少年プリズン

まさみ

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百九十三話

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 「寝ぼけるんじゃない!」
 唇が触れる寸前、ロンに平手打ちを食らわす。
 甲高く乾いた音が響き、ロンの横っ面を叩いた手が痺れた。そんなに強く叩いたつもりはない……のだが。怪我人だし一応手加減したつもりだがどうやら僕は手加減が上手くないらしい。ロンは膜が張ったような目つきで僕を見つめていた。
 糸に繰られた人形のように鈍臭い動作で頬をさすり、ぼんやりと僕を仰ぐ。
 そして、呂律の回らない口調で言う。
 「……メイファ」
 「は?」
 ロンの口からでた名前に眉をひそめる。意外な名だが初聞きではない。以前売春班の仕事場で、壁を挟んだ隣部屋に軟禁されたロンと暇潰しに語り合った過去の出来事。
 ロンの初体験の相手だ。
 ロンの呂律が怪しい理由はすぐにわかった。足元に落ちた空き瓶のせいだ。ウィスキーのラベルが貼られた瓶の中身はからで、酒は一滴も残っていなかった。ロンの服には芬芬たるアルコール臭が染み付いていて、緩慢にこちらを向いた顔は仄かに上気していた。ボイラー室で宴会していた凱の子分らに無理矢理ウィスキーを飲まされたものらしい。
 「無茶な」
 からっぽの瓶を見下ろして眉をひそめる。アルコール分解酵素がない人間に一気飲みを強制すれば最悪死に至る危険性もあるのに。ロンの様子がおかしいのはアルコールを一度に過剰摂取したせいだ。前後不覚の酩酊状態に陥ったロンは妄想と現実の区別がつかずに初体験の相手と僕とを混同している。
 失敬な。
 「僕はメイファじゃないぞ。だいたい性別が違うだろう」
 顎に手をかけられキスされかけた不快感は拭えず、強い口調で抗議する。未遂で済んだからよかったものの、あと一秒でも反応が遅れていれば手遅れだった。冗談じゃない、唇の粘膜と粘膜を接触させ唾液を交換する不潔な行為など相手がだれであろうが想像しただけで虫唾が走る。なにより同性とキスしたと知れたら恵に軽蔑される。いや、恵に関しては両親を刺殺した時点でもう手遅れだが……
 何を言ってるんだ僕は、しっかりしろ、落ち着け鍵屋崎直。
 無意識に唇を拭い、ロンを睨み付けて嫌味を言う。
 「僕と初体験の相手を間違えるなんてどうかしてるぞ、初体験の相手とレイジを間違えるならまだ理にかなってるが……、」
 突然、僕の抗議を遮ってロンの手が伸びてくる。驚き硬直した僕の顔の横にさしのべられた手が眼鏡の弦に触れ、そっと外す。眼鏡を外した僕の顔をしげしげと観察し、何か納得したようにロンが頷く。 
 「メイファ」
 「ちょっと待て、眼鏡を外したらメイファか?眼鏡の有無が条件なのか?」
 ダメだ、手におえない。ロンは完全に酔っ払っている。酔っ払いの戯言に付き合っている暇はないというのに。ロンの手から眼鏡を取り返しきちんとかけ直し、頭を整理して優先順位を確認。まず最初にすべきはロンの怪我の具合を確かめること。壁際に座りこんだロンと向き合い、怪我の程度を観察。
 囚人服の上着とズボンが何箇所か裂けて薄く血が滲んだ素肌が覗いている。サムライの対戦相手が用いていた鞭がそばに落ちていたが、おそらくこれでやられたらしい。悪趣味な拷問の真似事だ。服の裂け目から露出した皮膚には痛々しいみみず腫れが走り、手の甲や首元には擦過傷も数箇所散見された。
 「酷くやられたな」
 右袖、二の腕の裂け目から覗く赤く盛り上がったみみず腫れを見て眉をひそめる。
 ロンの前に片膝つき、尻ポケットから取り出したのは念の為にサムライから借りてきた手ぬぐい。こんなこともあろうかと所持していて助かった。医学書で学んだ応急処置の知識を頭の中で復習、包帯代わりの手ぬぐいをロンの二の腕に巻き付ける。包帯も消毒液もガーゼもない状況では大した応急処置もできないが黴菌の感染予防にはなるだろう。
