少年プリズン

まさみ

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二百四十一話

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 『Do cat eat bat,do bat eat cat』
 書架に寄りかかり、不思議の国のアリスの一節を復唱する。
 ルイス・キャロル作の名作童話不思議の国のアリスは僕のお気に入りの一冊、小さい頃からママが読み聞かせてくれたお気に入りの本。アパートにあった本は何回も何回も手垢がつくまで読み返したから、作中に登場する詩もそらで口ずさめる。
 蝙蝠は猫を食べるか、猫は蝙蝠を食べるか。
 日本語じゃ意味不明の一文だけど英語でくりかえしてみると小気味よく韻を踏んでることがわかる。ドゥ・キャット・イット・バット、ドゥ・バット・イット・キャット……書架に背中を凭せてくりかえし口ずさんでいると懐かしい記憶が甦る。ママの膝の上で、ママのぬくもりを感じながら絵本を読んだ子供の頃の記憶。六歳の時から小遣い稼ぎに体を売ってた僕にもそんな無邪気で平和な子供時代があったのだ。
 ロング・タイム・アゴ―のお話。
 ああ、早く外に出たい。早く外にでてママに会いたい、「リョウちゃん会いたかった」って頬ずりして抱きしめてほしい。それだけを楽しみに僕は生きてる。希望なんて転がってない東京プリズンでも夢を見るのは個人の自由で僕の勝手だ。もし生きてここを出られたら僕は真っ先にママに会いに行く、ママに抱きしめてもらいにいく。新しい恋人なんて知るもんか。僕にはママだけで十分、ママには僕だけで十分。子供の頃からずっとママと二人支え合って慰め合って生きてきたんだ、僕とママの間に他人がもぐりこむ余地なんてない。ママはものすごい寂しがり屋だから人肌恋しくなればすぐ男と寝ちゃうけど、僕が帰ってくれば他の男にあたためてもらう必要なんかない。子供の頃みたいに小さなベッドでママとふたり寄り添いあって眠ればきっともう悪夢も見ない、ママは他の男のところになんかいかない。ずっと僕のそばにいてくれる。
 それにしても、あいつ遅いな。
 書架から背中を起こし、あたりを見まわす。せっかく強制労働をズル休みして鍵屋崎の予定に付き合ってやったのに、肝心の本人がさっぱり姿を見せない。何様のつもりだあいつ。僕が早く来すぎたのかもしれないけど、閑散とした書架の片隅で絵本を閲覧し、時間を潰すのにも飽きてきた。生あくびを噛み殺し、不思議の国のアリスの絵本を書架に戻す。昼間の図書室はさすがにしずかだ。強制労働終了後の自由時間には一回の閲覧机を占領し、下ネタとばして騒ぎまくる連中で活気づく図書室も、一部の例外を除いて大半の囚人が出払った今はしんとしてる。
 今日ここに来ることをビバリーには当然知らせなかった。ビバリーはお人よしだから、今でも鍵屋崎が必死に銃をさがしてることを知れば真相を明かさずにいられなくなる。そんなのつまんない。鍵屋崎の勘違いを訂正する必要なんてない、鍵屋崎はこれから実際にはありもしない銃の手がかりを求めて北棟に行く。そしてサーシャに八つ裂きにされる、もしくは北の連中につかまり嬲り者にされる。
 そっちのほうがずっと面白いじゃないか。
 ビバリーのお節介で僕のお楽しみを邪魔されたくない、計画を狂わされたくない。だから真相は伏せとく、馬鹿な天才には永遠に勘違いさせたままでおけばいい。ここじゃ自分の勘違いが原因で身を滅ぼしたところで誰も同情なんかしてくれないし、こぞって笑い者にされるのがオチだ。
 いい気味。
 「ドゥ・キャット・イット・バッ……あ、きた」
