少年プリズン

まさみ

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二百四十五話

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 「ツァー・ウーラ!」
 「ツァー・ウーラ!」
 「曲芸犬二匹の競い合い、じっくりたっぷり楽しませてもらうぜ!」
 廊下に集結した囚人が囂々と叫びたてる。彼らは血を渇望している、情け容赦ない殺し合いを期待している。耳も割れんばかりの歓声が渡り廊下を揺るがす中、サーシャが床にナイフを突き立てる。
 それを合図に、一散に駆け出す。
 床を蹴り加速し、一気に助走してレイジとの距離を縮める。策も何もなく突っ込んでいくのは無謀だという自覚があった。が、僕がナイフを片手にぶらさげたまま立ち尽くしていたらサーシャの不興を買い立場が悪くなるのは必至。今も背中にサーシャの視線を感じる。僕の一挙手一投足に目を光らせ、逃げれば即罰すると脅しをこめた氷点下の双眸。サーシャは狂人だ。サーシャの逆鱗にふれたら最後、僕はナイフで嬲り者にされ血祭りに上げられる。サーシャの命令に従う以外僕に生き残る術はない。
 生きて北を脱するためにはレイジに勝たなければならない、レイジを倒さなければならない。
 東京プリズン最強の称号をもつ無敵無敗のブラックワーク覇者、冷酷なる暴君。
 ペア戦のリング上で、続けざまに敵を屠っていたレイジを回想する。半年前には監視塔にたった一人で乗りこみ、数十人から成るサーシャの手下を一掃した。レイジは強い。怪物じみて、強い。正直レイジに勝てる気はしない、並外れた運動神経と磨き抜かれた格闘センスとが結合したレイジに少し本気をだして走れば息切れする虚弱な僕がかなうはずがない。
 でも、やるしかない。もう後には引き返せない。
 ロンは今も医務室のベッドでレイジを待っている。それをわからせるためにも、僕は全力を賭して戦わなければならない。ペア戦では僕は戦力外だ、サムライがどんなに傷付いて疲弊しても金網越しに指をくわえて見てるしかない立場だった。ロンは凱との一戦でぼろぼろになり全身十三箇所の打撲傷と肋骨を折る重傷を負ったが、試合に勝利して自らの成すべきことをちゃんとやり遂げた。
 なにもしてないのは僕だけだ。戦ってないのは僕だけだ。
 金網越しの安全圏に避難して漠然と試合を眺める日々には自己嫌悪が嵩む。僕もサムライやロンと同じように自らの身を危険に投じ、傷つき、ぼろぼろになり、そしてそんな自分を誇りたい。
 自己満足かもしれない、欺瞞かもしれない。でも僕は、これ以上逃げたくない。
 譲れない目的の為に、戦いたい。
 全速力で廊下を疾走し、レイジに肉薄する。視界の真ん中にレイジをおさめ、ナイフを握る手に力をこめる。右手に左手を被せ、両手で柄を握り締める。僕が本気をだしたところでレイジにかすり傷ひとつ負わせるのはむずかしい、だが足止めくらいには―

 『直、なにをする気だ』

 「!?―っ、」
 心臓が止まった。
 唐突に耳に甦るのは聞き慣れた声、人に命令するのに慣れた人間の声。教養深いバリトンがどこか傲慢に響き、掌中のナイフが汗ですべりそうになる。
 『なにをする気だ』
 『なにをしているの』
 不審げな男の声に訝しげな女の声が重なる。咎めるような声の響きに眩暈を起こし、ナイフを握る手が勝手に震えだす。これは……忘れるわけがない、両親の声だ。あの日あの時、自宅の書斎で僕に刺し殺された鍵屋崎優と由佳利の声だ。咄嗟の判断で恵からナイフを奪った僕は続けざまに両親を刺して致命傷を与えた、二人とも殆ど即死だった。だが僕に刺し殺される寸前まで、僕に刺し殺されるなど露ほども思っていなかった二人の声が今も耳にこびりついて離れない。
 僕は今、あの時とおなじ構え方で、あの時とおなじ格好でナイフを握り締めている。
 『おにいちゃんが死ねばよかったんだ』 
 やめろ、思い出すんじゃない、今は思い出すんじゃない!それどころじゃない、目の前の敵に集中しろ。相手はレイジだ、一瞬の油断が命取りだぞ。頭ではそうわかっている、でも体が言うことを聞かない。両親を刺し殺した僕の判断は間違っていたのか、恵の代わりに彼らを殺した僕の行為は間違っていたのか?
