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二百五十一話
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鼻歌が聞こえた。
「………」
「どないしたん」
顔の前で手を振るヨンイルを無視し、じっと衝立の向こう側を凝視する。
「……いや。たぶん空耳だ」
俺もヤキが回った。あいつの鼻歌が聞こえるわけないのに。
さっき鍵屋崎が医務室に寄って、話していったことを思い出す。さりげなくレイジはどうしてるかと訊ねたら鍵屋崎のヤツは深刻な面持ちで黙りこんで、「この数日間レイジを見てない」とぬかしやがった。レイジは誰にも何も告げず東棟から姿を消した。俺の見舞いにも来ずに今ごろどっかをほっつき歩いてるのだ。
なのに一瞬、レイジの鼻歌が耳朶をかすめた気がした。一度聞いたら忘れられない音痴な鼻歌、奇妙な果実。虚空に顔を向けた俺は、鼻歌の続きが聞こえないかと耳を澄ます。膝に広げた漫画の存在も忘れ、ベッドの周囲にたむろったヨンイルとホセの存在も忘れ、あの鼻歌が聞こえないかとむなしく期待する。
レイジの鼻歌。しょっちゅう聞かされて耳について、寝ても覚めても忘れられない歌。
ものすごい騒音がした。
医務室じゃない、少し離れたところからだ。位置的距離的に中央棟から他棟へと伸びた渡り廊下の方角から、なにかが転倒するような鈍い音が続けざまに聞こえてくる。それだけじゃない、さっきから潮騒のように寄せてくるアレは歓声だろうか。どうやら大人数の人間が派手に騒いでるらしく、さっきからひっきりなしに怒声やら悲鳴やらが届く。
「あああああっ、もう堪忍できん!!」
ヨンイルがキレるが早く椅子から立ちあがる。せっかく漫画にのめりこんでいたところを現実に引き戻されて怒り心頭、手荒く閉じたブラックジャックを小脇に抱えカーテンを引く。
「昼間っから近所迷惑にどんちゃん騒ぎしくさってアホたれどもが、読書の邪魔なんじゃ!あったまきた、図書室のヌシが鉄拳制裁くだしたる!」
憤然とドアへと向かうヨンイルを見送り、ホセも椅子から腰を浮かせる。読書を妨害されたのが単純にむかついたらしいヨンイルとは対照的に、思慮深げに眉をひそめる。
「……なるほど。中央と北をつなぐ渡り廊下が騒音発生源らしいですね」
「中央と北?北でなんかあったのか」
「さあ、それは行ってみなければわかりませんが……」
好奇心を刺激されて身を乗り出した俺に一瞥くれ、眼鏡のブリッジを押さえるホセ。
「ロンくん。レイジくんは今、どこにいらっしゃると思いますか」
一瞬ぎくりとする。ホセは勘が鋭い。俺がどこからかレイジの鼻歌が聞こえないかと耳を澄ましてたことも見抜かれてるかもしれない。俺はパイプに背中を凭せ、ばつ悪げに目を伏せる。レイジのことを心配してるんじゃないかとか、レイジがいなくて寂しがってるんじゃないかとか勘繰られるのは癪だ。膝に広げた漫画のページをめくりながら、努めて平静に言葉を返す。
「知るかよ。ひとの見舞いにも来ない薄情者の行方なんか知りたくもないっつの、尻軽レイジのことだから他棟の愛人とこにでもフケこんでんじゃねえか」
「ふむ」
苛立たしげにページをめくる俺の枕元に立ち、ホセは感心したように唸る。片手で顎をなでながら思案を巡らす姿は鍵屋崎なんかよりよっぽど名探偵の貫禄がある。
たんに外見が老けてるからかもしれないが。
「その予想、あながち的外れでもなさそうですよ」
「へ」
ページをめくる手を止める。
しげしげとホセを眺めれば、謎めいた笑顔ではぐらかされた。
「レイジくんと付き合いが長い吾輩には、彼が今どこにいるかおぼろげながら予想がつきます」
「マジかよ?」
疑い深く聞き返す。本当にレイジが今どこにいるかわかるのか?自称天才の鍵屋崎だって困惑してたのに……半信半疑の眼差しでホセを仰げば、黒縁メガネの名探偵はおどけたように首を竦める。
「あくまで推理の域をでませんがね。……さて、ロンくん。君とレイジくんの間になにがあったか話してもらいましょうか」
心臓が止まった。
いきなりなに言い出すんだこいつ。なんで俺とレイジの間になにかあったってわかるんだよ、そんなこと一言だって口にしちゃいないのに。ホセとヨンイルの前じゃ俺は今までどおりいつもどおり振る舞ってきたのに、レイジが来なくて寂しいとか恨めしいとかそんな弱音一言だって吐いたことなかったのに、七三探偵はなんでもかんでもお見通しってワケか?
