少年プリズン

まさみ

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二百二話

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 死ぬかと思った。
 「腹減った……」
 今日もまた腹を空かせた囚人たちでがやがやと騒がしい食堂。強制労働を終えた囚人たちが早いもん勝ちで席を争い、押しあいへしあいけなしあいはては取っ組み合いの喧嘩に及んでる。
 猥雑な活況を呈した食堂の片隅、空腹感に苛まれてテーブルに突っ伏す。
 今日は一日中ホセのマラソンに付き合わされた。だだっ広い中庭を夕方まで延々走らされて足が棒になった。疲れ知らずのホセは「いやはや、いい運動になりました」などとタオルで顔を拭きつつ爽やかにほざいていたが冗談じゃない、全力疾走したところで先頭のホセとの距離は全然縮まらなかった。
 初日なんだからもうちょっと手加減してほしい。
 しかしレイジといいホセといい、東西南北トップの運動神経は化け物じみてる。喧嘩じゃそれなりの場数を踏んで、体力にも多少は自信がある俺がホセの脚力と持久力には驚かされた。きっと肺活量がすごいんだろう、ホセときたら「ファイト―ファイト―」と叱咤しつつ酸素不足でふらついてる俺の脇を走りぬけてくれやがった。つまりその時点で一周差がついてたわけだ。
 一週間特訓を続けたところで俺がホセを追い抜く日がやってくるとは思えない。一瞬たりとも隣に並ぶのさえ不可能な現状なのに。
 テーブルに突っ伏して死んでる俺の正面には鍵屋崎が座ってる。何故かこっちも死にそうな顔色だ。顔に濃厚な疲労感を漂わせ、上品に味噌汁に口をつける鍵屋崎をテーブルに頬を預けただらしない姿勢で仰ぐ。
 「なんかあったの。疲れた顔してるけど」
 「昨夜、飲んで暴れた君に付き合わされて酷い目にあったからな」
 しれっとうそぶいた鍵屋崎の言葉に途端に背筋が伸びる。はじかれたように上体を起こし、テーブルに両手をついて身を乗り出す。たいして美味くもなければ不味くもなく、味を感じてるのかさえ謎な無表情で味噌汁を啜る鍵屋崎に食ってかかる。
 「……俺、本当に昨日なにやったの?」
 頼むから教えてくれと哀願の調子で訊ね、すがるような眼差しを注げば、不快な記憶を反芻したらしき鍵屋崎が眉をひそめる。なにその意味深な反応。酒を飲まされたあとの記憶がふっつり途切れてるせいでレイジに真相を明かされた今も昨夜の行動に確証が持てない。頭を抱え込み自己嫌悪の泥沼に沈んだ俺を見下ろした鍵屋崎が、味噌汁から口をはなして何かを言いかけ。
 「覚えてないなんて薄情だな。何百何千の大観衆が見守るリングの上で鍵屋崎の首にキスしたくせに」
 「な……!?」
 嘘つけこの野郎、と隣の席のレイジを罵ろうとして背中に冷水を浴びせ掛けられたような悪寒が走る。正面に座ってた鍵屋崎の襟首を問答無用で掴み、トレイをどけてテーブルに片膝のせ、抗議する暇も与えずに
首筋を確かめる。鍵屋崎の首には青黒い痣ができていた。タジマの指の痕だ。しかしそれより何より注目すべきはその下の赤い斑点。
 キスマークだ。
 「…………、」
 やっちまったか。
 茫然自失の体で鍵屋崎の襟首を突き放し、脱力して椅子の背凭れに背中を預ける。
 どうやら俺は酔った勢いでとんでもないことをしでかしたらしい。いや、正確には自分から飲んだのではなく飲まされたのだがそんなの言い訳にもならない。鍵屋崎の首に昨日今日できたばかりの発色あざやかなキスマークがあるってこたつまり俺は鍵屋崎を押し倒して首にキスしたのか?何百何千のギャラリーが食い入るように見守るリングの上でよりにもよって男相手に鍵屋崎に強姦未遂を働いたのか?
