少年プリズン

まさみ

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百九十五話

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 その瞬間、何が起こったか。
 僕が見たままありのままを順を追って説明しよう。レイジが片腕一本で吊り上げた凱を絞殺する寸前、煙に巻かれて大混乱に陥った囚人がドミノ倒しに転倒して金網を直撃。
 囚人の体重を受け止めきれず金網が撓んだところへとどめの一撃をくれたのは意外な人物。
 ロンだ。
 酔っ払ったロンが足癖悪く金網の真ん中に蹴りを入れ、それがきっかけとなり地響きをたてて金網が倒れたのだ。
 チェス盤を傾けたところを想像してほしい。盤上の駒が重力の法則に従い落下するように、煙に巻かれてあてどもなく逃げ惑っていた囚人が金網に殺到。ただでさえ限界を超えた自重を受け止めかねた金網はロンの蹴りで脆くも崩壊、今まさに凱を絞め殺そうとしていたレイジと今まさにレイジに絞め殺されようとしていた凱には当然逃げる暇も与えられず、お互い「は?」と間抜け顔を見合わせ。
 それが、金網が倒れる寸前に僕が目撃した光景だった。
 リングの四面に高々と聳える金網のフェンス、その一面が崩壊した衝撃で舞い上がった埃の煙幕が視界を閉ざす。轟音の残響が殷殷と鼓膜に染み、耳小骨が震える。とっさに僕を抱きすくめて庇ったのはサムライで、金網に立てかけてあった木刀を右手でひっ掴み、残る左腕で僕の肩を抱いて頭を屈めさせた。
 サムライの左腕、そのぬくもりと力強さに守られつつ小さく咳き込む。
 あたり一面にたちこめた埃が次第に晴れ、前方に目を凝らす。
 いつのまにとびだしたのか、リング中央にロンが立っている。
 一面の金網が取り払われ、俄かに風通しがよくなったリングに立ったロンの下には凱がいた。倒れた金網の下敷きになり苦しげにうめいている。レイジの姿が見当たらないなと周囲を見回せば、凱を放り出して自分ひとりだけ金網の下から逃れたらしく奇跡的に無傷でロンと対峙していた。金網の均衡が崩れて倒れるまでのほんの一瞬に、地面に身を投げ出して素早く横転し間一髪難を逃れたものらしい。
 相変わらずでたらめな反射神経をしている。
 「……な、」
 外傷はないが頭からつま先まで埃まみれ、みすぼらしい風体のレイジが目を見開く。
 「なにすんだよロン!!?」
 レイジが声を荒げるのも無理はない。ロンがしたことは立派な試合妨害だ。試合の途中で部外者が金網を蹴倒すなど前代未聞の珍事で、審判とてどう対処したらよいやらはかりかねてリング外でうろたえている。
 あのまま見過ごしていれば今試合はレイジの勝利で幕を閉じたはずだ。その場合凱は窒息死していた可能性が高い。つまりロンは結果として、これまでさんざん自分を痛め付けてきた張本人を救ってしまったことになる。
 「おまえ何考えてんだよ、いきなり金網蹴倒しやがってあぶねえじゃんか!俺の自慢のツラが潰れたら世界中の女が泣、」
 「だまれ節操なし!!」
 「せ……?」
 憤然と歩み寄ったレイジを一喝、剣呑な雰囲気を漂わせて顔を伏せたロンが低く呟く。
 「どいつもこいつも好き勝手なことぬかしやがって……」
 ロンがゆっくりと顔を上げる。三白眼が血走っているのはアルコールのせいだけだろうか?アルコールが回って二本足で立つのも辛い状況なのに、膝に手をつき体勢を持ち応え、全身に怒気を充満させて周囲を睨み付ける。威嚇の眼光にレイジがたじろぎ、ようやく金網の下から這い出た凱までもがロンの変貌ぶりに絶句する。
 金網に殺到した囚人が死屍累々と地面に折り重なって気絶し、その他の囚人は絶叫と悲鳴を撒き散らして煙に巻かれて逃げ惑っていたが、リング周辺のみ異様な緊迫感が高まっている。リング上の三角形に気付いた囚人が「おい、なんだアレ」「レイジと凱ともう一人いるぞ」「これから何が始まるんだ」と注意を向け、好奇心に負けて寄り集まってくる。
 満場の注視を浴び、リングに立ったロンがぶつぶつと呟く。