人に心を読まれるのは不愉快だ。
不機嫌に押し黙った俺を微笑ましげに見守りながら椅子に腰掛ける。膝の上で五指を組み、包容力に満ち溢れた微笑を湛えるホセをちらちら盗み見る。ホセはなにをどこまで知ってるんだ?カマをかけてるだけか?俺には知るよしもない。南の隠者の二つ名は伊達じゃない。ホセは思慮深く知的で、観察眼は鋭く洞察力に優れている。たとえ初対面の人間が相手でも「こいつは信用できる」「こいつは信頼できる」と安心感を与える風貌がホセの魅力だ。
ホセは急かすでもなく、促すでもなく、ただじっと俺が口を開くのを待っていた。
だから俺は決心した。
実際ひとりで抱え込むのはもう限界だった。心の奥底では誰かに聞いてほしかったのかもしれない。俺は隠し事が得意じゃないし嘘をつくのも下手だ。レイジと何もなかったフリで周囲をごまかし通すのは予想以上にしんどくて、ただでさえ痛め付けられた体にひどくこたえた。
俺は堰を切ったように語り出した。
以前レイジが話した暗い部屋のこと、悲惨で凄惨で陰惨な子供時代の記憶。そんな過酷な体験を何故笑いながら話せるんだとレイジに疑問を持ったこと。
それから徐徐に歯車が狂い出した。
俺はレイジがちょっかいかけてきても以前のようにはあしらえなくなって、俺とレイジの間に沈黙が居座るようになった。俺はレイジに背中を向けてレイジを無視することが多くなって、お気楽なレイジが俺の異変を察してたかどうかわからないけど、やっぱりどこかで俺の心が自分から離れてるって感じて、それであの夜、ホセに合格点を貰ったあの夜レイジなりのやり方で仲直りしようとした。
でも。
「あの夜、俺は有頂天になってた。お前に合格点貰って、一人前になった気がして、怖い物なしの最高の気分で……凱にはもちろん、レイジにだって負ける気がしなかったんだ。だからレイジがいっちょ揉んでやるって言い出した時、二つ返事でOKした。王様なら相手に不足はなしだ。俺の実力を証明するいい機会だって、俺を馬鹿にしてた連中見返す絶好のチャンスだって、はりきっちまって」
ホセの顔を直視する勇気が湧かずに下を向く。膝に広げた漫画の内容が全然頭に入ってこない。
脳裏に浮かぶのはあの夜の光景。
俺とレイジの間が決定的におかしくなった夜の出来事。
俺は調子に乗ってた。それは認める。ホセに誉められて、凱にも勝てる気がして、これでだれにも馬鹿にされず東京プリズンで生きてけるって、東京プリズンで生き抜いていつか外にでることができるって思いこんだ。おめでたいヤツだと自分でも思う。だからレイジが俺の実力を見てやるって言い出した時、相手が無敵の王様でもひょっとしたら勝てるんじゃないかって一縷の希望を抱いて無性に試してみたくなった。
「とんでもない思いこみだよな。俺がレイジに勝てるわけないのに、あの時はひょっとしたらって思いこんでた。レイジを負かすことはできなくてもかすり傷ひとつくらいつけれるんじゃないかって、そしたらレイジも俺のこと見直してガキ扱いしなくなるんじゃねえかって」
俺はがむしゃらにレイジに突っかかってった。
無敵の王様に挑戦するのがどんなに無謀なことか、俺はまだよくわかっちゃいなかった。俺にとってレイジは同房の相棒で、威厳なんかこれっぽっちもない尻軽な王様で、レイジと喧嘩したことはあっても敵対したことは一度もなかった。おめでたいことに、王様を敵に回すのがどんなに命知らずで怖い物知らずな行為か俺はあの時点でちっとも飲みこめてなかったのだ。
「最初はたちうちできなかった。レイジの動きはすばしっこくて、全然追いつけなかった。めちゃくちゃ悔しかった。レイジのヤツときたら余裕で鼻歌なんか唄いやがって、俺の神経逆撫でして、意地でもなんでもかすり傷ひとつくらい負わせてやるってムキになっちまって」
そして俺は、レイジの後ろ髪を引いた。
あの瞬間、勝利を確信した。レイジの隙につけこんでレイジの体に触れることができた、それだけでも快挙だった。リングに上った対戦相手は、レイジに指一本触れることができずにヤられた奴ばかりだったから。
「めちゃくちゃ嬉しかったよそりゃ。だって俺が、まわりの連中からさんざん半々だの腰抜けだの馬鹿にされてるこの俺が、レイジの体にさわることができたんだぜ?あともう一歩でレイジに勝てるとこまでいったんだぜ!?」
興奮に声が弾み、毛布を握り締める手に力がこもる。
レイジの後ろ髪を掴んだ瞬間の高揚感が甦り心臓が騒ぎ出す。レイジの背中に庇われてばかりの俺が、守られてばかりの俺が、自分ひとりで生き抜ける力を身につけたのだ。ガキの頃からずっと欲しくて欲しくてたまらなかった、自分の身を守り大切なだれかを守る力を手に入れたのだ。
大切なだれかを守る力?
ちょっと待て、おかしいじゃねえか。俺が強くなったのならなんで、レイジとこんなことになってるんだ。俺が手に入れたこの力は自分だけじゃなく大切なだれかを守り通すために必要な力じゃないのか。
俺の大切な誰か。お袋?メイファ?違う。お袋ともメイファとも再び会える可能性は低い、俺が生きて外にでられる可能性はもっと低い。じゃあ俺が手に入れた力は無意味なのか、大切なだれかを守りたくてホセに特訓受けて手に入れたこの力は結局役立たずなのか?
