少年プリズン

まさみ

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百八十八話

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 木刀を持って駆ける、駆ける、ひたすら駆ける。
 呼吸を弾ませ動悸をはやらせ、片手に木刀を握り締めて薄暗い通路を全力疾走。
 蛍光灯が不規則に点滅する通路には埃っぽい闇が滞っていて、律動的に足を繰り出せば涯てのないトンネルにでも吸いこまれたかのような錯覚を抱かせる。
 交互に足を繰り出してコンクリート剥き出しの通路を走るさなか頭蓋の裏で響いていたのは水浸しのボイラー室の光景、タジマの下敷きになり、仰向けに寝転んだロンの必死な形相と苛烈な絶叫。  
 『奔!』
 走れ、と彼は叫んだ。声を振り絞って。
 今僕を突き動かしているのは一刻も早くサムライに木刀を届けなければという使命感と義務感、そして僕の身代わりとなってタジマを食いとめてるロンへの責任感である。
 ボイラー室に置き去りにしてきたロンが現在どんな目に遭ってるかはわからない、タジマに殴る蹴るの暴行を受けているか……いや、タジマのことだ。もっと陰湿で卑劣でいやらがらせをしてるかもしれない、人間の尊厳を蹂躙して徹底的に人格を貶めるような口にするのも汚らわしく想像するだにおぞましい行為を強制してるかもしれない。

 僕はロンを見捨てたのか?
 ロンを見殺しにして、自分だけ無事に逃げおおせるつもりなのか?