 「……ああもう、なにもかも気に入らねえ。どいつもこいつも腹が立つ、くそったれだ。なんで俺ばっかいつもこんな目に?なんで俺ばっかハズレくじ?報われもしねえ苦労ばっかしょいこんでばっかみてえ」
 様子がおかしい。酒が入って正気を失っている、普段のロンらしからぬ奇矯な言動はそのせいだ。
 いつになく刺々しいロンの様子にいやな予感をおぼえ、僕を抱きすくめるサムライを振りほどいてリングに向かおうとしたが遅かった。
 「おい、猿山のボス!」
 リングではロンが凱を指さしていた。
 「猿山のボス?半半、てめえだれにむかって口きいてんだ……」
 「凱、おまえだよ。東棟のナンバー2で囚人三百人を傘下におさめる中国系派閥のボスのくせしててめえそっくりの娘にめろめろな親バカ野郎が」
 凱に娘がいたなんて初耳だ。が、娘の話題は凱にとって他人に踏み込まれたくないデリケートな領域だったのだろう。皮肉げな笑顔で揶揄された凱の顔がみるみる憤怒に紅潮、しかしロンは動じることなく、酒精に憑かれて饒舌にまくしたてる。
 「おまえとおまえの子分どもにゃいい加減頭きてるんだ、東京プリズン入所初日から今日の今日までさんざんいやがらせしてくれやがって。イエローワークの砂漠で生き埋めにされかけたり食堂で肘ぶつけられたりトレイひっくりかえされたり床に這わされたり廊下で足ひっかけて転ばされたり……挙句にゃ鞭で好き放題しばきやがって。よく見ろよおい、このみっともねえ格好を!どうしてくれるんだよ、替えの囚人服なんかもってねえっつのに!破れかぶれの囚人服でほっつき歩けってのかよ、露出狂かよ俺は!?」
 囚人服の裾を掴んでへそを覗かせたロンが訴えるのに、凱とレイジはただただぽかんと立ち尽くしている。支離滅裂な訴えに気勢を殺がれたか、ロンめがけてこぶしを振り上げた体勢のまま凱は固まり、隣のレイジはといえば赤い顔でくだを巻くロンに目を丸くするばかり。
 「見つけたぜ、鍵屋崎、ロン!」
 三つ巴の睨み合いが繰り広げられるリングの外、サムライと並んで事態の推移を見守る僕の耳にとびこむ怒声。振り返るまでもなく、腰にしがみつくワンフーを振り切ってタジマが駆けて来たのだと悟った。
 「!っ、」
 めちゃくちゃに警棒を振りまわし、囚人をなぎ倒して猛進するタジマ。タジマが僕のもとに辿り着けば警棒で殴り殺される、いや、殴り殺されずとも骨折くらいは覚悟しなければ。独居房送りはもう免れないだろう。諦観して目を閉じれば、瞼の向こうで気配が動き、僕を背に庇うようにサムライが立ち位置を移動するのがわかった。
 「どけっサムライ、俺は親殺しに用があんだよ!」
 僕を守るようにタジマと対峙したサムライが木刀を握り締める。
 「どかぬ」
 短く答えたサムライが地を蹴り跳躍、奇声を発して警棒を振り上げたタジマに敏捷に肉薄。即座に翳した木刀が警棒を受け止め、木と木がぶつかる乾いた音が鳴る。
 警棒と木刀が拮抗する。
 腕力に物を言わせて警棒を押し込もうと鼻息荒くするタジマだが、サムライはこれに表情も変えず、眉間で水平に寝かせた木刀を両手で支えている。
 「邪魔すんならてめえも道連れだ!」
 怒り狂ったタジマが再び警棒を振り上げ、サムライの脳天めがけ力一杯振り下ろすも、風を切った警棒が頭蓋骨を陥没させるより早くサムライの姿が消失。 
 「胡乱なことを言うな。おまえに言われずともとうに鍵屋崎の道連れになると決めている」
 衣擦れの音さえたてずにタジマの背後に出現したサムライが流麗な動作で木刀を振り、タジマの足をすくう。木刀に足をすくわれたタジマが「ぎゃあっ!?」と悲鳴をあげ、警棒を投げ捨てぶざまにひっくり返る。地面で顔を強打したタジマが四つん這いに跪き、手探りで警棒をさがすのを冷ややかに一瞥、リングにふんぞり返ったロンがしゃっくりをあげる。
 「俺はどっかのタジマと違って鞭でしばかれて興奮する趣味ねえんだよ!それをてめえの子分どもは笑いながら鞭くれやがって、そんなにSMごっこしたきゃタジマが贔屓にしてるクラブ紹介してもらやいいだろうが」