違う。そうじゃない。俺には他に、大切なダチがいる。
家族でも恋人でもなくて、でもそいつは大切なヤツで、たぶん生まれて初めてできた俺のダチなのだ。
でも、その誰かはもういない。
俺のそばから、いなくなってしまった。
「勝てると思ったんだ。今思えばマジで馬鹿だけど、一瞬本気で勝てると思ったんだ。でも駄目だった。振り向いたレイジと目が合った瞬間、体が言うこと聞かなくなった。恐怖で足が竦んで、口もきけなくなった。あんなおっかない目初めて見た。俺が知ってるレイジはあんな目しなかった。いっつもへらへら笑ってる能天気なヤツで、あんなレイジ知らなかった」
人殺しの目だった。
それもひとりやふたりじゃない、何十人という人間を殺してきた怪物の目。
あの眼光に射抜かれた瞬間、避けがたい死を予感した。レイジに殺されると信じて疑わなかった。
抵抗しなきゃ殺される、抵抗しなきゃ殺される。
だって相手は怪物なんだから、人間の言葉が通じるわけない。
説得も命乞いも通じるわけない。
「情けねえよちくしょう」
嗚咽を堪えるみたいに声がかすれた。膝の上から漫画がすべり落ちて床に落下した。鳥肌立った二の腕を抱きしめて丸くなった俺の頭の中には、あの夜の光景が鮮明に浮かんでる。レイジに腹を蹴られて吹っ飛んで、吐瀉物の海に突っ伏した俺。抵抗しなきゃ殺される殺されるとそればかり考えていた、それ以外になにも考えられなかった。
殺られる前に殺れ。
殺られる前に殺れ。
床一面の吐瀉物の海で足掻き、手のひらに安全ピンを握りこんだ瞬間の記憶が閃光のように爆ぜ、たまらず俺は叫んでいた。
「情けねえよちくしょう、なんで俺こんなにかっこ悪ィんだよ!?今も昔も変わってねえよ、かっこ悪いまんまじゃねえよかよ!レイジなんかにびびって、あいつが近寄ってきた時も頭真っ白でわけわかんなくなって、安全ピンでおもいきり手え刺して!レイジは殺すつもりなんかなかったのに、俺に手を貸して立ちあがらせようとしただけだったのに、俺はそのレイジの手を安全ピンでおもいきりひっかいたんだ!!」
言葉の洪水は止まらなかった。堰を切ったようにあとからあとから言葉が溢れ出した。胸が苦しかった。レイジは俺を助けようとしたのに、俺に手をさしのべてくれたのに、俺はその手を叩き落とした。
それだけじゃない、俺は。
「レイジにひどいこと言ったんだ」
「なんて」
ホセの穏やかな声が鼓膜に染みる。毛布を握り締めた手が震え出す。激情に理性が押し流され咆哮したくなる。レイジはいつも俺に優しかった。監視塔に助けにきてくれた、眠れない夜は額にキスしてくれた、俺に手紙をくれた、売春班から救い出してくれた。
いつも、音痴な鼻歌を聞かせてくれた。
なんでレイジを信じきれなかった、信じてやれなかった?あいつの笑顔が怖いとかどこまで本気かわからないとかそんなのどうでもいいことじゃないか、レイジはずっとずっとずっと、出会ってからずっと俺に優しくしてくれたじゃないか。俺のことをいちばんに考えてくれたじゃないか。
いいダチじゃないか。
俺なんかにはもったいないぐらいの、
「『殺さないでくれ』」
容赦なく胸を抉る辛辣な言葉。自分で口にだして、その言葉を噛み締めて、強く強く二の腕を抱きしめる。『殺さないでくれ』。ダチに言う言葉じゃない。命乞いなんて、ダチにするもんじゃない。
俺は最低のやり方でレイジを裏切った。
だからレイジは離れていった。自業自得だ。
「くそっ、くそっ……なんでだよ、なんでこんなことになったんだよ!?なんであの時あんなこと行っちまったんだよ、命乞いなんかしちまったんだよ。あの時レイジひどい顔したんだ、俺が見たこともない笑顔だった。レイジは絶望しながら笑えるから、泣いたり怒ったりしないから……」
「レイジくんが泣いたり怒ったりすればおもいきり言いたいことが言えたのに?」
ホセの声はどこまでも穏やかに凪いでいた。俺はホセの言葉にただ頷いた。レイジがあの時泣くか怒るかしてくれたら俺だって反論しようがあったのだ、これは違うんだ、そうじゃないんだと主張することができたんだ。でもレイジは笑っていたから、絶望したから、俺は言葉を喪失した。
なにを言っても無駄だと諦念してしまったのだ。
「あきらめなけりゃよかった、」
あの時あきらめなけりゃ、レイジは今も隣にいた?