 他人などどうなってもかまわない、ロンは僕の友人ではない。お節介でお人よしで馴れ馴れしくて、正直鬱陶しいと思わなくもない。でもロンは僕を助けてくれた、タジマに殺されかけた僕を間一髪助けにきてくれたのだ。現に僕がボイラー室を脱出できたのもロンの助力に拠るところが大きい。
 今僕がなにより優先すべきは一刻も早く試合会場に辿り着き、試合中のサムライに木刀を届けること。
 いまさら引き返すわけにはいかない。
 そんなこと、ロン自身も望んでいない。
 それがわかるからとりあえず今は走るしかない、自慢じゃないが僕は運動音痴だ。少し本気をだして走っただけで息切れ動悸眩暈まで覚える体たらくだ。
 世田谷の実家にいた頃は滅多に外にでない生活を送っていた。海外の大学から依頼された論文を送信するとか父の研究を手伝って資料を集めるとか全部メールとパソコンがあれば事足りたし、鍵屋崎優の研究助手として清潔な白衣を纏い、画面上に擬似構築されたDNAの螺旋構造を見ながら理論を組み立てる日々では試験管を振るかキーを打つ以外に体を動かす必要もなかったのだ。
 半年間体験したイエローワークの強制労働で多少は筋力がついたし反射神経も鍛えられたと自負していたが持久力の欠乏はどうにもならない。
 振り返ってみれば、十五年の人生で本気を出して走ったのは初めてかもしれない。
 酸素不足の頭が割れそうに痛い。頭蓋の裏側では狂った銅鑼の如く心臓の鼓動が鳴り響く。全身の細胞が沸騰して皮膚の毛穴が汗が噴き出す。眼鏡が湯気で曇ってよく見えないが今は立ち止まってレンズを拭う時間も惜しい、霞がかった視界の終点に針で突いたような光があらわれる。
 出口だ!
 地下停留場の大空間へと至る出口が遥か前方に拓けていた。距離にして約100メートル。よし。木刀を腰だめに構え直し、出口の光点を目指して猛然と加速。心臓が爆発しそうだ、おまけに耳鳴りまでしてきた。古ぼけた蛍光灯が等間隔に連なる通路をただひたすらに突っ走る。顎から滴り落ちた汗が喉仏を伝ってシャツの内側にすべりこむ。
 汗をかくなんて僕らしくない。以前バスケットボールをプレイする囚人を見て「何こんな故好き好んで体力を浪費するような真似を」と訝しんだがそれは今も変わらない、どころか今回の件でさらに強く疑問を抱く。
 強制労働で疲れた体をそれでもまだ飽き足らずに酷使して何が楽しいんだ、娯楽を求めるなら本を読め、そして学習して語彙を積んで脳細胞を増殖させ前頭葉の新陳代謝を活発化させろ。ストレス発散目的の運動など僕には理解不能の行為だ、はげしい運動には肉体疲労が付き物で翌日は筋肉痛に悩まされるとわかりきっているのに……まったく、東京プリズンの囚人の学習能力のなさといったら救い難い。
 ……いけない、出口がすぐそこだというのに酷く消耗して思考が空転してる。今この状況には何の関係もないくだらないことばかり頭に浮かぶ悪循環。喉がひりひりする、ついさっきまでタジマに絞め付けられていた喉が。呼吸が苦しい、胸が苦しい。生まれて初めて全力で走り、自分の持久力のなさに絶望する。
 もう少し、出口はすぐそこだ。交互に足を前にだすたび次第に距離は縮まってくる。最初100メートルだったのが50メートルに、30メートルに。光も次第に大きくなり、通路に反響する歓声の声量も増す。
 ぐらり、と視界が傾いだ。
 「―くそっ、」
 何故視界が傾いだからというと僕の体が傾いだからだ。転んでも木刀だけは手放すものかと決意を秘めて右手を握り締める。疲労困憊が極まって足を前に進めるだけでも重労働の状況で、しかし後戻りは許されない。立ち止まることも許されない。
 僕が立ち止まったその瞬間にサムライの負けが確定する。
 僕が諦めたら、すべてがそこでおしまいだ。
 黙れ心臓、動け足。毒舌をとったら頭脳しか残らないと自負してる僕に、他の身体器官も使い物になると証明しろ。性能を証明しろ。足があるなら走れるはずだ、間に合うはずだ。
 間に合えば僕でも、頭脳以外には武器を持たず、実質無力な僕でもサムライを助けられるはずだ。
 今度は僕がサムライを助ける番だ。
 床を蹴って走る、手足を振って風を切って息を乱して突っ走る。天才のプライドに賭けて絶対に間に合わせる、間に合わせてみせる。試合開始から何分、いや何十分経ったのか正確な時間はわからないが、僕の予想ではサムライはまだレイジに出番を譲ることなくリング上に立ってるはず。
 サムライは頑固だから、たとえ疲労困憊で立っているのさえ辛い状況でも決して弱音を吐かない。
