少年プリズン

まさみ

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二百二十四話

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 頭が朦朧とする。
 視界が半分翳ってるのは片目が塞がってるからだ。凱に殴られた瞼が倍に腫れて、瞬きもろくにできない。
 もし今この場にレイジがいたら、「男前が上がったな」と笑うだろうか。
 おまけにさっきから耳鳴りが止まない。鼓膜は破れてないと思うが耳鳴りがうるさくて試合に集中できない。周囲の歓声をかき消すほど大きい耳鳴りが頭蓋の裏側でわんわん反響して鐘の中に閉じ込められたような錯覚に襲われる。どうしちまったんだ俺、大丈夫か?答えはすぐにでた。大丈夫なわけあるか。自分で言うのも何だが二本の足で立ってるのが奇跡のような状態で、次に一発食らえば意識が吹っ飛んでぶっ倒れてもおかしくない。
 なんで俺こんなに頑張ってるんだろう?
 ささやかな疑問が脳裏を過ぎる。もういいじゃんか、リングを下りちまえよ耳の裏で誰かが囁く。こんなに頑張ってもどうせ報われないんだから、だれも誉めちゃくれないんだから、お前の人生これまでずっとそうだったんだからと耳の裏で執拗に囁いて誘惑する。大人しくリングを下りればラクになれると頭じゃわかってる、でも心が納得しない。もし今ここで尻尾を巻いて逃げ帰れば、凱と決着つけるまでリングを下りないと心に決めた自分自身を裏切ることになる。
 だから俺はリングに立ち続ける。
 凱に殴り殺されるのは怖い。小便ちびっちまいそうにおっかない。でも今ここで逃げ出したら俺は一生腰抜けの半半のままで、暗闇のガキにびびってレイジの笑顔を信用できないまんまで、レイジとの仲もずっとぎくしゃくしたまんまで、何ひとつも状況は変わらない。凱に馬鹿にされるのは懲り懲りだと心が吠える。台湾人のお袋と中国人の父親のあいだに生まれた雑種だからどうしたってんだ、満場を埋めたギャラリーの眼前で凱をぶっ倒して雑種の根性見せてやると意気込んでリングに上がったのだから、俺は絶対に引き返せない。無力に甘んじてレイジに依存して、挙句レイジを拒絶してあいつを傷付けて、それからレイジは変わってしまった。
 俺の目をまともに見なくなって俺と口をきかなくなって態度も変によそよそしくて、俺はもうレイジのダチでいられなくなった。
 レイジは前みたいに、俺に人懐こく笑いかけてこなくなった。
 それが、無性に哀しい。
 悔しくて歯痒くてやりきれなくて、俺はまたレイジの笑顔が見たいと渇望する。俺は何故あの時レイジの手を振り払ってしまったんだ?レイジは俺を助けようとしたのに、俺に手を貸して立ちあがらせようとしただけなのに、安全ピンで手をひっかかれて。
 俺は気も狂わんばかりにレイジに命乞いした。
 俺に怪物扱いされるのを心の奥底でなにより恐れていた臆病な王様を、人の形をした怪物として扱ってしまった。あの時のレイジの顔が脳裏に鮮明に焼き付いてる。
 『頼むから怖がらないでくれよ』 
 声の響きは哀願に似ていた。そして俺は、レイジを深く傷付けたと理解した。俺を怖がらせるのがいやで、俺に怯えられるのがいやで、俺の前じゃ能天気な笑顔を絶やさなかったレイジ。お調子者の芝居を上手く演じた王様。
 『殺さないでくれっ……』
 俺の一言が、レイジがこれまで隠してきたすべてを暴き出し、レイジがこれまで積み上げてきたすべてを無にしてしまったのだ。
 後悔しても遅い。レイジの心は完全に俺から離れてしまった。レイジの心を引き戻す方法を俺は知らない。謝ればいいのか、抱かせてやればいいのか?そんな単純なことで、本当に解決できるのか?
 俺は馬鹿だから他にやり方を知らなくて、さんざん回れ道をしなきゃ結論に辿り着けなくて、レイジを暗闇から引っ張り出す方法を考えた末に「自分が強くなるしかない」って決断を下して、今こうしてリングを踏んでる。凱にさんざん殴られ蹴られてボロボロで、視界なんか半分見えなくて、足元がふらついて吐きそうで、こんな情けない姿レイジに見られるの癪だからあいつが今ここにいなくてよかったかもって、ほんの少しだけ感謝する。
