少年プリズン

まさみ

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二百八話

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 レイジに暴君の時代があった。
 衝撃は冷めやらない。俺が入所する前に起きた戦争のこと、渡り廊下を戦場にした北と東の最初の対決、因縁の発端。リョウの話を聞いてすべてが腑に落ちた。サーシャがあそこまでレイジを憎悪するわけもレイジがああまで東棟の連中に恐れられるわけも。大体おかしいのだ、いくらレイジが化け物じみて強くて連戦連勝無敵無敗のブラックワークトップでも、普段はくだらないこと言っちゃ笑い転げてるバカな王様なのだ。
 威厳なんてこれっぽっちもないにやけ面の王様が、東棟はおろか他棟の連中にまでびびられるにはそれなりの根拠があった。
 早い話、レイジには前科があったのだ。人を傷つけることなどなんとも思ってない冷酷な暴君の過去、人肌を切り刻み血にまみれることで残忍な快楽に酔う怪物の過去。レイジの過去を知る連中が戦々恐々レイジを避けるのはそりゃあたりまえだ。

 さわらぬ王様に祟りなし。寝た暴君を起こすな。

 でも、おかしい。なんで今まで、俺が入所してからの一年と半年、噂好きな囚人どもの口に一言も渡り廊下の対決がのぼらなかったんだ?東京プリズンの囚人はどいつもこいつも好奇心旺盛、野次馬根性旺盛で娯楽と刺激に日々飢えてる。皇帝と王様、北と東の二大トップが渡り廊下で一戦交えたなら今でも語り草になってるはずなのに……
 リョウに種明かしされてもいくつか疑問は残る。ヨンイルとホセ、そしてリョウは俺と出会ってレイジが変わったと証言した。人の肌を切り刻む行為に一片の躊躇もなく、むしろ嬉々として手を血に染めていた暴君が俺との出会いで劇的に変化したと言ったのだ。
 でも、俺はレイジに何もしちゃいない。俺との出会いでレイジが変わったってんなら、俺のなにがレイジを変えたんだ。俺の言動がレイジに影響をもたらすなんてにわかには信じがたい。レイジに影響されたのは俺の方だ。東京プリズン最強の男が身近にいて、寝ても覚めてもおなじ空気吸って生活する毎日でいやというほど自分の非力を痛感した。レイジに比べて俺は全然弱い、弱いから凱やタジマにしつこく付け狙われレイジに世話をかける悪循環から脱したくて酒の勢いを借りて参戦表明までしちまった。
 今の俺じゃレイジの足元にも及ばない。それが悔しくて情けない。ただの足手まといの現状がいたたまれない。レイジと並ぶのは無理でもせめて相棒として恥ずかしくないくらいに強くなりたい、強い俺になりたい。レイジの負担にならない一人前の相棒になりたい。
 ……なんだかこっぱずかしいこと言ってるな、俺。顔から火が出そうだ。
 話を戻す。レイジは俺との出会いで変わったと皆が口をそろえて言う。ヨンイルもホセもリョウもだ。俺は以前のレイジを知らない。俺と出会う前のレイジがどんな奴だったのかレイジがどういった経緯で東京プリズンにやってきたのか、あいつのことを何も知らないのだ。
 俺だけが何も知らず、レイジの相棒気取りでいたんだとしたら?
 これまでの一年と半年で、俺はレイジのことをなにもかもわかったつもりでいた。お笑いぐさだ。俺とレイジが一緒に過ごした期間はたった一年半で、レイジにはそれ以前にも十数年の人生があるのに、俺はたった一年半のレイジしか知らずにあいつのことを語っていたのだ。偉そうに、知ったかぶって。
 レイジのことを何も知らずに、あいつの相棒だって言えるのか?
 何も知らない今の状態のままで、あいつの相棒だって胸をはれるのか?
