少年プリズン

まさみ

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二百五十六話

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 「安田さん遅いで、待ちくたびれてもた」
 ヨンイルの訴えに全員そちらを注視する。
 レイジに蹴られて鼻血を噴いたヨンイルが鼻をつまんで天を仰いでいた。ヨンイルの首の後ろを手刀で叩いているのはホセだ。
 待ちくたびれた?
 どういうことだ。ヨンイルの口ぶりはまるで、安田が来るのを待っていたみたいじゃないか。安田の登場を待ちかねて騒動を長引かせたように聞こえるじゃないか。
 負傷者が医務室へと運ばれあとには血痕や武器のナイフや鎖が散乱する凄惨な風景が残された。閑散とした渡り廊下で一転主役を張っているのは西の道化と南の隠者、観客の注視を浴びて余裕ありげにふんぞり返るヨンイルの隣ではホセが微笑んでいる。
 「待ちくたびれたとはどういうことだ、私に用があるのか」
 僕とおなじ疑問を安田が口にする。怪訝そうに眉をひそめた安田と相対したヨンイルが笑う。
 「あるある。安田さんおびきだすために今回の騒動を仕組んだようなもんや。ま、こっちの予想に反して騒ぎでかなりすぎたのは計算外やけど終わりよければすべてよしって言うやろ」
 「は?」
 ヨンイルは何を言ってるんだ?理解不能の発言に戸惑えば、ホセが申し訳なさげに首を振る。
 「吾輩は反対したのですがね。医務室で騒動を察知したときから沸沸といやな予感はしていましたがヨンイルくんときたらお魚くわえたドラ猫のようにまっしぐらにとびだしていって……結果こうなってしまいました。力及ばず面目ない」
 「しゃあないやん。囚人が正面から訊ねてってもようこそおいでませって入れてくれへんやろ、副所長は。追い返されるのがオチや。せやから安田さんおびきだすために一芝居打ったんや。渡り廊下ではでに暴れれば東京プリズンの危機管理係安田はんが遅かれ早かれ駆け付けてくるて踏んで……」
 饒舌に説明するヨンイルに相槌を打つホセに当惑する。予想外の事態に直面した僕は混乱した頭で二人の話を整理しようとする。安田をおびきだすための一芝居。つまりヨンイルとホセが渡り廊下の抗争に加わったのは、レイジへの友情だけが動機ではなく他に隠された目的があるからか?ヨンイルとホセが渡り廊下に乱入した動機とは?
 額にゴーグルを押し上げたヨンイルが、床に突っ伏したレイジを一瞥する。
 「レイジがキレるんはさすがの俺も計算外やったけどな……安田はん来るまで時間稼ぎせなあかんかったんや。すまんななおちゃん、騙したみたいで」
 「待て、自己完結せず最初から順を追って説明しろ!つまり君たちは安田をおびきだすために渡り廊下の抗争に加わったと、そういうことか?そうまでして副所長に直談判したい用件とはなんだ?」
 語気荒く詰め寄る僕をよそにヨンイルとホセが顔を見合わせる。胸騒ぎがした。漸く嵐が過ぎ去ったと安堵したそばから、それを上回る嵐が接近していると思い知らされたような不穏な感じ。
 渡り廊下に居合わせた観客全員の視線がヨンイルとホセに注がれる。好奇と不審の眼差しを浴びたヨンイルとホセは、少しも物怖じせず泰然自若と落ち着き払っている。西と南のトップが揃い踏みした相乗効果で周囲の雰囲気がサッと塗り替えられる。
 嵐が接近している。