 だから恵は、
 「よう」
 眼前にレイジがいた。僕の隙につけこみ、頬すれすれをナイフで掠める。
 「くっ、」 
 「ボケッとしてんなよ親殺し。顔の横から歯茎が覗くぜ」
 殺気走った眼光と口元の笑みが不釣合いなレイジが耳元で囁き、素早くナイフを引き戻す。レイジは僕を親殺しと呼んだ、蔑称を吐き捨てた。初対面の時、「キーストア」なんて変なあだ名をつけられた。最初は抵抗を覚えたがそのうち馴染んでしまって、僕はレイジの呼びたいようにさせていた。
 あだ名を呼ぶのが気を許した証なら、今の僕はレイジにとってなんなんだ?
 「キーストア」からただの「親殺し」へと呼称が変わり、 
 「逃げてばっかじゃつまんねーぜ、観客へのサービス精神不足だ。反撃してみろよ、親殺し」
 僕はまた、僕だけの名前を呼んでくれる人間を失ったのか?
 「っ、」
 レイジの動きは異常に速く、動体視力も追いつかない。肉眼が残像をとらえる頃には僕の手足をナイフが掠め、四肢の薄皮を切り裂く鋭い痛みが生じている。長袖長ズボンの囚人服で肌が防護されているが気休めにすぎない、目にもとまらぬ速さで閃くナイフが手足を刺し貫くのは時間の問題だ。レイジの反射神経は並外れてる、いや反射神経だけではない。跳躍力、敏捷性、柔軟性……オールマイティに優れている。リングの外で見ているだけではわからなかったが実際一対一で戦ってみれば、レイジは人を殺す為だけに生まれ人を殺すために特別な訓練を受けた人間としか思えない。
 これは、現役の暗殺者だ。
 ぞっとした。
 レイジは人を殺すことに抵抗を覚えない人間だ、と確信する。より効率よく人を殺傷するためには何をすればいいか、どうやって接近しどうやって肉薄しどうやってとどめを刺せばいいか呼吸の自然さで心得ている。痛点が集中する人体部位はもちろん、筋肉を断ち切り動きをとめるにはどの程度の深さまでナイフで抉ればいいか、人を効率よく殺傷するためのありとあらゆる知識が経験則として身についているのだ。
 勝てるわけがない。
 「サムライがいなきゃなにもできねえか」
 緩慢に顔を上げる。片手でナイフをもてあそびながら失笑するレイジ。僕は逃げるだけで精一杯で、ナイフが手足を擦過するたび後退を余儀なくされる。  
 「いつもでかい口叩いてるくせに用心棒がぴったりついてなきゃなにもできねえんだな。つまんねえヤツ、がっかりだ」
 ため息まじりに嘆いたレイジの目が、鼠をいたぶる猫のように細まる。
 「で?サムライとは寝たのか」
 理性が蒸発した。
 陰険に目を細めたレイジが、片手でナイフをもてあそびながら嘲弄する。 
 「なんだ、まだか。サムライも意気地なしだな、とっととヤっちまえばいいのに……やせ我慢は体壊すぜ。なあ親殺し、お前だってまんざらじゃねーんだろ。売春班じゃ売れっ子だったんだ、奥手な男リードすんのはお手のもんだろ。俺も今は後悔してるよ、なんで無理矢理にでもロンヤッちまわなかったのかって。女も男もおんなじだよ、一度ヤッちまえばころりと態度変えて俺に懐いてくる。はは、可愛いよな。みんな俺の見た目に騙されてセックスのよさに溺れて、俺がどんだけイカレたヤツか見抜けないでやんの」
