少年プリズン

まさみ

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二百二十六話

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 暗闇にガキがいる。
 涙と鼻水で顔をべとべとに汚して、こりずに手で擦った瞼は真っ赤に炎症を起こして、変な泣き癖がついたしゃっくりをあげてる。
 レイジじゃない。レイジは茶パツで、このガキは黒髪だ。
 思い出した。これは俺だ。
 ここはお袋の寝室だ。
 俺が立ち入りを禁じられていたお袋の仕事場。この部屋にはいい記憶がない。お袋は薄情で、まだガキだった俺がお袋の姿が見えずに不安がって寝室に迷い込めば猫みたいに蹴りだされた。
 徐徐に記憶がはっきりしてきた。 
 寝室の隅っこで膝を抱えるガキは俺。これはそうだ、客の不興を買って煙草の火を押し付けられた夜のことだ。
 思い出して、思い出したことを後悔した。心の底から。なんで今ごろになってこんな昔のこと思い出すんだ、一生忘れてたほうがマシだった。ただそこにいたってだけで客の不興を買って煙草の火で灸を据えられた。
 理不尽な折檻だ。
 それより何よりやりきれないのがお袋がただ笑いながら一部始終を見ていたことだ。
 ああ、本当に俺なんかどうでもいいんだなと子供心に痛感した。お袋への憎しみとか恨みとか言い出したらきりがないが、その時俺はただ寂しかった。俺がどんなにお袋のことが好きでお袋に付き纏ってもお袋は振り向いてくれやしない、微笑みかけてくれやしない、頭をなでてくれもしない。
 寂しい。
 たったふたりきりの家族なのに、俺にはお袋がすべてなのに、お袋は時々俺を産んだことさえ忘れて俺がいることさえ忘れてしまう。お袋にとっちゃ本当にどうでもよくて、自分が連れ込んだ客に殴られようが蹴られようが煙草で炙られようがどうでもよくて、時々視界の端にちらつくうざいガキくらいにしか認識してなかった。蝿や蚊と一緒だ。視界に入らないなら何とも思わないが一度目につくと不愉快でしょうがなくて、邪険に追い払うか徹底的に無視するかの二択しかない。
 お袋に一度もかえりみられることなかった子供時代を回想し、気分が鬱々と滅入った。 ほんの少しでもお袋が優しくしてくれたら俺だってひねくれずにすんだとか、十代前半で池袋のチームに仲間入りして手榴弾で人間ふっとばさずにすんだとか、いまさら恨み言吐いてもしかたないが。
 そういえば、お袋はどこだろう。
 ベッドから豪快ないびきが聞こえてきた。ヤることヤってぐっすり寝入った客の隣にお袋がいた。ベッドの背板に背中を凭せ、上体を起こし、煙草を片手に暗闇を透かし見るお袋はあきれ顔だ。
 暗闇に仄白く浮かび上がるお袋の横顔は、相変わらず綺麗だ。
 記憶の中のお袋は年をとらない。十六か七でガキを産んで、この頃は二十代半ばにも届かない若さ。
 『いいかげんにしてよ。泣き声が耳について眠れないじゃない』
 蓮っ葉に紫煙を吐き、うんざりと言う。お袋の視線の先、部屋の片隅にはガキの頃の俺がうずくまってる。ため息をつき、灰皿で煙草をすりつぶす。さっさと下着を身につけたお袋がひたひたと暗闇をよぎる。
 足音に反応し、ガキが顔を上げる。
 ひどい顔だ。目は真っ赤に腫れて、頬は涙と鼻水でべとべとだった。鼻水たらした俺の前で立ち止まり、腰を屈め、視線を合わす。
 ぶたれる。
 とっさに身構える。もう習性になっていた。両手を頭上で交差させた防御の姿勢をとり、恐怖に身を竦める。俺がいつまでも泣き止まないから怒ったんだ、ぶたれるに決まってる、いや蹴られるかもしれない、どっちにせよ痛いのはごめんだ……