 看守数人がかりで取り押さえられたレイジは浅く肩を上下させ、ヨンイルとホセとを睨みつけている。ホセの肩に担がれたロンは疲れて気を失ったのか、最前までの暴れようが嘘のようにぐったりしている。
 安田を筆頭にした看守陣に包囲されたヨンイルとホセとを凝視して、僕は生唾を嚥下する。
 「安田さんと取引したいんや」
 「取引?」
 安田の眉間に皺が寄る。胡散臭そうな顔をした安田に気安く笑いかけるヨンイル。八重歯が特徴的な人好きのする笑顔に、裏があるように見えたのは錯覚か? 
 「今回のペア戦100人抜きは、元はといえばレイジくんが勝手に宣言したことです。吾輩たち他棟のトップは何も聞かされてないし本来関係ない立場。ですがレイジくんが順当に勝ち進めば必然決勝戦で吾輩たちと当たることになる。
 これはおかしい。そうは思いませんか?」
 如才ない笑顔でホセが問いかけ、安田の目が細まる。
 「俺は西のトップでホセは南のトップ。レイジが100人抜き成し遂げるには俺たち倒さなあかんやろ?俺たち倒せばレイジは目的達成、売春班撤廃の願いを聞き入れてもらえる。せやけど俺たちのメリットは?レイジに勝った場合の褒賞は?」
 口を挟みたいが、挟める雰囲気ではない。今しゃべってるこの男は、本当に僕の知るヨンイルか?漫画好きでなれなれしくて、手塚治虫を無邪気に崇拝する少年か?
 「そもそもレイジくんの100人抜きは、吾輩たちのまったく知らないところで可決された。100人抜きの見返りに売春班撤廃というのもレイジくんと副所長の間で取り決められたことです。
 少々不愉快と言わざるをえません。他棟のトップに何の断りもなく、レイジくんは独断で100人抜きを宣言した。東京プリズンは東西南北四棟の共同統治です、本来吾輩たちに一言あってしかるべしでしょう」
 ホセは終始にこやかだが、その声には有無を言わせぬ響きがあった。
 ホセもヨンイルもどこかおかしい、さっきまでとは別人のようだ。僕は彼らが手を組み、安田をおびきだすため騒動を大きくしたことも全く気付かなかった。ヨンイルとホセを味方だと思いこみ、いつのまにか気を許していた自分の失態が悔やまれる。警戒心が薄れていたから二人の変化に気付かなかった、ゴーグルの下で悪意を孕んだヨンイルの眼光もホセの笑顔の裏に潜む策略も。
 「てなわけで、俺らもちィとばかし頭きてもうて。決勝戦でレイジ以外のトップが勝うた際のお願い安田さんに聞いてもらおうかなーって」
 「深夜の図書室でヨンイルくんと相談したんです。まあ吾輩たちが図書室でこそこそしてたおかげでロンくん貞操の危機に間に合ったのは皮肉というか奇跡というか……幸運ですね」
 おどけて首を竦めるホセの隣で、ヨンイルが顎を引き、言葉の浸透度をはかるようにじっくりと周囲を見渡す。廊下に居合わせた看守は全員、何が進行しているんだかわからず愕然と立ち竦んでいた。表面上は平静を装っている安田も、眼鏡のブリッジに触れるしぐさから内心では動揺してるとわかった。
 床に押さえこまれたレイジは眉間に皺を刻んでいた。レイジもまた、初めてこの話を聞かされたものらしい。
 サーシャは例外として南と西とは友好的な関係を築いてきたはずのなのに、ヨンイルとホセはレイジの独断先行に内心不満を持っていた。彼らの主張も一理ある、100人抜きを成し遂げた暁には売春班を廃止するという取り決めはレイジと安田の間で行われたものでヨンイルもホセも何も知らされてなかったのは事実。
 レイジが100人抜きを達成するには二人の出場が前提なのに、肝心の本人に何の許可も得ず、レイジがその場の勢いで勝手に宣言してしまったのだ。

