少年プリズン

まさみ

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二百四十三話

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 立ち塞がったのは北のロシア皇帝サーシャ。
 東京プリズンで最も非友好的なトップ、重度の薬物依存症で誇大妄想狂の完璧異常者。 サーカス育ちの暗殺者で凄まじい冴えを見せるナイフの名手。サーシャを形容する言葉には事欠かない。冷酷、残忍、卑劣、悪辣、傲慢……およそありとあらゆる負の形容詞を並べ連ねてもその本質の邪悪さは表現しきれない。美しい銀髪に映えるアイスブルーの瞳は人を寄せ付けない氷点下の冷光を宿し、薬物の過剰摂取で灰褐色に乾燥した肌と妙にちぐはぐな印象を抱かせる。 
 そして、片手には血の滴るナイフ。たった今まで不幸な誰かの肌を切り裂いて血に染めていた証。
 「殺されにきたのか?」
 「違う。サーシャ、君に話があってきたんだ」
 顔色ひとつ変えず問われ、冷静な声音で返す鍵屋崎。物怖じしない態度でサーシャと対峙した鍵屋崎はやや緊張した面持ちをしていたが、鍵屋崎の背中に隠れた僕は正直今にもおしっこちびりそうなくらいびびってた。やばいよやばいよやばいよ、こんなの僕の計画に入ってない。北棟に鍵屋崎を案内したらとっとと逃げ帰る算段だったのに、思わぬ場所で思わぬ人物に出会った衝撃でついうっかり逃げ遅れてしまった。これも全部レイジのせいだと責任転嫁して王様を睨めば、鉄扉によりかかって腕を組んだレイジは謎めいた笑みを浮かべていた。
 だから他棟で長居なんてするもんじゃない。
 好奇心猫を殺す。鍵屋崎をはめるつもりが自分がピンチに陥ってどうする?自分の馬鹿さ加減にあきれ頭の悪さを呪う。パニックに陥って、鍵屋崎の背中にぴったりはりついた僕とサーシャの目が合う。
 一瞥で魂を殺せる氷点下の瞳に、殺意が結晶する。
 「これは珍しい。半年前に私の手を噛んだ無礼者の犬が、皇帝の住居に土足で踏み入るとは……お前はまだ懲りてないのか。そんなに私のナイフの餌食になりたいのか。いいだろう、そこへ跪け赤毛の裏切り者め。お前をナイフの錆にしてやる」 
 淡々と殺人予告をし、ナイフを横薙ぎに払うサーシャ。虚空を切ったナイフか血が飛び散り、鍵屋崎の足元に点々と染みを作る。僕を庇うように、いや違う、サーシャと冷静な話し合いを持つためには僕を視界に入れて逆上させるのは得策ではないと計算した鍵屋崎が慎重に立ち位置を移動する。この期に及んで文句は言えない、鍵屋崎じゃ盾には心もとないけど身を隠す役には立つ。鍵屋崎の肩に両手をのっけて首を竦め、サーシャの視線から顔を守る。そんな僕をよそに、鍵屋崎が口火をきる。
 「用があるのはリョウじゃない、この僕だ。人と話すときはちゃんと目を見ろ。皇帝は礼儀にうるさいと聞いたが、自分の行儀には無頓着なようだな」
 「なに?」
 サーシャを物怖じしない態度で叱りつけ、眼鏡の位置を直す。レイジは隅に退いて傍観者に徹していた。鍵屋崎とサーシャのやりとりに手はおろか口だしする気もないと表明する態度で、面白い見世物でも眺めるように二人を見比べてる。ため息をつき、鍵屋崎が顔を上げる。緊張に汗ばんだ手を開閉し、きちんと顔を上げてサーシャと向き合う鍵屋崎が一回り大きくなった気がした。 
 「僕が今日北棟を訊ねたのは君に話があるからだ。サーシャ、実は折り入って君に相談がある。話せば長くなるが僕は現在、副所長の安田に頼まれて彼の盗難品をさがしている。先々週のペア戦当日、人で混雑した地下停留場で安田は自らの不注意が原因で大事な所持品を紛失した。僕は僕自身の意志で、安田の盗難品さがしを請け負った。一日も早くそれを見つけ出さなければ副所長の地位も危うい、安田は遠からず東京プリズンを追われる羽目になる。なんとしてもその事態だけは防ぎたい」 
 「へえ、安田が落し物?初耳」
