少年プリズン

まさみ

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二百五十二話

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 渡り廊下は戦場だった。
 「…………」
 悲鳴と罵声と苦鳴と絶叫、沈没船のネズミのように恐慌をきたした一部のガキが意味不明のロシア語で喚き散らす光景に愕然とする。
 流血沙汰の乱闘騒ぎなんて東京プリズンじゃ珍しくもない年中行事だが、こんだけ規模がでかいのは年に一・二回だ。一体全体なにがあったんだと呆然と立ち竦んだ俺の鼻先に吹っ飛んできたのは誰かの後頭部。後ろ向きに転倒したガキを間一髪かわせば、物凄い音をたてて床に頭をぶつけた。
 白目を剥いたガキの顔を覗きこみ、煙に遮られた前方に目を凝らす。 
 煙に目が慣れ周囲の喧騒に耳が慣れ、おおかた状況が飲みこめてきた。渡り廊下に散らばってる囚人の大半はサーシャ配下の北のガキどもで何人か監視塔で見たツラも混ざっていた。そいつら相手に大暴れしてるのはヨンイルとホセだ。
 次第に煙が薄れて廊下の惨状が暴かれてゆくつれ、俺は叫びそうになる。
 二対三十なんて無茶だ。勝ち目がない。
 でもヨンイルとホセは、その無茶をらくらくこなしてる。大人数で攻めてくる北のガキどもにも物怖じせずに身軽に跳躍し機敏に走り回るヨンイル。生き生きと素早い動きでヨンイルが跳べば風を孕んだ上着がめくれ、背中や腹部や胸板から刺青が覗く。
 ヨンイルを抱きすくめているのは、長大な蛇腹を蠢動させる一頭の龍。
 鱗一枚一枚から瘴気じみた執念が噴き出しているかのような渾身の刺青。龍の神通力まで身の内に宿したように凄まじい戦いぶりを見せるヨンイルが、大声で叫ぶ。
 「行ったでホセ!」
 ヨンイルが取り逃したガキがホセの眼前に転がり出る。
 「吾輩ホセ、なるべくなら平和的な解決を望む温厚な人間なのでここはひとつ和解の握手でも」
 「うわあああああ寄るなああああ!!」 
 絞殺されるとでも思ったか、錯乱したガキがその手を叩き落とす。よりにもよってナイフを握った手で、だ。ホセは俊敏にこれをかわしたが、カチンと金属音が鳴った。フットワーク軽く後退したはずみに左手の指輪をナイフがかすめたらしい。  
 ホセの表情が豹変する。
 「夫婦愛の証に傷をつけましたね」
 暗澹と沈みこんだホセが口元だけに微笑を上らせる。肌にびりびりくる殺気がホセの全身から放たれる。俺の視線の先にいるアレは本当にホセだろうか?七三分けに黒縁メガネをかけた老け顔の、温和で温厚な恐妻家だろうか。闘志が青白く燃え盛る双眸でガキを睥睨したホセが口を開く。
 「夫婦愛の名のもとに、撲殺します」
 有言実行の撲殺宣言だ。目の前で展開されるスプラッタな光景と耳をつんざく悲鳴に腰が引ける。夫婦愛の証の結婚指輪に傷つけられたのがバーサーカーモードへ切り替わるきっかけとなったらしく、白目剥いたガキの顔面に容赦なく鉄拳をぶちこむホセには近寄りがたい。
 阿鼻叫喚の地獄絵図が眼前で繰り広げられる。
 「こんなとこにほんとにレイジがいるのかよ……!?」
 半死半生で渡り廊下に辿り着いたものの、阿鼻叫喚の地獄絵図に突入する決心がつかず壁に肩を凭れて様子を見守る。自力で歩ける体調でもないくせに医務室から這いずってきた無理が祟り、胸が激痛を訴える。
 錐で胸を貫かれるような疼痛に苛まれながら、壁にすがり体勢を保つ。
 額に滲んだ脂汗が目に流れ込んで視界がぼやける。呼吸するだけでも肋骨がずきずき疼いて苦しかった。ここまで辿り着けたのが奇跡のようだ。全身の間接が軋んで悲鳴をあげて、折れた肋骨に激痛が走って、一歩ごとに休んで体調の回復を待たなけりゃならなくてここにつくまでえらく時間を食った。壁によりかかり一歩ずつ慎重に足を踏み出し、ようやく目的地に到着した俺の眼前では予想外の事態が起きていた。戦争。北のガキどもが廊下を端から端まで占拠して暴れまわっていて、ヨンイルとホセもちゃっかり参戦してた。
