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二百四十八話
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「殺せ」
サーシャの号令のもと北の囚人が解き放たれる。
「直、レイジを頼む!」
木刀を正眼に構えたサムライに頷き、壁際に座りこんだレイジのもとへと走り出す。
「大丈夫か、しっかりしろ」
レイジの肩に手をかけ揺さぶる。口移しで覚せい剤を飲まされたのだ、意識が混濁しててるのかもしれない。はげしく肩を揺さぶっても反応のないレイジに舌打ちしたくなる。
「レイジ、いい加減に起きろ!これ以上ロンを待たせる気か」
『ロン』。
かすかに瞼が震えた。長く優雅な睫毛に縁取られた切れ長の瞼が持ち上がり、薄目が開く。半透明の膜がかかったようにぼんやりした目。緩慢に顔を起こしたレイジの正面に回りこむ。とりあえず体に異常がないか確かめなければ、胃洗浄が必要なら医務室へ運ばなければ。片手をとり、脈をはかろうと袖をめくり……
その時だ。
「!」
レイジの背中が壁からずり落ち、体が傾いだ反動でポケットから何かが零れ落ちた。
麻雀牌だった。
何故こんな物がレイジのポケットに入ってたんだと訝りながら、手首に五指を巻き脈をとり終える。少し速いが、この程度なら問題ない。
「頭くらくらする……」
「それだけで済むなら大した物だ、どういう免疫機構をしてるんだ貴様は」
「クスリには体が慣れてんだ、っても自白剤だけどよ……」
片手で頭を支え起こしたレイジが強がりで笑う。こんな時に笑える神経を疑う。レイジに肩を貸し立ち上がらせ、ついでに足元の牌を拾う。
「落ちたぞ」
苦しげな表情に虚勢の笑みを浮かべ、レイジが呟く。
「それ、俺のじゃない。ロンの物だよ。ちょっと前に失敬して、ずるずる返しそびれてたんだ。かわりに返しといてよ」
『ロンの物』
レイジがそっけなく吐き捨てた言葉を反芻し、記憶の襞をさぐる。いつだったか、もうずいぶん昔の出来事に思えるがあれはまだほんの数ヶ月前のこと。食堂でロンの隣の低位置に座ったレイジが、麻雀のルールブックを借りてくると言った。ロンの遊び相手になるために麻雀を勉強すると言った。
ペア戦開幕日、意気揚揚とリングに上がったレイジを思い出す。
あの時レイジは、一度もポケットから手を抜かなかった。僕はそれを余裕のあらわれととった、無敵の王様が身のほど知らずの挑戦者に力の差を見せつけているのだと先入観から誤解した。
だが実際は違ったのだ。レイジがあの時ポケットから手を抜かなかったのは、他に理由があったのだ。
100人抜きの幕開けとなる初試合、リングに上がってからもずっとポケットに手を入れていたのは……
「レイジ、君は」
片腕でレイジを支え、もう片方の手に牌を握り締め、呆然と立ち竦む。サーシャに覚せい剤を使われた後遺症か、レイジは意識が朦朧としていた。半眼に落ちた瞼の奥には恍惚とまどろむ目があった。頬の傷口からあふれた血は上着の胸元まで染めていた。憔悴したレイジの腕を肩にかけ、抱え上げる。
「君は全然、昔と変わってないじゃないか。以前と変わらずロンが大事で、大好きなままじゃないか」
あの時、レイジがずっとポケットに手をいれていたのは、ロンの牌が入ってたからだ。
お守りがわりにロンの牌を握り締めていたからだ。
人には見えないところで、わからない場所で、レイジは昔も今も変わらずロンを大切に思っている。
「人間そう簡単に変われねえよ」
レイジは細身だが重かった。当然だ、僕より身長が高いのだ。レイジをひきずるように歩き出そうとして、唐突に立ち止まる。僕にぐったりと体を凭せたレイジの五指を無理矢理こじ開け、牌を握らせる。
「何故僕が君とロンの仲介役をしなければならない、冗談じゃないぞ。他人の痴話喧嘩に巻きこまれて被害をこうむるのはごめんだ。これは自分で渡せ、ちゃんとロンの顔を見て自分の手で返すんだ」
「会いたくねえよ」
「嘘をつけ」
「会いたくない」
「聞き飽きた」
「会ったら駄目になる」
まったく手のかかる王様だ。子供のように駄々をこねるレイジを叱りつけようとして、口を噤む。
「会わないって決めたのに、もう一度会ったら駄目になる。俺もロンも取り返しつかなくなる。王様が一度言ったこと取り消すなんてカッコ悪ィことできるかよ、愚民どもに示しがつかねえだろ。だからこのままでいいんだ、お前が優しいのはよくわかったからもう放っといてくれよキーストア。ロンにはこっち側にきてほしくないんだ、ひきずりこみたくないんだ。ずっとマトモなままでいてほしいんだよ」
俯き加減の表情はよく見えなかったが、口元には儚い笑みが漂っていた。
レイジは愚かだ。
人との距離のとり方がわからなくて、大事な者を傷付けたくなくて、それには自分がいなくなるのが一番だと勝手に結論を下してしまった愚か者。
その優しさはひとりよがりで残酷だ。
「正常と異常、正気と狂気。かってに境界線をひいてけして相容れないと区別して、貴様何様のつもりだ。王様ならまだしも神様のつもりか。いいか、僕にしてみれば君たちふたりとも同類の低脳だ。君とロンはなにも変わらない、知力の低さとなれなれしさではどちらもいい勝負だ」
レイジをひきずるように歩き出す。意識が混濁したレイジは重く、一歩踏み出すのにも苦労した。絶対レイジを放すものか、医務室で待つロンのもとへ連れていくのだと腕に力をこめる。レイジが物問いたげに僕を見る。
「まだわからないのか?君たちは似合いの友人だと言ってるんだ」