 レイジが独り言を呟く。几帳面な安田がらしくもない失態を演じたことを面白がってるような、愉快な響きの声音。そんなレイジを殺気走った目で睨みつけ、サーシャに向き直る。
 「その盗難品を東西南北どの棟の誰が持ってるかは現時点では特定できない状態だ。ヨンイルとホセの協力を得て現在西と南は捜索中、東棟でも聞きこみ調査を続けてる。残るはここ、北棟のみ」
 「だからどうした」
 「君に協力してほしい」
 鍵屋崎が毅然と切り出す。
 「正直東西南北すべての棟をひとりで探索するのは手に余る。一棟の収容人数は千を超え、さまざまな派閥ができている。北棟を探索するためにはトップの協力をとりつけるのが早い。それが最も効率を重視した賢明なやり方だ。北棟で絶大な権力とカリスマ性を誇る君が命令を下せば、北の囚人も従順に……」
 「この私に、偉大なる皇帝に庶民の遊戯に加われと?失せものさがしの愚劣な遊戯に付き合えと?誰に口を聞いているんだ、東の愚民が。身分の程をわきまえ即刻立ち去れ」
 必死の説得にもサーシャは耳を貸さない。片手に下げたナイフから血を滴らせ、冷ややかさを増した眼光で鍵屋崎をねめつける。だが鍵屋崎も負けてはいない。コンクリートの床を踏み、サーシャの眼光に気圧されぬようその場に留まり、しつこく食い下がる。 
 「君の協力が必要なんだ、サーシャ。東西南北の誰が盗難品を隠し持っているが僕にはわからない、何の手がかりも得られてないのが現状だ。もし北の囚人が犯人だとすれば、トップの協力なしに捜査を進めるのは無謀すぎる。君が命令を下せば、北の囚人は忠実な犬のように従うだろう。サーシャ、北における君の影響力は絶大だ。皇帝の一声で、北の囚人は房を改めさせてくれる」
 「お前の言うことは支離滅裂だ。第一、安田の盗難品とはなんだ?実態もわからぬ盗難品を私に捜させるつもりか」
 「それは……、」
 痛いところをつかれ、鍵屋崎がぐっと押し黙る。そりゃ盗難品が銃だなんて言えるわけない。六発弾丸が装填されていつでも人を殺す準備万端の凶器をなくしたことがサーシャにばれれば、瞬く間に噂が広がって安田は東京プリズンにいられなくなる。
 「……それは、今は言えない」
 「言えない?」
 サーシャが剣呑に目を細める。
 氷点下の殺気を身に纏ったサーシャが無造作に鍵屋崎に接近、腕を一閃。銀光を放つナイフが鍵屋崎の横顔に触れる。逃げる暇もない早業で頬にナイフを擬され、鍵屋崎の顔が強張る。
 「言えないとはどういうことだ愚民。皇帝と直接交渉に赴いておきながら肝心の正体については伏せる、そんな人を食った態度で話し合いが成立すると本気で思っているのか?反吐がでるほど自己中心的で楽観的な考え方だ、気に入らん。今この場で不敬罪に問うてもいいのだぞ」
 「……事情があるんだ」
 ナイフの冷たさが頬に染みるのか、硬質な鋼の感触に舌も縮むのか、鍵屋崎がたどたどしく反駁する。鋭利なナイフをつきつけられ、いつ銀光が翻り頚動脈を切り裂いてもおかしくない状況で表面上だけでも冷静さを保っていられるのだから大した度胸だ。たとえそれが虚勢だとしても。
 「……とにかく、大事な物なんだ。それがなければ困るんだ。見つからなければ一大事だ、重大な責任問題に発展する。のみならず、死傷者もでるかもしれない」
 喘ぎながら鍵屋崎が言い、サーシャがうろんげに眉をひそめる。その様子を鉄扉に凭れて見比べていたレイジが、あっさりとクイズの答えを口にする。
 「キーストア。安田のなくし物って、ひょっとして銃か」 
 レイジは馬鹿だ。鍵屋崎の虚勢が瞬間に吹き飛び、レイジ以外の全員が沈黙する。鍵屋崎の頑張りを台無しにしたレイジは、一同の注視を浴び、当惑する。
 「え?だって安田のなくし物で、見つからなけりゃ一大事の責任問題で死傷者がでるって、それ銃しか考えられないだろ。お前ヒントくれすぎ。もうちょっと出し惜しみしろよ、クイズにしても簡単すぎて張り合いねえ……」
 「誰がいつクイズをだしたんだ、だしてもないクイズに勝手に答えるんじゃない!!」