 「私は見ぬいていたぞ、お前の本性がどれほど淫らで卑しいか」
 うっそりと口を挟んだのは、壁に凭れて戦いを見物していたサーシャ。無表情に腕を組んだサーシャをちらりと一瞥し、レイジが笑みを浮かべる。発情期の豹のように獰猛な笑顔。片腕を横に薙ぎ払い、銀の軌跡で半弧を描く。早くも疲労困憊の僕を蔑むように見下し、レイジが舌なめずりする。
 「サムライがぐずぐずしてんなら、俺が横取りしちまうぜ」
 扇情的に唇を舐め上げるレイジから目がはなせない。汗ばんだ手にナイフを握り、慎重に体勢を立て直す。上着やズボンはあちこち裂けて素肌が覗いていた。よく目を凝らせば薄く皮膚が裂けて血が滲んでいた。たいした怪我じゃない、かすり傷だ。僕はまだ戦える、殺し合いは始まったばかりだ。
 本番はこれからだ。
 殺し合いはまだ序盤だ。レイジは僕を嬲るのをたのしんでいて、本気をだしていない。レイジが本気をだせば僕など開始五分以内に殺されていた。顎から滴り落ちた汗が点々と床に染みを作るのを見下ろし、手の甲で顔を拭う。
 レイジは汗ひとつかいてないというのに、この差はなんだ? 
 「僕はサムライと約束した」
 全身が熱い。血が燃え盛り、体が火照る。胸が苦しい。何故僕は北棟の渡り廊下にいるんだ、レイジと殺し合いを演じているんだという根源的な疑問が泡沫のように意識野に結んで弾ける。僕が必死にナイフを振り回してもサーシャとその手下が喜ぶだけだというのに……
 「約束したんだ」
 耳に響くのは大歓声、ツァー・ウーラ、ツァー・ウーラの連呼。ロシア語のスラングが喧しく飛び交い、僕とレイジに罵倒が浴びせられる。はやく殺し合いを再開しろ、ぐずぐずするな、はやく決着をつけろ。どうした殺し合いは、情け容赦ない殺し合いは、東の犬同士の殺し合いは……
 ヤポーニャ、サバーカという単語が時折まじる。壁際に居並ぶ囚人たちがこちらを指差し、下劣に笑い合っている。そんなに僕らの殺し合いが面白いか、一方的に嬲られる僕が面白いか?
 くだらない、とるにたらない連中だ。周囲の雑音に惑わされるな、自分の心音だけを聞け。不規則に脈打つ心臓の音が内耳に響き、頭が空白になり、潮が引くように雑音が遠のく。
 僕にはサムライがいる。
 サムライが僕の帰りを待っている。
 その当たり前の事実を自分の胸に確かめ、薄目を開ける。 
 「心配性の友人のもとへ、必ず無事に帰ってくると」
 負けるわけにはいかない、死ぬわけにはいかない。サムライとの約束が守れなくなる。
 僕は絶体絶命の窮地に立たされている。場所は北棟の渡り廊下で、目の前にはレイジがいて、周囲にはサーシャ率いる北の囚人がいる。全員敵だ。僕の味方は誰もいない。
 本当にそうか?
 僕の味方はいないのか?
