少年プリズン

まさみ

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二百十五話

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 シャワーは二日に一度と東京プリズンの規則で決まってる。
 今日は二日に一度のシャワー日。ホセの特訓で汗をかいたからシャワーは有り難い。強制労働終了後のラッシュに巻きこまれないよう早めの時間にとっとと行って戻ってきたらレイジがいた。
 気まずい。
 なにも気まずくなる必要はないんだがレイジの過去を聞いてから顔を合わせづらく、ここ何日かというもの俺はずっとレイジを避けまくってた。昨日の夜なんかふざけてキスしようとしたレイジを「近付くな」と突き飛ばしちまった。レイジが俺のことからかうのには慣れていて、あの程度でむきになるなんてらしくない。東京プリズンで生活するには我慢が肝要なのに。  
 今日、ホセと話して少し吹っ切れた。レイジの過去をぐだぐだ気に病んでても埒が明かない、レイジの笑顔を疑い出したらきりがない。疑心暗鬼に苛まれてこれまでどおりレイジと付き合えなくなるのはごめんだ。レイジは馬鹿で尻軽で無節操な女たらしだけど結構いいやつで、俺のことを親身に気にかけてくれる大事なダチだ。こんなこっぱずかしい台詞とても本人にゃ面と向かって言えないけど、でも俺はレイジが嫌いじゃない。嫌いになりたくない。鼻歌まじりにサーシャの背中を切り刻む残忍な本性がレイジに隠されててもびびっちゃいけない、ダチにびびったらおしまいだ。
 鉄扉が閉じる音がやけに耳にこびりついた。鉄扉の震動が壁に伝わり、鈍い残響が空気を震わす。レイジは自分のベッドに腰掛けて本を読んでいたが、扉が閉まる音に反応して顔を上げた。本を閉じ、脇におき、「よお」と親しげに笑いかける。気安げな笑顔。この笑顔が嘘なんてオチ、あってたまるか。
 「なに読んでたんだ」
 唾を嚥下し、房の中へ歩み入りながらできるだけさりげなくレイジに声をかける。シャワーを浴びた直後のせいで体は火照っていた。髪からはまだ水滴が滴ってる。不安をごまかすためにしっとり湿った髪に意味なく触れ、撫で付ける。その足で自分のベッドには帰らず、レイジの正面に立つ。レイジなんか怖くないと他ならぬ自分に証明するために、レイジを怖がる必要なんかこれっぽっちもないと自分にわからせるために。大丈夫、普通に話ができる。今までどおり、これまでどおり、レイジと普通に話ができる。警戒しなくても緊張しなくてもいいんだ、相手はレイジだ、警戒したり緊張する必要がどこにある?
 「へミングウェイの短編集。お前も読む?あとで貸してやるよ」
 「要らない。漫画しか読まない主義だ」
 「読まず嫌いは人生損するぜ。殺し屋の話とかおもしろいのに」 
 『殺し屋の話』
 シャツの下で心臓が跳ねる。自分から振ったくせに話題に乗ってこないつれない俺に、レイジは軽く肩を竦めた。殺し屋、レイジの仕事は人殺し。それは殺し屋ということか、レイジはむかしだれかに命令されて人を殺してたのか?ガキの頃からずっと?糞まみれの真っ暗闇に何日も何十日も閉じ込められ聴覚を高める訓練は、効率良く人を殺すため、後天的に五感を磨く訓練だったのか?
 「……鍵屋崎も本好きだけど、お前もいい勝負だな。寝る読む食う以外やることねーの」
 「殺る」
 「引く、そのオチ」
 冗談のつもりが冗談に聞こえない。本を片手に持ったレイジがちらりと俺を見上げる。意味ありげな目つきが気になり、「なんだよ」と眉をひそめれば、俺の注意を引いたことに満足したレイジがしてやったりと微笑する。