レイジの顔が歪んだように見えたのは目の錯覚か。耐え難い苦痛に苛まれているかのような悲哀の表情が浮かんだのはきっと幻覚だ。
何故ならレイジの口元は笑っていたから。
「いいヤツだな、キーストア。体が弱まってるときにやさしい言葉かけるなんて反則だ、ロンがいなけりゃ惚れてたかも。キスしてやりてえけど、こんな具合じゃ無理っぽい」
「それを聞いても全然残念じゃないな」
レイジに不敵な笑みを返し、足を踏み出した……
瞬間だ。
「!!直、よけろっ」
次々と襲いくる囚人を木刀で薙ぎ払い応戦していたサムライ、その頭上を飛び越える白銀の閃光。
サーシャが鞭のように腕を撓らせ投擲したナイフが、大きな弧を描きサムライの頭を越え、僕の頭上を急襲する。
「反逆者は斬首刑に処す」
全身の血の気がひく。レイジを抱えていてはかわしきれない。ナイフはすぐそこまで迫っている………
死ぬ。
「ブーメラン!!」
サーシャの頭上を越えサムライの頭上を越え、渡り廊下に入り乱れた囚人の頭上を旋回しながら飛び越えた一冊の本が、僕の頭上を急襲したナイフをあっけなく弾き飛ばす。抜群のコントロールがなせる技かそれとも幸運な偶然か、僕をナイフから守る盾となった本が床に落下する。
漫画だ。
メスを構えたブラックジャックの表紙に、深々と突き立っているのはナイフ。
ということは、この本を投げた人間は……
渡り廊下に入り乱れた全員が、本が投げられた方角を凝視する。中央棟への入り口に、腰に手をつき立ち塞がっていたのは黒いゴーグルをかけた短髪の少年。僕らが固唾を飲んで見守る前で、苛立たしげにゴーグルを毟り取った少年がすさまじい剣幕で吠える。
「お前ら、心ん底から尊敬する手塚治虫の本俺に投げさせた罪は重いで。道化怒らせた覚悟はできとんのやろな、サーシャの手のひらで踊らされとる北のガキども!!」
ヨンイルだった。
本気で怒ったヨンイルを初めて見た。僕を守る為にとっさに本を投げたらしいが、投擲してから後悔に襲われたしく「くそっ俺のアホっ!!本を粗末に扱なんて図書室のヌシ失格や死にさらせボケっ」と頭を掻き毟り地団駄踏む。
尊敬する手塚治虫の本を投げ飛ばした自分が許せず自身を口汚く罵るヨンイルにあきれかえる。僕が言いたことすべて言われてしまっては呆然と口を開けるしかない。渡り廊下に居合わせた囚人も毒気をぬかれたようにヨンイルの狂乱を眺めていた。
「ああもう死にさらせボケがっ、お前らうるさいんじゃ読書の邪魔じゃ廊下でしゃべるな押すな駆けるなて常識やろ!!どったんばったんうるそうて医務室まで響いてきたわ、いったい何事やてすっとんできたらこの有り様!ええか耳の穴かっぽじってよお聞けこのアホたれども、俺はええとこで読書中断されるんがこの世でいちばんむかつくんじゃ!!」
「ど、どうしますサーシャ様!?」
「殺せ」
サーシャの返答は短く凍えていた。
「遊戯の邪魔をするな西の道化よ。北に盾突くつもりなら容赦はせん。お前を微塵に切り刻んでやる」
気のふれたように哄笑したヨンイルが、顔にゴーグルをかけ目の位置まで下げおろす。
「おもろいこと言うやんサーシャ。読書邪魔されて最高に気分悪いんや、手加減できひんで」
「吾輩もお手伝いしましょう」
ゴーグルで両目を覆ったヨンイルの隣には黒髪七三分け、温和な風貌の囚人……ホセ。渡り廊下の騒ぎを聞きつけヨンイルと共に駆けつけたものらしい。血痕したたる渡り廊下の惨状に眉をひそめたホセが、ふとその視線を遠方の僕らへ飛ばす。サムライの背中に庇われた僕、僕の肩に体重を預けきってるのは横顔を朱に染めたレイジ。
「あはは。なんか久しぶりだな、ふたりとも。西と南は相変わらず仲いいね」
お調子者を装いふざけて挨拶したレイジだが、そのしぐさはあまりに痛々しかった。この数日間でさんざんサーシャに痛めつけられた上に麻薬を呑まされて最悪の体調なのだ、憔悴の面持ちで虚勢を張っても説得力がない。僕におぶわれたレイジを見たヨンイルとホセが対照的な表情を浮かべる。
「レイジくん、しばらく見ない間に痩せたんじゃないですか?ちゃんとご飯食べさせてもらってますか」
ホセは大人の余裕を漂わせた苦笑い。
「北に越境しとるなんて知らんかったで、ダチに何も告げんで姿消して水くさい……とっとと東に帰れやレイジ、サーシャの犬ごっこはつまらんやろ。また和登派とピノコ派で手塚ヒロイン決定戦開こうや」
ヨンイルはしかめ面。
ついさっきレイジと対面した僕のように衝撃を受けることなく、泰然自若と構えたトップの風格に圧倒される。それ以外にもひとつわかったことがある。
かける言葉こそ違っていたが、ヨンイルもホセもレイジを心配している。
「私を無視して話を進めるな。不敬罪で処刑されたいか」
不機嫌に毒づいたサーシャが、手にしたナイフをまっすぐヨンイルとホセに向ける。
ナイフの反射光がサーシャの顔を陰惨に隈取る。
「渡り廊下よりこちらは北の領地、他棟のトップが足を踏み入れることを許可した覚えはない。東の王は私のもとへ下った、どうぞ犬にしてくださいと私の足元に跪いた。レイジはすでに私の物だ、皇帝の財産だ。お前らは何様のつもりだ?私の飼い犬にくわえてほしいなら床に跪いて尻尾を振ってみせたらどうだ、誠意の示し方次第では越境を許可してもよい」
「サーシャ様は偉大だ!」
「サーシャ様は寛大だ!」
「サーシャ様ほど皇帝にふさわしい人はいない。サーシャ様こそ生まれながらの皇帝、正統なるロシアの末裔、あまねく威光をしろしめしこの監獄を総べられるお方だ」
「サーシャ様万歳!」
「皇帝万歳!」
「皇帝万歳!」
「「じゃあかあしい!!」」