 「どうしたんだロン、眉間に皺よせて」
 「!」
 噂をすれば影だ。
 目の前に上半身裸のレイジがいた。俺の眉間を指でつついて変な顔してる。どうでもいいが何で裸なんだ?物思いに耽っててレイジが脱いだのにも気付かなかった俺はぎょっと仰け反る。
 「なんで裸なんだよこの露出狂」
 「サービス?」
 「前も聞いたけど男にサービスされても嬉しかねえ」
 とぼけた回答を冷たくあしらえば、「冗談だよ」とレイジが笑み崩れる。俺だけに見せるあけっぴろげな笑顔。そんなに無防備でいいのかよとこっちが心配になる笑顔なのに、ヨンイルやホセやリョウはこの笑顔が嘘だという。レイジの本性は残忍な笑みを浮かべて人肌を切り刻む暴君で、俺が見慣れた笑顔は本性を偽る仮面で。
 そんなことあってたまるか、と心の中で強く否定する。この笑顔が嘘なわけない、以前のレイジがどんだけ頭のとち狂ったやつか知らないが今のレイジは口と尻が軽いふざけた男で、こうしてなれなれしく俺に笑いかけてくる。
 「ひとっ走りして汗かいたからシャワー室行ってきた。上着はほら、あそこに干してある」
 顎をしゃくったレイジにつられて目をやれば、パイプベッドのパイプに生渇きの上着が掛けてあった。特権階級の王様ともなればいつでも自由にシャワーを利用できる。二日に一度しかシャワーを浴びれない俺にしてみりゃ羨ましい話だ。
 上半身裸の王様は気軽に断りもなく俺の隣に腰掛ける。
 「だれが座っていいって言った。自分のベッドに座れよ、ひっつくんじゃねーよ」
 「いいじゃん、俺とロンの仲だし」
 「さも既成事実あるよなまぎらわしいこと言うんじゃねえ。俺とお前の仲ってなんだよ、犬猿の仲か?」
 「寝込み襲ったり襲われたりする仲」
 平然とうそぶいたレイジの顔面に枕をぶつける。
 「だれがお前なんか襲うかっ、襲われてんのは一方的に俺だ俺!」
 「顔真っ赤」
 枕と顔面衝突したレイジが鼻の頭を赤く染め、性懲りなく笑い転げる。俺の方を指さして笑ってるってことは今俺は赤面してるのか?なんで?意味不明だ畜生。レイジの顔面からずり落ちた枕がベッドに落下して間抜けな音をたてる。レイジに付き合ってられるかとベッドに胡座をかいてそっぽを向き、その瞬間、ある事実に思い至る。
 「レイジ、おまえ今日一日中鍵屋崎とバスケしてたの」
 「今日だけじゃない、昨日もだ」
 振り向きざまに確認をとれば、ベッドに手をつき、後ろに反り返った姿勢で床に足を投げたレイジが返事をする。なんたる暇人。俺が必死こいてホセに特訓受けてるあいだじゅう、トロい鍵屋崎を相手にボール遊びしてたってのか?ひとにコーチ紹介しといてその態度はなんだ、余裕ありすぎだろくそったれ。
 最初から強いレイジには特訓なんざ不要だ。俺が一週間地獄の特訓メニューをこなしたところで土台レイジに追いつくのは不可能なのだ。余裕綽々なレイジに反発をおぼえ、幾許かの嫉妬をこめ吐き捨てる。
 「王様は余裕でいいよな、俺に鬼コーチ押しつけて自分は一日中タマ遊びかよ。万能無敵の王様はバスケも得意なんだろ、どうせ。なにかひとつくらい世の中にできないことないの、おまえ?」
 やっかみ半分に皮肉れば、物言わず俺の横顔を見つめてレイジが思案する。物思いに耽る時の癖で、裸の胸に下げた十字架に指を絡めながら。
 「あるぜ。できないこと」
 十字架の鎖を指に巻きながらレイジが呟く。謎めいた微笑を添えて。
 「なんだよ、度を越した音痴で歌が唄えないとか?」
 俺の横顔から正面の虚空に視線を転じ、芒洋と目を細める。口元に微笑を湛えた横顔に束の間見惚れる。不覚だ、いくら綺麗な顔してるからって男に見惚れるなんてどうかしてる。自己嫌悪に苛まれる俺をよそに無心に鎖で遊ぶレイジ。金に艶めく鎖を二重三重と指に巻き、女に飽きた色男の手つきでそっけなく十字架をひと撫で。
 「笑顔」
 さらりと言った。
 「………、」
 絶句した。 
 「……笑顔って、おまえいつでも笑ってんじゃん」
 「そう?そうだな、そうだよな」
 「てきとー言うなよ。おまえくらいへらへら笑ってる人間、他に世界中さがしたっていねえよ」
 「そうかな」
 「そうだよ」
 「そう見えるか」
 「ああ」
 なんだろう、この雰囲気。何でもない言葉のやりとりで口内に唾が沸く。こんなに近くにいるのにレイジがひどく遠ざかった気がする。隣にいるのは本当にレイジか?俺が知ってるレイジか?