 「ロン気付いてた?鍵屋崎が俺らを低脳よばわりしなくなったの」
 「え?」 
 ……言われてみれば、たしかに。ここ最近鍵屋崎に面と向かって低脳呼ばわりされてない。サムライはもとより俺とレイジ、この三人に対してはどういう心境の変化か低脳呼ばわりを控えるようになった。ベッドに腰掛け、優雅に長い足を床に投げたレイジが断言する。
 「低脳から凡人にグレードアップしたんだ」
 「グレードアップって言うのか、それよ」
 「こまかいこと気にすんな、鍵屋崎が俺たちにも心許し始めたって証拠じゃねえか」
 「心許し始めてるふうには見えねーけど、初めて会った頃よかマシになったな」
 以前の鍵屋崎なら俺が1メートル範囲内に接近しただけで黴菌にでも感染したような拒絶反応を示しただろうが、今は品よく眉をひそて控えめに不快感を表明するだけだ……いや、実はあんまり変わってないか。
 まあ、近くに寄っても追っ払われないだけ有り難い。鍵屋崎もサムライの尽力で潔癖症が改善され、東京プリズンの悪環境に馴染んできたんだろう。そう結論してひとり頷いてれば、レイジが気まぐれに話題を変える。
 「そっちはどうだ?ホセのしごきに耐えてペア戦デビュー果たせそうか」
 「ああ、順調だ。最後の仕上げ、バーサーカーホセのパンチ全部よけきったぜ」
 虚空にこぶしを打って今日の成果を報告する。声から得意げな響きを汲み取ったレイジが「マジで?」と目を見張り大袈裟に驚く。ホセが言ったとおり、レイジは大層喜んでくれた。
 「すげえじゃんロン、たった五日で大進歩だ。成長期だね、気のせいか背も伸びたんじゃない?あ、シャワー浴びたばっかで髪の毛立ってるだけか」
 「汚い手でさわんな馬鹿。背だって0.2ミリぐらい伸びてんだよたぶん」
 発作的にベッドから腰を上げたレイジが嬉々として叫び、俺の頭の上にてのひらを通過させる。頭の上を往復するレイジの手を乱暴に払い落とし、可愛げないと評判の三白眼で睨みを利かす。このやりとりも随分と久しぶりだ。レイジにからかわれるのは不愉快だけど、心のどこかじゃレイジと馬鹿やる居心地のよさも感じてる。
 俺にホセを紹介したレイジは、この結果に大満足。ホセのパンチを無傷でよけきれたのは俺が思った以上の偉業らしく、語彙が少ないレイジは「すげえすげえ」を馬鹿みたいに連発してはしゃぎまくってた。いや、そんなに喜ぶなよ恥ずかしいと俺の方が幾分冷静さを取り戻して遠慮したくなる。
 「五日で成長したな、ロン。次のペア戦もばっちりだ、応援してるぜ」
 「ああ、凱なんか一発でのしてやる。応援席で指くわえて見てろよレイジ、てめえの出番なんかねえぞ」
 「おっと、背は小さいくせにでかくでたね」
 「殺すぞ。ホセの特訓地獄から生還した俺は怖い物なし、凱だってお前だって屁じゃねーよ」
 レイジの胸を指でつついて挑発したのは、今の自分が以前の自分とちがう確信があったからだ。この五日間、情け容赦ない鬼コーチに徹底的にしごかれた今の俺には怖い物なんかない。レイジの笑顔も悲惨な過去もちゃんと受け止めてやる。決意を新たに毅然とレイジと向き合えば、いたずらっぽい笑みを口元に添え、さりげなくレイジが提案。
 「試してやろうか?」
 「?」
 「お前がどんだけ強くなったのか王様が試してやる、って言ってんだ。怖いならやめとくか」
 「はっ、笑えるぜ。お前みたいにへらへら笑ってる腰抜けたまなし野郎にびびっちゃおしまいだ、都下最大スラム池袋育ちを甘く見んなよフィリピ―ナ」