 どうりで食堂に入ったときから、いや、廊下を歩いてるときから周囲の連中の視線が痛いはずだ。俺が通りかかるとそれまで談笑してた連中がぴたりと話を止めてこっちを凝視するし、何だか変だと思っていたのだ。自己嫌悪の泥沼に沈みこんだ俺の肩を叩き、笑いを噛み殺した表情でレイジが励ます。
 「そう気に病むなって、ヤっちまったもんはしかたねーだろ。おまえが東京プリズンの全囚人が見守るリングの上でキーストア押し倒して体中あちこちにキスしてそれ以上のことまでしでかしたのは事実なんだがら。リングで公開プレイで公認カップルだ」
 「タチの悪い冗談を言うんじゃない」
 これ以上なく不愉快げに眉をひそめた鍵屋崎が、弛んだ襟刳りを直しながら付け加える。
 「ロン、これは君につけられたものじゃない。レイジの冗談を真に受けるな」 
 俺じゃない?じゃあだれにつけられたんだよ。
 俺が疑問の声をあげるより鍵屋崎の隣のサムライが味噌汁の椀を置く方が早かった。トレイに椀の底を叩きつけたサムライが不機嫌な仏頂面で鍵屋崎に向き直る。普段感情を表にださないサムライが腹の底で燻る怒りと不快さを押し殺し、おそろしく物騒な眼光で鍵屋崎を射竦める。
 「……だれにつけられたんだ」
 「君には関係ないだろう」
 「関係ないことはないだろう」
 「食事中に話す内容ではない」
 無意識に首筋をおさえ、サムライの目から痣を隠した鍵屋崎がそっけなく話題を変える。実際サムライときたら鍵屋崎にキスマークをつけた人間を今すぐ斬り殺しそうな剣幕なのだ。気迫をこめた口調と真剣な目つきで詰問された鍵屋崎が、サムライの頑固ぶりにあきれたようにため息をつく。
 「……ボイラー室に監禁されてるとき、凱の子分につけられた。念の為断っておくが合意の上の行為だ。君が口だしすることではない」
 合意の上?潔癖症の鍵屋崎が合意の上で、納得づくで凱の子分と乳繰り合ったってのか?
 あっけらかんとした鍵屋崎の台詞に仰天し、箸を取り落とした俺よりもさらに驚愕したのはサムライで、知らず力をこめていた手の中で箸が真っ二つに折れ砕けた。傍目に気の毒なくらい動揺したサムライをよそに鍵屋崎は淡々と食事を再開、育ちのよさを醸し出す上品なしぐさで音もたてずに味噌汁を啜る。
 「ともかく相手は俺じゃないんだな。あーよかった」
 「よくはない」
 安堵に胸撫で下ろした俺に憮然とサムライが呟く。
 「レイジ、おまえでたらめ言って驚かすなよ。本気にしちまっただろうが」
 「昨日のお返しだ」
 昨日のお返し。昨夜、酔っ払った俺がリングに殴りこんで試合をめちゃくちゃにした挙句に仲直りの握手を強いた事実は直接レイジから聞かされたがてんで実感がわかない。レイジは昨夜のことをまだ根に持って俺が鍵屋崎押し倒したなんだくだらない嘘ついたのか。
 意地悪な王様だ。
 それはともかく、レイジとサムライが仲直りしてくれてよかった。レイジとサムライの仲直りに一役買い、酒に酔った昨日の俺もひとつは善行をしたと気がラクになる。東京プリズンの囚人が一堂に会した地下停留場のリングで握手させるのはやりすぎだと思わないでもないが、レイジもサムライもお互い頑固だし荒療治に踏みきらなきゃあのままずっと平行線を辿ってた気もする。
 レイジとサムライに関しちゃ問題ない。問題大ありなのは、酒に酔った勢いで参戦表明した俺と何故かそれに同調した鍵屋崎だ。
 「……とんでもねーこと言っちまったな」
 「今さら後悔しても遅い」
 次の試合のことを考えると頭痛がしてくる。箸を掴んだままこめかみにこぶしをあてれば、こんな時でもひどく冷静な鍵屋崎が眼鏡越しの双眸を細める。
 「参戦表明はもう取り消せない。他の囚人には僕と君もレイジたちの仲間と認識された。君に関して言えば、何百という数のギャラリーの眼前で凱に宣戦布告した手前次の試合を辞退すれば臆病者だ腰抜けだと誹謗中傷されるのは確実。それを何というか知ってるか」
 「何て言うんだ」
 「自業自得」
 なるほど。
 「自業自得と後ろ指をさされたくないなら潔く有言実行しろ。凱にはこれまでさんざん痛めつけられてきたんだ、公式に与えられた復讐の機会を存分に生かせ」