「ちゃんと誤解をとけばよかった。みっともなくてもかっこ悪くても情けなくても、レイジにすがりついて誤解をといてりゃよかったんだ。お前なんか全然怖くねえ、今のは嘘だ間違いだって言ってやればよかった」
勘違いすんなよレイジ、お前なんかちっとも怖くねえよ。
今のは冗談だよ。お前の顔、傑作だったぜ。俺にフラれてショックだったろ?ざまあみろ。
だからそんな、泣いてるみたいな顔で笑うなよ。
おかしいよ。
「笑えなくてもイカレてても関係ない、お前は俺のダチだって言ってやればよかった!!」
医務室の天井に絶叫が響いた。
二の腕に指が食い込んで鮮明な痛みを与えた。皮膚に爪が食いこむ痛みが俺を現実に繋ぎとめてくれた。
レイジにあんな痛い笑顔させたのは、俺だ。レイジを追いこんだのは俺だ。本当ならベッドの上でじっとしてる場合じゃない、今すぐレイジを捜しに行きたい。レイジをぶん殴りに行きたい。
そして、お前は俺のくそったれたダチだって言ってやりたい。
ベッドの上にうずくまった俺のそばにホセは無言で腰掛けていた。が、おもむろに腰を上げるや、床に落ちた本を拾い上げて俺の枕元に置く。
「今からでも遅くはありません」
緩慢に顔を上げる。枕元に立ったホセが、むかし懐かしむように遠い目をして呟く。
「以前、レイジくんがこう言いました。『殺さないでくれ』はおしまいの合図だと」
「………は?」
「吾輩にも意味はよくわかりません。だがしかし、殺さないでくれと誰かが言い出したらおしまいなんだとレイジくんはおっしゃっていました。いつものように笑いながら、でもほんの少し寂しげに……だからでしょうね。ロンくんに『殺さないでくれ』といわれたとき、レイジくんは別れを切り出されたように感じたんでしょう。最後通牒を突き付けられたように感じ、これ以上ロンくんのそばにはいられないと結論を下し、だれにも何も告げず行ってしまった」
殺さないでくれはおしまいの合図。
ホセの言ってることはわからないことだらけだった。でもひとつ、わかったことがある。
俺があの時口にした一言は、絶対言ってはいけない一言だった。
レイジにとって致命的な一言だったのだ。
自分が口にした言葉の重さに打ちひしがれ、悄然とうなだれた俺を優しく見守りつつホセが続ける。
「でもロンくん、本当にこのままでいいんですか?レイジくんは誤解しているだけです。ならば今からでも遅くない、誤解をとけばいい。以前、吾輩のワイフが家出をしたことがあります。原因は夫婦喧嘩。吾輩は一晩中ワイフを捜しまわりました。声が嗄れるまでワイフの名を呼び続けて、足が棒になっても走るのをやめず、絶対に諦めませんでした」
ホセがにこりと微笑む。
「そうして再びワイフと出会えたのです」
ホセの言いたいことが漠然とわかった。ホセが俺を励ましてくれてることも、痛いほど伝わってきた。最後に俺の頭を撫でようとしたホセの手から逃れたのはガキ扱いされたくない条件反射だ。苦笑したホセがぽんと俺の肩を叩き、カーテンを開ける。今からヨンイルを追うつもりだろう。渡り廊下の喧騒は途絶えることなく、盛りあがるばかりだ。
医務室のドアが閉じる。ベッドにひとり取り残された俺は、放心状態で正面の虚空を見つめる。周囲の床にはヨンイルが放り出した漫画本が散乱して足の踏み場もない。ふたりとも行っちまった。医者は居眠りでもしてるのか、衝立越しにのんきな寝息が聞こえてくる。
『でもロンくん、本当にこのままでいいんですか』
「いいわけねえ」
『レイジくんは誤解しているだけです。ならば今からでも遅くない、誤解をとけばいい』
「七三メガネに言われなくても、とっくにわかってたっつの」
そうだ、とっくにわかってたのだ。俺がレイジを迎えにいくしかないと。
レイジがどこにいるかわからない。案外近くもしれないし、俺が思ってもみないところかもしれない。
でも、俺が行動を起こさなきゃなにも始まらない。折れた肋骨がどうした?動けないわけじゃない。毛布をはだけ、パイプにすがり、慎重に床に足をおろす。片足ずつ床におろし、壁に背中を凭せて立つ。
大丈夫、歩ける。意地でも次の一歩を踏み出してやる。
胸の激痛を堪え、歯を食いしばり、足をひきずるように歩き出す。必ずレイジを見つけてやる。夢の中でぶん殴るだけじゃ気が済まない、俺は現実にレイジに会いたいのだ。空耳じゃない鼻歌を聞きたいのだ。
このままでいいわけない。
「ああいいさ、もうヤケだぜくそったれ。認めてやるよ、レイジがいなくて寂しいって。文句あるかよ」
乱暴にカーテンを引き、ドアを目指して歩き出す。ドアまでの道のりが気が遠くなるように長かった。一歩踏み出すごとに胸の激痛がはげしくなり全身の間接が軋んで悲鳴をあげたくなった。下唇を噛んで苦鳴を殺し、かすんだ目を凝らしてドアへ向かう途中、俺の耳朶をかすめたのはかすかな鼻歌。
幻聴か?
