはないんだこれっぽっちも。
思春期を迎え、父親が浸かった風呂には三十分以上時間をおいてからじゃないと入らないという不可解な行動をとるようになったリカがどうでるかと彼は緊張する。
『お父さん心配しすぎ。韓国なんてすぐそこだよ、日本のお隣さんじゃん。三日後には元気で帰って来るから大丈夫だって』
怒られはしなかったが笑われた。これはこれで不愉快だ。
父親が娘を心配してなにがおかしいのだと憮然とそっぽを向いた拍子に、新聞の隅に小さく囲われた記事が目にとびこんでくる。
『修学旅行先で事故か事件に巻き込まれるかも知れねえだろ。最近物騒だからな、そこらじゅうで戦争やらテロやら起こってるし……お前が行く韓国だって例外じゃねえ。ほら、これ見ろ』
リカの鼻先に新聞の記事を突き出す。新聞の隅に地味に存在していたのは、「釜山でテロ 二十名死傷 韓国独立を掲げる革命組織の実体未だ解明できず」という内容の記事だった。
『韓国だってテロが起きてんだぞ、他人事じゃねえぞ』
『あーもううざいなー、お父さん心配しすぎ。修学旅行先で事件や事故に巻き込まれる確率なんて何千分の一にすぎないのにさあ……』
畳に膝を崩したリカがあきれたように首を振る。新聞記事まで持ち出して自分に注意を促す父親を鬱陶しがるのは思春期の娘として当然の心理だが、彼とて後に引けない。娘に馬鹿にされたままでは父親の威厳が保てないと問題の記事を指さしてしつこく大人げなく食い下がる。
『何千分の一ってことはゼロじゃないだろ、万一ってこともありえるだろ!いいか、よーく気をつけろよリカ。修学旅行の予定には祝併合三十周年パレードも入ってんだろ?友達と一緒だからって羽目外してはしゃぎすぎて、大統領の車追って道路にとびだしたりするんじゃねえぞ』
『はいはいはいわかりました』
『ハイは一度』
『ヘイ』
……まったく可愛げのないヤツだ。諦観のため息をつき新聞を投げ出した彼の眼前では、してやったりとリカがほくそ笑んでいた。コイツは将来男をからかって楽しむ性悪女になるかもしれない、といういやな想像が脳裏をかすめてはげしく首を振る。父親をやりこめて満足したか、畳に行儀悪く寝転がって新聞をめくるリカ。毎日連載の四コマ漫画を熱心に読み、上機嫌に足を揺らすさまを眺め、苦笑する。
『本当に漫画が好きだな』
『大好き。だっておもしろいじゃん。あーあ、先生と結婚したいなあ』
『先生?おまえ担任に片思いしてるのか』
聞き捨てならない。小学五年生で担任教師に片思いだなんてませガキめけしからん、と眉を吊り上げた父親に軽蔑の眼差しを投げてリカが寝返りを打つ。
『違うって、先生は先生でもブラックジャック先生ー』
『なんだ漫画か』
娘の仮想恋人が漫画の登場人物だと判明し、安堵の息を吐く。父親の間抜けな勘違いに笑いの発作を噛み殺しながらリカが続ける。
『だあってかっこいいんだもん先生、マジ惚れちゃう!法外な治療費ふんだくる無免許医だって世間から後ろ指さされてるのにホントはすっごく優しくて絶対最後まで患者さん見捨てたりしないんだよー最高じゃん?傷痕もセクシーだし白衣も似合うし……あ、でもいちばんはやっぱ黒マントかな?いいよねー。黒マントをあんなに自然に着こなせるの先生くらいのもんだよ。ああっ、ピノコになりたいっ』
……娘が別の意味でかなり心配だ。まあ、漫画の登場人物に片思いすることも思春期の女の子にはありがちな現象だと無理矢理納得しよう。
そう思ったが。