渡り廊下を揺るがす大合唱を一蹴したのはヨンイルだ。高々と両手をかざし、一種の集団催眠状態に陥りサーシャを褒めたたえる北の囚人たちを一喝する。
「かかってこいやサーシャの犬ども、道化が遊んだる」
獰猛に犬歯を剥き、ヨンイルが宣戦布告。
「お付き合いしますよヨンイルくん。吾輩ホセ、ロンくんのコーチとして責任を果たせねばなりません。寝たきりの愛弟子のために力づくでもレイジくんを連れ帰らねば」
ホセが気取ったしぐさで眼鏡を外し、弦を畳んでポケットにおさめる。
道化と隠者がこっそり顔を見合わせほくそ笑む。二人を繋ぐのは共犯者の絆。
『ペーペー!!』
ロシア語で「殺せ」と誰かが叫ぶ、それが開戦の合図だった。僕らを取り囲んだ集団の後続が方向転換し、廊下を全力疾走してヨンイルとホセに立ち向かう。ある者は鎖を振りまわしある者はナイフを抜き放ちある者は素手で、ヨンイルとホセを一網打尽にしようとする。
「ふたりとも逃げろ!」
ヨンイルもホセも素手だ、いかに西と南のトップでも大人数相手にかなうわけがない。
「サーシャの制裁怖さとはいえ、道化相手に正面から突っ込んでくる火事場のクソ度胸は買うたる」
ヨンイルが頭上にこぶしを掲げ、ぱっと五指を開く。
「ーでもな、もうちょい利口になれや。喧嘩売ってええ相手の見分けもつかんのかい、北の犬どもは」
「うわああっ!?」
「前が見えねえっ、」
ヨンイルの手のひらから濛々と煙が漏出する。大きく腕を振りかぶり、何かを投げる。放物線を描いて宙に舞った玉が三秒足らずの滞空時間に大量の煙をまきちらし、廊下に入り乱れた囚人を文字通り煙に巻く。煙に視界を覆われ何も見えない囚人の間に動揺が伝染する。
「俺から離れるな、直!」
「わかってる!」
サムライの声を頼りに進む。ヨンイルが囚人を煙に巻いてくれたおかげで、包囲網の綻びから脱出することができた。肩にかかる体重が重く、一歩一歩がこたえる。レイジをおぶって息を切らした僕の隣にわざわざ引き返したサムライが、反対側からレイジを支える。
「手の焼ける男だな」
「はやく医務室へ運ぼう」
レイジは気を失ってるのか、とくに抵抗もしなかった。力なくうなだれたレイジの顔を覗きこみ、気遣わしげに眉をひそめ、サムライが首肯する。サムライが片腕を持ってくれたおかげでだいぶ体が軽くなった。二人がかりでレイジを支え、医務室へ足をむける……
「!くっ、」
煙を吹き散らし、前方から飛んできたのは楕円を連ねた鎖。僕の足元をかすめた鎖が煙幕の向こう側へ素早く引っ込み、今度はサムライの鼻先をかすめる。どうする?レイジを抱いたままでは動きがとれない。
『ペーペー!!』
ロシアの語の「死ね」とともに鎖が飛来する。風切る唸りをあげたそれが前髪を掠め、おもわず目を閉じる。だが予想に反し、顔面を鎖が直撃する事態は避けられた。
濛々と煙る渡り廊下を疾走し、僕の眼前に出現したヨンイルが、片腕に鎖を絡めとったからだ。
「うわっ!?」
片腕に鎖を巻きつけたヨンイルが、煙幕の向こう側から伸びた鎖をもう片方の手でぐいと掴み、無造作に引っ張る。たたらを踏んでまろびでた囚人が、道化と対面して青ざめる。
「ご愁傷さま」
ゴーグル奥の目が笑みを含んだように見えたのは錯覚か?やけになった囚人が奇声を撒き散らし手足を振りまわしヨンイルに突撃するのと、ヨンイルが片腕の鎖を振りほどくのは同時。鎖の抵抗が消失し、平衡感覚を失った囚人が前傾姿勢でつんのめる。不運な囚人が最後に見たのは、自分の鳩尾めがけはねあがるつま先。
一瞬の出来事だった。
鳩尾に痛恨の蹴りを入れたヨンイルの上着がめくれ、健康的に日焼けした背中が晒される。背中一面に彫られているのは獰猛に蛇腹をくねらせる龍の刺青。
鱗一枚一枚が瘴気じみた執念で隈取られた、入魂の刺青だった。
「ぼさっとしとるんやない、とっととそのふぬけを医務室へ連れてけ!」
「この場は吾輩とヨンイルくんに任せてください!」
次第に煙が晴れてきた渡り廊下にて、多勢で殺到する囚人にボディブローを入れながらホセが叫ぶ。「ぺーぺー!」「ぺーぺー!」と怒号を発し、次から次へと攻めてくる敵を蜂のようにかわし、あるいは獣の俊敏さで肉薄し顔面や腹部に鉄拳を見舞う。肉と肉がぶつかる鈍い音が響き、ホセの額に汗が光る。
ヨンイルが踊れば龍も踊る。ヨンイルが床に手をつき前転し起き上がり囚人の背中を蹴り倒す。はげしく暴れるヨンイルの上着が風圧にめくれ、外気に晒された背中で龍も躍動する。その龍を掴まえようとでもするかのように背後に忍び寄った囚人を振り向きざま頭突きで目潰し、たまらず目を覆いよろめいた囚人を情け容赦なく殴り飛ばす。ヨンイルの手と膝に返り血が付着する。
ホセもヨンイルと背中合わせで戦っていた。
七三分けが乱れ、前髪が一房額にはりついている。眼鏡をとったホセは別人のように精気に溢れ、ひょろりと頼りなく見えた体躯が極限まで脂肪を殺ぎ落とし筋肉を研鑚した獣のそれへと変貌する。二人がかりでホセへと突っ込んできた囚人が隙だらけの動作で大きく腕を振りかぶる。予めその軌道を読んだホセが頭を屈めて腕をかわし、体勢を低め、稲妻めいた速さで敵の懐に潜りこむ。
ホセのこぶしが顔面に炸裂した。
鼻血を噴出した囚人が両手で顔を覆いしゃがみこむ。ホセの消失に動転したもう一人の囚人の鳩尾に鉄拳がめりこみ軽々と吹っ飛ぶ。ホセが腰をよじるたび、体重の乗ったこぶしが囚人の顔面を穿ち、鼻骨を粉砕する。肉と骨がぶつかる鈍い音が連続し、ホセの顔やこぶしに返り血が付着する。
強すぎる。
圧倒的だ。
「行ったでホセ!」
ホセとヨンイル、西と南のトップの連携プレイに驚嘆する僕の視線の先、命からがらヨンイルから逃げ出した囚人の前に悠然とホセが立ち塞がる。こぶしから血の雫を滴らせたホセに行く手を阻まれ、顔面蒼白の囚人があとじさる。