 鍵屋崎は一階にいた。等間隔に配置された書架の間を練り歩き、本を捜していたらしい。片手に本を抱いた鍵屋崎が二階の手摺から身を乗り出した僕に目をとめる。
 「二階にいたのか。どうりで気付かないわけだ、紛らわしい」
 「待ち合わせ場所は指定したけど階までは指定しなかったもんね」
 東京プリズンの図書室は無駄に広い。三階まで吹き抜けの広壮な空間のどこに鍵屋崎がいるかなんてぱっと見わかるわけがない、お互い違う階にいたんじゃなおさらだ。スキップするように軽快な足取りで階段を降り、床に着地。身軽に一階に降り立った僕をよそに、カウンターで図書を帯出する手続きを済ました鍵屋崎がこちらに向き直る。
 「約束通り来たが、君はいいのか」
 「うん?」
 「強制労働を休んで支障はないのか」
 ああ、そのことか。不審顔の鍵屋崎に意味深な笑みを覗かせ、唄うように言う。
 「お休み一回、フェラチオ一回」
 「なに?」
 鍵屋崎が上品に眉をひそめる。売春班にいたんだしまさかフェラチオ知らないってオチはないだろうけど、親切に説明してやる。
 「僕は温室担当の看守に贔屓されてるんだ。僕がおねがいすればズル休みも見逃してくれる、他の囚人とちがって特別扱いしてくれる。男娼で磨いたテクが役に立つ一例さ」
 頭の後ろで手を組み悪戯っぽく微笑めば、僕の説明に納得した鍵屋崎が嫌悪もあらわに僕から距離をとる。勝った、その顔が見たかったんだ。実際僕は温室担当の看守に贔屓されてる。温室担当の曽根崎は恐妻家の少年愛好者で、前も僕の体と引き換えにサムライの過去を教えてくれた……わけだけどそれは伏せて、話題をかえる。
 「ねえ、なんかおかしくない?昼間図書室来たことないからよくわかんないけど、今日静かすぎない?図書室のヌシはどこ行ったのさ、漫画に熱中して城にこもりきり?」 
 西の道化ことヨンイルなら、白昼堂々図書室で漫画を読み耽ってるはずなのに今日はどこにも姿が見えない。書架を漁って漫画を物色してる姿もないなんて様子がおかしいと不審がれば、何てことないというように鍵屋崎が答える。
 「ヨンイルはここにはいない。現在出張中だ」
 「図書室のヌシが出張?」
 変なことを言う。あ然とした僕にそれ以上の説明は省き、鍵屋崎がくるりと踵を返す。北棟に行く気満々ってわけか……て、待てよ。
 「ちょっとメガネくん、本持ったままサーシャに会いにいくわけ。失礼だよそれ、皇帝に首はねられても知らないよ。サーシャのヤツ、下々の礼儀にうるさいから」
 「勘違いするな、これは僕が読むんじゃない」
 「?」
 わけわからないと疑問符を顔に浮かべた僕の視線の先、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、鍵屋崎が言う。
 「北棟に行く前に寄りたいところがあるんだ」
 
 鍵屋崎が寄りたいところは医務室だった。
 「なんでこんなとこに。どっか怪我してるの。それとも視力検査にでもきたの」
 「黙ってろ」
 僕の軽口をそっけなく一蹴し、軽くノックして入室許可を得てから扉を開ける。先に入室した鍵屋崎に続いて医務室へ踏みこむ。入ってすぐのところに机があり、皮張りの椅子があり、眠たそうな顔をした初老の医師が腰掛けていた。 
 「また君かね」
 「また僕だ。悪いか」
 どうやら顔見知りらしく、鍵屋崎の物言いは遠慮ない。まあ鍵屋崎はだれにでもこんなかんじだけど。
 医師に目配せした鍵屋崎が、奥へと足を進める。鍵屋崎に続こうかその場に留まろうか躊躇した僕と医師の目が合う。カルテに記入する手をとめて僕に向き直った医師が首を傾げる。
 「君も見舞いにきたのか」
 「僕『も』?」
 僕も、ってことは鍵屋崎も?