 強制労働が終わり、夕食が終わり、短い自由時間を満喫しに廊下にあふれでた囚人の話し声が扉越しに伝わってくる。静寂。
 ふいに、レイジがこっちを向いた。信じてもない神に縋るように十字架を握り締めたまま、ちょっとだけ首を傾げ、微笑む。
 「今の俺、上手く笑えてる?」
 「……笑顔に上手い下手とかあるの?質問が意味不明」
 レイジの問いかけにあきれる。あんまり笑うのが得意じゃない俺が言っても説得力ないが、楽しけりゃ遠慮せず笑えばいいし哀しけりゃおもいきり泣けばいい。上手い下手の問題じゃない、あたりまえに単純なことじゃないか。笑顔も涙も本来感情に直結した生理現象で、作り笑いも嘘泣きも俺はどっちも好きじゃない。レイジはなんだって突然こんなことを聞いてきたんだ、俺にどんな答えを期待してるんだ?
 『おまえが来てからやで、あいつが普通に笑うようになったの』
 耳によみがえるヨンイルの言葉。俺が来てからレイジは普通に笑うようになった。じゃあ、その前は?俺が来る前はどうしてたんだ、どうだったっていうんだ。
 俺が知るレイジはいつも笑っていた。俺が東京プリズンに来た時からずっと、同房になったときからずっと。そうだ、あの時だって。
 あれはレイジと同房になって三日後、イエローワークに配属された俺が一日中シャベルを振って手に豆を作って、豆が痛くて痛くて匙が握れないせいでろくに食事もできなくて、今にもぶっ倒れそうに腹を空かして、空腹をごまかそうとベッドで寝返り打ってたらレイジが顔を覗きこんで。
 『ロンって中国人?名前は中国人だよな』
 そうだ、レイジはしょっぱなからなれなれしかった。俺が空腹でへばってるのにもおかまいなしで、無神経に声をかけてきた。しかも、俺がいちばん聞かれたくないことを聞いてきやがった。レイジの首からぶらさがった十字架が頬に触れ、ひんやり冷たかったことを覚えてる。タジマに殴られて倍に腫れてたから熱冷ましにちょうどいい。
 『……台湾と中国の混血だよ、悪いかよ畜生』
 鼻先に落ちた鎖がうざったくて、目の前にちらつく十字架が鬱陶しくて。なにより蛍光灯を背にしたレイジの笑顔が眩しく、目を細めて吐き捨てる。
 『じゃあ俺とおなじだ』 
 光を透かせば金に輝く茶髪よりなお眩しい笑顔。おなじ?なにがおなじなもんか。俺はおまえみたいに能天気じゃない、出会って三日しか経たない人間になれなれしく話しかけてあけっぴろげに笑いかけることができるほど器用じゃない。俺は疲れていた。東京プリズンに来てまだ三日、なにもかも慣れないことだらけでなにをするにもひどく苦労した。派遣先の砂漠じゃシャベルをあちこちにぶつけて初日から痣だらけ、食堂じゃ先に席を取られ、食事終了時間ぎりぎりまでトレイを持ってうろつく羽目になった。
 ああ、ここにも俺の居場所はないのか。
 そう悟ったら急になにもかもどうでもよくなって、なんにもする気が起きなくなった。
 『おい、せっかく同房の相棒になったんだから仲良くしようぜ。死んだ魚みたいな目すんな、三日もたつんだから自己紹介くらいやっとこうぜ。俺はレイジ、フィリピンとアメリカの混血。特技は女を口説くこと、一部男でも可。好みの女のタイプは気の強い女豹系、好みの男のタイプは気の強い野良猫系……』
 『レイジ?日本人みてーな名前だな』
 『よく言われる。でも英語』
 『英語?』
 仰向けに寝転がったままさして興味もなく鸚鵡返しに問えば、俺の傍ら、中腰の姿勢で顔を覗きこんだレイジが笑う。人に好かれたがってる子供みたいな笑顔。
 『Rage.「憎しみ」って意味の英語。かっこいいだろ』

  レイジ。子供に「憎しみ」なんて名付ける親、どうかしてる。
  
 俺の名前のほうがまだマシだ、ろくでもない親父がつけた麻雀の役名のほうがまだ縁起がいい。なんだってレイジはそんな不吉な名前をつけられたんだ?普通名前ってのは子供に幸せになってほしくて親が祈りと願いをこめてつけるものだろ。
 レイジはまるで、この世に産声をあげたその瞬間から不幸を望まれてるみたいだ。
 俺はレイジのことをなにも知らない。ひた隠しにしてた暴君の過去も、それ以前も。レイジの両親がちゃんと生きてるのかここに来る前はどこでなにしてたのか、こいつのことを何ひとつだってまともに知っちゃいない。
 「……レイジ」
 俺は知りたい、俺と出会う前のレイジのことを。時々無性に不安になる、レイジが今俺に見せてる笑顔か本物かそれとも作り物か見分けがつかずに怖くなる。くだらない冗談言って腹を抱えて笑い転げてるレイジが本当のレイジなのか、リングで脚光を浴びためらいなく凱を絞め殺そうとしたレイジが本当のレイジなのか区別がつかなくなる。自分の目に映る光景が信じられず、レイジの笑顔を鵜呑みにできず、胸が不吉にざわめくのだ。
 唾を嚥下し、上着の胸を掴み、遠くに行ってしまったレイジを引き戻すように名を呼ぶ。遠くへ?馬鹿な、レイジはすぐそこにいるじゃないか。肘と肘が接する距離で隣に座ってるじゃないか。なのになんでこんな不安なんだ、レイジの名前を呼ぶ声が俺の耳にさえ空虚に響くのは何故だ?
 舌で唇を湿らし、慎重に口を開く。
 長い長い逡巡の末に、本人に直接疑問をぶつけてみる。
 「おまえ、ここに来る前はどこでなにしてたんだ」
 「赤い糸を辿って世界一周。終点は東京プリズンで運命の相手は隣に」
 「殴るぞ」
 こぶしを掲げて殴る真似をすれば、十字架を握り締めたレイジが遠い目を虚空に馳せる。長めの前髪越しに透けて見える双眸は天然で色素が薄く、色硝子みたいに透明感のある茶色。レイジの瞳を覗きこむたび茶色ってこんなに綺麗な色だったっけ、毎度新鮮な驚きをおぼえる。サーシャはレイジのことを汚い汚いと罵るが、そんなことはない。光の加減で金に透ける茶髪も濁りない瞳も、顔だちさえ目を疑うほどに綺麗で。
 こんなにどこもかしこも綺麗なのは神様に愛された人間か、悪魔に魂を売ったやつくらいだろう。 
 「……あ。今、右三つ隣で電球が割れた」
 「はあ!?話そらすなよ」
 人が真面目に聞いてるのにそのふざけた回答はなんだ。全然関係ないことをほざいたレイジに抗議の声をあげ、ふと不審に思う。右に三つ先で裸電球が割れた?そんな音、俺の耳には全然届かなかった。あたりまえだ、鉄扉越しの廊下は囚人でごった返して喧騒に湧いてるし房と房の境目には分厚いコンクリート壁が存在してる。
 右に三つ先で裸電球がパリンと割れた音なんて本来聞こえるはずがない。
 「てきとー言うなよ、よく考えたらこの距離から聞こえるわけねーだろ」
 「嘘だとおもうなら確かめてこいよ。地獄耳を信じろ」