 腰に手をあてて啖呵を切れば、俺の心意気に満足したレイジが「よし」と膝の屈伸運動を始める。俺のデビュー戦を間近に控えたほんの準備運動、俺の力量を見極めるテスト。喧嘩っ早くて負けず嫌いな俺の性格を見越して喧嘩吹っかけてきたレイジにびびるなんて冗談じゃねえ、俺のこの五日間を無駄にしないためにも乗せられたふりで乗ってやろうじゃんか。売られた喧嘩は買う、相手がレイジだろうが関係ない。東京プリズン最強の王様自ら揉んでくれるってんなら有り難く挑戦受けてやる、俺自身自分がどれだけ強くなったのかはっきり目に見える形で結果が欲しい、どんだけ強くなったのか知りたくて試したくて体がうずうずしてる。
 体が疼いて血が騒いで目の前に相手がいるなら、タマ抜かれた犬みたいに逃げ隠れする理由はどこにもない。レイジを凱だと思って、東京プリズン入所以来ためにためこんだ積年の恨みを晴らしてやる。 
 やる気満々の俺のまえでサッと両手を挙げ、レイジがルールを説明する。
 「簡単なテストだ。俺は一切手だししない、お前はどうぞお好きなように。パンチでも蹴りでも頭突きでも何でもこい、王様の度量で受け止めてやる」
 「手加減してくれるってか?有り難いねくそったれ、遠慮せずにかかってこいよ」
 「遠慮?ちがう、保険だよ。お前を殺さないための保険」
 なめやがって。
 こめかみの血管が熱く膨張する。余裕かましてられんのも今のうちだ。レイジは腰に手をついてにやにや笑ってる。「さあ、いっちょ揉んでやるか」という大胆不敵なポーズにはらわた煮えくりかえる。鼻歌まじりにサーシャの背中を切り刻んだ?だからどうした、全然怖くねえ。今レイジはナイフを持ってない、武器なんか何も身に付けてない無防備な状態を晒して涼しげなツラに意地でも一発お見舞いしてやらなきゃ腹の虫がおさまらねえ。
 「本気だしてこいよ」
 裸電球の下、房の真ん中に立ったレイジが不敵に笑う。くそむかつく、今まで心配させられたぶん倍の倍にして返してやる。コンクリ壁に四囲を塞がれた狭苦しく息苦しい房で、レイジは奥の壁を背にモデル立ち、俺は扉を背に身構える。均整のとれた優美な体躯に垢染みた囚人服を纏い、裸電球の光で干した藁に似た茶髪を輝かせ、耳朶に連ねたピアスを鈍くきらめかせ、レイジが怪しく笑う。右腕を虚空にのばし、端から順順に指を折る。
 『Come on baby』
 「fackingがほざくな!」
 十字架へのキスを合図に床を跳躍して加速、レイジに接近。ファックな王様は余裕の笑みを浮かべて右足を軸に半回転、がむしゃらに突っ込んだ俺がたたらを踏むさまを嘲笑う。くそ憎らしい。足腰を踏ん張りその場に踏み止まり体勢を立て直すが早くレイジの鳩尾にこぶしをくりだす。ホセ仕込みのこぶしの威力は絶大、まともに食らえばその場に膝を折るはず。
 「!ちっ、」
 舌打ち。鳩尾を狙ったこぶしはラクにかわされた。ステップを踏んで後退したレイジが十字架の鎖を虚空にそよがせて言う。
 「その程度かよ。ガキのままごと遊びじゃねえんだぜ、退屈させんなよ」
 ……殺す。絶対殺す。
 こぶしを握り固め再びレイジに突進、右頬めがけてこぶしを放つ。「おっと」と呟いたレイジが首を倒してこぶしをかわし、風圧におくれ毛がそよぐ。レイジが首にかけた十字架が蛍光灯の光を反射して眩しい。監視塔でサーシャが敗北を喫したのは十字架の光に目を射られて動きに一瞬の遅滞が生じたからだ。レイジの胸元をまともに見るな、十字架を直視するな。裸電球に輝く十字架に目を細め、腕を戻すより早く片足を振り上げる。
 「!」
 レイジの太股を蹴ろうとして失敗。レイジはおそろしく勘がいい、パンチだろうが蹴りだろうが呼吸のリズムでたちどころに読まれてしまう。野郎、音痴なくせに音感がいいなんて反則だと歯噛みしつつ焦りを隠せずレイジの隙をさがす。