 「かっこ悪ィ」
 「贅沢言うな」
 無抵抗に僕に身を委ねていたロンが嫌そうに二の腕に結ばれた手ぬぐいを見下ろす。応急処置は完了した。次は……ロンが手足を投げ出して座りこんだ床の周辺を手探りすれば、1メートル離れた場所に鍵を発見。素早く鍵を拾い上げ、手錠の鍵穴にさしこむ。
 ぴったり一致した。
 鍵を回すと同時に手錠が外れ、配管に固定されていたロンの左手が力なく膝に落ちる。
 「さあ、行くぞ」
 手錠が外れたならもうこんなところに用はない、一分一秒だって長居したくない。壁に背中を凭れてぐったりしてるロンを急かして立ち上がるが、焦る僕をよそにロンは自力で立ち上がろうとしない。……いや、アルコールの酩酊作用で二足歩行も困難なのか。まったく世話が焼ける、どこまで手間をかけさせれば気が済む?床に尻をつけたまま、半覚醒のまどろみをむさぼっているロンを苦々しく見下ろして逡巡する。
 逡巡のはてに辿り着いた結論は。
 「―くそっ、何故僕がこんなことを。肉体労働は凡人の役割で天才の専門分野は頭脳労働なのに」
 壁に背中を預け、手足を怠惰に弛緩させたロンの傍らにしゃがみこみ、その脇の下にいやいや腕を通す。
 ロンの片腕を肩にかけて立ち上がりしな、想像以上の重さに足がもつれて転びそうにな鳴る。小柄なくせに重い。そういえば意識を失った人間の体は重くなるとどこかで聞いたことがある。肩にかかる重みとぬくもりに利き手を捻挫したサムライに肩を貸した夜のことを思い出す。
 ほんの数週間前の出来事だ。僕より頭二つ分高いサムライを背負えたのだから、僕より背が低いロンを支えて歩くのは物理的に不可能じゃない。
 「……おまえ、潔癖症じゃなかったのかよ」
 「潔癖症だが、それがどうかしたか」 
 「俺にさわるの嫌じゃないの」
 「あとでよく手を洗っておく。爪の中まで念入りに」
 寝ぼけた声をだしたロンの方は見ず、冷淡に返す。実際ブラックワークで売春を体験してから僕の潔癖症は以前ほどではなくなった。売春班では手で人肌に触れるよりさらに生理的嫌悪をかきたてる性行為ばかりを毎日強いられていたのだから、それと比較すればロンと密着して歩くぐらいどうということもない。
 毒をもって毒を制すではないが、売春班での日々を経て僕も多少は逞しくなったらしい。良い意味でも悪い意味でも。
 「しっかりつかまってろ」
 気を抜けば肩からずり落ちそうになるロンを叱咤し、囚人が突っ伏した水溜りを迂回し、慎重に歩き出す。僕の言葉を聞いてるのかいないのかロンの足取りは覚束ない。酩酊したロンが肩に体重をかけてくるせいで足腰の重心がぐらつき、ドアまでの道のりがはてしなく遠く感じられた。
 しかし、どうする?
 ドアの外にはヤンがいる。僕らが出てくるのを今か今かと待ち構えて戦闘態勢に入っているはずだ。ドアを開けたその瞬間に襲いかかってくるかもしれない、怒号を発して殴りかかってくるかもしれない。ロンに肩を貸したこの体勢ではとてもヤンの攻撃をかわせそうになく、まともに拳を受けて顔面陥没の危機だ。顔面に拳を受けるのはかまわないが眼鏡が割れるのは憂鬱だ、眼鏡がなければ日常生活に支障がでるし第一本も読めなくなる。読書は東京プリズンにおける唯一にして最大の娯楽なのに……
 「てめえクソ眼鏡、ロンチウたちになにしたんだ!?とっとと開けやがれ、開けねえとぶち破るぞ!」
 ポケットを探り、鍵束を握り締める。
 どちらにせよ覚悟を決めなければ、対処法を練らなければ。ドアの外ではヤンが騒いでいる、ドアを開けた途端に殴りかかってくるの確実。どうする?ヤンの怒りを恐れ、このままボイラー室に閉じこもるか?……無駄な抵抗だ。五十嵐かタジマが戻ってくればその時点で時間切れ。それならば少しでも僕らにとって有利なうちに速やかにことを運ばなければ。今ならドアの外にはヤンひとり、囮を追っていったふたりが戻ってくる気配はない。
 今ならもしかしたら、どうにかなるかもしれない。
