少年プリズン

まさみ

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二百三話

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 とんだ災難だ。
 この刑務所の囚人の食事作法が犬にも劣ることは重々承知していたがせめて物を咀嚼する間くらい静かにできないものか。一日の強制労働で疲れ果てているにもかかわらず何故喧嘩する活力が有り余ってるのか理解不能だ。きっかけはロンの応酬だが、そもそもの元凶はロンに味噌汁をかけた囚人だ。
 以前のロンなら余程のことをされても耐えていた。油汚れに照る床に膝をつかされ、囚人に蹴られた食器を追ってあちこち這いまわる羽目になっても、発作的暴力に及ぶような短慮な行動は慎んでいた。昨夜の宣戦布告を経てロンにも心境の変化があったのだろうかと勘繰ったが、本人のとぼけた様子からしてまったくこれっぽっちも覚えてない可能性が強い。
 勝手に人の意志を代弁して参戦表明をしたくせに、なんて人騒がせな人間だ。
 ロンが味噌汁をかけ返したせいで、食堂は目も覆わんばかりの惨状を呈した。テーブルで床で、食堂のあちこちで囚人たちが取っ組み合い罵り合い派手な喧嘩に及んだ。ひっくり返ったトレイと中身をぶちまけた食器が滝のように落下した床で乱雑な金属音を奏で、僕もその巻き添えで顔面に味噌汁をかぶる羽目になった。
 受難だ。受難続きだ。
 レイジの介入で一件落着したのだが、どうせなら僕に被害が及ぶまえに仲裁に入ってほしかった。僕が味噌汁を顔面にかぶり、まだ全部は食べてなかったトレイがひっくり返された頃に登場されても素直に感謝できない。どころか、何故今ごろ登場するんだ焦らしに焦らしてロンに恩を売ってるつもりかと下心を疑いたくもなる。
 それと言うのもレイジの人間性に信用がおけないからだ。
 とりあえず、味噌汁を顔にかぶり食事を中断された僕は早々に席を立った。残飯まみれの床に死屍累々と倒れた囚人の惨状を呈した食堂にこれ以上居残っていてもどうしようもない。覆水盆に帰らず。ひっくり返ったトレイは元には戻らない。
 食堂から帰ったその足で洗面台に直行し髪と顔を洗った。服も洗った。執拗に手で擦っても味噌汁の染みはなかなか落ちずに苛立ちが募った。外にいた頃は洗濯は家政婦に任せていた、自分の手で私物を洗うという行為が習慣化したのは東京プリズンにきてからだ。鍵屋崎の家では戸籍上の両親は研究に講義にと忙しく、とても家事にまで手が回らなかったのだ。鍵屋崎優の助手として研究に加わっていた僕も例外ではない。ここに来るまで僕は自分の靴も洗ったことがなかった。自分でやってみて初めて、手揉み洗いも結構むずかしいんだなと実感した。新発見だ。
 夕食後は自由時間だ。
 強制労働から解放された囚人が廊下や階段の踊り場や自分の房で、賭けや読書や猥談や各自の趣味に耽るこの時間帯が東京プリズンは最も騒がしい。鉄扉越しに廊下の喧騒を聞きながら、味噌汁の染みを洗い落とした上着を見下ろし、満足の吐息をつく。完璧主義な性格ゆえか、神経質な性向ゆえか、たまたま目についたほんのちょっとした汚れでも完全に落とさなければ気が済まないので手洗いを終えるのに時間がかかった。
 蛇口を締め、水を止める。力をこめて水を絞り、パイプベッドに接近。吊るす物がないので、パイプベッドのパイプに上着をかけておく。
 これでよし。あとは乾くのを待つだけだ。
 一仕事終えた満足感と爽快感に額を拭う僕の背後、サムライはその存在を忘れさせる静けさで黙々と墨を擦っていた。今日もまた日課の写経に励んでいるのだ。
 ペア戦参戦表明をしたところで、東京プリズンでの日常は変わらない。
 周囲の囚人の態度が若干変化したぐらいのもので、僕自身の生活に多大な影響がでたわけではない。少なくとも、現時点では。
 それはともかく、今日のサムライは何故だかいつも以上に近寄り難い仏頂面をしている。食堂の一件からずっとこうだ。さっきの会話のどこが気に障ったのか理解不能、意味不明だ。僕がボイラー室に監禁され凱の子分にキスマークをつけられたと話した時からずっと不機嫌に墨をすり続けている。