 「違うのかね?あの眼鏡の少年、態度は傲慢で物言いはそっけないがなかなかどうして面倒見のよい性格をしている。ロンと言ったか……肋骨を折ってここに運び込まれた少年を心配して、二日に一度は見舞いにきて暇を持て余した患者の話し相手になってやっておる」
 「へえ」
 新事実発覚だ。あの冷淡でとっつきにくい鍵屋崎が、お高くとまった鍵屋崎が、肋骨折って入院中のロンのために足しげく見舞いに通ってるなんて。ロン対凱の試合以来、ぱったり消息絶ってしまった王様よりよっぽど情に厚くて面倒見がいいじゃないか。初期の鍵屋崎を思い出し、人間変われば変わるものだとおかしくなる。僕の笑みを好意的に解釈した医師が、皺深い顔を綻ばせる。
 「彼が入院してから医務室もずいぶんと賑やかになったものだ。眼鏡の少年に、漫画好きの少年に、七三分けの少年に……いや、あれは青年か?見た目は老けているが、東京プリズンに収監されてるということは一応十代の未成年なのか?しかし左手薬指に指輪をはめていた、ということは既婚者……」
 何かぶつぶつ呟き始めた医師に背を向け、鍵屋崎を追う。医師の独り言はボケの兆候だからほっとこう。医務室の奥には等間隔のベッドが並んでいた。カーテンの衝立で仕切られたベッドのひとつから賑やかな声がもれてくる。カーテンを開け、中を覗きこむ。
 ベッドを取り囲だ全員が一斉に振り向く。
 「おお、赤毛。またの名をユニコ誘拐犯」
 西の道化ことヨンイルと、
 「いやはや、歓迎します。人数が多ければ多いほどお見舞いには賑やかになります、さあどうぞ適当に腰掛けて、といいたいところですが既に椅子はふさがってるので恐縮ですがそのへんに突っ立っていてください」
 南の隠者ことホセと、
 「お前まで何の用だよ。ベッドから動けずにこいつらのおもちゃになってる俺笑いにきたのか」
 ベッドに上体を起こして不機嫌なロンと、
 「………」
 鍵屋崎。
 「つーかこれみんなロンの見舞い客?大人気じゃん」
 しかもうち二人は南と西のトップだ。東棟じゃ嫌われ者で肩身狭い思いしてる半々も南と西のトップに目をかけられてるのは心強い。VIP二人を交え、ロンのベッドの周囲は盛り上がっていた。ベッドの周辺の床には乱雑に漫画が積み上げられて足の踏み場もないほどだ。これ全部ヨンイルが持ちこんだ本だろう。
 「なるほど、出張ってそういう意味」
 「入院中でベッドにしばりつけられとるコイツのために大量の漫画持ちこんだんや。ちょっとばかしちらかっとるけど医師も大目に見てくれるやろ」
 「吾輩もロンくんのコーチとして怪我の具合が心配で、こうしてたびたび様子を見にきてるんです。で、どうですかロンくん骨折の具合は。昨晩の一件で傷口がまた開いたのではないかと吾輩どきどきひやひやして」
 「奇跡的に生きてる」
 ロンの返事はつれない。膝の上に広げた漫画から顔も上げずホセに答えるが、よく見ればその足首や手首には真新しい包帯が巻かれていた。昨晩タジマに襲われて傷口がまた開いたせいだろう。ベッドのパイプに背中を凭せて漫画のページをめくりながら、ついとロンが視線を滑らす。
 「鍵屋崎、こいつらどっか連れてってくれ。うるさくて迷惑だ」
 「なんてことぬかすんやお前、俺が全二百冊の漫画医務室に持ちこむのにどんだけ苦労したと」「ロンくん薄情ですよ、吾輩コーチとして君のリング復帰を心より願いこうして足を運んでいるのに」とヨンイルとホセが口々に抗議するのを無視し、うんざりと鍵屋崎に懇願するロン。
 その膝の上に、一冊の本がおかれる。
 「?」
 膝の上から漫画をどかし、あらたにおかれた本へと目を落とすロン。ロンの膝の上に本を置いたのは、それまで沈黙を守っていた鍵屋崎だ。
 「なんだこれ」
 「退屈してるだろうと思って本を持ってきてやった。漫画ばかり読んでいると知力が低下する、これは僕おすすめの哲学書だ。未完の名著、ハイデガーの『存在と時間』。当初構想された3分の1しか書かれていないが内容は厚くなかなか斬新な視点が提示されている。何故ハイデガーは挫折したのか、これより先の空白部分には何が書かれる予定だったのか想像するのも一興……」