 「!?なっ、」
 地面に落とした警棒を捜し求め、四つん這いになったタジマが血相を変える。顔面蒼白のタジマを傲慢に見下ろすロンの顔には、衆人監視の中地面に四つん這いになり、ぶざまな醜態を晒したタジマの虚栄心をさらに容赦なく踏み躙る快感に酔った酷薄な笑みが。
 「文句あんのかよタジマ。知ってんだぜ、おまえの本性が女に鞭でしばかれてひんひんケツ振ってよがるマゾ野郎だってこと。刑務所でガキどもいじめてんのはマゾな本性隠すカムフラージュなんだろ。新宿のSMクラブじゃ金払いのいい常連なんだよな、給料の大半SMクラブに注ぎ込んで情けねったらありゃしねえ」
 「!!!!っこのくそっ、」
 知らなかった、タジマがマゾヒストだったなんて。
 ロンの言うことがもし本当だとしたら、タジマは女性に対してだけマゾヒストなのだろうか。売春班に客として通い詰めてさんざん僕をいたぶった男がマゾヒストだとは到底信じられないが……
 満場のギャラリーの眼前、衝撃の真相を暴露されたタジマが凄まじい剣幕で跳ね起きるが、ロンの口から出た言葉は既に会場中に蔓延し、東京プリズン最凶の看守と恐れられるタジマが今この瞬間までひた隠しにしてた秘密の性癖はこの場に居合わせた全員の知るところとなった。
 「マジかよ、タジマがマゾだって!?」
 「これまでさんざん俺たちをいたぶってくれた東京プリズンいちのサド看守と名高いタジマが?」
 「囚人いじめが生き甲斐で一日一回は売春班通いしねえとタマが重たくてはちきれそうだって嘆いてたタジマが?」
 「網タイツにボンテージの女王様に鞭でぶたれて、汚いケツさらけだして発情期の豚の鳴き真似させられてるってか?傑作だなおい!!」
 失笑、嘲笑、蔑笑、憫笑。あらゆる種類の笑いが周囲の人だかりから湧き上がり、はては爆笑の渦となって会場中を席巻し、四面楚歌で追い詰められたタジマの顔が青を通り越して白くなる。看守の権威の象徴かつ心強い味方の警棒を失い、これまでさんざんいたぶってきたロンに倒錯した性癖を暴露され、地下停留場を埋めた何百何千という数の囚人に唾まじりの嘲笑を浴びせられ、タジマは弁解の言葉もなくただ青褪めていた。そんなタジマに鼻を鳴らし、再びロンが凱へと向き直る。
 「今度という今度は堪忍袋の緒が切れたぜ」
 「だったらどうする気だよ、いつもレイジの背中に隠れてる臆病者の半半が。俺と直接やりあう度胸もねえくせに、」
 「あるよ」
 ロンがきっぱりと言い、凱がうろんげに眉をひそめる。レイジも奇妙な表情をしていた。満場の注視と白熱の照明を浴び、凱とレイジをさしおいて一転リングの主役となったロンは大きく深呼吸。
 そして、一息に言いきった。
 今まで溜めに溜めこんでいた鬱憤をぶちまけるように、腹の底から声をあげ、大気をびりびりと震わせ。
 それは絶叫、宣戦布告。 
 「~~~~もうこりごりなんだよてめえにびびって逃げ隠れするのは、何されても我慢すんのは!いいかよく聞け凱、てめえがこれまで俺に売った喧嘩全部まとめて買ってやる!そうだよ、レイジの出る幕じゃねえ。元を正せばこれは俺の喧嘩だ、レイジに横取りされてたまるかよ、てめえとはこのリングの上できっちりこぶしで決着つけてやる!!」
 ロンの目は爛々と燃えていた。血沸き肉踊る高揚感の絶頂で好戦的に輝いていた。
 ロンは一歩も退くことなく、逃げ隠れすることなく凱を見据えている。
 「おもしれえじゃねえか……」
 ロンの挑発に闘争心を煽られた凱が残忍に笑み、闘技場の猛牛のように地面を蹴立てる。一触即発、堂に入ったファイティングポーズをとる凱とてのひらに唾を吐くロンとが睨み合いで互いを牽制。幾多もの修羅場を踏み荒みきった眼光といい喧嘩慣れした物腰といい、怒りのあまり顔筋が痙攣しひきつり笑いを浮かべる顔といい、今のロンと凱はとてもよく似ていた。
 「いやあ、おもろいことになっとるなあ」
 のんびりした声に振り向けば、いつのまにか隣にヨンイルが来ていた。ホセもいる。
 「おや、これは奇妙な。さっきまでレイジくんがリングに上がっていましたが、今はロンくんが。100人抜きの勝敗はどうなったんですか?」