 傍目には平気な顔をして、何でもないふりをして、武士の面目とやらに拘泥してリングに立ってるはずだ。サムライは馬鹿だ、何故自分がサムライと呼ばれてるか考えてみろ。
 刀のないサムライが実力を発揮できるわけがないのに―
 「!」
 出口まであと10メートルの地点で立ち止まる。
 通路の出口に立ち塞がる数人の人影。まるで僕が来るのがあらかじめわかっていたかの如く、待ち伏せしていたかの如く猛烈に吹き付ける悪意の波動。試合会場の地下停留場はすぐそこなのに、あと十数メートルを残すばかりとなった現在地からでは横一列の人影に阻まれてリングの様子を知ることもできない。
 通路に射しこむ照明を逆光に、黒く塗り潰された集団から一人が歩み出る。
 蛍光灯に暴かれた人影の正体は―……
 凱。東棟最大の中国系派閥のボス。
 「意外な場所で会ったな、親殺し。手錠はどうしたよ」
 集団の先頭に立ち、高圧的に腕を組んだ凱が僕へと顎をしゃくる。尊大にふんぞり返った凱に、脇腹にスタンガンを押し付けられた記憶が生々しくよみがえる。無意識にシャツに隠れた火傷を庇って距離をとれば、僕の怯えを見ぬいた凱が哄笑する。
 「見張りふたりとも役立たずで情けないぜ。五十嵐なら情にほだされたのも頷けるが中にいたガキはどうしたんだよ。ケツでたらしこんで手錠外させたか?下をしゃぶって極楽逝かせてやったのか?」
 「下品だな。思考回路がタジマとうりふたつだ」
 タジマを引き合いにだせば凱が憮然と黙りこむ。タジマと凱は馴れ合いの共犯関係にあるらしいが、凱はそれほどタジマが好きではないらしい。凱から慎重に距離をとりつつ頭の中の考えを整理する。凱は僕を待ち伏せてたと見て間違いない、でなくば試合観戦の娯楽を放棄してわざわざこんな薄暗い通路に出向く意味がない。ボイラー室の様子を見て来いと使い走りの囚人を偵察に行かせたのか、僕がボイラー室を脱出した場合にそなえて前もって出口を固めていたのかはわからないが今の状況は非常にまずい。
 僕にとって、不利だ。
 凱とその仲間たちの包囲網を突破しない限り試合会場には辿り着けない、サムライに木刀を返すという本来の目的が達成できない。凱の視線から木刀を隠すように移動しながら、口調だけは静かに慎重に念を押す。
 「呑気に僕を待ち伏せてたということは、きみの出番はまだ先なんだな」
 「おおともよ。今サムライとヤってんのはユエとマオの残虐兄弟、俺とは娑婆の頃からの付き合いの婦女暴行魔のコンビだ。得物は鞭だとよ。ははっ、オトモダチのサムライがびしばししばかれてるとこ見せてやれなくて残念だぜ!」
 「鞭?悪趣味な」
 もちろん相手の武器が鞭でもサムライに木刀が返れば案じることはない、すぐに劣勢を挽回できる。と、凱の動向を観察しつつ摺り足で間合いを測っていた僕の耳に押し寄せる大歓声。
 意味ありげに背後を振り仰ぎ、凱が言う。
 「どうした、こねえのか。その刀サムライに届けにきたんだろ?早く行かねえとサムライ負けちまうぜ」
 「!―っ、」
 舌打ちする。通路の出口を塞いでいるのは凱と仲間たち、およそ六人。六対一では分が悪い、勝率は限りなく低い。僕は腕力に自信がない、体格にも恵まれてない。その上、なお悪いことに通路を全力疾走して今にも疲労困憊で倒れそうな状態だ。
 しかし、引き下がるわけにはいかない。
 「何の真似だ?」
 凱が目を見張った。
 会場の照明も届かず、蛍光灯も機能せず、薄暗がりの静寂に沈んだ通路の真ん中。深呼吸して肺に酸素を送り、木刀の切っ先をまっすぐ凱に向ける。
 「どけ。邪魔をすれば斬るぞ」 
 通路に哄笑が響き渡った。
 凱とその仲間たちが腹を抱えて笑い転げている。中には涙まで流している者もいる、僕を指さして罵詈雑言を吐く者もいる。集団の先頭、笑いの発作で呼吸困難に陥りかけた凱が真っ赤な顔で咳き込む。
 「おい、まさかたあ思うが『それ』でやっつけるつもりかよ?無理無理、慣れないことはするもんじゃねえ」
 「凱さんの言うとおりだ」
 「なにとち狂ってんだよ親殺し、イエローワークの仕事場じゃシャベル上げ下げするだけでバテてたおまえがいっちょまえに木刀なんか振り回せるかっての」
 「格好つけてねえで、さあ、木刀こっちによこせ。ボイラー室に帰ってろ。試合が終わったら俺たち全員でケツの味見してやるからさ」
 凱に追従して周囲の仲間が下劣に笑い、中のひとりがこれ見よがしに片手を突き出す。木刀を渡せという身振りの意思表示を無視し、敵ひとりひとりの動向に目を配り注意を払う。