 神経質な手つきで眼鏡の位置を直した鍵屋崎に毅然と告げられ、その眼光の鋭さに生唾を嚥下する。これはもうお遊びじゃない、俺はもう引き返せないとこまできちまった。鍵屋崎の言うとおり潔く腹を括るしかない。大丈夫、一週間ありゃ何とかある。俺には頼もしいコーチがついてるんだから。
 口の中でくりかえし自己暗示をかけて椅子に座り直した俺の隣、レイジが席を立つ。
 「お先に失礼っと。トレイ返してくる」
 先に食事を終えたレイジがどっかの給仕よろしく片手にトレイを持ってカウンターに向かう。その後ろ姿を見送り、トレイを見下ろす。鍵屋崎と話しこんでたせいで遅々として食事が進まず、結果まだ六割が残ってる。時間切れになるまえに飯の残りをかっこもうと箸を握りなおせば背後に足音が接近。
 「くそっ、半半と親殺しが何様のつもりだありゃ」
 「レイジとサムライにケツ貸す見返りに守ってもらってる嬢ちゃん二人組が、凱さんに喧嘩売ってただですむと思ってんのかね。めでてーな」
 「知ってるか、半半が東京プリズンにぶちこまれたワケ。ガキの抗争で手榴弾投げたんだよ。素手じゃ勝てないから手榴弾のピン抜いたんだ。くそったれ台湾の血が半分入ってるやつあ腰抜けのタマナシだ」  
 会話の内容から察するに、俺たちに反感を持ってる凱の子分だ。
 「―ちっ」
 舌打ち。陰口には慣れてる。むきになれば相手を喜ばせるだけ、いちばん賢い対処法は無視だ。背後に接近する足音は聞こえぬふりでさあ飯をたいらげようと食器を抱え持ち、

 味噌汁を頭にぶっかけられた。

 「………」
 正面の鍵屋崎が息を呑む。
 俺の背後じゃ凱の子分二人組が笑ってる。俺の頭の上でひっくり返されたのはアルミの深皿で、俺の頭にぶちまけられた味噌汁が髪をぬらし顎から滴り上着を汚し、ズボンに染みて床にこぼれていた。味噌汁がぬるいせいで火傷しなかったのがせめてもの救いだが、ワカメを顔に貼り付け放心状態で椅子に座りこむ俺の周囲じゃ一部始終を見ていた囚人どもがこっちを指さして爆笑してる。笑いすぎて椅子を蹴倒し床に転がりそれでもまだ笑い止まず、滂沱の涙を流して腹筋を痙攣させる。陸揚げされた魚がのたうちまわるように周囲の囚人が笑い転げる中、鍵屋崎は箸を持ったまま硬直し、その隣のサムライが気色ばむ。 
 レイジはまだ帰ってこない。そうか、レイジがいない隙を見計らって俺に手をだしたのか。
 レイジがいないなら安心だ、仕返しされるおそれもない、半半なら大丈夫だどうせ口だけだレイジがいなけりゃ何もできやしないんだから。 
 口の中が塩辛い。口に流れこんだ味噌汁の味だ。顔にへばりついたワカメを払い落とし、椅子を蹴倒して無言で立ちあがる。服には味噌汁が染みて濃い異臭が匂う。髪も服もべとついて不快でどうしようもない。
 味噌汁の染みは手洗いで落ちるかな、と漠然と考えつつトレイにのったアルミ椀をひったくる。
 お袋ごめん。言いつけ破る。
 食い物粗末にするのは罰当たりだけど、もう我慢できねえ。
 「味噌汁くせーな」
 「床にこぼれたぶんも一滴残らず啜れよ」
 そして俺は振り向きざま、背後に突っ立ってたガキの顔面にお返しとばかりに味噌汁をぶちまけた。
 「!?ぶっ、」
 「な、なにすんだこいつっ!」
 顔面に味噌汁をかけられたガキがよろめき、その隣のガキが憤怒の形相で掴みかかってくる。油汚れの目立つ食堂の床を蹴ってとびかかってきたガキに胸ぐらを掴まれテーブルの天板に背中を強打、俺が背中から倒れた衝撃でトレイが派手にひっくり返り食器が中身をぶちまけて宙に舞う。
 床になだれ落ちた食器が乱雑な金属音を奏で、たまたま近隣に居合わせた囚人の顔面に味噌汁の飛沫が跳ねて野菜の切れ端がへばりつく。
 「調子のりやがって!雑種は雑種らしく床に這いつくばって犬食いしてろっ」
 「人の頭に味噌汁ぶっかけるようなやつに食事作法指図されたかねえ、箸の握り方から覚えなおしてきやがれくそったれが!!」
 力づくで押し倒され、胴に跨られた体勢で唾をとばして相手を罵りながらテーブルを手探り、そばに転がってたアルミ皿を手繰り寄せる。
 「ぎゃっ!!」