 ヤンの隙をつき、上手く逃げることができるかもしれない。
 「………」
 緊張に汗ばんだ手で鍵束をさぐり、右から五本目の鍵を手にとる。金属のひんやりした感触が指先に伝わり、心まで冷やしてくれる。僕の肩に顔を埋めたロンが何か呟いてる。寝言か?人の気も知らずにのんきだなと舌打ちしたくなる。水溜りを迂回し、ドアに到着。ヤンの攻撃を切りぬける方法を模索しつつ鍵穴に鍵をさしこみ……
 靴音。
 「タジマのクソ野郎が、エリート気取りのスカした若造が調子のりやがって!」
 「!」
 憤然と廊下を歩いてきたのは猛々しい靴音、もう二度と聞きたくなかった野太い濁声……タジマだ。なんてことだ、最悪のタイミングでタジマが帰ってきてしまった。鍵穴に鍵をさしこみ、回そうとした手が瞬時に硬直。もう逃げられない、すべてが終わりだ。
 「安田の馬鹿があれこれくだらねえことくっちゃべって足止めしてくれたおかげで時間食っちまったじゃねえか!こちとら早いとこ戻って続きやりたくてたまらなかったのに、早いとこロンを犯したくて犯したくて股間はちきれそうだってのに!俺がボイラー室の鍵持ち出したのに気付いて遠まわしに探り入れてきて、しまいにゃ『自分も一緒に行く』だと?ボイラー室のブレーカーが不調だからちょっと確認しに行くだけだって、副所長さまさまが出張ってくるよな用件じゃねえって何遍言わせりゃ気が済むんだよクソが!!」
 タジマは激怒していた。ボイラー室に近付きながら周囲の壁や床を蹴り付けてはでに八つ当たりしている。察するに、タジマがボイラー室に帰って来るのが遅れたのは無断で鍵を持ち出したことが安田にばれ、今の今まで詰問されていた為らしい。
 「―まあいい、安田の話が長いせいで服も乾いたしな。ははっ、いよいよお待ちかね、タジマ様がロンのケツいただく番だ。俺が処女いただくまえに凱の子分どもにヤられてなきゃいいが……一年半も待ったんだ。一回や二回の中出しじゃ終わらせね、ん?」
 「タジマさん、いいとこに!」
 ボイラー室の前で靴音が止む。タジマの到着で心強い味方を得たヤンが顔を輝かせる光景が浮かぶ。
 「タジマさんがいねえあいだにやべえことになったんだ。聞いてくれよ、例の親殺しがボイラー室に殴りこんできて中で何かあったみたいで……」
 「なんだって?」
 ドアに衝撃が走った。
 闘牛が激突したような衝撃に驚き、ロンの片腕を肩にかけたままドアから飛び退く。ドアの外の光景が鮮明に目に浮かぶ。僕がロンを助けに来たと知り、猛烈に怒り狂ったタジマがドアを殴っている。
 「ふざけやがって、安田の長話が終わってせいせいして来てみりゃコレかよ!そんなに俺の邪魔したいのかよ鍵屋崎、そんなに怒らせたいのかよ鍵屋崎!畜生がっ、安田といいてめえといい眼鏡かけた奴はどいつもこいつも俺の楽しみ奪って癪にさわりやがる!いいか殺されたくなきゃとっととここ開けろ、今すぐドア開けてズボン脱いでこっちにケツ剥けやがれ、ロンと並べて犯してやる!!」
 タジマのこぶしが振り上げられ振り下ろされ、鈍い音の連続とともにドアが震動。ノックだけでは飽き足らず、しまいにはドアの下部に蹴りを入れ始めたタジマの姿は見えなくても凄まじい剣幕に圧倒される。
 タジマなら今言ったことを本気で実行する。僕には確信がある。
 従順にドアを開けるか、無視して閉じこもるか。選択肢は二つに一つだが、どちらを選んでも僕たちに訪れるのは最悪の結末。従順にドアを開けたところでタジマは反抗した僕を絶対に許さないし、無視して閉じこもったとしても遅かれ早かれ強行突破される。
 「―くそっ、」
 どうしたらいい?どうすればいい?
 考えろ考えろ考えるんだ、僕は天才だ考えれば名案が浮かぶはずだ閃くはずだ。しかし状況は極めて不利、僕とロンは鍵をかけた密室に取り残されて救援を呼べず、唯一の出入り口たるドアの外にはタジマとヤンが立ち塞がっている。もう少しすれば囮を追っていった二人も戻ってくる、五十嵐も帰ってくる。
 どうする―?