 慣れないことはするもんじゃない?格好つけるな?

 そんなことわかってる。僕を誰だと思ってる、馬鹿にするなよ低能どもが。
 しかし、ここで引くわけにはいかない。出口はすぐそこだ。凱とその仲間たちの包囲網を突破しない限り僕に、いや、僕らに勝機はない。殆ど木刀になど触れたことがない素人が木刀一本で敵陣を切り抜けられるとは思えないが、僕もサムライから少しは剣道の基礎を習ったのだ。
 サムライは剣一筋に生きてきた男だから、他に話すこともなかったのだろう。
 自由時間、僕が図書室から借りてきた本を読み終え、他にすることもなく暇を持て余した余白の時間に時には木刀を構えて実演し、時には僕に木刀を握らせ手ずから基礎を教えてくれた。寡黙で口下手なサムライなりにそうして沈黙を埋めようとしたのかもしれない。僕の自衛に役立てばと一考したのかもしれない。
 道楽で体を動かすのは馬鹿げている。
 例外は、自衛を目的とした場合のみ。

 『直』

 深呼吸をくりかえす脳裏に静謐な声が響く。レイジの声とは正反対のサムライの声。
 たとえるなら麻薬の退廃と清水の清冽、心の奥深くまで染み込んでくるような。

 『木刀を握る時はこうして上の方に右手を添え、下方は左手でしっかり固定する』
 サムライに言われたとおりに指を組みかえる。
 『このとき、重要になるのは左手だ。右手は添えるだけでいい』