 「謝謝、要らない」
 「特別に貸してやる。感謝しろ」
 「気持ちだけもらっとく」
 「本体も受け取れ」
 「要らねえ」
 「漫画ばかり読んでると馬鹿になるぞ。たまには難解な哲学書を読んで知的好奇心を充足させ学究意欲向上をはかったらどうだ?知識と教養を脳に詰めこむだけ詰めこんでおけば社会にでたとき役に立つぞ」
 どうやら鍵屋崎は、運動を制限され暇を持て余したロンのためにおすすめの一冊を貸そうとしてるらしい。それも表紙めくっただけで眠くなりそうな難解な哲学書。ロンはいい迷惑だ。しばらく鍵屋崎と要る要らないと押し問答していたが遂に堪忍袋の緒が切れ、両手に抱いた本をあらぬ方向に投げ飛ばす。
 「字のある本読むと眠くなる体質なんだよ俺は!」
 「ロンくん、折角のご好意を無駄にするのは感心しません。借りた本には目を通すのが礼儀、届いたラブレターには返事を書くのが礼儀というのが吾輩とワイフの見解の一致。たとえどんなにつまらなくとも難解でも眠い目擦って全ページ読破して、最低二百字以内で感想を伝えるのが人として正しい在り方かと」 
 「こんな本よか寄生獣がよっぽど哲学してるけどなー」と、本をキャッチしたヨンイルがけらけら笑う。その手から本を奪い返し、有無を言わさぬ笑顔でロンへと押しつけるホセ。ホセの笑顔には問答無用の迫力があって、ロンもつい気圧されて両手で受け取ってしまった。押しに弱いヤツだ。
 「図書室から借りた本だから大事に扱え。間違ってもヨダレの染みなんかつけるなよ」
 「図書室から借りた本ひとに貸すなよ」
 ロンのつっこみには聞く耳もたず、用を終えた鍵屋崎がさっさと立ち去ろうとする。その背中にロンが「あ」と声をかける。カーテンを引き出ていきかけた鍵屋崎が、制止の声に反応して振り向く。ベッドに上体を起こしたロンがためらいがちに俯き、視線を揺らす。呼びとめはしたものの、続く言葉を口にしようかどうしようか逡巡してるらしい。
 一同の視線がロンへと集中する。
 パイプに背中を凭せ掛けたロンが、気まずげに呟く。
 「……その。レイジ、どうしてる?」
 鍵屋崎の目に複雑な色がよぎる。どう答えたものか一瞬躊躇し、そして鍵屋崎は真実を言う。
 「知らない。ここ最近レイジとは会ってない」 
 「え?会ってないってどういう、」
 「東棟で姿を見てないということだ。どこにいるのか見当もつかない。食堂にも姿を現さない、廊下を出歩いてるところも見ない、図書室にもいない。世に言う行方不明だな」
 淡々と告げる鍵屋崎に、無意識に毛布を掴んだロンが絶句する。無理もない。自分の見舞いにもこない薄情な王様が今どうしてるかと勇気を振り絞り聞いてみれば本人は行方不明だという。ここ数日、東棟の誰も姿を見てないという。続く言葉を喪失し、むなしく口を開閉するロンを痛ましげな面持ちで見つめる鍵屋崎。ヨンイルとホセもレイジの行方は知らないのか、お互い顔を見合わせている。 
 「行方不明って……だってあいつ、どこにいるんだよ。東棟のトップが行方不明とか、そんないい加減でいいのかよ。次のペア戦まで間がないのに、あと少しで100人抜きできる大事な時期に自分勝手に行方くらまして、アイツ何考えてんだよ!?」
 「大きな声をだすと怪我に響くぞ」
 鍵屋崎がひややかに指摘するが、ロンの激昂はおさまらない。何かをこらえるように唇を噛み締め、毛布を両手に握り締めて俯く。そんなロンの様子を直視するのに耐えかねたか、言い訳がましく付け加える。
 「……心配することはない。レイジは発情期の猫並に節操がなく神出鬼没な男だ、ふらりといなくなったかたと思えばふらりと姿を現すのが常だ。じきにまた戻ってくる、何事もなかったようにしれっとした顔をして君のもとを訪ねるに決まってる。僕が断言するんだ、間違いない。天才を信じろ」
 優しく残酷な嘘をつき、今度こそ本当に鍵屋崎が踵を返す。鍵屋崎は鍵屋崎なりにロンを励まそうと一生懸命なのだ。でも、レイジがロンを見捨てた事実は変わらない。入院中のロンを放り出して自分勝手に行方をくらました事実は変わらないのだ。ロンの横顔は固く強張り、噛み締めた唇からは血の気が失せていた。レイジにとって自分がどうでもいい存在だと思い知らされ、その事実の重さに打ちのめされた痛々しい横顔。