 こんなところに、本当にレイジがいるのか?
 鼻歌に導かれてのこのこやってきた俺はいまさら不安になる。医務室で聞いた鼻歌、一度聞いたら忘れられない音痴な鼻歌。この鼻歌をたどればレイジのところへ行けると、一縷の希望を手繰るように怪我した体に鞭打ち決死の思いで歩き出した。
 あの時はレイジをぶん殴りたくていてもたってもいられなかった、ベッドで寝てる場合じゃないと思った。でも冷静に考えてみたら、レイジの鼻歌が聞こえるわけない。医務室の扉は固く閉ざされて、あの時廊下には人の気配がなくて、ベッドで寝たきりの俺のもとにどこにいるんだかわからないレイジの鼻歌が届くわきゃないのだ。
 だけど聞こえたんだ。空耳でも幻聴でもかまやしないが、俺には、俺にだけははっきり聞こえたんだ。他の連中がだれも気付かなくても、他の誰にも聞こえなくても、この俺がレイジのどへたな鼻歌を聞き間違えるはずがない。
 レイジはきっと、ここにいる。
 俺は自分の耳を信じる。
 逡巡を振り切り、不安を押し殺し、上着の胸を掴んであたりを見まわす。レイジはここに、北と中央を繋ぐこの渡り廊下にいるはずだ。今の俺を支えているのはレイジが身近にいるという予感だけ、レイジに会えるかもしれないという期待だけ。さがせ、さがすんだ。レイジは絶対にここにいる。北と中央をつなぐ渡り廊下は死屍累々の惨状を呈していた。煙に巻かれた視界に横たわるのは白目を剥き泡を噴き鼻が曲がり顎を砕かれ腕や足があらぬ方向に曲がった北のガキども。苦鳴と絶叫と断末魔とが響き渡る地獄の一本道を、壁に手をかけ、意を決して進む。煙に視界を覆われたせいで誰が味方で敵か区別がつかず、同士討ちを演じたガキが同時に床にぶっ倒れる。ヨンイルとホセはまだ戦ってる。時折聞こえてくる鈍い音はヨンイルかホセのどっちかが敵を殴り付ける音。
 レイジはどこだ?
 「くそ、痛てえ……」
 胸が圧迫され呼吸もままならない。本来俺は動ける体じゃない、ただ歩くだけで重労働の不便な体なのだ。ここらで引き返したほうが無難だ、という誘惑がちらりと脳裏をかすめる。無理すんなよ、おとなしくベッドで寝てればこんな痛くて苦しい思いしなくてすむのに物好きだなお前は。俺もそう思う。まったく同感だ。なんで俺こんな頑張ってるんだ、馬鹿じゃないか。ひとの見舞いにもこねえ薄情な王様なんか放っとけよ、未練がましいんだよ。心の片隅にいる露悪的な俺が自嘲の台詞を吐く。壁に寄りかかり、床でのびたがキどもを跨ぎ、疼痛を訴える胸を片手で庇い、ひたすら前進する俺を嘲笑う。
 「はっ、……」
 壁に肩を預けたままずり落ちそうになる。ひどい疲労を感じて膝が挫けそうだ。胸を押さえてうずくまった俺の耳にとびこんでくるのは、ロシア語の罵声と意味不明の絶叫。
 『以前、吾輩のワイフが家出をしたことがあります。原因は夫婦喧嘩。吾輩は一晩中ワイフを捜しまわりました。声が嗄れるまでワイフの名を呼び続けて、足が棒になっても走るのをやめず、絶対に諦めませんでした』 
 朦朧とした頭でホセの言葉を反芻する。
 『そうして再びワイフと出会えたのです』
 声が嗄れるまで呼びつづけ、足が棒になっても走るのをやめず、最後まで絶対に諦めない。
 「上等だよ。これしきのことでへこたれるか、レイジのバカ連れ戻してぶん殴ってやるって決めたんだ。喉がすりきれて血を吐こうが足が棒になろうが首ねっこ引っ掴んでやろうじゃんか」
 壁に手をつき、ふらつく足で立ち上がる。体調は最悪だ。一歩踏み出すごとに錐で肋骨を貫かれる疼痛が走り、陽炎のように視界が歪んで悪酔いする。 
 今の俺を突き動かすのは、レイジをぶん殴りたいという衝動。
 レイジのツラを見たいという妄執じみた一念。
 「どこにいるんだよくそったれ、怪我人働かせんじゃねえよ……!」
 