 「自信過剰だな。今の状況よく見てみろ、お前絶体絶命のピンチじゃんかよ。服はあちこち切り裂かれて素肌が覗いて、そんな格好でサムライんとこ帰ったらナイフで脅されてレイプされましたって言ってるようなもんだ。いや……その前にサムライんとこに帰る気満々でいる神経疑うぜ」
 「楽勝だなんて思っていない。生憎僕はそこまで楽観的じゃないし、どちらかといえば性善説より性悪説を支持する人間だ。君と殺し合いをした場合、僕の勝率は限りなく低い。おそらく3%にも満たないな。こうして追い詰められて手も足もでないのがいい証拠じゃないか」
 「じゃあなんでそんな落ち着いてるんだよ」
 レイジが小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、芝居がかった動作で両手を開く。
 「よーく見まわしてみな、お前の味方なんて誰もいねえ。全員敵だ。ここは俺がトップを張ってた東棟じゃない、残忍かつ冷酷な皇帝サマが治める北棟だ。俺たちは殺し合いをしてるんだ、命がけの芸をさせられてるんだ」
 「だからどうした?」
 口元に不敵な笑みが浮かぶ。
 「……わっかんねーな。その自信と余裕の根拠はなんだよ」
 レイジがあきれ顔で肩を竦める。勝てる見込みも生きて帰れる保証もない、にもかかわらず冷静さを失わない僕が理解できずに戦意喪失したレイジと向き合い、足元へと目を落とす。視線の動きにつられ、レイジも下を向く。
 僕の足の下、遥か下にサムライがいる。今も下水道に潜り、僕の無事を祈り続ける男が。
 僕を信頼して送り出してくれた男が、いつも心配してくれる友人が。
 「友人がいるからだ」
 そうだ、僕には大切な友人がいる。レイジが相手でも負ける気がしない。
 手にしたナイフの存在も忘れ去り、呆然と立ち尽くしたレイジへとゆっくり向き直る。
 「君が捨てた大事なものを、まだ持っているからだ」
 ナイフを持ったのとは逆の手を胸におく。昨日、サムライがそうしたように。
 「ここに」
 今ここにいないサムライの存在を、はっきりと隣に感じる。
 サムライの存在を身近に感じることができる限り、レイジにだって負ける気がしない。
 「………はは、はははは」
 虚勢じみた乾いた哄笑をあげるレイジ。と、その手首がおもむろに跳ねあがり、無造作にナイフを投げ上げる。直上に投げ上げたナイフを逆の手でキャッチし、また元の手へと返す。 
 「ははははははははははははははっ!
  笑えるぜ親殺し、いつからそんな熱くなったんだよ気色悪ィ。俺が捨てた大事な物ってなんだよ、俺は最初から何ひとつだって持っちゃいないんだよ。いまさら失うもんなんかねえよ。『knocking on hevens door』?馬鹿言え、開くもんか。ないものねだりはもうやめだ、自分がむなしくなるだけだ」
 「開く」
 ナイフをもてあそぶのをやめたレイジがうろんげに顔を上げる。怪訝そうに眉をひそめたレイジをまっすぐ見つめる。
 「君が諦めてもロンは諦めない。手が痛くなるまで扉を叩き続ける。君の代わりに、君の分まで叩き続けている。何故だかわかるか」
 不審から困惑へと微妙に変化したレイジの表情をさぐりつつ、残酷な現実をつきつける。
 「『locking on hevens door』……かたくなに扉を閉ざしているのは他の誰でもなく君だ、レイジ」
 「さすが天才、英語の発音も完璧だ」
 ふざけて拍手するレイジに言葉を失う。
 「退屈だ。どうしたサバーカども、殺し合いを続けろ」  
 「OK」
 壁に凭れたサーシャが命令し、レイジが再びナイフを構える。レイジを説得するのは無理なのか?