いや、違う。これは鼻歌だ。レイジがいつも口ずさんでるあの……
レイジの居所がわかった。この鼻歌が聞こえてくる場所だ。
「待ってろよレイジ、今すぐぶん殴ってやるからな」
神様のお導きなんて信じない俺を、神様に見捨てられた男の鼻歌が導いてくれる。
皮肉な話だ。
「………」
「どないしたん」
顔の前で手を振るヨンイルを無視し、じっと衝立の向こう側を凝視する。
「……いや。たぶん空耳だ」
俺もヤキが回った。あいつの鼻歌が聞こえるわけないのに。
さっき鍵屋崎が医務室に寄って、話していったことを思い出す。さりげなくレイジはどうしてるかと訊ねたら鍵屋崎のヤツは深刻な面持ちで黙りこんで、「この数日間レイジを見てない」とぬかしやがった。レイジは誰にも何も告げず東棟から姿を消した。俺の見舞いにも来ずに今ごろどっかをほっつき歩いてるのだ。
なのに一瞬、レイジの鼻歌が耳朶をかすめた気がした。一度聞いたら忘れられない音痴な鼻歌、奇妙な果実。虚空に顔を向けた俺は、鼻歌の続きが聞こえないかと耳を澄ます。膝に広げた漫画の存在も忘れ、ベッドの周囲にたむろったヨンイルとホセの存在も忘れ、あの鼻歌が聞こえないかとむなしく期待する。
レイジの鼻歌。しょっちゅう聞かされて耳について、寝ても覚めても忘れられない歌。
ものすごい騒音がした。
医務室じゃない、少し離れたところからだ。位置的距離的に中央棟から他棟へと伸びた渡り廊下の方角から、なにかが転倒するような鈍い音が続けざまに聞こえてくる。それだけじゃない、さっきから潮騒のように寄せてくるアレは歓声だろうか。どうやら大人数の人間が派手に騒いでるらしく、さっきからひっきりなしに怒声やら悲鳴やらが届く。
「あああああっ、もう堪忍できん!!」
ヨンイルがキレるが早く椅子から立ちあがる。せっかく漫画にのめりこんでいたところを現実に引き戻されて怒り心頭、手荒く閉じたブラックジャックを小脇に抱えカーテンを引く。
「昼間っから近所迷惑にどんちゃん騒ぎしくさってアホたれどもが、読書の邪魔なんじゃ!あったまきた、図書室のヌシが鉄拳制裁くだしたる!」
憤然とドアへと向かうヨンイルを見送り、ホセも椅子から腰を浮かせる。読書を妨害されたのが単純にむかついたらしいヨンイルとは対照的に、思慮深げに眉をひそめる。
「……なるほど。中央と北をつなぐ渡り廊下が騒音発生源らしいですね」
「中央と北?北でなんかあったのか」
「さあ、それは行ってみなければわかりませんが……」
好奇心を刺激されて身を乗り出した俺に一瞥くれ、眼鏡のブリッジを押さえるホセ。
「ロンくん。レイジくんは今、どこにいらっしゃると思いますか」
一瞬ぎくりとする。ホセは勘が鋭い。俺がどこからかレイジの鼻歌が聞こえないかと耳を澄ましてたことも見抜かれてるかもしれない。俺はパイプに背中を凭せ、ばつ悪げに目を伏せる。レイジのことを心配してるんじゃないかとか、レイジがいなくて寂しがってるんじゃないかとか勘繰られるのは癪だ。膝に広げた漫画のページをめくりながら、努めて平静に言葉を返す。
「知るかよ。ひとの見舞いにも来ない薄情者の行方なんか知りたくもないっつの、尻軽レイジのことだから他棟の愛人とこにでもフケこんでんじゃねえか」
「ふむ」
苛立たしげにページをめくる俺の枕元に立ち、ホセは感心したように唸る。片手で顎をなでながら思案を巡らす姿は鍵屋崎なんかよりよっぽど名探偵の貫禄がある。
たんに外見が老けてるからかもしれないが。
「その予想、あながち的外れでもなさそうですよ」
「へ」
ページをめくる手を止める。
しげしげとホセを眺めれば、謎めいた笑顔ではぐらかされた。
「レイジくんと付き合いが長い吾輩には、彼が今どこにいるかおぼろげながら予想がつきます」
「マジかよ?」
疑い深く聞き返す。本当にレイジが今どこにいるかわかるのか?自称天才の鍵屋崎だって困惑してたのに……半信半疑の眼差しでホセを仰げば、黒縁メガネの名探偵はおどけたように首を竦める。
「あくまで推理の域をでませんがね。……さて、ロンくん。君とレイジくんの間になにがあったか話してもらいましょうか」
心臓が止まった。
いきなりなに言い出すんだこいつ。なんで俺とレイジの間になにかあったってわかるんだよ、そんなこと一言だって口にしちゃいないのに。ホセとヨンイルの前じゃ俺は今までどおりいつもどおり振る舞ってきたのに、レイジが来なくて寂しいとか恨めしいとかそんな弱音一言だって吐いたことなかったのに、七三探偵はなんでもかんでもお見通しってワケか?