 ああ、何言ってんだ俺。本格的にやばいぞこりゃ。レイジのことなんか今どうでもいいじゃんか、雑念を蹴散らして目の前の敵に集中しろ。ぼやける視界に凱の姿をさがす。いた。俺の正面に立ち塞がってる。
 「い、いい加減降参しろよ……これ以上手こずらせるんじゃねえ……」 
 犬みたいに息を荒げながら、疲労困憊の凱が言う。全身汗みずくで、汗にぬれた囚人服がべったり胸板にはりついて分厚い筋肉で鎧われた胸板と六つに割れた腹筋が透けていた。
 「疲れたんなら代われよ」
 俺の声はひどくかすれていた。口の中が切れて、うまく発音できないからだ。凱の後方に顎をしゃくり交代を促せば、俺と対峙した凱がふてぶてしく笑う。
 「冗談言うなよ。これは俺の喧嘩だ、半半と中国人のどっちが偉いか誰の目にもはっきりわかるかたちで白黒つける歴史に残る一戦だ。半半をぶち殺す美味しい役目、他のヤツにくれてやったりするもんか」
 「負けず嫌いだな」
 「お互いさまだ」
 凱の挑発に負けじと無理して笑う。顔の筋肉がひきつる感覚で、限界にきてるんだなと再認識する。凱にぶん殴られた顔は腫れて口の中は切れて、足元に吐いた唾には血が滲んでいた。俺の体はそろそろ限界にきてる。ちょっと気を抜けばふっと意識が途切れて、そのまま暗闇に堕ちてしまいそうだ。一度暗闇に堕ちたら這い上がるのは困難を極める。
 俺がまだ自分の足で立てるうちに、決着をつけなければ。
 ぎしぎし痛む関節に鞭打ち、ホセに教え込まれたファイティングポーズをとる。付け焼刃のファイティグポーズじゃ虚勢にもならないが、鍵屋崎の隣で試合を見守っていたホセが頷いたから、それなりに様になってるんだろうなと安堵する。
 はは。こんなになってもまだ周囲に目を配る余裕があるなんて、変なの。
 「こいよロン。お前の歯ァ全部へし折って顔潰してやらあ。カワイイ顔が台無しで王様もがっくりだろうな」
 「ほざけ」
 俺を手招きして挑発する凱に頭に血が上り、リングを蹴って跳躍。大きく腕を振りかぶり凱の顔面に右拳を叩きこもうとして―
 「ぬりぃパンチだな」 
 凱の手で、パンチが受け止められる。グローブごと俺の手を握りこんだ凱が、手首で光る十字架に目をとめる。
 「なんだそりゃ、お守りか。苦しい時の神頼みなんて信心深くて感心感心。けどよ」
 「!」
 俺の右拳を握りこんだまま、懐にもぐりこむように急接近した凱が吠え猛る。
 「東京プリズンにゃ神様なんかいねえんだよ!!」
 視界が反転し、体が浮遊感に包まれた。
 凱のパンチを食らうのはこれで何度目かわからない。途中から数えるのをやめた。一塊の鉛めいたこぶしで容赦なく鳩尾を殴られ、胃袋が圧搾され、強烈な嘔吐感にむせる。胃液が逆流して食道が焼け口の中に酸味が広がる。
 衝撃。
 背中からリングに落下した。頭上に強烈な照明が降り注ぎ、白熱の洪水が網膜を灼いた。背中からリングに叩き付けられた衝撃で肺腑が圧迫され、限界ぎりぎりまで背骨が反った。そんな俺を見て、金網越しのギャラリーは爆笑した。爆笑の渦にのまれた会場の一隅で、鍵屋崎とホセとヨンイルと売春班の面々だけがただじっとこっちを見つめていた。
 鍵屋崎は無表情で、ホセは口の横に手をあて声援を送りながら、ホセは拳を握り締めて。
 売春班のやつらは心配そうに寄り集まって、口々に何か喚いてる。
 「ロン、立て!」
 「加油!」
 「加油!」
 「凱の子分にケツ裂けるまでヤられた俺たちの仇とってくれ!」
 うっるせえよ、勝手なことぬかしやがって……仇打ちなんかてめえでやれ、人任せにすんじゃねえ。
 そう言い返したくても、最後まで声が出なかった。
 痛い。全身が痛くて痛くて当分起き上がれそうにない。凱にぶん殴られたところや蹴られたところ、凱の子分どもに寄ってたかって小突かれたところが痛くて痛くてたまらなくて、全身の間接が激痛を訴える。
 