 「!あ、」
 思考に没頭していた僕はその時まで全然気付かなかった。
 鍵穴に鍵をさしこんだまま決断できず、棒立ちに固まっていた僕の手にロンの手が被さり有無を言わさず横に回す。
 「なにを考えているんだこの低能」
 「手伝ってやったんだよ、感謝しろ」
 酔っ払いに説教するだけ無駄だと頭でわかっていても怒鳴らずにはいられない。ロンに反省の色はない、いいことをしたといわんばかりに満足げな表情で尊大に開き直っている。余計なことをするな、と続けて叱責しようとした僕の目の前でノブの抵抗が消失。
 蝶番が外れてドアが開き、
 「そらよっ!」
 「ぎゃあっ!」
 快哉と悲鳴が重なった。 
 僕に肩を抱かれたロンが行儀悪く片足を振り上げおもいきりドアを蹴り飛ばす、ロンの蹴りが見事に嵌まったドアはその勢いで加速、廊下に立ってノックを続けようとしていたタジマの顔面に激突。
 高々と片足を振り上げたロンの視線の先、ドアで顔面を痛打したタジマが中腰に屈んで悶絶。顔面を両手で押さえてのうたうちまわるタジマの横にはヤンが呆然と突っ立っている。
 「あは」
 ロンが笑った。奇妙に顔をひきつらせて。
 「あははははははははははは!ざまあみやがれタジマ、豚は豚らしく四つん這いで残飯漁りしてるのがお似合いだ!」
 ロンが笑っている。酒に酔った赤い顔で、タジマを指さして狂ったように。
 「!この、」
 喉仏を震わせ肩を上下させ、涙が出るほど笑い続けてなお笑い止まないロンめがけてヤンがとびかかる。 一瞬かなり本気でロンを捨てて身の安全を図ろうかと思ったが、僕に決断する間を与えずヤンのこぶしが迫り来る。駄目だ、この距離からじゃ避けられない。自分の鼻骨がへし折れ前歯が欠ける未来を予期し、固く目を閉じてこぶしの風圧を感じ―
 「させるか!」
 飛び入りした声に、目を開ける。 
 僕の鼻骨をへし折ろうとしていたヤンの腰に誰かがしがみつき、もんどり打ってその場に押し倒す。床でヤンと揉み合っている囚人はルーツァイだった。廊下の前方から殺到するのは複数の足音。喧嘩の芝居で引き止められる限界が訪れたか、五十嵐を先頭に元売春班の面々が駆け戻ってくる。
 「鍵屋崎……おい、なんだよこれは?」
 顔面をおさえてのたうちまわるタジマ、めまぐるしく上下逆転しながら床で揉み合う囚人ふたりを見下ろして五十嵐が唖然と呟く。五十嵐の疑問に返す言葉もなく立ち尽くす僕めがけ、ヤンに胸ぐらを絞められたルーツァイが叫ぶ。
 「逃げろメガネ!」
 この場でメガネは僕しかいない。
 「まさか、助けにきたのか?」
 「見てわかること聞くんじゃねえ、半半連れて早く逃げろ!」
 「逃がすかよ、」  
 足元の床に影がさす。風切る唸りをあげて振り下ろされた警棒の軌道が狂い、コンクリートの壁を穿つ。一気に加速して五十嵐を追い抜いたワンフーが、床を跳躍してタジマの片腕にぶらさがったのだ。
 ワンフーとルーツァイが捨て身で庇ってくれたおかげで逃げる時間が稼げた。しかし、彼らを見捨てて逃げていいのか?タジマに盾突いたら彼らとて無事では済まないはずだ。
 「くそ、まだ体がびりびりする……」
 「許さねえぞクソメガネ!」
 背後に忍び寄る不穏な気配。反射的に振りかえれば、ブレーカーで感電させた囚人三名が意識を回復し、覚束ない足取りながら廊下にさまよいでてきていた。僕への憎悪と復讐心をむきだした三人に囲まれかけた瞬間、ワンフーとルーツァイの他の売春班の三人がそれぞれの背後からとびかかる。
 「ぐずぐずすんな日本人、俺らが時間稼ぎしてるあいだにさっさと行け!」
 自分より遥かに体格のいい囚人の腰にしがみついた貧弱な少年が、目を血走らせて叫び。
 「僕たちは大丈夫だから!」
 色白な少年が、別の囚人に髪の毛を毟られながらか細い声で訴え。 
 「売春班を甘く見るんじゃねえ、一度地獄見た人間は怖いもんなしだっ!」
 ひょろりと背の高い、しかし栄養失調を疑わせる痩せた少年が別の囚人と殴り合って啖呵を切る。
 「なぜ、」
 何故そこまでする?