人に心を読まれるのは不愉快だ。
不機嫌に押し黙った俺を微笑ましげに見守りながら椅子に腰掛ける。膝の上で五指を組み、包容力に満ち溢れた微笑を湛えるホセをちらちら盗み見る。ホセはなにをどこまで知ってるんだ?カマをかけてるだけか?俺には知るよしもない。南の隠者の二つ名は伊達じゃない。ホセは思慮深く知的で、観察眼は鋭く洞察力に優れている。たとえ初対面の人間が相手でも「こいつは信用できる」「こいつは信頼できる」と安心感を与える風貌がホセの魅力だ。
ホセは急かすでもなく、促すでもなく、ただじっと俺が口を開くのを待っていた。
だから俺は決心した。
実際ひとりで抱え込むのはもう限界だった。心の奥底では誰かに聞いてほしかったのかもしれない。俺は隠し事が得意じゃないし嘘をつくのも下手だ。レイジと何もなかったフリで周囲をごまかし通すのは予想以上にしんどくて、ただでさえ痛め付けられた体にひどくこたえた。
俺は堰を切ったように語り出した。
以前レイジが話した暗い部屋のこと、悲惨で凄惨で陰惨な子供時代の記憶。そんな過酷な体験を何故笑いながら話せるんだとレイジに疑問を持ったこと。
それから徐徐に歯車が狂い出した。
俺はレイジがちょっかいかけてきても以前のようにはあしらえなくなって、俺とレイジの間に沈黙が居座るようになった。俺はレイジに背中を向けてレイジを無視することが多くなって、お気楽なレイジが俺の異変を察してたかどうかわからないけど、やっぱりどこかで俺の心が自分から離れてるって感じて、それであの夜、ホセに合格点を貰ったあの夜レイジなりのやり方で仲直りしようとした。
でも。
「あの夜、俺は有頂天になってた。お前に合格点貰って、一人前になった気がして、怖い物なしの最高の気分で……凱にはもちろん、レイジにだって負ける気がしなかったんだ。だからレイジがいっちょ揉んでやるって言い出した時、二つ返事でOKした。王様なら相手に不足はなしだ。俺の実力を証明するいい機会だって、俺を馬鹿にしてた連中見返す絶好のチャンスだって、はりきっちまって」
ホセの顔を直視する勇気が湧かずに下を向く。膝に広げた漫画の内容が全然頭に入ってこない。
脳裏に浮かぶのはあの夜の光景。
俺とレイジの間が決定的におかしくなった夜の出来事。
俺は調子に乗ってた。それは認める。ホセに誉められて、凱にも勝てる気がして、これでだれにも馬鹿にされず東京プリズンで生きてけるって、東京プリズンで生き抜いていつか外にでることができるって思いこんだ。おめでたいヤツだと自分でも思う。だからレイジが俺の実力を見てやるって言い出した時、相手が無敵の王様でもひょっとしたら勝てるんじゃないかって一縷の希望を抱いて無性に試してみたくなった。
「とんでもない思いこみだよな。俺がレイジに勝てるわけないのに、あの時はひょっとしたらって思いこんでた。レイジを負かすことはできなくてもかすり傷ひとつくらいつけれるんじゃないかって、そしたらレイジも俺のこと見直してガキ扱いしなくなるんじゃねえかって」
俺はがむしゃらにレイジに突っかかってった。
無敵の王様に挑戦するのがどんなに無謀なことか、俺はまだよくわかっちゃいなかった。俺にとってレイジは同房の相棒で、威厳なんかこれっぽっちもない尻軽な王様で、レイジと喧嘩したことはあっても敵対したことは一度もなかった。おめでたいことに、王様を敵に回すのがどんなに命知らずで怖い物知らずな行為か俺はあの時点でちっとも飲みこめてなかったのだ。
「最初はたちうちできなかった。レイジの動きはすばしっこくて、全然追いつけなかった。めちゃくちゃ悔しかった。レイジのヤツときたら余裕で鼻歌なんか唄いやがって、俺の神経逆撫でして、意地でもなんでもかすり傷ひとつくらい負わせてやるってムキになっちまって」
そして俺は、レイジの後ろ髪を引いた。
あの瞬間、勝利を確信した。レイジの隙につけこんでレイジの体に触れることができた、それだけでも快挙だった。リングに上った対戦相手は、レイジに指一本触れることができずにヤられた奴ばかりだったから。
「めちゃくちゃ嬉しかったよそりゃ。だって俺が、まわりの連中からさんざん半々だの腰抜けだの馬鹿にされてるこの俺が、レイジの体にさわることができたんだぜ?あともう一歩でレイジに勝てるとこまでいったんだぜ!?」
興奮に声が弾み、毛布を握り締める手に力がこもる。
レイジの後ろ髪を掴んだ瞬間の高揚感が甦り心臓が騒ぎ出す。レイジの背中に庇われてばかりの俺が、守られてばかりの俺が、自分ひとりで生き抜ける力を身につけたのだ。ガキの頃からずっと欲しくて欲しくてたまらなかった、自分の身を守り大切なだれかを守る力を手に入れたのだ。
大切なだれかを守る力?
ちょっと待て、おかしいじゃねえか。俺が強くなったのならなんで、レイジとこんなことになってるんだ。俺が手に入れたこの力は自分だけじゃなく大切なだれかを守り通すために必要な力じゃないのか。
俺の大切な誰か。お袋?メイファ?違う。お袋ともメイファとも再び会える可能性は低い、俺が生きて外にでられる可能性はもっと低い。じゃあ俺が手に入れた力は無意味なのか、大切なだれかを守りたくてホセに特訓受けて手に入れたこの力は結局役立たずなのか?
違う。そうじゃない。俺には他に、大切なダチがいる。
家族でも恋人でもなくて、でもそいつは大切なヤツで、たぶん生まれて初めてできた俺のダチなのだ。
でも、その誰かはもういない。
俺のそばから、いなくなってしまった。
「勝てると思ったんだ。今思えばマジで馬鹿だけど、一瞬本気で勝てると思ったんだ。でも駄目だった。振り向いたレイジと目が合った瞬間、体が言うこと聞かなくなった。恐怖で足が竦んで、口もきけなくなった。あんなおっかない目初めて見た。俺が知ってるレイジはあんな目しなかった。いっつもへらへら笑ってる能天気なヤツで、あんなレイジ知らなかった」
人殺しの目だった。
それもひとりやふたりじゃない、何十人という人間を殺してきた怪物の目。
あの眼光に射抜かれた瞬間、避けがたい死を予感した。レイジに殺されると信じて疑わなかった。
抵抗しなきゃ殺される、抵抗しなきゃ殺される。
だって相手は怪物なんだから、人間の言葉が通じるわけない。
説得も命乞いも通じるわけない。
「情けねえよちくしょう」
嗚咽を堪えるみたいに声がかすれた。膝の上から漫画がすべり落ちて床に落下した。鳥肌立った二の腕を抱きしめて丸くなった俺の頭の中には、あの夜の光景が鮮明に浮かんでる。レイジに腹を蹴られて吹っ飛んで、吐瀉物の海に突っ伏した俺。抵抗しなきゃ殺される殺されるとそればかり考えていた、それ以外になにも考えられなかった。
殺られる前に殺れ。
殺られる前に殺れ。
床一面の吐瀉物の海で足掻き、手のひらに安全ピンを握りこんだ瞬間の記憶が閃光のように爆ぜ、たまらず俺は叫んでいた。
「情けねえよちくしょう、なんで俺こんなにかっこ悪ィんだよ!?今も昔も変わってねえよ、かっこ悪いまんまじゃねえよかよ!レイジなんかにびびって、あいつが近寄ってきた時も頭真っ白でわけわかんなくなって、安全ピンでおもいきり手え刺して!レイジは殺すつもりなんかなかったのに、俺に手を貸して立ちあがらせようとしただけだったのに、俺はそのレイジの手を安全ピンでおもいきりひっかいたんだ!!」
言葉の洪水は止まらなかった。堰を切ったようにあとからあとから言葉が溢れ出した。胸が苦しかった。レイジは俺を助けようとしたのに、俺に手をさしのべてくれたのに、俺はその手を叩き落とした。
それだけじゃない、俺は。
「レイジにひどいこと言ったんだ」
「なんて」
ホセの穏やかな声が鼓膜に染みる。毛布を握り締めた手が震え出す。激情に理性が押し流され咆哮したくなる。レイジはいつも俺に優しかった。監視塔に助けにきてくれた、眠れない夜は額にキスしてくれた、俺に手紙をくれた、売春班から救い出してくれた。
いつも、音痴な鼻歌を聞かせてくれた。
なんでレイジを信じきれなかった、信じてやれなかった?あいつの笑顔が怖いとかどこまで本気かわからないとかそんなのどうでもいいことじゃないか、レイジはずっとずっとずっと、出会ってからずっと俺に優しくしてくれたじゃないか。俺のことをいちばんに考えてくれたじゃないか。
いいダチじゃないか。
俺なんかにはもったいないぐらいの、
「『殺さないでくれ』」
容赦なく胸を抉る辛辣な言葉。自分で口にだして、その言葉を噛み締めて、強く強く二の腕を抱きしめる。『殺さないでくれ』。ダチに言う言葉じゃない。命乞いなんて、ダチにするもんじゃない。
俺は最低のやり方でレイジを裏切った。
だからレイジは離れていった。自業自得だ。
「くそっ、くそっ……なんでだよ、なんでこんなことになったんだよ!?なんであの時あんなこと行っちまったんだよ、命乞いなんかしちまったんだよ。あの時レイジひどい顔したんだ、俺が見たこともない笑顔だった。レイジは絶望しながら笑えるから、泣いたり怒ったりしないから……」
「レイジくんが泣いたり怒ったりすればおもいきり言いたいことが言えたのに?」
ホセの声はどこまでも穏やかに凪いでいた。俺はホセの言葉にただ頷いた。レイジがあの時泣くか怒るかしてくれたら俺だって反論しようがあったのだ、これは違うんだ、そうじゃないんだと主張することができたんだ。でもレイジは笑っていたから、絶望したから、俺は言葉を喪失した。
なにを言っても無駄だと諦念してしまったのだ。
「あきらめなけりゃよかった、」
あの時あきらめなけりゃ、レイジは今も隣にいた?