 ヨンイルとホセは、いつからこの計略を練っていたのだ?
 レイジを嵌め、安田と直接交渉する計略を。

 「それで?聞こうではないか、君たちの用件とやらを」
 「さすが副所長、気前がええ」
 ヨンイルが目を閉じ深呼吸し、場の緊張が高まる。全員が固唾を飲み、ヨンイルが口を開く瞬間を待つ。看守数人がかりで押さえこまれたレイジも、呆然と立ち竦んだ僕も、平静を装った安田も、身動ぎひとつせず道化と隠者を凝視する。
 そして、ヨンイルは言った。
 すっと人さし指を立て、口元に笑みを添えて。 

 「レイジ以外のトップが勝った暁には、そいつが東京プリズンの全権を握る」
 
 「気でも狂ったのか?」
 声が震えた。ヨンイルは今なんと言った?レイジ以外のトップが勝利した褒賞として東京プリズンの全権を譲れと、副所長の安田にそう言ったのか?
 ホセが気取った手つきで黒縁眼鏡をかける。分厚いレンズの奥で微笑む目は、策士のそれだ。
 「今日までの東京プリズンは東西南北危ういバランスの上に仮初の秩序を維持していました。だが、それも今日まで。レイジくんの自分勝手な振る舞いには吾輩いい加減頭にきました。レイジくんの独断先行を諌めるためには、トップを一人に絞る必要がある。
 誰が最強のトップかリング上で白黒つけようじゃありませんか?」
 「レイジが勝てば売春班撤廃、俺らが勝てばそいつが新トップ。東西南北四棟にトップが一人ずつ、なんてまどろっこしい話はなしやで?東京プリズンのトップはひとりでええ。正々堂々戦って、大観衆の眼前で誰がホンマのトップがはっきりさせるんや。トップの決定は絶対。俺がトップになった暁には北と南と東に漫画喫茶つくる」
 「素晴らしい計画です。なら吾輩がトップになった暁には西と東と北にジムを……」
 「待て、勝手に話を進めるな!」
 僕の抗議を無視し、ヨンイルとホセはすっかり意気投合している。彼らの中ではすでに決定事項なのだろう。自分がトップになった際の計画を楽しげに話し合っていたヨンイルとホセが、同時に振り返る。
 「北の意向はどうや、サーシャ」
 「異存ありますか」
 「……面白いではないか」
 両手に手錠を嵌められたサーシャがくつくつと肩を震わせる。笑っているのだ。腹の底から湧いてくるどす黒い哄笑を、自制心を総動員して堪えているのだ。銀髪を振りかぶり、毅然と顔を上げたサーシャの目に宿っていてのはむきだしの闘争心。
 大観衆が集結したリングでレイジを負かして東京プリズンのトップに立つという野望に魅入られた男の顔。
 東西南北四棟を完全に掌握し、本物の皇帝になれるチャンスをサーシャがみすみす逃すはずがない。
 「西の道化と南の隠者よ、その提案を受け入れよう。東西南北の民衆の眼前でこの下賎な雑種を痛め付けられるなど願ってもない。レイジさえ下せば私は真の支配者となれる、極東の監獄を支配する気高き皇帝となれる。
 素晴らしい、素晴らしいぞサバーカども!!」
 狂気の哄笑をあげるサーシャから怯えたように看守が身を引く。体を仰け反らせて哄笑するサーシャを見上げるレイジは、歪な笑みを浮かべていた。 
 狂っている。
 サーシャもレイジもホセもヨンイルも、東西南北のトップは全員狂っている。
 「南と西と北の意向は決まった。さて、東は?」
 腰に手をついたヨンイルが冷やかすようにレイジを一瞥する。看守に押さえこまれて身動きとれないにもかかわらず、気力で顔を起こしたレイジが獰猛に犬歯を剥く。
 「……最っ高に笑える冗談だぜ、道化の分際で王様に下克上かよヨンイル?いいさ、乗ってるよ。お前らの言うことも一理ある、北はともかく南と西に相談なしで100人抜き決めたのはマジだし」
 「さすがレイジくん、寛大です」
 「待てよ」
 満足げに首肯したホセを強い眼光で射抜き、レイジが唸る。