 ロンに謝罪したいのか?罪滅ぼしのつもりか?売春班では男に犯されるまま、声を嗄らして泣くしかなかった女々しい少年たちが今は別人のように精悍な顔つきで戦っている。明らかに自分より強い敵に、体格差で引けをとる相手に捨て身の戦いを挑んでいる。 
 何故、僕とロンを守るためにそこまで?確かに売春班では壁を挟んで共に生き地獄を味わったが、僕は今日まで、ついさっきまで他の売春夫の名前も知らなかったのに。関心さえ持たなかったのに。
 僕の心情が伝わったか、ヤンに殴られて血まみれの顔のルーツァイが頼もしい笑みを浮かべる。
 「メイファの名前誉めてくれて嬉しかったんだよ!」

 『いい名だな。君が生まれてこなければ彼女もまたこの世に生を受けることがなかった。その事実を忘れてるんじゃないか』

 警棒で殴打されてもタジマの片腕にしがみついたままのワンフーが、傷だらけの顔を希望に輝かせる。
 「考えてみりゃ、お袋の子宮にずっとひきこもってたら凛々とも出会えなかったんだよな!」

 『生まれてこなければよかった?君は本当にそれでいいのか』
 
 「………、」
 覚えていたのか。
 心に留めていたのか、僕の言葉を。絶望で窒息しそうな僕が、絶望で窒息しそうな他人に向けた言葉を。 だから彼らは戦っているのか。 
 ある者は子供に誇れる父親になるために、ある者は恋人に誇れる男になるために。
 だれかに誇れる自分になるために、なりたいがために、今僕の目の前で売春班の面々が戦っている。だれかを守ることで矜持を回復し、自分への信頼を回復し、一度徹底的に砕かれた自尊心の欠片をかき集めて復元しようと到底勝ち目のない相手に果敢に立ち向かっている。
 自分たちの身を犠牲にして僕とロンを守りきることで、無事に逃がしきることで、彼らは彼らなりに売春班の過酷な体験とそれに伴う苦痛な記憶を克服しようとしている。 
 「―わかった」
 今度は迷わなかった。
 ワンフーとルーツァイがはにかむように微笑み、他の売春夫たちが力強く頷く。凱の子分と殴り合っている売春班の面々に無言で背を向け、ロンの肩を抱いて走り出す。茫然自失して立ち尽くす五十嵐とすれ違ったが何も言われなかった。
 五十嵐とすれちがってしばらくして、廊下の途中で立ち止まる。
 振り返ったのは、大事なことを言い忘れていたからだ。
 「僕はメガネじゃない」
 コンクリートむきだしの壁と天井に声が反響する。濛々と埃を舞い上げて取っ組み合っていた売春班の面々が手を休めることなく、ある者は胴に馬乗られた苦しい体勢で、ある者は前髪を掴まれて壁に後頭部を打ち付けられ、ある者は額の出血で顔面を赤く染め上げ。
 全員が一度にこちらを向く。
 僕は深呼吸し、彼らひとりひとりの顔を見まわした。涙ではなく血を流し、だれかに誇れる自分になるために、だれより自分に誇れる自分になるために力を尽くして懸命に戦う少年たちの顔を。
 「僕は鍵屋崎 直だ」
 僕はまだ、自分の名前すら告げてなかった。
 それを聞いた少年たちの顔に浮かんだ表情はそれぞれ違った。苦笑、当惑、あきれ顔。少年たちの視線に急きたてられ、ふたたび僕は走り出す。ロンに肩を貸して長い長い廊下を全力疾走する。苦しくはなかった。現在試合中の会場までかなりの距離があるというのに、体は不思議と軽くて気持ちいいくらいだった。
 「カギヤザキ ナオ、か。改めて名乗るほど上等な名前かよ」
 「メガネ呼ばわりよりマシだ」
 酒臭い息を吐いて笑うロンに憮然と返し、すぐに前を、前だけを見つめる。
 会場はもうすぐだ。
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