 「何が気に障ったんだ。延々墨をすり続ける奇行で現実逃避するくらいなら率直に話してくれ、傍で見ていてとても不気味だ」
 「気に障ってなどおらん」
 「嘘をつくんじゃない、なんだその眉間の皺は。鏡を見てみろ、今の君はこの上なく不愉快な顔をしてるぞ。不愉快な君と沈黙を共有する僕こそ不愉快だ。沈黙の相乗は相手を不快にさせるだけだといい加減気付け」
 指摘され、ますます眉間の皺が深くなる。サムライは本心の読みにくい仏頂面だが、この頃は僕の前ではよく感情を表すようになった。半年付き合ってみればひどくわかりやすい男だ。凛と背筋をのばし、端然と正座した姿勢で手を前後させ墨をするサムライの背中に歩み寄れば、僕の方も見ずに返事を返す。
 「……男に気安く肌をさわらせるなど警戒心がたりん」
 「ボイラー室の一件がへそを曲げた原因か?」
 「接吻の痕のことだ」
 「古いな。キスマークといえ」
 現代、「接吻」などと口にする日本人はサムライくらいのものだ。遅れてきた武士らしく堅苦しく古臭い物言いに失笑すれば、墨をおいてこちらに向き直ったサムライが憤然と言う。
 「おまえは迂闊すぎる。合意の上だか何だか知らんが、ここは外とは違う。……本当に惚れてもいない人間と安易にそういう行為に及べば必然自分の身を危険に晒す。平気で自分を粗末にする真似は感心しない」
 「僕を守って自分をぼろぼろにした人間が言っても説得力がない」
 間髪入れず返せば、痛いところを衝かれたサムライが渋面をつくる。
 「……あれはやむをえん。友を守るために死地に赴かねば武士の誇りが貫けん」
 「矛盾してないか?」 
 ややわざとらしく咳払いしたサムライが、真剣極まりない顔でまっすぐに僕を見据える。
 「……もっと自分を大事にしてくれ、直。でなければ俺も戦い甲斐がない」
 『守り甲斐がない』
 最後の台詞が、僕にはそう聞こえた。
 寡黙で口下手なサムライが珍しく長文をしゃべる。ひどく真面目な顔つきで、ひとつひとつ言葉を吟味して、自分の気持ちを正しく僕に伝えようと不器用なりに努力してる。サムライは感情表現がへただ。東京プリズンに来るまでずっと剣一筋の人生で過酷な修行に耐えてきて、身内以外の人間とは触れ合う機会がなかったのだから無理もない。僕とて似たり寄ったりの環境で育った。
 本当に心を許せる人間はただひとり、恵だけ。サムライにとって苗がそうであるように。
 サムライの気持ちはよくわかる。痛いほどよくわかる。半面、どうにもやりきれないものを覚える。
 眼鏡の弦に手を触れ、できるだけ平静を保ち、ひややかにサムライを見る。
 「何か勘違いしてないか。僕はもう『手遅れ』だぞ」 
 そうだ、僕は既に手遅れだ。売春班での一週間でさんざん複数の男に弄ばれた身だ。耐え難い日々の記憶は鮮明に脳裏に焼きつき、寝ても覚めても何をしていても肌を這いまわる手の感触が体と心を責め苛む。
 「既に十数人の男に抱かれた身だ。今さら他の男と寝ようが体が汚れようが抵抗はない。必要とあらば誰とでも寝る、僕はもうそうして生きてくしかない」
 ボイラー室でのあれは仕方なかった。必要に迫られての行為だ。僕は最も効率的な手段を採用しただけで、あの時あの場にいなかったサムライにとやかく言われる筋合いはない。それを聞いたサムライが悲痛な顔をした。サムライは優しい男だ。僕が虚勢を張ってることがわかって、僕が本当は自己嫌悪に押し潰されそうなことを知って、他人の心の痛みに敏感に物憂げな表情を浮かべているのだろう。
 サムライは優しい。
 だから時々、いやになる。耐えられなくなる。今の自分がみじめでしょうがなくなる。
 だからつい、口を滑らせてしまったのだ。侮るように嘲るように。
 「君は苗にもそう言ったのか。他の男に肌を見せるな、他の男と口をきくな、節操がないぞと口うるさく。意外と独占欲が強いんだな。苗は君にとって姉的立場の人間だろう、弟みたいに思っていた人間に小言を言われるのは不愉快―」
 
 すずりがひっくり返り、床一面に漆黒の墨汁が広がった。

 「………、」