 ……ならば戦いを続行するしかない。 
 勝ち目のない戦いに臨む決意を新たにした僕のもとへと、低姿勢で疾走するレイジ。僕の頭上へとナイフが振りかざされ、風圧で前髪が泳ぐ。間一髪後ろに退いてことなきをえたが、逃げ遅れた前髪が切断され髪の毛が宙に散った。一瞬の躊躇が命取り、0.3秒反応が遅ければ鼻をそぎ落とされていた。
 恐怖に立ち竦む暇もなく次が来る。床に片膝ついて僕の懐へもぐりこんだレイジが、ナイフを跳ね上げる。僕の下顎を切り裂くつもりだ。
 「!っあ、」
 ナイフで下顎ごと舌を貫かれる恐怖に腰が引け、結果的にそれが僕の命を救った。レイジの舌打ちが聞こえた。僕の腰が泳いだせいで手元が狂い、下顎を貫くはずの切っ先がずれ、眼鏡を弾き飛ばす。
 突如として視界がぼやけた。
 眼鏡が床に落下する音がどこかで聞こえた。眼鏡ー……眼鏡はどこだ?眼鏡がなければ何も見えない、攻撃をよけきれない!床に屈みこみ手探りで眼鏡をさがす僕の頭上に影が覆い被さり、
 押し倒された。
 「はなれろレイジっ、」
 獣のように僕の上体にのしかかっているのはレイジ。僕の肩に両手をかけ、体重をかけて押し倒す。背中に衝撃。盛りあがる歓声。レイジを上からどかそうと手を振りまわし抵抗すれば、手首ごと掴まれ顔の横に叩きつけられる。
 「っう、あ」
 手首の骨が粉砕されたような激痛に苦鳴がもれ、喉が仰け反る。片手で僕の右手を縫い止めたレイジが、顔に顔を近付ける。裸眼の視界が曇ってよく見えないが、睫毛と睫毛が縺れる距離にぼんやりレイジを確認する。床に仰向けに寝転がり無力にもがく僕の上、胴に馬乗りになったレイジが予想外の行動をとる。
 首筋を這う舌の感触。
 「なに、をしてるんだ……!?」
 「味見」
 熱い吐息が耳朶をくすぐる。わけがわからない。まさかこの大観衆の前で、渡り廊下で僕を犯すつもりか?レイジはそこまで狂っているのか?生理的嫌悪が爆発した僕は、レイジを振り落とそうと背中で床を這いずり喚き散らす。
 「即刻僕の上からどけレイジ、僕からはなれろ!気色の悪い真似をするんじゃない、ふざけるのもいい加減に……」
 ぐいと顎を掴まれ、強引に顔を反らされる。僕の顎に手をかけたレイジが、首筋にキスをする。
 「下にサムライがいるんだろ。下水道まで喘ぎ声が届くか試してやろうか?死ぬ気で泣き喚きゃ医務室には届くかもしれないぜ」
 「ロンに知られてもいいのか!?」
 ナイフを持ったのとは逆の手でレイジの顔を引き離しにかかりながら叫べば、失笑の気配が伝わる。 
 「ロンを羨ましがらせてやろうぜ」
 「見ろ。さかりのついたサバーカ二匹、埃まみれの床で縺れあい雄同士で快楽をむさぼっているぞ」
 「いいぞそこだ、ヤッちまえ!」
 「服を剥いで裸にして四つん這いに跪かせろ」
 「ナイフをケツの穴に突っ込んでひんひんよがらせてやれ」
 さかんに交わされる口笛、僕とレイジの絡みに欲情した囚人たちが床を踏み鳴らし騒ぎ立てる。喝采に沸く湧く渡り廊下、埃まみれの床で転げまわり縺れあううちに体力の限界が訪れる。僕の腕力ではレイジをどかせない、このままでは僕の負けだ。サムライとの約束も守れそうにない……
 「っ、あう」
 「感じてんのか?やらしい」
 ナイフを握る指から力が抜けてゆく。熱い唇が首筋を辿り頭に朦朧と霞がかかる。もう何も考えられない、考えたくない。僕の顔が周囲によく見えるよう顎に手をかけ上向かせたレイジが、普段髪に隠され人に見せることも触れられることもない耳の裏側を舐め……

 「バスケを思い出せ」

 え?