「吾輩ホセ、なるべくなら平和的な解決を望む温厚な人間なのでここはひとつ和解の握手でも」
「うわあああああ寄るなああああ!!」
血まみれの手をぬっと突き出され、恐怖が爆発した囚人が死に物狂いでナイフを振りかざす。敵がナイフを持っていてもホセは動じず、フットワーク軽く後退する。
カチン、とかすかな金属音が鳴る。
刹那、ホセの表情が豹変した。温厚な笑顔から冷酷な無表情へと変貌したホセが、緩慢な動作で左手薬指を見下ろす。
ナイフが薬指の指輪をかすめ、傷をつけたのだ。
「……傷をつけましたね」
ホセの声は穏やかと言ってよかったが、その眼光はとてつもなく物騒なものを孕んでいた。口元だけに笑みを浮かべたホセがいとおしむような手つきで薬指の指輪をなでる。
「夫婦愛の証に傷をつけましたね」
「だからどうだってんだよ、そんな安物の指輪!!」
再び凶器が振り下ろされるが、ナイフがホセの体に到達することは遂になかった。
「ぐあああああっ、あっ、ああ!?手首、手首がつぶれっ……」
囚人の手首を万力めいた握力で締め上げ、無理矢理指をこじ開ける。手首の骨が軋む激痛に滂沱の涙を流す囚人を見下ろし、ホセが無表情に呟く。
「吾輩とワイフの愛を邪魔する者は神が許してもキューピッドが許しません。指輪に傷をつけただけでも万死に値する重罪ですが、君はさらにワイフを侮辱した。吾輩の薬指に嵌まっている指輪は、寝るときも食べるときも用を足すときも肌身はなさず嵌めている伴侶の分身です。それをこともあろうに『安物』と吐き捨てた」
これは、本当にホセか?変な一人称と敬語が特徴的なしゃべり方の、七三分けに黒縁メガネをかけた穏やかな風貌の男か。
絶句する僕をよそに、南の隠者が宣言する。
「夫婦愛の名のもとに、撲殺します」
「あああああっ、ああ!!」
笑顔の威圧に最後の一握りの理性が蒸発したか、ホセと相対した囚人がめちゃくちゃにナイフを振り回す。
パキリと、硬い物に亀裂が走る音がした。
目にしたものが信じられなかった。ホセがナイフの側面を殴り付けると同時に、刃に亀裂が走る。もともと安物だったのだろうナイフの刃は想像以上に脆く、ホセのこぶしの破壊力に折れ砕ける。
素手でナイフを砕く、という人間離れした芸当に極限まで目を剥いた囚人の顔が、次の瞬間大きく仰け反る。ナイフを鉄拳粉砕したホセが、怒りの一撃を囚人の顔面に叩きこんだのだ。鼻血を噴出した囚人の上に馬乗になり、気の済むまでこぶしを見舞うホセ。戦意喪失した囚人を容赦なく殴り続ける姿はまさしくコロッセオの歓声を浴びるにふさわしい狂戦士。
「はよ行けなおちゃん!」
ヨンイルの叫びで我に返る。サムライはすでに道を切り開いていた。片腕でレイジを支えた不自由な体勢で木刀を振るうサムライに目配せする。
「行くぞ」
「ああ」
たがいに頷き合い、呼吸を合わせて走り出す。渡り廊下を抜ければ医務室まで距離はない。これでやっとロンにレイジを会わすことができる、サムライと東棟に帰ることができる……
「待て」
ヨンイルとホセがその他の囚人を相手どる中、悲鳴と怒号飛び交う渡り廊下の混乱とは無縁に落ち着き払った声に呼びとめられる。
渡り廊下を抜けるまであと十歩、というところで僕らの前に立ち塞がったのは北の皇帝……サーシャ。
「北棟の秩序を乱し皇帝を侮辱し、渡り廊下を混乱に陥れた代償は払ってもらう。生きて帰りたくば私を倒せ、サバーカよ」
なにを言ってるんだ?
「正気か君は!?君の注文どおりレイジと殺し合いを演じただけじゃ不満なのか、冗談じゃない、こんなところでぐずぐずしている暇はない!レイジには今すぐ医務室に行きロンに会う義務が……」
僕の足元に放り投げられたのは一本のナイフ。柄の模様には見覚えがある。さっき僕がレイジの頬を切り裂いたナイフだ。それが証拠に、刀身はべったりと血に染まっていた。
「犬に拒否権はない。主人が相手をしてやると言っているのだ、光栄に思いこそすれ歯向かうなど言語道断。生きて帰りたければ私を倒せ、私と殺し合え」
「狂ってる」
僕がナイフを手に取るまでサーシャはその場を動かないつもりだ。本気で僕と殺し合うつもりだ。生唾を嚥下し、腰を屈め、震える指をナイフへ伸ばす。
ナイフに手が届く寸前、木刀が手首を押さえつける。
「馬鹿なことはやめろ、死ぬぞ。この場は俺に任せ、お前はレイジを連れて先に医務室へ行け。俺ならば多少の時間稼ぎができる」
「君をこれ以上危険な目に遭わせたくない。北棟に足を踏み入れたのは僕の自己判断かつ自己責任だ、危険な目に遭うのは自業自得だ。君こそ医務室へ行け、レイジの手当てを最優先に……」
小声で言い争う僕とサムライの肩から重しが取り除かれる。
「レイジ?」
サムライと不審顔を見合わせ、レイジの動向を探る。僕とサムライに二人がかりで肩を担がれてたレイジが、くずおれるようにその場に屈みこむ。前髪に隠されて表情はよく見えないが、ひどい顔色だ。汗も大量にかいているらしく、上着がぐっしょりぬれて素肌が透けていた。
もう力尽きたのか?だらしがない、医務室まで我慢しろ。苛立ちをこらえてレイジをおぶいなおそうとして、慄然と立ち竦む。
手探りで床をさぐり、ナイフを拾い上げ、しずかに立ち上がるレイジ。
「なにを……」
「腐っても王様なんでね、俺は」
ナイフを手にしたレイジが、僕とサムライを庇うように立ち位置を移動する。
そして蒼白に近い顔で、不敵に笑う。
「せめて自分トコの人間くらい五体満足で帰さなきゃ、格好つかねえだろ」
馬鹿な。
こんな状態で、サーシャと殺し合う気か?