 耳を指さし、自信ありげに断言するレイジに半年前の記憶が鮮明に甦る。監視棟に呼び出されたレイジは遠く離れた地上にいながらにして会話を聞き分けた。外ヅラだけじゃなく五感にも恵まれてるなんて天は二物を与えないんじゃなかったのかよと文句をつけたくなる。
 「鍵屋崎も耳いいけどおまえはそれ以上だな。地獄耳は生まれつきか」
 「いんや。暗闇で聴覚を鍛えた」
 「?」
 いきなり何言い出すんだこいつ。不審の眼差しでレイジを見れば、レイジはいつもどおり涼しげな顔でベッドに後ろ手つき、床に足を投げて天井を仰いでいた。
 錆びた配管が這いまわる天井を仰ぎ、静かな口調でレイジが語る。
 むかし懐かしむように、記憶の輪郭を手のひらで撫でまわすように十字架をさぐり。
 「ガキの頃、聴覚を高める訓練をしたんだ。真っ暗い部屋に閉じ込められて外から鍵かけられて。ちょうどここと似たかんじのコンクリートの部屋。広さはどんくらいかな、真っ暗で何も見えないからはっきり言えないけど端から端まで子供の足で歩いて五歩だから……広かったのかな、狭かったのかな。わかんね。とにかく、暗い部屋だった。あんまり暗いんで自分が目を閉じてるのか開いてるのかわかんなくなった。おまけにひどい匂いがした。クソも小便も端っこの溝に垂れ流しで、すえた匂いがこもってた。扉は鉄でできてた。扉の下には四角い口があって、一日二回そこから飯がさしいれられんだけどタダじゃもらえない。飯にありつくためには外から聞こえる銃声が何発か当てなきゃなんない」
 「銃声?」
 「そう、銃声。一日二回外から銃声が聞こえてくる。それが何発か当てなきゃ飯はもらえない、暗闇で飢え死ぬだけ。銃声がしたらおなじ数だけ扉をノックする。コンコン、コンコンコン。当たりゃ飯がもらえる。ドッグフードみたいな味の缶詰のコンビーフ。外れたら当然おあずけ」
 こぶしを掲げて虚空をノックし、レイジがいたずらっぽく微笑む。
 「それ以外にやることないから壁にぴったり耳をくっつけてみたら、隣からもその隣からも泣き声がした。隣の部屋にもその隣の部屋にも、俺と同じくらいのガキが放りこまれてるんだってわかった。みんなわんわん泣いてた。泣いてないのは俺だけ。どれくらい居たんだろうな、あそこに。一週間か二周間か……一ヶ月かな?よくわかんないけど、ずっと閉じ込められてた。最初の日はガキの泣き声がうるさいくらいだったのに、一日経つごとにどんどん細くなって、しまいには隣からもそのまた隣からも声がしなくなって……他のガキが生きてるのか死んでるのかもわかんなくて、真っ暗闇の密室で完全な孤立状態」
 レイジはあくまで淡々と話す。微笑さえ湛え、おぞましいことを話す。途中何度も耳をふさぎたくなった。これ以上聞いちゃいけない、聞いたらきっと後悔する、とびきりの悪夢を見てしまう。これがレイジの過去、子供時代の思い出?糞尿垂れ流しで異臭が淀む真っ暗い部屋に監禁され、飯は一日二度まずいコンビーフが与えられるだけで、それさえ扉越しの銃声を当てなきゃありつけなくて。右隣にも左隣にも隣の隣にも同じような部屋が延々続いてて、一部屋にひとりガキが閉じこめられ、恐怖と飢えに苛まれて発狂寸前まで追いこまれて。
 悪夢みたいな現実を、レイジは淡々と、懐かしげに語る。
 柔和に凪いだ表情で、穏やかな目で、手のひらの十字架を見つめ。