 衣擦れの音がした。
 おそるおそる目を開ける。お袋はこっちに見向きもせず、床に落ちた服を拾い上げ放り投げ、手探りでなにかをさがしていた。
 麻雀牌だ。
 数日前、客が忘れていったものらしい。おはじきに夢中な女の子みたいに麻雀牌をひとつひとつ摘み上げ、ためつすがめつしてから床に置く。下着姿でしどけなく横座り、縦一列に牌を並べる。
 『見なさい』
 牌を並べ終えたお袋がひどく真剣な表情で命じ、人さし指で先頭の牌をつく。
 カタカタカタ、と小気味よく連鎖して折り重なり倒れてゆく麻雀牌。俺はぽかんと口を開け、その光景に見入った。カタカタカタ……カタン。最後の一個があっけなく倒れ、床に転がった。 
 『すごいでしょう』
 お袋の声は無邪気に弾んでいた。悪戯っぽい笑顔につりこまれるように頷けば、興に乗ったお袋が再び牌を並べはじめる。累々と散らばった牌を両手でかき集め、小山をつくり、その中から厳選した牌を縦一列に並べ、指でつつく。
 カタカタカタ……カタン。
 小気味よく連鎖して折り重なり倒れてゆく麻雀牌。さっきとおなじ光景。
 ただ牌を並べて倒すだけの単純な遊びを、お袋は飽きもせずくりかえした。いつもみたいに短気を起こさず、癇癪を爆発させることなく、俺がのってくるまで辛抱強くくりかえした。いつのまにかすっかり心奪われ夢中になり、もっとよく見ようと身を乗り出す。涙は乾いた。しゃっくりも止まった。全部お袋の読みどおり。まんまとお袋の思惑にハマった俺は、自分から手を出し牌をかき集め、見よう見真似で並べてみる。
 お袋とふたり、黙々と牌を並べる。
 傍から見たら奇妙な光景だろう。女とガキが二人、目も合わせず口もきかず、無心に牌を並べてるんだから。 
 『あんた男なんだからびぃびぃ泣くのやめなさい。あれしきのことで泣いてたらこの先もっと辛いことあるわよ』
 俯き加減に牌を見つめ、お袋が呟いた。
 よく言う、とあきれる。俺が煙草の火を押しつけられても助けちゃくれなかったくせに、かばってもくれなかったくせに。恨みがましい目つきで睨めばお袋が苦笑する。
 『その目つき、あんたの父親にそっくり。子供身ごもった私を捨てて行方くらました中国人のろくでなしにそっくりだわ。血は争えないってほんとうね』
 おかしそうに笑ったお袋がふと真顔になる。
 『あんたはああなっちゃ駄目。女と子供捨ててどっか行っちゃう男なんてクズよ。惚れた女と子供くらいちゃんと守ってやりなさい』  
 伏し目がちに牌を並べながら、物憂げに呟く。
 しっとり濡れた切れ長の目は黒曜の輝きで、横顔は儚げで。
 『せっかくかっこいい名前もらったんだから、それにふさわしい男になりなさい。龍』
 お袋が名前を誉めてくれたのは、それが最初で最後だった。
 頭をなでてくれたのも、それが最後だった。 
 そうか。
 今ようやく思い出した。
 俺がああも麻雀牌にこだわったのは、それが唯一、お袋とのたのしい記憶だったから。
 お袋がガキの遊びに付き合ってくれたのは、後にも先にもそれ一度きり。俺をなぐさめるために何かしてくれたのもそれ一度きり。だから俺は五十嵐に「なにか欲しい物がないか」と聞かれたとき、真っ先に麻雀牌を挙げたのだ。たいして考えもせず、思いつくまま口にした言葉が漠然と記憶に残っていた麻雀牌で、でも何故麻雀牌なんか欲しがるのか自分でもわからなくて、実際手に入れて当惑した。
 俺自身、すっかり忘れていた。
 煙草の火で焼かれる激痛をなかったことにしたくて、あの夜の続きもなかったことにしていた。
 ああ。
 お袋に優しくされたことがあったのか。
 お袋に遊んでもらったことがあったのか。
  