 リングに大の字に寝転がり、天井を仰ぐ。

 耳鳴りが止み、突然静寂が訪れた。 
 鼓膜が麻痺したのか、周囲の歓声も嘘のようにかき消され、物音ひとつしない異常な静けさに支配される。犬みたいに荒い息遣いと早鐘を打つ鼓動と、俺の耳に届くのはただそれだけ。いや、外側から聞こえてくるんじゃないから「耳に届く」ってのは変か。
 これは俺の体の中から聞こえる音だ、俺の体の中で共鳴して直接内耳に響いてるんだ。
 体が熱くて熱くてたまらない。今にも全身の血が燃焼し心臓が蒸発し頭が沸騰してしまいそうだ。髪は汗だか水だかでべとついて、上着は汗みずくで体にへばりついて薄い胸板が上下するのが見えた。

 無理だ。
 これ以上戦えねえ。

 起きあがるのがひどく億劫だ。このまま意識を失ってしまえたらどんなにラクだろう。所詮凱にはかなわない、一週間やそこらの猛特訓で強くなった気でいた俺が倒せる相手じゃないのだ。
 格好悪い、俺。
 リングに戻る前、鍵屋崎は言った。俺の手首に十字架を結わえ付け送りだし、台湾語で叫んだ。
 『龍是有男子気概的人』  
 鍵屋崎は嘘つきだ。
 格好よくなんか、ない。凱にやりたい放題やられて、凱の子分どもにさんざん小突かれて嬲り者にされた挙句頭に水ぶっかけられて晒し者にされて、からっきしいいとこなしじゃんか。
 凱をぶちのめるなんてでかい口叩いたくせに反対に自分がやられて、俺ひとりの力で凱をぶちのめしてレイジへの恐怖を克服するなんてうそぶいたくせに……
 ああ。
 もう全部、どうでもいいや。
 目を開けているのも億劫で、しずかに瞼をおろす。瞼の裏の暗闇に逃げ込めば、自分が今いる場所がどこかもわからなくなる。いやなこと全部忘れて、ここでずっと眠っていたい。
 痛いのも怖いのも全部忘れていっそ暗闇に溶けてしまえ、存在ごと暗闇に溶けてしまえば暗闇を怖がることもなくなる……
 「立て、立つんやロン!!」
 暗闇の向こうで誰かが叫ぶ。
 「気をつけろ、凱はとどめをさすつもりだ!早く起き上がって体勢を立て直すんだ!」
 誰かが叫んでいる。
 「いつまで寝ているつもりですかロンくん。吾輩のしごきに耐えに耐えぬいた地獄の一週間に比べればこんなのお遊戯も同然です、十秒以内に起き上がらないとグランド十周追加ですよ」
 誰かが叫んでいる。
 誰かが俺の名前を連呼してる。「加油」「加油」の大合唱。がんばれがんばれと、大の字に寝転んだ俺を一生懸命応援してる。うるさい、放っといてくれ。俺は寝たいんだ、頼む寝かせてくれ、呼び戻さないでくれ……
 暗闇の向こうで誰かが俺を呼んでる。俺を暗闇から呼び戻そうと金網を叩き地団駄を踏み絶叫する。うるさい、黙れ、しずかにしろ。こんなにうるさくちゃ眠れないだろと無意識に手を掲げ、鬱陶しい羽虫を追い払うように……
 
 手首で、涼やかな音がした。
 小粒の金鎖がふれあう涼やかな音、手首に巻かれた鎖と十字架が奏でる綺麗な旋律。

 『レイジは理由があって来れないんだ』
 『これを渡してくれと頼まれた。そばについてられない自分のかわりに、これを自分だと思ってそばにおいてくれと……ロンの勝利を願ってる、絶対に勝つと信じてる、だから頑張ってくれと』