 キン、と耳の痛くなる金属音がした。

 「!」
 はっとして顔を上げる。今のはナイフとナイフが切り結ぶ音だ。ヨンイルとホセにあらかた一掃されたのか、北のガキどもが累々と倒れ伏した渡り廊下は格段に見晴らしがよくなってた。煙が薄れ、視界が晴れた渡り廊下に目を凝らす。
 廊下の中央に対峙する、あれは……
 「レイジ、行け!」
 「やれレイジ!」
 誰かと誰かが同時に叫んだ。やけに聞き覚えのある声だった。鍵屋崎か、あいつもここにいるのか?当惑した俺の視線の先、渡り廊下の中央で人影が交錯する。
 レイジ。
 レイジなのか?
 壁に片手をつき、上体を起こす。あそこで戦ってるのはレイジなのか。心臓が騒ぎ出し血の巡りが早くなり、気付けば俺は一縷の希望に縋るように上着の胸を掴んでいた。あのバカこんなところでなにやってんだ、ナイフなんか持って危ないじゃんか。そんな物騒なもん早く捨てろよ、捨てちまえよ。声にだして叫ぼうとして、胸の激痛にうずくまる。くそ、肝心なときに声がでねえなんて……これじゃレイジを振り向かせることもできないじゃんか。
 「やっと会えたのに、こんなオチってありかよ」
 頼む気付いてくれ、俺はここだ。壁に手をつき中腰に屈み、廊下中央で切り結ぶ二人を凝視する。あれはレイジだ。会いたくて会いたくてたまらなかったレイジ、殴りたくて殴りたくてたまらなかった男。まともにしてりゃ美形なのに卑しい笑みで台無しで、甘い囁き声も悪かないのに音痴な鼻歌で台無しで、
 でも俺は、あいつの笑顔も鼻歌も嫌いじゃない。
 そう伝えたいのに、伝えてやりたいのに、なんで肝心なときに限って声がでないんだよ?叫べ喉、動け舌。殺し合いなんかやめさせろ。
 レイジやめてくれ、気付いてくれ、俺を見てくれ。
 レイジの相手ははサーシャだ。
 冷酷無比な北のトップ、薬物依存症で誇大妄想狂のナイフの名手。よく見ればレイジは怪我をしてた。頬が切り裂かれて傷口から出血して、上着の胸元まで赤く染まっていた。レイジは苦戦してた。呼吸は荒く乱れ、額に汗をかき、追い詰められた獣めいた光を目に宿したレイジは俺の知る無敵の王様じゃない。
 弱さと強さを併せ持つ、危うく儚い人間だ。  
 レイジはサーシャの相手に必死でこれっぽっちも俺に気付いちゃない。くそ、動けよ足!なんで言うこと聞かないんだよ、レイジのところに連れてってくれよ!包帯が巻かれた足首は倍に腫れて、俺の意志に反して一歩も動いちゃくれなかった。
 