 「全力で殺しにかかるけど、後悔しねえな」
 
 その瞬間のレイジの顔は一生忘れられそうにない。
 レイジは嬉しそうに、この上なく嬉しそうに満面の笑顔を湛えたのだ。子供相手に手加減して遊んでやっていた大人がはじめて実力をだせるとでもいうように。
 「後悔なんかするもんかい」
 ゴーグルを下ろして両目を隠したヨンイルが挑戦的にほくそ笑む。
 「遅かれ早かれこの時がくると予期していました。いつかは四人のトップを決めなければいけません。東京プリズンは弱肉強食、強者が常に勝利する過酷な世界。極東の監獄に君臨する最強の王者を神聖なるリングで決定しようではありませんか」
 黒縁眼鏡のブリッジに触れたホセが不敵に笑う。
 「東西南北トップは意見の一致をみたで。副所長さえ頷いてくれたら万事オッケーや」
 腰に手をついた尊大なポーズで安田と対峙したヨンイルに、一斉に注目が集まる。
 安田はどうする?
 束の間呼吸するのも忘れ、安田の動向を探る。副所長は沈思の皺を眉間に刻み、沈痛な面差しで考え込んでいた。
 安田がゆっくりと目を開け、神経質な手つきでブリッジを押し上げる。
 「いいだろう。君たちの申し出を認めよう」 
 そんな。
 気付けば僕は、安田の胸に掴みかかっていた。
 「正気か貴様、後戻りできなくなるぞ!?こんなことは馬鹿げてる、即刻やめさせるんだ!」
 シャツの胸を掴んで訴える僕を、安田はどこか悲痛な面差しで見つめていたが、意を決したように僕の肩に手をかけ突き放す。
 「……私は副所長だが、できないこともある。彼らの決意は固い、どんなに時間をかけて言葉を尽くしたところで翻意させるのはむずかしい。わかってくれ鍵屋崎、囚人間の取り決めには副所長といえど口をだせないんだ。ましてや東西南北トップの意見が一致して、その上で申し込まれたのでは却下する理由がない。それに私が却下したところで、今日中には噂が出まわってしまう。レイジを倒した者が東京プリズンのトップになるという噂が何百何千という囚人に事実として認識されるんだ、そうなればどのみち取り返しがつかない!」
 激昂した安田が僕の肩を揺さぶる。悲痛な叫び声から、思い詰めた目から、安田の苦悩が痛いほどよく伝わってきた。
 副所長にも限界がある。
 東京プリズンの主役は看守ではなく、囚人自身なのだ。
 大衆は脅威だ。数は偉大だ。何百何千という囚人たちの間に噂が広まるのは時間の問題だ。
 渡り廊下の抗争の一部始終がヨンイルやホセの口からあるいは野次馬として居合わせた北の囚人や看守の口から東京プリズンの隅々まであまねく広められてしまえば、副所長にはなにもできることがない。現実に、気の早い看守の何名かがこの大事件を同僚に伝えに走り去ってしまった。
 もう、手遅れなのだ。
 絶望に打ちのめた僕の肘を安田が掴み、倒れないよう支えてくれた。
 床に押さえこまれたレイジ、ヨンイルとホセ、そしてサーシャ。
 東西南北トップの間に交差するのは、さまざまな思惑を孕んだ視線。憎悪、敵愾心、悪意、闘争心、そして……ゴーグルで両目を覆ったヨンイルが足元のブラックジャックを拾い上げ、丁寧に埃を払う。
 「ブラックジャックに傷つけた借りは高うつくで」
 ホセが薬指の指輪にキスをする。
 「そこで吾輩の勝利を祈ってください、マイワイフよ。吾輩は知恵ある隠者、道化にも皇帝にも王にも負ける気がしません」
 手錠をかけられたサーシャが喉が破裂したような奇声をあげる。
 「私はこの時を待っていた、心の底より待ち侘びていた!西の道化と南の隠者、そして東の王よ。お前ら三匹がトップとして私と肩を並べるなど言語道断、屈辱の極み。東京プリズンのトップは一人でいい、即ちこの私一人で十分だ!!必ずやお前たち下賎なサバーカを血祭りにあげてやる、鎖つきの飼い犬として拷問部屋に繋いでやる!!」 
 最後にレイジが呟く。
 「『主は自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおそるべき所を捨て去った御使たちを大いなる日のさばきのために永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。
ソドム ゴモラもまわりの町々も同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている』」 
 そこで言葉を切り、血まみれの顔でレイジが哄笑する。
 箍が外れたような笑い声が、荒廃した渡り廊下に殷殷と反響する。
 「火の刑罰を受けるのは俺か、見せしめになるのは俺か?ははははっはは違う、違うよなそいつは!火の刑罰を受けるのはお前らだ、なんにもしてくれない神様のかわりに裏切り者のユダを血祭りにあげるのは俺だ。いいね楽しくなってきた、そっちがその気なら思う存分殺ってやろうじゃんか。
 むさ苦しい野郎どもがカマ掘りあってる変態の巣窟、豚小屋より劣る最低の場所、人間よりネズミのが肥えてる下水道、糞にまみれた汚ねえ便所。
 そんなにこのソドムの頂点に立ちたきゃ王様が存分に相手してやらあ!!」
 レイジが引用したのは聖書の一節……
 「ユダの手紙」だ。
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