初恋の微熱に目を潤ませてブラックジャックを絶賛する娘がおなじ部屋にいればついつい釘をさしたくなるのが父親という生き物だ。
『先生に恋するのは結構だが、どんなに好きでも漫画の登場人物とは結婚できないぞ』
『お父さんの馬鹿、どうしてそう夢のないこと言うの!?娘の初恋ぶち壊してたのしいのっ』
冷めた指摘に失望したリカが非難の声をあげる。勢い良く跳ね起きたリカを一瞥し、これまでさんざんおちょくられた意趣返しだと彼は意地悪くほくそ笑む。
『リカも小5になったんならクラスに好きな男子のひとりやふたりいるんじゃないか?』
図星だったようだ。
赤面したリカが酸欠の魚のように喘ぐ。ブラックジャックが大好きというのも正直な告白だろうが、クラスに好きな男子がいるというのもまた事実なのだ。本命を暴かれた娘の反応が新鮮で彼はつい調子に乗ってしまう。
『で、そいつとブラックジャックとどっちが好きなんだ?』
『お父さんには関係ないじゃん、ひとの恋愛事情に口ださないでよっ!もう馬鹿最低、そういう冗談言うお父さん見損なった。いやがらせにキムチ大量に買ってくるから』
『キムチ?』
訝しげに眉をひそめた彼を振り返り、極上の笑顔を湛えるリカ。
『担任の先生が言ってたの、飛行機乗ると気圧の関係でキムチが爆発するかもしれないからお土産で持ちこむときは気をつけなさいって。蓋をぴっちり閉めて爆発寸前ってトコまで膨らませたキムチを日本に持ち帰ってお父さんの目の前で開けてやる』
『……悲劇だな、そりゃ』
『悲劇でしょ』
真面目くさって相槌を打ったリカに我慢の限界が訪れ、彼は腹を抱えて笑い転げた。その下敷きになり新聞がぐしゃりと潰れ、釜山のテロを報じた記事が破れた。
翌日リカは韓国へ旅立っていった。
『お土産にキムチ買ってくるからたのしみにしてて』とくどいほど念を押し、元気に手を振って。
そして二度と帰ってこなかった。
半島併合三十周年を祝うパレード中に起きた、あの忌まわしい事件に巻きこまれて。
彼は職場のテレビでそれを知った。
テレビでは半島併合三十周年を祝うパレードが生中継されていた。
盛大な式典だった。社会主義に固執した朝鮮民主主義人民共和国が瓦解して韓国に併合されてから早いものでもう三十年が経つんだな、と彼は不味いコーヒーを啜りながら感慨に耽っていた。
色とりどりの紙テープが風に散らされ華麗に吹きすさぶ中、鼓笛隊を先頭に幅広の道路を典雅に行進しているのは韓国大統領を乗せた黒塗りの高級車だ。後部座席の窓を開けた大統領が笑顔で観衆に手を振るたびに歩道は喝采に沸き拍手が起こる。
大統領の顔から沿道の観衆へとカメラが流れると同時におもわず身を乗り出してリカをさがしてしまう、そんな自分に苦笑する。この何千何万という観衆の中にリカがいるのだ。不思議な感じだ。目立ちたがり屋のリカのことだからカメラを見つければ友達をつつき、大きく手を振り自分の存在を主張するかもしれないと期待してみたが、ついにリカを見つけることはできなかった。
『五十嵐、やけに熱心だな。そんなに楽しいかよ、隣の国のパレードが』
『まあな』
それでもまだ諦めきれず、紙コップを口に運びながらテレビ画面を眺める彼に同僚が声をかけてくる。
ここは刑務所内に設えられた宿直室。
彼は看守だった。
初対面の人間に職業を言うと、決まって怪訝な顔をされる。幾許かの好奇心と不審感とが入り混じった表情だ。何故看守になったのか、なりたくてなったのか?疑問の焦点はそこに尽きる。社会の平和と秩序を守る正義の味方の警察官ならともかく、なりたくて看守になった人間は少ないだろう。