 ホセに指摘され、背中に冷や汗をかく。
 突然のことで止めに入るタイミングを逸したが、部外者の飛び入りは試合妨害に分類されるのではないか?ロンの飛び入りで100人抜きが中断され、レイジ対凱の試合の勝敗がうやむやになれば…… 
 「まさか、僕らの敗北か?」
 冗談じゃない。酔っ払ったロンが試合に乱入したせいで敗北が決定してはたまらない。かくなる上は抵抗されるのを承知でロンをリングから引きずり下ろそうと駆け出しかけた僕の進路にスッと木刀がさしだされる。足元をさえぎる木刀を目で辿れば、考え深げに黙りこんだサムライがいた。
 「何故止めるんだ、このままじゃ試合が……!」 
 「暫し待て」
 リングではいまだ一触即発の不均衡さで睨み合いが続いている。ロンは全身に怪我をしている、いくらかすり傷程度とはいえあの状態で凱と渡り合うのは無謀だ。煙が充満した会場にて戦々恐々と逃げ惑っていた囚人たちが、凱対ロンの予定外の試合にただならぬ興味をひかれ、リング周辺に黒山の人だかりを築いてざわめき始めている。
 「静かにしたまえ」
 ざわめきを圧し、平板な声が響く。 
 声の主は地下通路の出口にいた。一筋の乱れもなく撫で付けたオールバックの下には端正だが表情の欠落した顔、三つ揃いのスーツを完璧に着こなした男の名は安田。無能で怠慢な現所長に成り代わり、東京プリズンの執権を握る若き副所長。
 何故安田がここに?
 突然登場した安田に驚き言葉を失った僕の方へ、安田は平然と歩いてくる。人ごみに揉まれスーツを皺だらけにされオールバックを崩し、幾人もの囚人にぶつかりぶつかられて立ち往生しつつも、能面めいて冷淡な無表情には汗ひとつかかずに遂に僕のもとへ辿り着く。
 「ボヤ騒ぎが発生したと聞いて来てみれば……この惨状は何事だ」
 額にたれた前髪をかきあげ、わずかに眉をひそめて不快感を表明し、安田が嘆かわしげに言う。その言葉から察するに、試合観戦に来た看守がヨンイルが発生させた煙を火事のボヤだと勘違いして報告しに行ったらしい。騒ぎを大きくした張本人のヨンイルは「でな、明日のジョーと並んでボクシング漫画の二大金字塔と称されるのががんばれ元気で」などと素知らぬふりでホセに講釈を垂れている。
 「そこの三人!」
 神経質な手つきで前髪をかき上げた安田がリングを仰ぎ、微妙な距離をおいて対峙するロンと凱、そしてレイジに声をける。 
 「今ここでは娯楽班の試合が行われているはずだが、この煙はなんだ?それにペア戦のはずが、何故リングに三人の人間がいる?」
 「ちょうどいい」
 何がちょうどいいんだ?
 いやな予感が強まる。安田を見下ろしたロンがにんまりと、それはもう嬉しげにほくそ笑む。
 「副所長立会いのもと宣言すりゃ、もうなんでもありだよな。もとからペア戦にゃルールなんて存在しねえし、途中からペア組む相手が替わろうがシャッフルしようが全然アリだよな」
 「何を言ってるんだ?少しは頭を冷やせ」
 意味不明なことを口走ったロンをたまらず叱責するが、ロンは黙らない。親指で自分の胸を指し、毅然と顎をそらし、展開の早さについていけず呆然と立ち尽くすレイジと凱とを等分に見比べて続ける。
 「レイジとサムライに任せ切りにするのはやめだ。自分のケツは自分で拭く。いつまでもぐだぐだ喧嘩してるレイジとサムライなんかに100人抜き任せておけるか、元はといえば俺と鍵屋崎の売春免除条件にふたりがペア組んだんだ。ちょっと待ておかしいだろそれ、俺たちに関係あることなら俺たち自身がペア組むべきだろ?俺と鍵屋崎がペア組んで出場するべきだろ?ならこうしよう、これっきゃない」
 そこで言葉を切り、ロンがきっかりと僕を見据える。
 酔っているわりには毅然として、揺るぎない決意をこめているかに見えるまっすぐな眼差しで。  
 「レイジとサムライの代わりに、俺と鍵屋崎がペア戦にでる」
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