 その呟きが、快楽の波にさらわれかけた僕を現実に引き戻す。
 呟いたのはレイジだ。勝利の秘訣を囁くように僕に耳打ちし、上体を起こす。
 今だ。
 手首の拘束が緩んだの幸いに、ナイフを握る手に力をこめる。しなやかな五指を振りほどき、肘を跳ね起こす。服が破ける乾いた音、ギャラリーが息を呑む気配。レイジが僕の上からどいた。床に片膝つき素早く上体を起こし手探りで眼鏡をさがす……
 「メガネ行ったよ!」    
 「!」
 リョウの声だ。
 カチャン、と足元に何かがぶつかる。即座にそれを拾い上げかけ直せば視界が拭われたように明瞭になる。声がした方を振り向けば、野次馬の股の間をくぐりぬけたリョウがいた。ということは、床を滑らして僕に眼鏡を届けたのは彼か。
 悠長に推理してる時間はなかった。
 「ちっ、ドジっちまった。お前の体に夢中で油断してた」 
 正面にレイジがいた。上着の胸元が裂けているのは、僕のナイフが掠めたからだ。反省の色のない顔で笑いながら、レイジが宣言する。
 「まあいいや、お楽しみは後回しだ。そろそろ本気でいくぜ」
 レイジの動向をさぐりながら体勢を立て直す。優位を見せつけるつもりかギャラリーへのサービスか、両手にナイフを投げ渡しつつ僕へと近付いてくる。レイジの両手を見比べ、右から左へ左から右へとめまぐるしく移動するナイフに目を凝らす。極限まで集中力が高まり眉間が疼くが、それでもナイフから目を逸らさず、レイジの両手を見比べる。

 『バスケを思い出せ』
 右から左へと移動するボール。
 左から右へと移動するナイフ。

 ボールをナイフに持ち替えただけだ。そう自己暗示をかければあれほど騒がしかった心臓の鼓動が不思議と沈静化する。数週間前、バスケットボールをプレイしたことを思い出す。レイジと一対一でバスケットボールを奪い合った。レイジは僕が上達したと評価した。
 ボールをナイフに持ち替えただけだ、おそるるにたらない。
 レイジの素早さに動体視力が追いつかない?嘘だ、それは先入観に起因する思いこみだ。レイジの両手に目を凝らせばそれがわかる。今の僕にはレイジの一挙手一投足が把握できる、予め軌道が読める。
 恐怖に目を曇らすな、怯えるな。

 「行くぜ」
 レイジが床を蹴り加速し一気に接近、僕めがけてナイフを振り下ろす。今度は完全にかわすことができた。何日もレイジのお遊びに付き合い遂にはボールの奪取に成功したのだから自信を持て鍵屋崎直、お前は天才だ、一度学んだことを忘れるものか。
 レイジのお遊びに付き合わされ、僕の反射神経は鍛えられ、動体視力は磨かれた。
 「やるじゃんか、」
 バスケを思い出せ。
 レイジが腕を引く。引いたら次は、来る。腕を引くのは投げる合図、次の瞬間には頭を飛び越えたボールが逆の手へと移動する。
 「おなじ手は食わない」
 僕の読み通りレイジの右手首が跳ね上がり、頭上にナイフが舞う。敵の右手に集中すれば、左側に隙ができる。これとおなじ手でさんざんレイジに翻弄されたのだ、おなじ過ちはくりかえさない。
 レイジは確実に隙を狙う。
 左手のナイフをくりだし無防備な左脇腹を、
 「!!!」
 今だ。
 レイジがナイフをキャッチする直前、宙へとさしのべられたその左手を蹴る。レイジの手首がはげしくぶれ、掴みそこねたナイフが大きな放物線を描いて遠方に落下。
 武器をなくし、無防備に立ち尽くしたレイジの顔面めがけ掌中のナイフを振り下ろす―
 「上出来」
 レイジが嬉しげに笑った次の瞬間、僕の手首にまで血が飛び散った。
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