 隙がない。
 傍目にはだらしなく突っ立ってるようにしか見えないのに、壁を背に腰に手をおいたラクな姿勢で寛いでるようにしか見えないのに、どこにも隙がない。そんな馬鹿な、隙がない人間なんているもんか、さがせばきっとあるはずだ。集中力を極限まで高めてレイジの隙をさがす、レイジの隙、隙―
 畜生、見つからない。こんなに焦って血走った目でさがしてるのに何も見つからない。あたりまえだ、そんなものはなからないのだから。隙を見せたらおしまいだ、一瞬の隙が命取りだとレイジはだれよりもよく知ってるに違いない。だから隙がない。無防備にリラックスしたポーズをとりながら四肢の端々まで殺気を循環させ、口元には薄笑いを浮かべてるにもかかわらず双眸には冷徹な判断力を宿し。
 「っ、」
 逃げるな、しっかりしろ俺、ここで引いたら負けだ。レイジの目をまともに見るな、深淵にとりこまれる。頭の片隅の理性が脳裏で警鐘を鳴らす。こいつはやばいやばいやばい……危険だ怪物だ逃げろ逃げるんだ馬鹿!馬鹿はどっちだ、いまさら逃げられるかやめられるかレイジ相手にびびってたまるか!逃げ腰の自分を叱咤し、右左正面へとめちゃくちゃにこぶしを放つ。こぶしだけじゃない、脛に膝に太股に鳩尾に蹴りをくれようと交互に足を振り上げる。
 なんで当たらないんだ。もう十分は経過してる。一発くらい当たっても、掠ってもいいだろ?
 焦りが混乱を招き恐慌状態に陥る。息が苦しい、肺が干上がりそうだ。俺が一方的に動き回って体力消耗してるだけで、レイジは暇そうに突っ立ってるだけ。実力差は歴然、所詮俺じゃレイジの足元にも及ばないのか?五日間血反吐吐く思いで地獄の特訓に耐えてもレイジにかかりゃ赤子同然、本気だす価値もない相手なのか?
 くそ。
 諦めてたまるか、引いてたまるか。俺だって腕に覚えがある、東京プリズンにくる前はさんざん暴れた前科持ちだ。レイジに守られて庇われて凱になめられるのはこりごりだ、俺も強くなったんだって、俺もお前の相棒を名乗れるくらい強くなったんだってレイジに証明してやる。
 レイジに翻弄され、息を切らして駆けずりまわる。頭を低め首を竦め肩を逸らし猫みたいに身を捻り、蹴りもこぶしも全部回避。レイジの反射神経は尋常じゃない、ほんのちょっとした息遣いの乱れで次の攻撃を読んで退避する。苦しい、息が限界だ。シャツの内側も外側も汗でぐっしょりぬれてる。シャワーが台無しじゃねえか。もう降参しちまいたい……いや、まだまだだ。まだイケる、倒れるまでイケる。根性で弱音をねじ伏せ姿勢を低めて床を跳躍、レイジに何度目かの突進―
 耳朶を歌が掠めた。
 レイジの鳩尾にこぶしを叩きこもうとした俺の耳朶を掠めたのは、へたな鼻歌。甘く掠れた声の独特の響き自体は決して悪くないのに音痴なせいで台無しの歌声が低く、かすかに流れてる。
 俺のこぶしをよけながら、蹴りをかわしながら、レイジはずっと鼻歌を口ずさんでいた。
 サーシャの背中を切り刻んだ時に唄っていた、夢の中で唄っていた英語の歌。
 ストレンジフルーツ。
 「……ふざけやがって、」
 理性が一片残らず蒸発した。もう手段は選ばない、本気で全力でレイジに挑んで吠え面かかせてやる。ひとおちょくるのも大概にしろ、のんきに歌なんか唄いやがって。鼻歌まじりに手ほどきされるやつの身にもなってみろ。
 心臓の鼓動が高鳴り、全身の血液が燃え滾る。体が発火しそうだ。レイジに対する怒りが爆発し、目の前が真っ赤に染まり、奇声を発してレイジに突っ込む。大きく腕を振りかぶればレイジが「その手にはのらねえよ」といわんばかりにふっと身をかわす。