 そして、俺が成す術なく見ている眼前で。
 サーシャがレイジの片腕を切り裂いた。
 
 「!!っあ、」
 自分が目撃した光景が悪い冗談のように思えた。片腕から血が噴き出し、飛び散り、レイジががくりと膝をついた。サーシャのナイフはレイジの片腕を深々と切り裂き、鋭利な傷口から鮮血が滴り落ちた。赤い……赤い血。レイジの膝を染め床へと流れだしサーシャのつま先まで広がる血だまり。
 あのバカ、よそ見してんじゃねえよ。どうしたんだよ王様、らしくねえよ。半年前はサーシャに余裕で勝てたくせに今のこのザマはなんだよ、どうしちまったんだよ。喉元に殺到する罵倒の文句も、動揺に舌が縺れて音声化できない。
 レイジがサーシャにやられた……敗けた?嘘だそんなの、ありえない。
 混乱冷めやらぬ俺をよそに、事態は最悪の方向へと転がっていた。
 床に膝を屈したレイジの髪を掴んで顔を起こさせるサーシャ。勝者の愉悦に酔い痴れた陰惨な笑顔。サーシャがレイジを口汚く罵倒する、侮辱する、蔑笑する。
 人の尊厳を貶め矜持に泥をぬり犬として扱う聞くに堪えない台詞の数々。
 「飼い主に歯向かうとは躾が足りなかったようだな。麻薬漬けにしてほしいか。半端に理性が残っているから皇帝に忠義を尽くせないのだろう。そうだ今決めた、お前にいちから服従心を叩きこむために今日から一週間拷問部屋に幽閉する。お前は好きだろう、あの部屋が」
 言われ放題になってんじゃねえよ。
 やり返せよ言い返せよ、格好いいとこ見せてくれよ王様。調子乗りまくりのサーシャをぶん殴って気障ったらしい決め台詞吐いてくれよ。だが俺の願いむなしく、レイジが起きあがることはない。レイジはひどい顔色で、全身にびっしょり汗をかいて、息が苦しげだった。
 レイジの異変に気付いた俺の心臓が不穏に暴れ出す。サーシャになにかされたのか、だからあんなに弱ってるのか?そうに違いない。助けなきゃ……このままじゃレイジが殺されちまう。
 ちくしょう、俺がぶん殴るまえにサーシャに殺されてたまるかよ。
 床を手探りして武器をさがす俺の視線の先じゃサーシャが存分にレイジをいたぶってる。言葉で、蹴りで、レイジが片腕怪我して体調悪くて無抵抗なのをいいことにそりゃもう楽しげに楽しげに笑いながら。
 「さあどうする。私の飼い犬になるか、私の物になると誓うか?」
 誓うな、
 「…………足をどけろ」
 低くかすれたレイジの声。
 「どけてほしければ命令に従え。服従しろ」
 「どけろよ」
 「交換条件だ」
 衣擦れの音がした。不吉な予感にかられてそちらに目をやれば、レイジが驚くべき行動にでた。サーシャに言われるがまま従順に床に手をつき、眼前に突き出されたナイフを舐めようとする。
 いやだ。
 レイジのこんな姿見たくねえ。
 その時、おもいきり腕をのばせば辛うじて届く距離にナイフが転がってることに気付いた。刹那の躊躇もなく、おもいきり腕をのばしてナイフを掴み取る。

 視界の端を掠めたのは、敵を服従させた優越感に酔い痴れるサーシャの笑顔。
 床にひれ伏したレイジが舌をだし、ナイフに顔を近付けるさまを眺める陰険な目つき。
 飼い犬に芸を仕込むようなその……