ちなみに看守とは刑務官の階級の最下位にあたり、これでも一応国家公務員である。刑務官の採用試験は高校卒業程度を条件としていたため、成績がふるわず大学進学を断念せざるをえなかった彼も無事合格することができた。
公務員の端くれなら食いっぱぐれることもないだろうし、実際に凶悪犯と格闘する刑事や警察官よりは、すでに逮捕されて反省の態度を示した囚人を監督するほうが向いてるだろうと自己分析した。
それが志望動機といえば志望動機だが、冷静に振り返ってみればリカにも遺伝した世話好きな性格が影響してるのかもしれない。囚人間の彼の評判はとてもいい。他の看守のようにストレス発散目的で囚人を罰することも虐げることもなく、囚人の相談には親身に応じ、時に優しく励まし時に厳しく叱る彼は刑務所内でも一目おかれていた。
今の仕事に特に不満はなく、実生活では妻と子供にも恵まれた。妻の精神状態が年々悪化して頭痛がひどくなっているとか悩みは絶えないが、リカの笑顔の前には全部ささいなことだ。
『あの中に娘がいるんだ』
テレビ画面に顎をしゃくり、少し自慢げに打ち明ける。対面の机に座った同僚が怪訝な顔をする。
『修学旅行で今韓国に行ってるんだ。パレード見学も日程に入ってる』
『ああ、そういうことか』
合点がいったらしく、同僚が軽く頷く。
宿直室備え付けのテレビには盛大な式典の模様が映し出されていた。
パレードは着々と進行していた。大統領を乗せた車が幅広の道路をゆっくり移動してゆく。華々しく装った鼓笛隊がさしかかるたび沿道の観衆が喝采をあげ、幼児を肩車した家族連れや仲睦まじい恋人たちが大袈裟に手を振る。平和を絵に描いたような光景。
『娘さん何歳だっけ』
『十一歳、小五。生意気盛りで困っちまうよ。昨日もさんざんやりこめられた』
『女の子はませてるからなあ。でも可愛いだろ』
『そりゃまあな。うちの子はカミさん似なんだよ』
『おまえのカミさんて水商売あがりのフィリピ―ナ?』
悪気はないのだろうが、「水商売あがり」という余計な一言が癇にさわる。不快げに残りのコーヒーを啜る五十嵐の様子に失言を悔いた同僚が頭を掻く。
『わりィ。口が滑った』
『気にすんな。寂しい独身者の僻みだと思って寛容に聞き逃してやる』
『うわ、むかつくなそれ……まあいいや。でもそれでわかった、娘がパレード見物してんならテレビから目えはなせないよな。画面の端っこに映りこんでるかもしれないと期待して目を凝らしちまうのが親心』
『笑えよ親バカだって』
照れ隠しに吐き捨て、テレビ画面へと視線を戻し、ふと違和感をおぼえる。同僚の指摘で画面の端へと目をやれば、野次馬と警官が押し問答していた。どうやら、大統領とお近づきになりたい一心で道路へとびだそうとした男を警官が必死に制止してるらしい。
警官の背後を大統領の車が通りかかった瞬間、男が突飛な行動にでる。
警官を突き飛ばし、テープをまたぎ、大統領の車の前にとびだしたのだ。
危ない、轢かれる。
おもわず椅子から腰を浮かしかけた彼の予想に反し、男がタイヤに巻きこまれる危機は回避された。観衆の声援に応えるため、車が速度を落としていたからだ。安堵に胸撫で下ろした彼の眼前、画面の中の男がふたたび奇妙な行動にでる。両手を広げて万歳、大声でなにかを叫ぶ。韓国語がわからない彼には意味不明だが様子が尋常ではない。
なにが起こっているんだ?