 「そのうち銃声だけじゃなく、扉越しの話し声もあてさせられるようになった。最初の頃はよく外してたけど、最後の方じゃ外すこともなくなった。そりゃこっちは命がけだよ、一日二食の飯が賭かってるんだから。こめかみが痛くなるくらい集中して息を押し殺して、扉にぴったり耳をくっつけて……そうやって訓練して、飯にありつきたい一心で耳を鍛えたんだ。生まれつきじゃない、後天性の地獄耳」
 一転、いつもの能天気な笑顔に戻ったレイジがおどけたように肩を竦める。
 「だから俺、独居房があんまり怖くないんだよね。一週間くらいならへっちゃら。タジマ殺して独居房送りになって、それでロンの貞操守れるなら安いかなって」
 「ばか」
 話が終わった頃には背中にびっしょりと汗をかいていた。いやな汗だ。今のがレイジの過去、子供時代の思い出?コーラの空き瓶を的にパチンコやってたレイジと、泣けど喚けど光射すことがない部屋にうずくまるレイジが上手く重ならない。
 最大の疑問。 
 レイジは一体全体だれに、何の為にそんな非人道的訓練をさせられたんだ?
 缶詰のコンビーフが一日二食のご馳走だったんなら、レイジが缶詰ばっか貯めこむのも納得いく。缶詰の味が特別好きなわけじゃなく、誰ひとり救いの手をさしのべない暗闇で子供心に学習した飢えに対する回避行動。
 そんなの、あんまり悲惨じゃないか。
 「さて、そろそろ乾いたかな」
 レイジが腰を上げ、スプリングが軋む。素早く上着を身に付けて素肌を隠したレイジをよそに、俺はその場から逃げるように腰を上げる。
 「どこ行くんだよ」
 「図書室」
 嘘だ、本当はどこでもない。ただレイジから逃れたい一心で、ひとりになって考える時間が欲しくて、レイジに適当言って鉄扉を開ける。鉄扉を閉める瞬間、ベッドの傍らに突っ立ったレイジの唇がかすかに動き、歌を口ずさむ。
 ストレンジ・フルーツ。奇妙な果実。
 愉快げに鼻歌を歌いながらサーシャの背中を切り刻むレイジを思い浮かべ、わざと乱暴に鉄扉を閉じる。廊下で頭を冷やそうと行くあてもなくさまよいでて、右に三つ先の房のまえを通りかかれば、偶然中の騒ぎが耳に入る。
 「ああもう、どうすんだよこれ!?おまえが枕なんか投げるからだぜ、ちゃんとガラス集めとけよあぶねーえなあ」
 「てめえがエロ本ぶんどったりするからだろうが!」
 「いいか、俺が帰って来るまでにちゃんと掃除しとけ。看守呼びに行って新品取り付けてもらうから」
 「二度と帰ってくんなボケ。俺の愛人に汚え汁つけやがって」
 「けっ、なにが愛人だ。そんなイカくせえエロ本要るか、ケツ拭いて便所に流しちまえ」
 喧嘩腰のやりとりのあと鉄扉が開き、囚人がとびだしてくる。廊下を駆け去る囚人から開け放たれた扉の内側へと視線を転じ、床の真ん中で割れ砕けた裸電球を目撃。天井から落下した衝撃で床一面に裸電球の破片が散らばった惨状に「くそっ」と毒づいてるのは、エロ本ぶんどられた腹いせに枕を投げて裸電球を粉砕した張本人らしい。
 『右に三つ先の房で裸電球が割れた』
 レイジの言ったことは本当だった。分厚いコンクリ壁で遮られていても、廊下がどんなに騒がしくても、右に三つ隔たった房で裸電球が割れ砕ける音がレイジには一瞬で判別できたのだ。
 ぞっとした。
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