サーシャの号令のもと北の囚人が解き放たれる。
「直、レイジを頼む!」
木刀を正眼に構えたサムライに頷き、壁際に座りこんだレイジのもとへと走り出す。
「大丈夫か、しっかりしろ」
レイジの肩に手をかけ揺さぶる。口移しで覚せい剤を飲まされたのだ、意識が混濁しててるのかもしれない。はげしく肩を揺さぶっても反応のないレイジに舌打ちしたくなる。
「レイジ、いい加減に起きろ!これ以上ロンを待たせる気か」
『ロン』。
かすかに瞼が震えた。長く優雅な睫毛に縁取られた切れ長の瞼が持ち上がり、薄目が開く。半透明の膜がかかったようにぼんやりした目。緩慢に顔を起こしたレイジの正面に回りこむ。とりあえず体に異常がないか確かめなければ、胃洗浄が必要なら医務室へ運ばなければ。片手をとり、脈をはかろうと袖をめくり……
その時だ。
「!」
レイジの背中が壁からずり落ち、体が傾いだ反動でポケットから何かが零れ落ちた。
麻雀牌だった。
何故こんな物がレイジのポケットに入ってたんだと訝りながら、手首に五指を巻き脈をとり終える。少し速いが、この程度なら問題ない。
「頭くらくらする……」
「それだけで済むなら大した物だ、どういう免疫機構をしてるんだ貴様は」
「クスリには体が慣れてんだ、っても自白剤だけどよ……」
片手で頭を支え起こしたレイジが強がりで笑う。こんな時に笑える神経を疑う。レイジに肩を貸し立ち上がらせ、ついでに足元の牌を拾う。
「落ちたぞ」
苦しげな表情に虚勢の笑みを浮かべ、レイジが呟く。
「それ、俺のじゃない。ロンの物だよ。ちょっと前に失敬して、ずるずる返しそびれてたんだ。かわりに返しといてよ」
『ロンの物』
レイジがそっけなく吐き捨てた言葉を反芻し、記憶の襞をさぐる。いつだったか、もうずいぶん昔の出来事に思えるがあれはまだほんの数ヶ月前のこと。食堂でロンの隣の低位置に座ったレイジが、麻雀のルールブックを借りてくると言った。ロンの遊び相手になるために麻雀を勉強すると言った。
ペア戦開幕日、意気揚揚とリングに上がったレイジを思い出す。
あの時レイジは、一度もポケットから手を抜かなかった。僕はそれを余裕のあらわれととった、無敵の王様が身のほど知らずの挑戦者に力の差を見せつけているのだと先入観から誤解した。
だが実際は違ったのだ。レイジがあの時ポケットから手を抜かなかったのは、他に理由があったのだ。
100人抜きの幕開けとなる初試合、リングに上がってからもずっとポケットに手を入れていたのは……
「レイジ、君は」
片腕でレイジを支え、もう片方の手に牌を握り締め、呆然と立ち竦む。サーシャに覚せい剤を使われた後遺症か、レイジは意識が朦朧としていた。半眼に落ちた瞼の奥には恍惚とまどろむ目があった。頬の傷口からあふれた血は上着の胸元まで染めていた。憔悴したレイジの腕を肩にかけ、抱え上げる。
「君は全然、昔と変わってないじゃないか。以前と変わらずロンが大事で、大好きなままじゃないか」
あの時、レイジがずっとポケットに手をいれていたのは、ロンの牌が入ってたからだ。
お守りがわりにロンの牌を握り締めていたからだ。
人には見えないところで、わからない場所で、レイジは昔も今も変わらずロンを大切に思っている。
「人間そう簡単に変われねえよ」
レイジは細身だが重かった。当然だ、僕より身長が高いのだ。レイジをひきずるように歩き出そうとして、唐突に立ち止まる。僕にぐったりと体を凭せたレイジの五指を無理矢理こじ開け、牌を握らせる。
「何故僕が君とロンの仲介役をしなければならない、冗談じゃないぞ。他人の痴話喧嘩に巻きこまれて被害をこうむるのはごめんだ。これは自分で渡せ、ちゃんとロンの顔を見て自分の手で返すんだ」
「会いたくねえよ」
「嘘をつけ」
「会いたくない」
「聞き飽きた」
「会ったら駄目になる」
まったく手のかかる王様だ。子供のように駄々をこねるレイジを叱りつけようとして、口を噤む。
「会わないって決めたのに、もう一度会ったら駄目になる。俺もロンも取り返しつかなくなる。王様が一度言ったこと取り消すなんてカッコ悪ィことできるかよ、愚民どもに示しがつかねえだろ。だからこのままでいいんだ、お前が優しいのはよくわかったからもう放っといてくれよキーストア。ロンにはこっち側にきてほしくないんだ、ひきずりこみたくないんだ。ずっとマトモなままでいてほしいんだよ」
俯き加減の表情はよく見えなかったが、口元には儚い笑みが漂っていた。
レイジは愚かだ。
人との距離のとり方がわからなくて、大事な者を傷付けたくなくて、それには自分がいなくなるのが一番だと勝手に結論を下してしまった愚か者。
その優しさはひとりよがりで残酷だ。
「正常と異常、正気と狂気。かってに境界線をひいてけして相容れないと区別して、貴様何様のつもりだ。王様ならまだしも神様のつもりか。いいか、僕にしてみれば君たちふたりとも同類の低脳だ。君とロンはなにも変わらない、知力の低さとなれなれしさではどちらもいい勝負だ」
レイジをひきずるように歩き出す。意識が混濁したレイジは重く、一歩踏み出すのにも苦労した。絶対レイジを放すものか、医務室で待つロンのもとへ連れていくのだと腕に力をこめる。レイジが物問いたげに僕を見る。
「まだわからないのか?君たちは似合いの友人だと言ってるんだ」
レイジの顔が歪んだように見えたのは目の錯覚か。耐え難い苦痛に苛まれているかのような悲哀の表情が浮かんだのはきっと幻覚だ。
何故ならレイジの口元は笑っていたから。
「いいヤツだな、キーストア。体が弱まってるときにやさしい言葉かけるなんて反則だ、ロンがいなけりゃ惚れてたかも。キスしてやりてえけど、こんな具合じゃ無理っぽい」
「それを聞いても全然残念じゃないな」
レイジに不敵な笑みを返し、足を踏み出した……
瞬間だ。
「!!直、よけろっ」
次々と襲いくる囚人を木刀で薙ぎ払い応戦していたサムライ、その頭上を飛び越える白銀の閃光。
サーシャが鞭のように腕を撓らせ投擲したナイフが、大きな弧を描きサムライの頭を越え、僕の頭上を急襲する。
「反逆者は斬首刑に処す」
全身の血の気がひく。レイジを抱えていてはかわしきれない。ナイフはすぐそこまで迫っている………
死ぬ。
「ブーメラン!!」
サーシャの頭上を越えサムライの頭上を越え、渡り廊下に入り乱れた囚人の頭上を旋回しながら飛び越えた一冊の本が、僕の頭上を急襲したナイフをあっけなく弾き飛ばす。抜群のコントロールがなせる技かそれとも幸運な偶然か、僕をナイフから守る盾となった本が床に落下する。
漫画だ。
メスを構えたブラックジャックの表紙に、深々と突き立っているのはナイフ。
ということは、この本を投げた人間は……
渡り廊下に入り乱れた全員が、本が投げられた方角を凝視する。中央棟への入り口に、腰に手をつき立ち塞がっていたのは黒いゴーグルをかけた短髪の少年。僕らが固唾を飲んで見守る前で、苛立たしげにゴーグルを毟り取った少年がすさまじい剣幕で吠える。
「お前ら、心ん底から尊敬する手塚治虫の本俺に投げさせた罪は重いで。道化怒らせた覚悟はできとんのやろな、サーシャの手のひらで踊らされとる北のガキども!!」
ヨンイルだった。
本気で怒ったヨンイルを初めて見た。僕を守る為にとっさに本を投げたらしいが、投擲してから後悔に襲われたしく「くそっ俺のアホっ!!本を粗末に扱なんて図書室のヌシ失格や死にさらせボケっ」と頭を掻き毟り地団駄踏む。
尊敬する手塚治虫の本を投げ飛ばした自分が許せず自身を口汚く罵るヨンイルにあきれかえる。僕が言いたことすべて言われてしまっては呆然と口を開けるしかない。渡り廊下に居合わせた囚人も毒気をぬかれたようにヨンイルの狂乱を眺めていた。
「ああもう死にさらせボケがっ、お前らうるさいんじゃ読書の邪魔じゃ廊下でしゃべるな押すな駆けるなて常識やろ!!どったんばったんうるそうて医務室まで響いてきたわ、いったい何事やてすっとんできたらこの有り様!ええか耳の穴かっぽじってよお聞けこのアホたれども、俺はええとこで読書中断されるんがこの世でいちばんむかつくんじゃ!!」
「ど、どうしますサーシャ様!?」
「殺せ」
サーシャの返答は短く凍えていた。
「遊戯の邪魔をするな西の道化よ。北に盾突くつもりなら容赦はせん。お前を微塵に切り刻んでやる」
気のふれたように哄笑したヨンイルが、顔にゴーグルをかけ目の位置まで下げおろす。
「おもろいこと言うやんサーシャ。読書邪魔されて最高に気分悪いんや、手加減できひんで」
「吾輩もお手伝いしましょう」
ゴーグルで両目を覆ったヨンイルの隣には黒髪七三分け、温和な風貌の囚人……ホセ。渡り廊下の騒ぎを聞きつけヨンイルと共に駆けつけたものらしい。血痕したたる渡り廊下の惨状に眉をひそめたホセが、ふとその視線を遠方の僕らへ飛ばす。サムライの背中に庇われた僕、僕の肩に体重を預けきってるのは横顔を朱に染めたレイジ。
「あはは。なんか久しぶりだな、ふたりとも。西と南は相変わらず仲いいね」
お調子者を装いふざけて挨拶したレイジだが、そのしぐさはあまりに痛々しかった。この数日間でさんざんサーシャに痛めつけられた上に麻薬を呑まされて最悪の体調なのだ、憔悴の面持ちで虚勢を張っても説得力がない。僕におぶわれたレイジを見たヨンイルとホセが対照的な表情を浮かべる。
「レイジくん、しばらく見ない間に痩せたんじゃないですか?ちゃんとご飯食べさせてもらってますか」
ホセは大人の余裕を漂わせた苦笑い。
「北に越境しとるなんて知らんかったで、ダチに何も告げんで姿消して水くさい……とっとと東に帰れやレイジ、サーシャの犬ごっこはつまらんやろ。また和登派とピノコ派で手塚ヒロイン決定戦開こうや」
ヨンイルはしかめ面。
ついさっきレイジと対面した僕のように衝撃を受けることなく、泰然自若と構えたトップの風格に圧倒される。それ以外にもひとつわかったことがある。
かける言葉こそ違っていたが、ヨンイルもホセもレイジを心配している。
「私を無視して話を進めるな。不敬罪で処刑されたいか」
不機嫌に毒づいたサーシャが、手にしたナイフをまっすぐヨンイルとホセに向ける。
ナイフの反射光がサーシャの顔を陰惨に隈取る。
「渡り廊下よりこちらは北の領地、他棟のトップが足を踏み入れることを許可した覚えはない。東の王は私のもとへ下った、どうぞ犬にしてくださいと私の足元に跪いた。レイジはすでに私の物だ、皇帝の財産だ。お前らは何様のつもりだ?私の飼い犬にくわえてほしいなら床に跪いて尻尾を振ってみせたらどうだ、誠意の示し方次第では越境を許可してもよい」
「サーシャ様は偉大だ!」
「サーシャ様は寛大だ!」
「サーシャ様ほど皇帝にふさわしい人はいない。サーシャ様こそ生まれながらの皇帝、正統なるロシアの末裔、あまねく威光をしろしめしこの監獄を総べられるお方だ」
「サーシャ様万歳!」
「皇帝万歳!」
「皇帝万歳!」
「「じゃあかあしい!!」」
渡り廊下を揺るがす大合唱を一蹴したのはヨンイルだ。高々と両手をかざし、一種の集団催眠状態に陥りサーシャを褒めたたえる北の囚人たちを一喝する。
「かかってこいやサーシャの犬ども、道化が遊んだる」
獰猛に犬歯を剥き、ヨンイルが宣戦布告。
「お付き合いしますよヨンイルくん。吾輩ホセ、ロンくんのコーチとして責任を果たせねばなりません。寝たきりの愛弟子のために力づくでもレイジくんを連れ帰らねば」
ホセが気取ったしぐさで眼鏡を外し、弦を畳んでポケットにおさめる。
道化と隠者がこっそり顔を見合わせほくそ笑む。二人を繋ぐのは共犯者の絆。
『ペーペー!!』
ロシア語で「殺せ」と誰かが叫ぶ、それが開戦の合図だった。僕らを取り囲んだ集団の後続が方向転換し、廊下を全力疾走してヨンイルとホセに立ち向かう。ある者は鎖を振りまわしある者はナイフを抜き放ちある者は素手で、ヨンイルとホセを一網打尽にしようとする。
「ふたりとも逃げろ!」
ヨンイルもホセも素手だ、いかに西と南のトップでも大人数相手にかなうわけがない。
「サーシャの制裁怖さとはいえ、道化相手に正面から突っ込んでくる火事場のクソ度胸は買うたる」
ヨンイルが頭上にこぶしを掲げ、ぱっと五指を開く。
「ーでもな、もうちょい利口になれや。喧嘩売ってええ相手の見分けもつかんのかい、北の犬どもは」
「うわああっ!?」
「前が見えねえっ、」
ヨンイルの手のひらから濛々と煙が漏出する。大きく腕を振りかぶり、何かを投げる。放物線を描いて宙に舞った玉が三秒足らずの滞空時間に大量の煙をまきちらし、廊下に入り乱れた囚人を文字通り煙に巻く。煙に視界を覆われ何も見えない囚人の間に動揺が伝染する。
「俺から離れるな、直!」
「わかってる!」
サムライの声を頼りに進む。ヨンイルが囚人を煙に巻いてくれたおかげで、包囲網の綻びから脱出することができた。肩にかかる体重が重く、一歩一歩がこたえる。レイジをおぶって息を切らした僕の隣にわざわざ引き返したサムライが、反対側からレイジを支える。
「手の焼ける男だな」
「はやく医務室へ運ぼう」
レイジは気を失ってるのか、とくに抵抗もしなかった。力なくうなだれたレイジの顔を覗きこみ、気遣わしげに眉をひそめ、サムライが首肯する。サムライが片腕を持ってくれたおかげでだいぶ体が軽くなった。二人がかりでレイジを支え、医務室へ足をむける……
「!くっ、」
煙を吹き散らし、前方から飛んできたのは楕円を連ねた鎖。僕の足元をかすめた鎖が煙幕の向こう側へ素早く引っ込み、今度はサムライの鼻先をかすめる。どうする?レイジを抱いたままでは動きがとれない。
『ペーペー!!』
ロシアの語の「死ね」とともに鎖が飛来する。風切る唸りをあげたそれが前髪を掠め、おもわず目を閉じる。だが予想に反し、顔面を鎖が直撃する事態は避けられた。
濛々と煙る渡り廊下を疾走し、僕の眼前に出現したヨンイルが、片腕に鎖を絡めとったからだ。
「うわっ!?」
片腕に鎖を巻きつけたヨンイルが、煙幕の向こう側から伸びた鎖をもう片方の手でぐいと掴み、無造作に引っ張る。たたらを踏んでまろびでた囚人が、道化と対面して青ざめる。
「ご愁傷さま」
ゴーグル奥の目が笑みを含んだように見えたのは錯覚か?やけになった囚人が奇声を撒き散らし手足を振りまわしヨンイルに突撃するのと、ヨンイルが片腕の鎖を振りほどくのは同時。鎖の抵抗が消失し、平衡感覚を失った囚人が前傾姿勢でつんのめる。不運な囚人が最後に見たのは、自分の鳩尾めがけはねあがるつま先。
一瞬の出来事だった。
鳩尾に痛恨の蹴りを入れたヨンイルの上着がめくれ、健康的に日焼けした背中が晒される。背中一面に彫られているのは獰猛に蛇腹をくねらせる龍の刺青。
鱗一枚一枚が瘴気じみた執念で隈取られた、入魂の刺青だった。
「ぼさっとしとるんやない、とっととそのふぬけを医務室へ連れてけ!」
「この場は吾輩とヨンイルくんに任せてください!」
次第に煙が晴れてきた渡り廊下にて、多勢で殺到する囚人にボディブローを入れながらホセが叫ぶ。「ぺーぺー!」「ぺーぺー!」と怒号を発し、次から次へと攻めてくる敵を蜂のようにかわし、あるいは獣の俊敏さで肉薄し顔面や腹部に鉄拳を見舞う。肉と肉がぶつかる鈍い音が響き、ホセの額に汗が光る。
ヨンイルが踊れば龍も踊る。ヨンイルが床に手をつき前転し起き上がり囚人の背中を蹴り倒す。はげしく暴れるヨンイルの上着が風圧にめくれ、外気に晒された背中で龍も躍動する。その龍を掴まえようとでもするかのように背後に忍び寄った囚人を振り向きざま頭突きで目潰し、たまらず目を覆いよろめいた囚人を情け容赦なく殴り飛ばす。ヨンイルの手と膝に返り血が付着する。
ホセもヨンイルと背中合わせで戦っていた。
七三分けが乱れ、前髪が一房額にはりついている。眼鏡をとったホセは別人のように精気に溢れ、ひょろりと頼りなく見えた体躯が極限まで脂肪を殺ぎ落とし筋肉を研鑚した獣のそれへと変貌する。二人がかりでホセへと突っ込んできた囚人が隙だらけの動作で大きく腕を振りかぶる。予めその軌道を読んだホセが頭を屈めて腕をかわし、体勢を低め、稲妻めいた速さで敵の懐に潜りこむ。
ホセのこぶしが顔面に炸裂した。
鼻血を噴出した囚人が両手で顔を覆いしゃがみこむ。ホセの消失に動転したもう一人の囚人の鳩尾に鉄拳がめりこみ軽々と吹っ飛ぶ。ホセが腰をよじるたび、体重の乗ったこぶしが囚人の顔面を穿ち、鼻骨を粉砕する。肉と骨がぶつかる鈍い音が連続し、ホセの顔やこぶしに返り血が付着する。
強すぎる。
圧倒的だ。
「行ったでホセ!」
ホセとヨンイル、西と南のトップの連携プレイに驚嘆する僕の視線の先、命からがらヨンイルから逃げ出した囚人の前に悠然とホセが立ち塞がる。こぶしから血の雫を滴らせたホセに行く手を阻まれ、顔面蒼白の囚人があとじさる。
「吾輩ホセ、なるべくなら平和的な解決を望む温厚な人間なのでここはひとつ和解の握手でも」