観衆の中にはリカがいるのに。
画面の中で何が進行しているのか判然としないが、なにか、これからとてつもなく悪いことが起こりそうな予感がする。得体の知れぬ胸騒ぎにかられた彼が狂おしく見つめる中で、それは起きた。
激震。
地震……いや、違う。揺れているのは画面の中だけだ。正しくは、パレードの進行状況を延々と映していたカメラがはげしく上下に揺さぶられ横転したのだ。撮影者の手をはなれ地面に転がったカメラが淡々と映し出すのは異常な光景。血を流して倒れこむ男、腰を抜かして座りこむ若い女、親とはぐれて泣き喚く子供……騒然と入り乱れ逃げ惑う観衆。テープを突き破り歩道から車道へと殺到した何千何万という大観衆。
なんだ?
これはなんだ?
『爆発だ』
椅子を蹴倒して立ち上がった同僚が呆然と呟き、自分の発言に興奮したかのようにまくしたてる。
『おい見たかよ五十嵐今の、大統領の車の前にとびだした男が何か投げたんだよ!よくわかんなかったけどあれ爆弾だよきっと、次の瞬間カメラがブレて……』
熱に浮かされたようにしゃべりつづける同僚の声が途中で聞こえなくなった。彼は慄然と立ち竦み、手の中で紙コップを握り潰し、驚愕に目を見開いて画面を凝視した。爆発……爆弾?大統領の車の前にとびだした男が何か叫んで何か投擲したところまでは覚えている。あれが爆弾だったのか?
そして再び、画面が揺れた。今度は一回目よりもはげしく、衝撃が強かった。
画面の外まで揺れが伝わってくるようだった。いったい向こうで何が起きているんだ?わからない……いや、わかりたくない。目から入った情報を脳が処理するのを拒絶している。だってあそこにはリカがいるのに、俺の娘がいるのに、こんな馬鹿げたこと起きるはずないじゃないか。何のための爆弾何のための爆発だ、今日は半島併合三十周年を祝うめでたい日のはずだろう?
釜山でテロ 二十名死傷 韓国独立を掲げる革命組織の実体未だ解明できず
『テロなのか、そうなのか?リカはテロに巻きこまれたのか?』
口が勝手に疑問を紡ぐ。頭は混乱していた。同僚は何も答えなかった。
宿直室にいた他の看守も、横転したカメラから送られてくる衝撃的な映像に興奮して騒いでいる。そのやりとりも彼の耳にはただの雑音にしか聞こえない。画面では三度目、四度目の爆発が起きている。道路のコンクリートに亀裂が走りあるいは陥没し煙が濛々とたちこめ、親とはぐれた幼児が我先にと逃げ出す大人に突き倒され膝を擦りむき頭から血を流した恋人を抱いて女が号泣しあれは、あれは何だあの肉塊は?あれが本当に元人間?沿道に飛び散った血と肉片は?凄惨な惨劇を目撃した同僚がその場に手足をついて嘔吐する。
正気じゃない。
今日は半島併合三十周年を祝うパレードの日だ。沿道には何千何万という大観衆がつめかけていた。その中で爆弾を爆発させるなんて正気じゃない、爆弾を投げた奴は無差別テロが目的か?悲鳴と怒声と罵声と嗚咽と断末魔の絶叫と、画面の向こうから伝わってくるのは平和を絵に描いたような記念式典から一転、酸鼻を極めた光景。
あの中にリカがいる。
0
お気に入りに追加
202
あなたにおすすめの小説




皇帝陛下の精子検査
雲丹はち
BL
弱冠25歳にして帝国全土の統一を果たした若き皇帝マクシミリアン。
しかし彼は政務に追われ、いまだ妃すら迎えられていなかった。
このままでは世継ぎが産まれるかどうかも分からない。
焦れた官僚たちに迫られ、マクシミリアンは世にも屈辱的な『検査』を受けさせられることに――!?


男子寮のベットの軋む音
なる
BL
ある大学に男子寮が存在した。
そこでは、思春期の男達が住んでおり先輩と後輩からなる相部屋制度。
ある一室からは夜な夜なベットの軋む音が聞こえる。
女子禁制の禁断の場所。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる