少年プリズン

まさみ

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二百十八話

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 もうすぐ試合が始まる。
 試合開始の時間が迫るにつれ緊張が高まる。ペア戦会場となる地下停留場には既に物見高い囚人が集まり始めている。がやがや騒ぎながら口さがなく本日予定試合の勝敗予想をする連中を尻目に、俺はじっとリング脇に待機していた。
 巨大な地下停留場の中央に臨時に設置された金網の檻、頂点に据えられた照明に晧晧と浮かび上がる通称リングには二つ出入り口があり、片方には俺が、もう片方には凱とその子分どもが控えている。
 リング脇、所定の位置にてゆっくりと深呼吸をくりかえす。遂にこの日が来てしまった。あと十数分後には自分がリングに上がるなんて実感はとんと湧かない。一身に脚光を浴び観客の罵声と野次を浴び、因縁深い凱とやり合うことになるなんて言われても今だに誰かに騙されてるみたいな半信半疑の心持ちだ。

 やっぱり騙されてるんじゃないか、俺?

 いや、ちゃんと現実を見ろ。今俺はリング脇にいて、対岸には凱とその子分どもが陣取ってだべっている。時折こっちを見ては「薄汚ねえ半半が、調子にのりやがって」「目に物見せてやってください、凱さん」「中国人の心意気を証明してやりましょう」と悪態をついている。子分どもに叱咤激励された凱は殺る気満々、剣呑に殺気走った眼光でまっすぐ俺を睨んでる。
 往生際が悪い、と自分を戒めてかぶりを振る。俺はもう後戻りできないところまで来ちまった、敵前逃亡はプライドが許さない。それに、凱には積年の恨みがある。東京プリズン入所当初から俺を目の敵にしてイエローワークの砂漠じゃ何度も生き埋めにされかけたし、シャベルを脛にぶつけられて青痣を作ったり食堂でわざと肘をぶつけられて食器をぶちまけたり、廊下ですれちがいざまケツをさわらたり素肌をまさぐられることも日常茶飯事でいい加減堪忍袋の緒が切れた。生粋の中国人とやらがそんなに偉いのか、両親とも中国人だってのがそんなに偉いのことなのかよ?たしかに俺は薄汚い半半の混血児で、ろくでもない博打好きの親父ととんでもないあばずれの母親のあいだに生まれたガキだ。

 それがなんだ、だからどうした?俺が俺であることに変わりない。

 両親とも中国人だってだけで俺に優越感持って威張り散らしてる連中に劣ってるとはちっとも思わねえ、もううんざりだ、名前もろくに覚えられず蔑称の「半半」呼ばわりされるのも廊下ですれ違いざま唾吐きかけられる屈辱の日々も我慢の限界だ。
 東棟最大派閥、三百人を超す中国人の親玉の凱と一対一できっちり決着つけてやる。
 ……なんて言えば、「私怨を試合に持ちこむのは感心しない」と鍵屋崎が小言をたれそうだ。私怨を持ちこんで悪いかよ畜生。凱や凱の子分どもにケツ狙われる毎日はうんざりだ、衆人監視のリングで凱を叩きのめして、二度舐めた真似できねえように思い知らせてやる。俺だってこの一週間なにもせず漫然と過ごしてたわけじゃない、鬼コーチホセの猛特訓の成果を発揮してやる。
 凱に目に物見せてやる、と自覚的に闘志を煽りたて、試合に臨む決意を固める傍らきょろきょろをあたりを見まわす。試合開始まで残り十数分を切り、リング周辺には人だかりができはじめている。金網に寄りかかり猥談するヤツ、コンクリートの床にしゃがみこんだヤツ、場所取りのいざこざの末に喧嘩をおっぱじめるヤツ……行儀がいいとはお世辞にも言えない東京プリズンの囚人の中に、見慣れた顔をさがす。

 レイジがいない。
 どこにもいない。

 「………」
 ……どうかしてる、レイジのツラが見えなくて不安になるなんて。金網のフェンスを握り締め、唇を噛んで俯く。先日来、レイジとの仲がぎくしゃくしてる。俺がレイジを拒絶した夜以来、レイジの様子がおかしい。まともに俺の顔を見ようとせず、できるかぎり会話も避け、レイジは単独行動をとるようになった。
 レイジが変によそよそしい態度をとるようになったのは、俺のせいだ。
 猛特訓の成果を見せてやると意気込んだ俺が、レイジに一発も食らわすことができず逆に鳩尾に蹴りをお見舞いされた二日前の夜以来、レイジの態度は変によそよそしくそっけない。朝は俺が起きるより先に起きてひとりで勝手に食堂に行っちまうし、食堂で顔を合わせりゃ合わせたで、挨拶は「よ」の一言だけ。俺が何か話しかけても「へえ」「ふうん」なんて気のない返事で流されて会話は空回るばかり。
 ふてくされてる、というふうには見えない。そっけなく相槌を打ちながら、レイジの目は俺を通り越してここではないどこかを見ていた。俺に興味を失ったみたいに視線は俺を素通りして、何もかも全部もうどうでもいいと投げ出した腑抜けヅラのレイジに強くでれないのは、その原因が俺にあるからだ。
 レイジの手には今も、乾いた血が凝固した痛々しい傷痕がある。
 鳩尾に蹴りが入って恐慌状態に陥った俺が、レイジの接近を阻みたい一心で安全ピンでひっかいたあと。
 『殺さないでくれっ……』 
 あの時の恐怖がまざまざと甦り、体の芯が凍える。あの時は本当にレイジに殺されると思った。レイジに対し、生命を脅かされる純粋な恐怖を感じた。長い足を交互にくりだし、吐瀉物にまみれた俺のもとへ優雅に歩いてきたレイジが得体の知れない怪物にしか見えなくて、何をされるかわからなくて発狂しそうに怖かった。レイジを遠ざけるためなら何でもした。理性は完全に麻痺して思考が正常に働かなくて、レイジの瞳に呪縛され激痛に支配されその場にうずくまり、震える手に安全ピンを握りこんで必死の抵抗をした。
 安全ピンで手の甲をひっかかれた瞬間、レイジがどんな表情をしたかはわからない。とてもレイジの表情を観察する余裕はなかった。俺はただただ必死だった。自分が助かりたくて生き延びたくて、その為なら手段を選ばなかった。
 レイジの血が床に滴り、我に返った時には手遅れだった。
 『怖がらないでくれよ』
 あの時の顔が、脳裏に焼き付いてはなれない。安全ピンで手の甲をひっかかれ、足元に血が滴るままに立ち尽くしたレイジは途方に暮れたように笑っていた。俺に拒絶され、手に怪我をして、笑顔なんか浮かべられる心境じゃないだろうにそれしか表情を作れなくて。
 奈落みたいな笑顔だった。  
 目は絶望に濁っていた。口元は笑みを留めていた。不規則に点滅する裸電球に暴かれてはまた闇に沈みをくりかえし、レイジは静謐に笑っていた。何もかもを放棄したような、人を人たらしめる感情さえ一片残らず捨て去ってしまったようなからっぽの笑顔だった。
 後悔した。
 一度口にした言葉は取り消せない。俺がレイジを拒絶したのは事実で、手に怪我を負わせたのは現実で、あれからレイジはおかしくなった。変わってしまった。俺にちょっかいをかけてこなくなった、俺に話しかけなくなった。たったそれだけの変化。でも、決定的な溝。

 なによりあの夜から、レイジは俺の目を見なくなった。

 「………ふざけんなよ、腰抜けが」
 ちゃんと目を見てもらわなきゃ、謝罪のきっかけも掴めないんじゃんか。
 謝る時はちゃんと人の目を見なけりゃ誠意が伝わらない、まっすぐ目を見つめなきゃ意思疎通がはかれない。なんでこんなことになったんだ?何度も何度も反芻した疑問、埒の明かない自問自答。俺がレイジを怖がったから、レイジの手を払いのけたから、俺たちのあいだにあった何かが変わってしまった。壊れてしまった。全部俺が原因だ。俺があの時口にした一言は、何があっても絶対言っちゃいけない言葉だったのだ。
 『殺さないでくれ』なんて、ダチに言うセリフじゃない。
 相手はレイジなのに。しょっちゅう俺にちょっかいかけてきて、悪ふざけに寝こみを襲い、くだらない冗談言っちゃあ笑い転げてる尻軽な王様なのに、俺はまるで言葉の通じない怪物に命乞いするように、『殺さないでくれ』と絶叫したのだ。 

 もう取り返しがつかないのか?
 いまさら悔やんでも遅いのか?

 レイジは俺に謝罪の機会さえ与えてくれない、俺はどうしようもない。いや、レイジに謝罪したいと思ってる俺自身レイジに対する恐怖をまだ完全には払拭できない。脳裏にはまだ、あの夜の目が焼き付いてる。
 虚無を映したレイジの目はあまりに綺麗で、とりこまれそうで。
 あれがレイジの本性だとしたら、俺が知ってるレイジは一体何だったんだ?くだらない冗談言って笑い転げて俺にどつかれて大袈裟にしかめ面してベッドに腰掛けて本を読み耽る、俺がよく知るレイジは何だったんだ?
 俺を油断させる芝居、日常に溶け込む演技?
 「どうした、むずかしい顔をして」
 ハッとする。
 声をかけられるまでサムライがすぐそこにいるのに気付かなかった。ペア戦出場者は試合開始30分前には所定の位置についてる決まりだ。初戦は俺と凱のカードが予定されてるが、その後にはサムライが控えている。木刀を片手にさげ、リング周辺の人ごみを抜けてきたサムライがうろんな顔をする。
 「……べつに。試合のこと考えてたんだ」
 「案ずることはない」
 とっさに嘘をつけば、俺を安心させるようにサムライが首肯する。
 「鍵屋崎から聞いたが、この一週間修行に励んだのだろう。ならばあとはおのれの信念に恥じぬよう全身全霊を賭して試合に臨むのみ、さすれば道は拓ける」
 「信念とか堅苦しい言葉好きだなお前。言ってて恥ずかしくねえ?」
 いちいち言うことが大袈裟なサムライにあきれる。そういえば、隣に鍵屋崎がいない。いつも一緒なのに珍しいなとあたりを見まわす。
 「鍵屋崎はどこだよ。あいつも観にくんだろ」
 「途中ではぐれた。不覚だ。地下停留場におりるまでは一緒だったのだが……」
 自分の迂闊さを恥じるようにサムライが顔を伏せる。忸怩たるものを口調に滲ませたサムライをよそに人ごみをさがしてみたが鍵屋崎は見当たらない。迷子になってるのだろうか?メガネは方向音痴だからそれもありうる。いや、別の可能性も……
 「いいのかよ用心棒、鍵屋崎ひとりにして。ナンパされてたらどうするよ」
 「その点は心配ない。直と、」
 「不味い」という顔をしたサムライが、咳払いで表情を改め、スッと背筋をのばす。
 「……鍵屋崎と約束をした。安易に他の男についていくな、と。あいつも子供ではない、時間になればここに戻ってくる」 
 泰然自若としたサムライに口笛を吹く。
 「ずいぶん余裕じゃんか、いつのまにゆびきりげんまん針千本飲ますほど仲良くなったんだよ。でもさ、わかんねーぜ?鍵屋崎あぶなっかしいし、本読みながら歩いてるとこ物陰にひきずりこまれたりしたら…」
 「……そんなことはありえん」
 「なんで言いきれるんだよ」
 「ありえんと言ったらありえん。武士に二言はない」
 「今ごろ他の男といちゃついてるかも」
 「断じてありえん。斬られたいか」
 冗談を真に受けて斬られちゃたまらない。調子に乗った俺が悪かった、と両手を挙げて降参する。しかし、冷静沈着なサムライが動揺をあらわにするなんて珍しい。鍵屋崎が他の男といちゃついてるかも、と言った瞬間に一瞬覗いたのは生臭い嫉妬の表情だった。これ以上ない渋面を作ったサムライを盗み見、さりげなくを装って話題を変える。
 「レイジ見なかった?」
 「一緒ではないのか」 
 逆に聞き返された。事情を知らないサムライには、俺にひっつくのが大好きなレイジが今この場にいないのが奇異に思えるんだろう。
 「一緒じゃねえから聞いてるんだよ。どこほっつき歩いてるんだアイツ。俺のデビュー戦見ねえつもりかよ、薄情者だな」
 「地下停留場に降りるときは一緒じゃなかったのか」
 「……ひとりで先行っちまったんだよ」
 だんだんむかむかしてきた。大事な試合前だってのに、なんでレイジのことで頭一杯にしなきゃなんない?試合のことだけに集中したいのにレイジが姿見せないせいでどうにも落ち着かなくて、視界の隅を茶髪が過ぎるたびについ目で追ってしまう。
 「……あーもう、なんだよアイツ。頭くるな本当に。だいたい100人抜き言い出したのはアイツなのに、俺が勝とうが負けようがもう興味ねえってかんじだし今日なんか俺になにも言わずにさっさと行っちまうしさ!つきっきりで応援してほしいわけじゃねえけど試合前に顔くらい見せるのが礼儀だろが。自己中な王様はこれだから……なんだよ」
 「……いや。わかりやすい性格をしてるな、と感心しただけだ」
 「お前に言われたくねえ」
 ばつ悪げにそっぽを向けば、視界に見慣れた顔がとびこんできた。地下停留場の人ごみに揉まれ、ふらふら歩いてきたのは鍵屋崎。今までどこをほっつき歩いてたのか、心なし顔が青ざめていた。
 「鍵屋崎、今までどこへ行っていた」
 鍵屋崎の顔色の悪さに眉をひそめたサムライが、無意識に力をこめ木刀を握る。さっき、俺が冗談で言ったことが頭にあったのだろう。鍵屋崎を見守る顔には労りと悋気が入り混じった複雑な色がある。
 「……どこでもいいだろう、僕の行動範囲について他人にとやかく詮索されたくない。保護者気取りで束縛するのも大概にしろ。たとえば僕が図書室に本を借りにいくときでも君に逐一告げなければいけないのか、借りた本の題名に至るまで報告義務があるのか?わかった、なら教えてやろう。先日僕が借りた本はアガサ・クリスティのアクロイド殺し、アーサー・コナン・ドイルのホームズ全集、マイナーどころではバリンジャーの歯と爪。感想を求めるなら二百字以内で簡潔に要約するが、」
 「わかった、疑った俺が悪かった」
 「わかればいい」
 鍵屋崎の長口舌に嫌気がさしたか、サムライがうんざりとため息をつく。今日の鍵屋崎は何故だかいつも以上に刺々しい。鍵屋崎が苛立ってるのを察しいったん口を噤んだサムライだが、鍵屋崎の首筋にキスマークが残ってないかうしろめたげに確認してるのをばっちり目撃しちまった。
 「顔色悪いけど、何かあったのか」
 「人ごみに揉まれて気分が悪くなっただけだ。すぐ治る」
 俺が聞けば、鍵屋崎がそっけなく答える。俺のデビュー戦だってのにレイジは顔見せないし鍵屋崎はつれないしサムライは鍵屋崎しか眼中にないし、なんだかだんだん腹が立ってきた。なんだこの扱いの悪さは。
 そうだ、一応鍵屋崎にも聞いとこう。
 「なあ、レイジ知らない?」
 鍵屋崎がぎくりとした、ように見えたのは錯覚だろうか。
 「どこほっつき歩いてるんだよ、あいつ。もうすぐ試合始まっちまうのに……今日の試合、あいつもでるんだろ。まあ俺が凱に勝ったらの話だけどさ……あ。まさか、はなから俺が勝つなんてありえねえって手前勝手に決めこんで図書室でフケてたりして」
 「それはないない」
 鍵屋崎を押しのけ、顔をだしたのはヨンイル。隣にはちゃっかりホセもいた。
 「今日はレイジ見かけてへんで。図書室にもおらんかったし、地下停留場に下りとるもんやと思いこんでたけど」
 「ロンくんのデビュー戦だというのに姿を見せないなんてレイジくんらしくありませんねえ。あ、わかりました、ロンくんの勝利を願掛けにいったんですよ。ご存知ですかヨンイルくん、東京プリズンの七不思議。東棟三階五号房こと別名開かずの房の前に煙草をワンカートンおそなえするとリンチで殺された囚人の幽霊が願いを叶えてくれるという噂。煙草の銘柄はアメリカンスピリット」
 「そんな七不思議聞いたことねえしリンチで殺された囚人の幽霊って生々しすぎだし東京プリズンに何人いるんだ」
 つっこみで息が切れた。
 てきとー言うなとホセを睨みつける。俺をリラックスさせようとホラ話を吹いたホセが「ほんのお茶目なのに」と哀しげな顔をする。とは言え、ヨンイルとホセが応援にきてくれて何とか格好がついた。応援団の威勢と人数じゃ完璧凱に負けてるが、西のトップと南のトップの二強が味方についてるのは心強い。
 「地獄の一週間を経て猛特訓の成果を披露する日がやってきました。頑張ってくださいね、ロンくん」
 「俺の一週間を地獄にしたのはお前だけどな」
 ふと、ホセが持ってる物に目を落とす。ホセが持参したのはグローブとヘッドギア。
 なんだこれ。
 「吾輩が外で愛用していたグローブとヘッドギアです。吾輩迷信深いのでね、ちょっとした縁起担ぎですよ。地下で行われていた賭けボクシングでは22試合20勝2敗、そのうち15試合KO勝ちの戦績を残した吾輩の血と汗と涙とそれ以外のものがしみついたグローブをはめればすなわち無敵、何も恐れるものはありません」
 「それ以外のものってなんだよ、変な汁じゃねえだろうな」
 背中に手を隠して警戒すれば、ホセがにっこり笑う。
 「闘魂です」
 なるほど。ホセから手渡されたグローブをしげしげ観察すれば、よほど使いこんだと見えてボロボロで、執念とか怨念とか呼ぶにふさわしい瘴気が漂ってきそうだ。
 「ボクシングやったことないんだけど」