 隙ができた。
 虎視眈々と、俺が狙っていた隙が。

 自慢の瞬発力を発揮し、迅速にレイジの背後に回りこむ。パンチはフェイント、パンチをかわした直後に生じた隙につけこんで背後をとった俺は形勢逆転の勝機に歓喜し、レイジの後頭部に手を伸ばす。 
 「!!」
 襟足で一本に結わえた後ろ髪をおもいきり掴む。手加減はしない、頭皮から剥がれんばかりに容赦なくおもいきり力をこめて。後ろ髪を引かれたレイジの後頭部が仰け反り、無理矢理振り向かされたレイジの顔面めがけて会心の一撃を見舞おうとし……
 その瞬間、戦慄が走る。 

 虚無。
 これは人間の目じゃない、心ない怪物の目だ。

 後ろ髪を掴まれ、勢い良く仰け反ったレイジと一瞬目が合う。なんて目だ。ぞっとする。人を人と見てない冷酷な目、なんて綺麗な目だ、吸いこまれる―
 


 衝撃。



 ………か、はっ」

 頭が真っ白になった。
 何が起きたのか理解できなかった。理解できないまま、鳩尾を襲った衝撃に吹っ飛ばされ床に叩き付けられて背骨が軋む。蹴られた腹を無意識に庇う動作で理解した、体ごと振り返りざまレイジに蹴られたと。
 まさか。レイジが俺を、蹴った?
 何メートルくらい吹っ飛んだんだろう、1メートル以上は吹っ飛んだ気がする。痛い、なんてもんじゃない。つま先で鳩尾を抉られ、胃袋が圧迫され、その場に手をついて嘔吐する。胃の内容物全部をぶちまけてもまだ嘔吐感が食道をせりあがって口腔じゃ唾液と胃液がまじりあって、口の端から粘着の糸を引いた。
 痛い。目が眩む。額に脂汗が滲んで四肢が痙攣する。肘をついて上体を起こそうとして吐瀉物にすべり、みじめに突っ伏す。自分が吐いた物の海にうずくまり、片腕で鳩尾を庇い激痛に耐える。
 死んほうがマシな激痛って本当にあるんだ。今まで食らった誰のどんな蹴りより、レイジの蹴りがいちばん痛かった。お袋よりお袋の客より敵チームのガキより凱より誰より、レイジの蹴りがいちばん的確に急所を抉って意識が吹っ飛ぶ激痛を与えた。
 咳をすれば腹筋が痛む。ふと気付けば頬がぬれていた。激痛に涙腺が緩み、生理的な涙が後から後からあふれてくる。痛い、痛すぎてすぐさま立ち上がれない。床に手をついて上体を起こしかけては吐瀉物にすべってぶざまに突っ伏すくりかえしで、いまだに体勢を直せない。
 なんでこんなことに?
 そりゃ卑怯な手は使ったけど、手は出さねえって約束したじゃんか。
 激痛に思考が散らされ頭が錯乱し、本能的恐怖に理性が駆逐される。ガキの頃から馴染んだ身近な感情、言葉の通じない人間に対する恐怖と嫌悪と服従心。理屈が通じない強者に屈従を強いられる屈辱。
 
 唐突に、頭上に影がさした。     

 眼前にレイジがいた。レイジの表情は裸電球の逆光で見えなかった。闇に沈んだレイジの顔を見上げ、芋虫が這うように必死にあとずさる。
 レイジが怖い。
 あの目は怪物の目だ。レイジは怪物に戻った、俺のせいだ、だから俺を殺す。
 『暴君やな、アレは』
 サーシャの背中に刻まれた無数の傷痕。残忍きわまる敗北者の烙印。
 だれがこんな恐ろしいことを。
 だれがこんな残酷なことを。
 『レイジくんですよ』
 「―っ、あ」
 ヨンイルはレイジが暴君だと、言葉の通じない暴君だとそう言った。ホセも肯定した。リョウはなんて言った?
 『むかしのレイジはね、怖かった。今の比じゃない』
 『レイジはサーシャからナイフを借りた。当時のサーシャは今ほど荒んでなかったから公平を期して敵に武器を渡した。それが仇になったんだね、戦いは二十分でカタがついた。サーシャは疲労困憊でその場に倒れ伏して、もう誰がどう見てもレイジの勝利は確実で、でも王様は容赦しなかった。サーシャの背中を踏み付けてナイフを振り上げて』
 振り上げて、それからどうした?……刺したんだ、切り刻んだ。敗北したサーシャに一片の慈悲もかけず、同情もせず、鼻歌まじりに笑いながら。
 俺も、そうなる?
 そうだ抵抗しなきゃやられる、無抵抗でいたらやられちまう。いつも今までもそうだった、外でもここでもずっとそうだった。やらなきゃやられる殺らなきゃ殺られるいやだ死にたくない死んでたまるか!!
 吐瀉物につかり、片腕を腹に回し、芋虫が這うように床を逃げながら服の胸元をまさぐり、震える指先で安全ピンを毟り取る。誰も助けてくれない、なら自分でやるしかない。痛い、痛すぎて気がおかしくなりそうだ。口内に苦い胃液がたまり、猛烈な吐き気がこみあげてくる。抵抗しなきゃ殺される。一歩間違えばさっきの蹴りで胃袋が破裂してた。
 眩暈がする、視界が歪む。ああ、喉が焼ける……
 レイジがすぐそこまで近付いてた。表情は翳ってわからないが、暗闇に沈んだレイジの顔が夢の中のガキと重なり鼻歌の幻聴が聞こえて。
 レイジがゆっくりと動き、俺の方へ、首へと手をのばす。
 夢の中のガキがそうしたように、俺の頚骨を折ろうと首に手をかけて―
 いやだ殺されるのはいやだこんな殺され方はいやだ近付くなさわるなあっちへいけ、頼むこっちにくるなお願いだから!! 
 恐怖で頭が真っ白になり、衝動が抑制できずに奇声を発し、レイジの手の甲を容赦なく叩き落とす。 
 「!っ、」
 翳った口元から苦痛のうめきが漏れる。レイジの手の甲に血が滲む、俺がおもいきり安全ピンでひっかいた痕。安全ピンを握り締めた指が小刻みに震え、やがてその震えは全身に広がってゆく。喉が乾き心臓が鼓動を打ち呼吸が浅く速くなり、頭からその場に突っ伏す。
 頭をたれた負け犬のように、神様に祈りを捧げるみたいに、プライドをなげうち許しを乞い。
 