 鍵屋崎が激怒する気持ちはよくわかる。正解を口にしたレイジにしても悪気はなかったんだろう、すさまじい剣幕で怒鳴られて「え?え?俺なんか悪いことした?」と腕組みほどいてたじろいでる。きょろきょろあたりを見まわして動揺するレイジから鍵屋崎へと視線を転じ、サーシャが低く呟く。
 「……なるほど、銃か。たしかに、人には口外できないなくし物だ。東京プリズンではとくに」
 サーシャの独白に生唾を嚥下する鍵屋崎。肩にかけた手から緊張が伝わってくる。鍵屋崎の背中に隠れた僕は、上目遣いにサーシャの表情をさぐる。人の顔色を窺うのは得意だ。僕は外でもここでもずっと人の顔色を窺って生きてきたから、目の表情だけでサーシャが何を考えてるのかわかる。
 疑心から理解へ、そして策謀へ。
 何かよからぬことを閃いたらしいサーシャが、ゆっくりと緩慢な動作で片手をおろし、鍵屋崎の頬からナイフをどかす。頬からナイフの重圧が取り除かれ、鍵屋崎が安堵の吐息をもらす。
 が、それも束の間。薄い唇が割れ、爬虫類めいて残忍な笑みを刻んだのは危険な兆候。人をいたぶることにかけて天才的な才能を発揮する、真性のサディストの笑顔。
 低温の笑みを口元に漂わせたサーシャがナイフを掌中で回転させ、意味ありげな目つきで鍵屋崎とレイジとを見比べる。
 よからぬことを思いついた蛇の笑顔。
 「……安田がどうなろうが知ったことではない」
 上半身裸で鉄扉に凭れたレイジと廊下に佇んだ鍵屋崎とを視線で行き来しながら、うっそりと呟く。
 その間も血にまみれたナイフを弄び、眼光を研ぐ。
 「あの男が身を滅ぼそうがどうなろうか知ったことか、私には関心がない。偉大なる皇帝は世俗の些事には一切関知せず玉座の高見から下々の悲喜劇を眺めるものだ。劣等人種の分際で気取った副所長が、銃を紛失した咎で吊るし上げられた挙句に東京プリズンを追われるならこれほど滑稽な劇もないな」
 「……っ、」
 失職の危機に直面した安田の現状を嘲られ、今も銃さがしに必死になってる自分を蔑まれる屈辱に顔が歪む。悔しげに唇を噛み締め、自制心を総動員し怒りをこらえた鍵屋崎と対峙したサーシャは笑っていた。そのプライドの高さから屈辱に歪んだ顔を覗かれるのをよしとせず、強情に俯いた鍵屋崎を無遠慮な視線で嬲り、嗜虐心を満たした皇帝が提案する。
 「だが、皇帝は寛容だ。私と直接交渉すべく後ろ盾もなく北棟に乗りこんだ無謀ともいえる行為、蛮勇紙一重の愚行、その勇気に免じて今回は特別に頼みを聞いてやる」
 マジで?
 耳を疑った。ついでにサーシャの正気も疑った。
 鍵屋崎を案内してきてなんだけど、予想外の展開だ。驚愕を通り越した放心状態で僕はあんぐり口を開ける。鍵屋崎も驚きを禁じえず、眼鏡越しの目を見開いてサーシャを凝視してる。サーシャに「頼みを聞いてやる」と言われても単純に喜べないのは、その変わり身の早さを疑ってるかららしい。半年前、監視塔の一件でサーシャがいかに卑劣で残虐な男か鍵屋崎は身をもって学んだ。瞼の傷と引き換えに痛みを伴う教訓を得た。レイジに対する激烈な殺意と強烈な憎悪を糧に執念深く作戦を練り、手下を配置し、ロンを拉致し、レイジを王座から引きずり下ろすべく行動にでた。そんな男が、意外にもあっさりと、不自然すぎるくらいあっけなく鍵屋崎への協力を申し出たのだ。
 裏に絶対なにかある。
 「ただひとつ、条件がある」
 手のひらを返すように態度を変えたサーシャに不審を抱きつつも、一抹の期待をこめ、眼鏡越しの目を輝かせる鍵屋崎。そんな鍵屋崎とは対照的に、不吉な予感に胸高鳴る僕。
 「条件?」
 鸚鵡返しにくり返す鍵屋崎の耳元に口を近付け、囁く。
 「メガネくん、しっかりしなって。サーシャの条件なんてろくでもないことに決まってる、のせられたらまた痛い目見るよ」
 「君は黙っていろ、これはサーシャと僕の問題だ。サーシャの交渉相手は僕だ」
 聞こえよがしに舌打ちする。人が親切心からアドバイスしてやったのに何てヤツだ。サーシャへの不信感は拭い去れないが、銃の手がかりが何ひとつ掴めず、捜査が行き詰まった現状に追い詰められた鍵屋崎はサーシャの返答に一縷の望みを託している。溺れる者が藁をも掴む切迫した一念で、サーシャに切実に訴えかける。