 今まさにこぶしを振り上げ俺を殴らんとしたガキの額に、手にしたアルミ皿をおもいきりぶつける。額を痛打された激痛にうめいたガキが体を起こした瞬間、両足を揃えて跳ね上げて鳩尾に蹴りを入れる。鳩尾に蹴りを食らって吹っ飛ばされたガキがもんどり打って床に転落、床一面に散乱した食器が落下の衝撃に弾む。残飯にまみれたガキの連れが「くそっよくも!」と鼻息荒く突進。テーブルを背にした俺が紙一重で体当たりをかわせば、目標を見誤ったガキが加速した勢いでテーブルに乗り上げ、その巻き添えで鍵屋崎がもろに顔面に味噌汁をかぶる。
 「ざまあみやがれ、凱の子分どもはボス猿ぞっくりで動きが鈍いな!」
 「凱さんにびびってちびってた腰抜けに言われたくねえ!」
 「びびってなんかねーよ、その証拠にリングの上で決着つけてやる!」 
 事態はもう収拾つかない。
 テーブルに乗り上げたガキが無関係の囚人のトレイを蹴散らして不興を買い、巻き添えで食器をひっくり返され飯にありつけなくなった囚人が逆上。「おれの飯を返せ!」「おまえに食わせるたくあんはねえっ」とはげしい口論があちこちで勃発。テーブルと床一面に食器と残飯が散乱し、怒号と罵声が飛び交う修羅場と化す。
 堪忍袋の緒が切れた。味噌汁ぶっかけられて穏便なふりができるほど俺は人間ができちゃいない。
 「なに勘違いしてんだ半半、てめえは今ここで死ぬんだから次の試合なんか出られるわきゃねーだろ!」
 俺に味噌汁かけた張本人が再び突っ込んでくる。突撃、衝撃。床に転倒した俺の前髪を鷲掴んだガキが目を炯炯と輝かせ―
 『Stop!』
 騒動を静めたのは王様の一声だった。
 カウンターにトレイを返却したレイジが高らかに手を打ち鳴らして解散を告げれば、床やテーブルで取っ組み合っていた囚人が憑き物が落ちたように大人しくなる。王様の影響力は絶大だ。王様の命令に逆らえる者なんてだれもいやしない。
 床に仰臥した俺の頭上に立ったレイジが、意味ありげな流し目を食堂中央部にくれる。
 「決着はリングに持ち越し。だよな、凱?ギャラリーの眼前でロンぶちのめすの楽しみにしてたのに、でしゃばりな下っ端に先越されちゃつまんねえよな」
 食堂中央部のテーブルを占領しているのは凱とその一党。
 中央テーブルから少し離れた場所で起きた騒動を宴の余興として飯食いながら見物してたらしい。上座に陣取った凱が、レイジに話を振られて不敵に鼻を鳴らす。
 「……さっさと戻って来い」
 凱に顎をしゃくられた二人組が這う這うの体で戻ってゆく。食堂を一望する上座にふんぞり返った凱は忌々しげにレイジを睨み付けていたが、床に尻餅ついた俺に視線を転じるや獰猛な笑顔になる。
 「『リングで決着つける』。その言葉に嘘はねえな」
 「……ああ」
 尻をはたいて立ち上がり、反発をこめて凱を睨みつける。凱は尊大に腕を組んで椅子にふんぞり返っていた。巌のように筋骨隆々の体躯に殺気を凝縮し、嗜虐の予感に目を蕩かせて唇を舐める。
 「逃げたら承知しねえぞ。どこまでもどこまでも追いかけてたっぷり俺様に喧嘩売ったこと後悔させてやらあ。お前が東京プリズンでようが関係ねえ、必ず見つけ出してケツ掘ってから殺してやるよ」
 凱なら今言ったことを本気で実行しかねない。 
 だから俺は今この場できっぱり宣言する、凱と絶縁するために凱と決着をつけてやると。
 「……ここ出てからもお前に付き纏われるなんざうんざりだ。次の試合で綺麗さっぱり縁切ってやる」
 食器と残飯がばらまかれ、味噌汁で足がすべる惨状を呈した食堂の床を踏み、等間隔に配置されたテーブルと東棟だけで何百人という囚人の頭を越えてまっすぐに凱を指さす。
 そうだ。遅かれ早かれ凱とは決着をつけなきゃいけなかった。
 これ以上凱に付き纏われるのはごめんだ、俺はこれからも東京プリズンで生きていきたい。東京プリズンで生き抜くためには強くなるしかない、レイジの背中に隠れなくても戦えると証明するしかない。
 これは俺が生き抜くために避けて通れない一対一の喧嘩だ。
 東京プリズンにおける居場所をもぎとるための真剣勝負。
 耳が痛くなる静寂に支配された食堂に、俺の宣戦布告が明朗に響き渡る。
 「……格好つけるのは結構だが、その前に顔を洗ってきたらどうだ」
 食堂に集結した囚人全員が固唾を飲む中、顔に味噌汁を浴びた鍵屋崎がなげやりに言った。
 上着の裾で眼鏡を拭きながら。
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