 「……体がちゃんと動けば、殴ってやりてえよ」 
 手のひらをこぶしに握り締め、ロンが吐き捨てる。レイジがどこにいるかもわからないのに、そのレイジを力一杯ぶん殴りたいと言うロンに背中を向け、鍵屋崎が外へ出る。鍵屋崎に続き、僕もカーテンを抜ける。  
 「用は済んだ。北棟へ行こう」
 鍵屋崎が事務的に言い、さすがの僕も眉をひそめる。
 「いいの?ほうっといて」
 「ロンのそばにいるべき人間は僕じゃない。これ以上医務室にいても無意味だ」
 「おっしゃるとおりで」
 おどけて首を竦めれば、すっぱり感傷を切り捨てた鍵屋崎が足早にドアへ向かう。もう背後を振り返りもしなかった、ロンが真の意味で必要としてるのは自分じゃないと痛いほどよくわかってしまったからそうするしかなかった。鍵屋崎の背中を追いかけて医務室をでる間際、カーテンの向こう側からロンの呟きが聞こえてきた。
 「レイジのやつ、どこ行ったんだよ」
 自分だってぼろぼろなのに、純粋にレイジを心配してるような切迫した声だった。

 中央棟からは東西南北各棟へ渡り廊下が接続されてる。
 東西南北四つの棟を直接つなぐ渡り廊下は抗争の激化に伴い封鎖されて久しいが、中央棟を経れば誰でも自由に棟と棟とを行き来できると、建前ではそういうことになっている。他棟への出入りは規則で禁じられてるわけでもなし、本来なら誰でも自由に好きな時に他棟へ足を踏み入れていいはずなのだ。 
 だが、東京プリズンの囚人はそれをしない。答えは簡単、単純に命が惜しいからだ。
 なんの後ろ盾もなく他棟へ足を踏み入れるのは自殺行為、それが東京プリズンの常識で暗黙の掟。他棟へ足を踏み入れたら最後五体満足で帰ってこられる保証がないというのが通説だ。
 「君はよく無事に帰ってこれたな。片腕くらいは失ってもおかしくないのに、」
 隣を歩く鍵屋崎がいぶかしむ。
 「そりゃサーシャが隣にいたからだよ。半年前までサーシャは僕の常連だった。僕はサーシャのお気に入りで、サーシャが自分の房でヤりたいって言うならはいそうですかってついてった。もちろん送り迎えは万全、北の連中が僕に手だししないようにサーシャとその手下が目を光らせてくれたから無事生きて帰ってこれたわけだけど」
 そこで言葉をきり、二の腕を抱くふりをする。
 「正直、探検気分で北棟に行くのはぞっとしないね。偉大なる皇帝のご加護がなけりゃ僕なんて北の連中に犯られて殺られてポイされてたよ。他棟のヤツってのはパッと見ただけでわかるのさ。知らない顔だな、見たことないやつがいるぞ、なんだか雰囲気がちがうぞ。そんだけで敵愾心むきだしにした連中がうじゃうじゃ寄ってきて、気付いたら後にも引けず前にも進めない絶体絶命のピンチ」
 鍵屋崎は素直に首肯しながら僕の話を聞いていた。今僕と鍵屋崎は中央棟から北へと繋がる渡り廊下を歩いてる。渡り廊下は荒廃していた。蛍光灯が割れてるせいで全体に薄暗く、コンクリート壁には陰惨な染みが浮き出てる。不気味な雰囲気が漂う渡り廊下を見まわし、ついでに北棟の特徴について説明する。 
 「東京プリズン入所からまだ半年っきゃたってない眼鏡くんに教えたげる。東京プリズンには東西南北四つの棟があり四人のトップがいる。その中のひとつが北棟、トップのサーシャはロシア出身の誇大妄想狂。完璧頭がイカレてて、自分のことを偉大なるロシア皇帝だと思いこんでるナイフの名人。性格は最も冷酷かつ残忍で、ブラックワーク覇者のレイジを敵視してる……って、これは当然知ってるね」
 「半年前に学習済みだ。説明の重複は時間の無駄だ」
 「うわむかつく。それはそうと北棟についてただけど、北の人間は大部分白人。白人といってもおもにロシア人。二十一世紀になって、経済破綻したロシアから北海道へ大量の人間が移り住んできたのは有名な話だよね。最初北海道に上陸したロシア人はそっから日本中へ広がってったわけだけど、北棟にいるのはほとんどその子孫のロシア系二世三世。だからまあ、ロシア人至上主義を唱えるサーシャの影響力は絶大なわけよ。北棟じゃ有色人種は人間扱いされてないね、実際」