 「その条件さえ飲めば、捜査に協力してくれるんだな。北棟をさがしてくれるんだな」
 「ああ」
 「条件とはなんだ」
 アイスブルーの瞳の魔力に魅入られ、熱に浮かされたように興奮した面持ちで畳みかける。人間の目を曇らせるのは絶望よりむしろ希望だ、と言った偉い人は誰だったっけ。冷静になりなよ親殺し、と上着の背中を引っ張っれば邪険に振り払われる。前言撤回、こいつ天才じゃなくてただの馬鹿だ。安田を救いたい一念でまわりが見えなくなってる。サーシャの雰囲気が変わったことにも廊下の気温が低下したことにもレイジの目が据わったことにも気付かず、愚直に思いつめた眼差しでサーシャに詰め寄る。
 「鍵屋崎、」
 我慢できずレイジが口を開く。ここ数日間サーシャと過ごした成果か、抜群の嗅覚が成せるわざか、サーシャの変化を敏感に感じ取ったレイジが鉄扉から背中を起こす。王様もお人よしだ。自分を言いたい放題罵った親殺しなんか放っときゃいいのにそれができない甘さが命取り。キーストアなんて変なあだ名じゃなく、鍵屋崎って呼んだのはそれだけレイジが真剣になってる証拠だってのに肝心の鍵屋崎はそれに気付きもしない。
 これは、本格的にやばい。
 胸の動機が速まり異常に喉が乾き、鍵屋崎の肩を掴んだ手が強張る。こんな展開予想してない、不測の事態だ。僕はただの案内役なのに、トラブルに巻き込まれちゃたまらない。今すぐ鍵屋崎を放り出して逃げるんだ、それが一番賢いやり方だ。頭じゃわかってるのに棒立ちに竦んで足が言うこと聞かない。 
 「簡単な条件だ」
 氷河の瞳をした皇帝が冷笑する。
 サーシャの笑顔を見た途端背筋に戦慄が走る。とても人間が浮かべてるとは思えない笑顔。レイジの笑顔が虚無の奈落なら、サーシャの笑顔は悪意の吹き溜まり。目にした者すべてをとりこみ破滅へ導く……
 カチャン、と軽い音がした。
 鍵屋崎の足元に投げられたのは一本のナイフ。全員の視線がそのナイフへと集中する。
 「……?」
 不審顔の鍵屋崎の後ろで、僕は悪夢が現実をむしばんでゆくさまをじっと見ていた。凝った模様を柄に施されたナイフは殺傷の武器というより高価な装飾品に見えたが、銀光を放つ刃は十分に鋭利で、悪戯に指をふれればざっくり切れそうだ。 
 カチャン。また軽い音がする。今度はレイジの足元で。
 レイジの足元に投げられたのはもう一本のナイフ。鍵屋崎に投げ与えられた物とおなじ、柄に凝った紋様のある値の張りそうなナイフ。大振りの刃の先端は鋭利に尖っている。
 『条件は簡単だ』 
 そう言ってサーシャは微笑み、レイジと鍵屋崎にナイフを一本ずつ投げ与えた。犬に餌を投げ与えて芸を仕込むような動作だった。サーシャの行動の真意が、僕にはすぐさまわかってしまった。サーシャのヤツ完璧いかれてる、完全に頭がおかしい。
 狂ってる。
 そして皇帝は、芝居がかった動作で腕を広げる。
 不審顔の鍵屋崎とレイジとを見比べ、この上なくこの上なく愉快げに声なき哄笑をあげ。

 「殺し合え」
 鍵屋崎とレイジに殺し合えと、サーシャは宣言した。
 それが条件だと、鍵屋崎に言った。  

 「…………な、」
 沈黙は長かった。
 さすがの鍵屋崎も狼狽を隠せない。顔色は青褪めていた。無理もない。ついこないだまで食堂で馬鹿やって騒ぎ合ってたレイジと、東京プリズン最強の称号を持つ男と、無敵な王様と殺しあえと強要されて心の準備ができるはずもない。ほらだから言ったじゃん、ろくでもないことに決まってるって。人の言うこと聞かないからだよ、なんていまさらぼやいても遅い。
 「なにを言ってるんだ。何故そんな意味もない、」
 「意味ならある。私が楽しいからだ」
 喘ぐように反駁した鍵屋崎にサーシャが微笑みかける。