 場面が切り替わる。
 俺の目の前で、裸の女が下着を穿いてる。裸の背中に乱れ咲いた青痣が痛々しい。俺に背中を向け、腕を後ろに回して器用にブラジャーのホックをとめる。おそろしく慣れた娼婦の手つきだった。
 『いいかげん別れろよ』
 どこかで聞いた声がした。
 聞いたことがあってあたりまえだ。これは俺の声だ。
 『あんなやつと付き合っててもいいことねえだろ。体じゅう痣だらけになって商売にもさしさわるだろ、すっぱり別れちまえよ。そのほうがいいって、絶対』  
 『お節介ね』
 鈴のような笑い声が耳朶をくすぐる。俺が好きな笑い声。ベッドに腰掛け、慣れた手つきで下着を身につけ、服を着替えてるのはメイファ。初めて寝た女、初恋の相手。まわりが敵だらけの環境でただひとり優しくしてくれた女。俺に同情して抱かれてくれたメイファが本当は誰を好きなのか、そんなのわかっていた。俺がどんだけ説得しても笑って流されて、決して聞き入れちゃくれないこともよくわかっていた。
 メイファが惚れてる男は別にいる。たとえそいつが短気で喧嘩っ早い酒乱でも、メイファはそいつにぞっこん惚れてて、俺と寝たのは同情で。
 メイファは優しいから、慰められるふりで、慰めてくれた。
抱かれるふりで、抱かせてくれた。
 メイファは以前、肋骨を折った。酒乱の恋人に酒瓶を投げ付けられたのだ。メイファの体には痣と生傷が絶えない。綺麗な色白の肌をしてるのに痣だらけで可哀想になる。
 メイファを助けてやりたい。
 正直、恋なのか同情なのかわからない。でも、このまま見捨ててはおけなかった。放っとけば近いうちにメイファは殺される。酒乱の恋人に酒瓶で殴り殺されるか蹴り殺されてしまう。これ以上メイファの体に傷をつけたくない、あんなくだらないヤツの為にメイファが哀しむところなんて見たくない。俺は女の泣き顔に弱い、泣かれるとたまらない。 
 メイファがもうこれ以上泣かずにすむように、守ってやりたい。
 もうこれ以上痣をつくらずにすむように、守ってやりたいのだ。
 『……別れ切り出すのが怖いなら俺から言ってやるよ』
 『そんな』
 『いいってべつに。チームに未練ねえし、きっかけさえありゃいつでも抜ける心の準備ができてる。最初からのけ者だしな、俺。中国人との混血なんか台湾人のだれも本気で信頼しちゃねえし、目つきとか態度とか俺のこと良く思ってねえなってわかるんだよ。抗争の時も敵の足止めとか損で危険な役回りばっかだし、どうせ捨て駒だろ。別にお前のためだけじゃない、チームに入った時から気に食わなかったんだよアイツ。何かと言えば俺のこと半半、半半てまともに名前呼んだ試しなし。酔っ払って頭からビールぶっかけられたこともあるんだぜ?まわりの連中もとめもせず笑ってるし、あんなくそったれたチーム喜んでぬけてやら』
 『謝謝。気持ちだけもらっとく』
 『謝謝じゃねえよ、拝托って言えよ』
 頭に血が上り、メイファの肩を掴んで無理矢理振り返らせる。無抵抗のメイファをそのまま押し倒せば枕元に髪が散らばる。
 『いいから、俺を頼れよ。あんなやつと一緒にいても傷付くだけでいいことねえよ、お前今までさんざん苦労してきたじゃん、痣だらけ擦り傷だらけで見てらんねえよ。女に暴力振るう男なんて最低だ、俺が殺してやる』 