 「気合でなんとかなります」
 「喧嘩は素手がいちばんだって俺の信念は」
 「こぶしが砕けます。完治一ヶ月はかかります」
 ……不承不承ヘッドギアを装着する。完治一ヶ月の骨折はご免被りたいのが本音だ。グローブをはめ、紐を口にくわえて結ぼうとしてさんざん試行錯誤する俺を見かねたホセがため息をつき横から手を出す。
 「手のかかる子ですね、ロンくんは」
 お袋みたいなことを言う。いや、俺のお袋はこんなことやっちゃくれなかったが。手際良く紐を結び終えたホセが「これでよし」と満足げに頷き、顎をひく。
 「ではいってらっしゃい。吾輩友人としてコーチとして、リング脇にて精一杯の声援を送らせていただきます。正々堂々お相手をぶちのめしてきてください」
 「武運を祈る」
 俺とホセのやりとりを黙って見つめていたサムライが重々しく口を開く。
 「明日のジョーかがんばれ元気か1ポンドの福音かはじめの一歩か……漫画の主人公になりきっていてもうたれ、どつきどつかれどつきまわされるのも人生勉強や。真っ白に燃え尽きてこい」
 腰に手をあてたヨンイルがけらけら笑う。ヘッドギアを装着し、グローブを嵌め、準備完了。あとは試合開始を待つばかりの俺のもとへ大勢の人間が近付いてくる。
 売春班の面々だ。
 なんでこいつらがこんなところにと驚く。売春班での悪夢の一週間、「裏切り者」「卑怯者」と通気口から罵声を浴びた苦い記憶がよみがり喉が詰まる。また因縁つけにきやがったのか、とガンをとばせば中のひとりが俯き加減に進みでる。
 「ルーツァイ」
 鍵屋崎が呟く。それがこいつの名前か。ツラを見て思い出した、俺の初恋のメイファとおなじ名前のガキがいる囚人だ。
 「喧嘩売る気なら買、」
 『加油』
 「え」
 中国語で「頑張れ」と言われて面食らう。毒気をぬかれた俺をわらわらと取り囲み、壁越しの生き地獄をともに体験した元売春夫たちが口々に言う。必死の形相で、興奮にはやる口調で、一斉に謝罪する。  
 「その、いまさらこんなこと言う資格ねえけど、俺たちみんなお前に頑張ってほしくて」
 「売春班にいたときゃひでえこと言ったなって反省してるんだ。本当に」
 「俺たちが男にヤられなくてよくなったのも東のトップが100人抜き宣言したからだし、お前にはでっけえ借りがある」
 「だから、お前がペア戦でるって知っていてもたってもいられなくて応援にきたんだ」
 輪の中心で叱咤激励され、呆然とする。紅潮した顔をぐるりに並べ、唾をとばし、一生懸命まくしたてる連中から助けを求めるように鍵屋崎へと目を転じればあきれた顔をされる。
 「覚えてないだろうが、ボイラー室に監禁された君の窮地を救ったのは彼らだ。彼らが一致団結して救出作戦に臨まなければ、君はあのまま凱の子分どもに嬲り殺されていた」
 「マジかよ」
 「マジだ。感謝しろ」
 感謝しろと命令され、はい感謝しますと言えるわけがない。『加油』と連呼されてもやっぱり俺は仏頂面で黙りこむしかなくて、でも何故だか顔が熱くなって気分が高揚して、素直に喜びを表現できないけれど胸がむずがゆいこの感覚を名付けるなら「照れ臭い」とか「気恥ずかしい」で。
 その、こういうのも、まんざら悪くない。
 「男にケツ売るしか取り柄のねえ売春夫崩れが調子のるんじゃねーよ」 
 頬をぶたれた気がした。
 なまぬるい空気が一瞬で凍りつく。声は対岸からだ。対岸の入り口に陣取った凱の子分が、態度悪く足元の床に唾を吐き陰口を叩き、あるガキは胸糞悪いにやにや笑いを浮かべ、あるガキは怒り肩で金網を蹴り付、売春班の面々に取り囲まれた俺に罵詈雑言を浴びせる。 
 「リングとベッドではりきる場所間違えてるんじゃねえか」
 「性病持ちの売春夫崩れが、なよなよしたカマ野郎どもが、お仲間の晴れ舞台にこぞって駆け付けてぴいぴいさえずりやがってよ!」
 「おっと、あそこにはいんのが俺が贔屓にしてるガキだ」
 金網にしがみついたひとりが顔面蒼白のルーツァイを指さす。
 「ひさしぶりだなー痔は治ったか。覚えてるだろ、初客のツラくらい。思い出すなあ、初めて犯してやったときのこと。お前ときたらガキの名前呼びながらびいびい泣き喚いて、あんまりうるせえから顔面ぶん殴ってやったら奥歯が根っこからポロッととれてそのまま飲みこんじまったんだよなあ。まあ問題ねえだろ、カルシウムでできてんならいい栄養分になったはず……」