 サーシャへの憎悪が爆ぜ、喉灼く絶叫が迸った。
 『不要這様!』   
 余力を振り絞り、大きく腕を振りかぶる。俺が全力で投擲したナイフは大きな放物線を描きサーシャの足元に突き立った。渡り廊下に居合わせた全員の注意が俺に向いた。それまで俺の存在に気付いてなかったヤツらが全員、愕然と俺を注視する。
 「ロン、何故君がここに!?」
 最初に叫んだのは鍵屋崎。その隣でサムライも目を見張る。
 「いけない子ですねロンくんは、お医者さんの言うこと聞かない悪い子は痛い注射をされますよ。絶対安静の怪我人が渡り廊下に出張するなんて寿命を縮める無謀です」
 咎める言葉とは裏腹に俺がやってくることを予想してたらしく、ホセはあきらめ顔だ。
 鍵屋崎の声もホセの声も俺の耳を素通りした。壁に肩を預けて立ちあがった俺はただレイジだけを見ていた。数日ぶりにまともに顔を合わせたレイジ、頬と片腕を切り裂かれ流血に染まった凄惨な姿。
 この場の誰よりレイジが驚いた。あっけにとられたような間抜けヅラで、ぽかんと口を開けていた。ああくそ、めちゃくちゃぶん殴りてえ。ひとにこんだけ心配させといて、そんな間抜けヅラ……
 胸が詰まり、言葉が詰まった。言いたいことは山ほどあるのに、まともにレイジのツラ見たら鼻腔の奥がつんとして。
 「ばっかやろう」
 壁に爪を立て自制心をかき集め、その場にしゃがみこまないよう膝を励ますのが今の俺にできる精一杯だ。レイジのツラを見たら開口一番言ってやろうと思ってた言葉が喉にこみあげ、ひどく胸が苦しくなった。 
 「レイジの分際で、俺に寂しい思いさせんじゃねえよ!!!!」
 そうだ、俺は寂しかったんだ。
 レイジがいなくて寂しかった。レイジの笑顔が見れなくて、鼻歌が聞けなくて、お前とバカやれなくてずっとずっと寂しかったんだ。文句あるか、
 「!!!ロン、危ないっ」
 「!」
 叫んだのは鍵屋崎だ。振り向くと同時に、鼻先に旋風が吹きつける。
 「とりゃあああああっ!!」
 いつのまにか背後に忍び寄った北の残党が、俺の顔面を武器の鎖で一撃しようとしたのだ。それを阻止したのはヨンイルだった。昇龍のように飛翔したヨンイルが華麗なドロップキックを決めて床に着地、鎖を片手に巻いたガキが錐揉みしながら吹っ飛ぶ。錐揉みしながら中空吹っ飛ぶヤツなんて漫画でしかお目にかかったことないから度肝を抜かれた。
 「アホボケカスが世話焼かすんやない、怪我人はおとなしゅうベッドで寝とれ!」
 「冗談言うなよ道化、てめえらだけ先にとっとと行っちまって怪我人に肩貸す情もねえヤツが偉そうに説教か!?西のトップもおちぶれたもんだな」
 「はっ、そんだけ憎まれ口叩く元気があんなら長生きすんで」
 不敵に笑うヨンイルのもとへホセが駆け付ける。
 「ロンくんはレイジくんのもとへ!」
 「往復ビンタで喝入れてこい」
 こぶしを返り血に染めたホセとゴーグルに手を触れたヨンイルが真剣に叫ぶ。背中合わせの道化と隠者を取り囲むのは幽鬼めいた形相の北の残党。手に手に鎖を持ちナイフを持ちどこから調達したのか鉄パイプまでひっさげた連中がずらりとホセとヨンイルを包囲する。
 「もうひと働きやな、ホセ」
 「ご苦労さまですヨンイルくん。道化と隠者が雁首そろえ、北如きに敗北するなど言語道断」
 「じっちゃんの名に賭けて」
 ヨンイルが隙なくゴーグルを装着する。
 「ワイフへの愛に賭けて」
 ホセが指輪にキスをする。
 「「残党の殲滅を宣言せり!!」
 二人の声が揃い、旋風が巻き起こる。ヨンイルがとびだす瞬間もホセが敵の懐にもぐりこむ瞬間も肉眼じゃ把握できなかった。ヨンイルの上段蹴りが首の後ろに炸裂、よろけたガキの背中を踏み台に跳躍し次々と迫り来る敵の肩に上方から蹴りを見舞う。ヨンイルがはでに暴れれば上着の裾も舞い上がり、日焼けした肌に映える刺青が惜しげもなく晒される。ホセも負けてはいない。接近の気配も悟らせず敵に肉薄し懐にもぐりこみ顎を粉砕するアッパーカットを見舞い、次なる敵の顔面に鉄拳を打ちこむ。顔に返り血が飛んでも指輪に血が付着しても一度目覚めた戦士の血は冷め遣らず、双眸は好戦的な輝きを増すばかり。
 ホセとヨンイルが残党を食い止めてる間に姿勢を低めて包囲網を突破する。
 「薄汚い雑種の分際で皇帝に盾突くか」
 胸を押さえ、廊下を疾走する。行く手にはサーシャが立ち塞がっていた。レイジから俺へと標的を替え、ナイフに舌を這わしている。血に飢えた爬虫類の目に射抜かれて戦慄が走る。が、止まらない。止まるわけにはいかない。ホセとヨンイルの気持ちを無駄にしたくない、なにより俺はレイジをぶん殴りたい。
 「あああああああああああああっあ!!!」
 もう少しで、レイジに手が届くんだ。
 あきらめてたまるかよ。
 「黄色い皮を剥いでやる」
 サーシャの手の中でナイフが輝き、俺の頭上に振り上げられ……
 「!!ちっ、」
 ナイフの軌道が狂い、サーシャが邪険に舌打ち。床に身を投げてサーシャの足にしがみつく鍵屋崎、鍵屋崎を守るように木刀を構えるサムライ。 
 「ロン行け!レイジを説得できるのは君だけだ、僕がどれだけ豊富な語彙を尽くして翻意を求めてもレイジはけして首肯しなかった、IQ180の僕が言うことは難解すぎて言語野で処理しきれなかったんだ。レイジと同等の知能レベルの君なら下品なスラングを介して意思疎通が成立するはず、理性的な説得が通じないなら多少手荒くとも君に任せるしかない、頼んだぞ、レイジを東棟の王様に戻してくれ!」
 『了解!』
 必死な形相で叫ぶ鍵屋崎に頷き、床を蹴る。あの鍵屋崎が、いつもお高く澄ました鍵屋崎がサーシャの足にしがみついてる。自分の身の危険もかえりみずサーシャを食いとめて俺を行かせてくれた。鼻腔の奥がつんとするのはなんでだ、視界が滲むのは?