 肩にかけた手からメイファの体温が伝わってくる。メイファは放心した顔つきで俺を仰いでいたが、ふいにその口元が綻ぶ。
 『ロンはやさしいね』
 仰向けに寝転がったメイファが、そっと手をさしのべ、頬を包む。メイファの手のぬくもりが頬に伝わり、胸が痛む。俺がこんだけ言ってもメイファは首を縦に振らなくて、情けない話もうどうしたらいいかわからない。俺にできることが何かあるはずなのに、メイファはやんわりと拒絶して、遠まわしに余計なことをするなと釘をさす。
 自分は今幸せだと、だから放っておいてくれと微笑するのだ。
 『なんでだよ』
 それでもなお、駄々をこねるガキみたいに食い下がる。胸が苦しくて、恨み言を吐かずにいられない。
 『なんで言うこと聞いてくれないんだ。なんでそんなにされてもまだ好きなんて言えるんだ。わかんねえよ』
 『ロンにも好きな人できればわかるよ』
 『わかんねえ』
 『わかるから』
 メイファがしずかに瞼をおろし、また開き、やさしい目で俺を見る。
 『殴られたら痛いよ。蹴られるのはやだよ。そんなことされたら怖くて怖くて、ああ、こんな人には絶対近寄れないもう今度こそおしまいだって心から思う。でも、駄目なの。もし私がいなくなったらこの人どうなるんだろうって考えると、別れられなくなるの。そんな顔しないで。わかってるよ、バカだって』
 『だったら、』
 『ロンにはいないの?ロンがいなくなったら絶対困る、って人が』
 虚を衝かれた。
 『そのうちできるよ、きっと。結構すぐかもしれないし数年後かもしれないしずっと先かもしれないけど、きっとできる。ロンがそばにいなくちゃ駄目って人が。たぶんその人と喧嘩することあると思うし、ひどいこと言われて頭にきたりひどいことされて哀しくなったり、そういうこともあるはず。でも、どんなにひどいことされても本当にその人がロンを必要としてるなら、ひとりぼっちにしちゃだめ。ひとぼっちなんて思わせちゃだめ』
 『私はひとりぼっちが怖い。だからどんなにひどくされてもあの人のそばから離れられない。逃げ場はないけど、それでいい。逃げ道用意して人を好きになるなんて卑怯だよ』
 好きな人をひとりぼっちにしちゃだめ、とメイファはくどいほとくりかえした。
 それがまるで、この世でいちばん大切なことみたいに。
 俺の好きなヤツ。
 そんなヤツ、できる日がくるのだろうか。メイファには想いを告げることなく失恋した。それから俺は警察に捕まって裁かれて懲役十八年の刑で東京プリズンに送られて……
 同房になったヤツは、変なヤツで。
 初日の顔合わせでいきなり人のこと「笑えば可愛いのに」なんて失礼な発言かましやがって、「楽しくもないのに笑えるかよ」ってあたりまえのこと言い返したらぽかんとして、それから最高の笑顔になった。
 英語で「憎しみ」なんて、縁起の悪い名前を親からもらった男だ。
 俺の名前はロン。漢字で龍と書く。勇ましくて格好いい名前だ。お袋は俺も俺の名前も嫌ってたが、あの夜、たった一度だけ誉めてくれた。やさしく俺の頭をなでながら、せっかくかっこいい名前もらったんだからそれにふさわしい男になりなさいよと言い聞かせた。