 一語一句取りこぼすことなくサムライの教えを反芻する。手元を確かめれば、右手を鍔の根元に添え左手でしっかり柄を握った正眼の構えが自然にできていた。
 僕の武器は頭脳のみ、抜群の記憶力のみ。形だけなら完璧にサムライを模せる。
 サムライを手本にした正眼の構えで下半身の安定を維持し、眼鏡の下に表情を隠し、呟く。
 「……貴様らには人語が通じないらしい。それとも中国語なら理解できるか。僕はここを通りたいと言っているんだ語彙が少なく品性卑しく性根の腐り果てた低能ども」
 「!なっ、」
 先頭の凱が気色ばむ。出口を封鎖した少年たちの顔から一瞬で笑みが霧散、通路に怒気が充満する。緊張に汗ばむ手で唯一の武器たる木刀を握り、構え、口元だけの笑みを作る。
 
 『弥打算的学日語(日本語を勉強したらどうだ)?』

 『~~~~エリート崩れの日本人がいい気になりやがって!!』
 凱が中国語で吼え、あっさりと逆上した。コンクリートの通路に地鳴りのような足音が響いて床が震動する。凱が無駄に大きな動作で腕を振りかぶり、僕の顔面めがけてこぶしが迫り来る。
 思い出せ、サムライの太刀筋を。そしてなぞれ、一寸の狂いもなく。
 僕ならできるはずだ、だれより近くでサムライを見てきて太刀筋の癖を知る僕なら。爪が白くなるまで指に力をこめ、稲妻の太刀筋を脳裏に思い描き、記憶の中の軌道を忠実になぞり、サムライと一体化した自然な動作で木刀を振るい―
 「ぎゃあああっ!」
 木刀から伝わってきたのは骨に響く重い衝撃、確かな手応え。
 奇跡的に、木刀の一撃が凱の額に炸裂した。凱より誰より僕自身がいちばん驚いた。凱が僕のことを舐めきって正面から突っ込んできたのが幸いしたらしい。完全にサムライに自己投影していて、腕が勝手に動いたような気がした。
 そうだ。僕はこの半年間、無駄に時を費やしてたわけじゃない。
 伊達にイエローワークの強制労働で毎日毎日シャベルを上げ下げしてたわけじゃない。
 割れた額を押さえて悶絶する凱の横をかまわず走り抜ける、進行方向に素早く展開したのはこの事態に焦りと動揺を隠せない凱の仲間たち。自分たちのボスが僕に、よりにもよって僕なんかに額を割られたさまを目撃して理性を失っている。
 「くそっ、やっちまえ!」
 「凱さんの仇だ、生きて通すなよ!」
 「木刀ぶんどって殺しちまえ!」 
 この人数を相手してたらきりがない。
 凱は運良く倒すことができたが多勢に無勢で依然として状況は不利だ。かくなる上はと覚悟を決め、僕めがけて殺到した少年たちの上空を見据える。
 「あ!」
 蛍光灯すれすれの上空に大きな放物線を描き、木刀が飛んでゆく。
 できるだけ遠くへ、出口の向こうへと木刀を投擲した僕の作戦は上手くいき彼らに隙を作り出すのに成功した。頭上を通過した木刀につられ少年たち全員が振り返ったその瞬間、床に接触しそうな低姿勢で彼らの足の間を走り抜ける。
 抜けた!
 「馬鹿野郎、よそ見してんじゃねえよっ!?」
 「おまえこそなにぼさっとしてんだよ、親殺し行っちまったじゃねえか!」
 「逃がすな、追え!」
 出口を抜けた瞬間、白熱の洪水が網膜を灼く。リングの直射を受けて視界が眩んだが今の僕に立ち止まる猶予はない。そばに落ちていた木刀を掴み、リング目指してひた走る。
 すぐ後ろからは凱の残党が追ってくる、早く、早くしなければ―
 耳が割れんばかりの歓声の渦中、人ごみに揉まれてそれ以上進めなくなった僕の耳にとびこんできたのはどこかで聞いた声。
 「ヨンイルくん、前から疑問だったんですが何故吾輩をメンドゥーサと呼ぶんですか」
 「だっておまえホセやろ。ラテン系やろ。ボクサーやろ。完璧メンドゥ―サやん」
 「『完璧メンドゥ―サやん』って自己完結しないでくださいよ、吾輩なにがなにやらさっぱりわからず取り残されてうら寂しい気分。親密な間柄のみの通称といえばそれはまあ確かにワイフは吾輩のこと『私のホセ』と所有格で語りますが……これは失礼、うっかり惚気てしまいました」
 「メンドゥ―サってのは明日のジョーの世界チャンプ、ホセ・メンドゥ―サのこっちゃ。知っとるかホセ・メンドゥ―サ、読んだことあるか明日のジョー?力石の影に隠れて今いち存在感薄い損な敵役だけど腐ってもラスボス、ホセ倒すのにジョーは全力使いきって真っ白に燃え尽きたんやからお前も光栄に……」
 反射的に声がした方に目をやれば、大きなゴーグルをかけた囚人と七三分けに黒縁眼鏡の囚人がいた。
 ヨンイルとホセだ。
 「あ、なおちゃん」 
 僕に気付いたヨンイルが馴れ馴れしく声をかけてくる。その目には非難の色。
 「どこ行っとったんや今まで、サムライ絶賛ピンチやで。鞭でびしばししばかれて、その手の趣味の変態には楽しい見世物やろけど俺みたいなノーマルな性癖の持ち主は胸糞悪いわー」
 饒舌なヨンイルを無視して人ごみをかきわけようとしたが駄目だ、跳ね返されてしまう。これじゃとてもリングまで辿り着けない、サムライが窮地だというのに―
 「ヨンイル、君は西のトップだったな!?」
 「そうやけど、それがなにか」
 この期に及んで人の手を借りるのはプライドの危機だが仕方ない、自力で道を拓くことができないなら最も効率的な方法を採用すべきだ。
 「速急に迅速に効率的にこの人ごみをどかしてくれ、頼む、急いでるんだ!」
 西のトップの影響力を見こんで頼めば、ヨンイルは「なんだそんなことか」という顔をして景気よく手を叩く。何故かそばにいたホセも「吾輩もささやかにお手伝いしますよ」と言葉とは裏腹に図々しく進み出てくる。
 「西の人間、こっちに注目!今から俺の手塚友達がそこ通るからちっと道あけたってや」 
 ヨンイルの一声で人ごみが左右に分かれ、リングに通じる一本道ができた。「吾輩の指示に従って皆さん整列ー、はーいそこ足踏んだ踏まれたと喧嘩しない!心優しい吾輩のワイフが哀しみます!」とホセが人員整理する声が間抜けに響き渡る中、一本道を走って念願のリングに辿り着く。
 サムライがいた。
 金網のフェンスに背中を預け、片腕を庇った不自由な格好で何とか立っている。よく見れば全身かすり傷だらけで囚人服の何箇所かは裂けていた。サムライの正面には鞭を手にした囚人が。
 もはや一刻の猶予もない。
 「サムライ、今木刀を返すぞ!」 
 声をあげ、初めて僕の存在に気付いたらしく振り返ったサムライが目を見張る。サムライに木刀を返そうとして、目の前に高いフェンスが聳えてることを再認する。どうやってサムライに木刀を渡す?ここまで辿り着くのに必死でそこまで頭が回らなかった、天才にあるまじき失態だ。
 途方にくれて手の中の木刀を見つめる僕の耳元で、声。
 「この木刀を渡せばええんやな?」
 答えるより早く、察しが良いヨンイルが木刀をひったくって身軽にフェンスをよじのぼり始めた。唖然として僕が見ているまえでヨンイルは造作なく金網に足をかけ手をかけのぼってゆき、五秒とかからずに頂点に辿り着いた。金網にまたがり、白熱の照明に輪郭を溶かしたヨンイルの姿は眩しすぎて正視できないが、声ははっきりと聞こえた。
 「ほい」
 ヨンイルの手から木刀が落ち、照明を弾き、白く眩く輝き。
 まるで、あらかじめ定められていたようにサムライの手の中に戻り。
 「―かたじけない」
 サムライが低く呟くのと、鞭が撓ったのは同時で。  
 さっきの僕より遥かに苛烈、遥かに迅速、遥かに壮絶な上段斬りが鞭を弾き飛ばし、手首の激痛にうめいた少年の首の後ろをトン、と木刀が小突き。
 『勝者、サムライ!!』 
 そのまま少年は倒れて動かなくなり、一瞬の沈黙の後に歓声が爆発し、試合終了を告げるゴングが鳴った。
 サムライの劇的な勝利だ。 
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