「ちゃんと誤解をとけばよかった。みっともなくてもかっこ悪くても情けなくても、レイジにすがりついて誤解をといてりゃよかったんだ。お前なんか全然怖くねえ、今のは嘘だ間違いだって言ってやればよかった」
勘違いすんなよレイジ、お前なんかちっとも怖くねえよ。
今のは冗談だよ。お前の顔、傑作だったぜ。俺にフラれてショックだったろ?ざまあみろ。
だからそんな、泣いてるみたいな顔で笑うなよ。
おかしいよ。
「笑えなくてもイカレてても関係ない、お前は俺のダチだって言ってやればよかった!!」
医務室の天井に絶叫が響いた。
二の腕に指が食い込んで鮮明な痛みを与えた。皮膚に爪が食いこむ痛みが俺を現実に繋ぎとめてくれた。
レイジにあんな痛い笑顔させたのは、俺だ。レイジを追いこんだのは俺だ。本当ならベッドの上でじっとしてる場合じゃない、今すぐレイジを捜しに行きたい。レイジをぶん殴りに行きたい。
そして、お前は俺のくそったれたダチだって言ってやりたい。
ベッドの上にうずくまった俺のそばにホセは無言で腰掛けていた。が、おもむろに腰を上げるや、床に落ちた本を拾い上げて俺の枕元に置く。
「今からでも遅くはありません」
緩慢に顔を上げる。枕元に立ったホセが、むかし懐かしむように遠い目をして呟く。
「以前、レイジくんがこう言いました。『殺さないでくれ』はおしまいの合図だと」
「………は?」
「吾輩にも意味はよくわかりません。だがしかし、殺さないでくれと誰かが言い出したらおしまいなんだとレイジくんはおっしゃっていました。いつものように笑いながら、でもほんの少し寂しげに……だからでしょうね。ロンくんに『殺さないでくれ』といわれたとき、レイジくんは別れを切り出されたように感じたんでしょう。最後通牒を突き付けられたように感じ、これ以上ロンくんのそばにはいられないと結論を下し、だれにも何も告げず行ってしまった」
殺さないでくれはおしまいの合図。
ホセの言ってることはわからないことだらけだった。でもひとつ、わかったことがある。
俺があの時口にした一言は、絶対言ってはいけない一言だった。
レイジにとって致命的な一言だったのだ。
自分が口にした言葉の重さに打ちひしがれ、悄然とうなだれた俺を優しく見守りつつホセが続ける。
「でもロンくん、本当にこのままでいいんですか?レイジくんは誤解しているだけです。ならば今からでも遅くない、誤解をとけばいい。以前、吾輩のワイフが家出をしたことがあります。原因は夫婦喧嘩。吾輩は一晩中ワイフを捜しまわりました。声が嗄れるまでワイフの名を呼び続けて、足が棒になっても走るのをやめず、絶対に諦めませんでした」
ホセがにこりと微笑む。
「そうして再びワイフと出会えたのです」
ホセの言いたいことが漠然とわかった。ホセが俺を励ましてくれてることも、痛いほど伝わってきた。最後に俺の頭を撫でようとしたホセの手から逃れたのはガキ扱いされたくない条件反射だ。苦笑したホセがぽんと俺の肩を叩き、カーテンを開ける。今からヨンイルを追うつもりだろう。渡り廊下の喧騒は途絶えることなく、盛りあがるばかりだ。
医務室のドアが閉じる。ベッドにひとり取り残された俺は、放心状態で正面の虚空を見つめる。周囲の床にはヨンイルが放り出した漫画本が散乱して足の踏み場もない。ふたりとも行っちまった。医者は居眠りでもしてるのか、衝立越しにのんきな寝息が聞こえてくる。
『でもロンくん、本当にこのままでいいんですか』
「いいわけねえ」
『レイジくんは誤解しているだけです。ならば今からでも遅くない、誤解をとけばいい』
「七三メガネに言われなくても、とっくにわかってたっつの」
そうだ、とっくにわかってたのだ。俺がレイジを迎えにいくしかないと。
レイジがどこにいるかわからない。案外近くもしれないし、俺が思ってもみないところかもしれない。
でも、俺が行動を起こさなきゃなにも始まらない。折れた肋骨がどうした?動けないわけじゃない。毛布をはだけ、パイプにすがり、慎重に床に足をおろす。片足ずつ床におろし、壁に背中を凭せて立つ。
大丈夫、歩ける。意地でも次の一歩を踏み出してやる。
胸の激痛を堪え、歯を食いしばり、足をひきずるように歩き出す。必ずレイジを見つけてやる。夢の中でぶん殴るだけじゃ気が済まない、俺は現実にレイジに会いたいのだ。空耳じゃない鼻歌を聞きたいのだ。
このままでいいわけない。
「ああいいさ、もうヤケだぜくそったれ。認めてやるよ、レイジがいなくて寂しいって。文句あるかよ」
乱暴にカーテンを引き、ドアを目指して歩き出す。ドアまでの道のりが気が遠くなるように長かった。一歩踏み出すごとに胸の激痛がはげしくなり全身の間接が軋んで悲鳴をあげたくなった。下唇を噛んで苦鳴を殺し、かすんだ目を凝らしてドアへ向かう途中、俺の耳朶をかすめたのはかすかな鼻歌。
幻聴か?
いや、違う。これは鼻歌だ。レイジがいつも口ずさんでるあの……
レイジの居所がわかった。この鼻歌が聞こえてくる場所だ。
「待ってろよレイジ、今すぐぶん殴ってやるからな」
神様のお導きなんて信じない俺を、神様に見捨てられた男の鼻歌が導いてくれる。
皮肉な話だ。
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