 レイジには、名前を誉めてくれる人間がいたんだろうか。
  
 ガキの頃頭をなでてくれる人間がいたんだろうか、優しくしてくれる人間がいたんだろうか。誰もいなかったなんてそんなわけない、そんなふうには思いたくない。
 今も昔もひとりぼっちだなんて、レイジの本性は暗闇の子供だなんて、救いのない現実は受け入れたくない。
 『殺さないでくれ……っ』  
 いや、違う。
 レイジを暗闇に閉じ込めたのは、俺だ。俺の一言がきっかけで、レイジは暗闇に戻ってしまった。糞尿垂れ流しの暗闇でひとり膝を抱えてたガキの頃まで遡ってしまったのだ。
 俺はバカだ。
 俺はずっとひとりぼっちが寂しくてひとりぼっちが怖くて誰かに好かれたくてたまらなくて、お袋の気を引こうとまとわりついたりメイファを説得して力になろうとしたり、そりゃもうみっともないほどで。
 自分がひとりぼっちになるのは怖いくせに、誰かをひとりぼっちにすることには鈍感で。
 結局俺は、自分がされていちばんいやなことをレイジにしてしまったのだ。
 俺はレイジに出会ってひとりぼっちじゃなくなったのに。
 ひとり……………
 

 「……………」
 薄目を開ければ、視界にとびこんできたのは清潔な白い天井と白いカーテンの衝立、薬品を収納した棚。一瞬自分がどこにいるんだかわからず当惑したが、暗闇に目が慣れるにつれ頭に現実が染みてきた。
 ここは医務室で、今俺はベッドに寝かされてる。
 スプリングが利いたベッドは寝心地良く、シーツは糊が利いて清潔でかすかに消毒液の匂いがする。もっとよく周囲の状況を確かめようと上体を起こしかけたが、体が言うことを聞かない。それもそのはず、俺の両手には包帯が巻かれてあちこちバンソウコウが貼られて、毛布の下の足は固定されてる違和感があった。
 ギプス?ということは、まさか骨折?
 いや、骨折は大袈裟だ。せいぜい捻挫だろうと思うが、全身の間接がこわばり指一本自由に動かせず毛布をはねのけて確かめることもできない。
 顔にもバンソウコウが貼られていた。視界が半分ふさがってるのは片目にガーゼが貼られてるからだ。声はださずに口を開閉し、顔がぱんぱんに腫れてるのがわかった。顔筋を動かし表情を作ることもできず、植物人間のようにベッドに横たわった俺の周囲に人けはない。
 試合はどうなったんだ?
 周囲に誰かいたらまず真っ先に試合の結果を聞きたかった。凱に負けたのか勝ったのか、実のところよく覚えてない。肝心な部分の記憶がとんでる。目を瞑り、回想する。ホセにグローブを手渡され試合開始のゴングが鳴り響き凱にぶん殴られ金網に激突し、凱の子分どもに小突かれてぼろぼろで、もう起き上がる気力も尽きて大の字に寝転がり……

 俺を正気に戻したのは、手首で鳴った音。
 レイジに託された十字架の鎖がふれあう音。

 そうだ、あの十字架は?
 鍵屋崎が俺の手首に結わえ付けたあの十字架、俺が凱の太股に突き立てたあの十字架、俺の逆転勝利を呼びこんだ心強いお守り。レイジが肌身はなさず身に付けてた大切な十字架だ、あとでちゃんと返さなきゃ、なくしたら大変だ……レイジは俺の試合にも姿見せなかった薄情者だけど、俺のこと心配してお守り代わりの十字架をくれた。認めるのは悔しいが、俺が勝てたのはレイジのおかげだ。レイジが十字架を貸してくれなかったら起死回生の秘策も閃くことなく今ごろ凱にぶち殺されてた。
 待てよ。起死回生に逆転勝利ってことは、俺は勝ったのか?
 そうだ……そうだ勝ったんだ、レイジに貰った十字架で動きをとめたすきに回し蹴りくらわして、見事凱を倒したんだ。あの時の光景が鮮明に甦り耳の奥に歓声が甦り―……