 「私はナイフで人肌を切り裂くのが好きだ。血潮のぬくもりに愉悦を感じ鉄錆びた血臭に甘美に酔い痴れる。たった今も秘密の部屋で、北の人間を嬲ってきたところだ。昨日、食堂で私の足を踏んだ無礼者がいた。よりにもよって気高き皇帝の御足を踏みつけにした愚劣で愚鈍な男がいた。私はその男をさる房に監禁し、思う存分嬲ってきた。とてもとても楽しかった、最高だった。今もまだ耳には断末魔の悲鳴がこびりついている、今もまだ目には苦痛に歪む顔が焼きついてる」
 サーシャは正真正銘の異常者だ。僕らと会う直前まで拷問部屋に監禁した囚人を嬲っていたと、ナイフを体に這わせ肌を切り裂き性的興奮をおぼえていたと威風堂々明言してはばからない。サーシャのナイフをぬらしていたあの血は、ただ足を踏ん付けたという理由で拷問部屋に捕らえられ慰み者にされた不運な囚人のものだった。
 コンクリ床に穿たれた血痕を見下ろし、ぞっとする。
 拷問部屋に連れこまれた囚人がその後どうなったのか想像したくもない。
 おそらく、正気は保っていられないだろう。
 サーシャの提案を蹴れば、僕らもまた同じ運命にある。拷問部屋で断末魔の絶叫をあげた囚人とおなじ末路を辿ることになる。僕らはもう引き返せないところまで来てしまったのだ、と絶望的に確信する。
 重苦しく黙り込んだ僕をよそに、サーシャの演説は続く。
 狂気に恍惚とぬれた目をして、病的に殺げた頬に血の色を上らせ、大仰な身振り手振りをまじえて。
 「ナイフで肌を裂かれた人間の苦痛に満ち満ちた絶叫、灼熱の血潮と激痛に歪む顔。これほど素晴らしいものは世の中にない。そうは思わないか?私の高尚なる嗜好が凡百の愚民に理解されないのは無理からぬことだが、たまには趣向を変えてみるのもいいだろう。さあ、ナイフを手にとり戦え。思う存分殺し合え。私の渇望を満たしてくれ」
 「狂ってる。君がいるべき場所はおなじ檻の中でも刑務所じゃなく精神病院だ」
 「言いたいことはそれだけか」
 「くだらねえおふざけはやめようぜサーシャ。今ここでコイツと殺しあって、廊下を血に染めて何の得があるよ?壁と床と天井に前衛的なアートを描きだす気か。ピカソも真っ青だな」
 鍵屋崎が顔面蒼白で吐き捨て、レイジがやる気なさそうに肩を竦める。
 だが皇帝の意向は変わらない。
 廊下の真ん中に立ち竦んだ鍵屋崎と後ろに隠れた僕とをねめつけ、優位を誇示するように両手を開く。
 「愚民に選択権はない。生きて帰りたいなら命令に従え、実力で私の歓心を勝ち取れ。お前が勝てば条件を飲もうではないか、快く銃の捜索に協力しようではないか」
 鍵屋崎の目に逡巡の色が浮かぶ。 
 サーシャの手を借りれなければ、北棟の探索は絶望的。安田を救うためにはどうしてもサーシャの手を借りなければならない。廊下に立ったサーシャがレイジに流し目を送る。
 肌と肌を重ねすべてを貪欲に知り尽くした者同士にだけ通じる合図。
 もしくは飼い犬に芸を強制するような、有無を言わさぬ脅迫。 
 「お前も私の犬になったのだから、寝台での遊戯以外に芸を見せてみろ。それとも所詮犬は犬、淫売の血が流れる下賎な私生児には無理な注文か。監視塔で私を跪かせたナイフの冴えはどうした、たった半年で腕が鈍ってしまったのか?芸無しの犬だな。本当に使えない。そんな役立たずの犬は全裸で鎖に繋いで飼い殺しにすべきだな」
 『………fack.』
 舌打ちし、中腰に姿勢を屈め、レイジがナイフを手に取る。レイジとサーシャの間にははっきりした上下関係ができていた。今のレイジはサーシャに逆らえない。一度組み敷かれた王様は、皇帝に反逆できない。
 従順なレイジに満足げに目を細め、鍵屋崎へと向き直るサーシャ。
 鍵屋崎はまだ迷っていたが、目を閉じて心を落ち着かせ、その場に屈みこむ。迷いながらもナイフへと手をのばし、震える指で柄を握り締め、立ち上がる。
 「……わかった、条件をのむ。どのみちここから生きて帰るにはそれしか方法がない」
 指の震えをごまかすように強く強くナイフを握り締め、鍵屋崎が決断を下す。
 殺し合いのはじまりだ。
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