 「……」
 ゆっくりと瞼を上げ、薄目を開ける。長く目を閉じていたせいか、光が淡く滲んだ。
 俺の手首には、レイジが肌身はなさず身に付けていた十字架がある。
 レイジが鍵屋崎に託し、鍵屋崎が俺の手首に結んだ十字架。
 レイジの分身。
 「くそ………」
 勝利を願ってる、絶対に勝つと信じてる、頑張ってくれ。
 願うなよそんなもん、信じるなそんなありえないこと、人の気も知らないで頑張れなんて言うんじゃねえ。レイジときたらどこまでいってもとことん無責任で自己中で、俺がボロボロになって戦ってるのに顔ひとつ見せねえで、鍵屋崎に十字架託して言伝頼んで……
 むかつくったらありゃしねえ。
 「………っ、う」  
 指を動かし、神経が死んでないか確認する。まだいける、まだやれる。口の中でくりかえし念じ、リングに寝転がったままあたりを見まわす。凱がすぐそばにいた。俺にとどめをさそうと近付いてくる。
 「凱、やっちまえ!」
 「頭蓋骨砕いて脳漿ぶちまけちまえ!」
 「殺せ!」
 「殺せ!」
 「殴り殺せ!」
 「蹴り殺せ!」
 「嬲り殺せ!」
 「ざんざん苦しませて殺してくれ!」
 凱贔屓の連中が金網に殺到し、唾をとばして訴える。鍵屋崎たちの声はもう聞こえない、凱を焚き付ける大歓声にかき消されて耳に届かない。あたりまえだ、俺の応援団と凱の応援団じゃ人数の桁が違う。こっちは両手で足りる数で、あっちは三百人だ。
 だからなんだってんだ?
 俺には鍵屋崎がついてる、ホセがついてる、ヨンイルがついてる、売春班のやつらがついてる。
 手首にはレイジの分身の十字架が輝いてる。
 俺は独りじゃない。それがわかっただけで十分だ、それ以上なにを望む?
 「再見、龍。東京監獄と地獄とどっちがマシか、ちょっくら見てきてくれよ」
 俺にはレイジがついてる。
 仲間がいる。
 不敵な笑みを浮かべた凱がリングに寝転がった俺の頭を片足で踏み、無防備な眉間に鉄拳を―

 今だ。

 「!?どわっ、」
 台湾語で、あきらめることを「死心」と書く。
 心が死ぬ。あきらめる。なんて的を射た言葉だと感心しながら猫のように身をよじり三回連続横転、眉間を外れた鉄拳がリングを穿ち凱が狼狽した隙に跳ね起き、口で紐を緩めたグローブを即座に投げ捨てる。
 「糞が……まだ死んでなかったのかよ、ロおおおおォおおおン!!」
 逆上した凱が鉄拳に殺意をこめ、猛然と突進。すさまじい剣幕で猛進してくる凱から目を逸らさず、グローブを脱いだ手に十字架を握り締め、その瞬間を待つ。
 凱との距離が限界まで狭まるその瞬間を。
 来た。
 怒涛の足音が鼓膜を叩き凱の鼻息が顔を撫でこぶしの風圧を感じたその瞬間、しっかり目を見開き凱の太股の位置を見極めて右手に握りこんだ十字架をおもいきり容赦なく振り下ろす。
 濁った絶叫が響き渡った。
 凱の太股に刺さった十字架の先端からじわりと血が滲み出す。
 レイジが肌身はなさず身に付けていた十字架を凶器に変え、その先端で容赦なく太股を抉れば、凱の動きが一瞬止まる。
 太股を抱えて身悶える凱は完全に無防備で、十字架を手放した俺が流れる動作で片足振り上げたのも見過ごした。
 「知ってるか、凱」
 付け焼刃のボクシングより、やっぱこっちのほうが体に馴染んでる。
 流れる動作で振り上げた片足にスピードをつけ、俺の全力を注ぎ込んだ回し蹴りを凱のこめかみに見舞う。脳に衝撃が伝わるこめかみを狙って全力の蹴りを叩きこんだ甲斐あって、太股を庇って身動きとれない凱はそのまま吹っ飛んだ。もろに回し蹴りを食らった凱が濛々と埃を舞い上げてリングに沈み、大の字に寝転がる。脳震盪を起こしたらしく口から泡を噴いた凱の頭上を覗きこみ、言う。
 「雑種はしぶといんだぜ。台湾人の根性と中国人の執念を受け継いでるからな」   
 凱が倒れる瞬間を目撃し、リング周辺に沈黙が落ちた。
 まさか信じられない、そんなアホなという驚愕の表情を浮かべた囚人たちの中に見慣れた顔をさがす。
 鍵屋崎がいた。ヨンイルがいた。ホセがいた。売春班のやつらもいた。こっちを指差して、興奮しきった様子で何か喚いてるのは……ルーツァイとかいう子持ちの売春夫だ。
 ルーツァイの隣のホセに視線を移せば、俺にむかってぐっと親指を突き立て、満面の笑顔を湛えてた。
 ホセの笑顔を見た途端、安心して気が抜けて、体がぐらついて。
 ゴングを抱えた審判がこっちに駆けて来て、テンカウントをとる間は何とか踏み止まっていたが、もう限界だ。
 瞼が下りる直前に目撃したのは、ゴングを十回鳴らし終え、俺の方を向いた審判の顔だった。
 「勝者、ロン!!」
 審判が下した判定に歓声だか怒号だかが爆発し、俺は今度こそ気を失った。
 リングに倒れる間際手首の鎖がかすかに鳴って、脳裏にレイジの顔が浮かんだ。
 俺がよく見慣れた、俺がいちばん好きな、人懐こい笑顔だった。
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