 僕もくわしいこと知ってるわけじゃないけど、ロシア人至上主義のサーシャにしてみりゃ有色人種の血を引く人間なんて犬も同然だ。白人と黄色人種の混血のくせに自分を追い抜いてブラックワークトップに君臨してたレイジを目の敵にしてたのはそういうワケで、ラテンのノリで騒がしい南棟やざっくばらんな西棟と比べて北棟は殺伐としてる。
 「こんな噂もあるんだよ。北棟には拷問部屋があるって」
 「拷問部屋?」
 物騒な発言に関心を示した鍵屋崎にしてやったりと笑みを浮かべる。 
 「そ、拷問部屋。サーシャを侮辱したり、皇帝に不敬なことをやらかした囚人をサーシャが罰する部屋。リンチだか自殺だかで囚人が死んで空きができた房を利用してるみたいだけど、サーシャが思う存分ナイフで獲物をいたぶるために特別に誂えた部屋があるらしいって噂がまことしやかに流れてる」
 「実際に見たのか?偽証してるんじゃないだろうな」 
 「心外だね」
 鍵屋崎を騙してるのは本当だけど、これはかなり信憑性の高い噂だ。この噂が真実だとすれば、北棟の空気がやけに血生臭いのにも納得いく。そうこうしてたら渡り廊下の終点に辿り着いた。境界線を踏み越えればいよいよ北棟だ。やや緊張した面持ちの鍵屋崎の隣で深呼吸する。はは、足が震えてら。鍵屋崎をここまで導いてきた僕も完全には恐怖心を克服できてないらしい。
 床を蹴りつけ、足の震えをごまかし、あっさりと境界線をまたぐ。渡り廊下から北棟へと足を踏み入れた僕へ続き、鍵屋崎が慎重に歩を踏み出す。幸い昼間だから人けはなく、僕ら二人の足音だけがコンクリむきだしの殺風景な廊下に硬質に響く。目を閉じ、記憶の襞をさぐり、サーシャの房への道のりを反芻する。
 以前サーシャに案内されたとおりに右に左に角を曲がり、あるいは直進すれば、じきに見なれた光景が出現する。 
 「あそこだ」
 小さく呟く。
 僕の記憶力は正確だった。サーシャに連れてこられたのはかなり前だけど、ちゃんと道を覚えていた。
 コンクリむきだしの壁に等間隔に鉄扉が並んでいる。右側、いちばん手前がサーシャの房だ。トップの住居も外観は他の囚人の房と変わりない。サーシャは中にいるだろうか?
 「ここがサーシャの房か」
 案内してきた僕に礼も言わず、鍵屋崎がこぶしを掲げる。早速ノックして来意を告げるつもりか。僕がまだ心の準備も逃げる準備もできてないのに、大胆不敵というか馬鹿というか天才の思考回路にはついてけない。ちょっと待て、と叫ぼうとしたが遅かった。硬質なノックが廊下に響き、心臓が凍る。やばい、早いとこ物陰に隠れよう、サーシャに見つかるまえに避難しよう。
 そして僕は鍵屋崎を置き去りにし、廊下の角に隠れようとし。
 耳障りな軋り音をたて、ゆっくと鉄扉が開く。 
 「!」
 遅かった、間に合わなかった。不測の事態に直面し、頭が真っ白になり、心臓の鼓動が爆発しそうに高鳴る。足は恐怖に凍りつき、顔は緊張に強張り、鍵屋崎の隣から一歩も動けない。冷静に落ち着き払った鍵屋崎の視線の先で徐徐に、徐徐に鉄扉が開いてゆく。
 「はいはいはーい?んだよ昼っぱらから、寝かせろよ」
 寝ぼけた声とともに扉が開くにつれ、鍵屋崎の顔に驚愕の波紋が広がる。サーシャにびびってるのか?違う、この表情はそうじゃない。サーシャに恐れをなしたというより、もっと別の……
 思いも寄らぬ場所で思いも寄らぬ人物に再会し、驚愕を通り越し、戦慄した人間の顔。
 「何故だ」
 心ここにあらずといった口調で鍵屋崎が呟く。やがて完全に扉が開ききり、内側のノブを握った人物の正体が暴かれる。その人物は、僕もよく知る人間。僕だけじゃない、東棟の人間なら知らないヤツなんて誰一人もいない男。
 そりゃ親殺しも驚くはずだ。
 北のトップの房にいたのが、東のトップだなんて。
 「何故君がここにいるんだ、レイジ」  
 サーシャの房の扉を開けたのは、上半身裸のレイジだった。
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