 カーテンが引かれた。

 衝立のカーテンをめくり、誰かが枕元に立つ。誰だ?この目で確かめたいが、瞼が腫れてふさがってるんじゃ無理だ。声にだして誰何しようにも、ぱんぱんに顔が腫れて上手く舌が回らない。
 だから俺は、寝たふりをした。
 正直疲れていた。今は何も考えずぐっすりと眠りたい。勝利に酔いしれて良い夢を見たい。レイジに十字架を返すのはあとで……
 「ばあか」
 耳元で声がした。やけに聞き覚えのある声だ。甘く掠れた独特の響きがある……
 枕元に誰かが立ってる。何も言わず何もせず、じっと俺の寝顔を覗きこんでる。 
 「ほんっとバカ。手におえねえ。何でそんなぼろぼろになるまで頑張んだよ、そんなに俺に誉めてほしかったのかよ。バカだよお前。お前が凱と殴り合ってるとき俺がどこにいたか教えてやろうか?びっくりして軽蔑するぜ、きっと。俺のツラなんか二度と見たくねえって叫ぶに決まってる」
 ギシ、と音がした。俺の寝顔を眺めてたヤツが、そばの椅子に腰掛けたのだ。 
 「ひどい顔。笑えるぜ、今のお前。目のまわりに黒い痣ができて顔ぱんぱんに腫れて体じゅう包帯だらけだ。面会謝絶のフダでもさげとけよ。親からもらったカワイイ顔がだいなしだ。とてもキスする気なんか起きねえよ」
 なんだか安心する声だ。子守唄みたいに心地よい周波数で囁かれて、急速に眠くなる。
 「……眠ってるんならいいや。そのまま聞けよ。ロン、あの約束はなしだ。取り消し。100人抜き達成したら抱かせてくれるって話はなし。俺のこと嫌いなのに無理して抱かせてくれなくていいよ、俺もおまえなんか抱きたくねーしいいかげん愛想が尽きたし……それにさ、おまえ抱いても楽しくなさそうだし。俺の手ひっかくような行儀悪ィ猫だもん。舌入れたら噛みちぎられそうでおっかねーし、男知らねえヤツ抱くの面倒くさいし……痛い痛いってうるせえし」
 ため息まじりに言い捨て、身を乗り出し、間近で寝顔を覗きこむ。吐息がかかる距離に顔がある。
 瞼の向こうで、誰かが笑う気配がした。無理に作ってるような自嘲の笑み。
 「早い話、飽きた。おまえに興味なくなった。これからはもう、かまうのよすよ。おまえだってそっちのがいいだろ?俺のことうざがってたしなれなれしくすんなって吠えてたし、願ったりかなったりバンバンザイだろ。所詮野良だもんな、餌付けして可愛がったところで報われるはずねーのにさ……はは、おめでたいね俺。勘違いしてたんだ。結構本気で、」
 言葉が途切れる。
 「……いいや。過ぎたことだ、忘れてくれ。そんなわけで、これからはお互い干渉せずにいこう。俺は好きなようにするからおまえも好きなようにしろ。王様最後の命令。100人抜きはやりとげる、おまえのこと抜きにしても気に入らねーし安田の鼻明かすの楽しいし……俺なんか男でも女でもイケるクチだけど、男が男にヤられてしかもそれが毎日続くって普通に考えりゃ拷問だもんな」
 俺いまいち普通ってわかんないんだよね、と明るく乾いた口調でそいつは続けた。
 顔の横でちゃらりと音がした。小粒の鎖が流れ落ちる音。その音で初めて、俺の顔の横に十字架が寝かされてたと知った。
 「これ、返してもらうぜ。マリアの十字架」
 見舞いにきたんじゃない、十字架を取り返しにきただけだと言い訳してるように聞こえた。自分に言い聞かせてるようにも。
 沈黙が落ちた。
 顔に視線を感じる。枕元に立ち尽くし、寝顔を覗きこみ、囁くように言う。
 「なあ、ロン。もう俺に近付くなよ。俺いつか、おまえのこと殺しちまうよ。手加減できずに殺しちまうよ」
 感情の欠落した声だった。
 「レイジってぴったりの名前だよな。憎しみを押さえこむのが下手だからレイジ。あんま人に誇れる名前じゃないけどさ、結構気に入ってるんだ。本当は俺、名前なんかつけてもらえるはずなかったんだ。名前もらうまえに殺されるはずだったんだ。でも、こうしてしぶとく生きてる。今までしぶとく生きぬいたからここに来れたしおまえに会えたし、ダチみたいなヤツも何人かできたし……だからかな。東京プリズンの日常にどっぷり馴染んで忘れてたんだ、俺が筋金入りの人殺しだってこと。俺頭にきたら何するかわかんねーよ、今度こそ手加減できずにおまえ殺しちまうかも。怖いだろ?怖かったろ?本当に殺されると思って体の震えが止まらなかったろ?それでいいんだよ、それがまともなんだ。おまえはこっち側にくることない」
 小さく息を吐き、続ける。  
 「おまえはずっとまともでいてくれ。楽しくもないのに笑えるかって、そう言い続けてくれ。俺はずっと楽しくもないのに笑ってたからこれ以外の表情できないけど、おまえはちゃんと笑えるし泣けるし怒れるんだから。俺が抱きたかったロンは、そういうヤツだから」
 スプリングが軋む。俺の顔の横に片手をつき、前傾姿勢をとり、慎重に顔を寄せる。何をしようとしてるのか、おぼろげながらわかった。わかっていて、何もしなかった。抵抗ひとつせず眠ったふりを続けた。
 唇にやわらかい感触。
 長いようで短く、短いようで長いキスだった。唇が離れてもまだ寝たふりを続け、医務室のドアが閉まるのを耳で確認してからゆっくり目を開ける。
 「………バカはどっちだよ」
 もちろんレイジだ。
 お別れのキスなんて、かっこつけすぎだ。
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