「うわあああああ寄るなああああ!!」
血まみれの手をぬっと突き出され、恐怖が爆発した囚人が死に物狂いでナイフを振りかざす。敵がナイフを持っていてもホセは動じず、フットワーク軽く後退する。
カチン、とかすかな金属音が鳴る。
刹那、ホセの表情が豹変した。温厚な笑顔から冷酷な無表情へと変貌したホセが、緩慢な動作で左手薬指を見下ろす。
ナイフが薬指の指輪をかすめ、傷をつけたのだ。
「……傷をつけましたね」
ホセの声は穏やかと言ってよかったが、その眼光はとてつもなく物騒なものを孕んでいた。口元だけに笑みを浮かべたホセがいとおしむような手つきで薬指の指輪をなでる。
「夫婦愛の証に傷をつけましたね」
「だからどうだってんだよ、そんな安物の指輪!!」
再び凶器が振り下ろされるが、ナイフがホセの体に到達することは遂になかった。
「ぐあああああっ、あっ、ああ!?手首、手首がつぶれっ……」
囚人の手首を万力めいた握力で締め上げ、無理矢理指をこじ開ける。手首の骨が軋む激痛に滂沱の涙を流す囚人を見下ろし、ホセが無表情に呟く。
「吾輩とワイフの愛を邪魔する者は神が許してもキューピッドが許しません。指輪に傷をつけただけでも万死に値する重罪ですが、君はさらにワイフを侮辱した。吾輩の薬指に嵌まっている指輪は、寝るときも食べるときも用を足すときも肌身はなさず嵌めている伴侶の分身です。それをこともあろうに『安物』と吐き捨てた」
これは、本当にホセか?変な一人称と敬語が特徴的なしゃべり方の、七三分けに黒縁メガネをかけた穏やかな風貌の男か。
絶句する僕をよそに、南の隠者が宣言する。
「夫婦愛の名のもとに、撲殺します」
「あああああっ、ああ!!」
笑顔の威圧に最後の一握りの理性が蒸発したか、ホセと相対した囚人がめちゃくちゃにナイフを振り回す。
パキリと、硬い物に亀裂が走る音がした。
目にしたものが信じられなかった。ホセがナイフの側面を殴り付けると同時に、刃に亀裂が走る。もともと安物だったのだろうナイフの刃は想像以上に脆く、ホセのこぶしの破壊力に折れ砕ける。
素手でナイフを砕く、という人間離れした芸当に極限まで目を剥いた囚人の顔が、次の瞬間大きく仰け反る。ナイフを鉄拳粉砕したホセが、怒りの一撃を囚人の顔面に叩きこんだのだ。鼻血を噴出した囚人の上に馬乗になり、気の済むまでこぶしを見舞うホセ。戦意喪失した囚人を容赦なく殴り続ける姿はまさしくコロッセオの歓声を浴びるにふさわしい狂戦士。
「はよ行けなおちゃん!」
ヨンイルの叫びで我に返る。サムライはすでに道を切り開いていた。片腕でレイジを支えた不自由な体勢で木刀を振るうサムライに目配せする。
「行くぞ」
「ああ」
たがいに頷き合い、呼吸を合わせて走り出す。渡り廊下を抜ければ医務室まで距離はない。これでやっとロンにレイジを会わすことができる、サムライと東棟に帰ることができる……
「待て」
ヨンイルとホセがその他の囚人を相手どる中、悲鳴と怒号飛び交う渡り廊下の混乱とは無縁に落ち着き払った声に呼びとめられる。
渡り廊下を抜けるまであと十歩、というところで僕らの前に立ち塞がったのは北の皇帝……サーシャ。
「北棟の秩序を乱し皇帝を侮辱し、渡り廊下を混乱に陥れた代償は払ってもらう。生きて帰りたくば私を倒せ、サバーカよ」
なにを言ってるんだ?
「正気か君は!?君の注文どおりレイジと殺し合いを演じただけじゃ不満なのか、冗談じゃない、こんなところでぐずぐずしている暇はない!レイジには今すぐ医務室に行きロンに会う義務が……」
僕の足元に放り投げられたのは一本のナイフ。柄の模様には見覚えがある。さっき僕がレイジの頬を切り裂いたナイフだ。それが証拠に、刀身はべったりと血に染まっていた。
「犬に拒否権はない。主人が相手をしてやると言っているのだ、光栄に思いこそすれ歯向かうなど言語道断。生きて帰りたければ私を倒せ、私と殺し合え」
「狂ってる」
僕がナイフを手に取るまでサーシャはその場を動かないつもりだ。本気で僕と殺し合うつもりだ。生唾を嚥下し、腰を屈め、震える指をナイフへ伸ばす。
ナイフに手が届く寸前、木刀が手首を押さえつける。
「馬鹿なことはやめろ、死ぬぞ。この場は俺に任せ、お前はレイジを連れて先に医務室へ行け。俺ならば多少の時間稼ぎができる」
「君をこれ以上危険な目に遭わせたくない。北棟に足を踏み入れたのは僕の自己判断かつ自己責任だ、危険な目に遭うのは自業自得だ。君こそ医務室へ行け、レイジの手当てを最優先に……」
小声で言い争う僕とサムライの肩から重しが取り除かれる。
「レイジ?」
サムライと不審顔を見合わせ、レイジの動向を探る。僕とサムライに二人がかりで肩を担がれてたレイジが、くずおれるようにその場に屈みこむ。前髪に隠されて表情はよく見えないが、ひどい顔色だ。汗も大量にかいているらしく、上着がぐっしょりぬれて素肌が透けていた。
もう力尽きたのか?だらしがない、医務室まで我慢しろ。苛立ちをこらえてレイジをおぶいなおそうとして、慄然と立ち竦む。
手探りで床をさぐり、ナイフを拾い上げ、しずかに立ち上がるレイジ。
「なにを……」
「腐っても王様なんでね、俺は」
ナイフを手にしたレイジが、僕とサムライを庇うように立ち位置を移動する。
そして蒼白に近い顔で、不敵に笑う。
「せめて自分トコの人間くらい五体満足で帰さなきゃ、格好つかねえだろ」
馬鹿な。
こんな状態で、サーシャと殺し合う気か?
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