 サムライが衝動的に立ち上がった反動ですずりがひっくり返り、墨汁が床を染める。胸ぐらを掴まれ、窒息の苦しみを味わう。外では日常的に真剣を握ってたせいか、サムライの握力は強い。床から足裏が浮く体勢で吊られ、驚愕の表情でサムライを見上げる。
 サムライは激怒していた。
 感情の読みにくい仏頂面でいることが多いサムライが、今は怒りをむきだしている。その全身に迸るのは、不浄の血にぬれた刀を払えば巻き起こる風めいてなまぐさい殺気。猛禽の双眸に憤怒を煮え滾らせ、痛苦と慙愧とが入り混じった正視に耐えないほど悲痛な表情で、サムライが口を開く。
 漏れたのはかすれた声。
 「二度と言うな」
 「?……なにをだ」
 僕は混乱していた。何故これほどサムライが怒るのかわからない、激烈な反応の意味がわからない。どの個所が気に障ったんだ?意外と独占欲が強い?それとも……
 『苗は君にとって姉的立場の人間だろう、弟みたいに思っていた人間に小言を言われるのは不愉快―』
 憑き物が落ちたようにサムライの指から力が抜ける。
 小さく嘆息し、サムライが背中を翻す。そして、常になく取り乱したことを恥じるように顔を伏せる。
 「俺はただ、これ以上お前に傷付いてほしくないだけだ。お前はもう十分すぎるほど傷付いた」
 再び正座したサムライが尻ポケットから手拭いを取り出し、床に這いつくばって墨汁を拭き取る。こんな時でも几帳面な男だとあきれる。サムライと背中合わせに屈みこみ、拭く物がないかと周囲を捜せば写経用の半紙が目に入った。半紙を手に取り、床の墨汁を吸わせる。墨汁が染みた半紙を見下ろし、呟く。
 「僕は悪くないぞ。謝罪もしない」
 無言のサムライにうしろめたさを覚え、俯く。
 「だが、今のは失言だった。僕は天才だから凡人に頭を下げなどしないが犯した過ちは謙虚に認める」
 苗の名前にサムライが過剰反応するのは無理ない、それだけ苗はサムライにとって大切な女性だったのだから。苗を侮辱したレイジを殴り飛ばした僕が同じ過ちを犯した皮肉に思い至れば、背中合わせのサムライが手際良く墨汁を拭きながら言う。
 「ならば今度から他の男に気安く肌を見せるな。くりかえすが、お前は警戒心がなさすぎる」
 説教にむっとし、陥穽を指摘する。 
 「『他の男』とわざわざ限定したということは、君になら肌を見せてもいいんだな」
 「!なっ……、」
 「そういう意味だろう。違うのか」
 「断じて違う。俺に男色の趣味はない、男の肌など見てもつまらん」
 「君も男だな。やっぱり女性のほうがいいのか。レイジにさんざん童貞呼ばわりされていたが真相のほどは」
 「ゲスな詮索に答える義務はない」
 ふと振り返れば、サムライの横顔が赤く染まっていた。この手の話には免疫がないらしい初々しい反応だ。別にサムライの初体験がいつで相手が誰だろうがどうでもいいが、サムライの精神的優位に立てる機会などそんなにない僕はさらに追及しようと。
 「囚人集合!!」
 廊下で大声が響いた。なんだろう?サムライと顔を見合わせ、二人して廊下に出る。看守の指示に従い、囚人が廊下に整列。僕とサムライも二人して列に加わる。
 「上から連絡事項。喜べ、いい知らせだ。睡眠薬支給の認可がおりたぞ」
 僕たち囚人を廊下に並べた看守が告げた台詞に、いつだったか安田に聞かされた内容を思い出す。夜もよく眠れない囚人のために希望者には睡眠薬を配ろうと検討中で、僕はその試験台として睡眠薬をもらったのだ。囚人の睡眠に配慮した良心的提案は安田の取り計らいで実現に至ったらしい。 
 「睡眠薬が欲しい奴は医務室へ行ってその旨伝えること。念の為言っとくがこつこつ貯めて睡眠薬自殺なんざ考えるなよ、てめえら罪犯してぶちこまれた囚人がラクに死のうなんざ虫がよすぎだ。よっぽど不眠症に苦しめられてる奴じゃなきゃ認可がおりねえらしいからその点は大丈夫だろうがな。おいそこ、油性マジックで目の下塗って寝不足の隈つくろうとか話してんじゃねえ、しっかり聞こえてるぞ」
 警棒で肩を叩きながら看守が説明し、一列に並んだ僕たちを見まわし最後に付け加える。
 「現実は地獄なんだ。せめて夢の中じゃ楽しめるといいな」