 「レイジ!!」

 声を振り絞り、名前を呼ぶ。俺の大事なダチの名前。英語で憎しみ。かまうものか憎しみでも怒りでも、誰にも愛された痕跡がなくても大事なダチの名前なんだ。目の前にレイジがいる、頬と片腕から血を流し披露困憊で床に座りこんでる。ひどい顔色だ、ちょっと見ない間に痩せたかもしれない。こっちを向いたレイジの目に驚きの波紋が生じ、唇が物言いたげに震える。
 強く強くこぶしを握り締め、渾身の力で殴ろうとして……

 「……ロン?」

 指から力が抜け、こぶしがほどけた。
 反則だ。こんな時に名前を呼ぶなんて反則だ。レイジはずるい。そんな情けない顔で名前呼ばれたら殴れないじゃんか。絶望と希望が混沌とした、安堵と幻滅とが均等に去来した顔で名前を呼ばれたらもう殴れないじゃんか。
 胸が痛かった。呼吸が苦しかった。もう限界だった。
 足が縺れ、体が傾ぎ、レイジの胸へと倒れこむ。
 「俺のツラ見て、なんか言いたいことあるだろ!!」
 頭は怒りで沸騰して、やりきれない想いに苛まれて、俺はただレイジの胸にしがみついた。鉄錆びた血と汗の匂いがむせかえるように鼻腔をついた。レイジは困ったような顔で俺の肩に手をかけ、目を閉じ、じっくりと俺の言葉を咀嚼する。そっと瞼を下ろした睫毛の長さに見惚れ、上着の胸の熱を感じ、じっと耳を澄ます。

 そして。

 「愛してるぜ、ロン」

 今度こそレイジを殴った。
    
 「その前に『ごめんなさい』だ、おまえはいつも順番間違えてんだよ!!」
 鼓膜にびりびりくる大声で怒鳴られたというのに、レイジは嬉しそうに笑っていた。俺がよく見慣れた、この世に悩みなんかひとつもない能天気な笑顔だった。俺の肩になれなれしく手をおいたレイジが、俺が抵抗しないのをいいことにそのまま背中に腕を回して抱きしめてくる。
 「間違えてねえよ。言わなきゃいけない台詞より言いたい台詞をとっただけさ」  
 レイジは笑った。
 いい顔だった。
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