 「殺さないでくれっ……」

 咳のしすぎで喉が嗄れ、かすれた声しかでなかった。が、レイジの動きを止めるには十分だった。手が腕が肩が体が、全身ががたがた震えていた。汗でぬめった手に安全ピンをしっかり握り締め、決してレイジの顔は見ずに。
 俺にはレイジの足元しか見えなかった。呆然と立ち竦む、その足元しか。
 その足元に、点々と血が落ちた。レイジの手の甲から滴り落ちた、あざやかな血。
 ああ。レイジにもやっぱり、赤い血が流れてるのか。
 「…………」
 レイジの無反応が不安になり、ゆっくり、ゆっくりと顔をあげてみる。レイジは目と鼻の先にいた。俺の方に片手をさしのべた間抜けなポーズのまま、手の甲から滴り落ちる血もそのままに立ち尽くしている。
 「……あは、はは」
 レイジの口から乾いた笑い声がもれた。
 「ごめん、俺やっぱ手加減へただ。ついカッときて約束破っちまって、気付いたら蹴りくれてた。相手がロンだってことも頭から吹っ飛んで、マジになった。ごめんロン、本当に。謝って済むことじゃないけど、えっと……」
 誰かに言い訳してるみたいに、誰かに急きたてられてるみたいな早口でレイジが続ける。混乱してわけがわからなくなった子供のように、ただただ必死に、泣きたくなるくらい必死に。
 俺に掴まれることなく虚空にさしのべていた手を引っ込め、レイジが顔を伏せる。
 俺の、レイジの心の揺れに感応したように裸電球が点滅する中、薄暗い房の真ん中でうなだれて繰り返し謝罪する。感情を押し込めた、悲痛な声で。
 「ごめん。もうさわらないから、さわろうとしないから」
 ああ、もうすぐ何かが終わる。
 次の一言で何かが決定的に壊れてしまう。これまで俺とレイジのあいだにあった何かが、跡形もなく。
 俺はただ床にじっと横たわり、恐怖と怯惰が入り混じった顔でレイジを仰いでるしかなかった。鼻水と涙と唾液と吐瀉物で汚れた俺の顔は酷い有り様だろうが、レイジの比じゃない。
 よわよわしく顔を上げたレイジの表情が、裸電球の光に残酷に暴かれる。
 笑いたくないのに無理して笑ってる、それしかできない悲痛な笑顔。
 なにからなにまで完璧すぎて、泣きたくなる笑顔。
 「……怖がらないでくれよ」   
 
 その時初めて気づいた。
 さっきさしだされた手は、俺にとどめをさす手じゃない。
 俺に手を貸して立ちあがらせるための、俺を助けるための手だったのに。

 気付いた時にはなにもかもが手遅れだった。
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