 にやりと笑い、あとはもう用はないと手で追いたてて看守が解散を告げる。その足で医務室へ直行する者、それぞれの房に戻る囚人、廊下に居残りトランプゲームを再開する囚人と解散後の行動はさまざまだ。「睡眠薬かー」「俺あとでもらってこよ」「寝過ごして点呼に間に合わなかったら睡眠薬のせいにすりゃいいのか」「ばーか。それで勘弁してくれるわきゃねえだろ」……おもいおもいの感想を述べつつ立ち去る囚人を見送り、サムライと一緒に房に引き返す。
 「貰ってこなくていいのか」
 「後でいい。今は囚人で混んでるはずだ」
 僕がよく眠れないことを気に病んでたらしいサムライに訊ねられ、そっけなく返す。
 「睡眠薬の効き目は折り紙つきだ。よく眠れないときは君も試してみればいい」   
 「?まるで飲んだことあるような口ぶりだな」
 「それは、」
 そうだ。サムライには安田に睡眠薬をもらったことを言ってなかった。手錠を外すため、見張り役の囚人に口移しで睡眠薬を飲ませたことも。
 睡眠薬を飲ませた数秒後には僕の膝の上でいびきをかいていた囚人の寝顔を思い出し、口元に自然と笑みが浮かぶ。愉快さを噛み殺しきれずに浮上した笑み。
 「実際に飲んだのは僕ではないが、モルモットで試したところ効果抜群だった」
 サムライは釈然としない顔をしていた。

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 深夜。そっとベッドを抜け出す。
 パイプにかけた上着はまだ完全には乾いてないが、贅沢は言えない。生渇きの袖に腕を通し、裾を下ろす。スニーカーを履く。隣のベッドに視線を転じる。サムライはよく眠っているようで、かすかに規則正しい寝息が聞こえてくる。サムライの安眠に配慮し、物音をたてぬよう慎重にドアへと向かう。
 廊下には冷え冷えと蛍光灯が輝いていた。囚人が寝静まった廊下はおそろしくしんとしてる。消灯時間を過ぎて外を出歩いてるのがばれたら処罰は避けられないが、僕は運が良いらしく深夜徘徊を看守に咎められたことはない。それに今の時間なら医務室も空いてるはずで、行列に並ばなくても睡眠薬が手に入る。効率を重視するなら多少の危険を犯しても深夜に医務室を訪ねるのが賢い。
 医務室に行って戻ってくるまで、急げばそう時間はかからない。 
 東棟の廊下を歩き、渡り廊下に至る。前回はこの渡り廊下を渡りきったところで凱たちに遭遇した。看守よりむしろ警戒しなければならないのは、階段の踊り場や物陰などで話しこんでる囚人だ。僕と同じく消灯時間を過ぎても寝つけない夜行性の囚人はたくさんいる。
 緊張して渡り廊下を渡る。周囲に注意を配り、いつどこから何が飛び出てきても対処できるよう身構えていたが、幸い何も起こらなかった。渡り廊下を渡り、中央棟に到着。医務室の方角に足を向ける。
 『何か勘違いしてないか。僕はもう『手遅れ』だぞ』 
 脳裏に響くのはさっきの自分の言葉。自嘲の台詞。 
 『既に十数人の男に抱かれた身だ。今さら他の男と寝ようが体が汚れようが抵抗はない。必要とあらば誰とでも寝る、僕はもうそうして生きてくしかない』
 苦いものが口の中にこみあげる。今ごろになって、自己憐憫に酔って自暴自棄を気取った自分の言動に吐き気をおぼえる。確かに僕は手遅れだ。すでに十数人の男に犯されて体も心もぼろぼろに擦りきれた。
 しかし、自分で手遅れだと認めたらおしまいだ。
 サムライが戦い続ける限り、僕に抗う気力がある限り、決して手遅れなどではないと信じなければ僕がやってきたこともサムライがやってきたことも全部無駄になるじゃないか。
 僕もペア戦参戦表明をした。これからはサムライと共に戦うと決意した。
 自分の身は自分で守る。そんな単純で当たり前のこともできない僕など、鍵屋崎直を名乗る資格がない。恵の兄でいる資格がない。僕は強くならなければ。サムライの足手まといにならないように、サムライにあてにされるように―
 その為にはまず、自分の身を守る方法を学ばなければ。
 僕の武器はこの天才的頭脳だが、いざ押し倒されたり絞め殺そうになった時などいくら知能が高くてもどうにもならないと昨日嫌というほど学んだ。のみならず、レイジのボールを奪取するのさえ不可能な今の状態ではまた窮地に陥ってサムライの足を引っ張るだけだ。