 ―『看不起』―

 「……なんだと?」
 あれだけうるさかった野次がぴたりと途絶える。金網を揺すりたて、地響きたてて足を踏み鳴らし、俺を始めとする売春班の面々と口汚く罵倒してた中国人どもが険悪な表情に豹変。
 「聞こえなかったかゲス野郎。ならもう一回だ」
 怒りが限界を超えれば逆に冷静になる。心は奇妙に落ち着いていた。笑みを浮かべる余裕さえあった。ああ、そうか、こういうことなのかと自分でやってみて実感する。
 心の底から怒っていても、不思議と笑みを浮かべることはできるもんだな。
 レイジも俺も、違わないじゃないか。
 「『看不起』……俺の国の言葉で、お偉い中国人サマ軽蔑しますと言ってさしあげたんだよ!」
 自分の絶叫でびりびり鼓膜が震えた。
 怒気の風圧におされるように凱の子分の何人かがあとじさり、何人かが吼えた。俺のまわりにいる奴はぽかんとしてた。鍵屋崎もサムライもヨンイルも売春班のガキどもも、俺の剣幕に圧倒され目を丸くした。ただひとりホセだけが、教え子の成長をよろこぶ教師のように満足げに微笑した。
 「外野はひっこんでろ、中国人の野次はレイジの鼻歌よか耳障りな雑音だ。発情期の馬だってもうちょっと上品な声で鳴く。ああそうだ、俺も思い出したぜそこのガキ。どっかで聞いたことある声だと思ったら通気口から漏れてきた声とおなじだよ、『イク、もうイク、イッちまーう』ってはでによがり声あげてたなあこの早漏。てめえの声がいちばん大きかったからよっく覚えてるぜ。なんなら今ここでバラしてやろうか、お前が何回イクイク連呼して何回イッたのか」
 「!……くっ、」
 恥辱に赤面したガキの横で哄笑が弾ける。見れば凱が腹を抱えて笑っていた。
 「言うじゃねえか、俺たちにびびって逃げ隠れしてた半半が。猫かぶるのはやめたのか」
 「こいよ凱、おまえにケツ狙われるのはいい加減うんざりだ。腐れ縁に蹴りつけてやる」
 一呼吸おき、凱をグローブで手招きする。
 『我叫龍、不是半半』 
 俺はロンだ、半半じゃねえ。
 不敵に鼻を鳴らした凱が、子分どもの声援と喝采に送られてリングに上がる。リングの照明が強まり、ゴングを抱えた看守が急ぎ足でリング中央に参じ、売春班のガキどもに見送られて俺も歩き出す。鍵屋崎とサムライの前を通り過ぎるとき、俺の試合などさっぱり興味がないと取り澄ました鍵屋崎が小声で呟いた。
 『小心、龍』
 気をつけろ、だと。
 言われなくてもわかってるっつの、お節介め。 
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