 最悪の事態が発生した場合にそなえ、自衛の術を身に付けておいて損はない。
 一連の思考過程を踏み、結論に至った僕の前方に医務室のドアが現れる。しばらく歩き、医務室に到着。 さて、あの耄碌医者はまだいるだろうか?噂ではほかに家族もおらず、東京プリズン敷地内の職員宿舎に寝泊りしてるようだから中にいる可能性が高いが……そう考え、ドアをノックしようとこぶしを掲げ。
 「本当にやめるのかね」
 中から声が聞こえてきた。しわがれた医師の声だ。
 おもわずノックを引っ込め、中の声に耳を澄ます。
 「……ああ。私はもう、東京プリズンにいる資格がない」
 「そんなに思い詰めることでもないと思うが……」
 医務室には先客がいるらしい。医師とふたりきりで何やら深刻に話しこんでる。
 「既に辞表は書き終えた。あとは所長に提出するだけだ」
 「きみがいなくなると寂しくなる。常連をひとり失うことになるからね」
 「刑務所の職員が医務室の常連になるなど誉められたことではない」
 「こんな職場環境で精神を病まないほうが異常だと思うよ。不眠症は罪悪感の証明だ。こんなことを言っても説得力はないだろうが、ワシも診断を偽るたびに良心の呵責に苦しんでおる。いくら看守に脅されたからとはいえ、骨折を捻挫と偽り指のヒビを何でもないと偽り負傷した囚人を強制労働に向かわせ……」
 医師の懺悔に驚く。
 僕たち囚人のことなど何も考えず、見て見ぬふりの自己保身を最優先してるように見えた医師がそんな風に思っていたなんて。彼もまた人間だったということだろう。
 「きみと懇意にしてる囚人には悪いことをしたよ。なんと言ったか……かぎや……かぎや?」
 「鍵屋崎。鍵屋崎 直」
 突然自分の名前をだされ、心臓が跳ねあがる。
 ドアの向こうでは平然と会話が続いてる。廊下に立ち尽くした僕の存在には気付かずに。
 「そう、鍵屋崎。ここに来た最初の頃、イエローワークで怪我をして訪ねてきたのだが指のヒビを適当に診て返してからというもの嫌われてしまってね……どうにも信用されてないようだ。無理からぬ話ではあるが。しかし、彼もたった半年でずいぶんと逞しくなった。こないだ手首を捻挫した友人を担いで来たときは驚いた。このヤブ医者めと怒鳴られてしまったよ」
 「悪気はないが思ったことをすぐ口にだす性格だからな」
 医師の話し相手が苦笑する。僕のことをよく理解してるような口ぶりで。
 「半年あれば人も変わる。特にこんな環境では変わらざるをえない。……徐徐に表情豊かになってゆく彼の変化を見届けられないのは少し残念だが、それもこれも私が撒いた種だ」 
 この声、聞き覚えがある。平板に落ち着いた口調、教養深い声。
 「今まで世話になった」
 「君も元気で。睡眠薬が欲しくなったらまたいつでも来てくれ」
 「はるばる砂漠を越えてか?睡眠薬を手にするまえに夜が明けそうだな」
 冗談めかしたやりとりのあと、話し相手が席を立つ気配。何かに気付いた医師が「おっと」と声をあげる。
 「背広を忘れているよ」
 「……私としたことが迂闊だった」
 心臓の動悸が速まり、喉が緊張に乾く。いやな予感に胸がざわめく。この声、つい最近どこかで聞いた。
 今日の昼中庭で、僕が落としたバスケットボールを拾って。
 『……元気でいてくれ』 
 その瞬間、僕はノックもせずドアを開け放った。廊下で立ち竦んだ僕に医師がぎょっとして椅子から腰を浮かし、その手から背広を受け取ろうとしていた男がこちらに向き直る。
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 「どういうことだ」
 混乱のあまり敬語を使うのを忘れていた。どういうことだ一体、今の会話はなんだ?目に映る光景が理解できない。いや、頭が理解を拒んでいる。僕に注意を奪われた医師の手からするりと背広が落ち、床に広がる。背広の内ポケットからこぼれ落ちた封筒の表には、はっきりとこう書かれていた。
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